近世日本の身分制社会(084/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか12/? 2021/11/20

 

今回は、1569 年に織田信長が中央に乗り込み、1571 年には大再生後に、一部の不真面目な廷臣どもに対しての織田信長のあてつけの数々について、触れていきたい。

織田信長があてつけに、それらいい加減な中央関係者に政治的にうちのめすことになるが、まず列挙しておくと

 1.今の公的教義と同じ、何の等族議決性(育成理念)もない低次元な顕蜜体制への否定(踏み潰されっ放しなままの延暦寺)

 2.織田氏による、荘園特権(廷臣たちの特権)への閉鎖有徳規制の保護監察化

 3.海外との外交に関する、典礼特権・人事権の巻き上げ

 4.外交の饗応(きょうおう。酒食等の接待の典礼)にも関係していた、偉そうな京の文化料理に対する難癖

 5.本来は聖属側(皇室と朝廷)の権限で制定されるはずの、暦(こよみ。れき。日本のカレンダーの整理、年号の決定)への口出し

 6.次代天皇の誠仁親王(さねひとしんのう)の猶子化(ゆうし。義理的な養子手続きだがここでは後見人のような意味。織田氏主導の継承式典の段取り)


あたりになり 1 は 2~6 のそもそもの話であるが、解っていての織田信長のあてつけのこれらに、どんな意味があったのかについて触れていく。

織田政権は荀子的独裁制の時代(つじつま合わせの道義・落ち度よりも、信念的な教義・姿勢重視時代)でのことであり、議決性次第でどのようにでも変更できる改革期間での話になる。

その意味で、その敷居向上後の、のちの徳川政権の孟子的合議制の時代(敷居向上後の品性規律による、道義重視時代)に比べれば、結果的に寛大もいい所だった、実に甘っちょろいものであったといえるのである。

織田信長のこうした行動は本能寺の変の起きる 1582 年にいきなり決議された訳ではなく、1571 年の時点から「この後に及んで廷臣たちは、何をモタモタしておるのか」と催促し続けてきた結果に過ぎない。

 「陛下を支えなければならない廷臣たちが、議決性を以(も)って今後の聖属側のあり方をはっきりさせていくことがいつまでもできずに、今まで通り閉鎖有徳的に外的要因のせいにし合うのみでいるのなら、これで行くぞ!」

と刺激しながら、廷臣たちの尻を叩くような催促に過ぎない。

 

この程度のことで気絶(思考停止)するような、今の公的教義と大差ない気の小さい猿知恵(できもしない性善説=ただの劣情統制=ただの指標乞食主義)しかもち合わせていないだらしない集まりが、教義(聖属)を管理する上の立場にこれからも今まで通り居座り続けようとすること自体が、図々しいことこの上ない身の程知らずといえるのである。(身分再統制)

聖属側の国内教義のあり方の管理者でありながら、教義崩壊し続けていた中で顕密体制(国内教義の整備)も自分たちで議決性(等族議会制)を以って再統一できなかった、時代遅れの旧態閉鎖主義の権威任せ(外圧任せ)のままから脱却できないままでいた廷臣たちが悪いのである。

西洋人たちが来日するようになった以上、世界外交の動きに日本が大きく遅れをとるような、今まで通りの閉鎖国家になり続ける訳にはいかなくなってきていた。

遠国との異種異文化の多様許容化に向き合わなければならない時代になってきた、アジアの宗主国的権威であった中国大陸側の意向がどうのという時代では、なくなってきていたのである。

事情も大変わりしてきた、日本と西洋とを通じての、その遠国間にも関係してくる文化交流の今後の外交のあり方について、どうするのか向き合わなければならなくなってきていた。

国事の問題としてそこをどうするのかもはっきりさせられない、すなわち上同士で国内再統一(議決性)も整理できないような、

 低次元同士の敷居の落ち度狩りで、ただうちのめし合うのみしか能がない、

 ただ気絶(思考停止)し合い、ただ疲弊し合い、ただ失望し合うためだけに、ただ人のせいにし合い騒ぎ合うことしか能がない


今の公的教義と大差ない、何の主体性(議決性=誓願・育成理念・組織構想・目的構築性)もない猿知恵(できもしない性善説=ただの指標乞食主義=ただの劣情統制)しかもち合わせていない、その自覚(自己等族統制・手本礼儀の示し合い)もできたこともないだらしない集まりに、何を任せられるのだという話なのである。

2 の聖属側の荘園特権の事情については明智光秀の件として後述とし、今回は 3 の海外との外交について主に触れていく。

織田政権による改革振りの多くを目撃した、イエズス会士(西方教会再興派=カトリックの再興運動派)の宣教師ルイス・フロイスらが丁度その題材となるが、当時の西洋人の事情にも復習的に触れていきたい。

まずキリスト教は日本では、まだ大した土台も築かれていなかったからこそ、織田信長は新参扱いとし、また日本人とキリスト教徒の西洋人たちとの今後の関係の重視もあって、少しひいき目の保護がされる形となった。

何度か説明してきたが織田信長は、古参でしかも上の立場ほど、求めるものをどんどん厳しくし、一方で不慣れな新参に対しては、織田氏の裁判権(等族議会制)にまずは従いさえすれば、多少の落ち度は大目の保護的な、かなり寛大な所があった。

