- 本能寺の変とはなんだったのか11/? - 2021/11/06
今回は、1571 年に織田氏が中央に乗り込んで再興後の、その反感分子たちの当初の反抗もできなくなり始めていた 1574 年以降からの織田領の内外はどのような様子だったのか、また教義関係(当時の聖属=仏教とキリスト教)などについて触れていく。
しかし前回の説明は少しまとまりがないように、後で見て思ったため、ややこしい話であるため今一度、そちらもざっと説明しておいた上で、その話に入りたい。
まず織田氏が 1560 年頃には尾張再統一を果たし、次なる美濃斎藤氏攻略で 1568 年に尾張美濃の併合を果たしたも同然となると、その組織改革の様子は、各地から注目・有力視されるようになっていた。
京から追われていた中央関係者たちが、織田氏に中央進出を期待するようになっていた時は、京の再興を望んでいた堺衆たちにも、そして彼らと交流を深めていた、はるばる西洋から来日してきていたキリスト教徒たちも、期待されるようになっていた。
キリスト教徒の間でも織田氏のことは「次なる政権主導ではないか」と評判となり、織田信長にさっそく謁見を求めるようになっていた。
中央に乗り込む前年の 1568 年の時点で、織田氏は中央関係者たちに期待されただけでなく、堺衆たちとキリスト教徒たちにも期待されていた中で、中央進出の要請に応じる形となっていたのである。
その妨害に動いた南近江の六角氏と、それまで山城に居座り続けていた三好氏は、織田氏に早急に排撃される形で 1569 年には、織田氏に中央に乗まれる運びとなった。
それまで畿内(きない・関西方面)で一時的に威勢を誇っていた三好氏は、1564 年に当主の三好長慶(ながよし)を失って以来、その次代の三好義継(よしつぐ)以降は重臣たちの間でまとまりが欠け始めていたこともあり、山城に居座り続けていた三好派は、早急に織田氏に追い出される形とになった。
永らく荒れ果て続けた京の復興事業にさっそく着手され、織田氏の公正な旗本吏僚体制の裁判権改め(閉鎖有徳改め)によって治安が急回復されながら、産業のための尾張・美濃・近江南部の間の庶民たちも大動員される形で、賑わいを見せた。
道々の閉鎖有徳は禁止(公認のない勝手な徴税・労役上下の禁止=楽市楽座による産業自由化政策)され、取引交通網が整備されながら、織田氏が設置した奉行所(役所)によって取引に関する民事訴訟も公正に行われるようになったため、人々も続々と京を往来するようになった。
尾張の津島神社と熱田神宮の周辺で顕著だった農商業政策のあり方が、そのまま中央にもち込まれる形で、帝都としてのかつての都市経済、そして本来の朝廷の姿形が、実に100年ぶりに大再生されることになり、織田領内の街道の物流も大いに賑わうようになった。
今まで中央がまとまり始めるごとに、うやむやの騒ぎ合いで足を引っ張り合って停滞させ続けてきた京の再興事業は、ついに織田氏の最低限の高次元な敷居(裁判権改めの基準=手本家長の示し合い)がもたらされる形で、大再生されたのである。
そして、いつものようにそれをうやむやにしようと騒ぎ始めるいい加減な中央関係者にも、今度こそ公正な監視の目を織田氏が光らせながらの再興事業が、見事に果たされてしまう事態となった。
織田氏にはそれができるだけの体制ができていたことを 1571 年までにすっかり立証された、すなわち新政権としてやっていける立証ができたも同然の事態となった。
その最低限の敷居に追いついていない、中途半端な地方再統一しかできていなかった近隣諸氏は、思った以上だった織田氏のその最低限の高次元な敷居(裁判権=等族議会制)の様子に、ただただ気まずいぱかりだった。
どうにか地元をまとめるのがどこも精一杯で、よその地方の裁判権改めまで手が回らず、できたとしてもその範囲にはどこも限度があった。
よその裁判権改めができるほどの等族議会制(品性規律ある議決性・身分再統制・育成理念)の整備、すなわち新政権としてやっていけるだけの公務吏僚体制(前期型兵農分離=士分待遇の見直し)といえるものを、織田氏ほど整備できていた所など、他は皆無だったのである。