そこを強調していた織田信長が、日本をどんどん変えていこうとしていたこともあって、フロイスは少しひいき目に扱われ、直々に面会する機会も特に多かった。

フロイスは織田信長と面会する機会に恵まれ、当時の織田氏の上層や旗本吏僚たちの様子も目撃する機会にも、恵まれることになった。

フロイスは日本を離れたのちに、「日本史」という題名の報告書を公会議用(ヨーロッパでの教義の整備のための議会)に向けて執筆するが、どんな様子だったのかも多く記述され、現代まで保管されることになった。

そのため史学界でも、当時の西洋人の立場から見た織田信長の様子として、フロイスのこの「日本史」は第一級の一次史料として重宝されているものの、ただしこの見方には注意も必要な所になる。

まず、日本との共存はまだまだ不慣れであった西方教会(カトリック)の視点中心で書かれていること、なにより西方教会(カトリック)の体制再興に躍起になっていたイエズス会士たちのためのものとしての、公会議用に記述されている所を念頭に入れて、見る必要がある。

織田信長と面会する機会も多かったフロイスが帰国することになり、交代する形でその後に宣教師ヴァリニャーノが来日し、織田信長と面会するようになる。

織田政権がいかに優れていた吏僚体制が作れていたかが、ヴァリニャーノの反応からも窺える所になるが、この頃にはフロイスの時とはまた事情が変わってきていた宣教師たちの視点の、その経緯をまとめておきたい。

まず 1543 年に最初に来日し、九州や中国地方の有力者らと交流を始めた宣教師ザビエルは、当時の日本の教義面に対しては、厳しめな批評をしている。

これは 1569 年から 1571 年にかけての、織田氏による中央でのその改革の姿の前段階であったことも、重要な所になる。

日本の、

 

 朝廷政治(聖属政治)を武家政治(世俗政治)で肩代わりすることになった、源氏・平氏(皇族から武族化した上層ら)を中心とする日本独特の家長権争いの感覚

 

にしても

 

 閉鎖有徳と半農半士の結び付きを地方の代表格がやめさせて再家臣化(家長権を整備)していく感覚

 

にしても、他ではあまり見ないそのややこし過ぎる様子を理解するのに、ザビエルの一団はかなり苦労していたと思われる。

 他人種間をまとめる一神的教義すなわち他力信仰中心の西洋

 

と、

 

 一人種的な多神的教義すなわち自力信仰中心で歩んできた日本

 

との、その社会観の違いにも、かなり混乱したと思われる。

西洋では、公的教義権威(教皇庁特権、司教領特権)へのこれまでの他力信仰一辺倒に対する批判が強まり、人文主義(自力信仰)が台頭してその抗議運動(プロテスト運動=のち新教のプロテスタント派=エラスムス派、ルター派、カルヴァン派)が起き、ザビエルが来日した時はそれを巡る真っ最中の時期になる。

日本でも、応仁の乱以後に室町政権(世俗裁判権)が教義崩壊を起こして以来、世俗面でも聖属面でも、これまでの自力信仰一辺倒と決別する形で浄土真宗(本願寺)が台頭(戦国組織化)し、他力信仰による聖属裁判権の再興によって世俗側に、今までのその一辺倒に喚起するようになっていた。

ここがややこしいが、他力信仰である浄土真宗の、この今までの自力信仰一辺倒と決別という意味自体が、今までのうやむやな朝廷(廷臣たち)の自力信仰一辺倒との決別も意味する、独立運動的な聖属裁判権の再興運動でもあったという所が、これまでしっかり説明されてこなかった所になる。

日本と西洋では、その事情が真逆だったため、西洋人たちは状況を呑み込むのにかなり混乱していたと思われる。

その日本の初見となったザビエルの一向は、日本のその事情をどれだけ把握できていたのかは解らないが、ただしフロイスの一向は、先行のザビエルの一向から事情を聞き、さらには織田氏の旗本吏僚たちからも事情を聞いていたと思われるため、ザビエルよりもだいぶ理解はできていたと思われる。

先に浄土真宗が、今までの自力信仰一辺倒他力信仰で喚起・警告していたから、結果的には他力信仰型のキリスト教も受け入れられる下地になっていた構図も、理解できていたのか怪しい所になる。

ザビエルたちは、日本の大元の代表格である皇室の存在をなんとか理解し、日本の東国での布教活動を便宜・斡旋してもらおうと、その在居地である京にいざ向かうものの、京に到着した一向は驚いた。

京は荒れ放題の、ただの古戦場の跡地のごとくで、朝廷の姿などは体(てい)を成していない有様だった。

当時の朝廷にはとても、布教運動を便宜してもらえるような政治的な影響力や威光なども皆無だったことが解り、ザビエルの一向はがっかりして九州方面に引き返した。

このザビエルの行動は、関西方面で早い段階でキリスト教と友好関係になっていた堺衆の協力も得てのものだったと思われ、行っても徒労に終わることは解っていても、形だけでも訪問しておくという既成事実作りの意図も強かったと思われる。

織田信長が、中央関係者たちの要請を受ける形で 1569 年に中央に乗り込み、実に100年ぶりに見事に帝都としての姿を大再生させた期間が、フロイスが来日し滞在していた期間になる。

ザビエルの一向、フロイスの一向、ヴァリニャーノの一向の3組の内、後者2組は織田政権時代の様子を直に目撃している。

織田氏の大改革の経緯をフロイスは、旗本吏僚たちから説明されてだいぶ理解もできていたかも知れないが、公会議用に向けた文書の中では正確な記述などできなかったことを、まずは念頭においておく必要がある。

フロイスの記述は確かに、織田信長の人物像について、国内でも見られない多くの記述が見られるものの、ただしこの記述は年代記(特徴的なできごとの記録や、物議となった議事録など)ではなく、キリスト教国家側の、公会議側の権威に向けた記述になっている所が注意である。

織田信長のことだけでなく、他にも明智光秀らに対するフロイスの人物評は全て、その人物のことを「良く言っている部分」はそのまま鵜呑みにしても何の問題もないが、ただし「悪く言っている部分」は全て無視して良い。

フロイスの記述は、抗議派(プロテスタント)たちから非難されっ放しだった西方教会(カトリック・公的教義権威)を、イエズス会たちの復興主義で懸命に立て直すべくの、余裕の見方などない公会議用(西洋での教義改めのための公式議会)に向けた記述が大前提となる。

すなわち、西方教会(カトリック)の聖書の解釈通りの神の崇拝の仕方になっていない時点で、全て悪人扱いの形が採られているためで、これはフロイスの悪意がどうのではない政治的な話になる。

織田政権の旗本吏僚たちとの接触機会も多かったフロイスは、翻訳を通じた彼らの説明によって、当時の非常にややこしい日本の家長権争いと、武家政権(世俗)と朝廷(聖属)とのこれまでの事情については、中途半端ながら大まかな理解はできていたのではないかと、筆者は見ている。

対立天皇問題(陛下の擁立合戦問題)の肩代わりをするようになった、皇室から武族化していった源氏・平氏らによる政権交代(武家政権)の意味と、それまでの神道と仏教もどのような歩み方をしてきたのかについて把握・説明できる者が、今の日本人の中ですらどれだけいるのかも怪しいほど、ややこしいのである。

そこに16世紀の、議会制の確立競争(戦国後期の総力戦時代=地方再統一・国内再統一)による、等族社会化(法治国家化)が認識(自己等族統制を重視)され始めた流れが加わるのである。

今までの武家社会(世俗政権)のどういう所を改革しながらの身分再統制(身分制議会)だったのかを、そこを結び付けて把握・説明できる者が、現代の日本人ですら怪しい所になる。

当時をどうにか乗り切っていた地方ごとの有力者たちは、そこにどれだけ努力できていたかについてはともかく、その意味自体は理解できていた。

しかし織田氏に士分を再公認(再家臣化)されていない他家の下級士分や、庶民と大差ない各地の半農半士たちは、その意味を理解できていたのかについてもかなり怪しく、そんな中でどんな世界情勢になっていたかなどは、もっと理解できない所になる。

 

これは廷臣たちも同じで、自分たちの国家の聖属(教義)のあり方の議決性の再統一もできていない、自分たちのことに余裕をもった見方もできていない集まりが、世界情勢に余裕をもった見方ができるのか、はっきりいって怪しいのである。

戦国前期には、どこも頼りない有力者らに毎度のように振り回され続けて、地方再統一(等族議会制の構築=身分再統制)も一向に進まないままに閉鎖有徳化を強めるばかりになっていった下同士も、それぞれの小さな生活権を奪い合いながらそれを維持するのに精一杯だった。

 

公的教義と大差ない、自力信仰一辺倒の閉鎖有徳化という劣悪性癖を、遅々として再統一できずにモタモタやっていた世俗裁判権側と決別する形で、聖属裁判権で立て直そうとした他力信仰の浄土真宗たちこそが、先駆けでそこを喚起するようになった。

 

顕密体制というのならなお、それは本来は廷臣たちが聖属側の管理者として、最低限の議決性の手本礼儀の示し合いで改革的に、時代に合ったものに正常化をさせていかなければならなかったのを、できなかったから浄土真宗たちがやるようになったのである。

 

織田信長によって 1571 年には中央の復興が見事にされ、各地の有力諸氏たちもその織田氏とどう向き合っていくのかの進退を迫られるようになっていた 1572 年頃は、西洋ではアウクスブルク(ドイツのバイエルン州)で行われた帝国議会での宗教和議(1555年)によって、条件付きでついにプロテスタントを公認し始めてから、まだ17年しか経っていない頃になる。

プロテスタント主義側(人文主義を強めた自力信仰派のキリスト教新派)の勢いを深刻に受けて、カトリック主義側(今までの他力信仰の見直し派)の建て直しに懸命になっていたイエズス会士たちは、当然のこととしてその宗教和議には、納得していなかった者たちも多かった。

ドイツ(バイエルン州)でプロテスタントが公認される事例がついに作られてしまった一方で、今までのその運動の温床となっていた、永らく正式な公認がされずに黙認され続けてきたツンフト(貧困層が生活水準を向上したり格上げをできるための、非公式な特殊労働組合)も解体させられることになる。

意義も経緯も違うものの、等族議会制の整備・改革によって、これからは議会が等族諸侯の資格責任(意見の回収・整理・裁量・公判)で公正に保証する代わりに、議会に対する意見提出すらない社会運動(権利主張)の一切は禁止される等族社会化(法治国家化)の流れは、織田信長の閉鎖有徳狩りと、上から半農半士たちの下までの身分再統制(前期型兵農分離)と、強く類似している部分になる。

条件付きではあるが、これからはカトリック派(西方教会・公的教義の権威)かプロテスタント派(新教派・ルター派・完全ではないが公的教義の権威との決別)かを選択できる自由枠が作られる、人類史の法の歴史の大転換期を、西洋でも迎えていたのである。