1571 年の時点で既に体制ができていたことを、中央復興事業という形で立証されてしまった織田氏に対し、そこまでできていなかった近隣諸氏はその織田氏とこれからどう向き合うのか、すなわち格下げ覚悟で織田氏に臣従・協力するかどうかの進退を、いよいよ迫られるようになってきていた。
そこをはっきりさせなければならなくなってきた 1572 年には、織田氏にどうにも臣従し得なかった有力諸氏たちは、織田氏との決別で一致の、
室町将軍(完全に名だけと化していた)の足利義昭
摂津の石山本願寺(浄土真宗)の顕如
甲斐・信濃を拠点とする武田信玄
らを旗頭する反織田派の連合と、その誘いには乗らずの格下げ覚悟の親織田派とで、選別的に分化していくようになった。
1560 ~ 1564 年頃までに、清洲同盟によって織田氏との友好関係が仕切り直されて以来の徳川家康とその家中は、普段からの交流で織田信長がいかに別格で、その高次元な品性規律を追いかけていた方がいかに自分たちのためになるかも、よく理解できていた。
そのため徳川氏としても、一時的に織田氏が劣勢になったくらいでは、低次元な反織田派の誘いなどに簡単に乗る訳もなく、織田氏に良い所をみせておこうと、三河再統一や遠江攻略で忙しい中でも織田氏の援軍要請に積極的に応じた。
1572 年あたりから顕著になった、反連合による織田氏の一斉の噛み付きによって織田信長は苦戦するも「最終目的の置き所など曖昧な反織田派など、どうせ長続きしない」としっかり見通していた徳川氏は、織田氏との同盟関係で一貫し、織田家中に一目置かせる支援までして見せていた。
織田氏が一時的に劣勢になっても、徳川氏のように親織田派の態度を全く崩さなかった者たちと、それを機に反織田派に組するようになった、織田氏の高次元の敷居についていけなかっただらしない連中というあぶり出しの選別現象も顕著となる。
常に猿知恵(ただの劣情統制)を共有し合って調子に乗り合うことしか能がない、今の公的教義と大差ない低次元なただの指標乞食どもであればあるほど、どんな状況になってきているのかを見ずに、織田氏の表面の物的威力しか見ようとしないものである。
常にいい加減ないつものノリで力関係しか見ない織田氏に、ただ便乗しただけの
そのただの人任せの威力を元手に、今まで通りそれに頼り切って、あわよくば不都合先をうちのめし合い従わせ合うことしか能がない
それで良い思いをしようと、人任せの力関係でただ正しい立ち位置(勝つ側)に立ちたがることしか能がない
そして不都合になれば「やらされた感/勝手に決められた感」ばかり出しながら、うやむやにしようと今までのように騒ぎ合うことしか能がない
こうした低次元な猿知恵(ただの劣情統制)しかもち合わせていない、ただ下品で汚らしいだけのただの指標乞食どもの劣悪姿勢こそ、今の公的教義の姿そのものといえる。
ただの猿知恵(ただの指標乞食どもの劣情統制)はただの猿知恵(末期症状)だと、それを反省(自己等族統制)できたことがない
それでただ気絶(思考停止)し合い、ただ疲弊し合い、ただ失望し合うために、ただ騒ぎ合い、ただうちのめし合い、ただ従わせ合うのみしか能がない
自分たちの議決性のあり方(等族議会制のあり方=育成理念=組織構想=法治国家)を放棄し合うために、人のせいにし合うためにうやむやに騒ぎ合うことしか能がない、いつもの低次元な猿知恵(劣情統制)の手口がついに通用しなくなる時代を迎え、
人の上に立つ資格(品性規律)があるのかどうかの、上から順番の身分再統制(手本家長の姿勢による等族議決性で吟味)で仕切り直される、新時代(近世化=等族社会化=法治国家化)
がついに始まったのである。
人の上に立つ側(人を否定する側・人に最低限の手本礼儀を示す側)ならなおのこと、それぞれの自分たちの身の程(身の置き所)というものを、上であればあるほど等族議決性(当事者性=人文性・啓蒙性の確認・整理・提示をし合う)の品性規律(政治精神)で整列できて当然の
これからは、織田氏の高次元な最低限の敷居でそこを、再認識(再統一)していかなければならなくなる
状況になってきた、そうしなければならなくなる織田氏の高次元な最低限の敷居に、中央近隣からまずそこに動揺するようになっていた。
等族議決性 = 確認・整理・提出・回収・裁量・公判事例尊重 = 育成理念 = 組織構想(目的構築・国家構想) = 品性規律 = 法律(自己規範や各所の社則など)のあり方
の等族社会化(法治国家化)としてのその裁判法(裁量=教義狩りの姿勢)の基本中の基本の順番(品性規律の手本姿勢)を
守れたことがない、それを認識できる知能すらない公的教義と大差ない低次元側
が、
それができている高次元側の公認(手本家長の示し合い)
も無しにやたらと偉そうにケンカ腰になり、人の上に立とうとする(人を否定・人を軽々しくうちのめそうとする)身の程知らずな劣悪姿勢がもはや許されなくなる
高次元側(等族議会制)からの姿勢狩り(教義狩り)による、上から順番に厳しく制裁(格下げ)を言い渡される、身分再統制(旧態偽善権威の一斉償却)
の時代が始まったのである。
ただの猿知恵(ただの劣情統制)のいいなりの機械的な拡声器になり下がることしか能がない
不都合次第でうやむやにただ騒ぎ合う(ただ思考停止し合う・ただ失望し合う)ことしか能がない
ただ下品で汚らしいだけの今の公的教義と大差ない、それしか能がない低次元なただの指標乞食ども
になり下がる国家になってはならない観点からの、近代における議会制(裁判法)として創設されたはずの国会議事堂(自由民権運動)も、そこが根底なのである
等族議決性(確認・整理・提出・回収・裁量・公判事例尊重)の公正な品性規律(国際人道観=人文性と啓蒙性の区別整理ある育成理念=組織構想)
の姿勢の再認識(自己等族統制)からまず始められないような公的教義と大差ない、その最低限の順番(品性規律の手本)も守れないような低次元どもが、何が法律(育成理念・組織構想・法治国家)だという話なのである。
その欠落は「そうなってから騒いでも遅い」という意味に、普段から冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方をしてこれていないのと同じ、つまり
自分の/よその「そうなってから」でなくても以前から、そのことに根強い関心(議決性・育成理念)をもっていた
訳でもなければ、
自分の/よその「そうなってから」をきっかけに、そのことに根強い関心(議決性・育成理念)をもつようになった
訳でもない、すなわち
「そうなった遭遇」に指標乞食どもがただ期間限定的に食いつき、低次元な猿知恵に当てはめることしか能がない公的教義と大差ないだらしない実態
根強い関心(議決性・育成理念)に「向き合った気になっているだけのその時のその気分(劣情)」にただ誇らしげになっているだけのだらしない実態
の違いも普段から、ろくに疑い見抜いてこれなかったたのと同じであり、
「そうなってから騒いでも遅い」意味に、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方
などろくにしてこれなかったのと同じ、つまり、
「そうなってから怒りを向け合うことしか能がない」だらしない生き方
を反省(自己等族統制)できたことがない、万事面倒がりながらただの猿知恵で偉そうにうちのめし合うことしか能がない、低次元な公的教義と大差ないただの指標乞食どもと同じなのである。
人が生きていく上で実際に「そうなってから」関心をもつようになるのも、どうしても多くなるのは、確かにある。
ただし「そうなってから騒いでも遅い」と「そうなってから怒りを向け合うことしか能がない」の実態に、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で区別整理もしてこれなかったような、そこを普段から疑い見抜くこともしてこれなかった手合いが、
等族議決性(確認・整理・提出・回収・裁量・公判事例尊重=育成理念の議決性・議事録性)から法律(その育成理念の形としての品性規律)が成立・改正されていくという、本来の国会議事堂の象徴的な順番(近代以降の自由民権運動)
という、基本中の基本の順番(品性規律の手本・姿勢狩り)というものを、大事にしてこれた訳がなく、当事者性(道義狩りと教義狩りの範囲=議決性)の区別整理もろくにできていないのと同じなのである。
その最低限の国際認識(手本礼儀の示し合い)もできたこともない、遭遇(期間限定)次第の指標乞食論に終始することしか能がない、公的教義と大差ないだらしない上(自分たち)からまず改善(姿勢狩り)できない集まりが、作戦(育成理念・目的構築・組織戦略)の質を高められる訳がないと、孫子の兵法でも指摘されている部分になる。