 

これが16世紀後半から、特に17世紀以降から顕著になる、プロテスタント国家(啓蒙国家・啓蒙社会化)の原動とも、いえるのである。

西洋では、この 1555 年の宗教和議によって一気に全てが変わった訳ではなく、これからはそういう認識の仕方で、そこが少しずつこれから整備されていくという意味になる。

西洋では、西方教会主義(公的教義のカトリック再興主義)と新教主義(公的教義の権威と決別のプロテスタント新興主義)のどちら側の聖属裁判権(上からの徴税・労役を初めとする権力に従うその代替保証権としての、下の労働組合権や財産・相続権などの法律規範)に所属するのかを、これからは帝国議会がそれを条件付きで公認・裁定されることになった。

その代わりに、今まで150年近く、市参事会(ギルド・正規の労働組合の庶民政治側)と聖堂参事会(教区・民事裁判権側)と取引するようになっていた、貧困層の救済がろくにされなかったからこそ各地で作られるようになった、黙認され続けてきた閉鎖有徳的だったツンフトも解体、という意味となる。

話は前後するが15世紀末、身分制議会の先駆けとなっていたフランスアラゴン(カスティリャと和解融合し、国土回復運動を達成=強国スペイン)が、崩れ続けてまとまりのないイタリアに対する介入権、つまり教皇庁権威の主導権を巡って争うようになり、イタリアは混迷の暗黒時代(15世紀末期。教皇ユリウス2世やフィレンツェのマキアヴェリの時代)を迎える。

これは厳密には、先に力を付けたフランスがそれに乗り出してきたのを、イタリア南部の支配権(ナポリとシチリアの王権)の格式をもっていたアラゴンが、その阻止に動いたというのが正確になる。(イタリア国内がフランス派で蔓延し深刻化していた、その追い出しに動いたユリウス2世の教皇軍に、アラゴン王がナポリから加勢)

混迷を続けた中で、その東からはギリシャ正教圏を支配下に収め、西方教会圏よりも等族議会制を広域に進めていた、かなり優れていたスルタン(イスラム教国の全代表。皇帝のような存在)であるセリム1世スレイマン1世が、地中海の制海権を抑え始め、陸路からも押し寄せてくるようになった脅威も、いよいよ深刻化していた。(今まで抑えていたヴェネツィア海軍が、イスラム海軍をついに抑えきれなくなっていた)

その事態に、何のあてにもならなかった(ろくな国際裁判力=国際教義力=育成理念もない)無策無能な公的教義(ローマ・教皇庁)にヨーロッパ中の全キリスト教徒たちもいよいよあきれる形で、

 ゲルマン圏(ドイツ・オーストリア・ボヘミア。それとスイスもあえてここに加えておく)も

 ハンガリーも

 フランスも

 ネーデルラント(オランダとベルギー)も

 スカンディナヴィア(デンマーク、スウェーデン、フィンランド、デンマークと盟友関係だったノルウェー)も

 イベリア(カスティリャ、アラゴン、バスク、ポルトガル)も

 ブリテン諸島(イングランド、スコットランド、アイルランド)も


15世紀末にはどこも慌てて、独自で強国化(等族議会制による改革。国内再統一)を競争的に進めるようになっていた。

この時に等族諸侯の意識(国際国家としての意識)が高まり、各地でもできるだけ優れた修道院長を選出し、優れた神学校・教区(聖堂参事会)を建てるようにどこも熱心になり、今まで放ったらかしだった貧民救済問題もようやく着手されるようになるが、救済運動の積極性はネーデルラントが先駆けだったという説も出ている。

先の大空位時代の反省からもいい加減に、全キリスト教徒としても強力な代表格の存在(帝国議会の改革のための荀子的独裁体制の主役)が求められるようになり、国家間の上級貴族同士でもはや非同胞拒絶で揉めている場合ではないことも16世紀に深刻に自覚され、政治的に望まれて誕生することになったのが、カール5世である。

 オーストリア大公マクシミリアン1世 (ハプスブルク家の当主。ドイツ皇帝。ゲルマン系の王族の代表格)
              (この間にできたフィリップ)
 ブルゴーニュ公マリー
                              (フィリップとフアナの子=カール5世 1500 年産まれ)
 カスティリャ女王イサベル
              (この間にできたフアナ)
 アラゴン王フェルナンド


教皇庁(ローマ)のお膝元政権であるフィレンツェ共和国(トスカーナ州の富裕層たちによる共和政権)の支えがなければ、教皇領(今のエミリアロマーニャ州)もまとめることもできなくなっていた、だらしないことこの上ない公的教義(教皇庁・ローマ)も、ついにカール5世(大領連合化したハプスブルク家)を中心とする帝国議会の監視下に置かれ始めるようになった。

強国化(教会改革と議会制の見直し)が特に目立っていたスペインを中心に、フランスのイタリア介入を排撃した帝国議会(ハプスブルク家を中心とする王族全体の身分再統制的な最高裁。等族議会制)に首根っこを掴まれるようになったローマ(教皇庁)は、その圧力でとうとうネーデルラント人教皇ハドリアヌス6世(人文主義者。ネーデルラントの神学教授出身で、スペインの国際裁判長を務めていた。アードリアン・フローレンツ・ディダル)が強制的に擁立される事態となる。

これは自分たちの問題を自分たちで解決できない当時のイタリア人全体(枢機卿団たち)に対し、ついに帝国議会が痺れを切らした結果であり、よその力に頼ってばかりで、よそのせいにすることしかできなくなっていた、すなわちコンクラーヴェ(教皇選挙)もろくにできなくなっていたローマ(教皇庁)が悪いのである。

マルティン・ルター(エラスムスの影響を受けた人文主義者。プロテスタントの起爆役となったエルフルト出身の神学者)が散々非難するようになった、特に問題視されるようになっていたあのセルヴィーティウム制(司教特権のための公的教義への、乱暴なたらい回しの献納制度)の汚職問題も、この時にいよいよ改められる動きとなった。

この献納制度は、聖属教義を確認(尊重)しながら貴族から庶民まで資金を出し合うという、健全な有徳思想(力をもった者は、その力で弱者を良い方向へ導く等族義務がある)という本来の姿などは、微塵もないものと化していた。

ただの売官制と化していた司教特権(高位司祭たちの、ただ偉そうなだけの肩書きも含める)で、相変わらず時代遅れの手口で庶民の死後の支配をしながら、中世のままの格差収奪社会(乱暴な低次元な民事裁判権)を続けるばかりの、乱暴な金策にいつまでも頼り合い、常に教会財産を圧迫し合い、それで揉め合う不健全な原因ばかり作っていた。

多くの下々への希望と意欲の救済のための等族義務などどこにも見られない、もはや劣悪性癖でしかなかった今までの乱暴な上納制度の負の連鎖を、ついにハドリアヌス6世が教会全体に贅沢禁止令(教義と関係ない、庶民をただ威嚇するばかりの贅沢な偶像装飾も含める)を敷く形で、それを断ち切ろうと動いたのである。

この「どうにもならないから」の擁立教皇の経緯としてはまず、イタリアに力をもたせないように乱してばかりいたフランスによって、イタリアの再統一を阻害し合うフランス派が蔓延してどうにもならなくなっていた事態に、教皇ユリウス2世が帝国議会側(ドイツ・スペイン連合)の加勢を得てその排撃(フランス派の追い出し)に動いた、までは良かった。

このフランス派の追い出し戦によって、フィレンツェ共和国(イタリアのトスカーナ州)で反フランス派として失脚していたメディチ家(トスカーナ州の富裕層の代表格)が帝国議会側に擁立され、フィレンツェのメディチ政権を復活させてもらっただけでなく、さらには次代教皇にまでしてもらったのが、教皇レオ10世(ジョヴィンニ・デ・メディチ)である。

しかしこのレオ10世は、当時求められた教会改革をろくにやらずに、むしろ教会の贅沢を助長し、問題の多かった教会財産を贅沢で散財させ、枯渇させる原因まで作った。

レオ10世時代には、特にドイツ中では上から下まで教皇庁(ローマ)に対する怒りと失望をより助長させ、教会非難をより白熱させるばかりで、いよいよどうにもならない状況になった、だからハドリアヌス6世が擁立されたのである。

もはや教会体制の不正を取り締まりのために教皇庁やって来た、特殊監査官だったといえるこのよそ者の教皇ハドリアヌス6世が、教会全体を大きく改めさせる動きに出たため、今まで不当な癒着で聖属権力の地位を維持してきたイタリア中の貴族層や富裕層からの勘違いの怒りを買い、就任から2年も経たずにハドリアヌス6世が死去(筆者は暗殺されたと見なしている)してしまうと、教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ。2人目のメディチ教皇)が就任する。

このクレメンス7世は、反帝国議会派(反ハプスブルク派)から擁立された立場として「あれだけフランスにイタリア中を荒らされ、どうにもならない目に遭ったにも拘わらず」「それを帝国議会側に収拾してもらったことに凝りもせず」に、そのフランスと結託して帝国議会(ハプスブルク連合)への反抗に動いた。

これがついに帝国議会から、公的教義(教皇庁)が見放されるべくの、大制裁の引き金となったのである。

何もできなかったから帝国議会から監察される立場と化したことに、身の程知らずにも偉そうにそれに権威的に不満をもった、この口ほどにもない勘違い集団の公的教義(教皇庁・枢機卿団)が、フランスと結託して今まで通りに戻そうとしたため、これがついに 1527 年のローマ劫略(教皇庁だけでない、悪徳都市ローマ丸ごとの徹底破壊の踏み潰し)に発展する。

教皇庁に加勢したフランス軍は結局ドイツ・スペイン連合(帝国議会側・カール5世)に撃破され、クレメンス7世(=教皇庁のお膝元政権=トスカーナ州のメディチ政権)の指令に渋々動いていただけで国防軍意識など大して育っていないトスカーナ勢(フィレンツェ軍)も、それにろくに抵抗できないままに、帝国議会側(ドイツ・スペイン連合)にローマまで乗り込まれる事態となった。

そしてこの、劣悪性癖の固まりでしかない「偉そうな宮殿で、派手な音楽隊を雇って贅沢にドンチャン騒ぎをすることしか能がない」ローマは、ただ贅沢で偉そうなだけのあらゆる偶像建造物が徹底的に破壊される形で、ついに踏み潰された。

これは規模的には、織田信長の比叡山焼き討ち(延暦寺・公的教義)よりも、さらに盛大な教皇庁(ローマ全体・公的教義)の踏み潰しだったといえる。

かつての十字軍遠征の指揮権発動などもはや皆無だった、公的教義(教皇庁)の化けの皮が具体的に剥がされる形となったこのローマ劫略は、特に強国スペイン側の上級貴族たちや司教たち、修道院長たちの内心を、相当怒らせていたことが窺える。

良い所など何ひとつ見せることができなかったクレメンス7世は、この時は相当非難されたが、カール5世(帝国議会)と和解してフィレンツェのメディチ政権も復活すると、このメディチ家は帝国全体を強力に支えていた巨大銀行家・政商フッガー家からの巨額融資の斡旋や、スペインの上級貴族との縁組の斡旋も、得ることになった。

今まで政治力、文化力、財力は優れていたが、軍事面が全く育っていなかったフィレンツェ共和国はこれをきっかけに、今までイタリア全体があまりにもまとまりが無さすぎた姿も反省される形で、一気に強国化に向かうきっかけとなる。

コジモ・デ・メディチの代に、メディチ家は帝国議会から大公(上級貴族)の格上げの典礼を受ける形で、フィレンツェ共和国はそれをきっかけに領邦君主体制化し、メディチ家中心の荀子的独裁制による等族議会制の整備が始まり、イタリア全体の国防軍を請け負えるほどの強国化の実現に至る。(生前のマキアヴェリがまさに訴えていた姿の実現だった)

この時に生まれ変わったフィレンツェ共和国は、以後のローマ(教皇庁)の防衛も請け負う力までつけた、強力な国防軍としてイタリア全体の治安を支えられるほどの、頼もしい存在に急成長した。

強国化したフィレンツェ共和国の存在によって、以後のフランスも今までのように簡単にはイタリアに手を出せなくなり、フィレンツェを中心とするこのイタリア体制に、親フランス派(反帝国議会派)で反抗しようとするイタリアの等族都市らにも睨みを効かせるようになったため、内乱も起きにくくなった。

1527 年のローマ劫略は、教会改革(今までの聖属問題)もこれからは帝国議会が管理・保証を公認する側だと思い知らせること、さらにはイタリアに、自分たちの国を自分たちで守る力量もない上に、教会改革などできたことがない教皇庁の権威で、それをごまかし続けるまやかしの時代ももはや終わった、それはもはや許されない時代になったことを、全キリスト教徒に思い知らせる政治的な意図があったのである。

帝国議会はいったんは教皇庁を踏み潰しを決定したが、その後も等族責任をもって、イタリアの再建を支援する決定もしているのである。

1527 年のローマ劫略の一件は、全キリスト教徒の西方教会(カトリック)の代表格のはずである教皇庁(枢機卿団)では、もはや教会改革は不可能であることも決定的となった、軍事的衝突でもあった。

この時に上同士(上級貴族同士・司教同士)で何が起きていたのか、難しすぎた上の事情がよく解らなかった全キリスト教徒の下々は、当時のこの事態には大いに動揺した。

教会非難の抗議派(プロテスト)の勢いが増すばかりの中、もはや何もできずに踏み潰されたローマの姿を見せ付けられ、自分たちの大事な教義(キリスト教)を人任せに放任している場合では無くなってきた、その深刻な事態を思い知らされた各地の有志たちが、危機感をもって西方教会(カトリック)を立て直そうと自主的に、その外堀固めに動くべく結成したのがイエズス会である。

イエズス会の方針と結成の意見提出は、帝国議会に公認され、今までの他力信仰一辺倒の西方教会(カトリック)の乱暴なやり方と決別したがっていた者も増えていた決別・抗議派(プロテスタント)たちに対抗するための、いわば公的教義体制の正常公正化委員会としての重要な役割を果たすことになる。

17世紀以降にはプロテスタント(公的教義・カトリックとの決別派)を選ぶ地域も増えていき、揉めながらも西方教会(カトリック)とのちに融和的に和解していくようになるが、なんとかやっていけたのも、西方教会(カトリック)がそもそも現代まで残り得たのも、この16世紀のイエズス会の懸命な努力による外堀の支えがあったからだといっても、過言ではない。

1531 年にはプロテスタント(公的教義・カトリックとの決別派)として等族諸侯扱いにしてもらうという、20以上の諸侯の連盟(シュマルカルデン同盟)で、帝国議会に提出する事態となり、それを巡る論争や揉め事が、各地で頻発する。

プロテスタント側の権利(裁判権)の言い分の前例作りが強まる一方で、帝国議会もそれを許容できなくなっていき、1546 年にはその許容範囲を巡ってシュマルカルデン戦争となる。

激しい戦闘も時折起きながら、結局プロテスタント側の軍事行動はいったん制圧されるものの 1555 年の宗教和議において、プロテスタント側の裁判権をこれから整備していくという、つまりカトリック(他力信仰)かプロテスタント(自力信仰)かのどちらかに所属するかを選べる地域が出てくるという、歴史的な公認の判決がされた。

とりあえずドイツにおいては、その前例を認可したカール5世(皇帝。キリスト教徒の王族の代表格の、ハプスブルク家の当主)が、その3年後の 1558 年に亡くなると、それまでどうにかカール5世を中心に全キリスト教徒をまとめながらの、帝国議会によるキリスト教社会の改革体制も、その死去をきっかけに、その敷居の向上後には各国それぞれで仕切り直しがされる。

王族の代表格であるカール5世がこれまで、ゲルマン(ドイツ・オーストリア)・ネーデルラント(オランダとベルギー)・イベリア(カスティリャ・アラゴン)の孫であることを理由に、その広範囲を強引に結び付けながら、どうにか独裁的改革の帝国議会を維持してきた。

スペインとネーデルラントとドイツを今まで取り持っていた、カスティリャ(スペイン)を本領としたカール5世と、ネーデルラントの総督(支配代理)を務めていた妹のマリアと、オーストリアでドイツの皇帝代理を務めていた弟のフェルディナントがそれぞれ亡くなるのを以って、スペイン一強の黄金時代の傾向も強まっていった。(後述予定)

カール5世の次代の、フェリペ2世時代の有名なスペイン黄金期に、国内再統一(議会制の整備)に慌てたイギリスのエリザベス1世と、ネーデルラント北部(のちのオランダ)のオラニエ公らが、スペインが新大陸側(アメリカ)とアジア貿易路の制海権を握り続けながら、西方教会(カトリック)の理屈で抑えつけ続けたことに不満をもった問題も絡んで 1570 年代あたりからはいよいよ険悪化していく。

強国スペインが教皇庁(ローマ)の首根っこを掴みながら、力をもたせないように西方教会(カトリック)の勅令で抑え続けられたことに、ついにイギリスとオランダが結託する形でプロテスタント国家としてそれに反旗する独立連合の動きを見せ、1580 年代になるとイギリス・オランダとスペイン・ポルトガルとの、これまでの力関係も逆転し始める流れになる。

 

イギリス・オランダが、スペイン・ポルトガルの今までのアジア方面の貿易航海路を次第に奪っていくと 1580 年代後半にはイギリス・オランダのプロテスタントたちもとうとう日本にやってくるようになり、スペイン・ポルトガルのカトリックたちと、イギリス・オランダのプロテスタントたちとで、日本との交流のことで互いに「悪魔崇拝者どもは日本から出て行け」の言い合いをする事態となった。

これら両者の貿易船・軍艦は、アジア方面での貿易の島々やその航路でかち遭うたびに、その制海権や現地人たちとの貿易の優先権を巡って時に激しくその場で戦闘をする場合すらあり、互いに日本にやってきて、日本と西洋の交流のことでも険悪に言い争うようになっていたのである。

西洋人からすると日本は、アジアの極東であなどれない独特な技術、独特な文化をもっていて、キリスト教にも寛容な所もあったからこそ「日本と交流関係をもっている側と、もっていない側」という所でも、国際交流の面での国威・格式を競うようになっていた、彼らにとってもそこが非常に重要だったからこそ、日本との交易権のことにも熱心だったのである。

その両者の言い合いを、のちに徳川家康も調停することになり、イギリス人航海士・技術師のウイリアム・アダムス(和名で三浦按針と呼ばれた・あんじん)を徳川家の旗本吏僚の側近扱いにして事情を確認しながら、両者を調停するようになる。(1600 年の関ヶ原の戦いの、少し前から)

話は前後するが、西洋ではこんな状況になってきていたからこそ、先にやってきていたイエズス会(カトリック・西方教会・公的教義の再興主義)たちは、プロテスタント(公的教義の権威との決別派)たちが後でやってくることの危惧から、先にカトリックの日本での保証のことで慌てる形で、織田信長に先駆けで公認を得ようとしていた。

1565 年にフロイスが来日した時と、1579 年にヴァリニャーノが来日した頃とでは事情が変わってきており、西洋でのかつてのスペイン一強の情勢は、この時点では表向きこそ維持はされていたが、内実は危うくなってきていた。

1575 年には貿易都市アントウェルペン(ネーデルラント南部。今のベルギー側)の2回目の証券経済破綻で根を上げた、その主導権で連動していたスペインの国家破産も決定的となって、ヨーロッパ中が大騒ぎになった。(それと競っていたフランスのリヨンの証券経済も、同じように無理が祟ってのちに国家破産し、大騒ぎになった)

第1回の国家破産よりも遥かに大規模だったこの第2回目は、これは現代でいう所の国債・金融証券の強制的な巻き戻し(デフォルト・債務支払い無効化)による大恐慌が起きたのと同じ、手形不渡りの連鎖の泡沫経済崩壊(昭和後半から平成前半にかけてのバブル経済崩壊・不動産神話や金融不倒神話の崩壊)が明らかになってしまった瞬間だった。

スペインが発行・保証してきた国債と連動していたアントウェルペンの証券価値は大暴落し、スペインにはヨーロッパ中を支配できるほどのかつての力はないことを、露呈させてしまったことを意味した。

後からやってくることが予測されていたプロテスタントたちのことを、織田信長は許容したかどうかはともかく、その事情は当然把握していたと思われ、本能寺の変の起きる 1582 年はスペイン・ポルトガルのカトリックは、イギリス・オランダのプロテスタントたちの阻害を受け始めて落ち目になってきていた。

織田政権の重役であった柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉と、重臣の筆頭であった佐久間信盛、旗本吏僚の筆頭であった堀秀政あたりも、その事情は内々に知っていたと筆者は見ている。

フロイスの著述の話に戻り、教皇庁(西方教会・カトリック)再建に向けた公会議用の資料として保管されたことで、たまたま織田信長のことにも多く触れた記録として現代にまで保管されて伝わったことは、確かに貴重な一次資料であることには変わりない。

ただし人文主義者(自力信仰の許容派=プロテスタントへの許容派)でもない、人文主義者というだけで目を吊り上げていた者も多かったと思われる当時のイエズス会士たちは、西方教会(カトリック)を公会議制(公的な宗教議会)で回復させようと躍起になっていた者たちなのである。

日本は確かに、日本人キリスト教徒が増えて盛り上がったものの、それ一色に染まっていた訳ではなく浸透して間もない中で、イエズス会の一員であるフロイスが、公会議側に向けた報告書に異教徒(カトリックの解釈する神の崇拝の仕方と違う者たち)のことに肩をもつような記述など、できる訳もなかったのが実際なのである。

そもそも、西洋のキリスト教徒たちから見た、日本の総裁であった織田信長が、キリスト教徒を公認する権限はもちつつ、織田信長本人がキリスト教徒だと鮮明にしなかった時点で、キリスト教徒たちは本来は交流してはならないのである。

表向きは異教徒と交流してはならない所だが、日本におけるキリスト教を公認・裁定する権限(議決性)をもっていたのが織田信長であったため、そこを苦し紛れな表現で報告書を記述するしかなかったのが、実情なのである。

そういう態度も出していたのか、織田信長はこのフロイスには保護的であった一方では、最初の頃は閉鎖有徳の秘匿活動も疑って、抜き打ち検査もしている。

そもそも日本における家格・格式にも関係してくる人物評は、たとえキリスト教に帰依した武士であろうが、よそ者のフロイス(西洋のキリスト教徒たち)にその議決権がある訳がなく、日本での等族議会制を確立できていた織田政権がそもそも、公務士分として相応な姿勢かどうかを裁定する話なのである。

はるばる日本にやってきていたから、新参の外国教義は不利だからと織田信長にそこを寛大に許容され、面倒を見てもらっていた側であるのが本筋なのである。

世界の中心がイエズス会の公会議制であるかのようなフロイスが報告した著述は、織田信長に公認されていた日本の公務士分に対する悪評の記述部分については、日本における身分再統制(公務士分の資格)の家格・格式の議決権(家長権)など得てもいない、よそ者の観点でしかない。

 

フロイスは織田信長から手厚く保護してもらいながら、西洋の公会議制の都合で「良」はともかく「悪」の人物評を語ろうとすること自体が、これだけ見ていると閉鎖有徳的な恩知らずの図々しい記述であり、フロイスもそこは自覚があって公会議用のために書いているに過ぎない。

まずは織田信長のおかげもあって、日本におけるキリスト教の教区特権の要否においても、全ては日本における武家政権側(世俗政権の統一側=織田政権・豊臣政権・徳川政権)の公認次第の世界に、もはやなっていたのである。

 

よく西洋のキリスト教徒が「日本を支配しに来た」「しかし日本とは合わなかった」などテキトーな説明ばかりされて見逃されがちな所だが、これも16世紀の等族社会化(法治国家化)の改革時代であったことの説明がこれまで全くされてこなかったから、その説明も常にうやむやにされてきた部分になる。

 

織田信長が、ただの閉鎖有徳(ただの指標乞食=等族違反=ただの騒乱罪予備軍)どもを格下げしながら、武家政権側(手本家長)の等族議会制(法治国家化)の確立の見本を作ってくれたから、よそ者に政権としての議決性など簡単には与えない、自分たちの国事をよそ者に簡単には口出しさせない体制にも成り得たのである。(のちの中国大陸側に対しても)

むしろ外国教義の多様許容化まではできていなかった、そもそもカトリック(他力信仰)かプロテスタント(自力信仰)かでまだまだ揉めていた西洋人のキリスト教徒たちが、それができていた啓蒙君主の織田信長を全肯定(絶賛)するような記述をしてしまうことは、

 

 ギリシャ正教(キリスト教の東方教会圏)への寛容政策で条件付きで整備し、強国化(等族社会化・国際化)を進めてキリスト教徒たちに甚大な脅威を与えていた、優れた啓蒙君主だといえたスルタン(イスラム教の全代表者)のスレイマン1世

 

を肯定してしまうのと同じなのである。

当時のキリスト教徒たちはまだそんな段階ではなかった、これからプロテスタントたちと論争・和解していかなければならなかったフロイス(イエズス会)たちも、そこを自覚していたからこそ、日本から離れてから日本人の目に触れることはない場所で「日本史」を執筆しているのである。

 

これらを踏まえて、今後の日本の国事にも関係してくる、外国教義との向き合いもどうするのかを議決性(等族議会制の品性規律)を以って整備していかなければならなくなってきていた。

 

当時の廷臣たちにそれができたのか怪しかった、顕密体制といいながら国内の閉鎖有徳もろくに改められることもしてこれなかった公的教義(天台宗)の姿は、廷臣たちの力量不足そのものであり、浄土真宗(本願寺)の方が遥かに努力できていたといえる。

 

異種異文化の多様許容性に向き合ってこれたことがない、時代遅れの猿知恵(ただの指標乞食主義)でうちのめし合い従わせ合うのみ(ただ気絶・思考停止し合い、ただ失望し合うのみ)しか能がない最低限の国際人道観(議決性)の手本礼儀の示し合いなど一度もできたこともないような今の公的教義と大差ない低次元な産業廃棄物の老廃物どもに、国事の何を任せられるのだという話なのである。

 

次も、4以降の「京の文化料理への難癖」など、当時の様子に関する話を引き続きしていく。