中世以降の公的教義などというのは、GHQと大差ないただの指標乞食委員会に過ぎないことは、歴史が証明している所なのである。
その最低限も問題視(姿勢狩り)できない、自分たちの取り締まり(規律改め・身の程知らずどもの上から順番の格下げ)もできたことがないただの指標乞食の集まりが、よそのことをとやかくいっている場合ではない、すなわちよそを公正的(育成理念的)に取り締まることなど、できる訳がないのである。
戦国終焉(等族社会化・法治国家化)に向かわせることができた織田氏と、それができなかった諸氏との差とは、それを公正(品性規律の手本的)に取り締まることができる高次元側と、それができない取り締まられる側との、器量(教義指導力・手本家長の示し合い・等族議会制)が明確化された差なのである。
話は戻り 1569 年に中央に乗り込まれた織田氏によって 1571 年までにそういう所があぶり出されていく形で、その反感分子たちの一斉の噛み付きが 1572 年頃に本格化するも、1574 年頃までには、織田氏に見事にはね返されてしまう形となっていた。
それは「高次元化に向かうと低次元同士が困るから、うやむやにするために騒ぎ合う」いつものやり口の大規模化の跳ね返しであり、それでは崩すことはできなかった等族議会制(公務吏僚体制)を、織田氏は構築できていたことを意味した。
中世から近世への移行期である16世紀は世界的にも、中世までの旧態性癖を自分たちで一斉償却させなければならない、上層の間ではもうその大転換期になってきていたこともはっきりしていた。
16世紀は、その等族社会化(法治国家化)が目指された時代だった部分が、これまでしっかり説明されてされてこなかった所になる。
いったんの大幅な格下げが予測されても、やむなく織田氏に臣従した者たちと、臣従し得ずに結局、反織田派に加わった、往生際の悪かった中央近隣の有力者たちも実際の所は、そもそも地方再統一(等族議会制の確立)でそこが求められるようになっていたことで、上であればあるほどその認識自体はできていたのである。
しかしその流れの認識自体はできていても、いざ上には上がいる別格を実際に見せ付けられてしまうと
今まで解った気になっていただけ、やっていた気になっていただけ、できた気になっていただけ
で、実際には中途半端にしかできていなかった実態に、すぐには受け入れられない者も多いものである。
中には、それを受け入れられるようになる時間が欲しいためだったり、自分たちの格式を少しでも認めさせるために、その反抗に流れる連中も多いのである。
どのみち長続きする訳がない反織田連合たちの当初の結束も、どんどん崩れていく 1574 年あたりからはその流れを止めることもできなくなる形、つまり織田氏の裁判権(等族議会制)の最低限の敷居の、人の上に立つ公務公共性の家格・格式の裁定に、抵抗できなくなっていく一方的な流れとなった。
三好派から織田派に鞍替えした口であった大和の代表格の松永久秀と、摂津の代表格の荒木村重も、次第にそれについていけずに離反することになるが、1579 年までにはそれらも制圧され、大和衆と摂津衆は佐久間信盛の管轄下に、のちに明智光秀の管轄下となった。
松永・荒木両名もそうだったが、世俗裁判権と聖属裁判権を巡る織田氏と浄土真宗(本願寺)の対立の、その終結・和解が早まっては困るかのように、中国地方を大幅にまとめることができていた毛利氏が、足利義昭の催促に慌てて織田氏への反抗に動くようになる。
羽柴勢が、播磨以西への中国方面への裁判権改めを強めていたこともあり、毛利氏が慌ててその反抗に動く形となるが、1580 年頃には、天下の大局は決したも同然になっていた。
毛利氏は9~10ヶ国ほどを表向き従えていたが、実質の裁判力(整備力・支配力)はせいぜい6ヶ国ほどだったと思われる。
1580 年には15ヶ国ほどを従えるようになっていた織田氏の旗本吏僚体制(前期型兵農分離)の、部将・寄騎体制による裁判力(支配力・指令力)は12ヶ国分の実力はあったことを考えると、もはや大差があったといえる。(本能寺の変の起きる 1582 年はおよそ20ヶ国)
地方再統一をし得ずに列強にどんどん吸収・消滅していった所も多かった中で、そこまで大手になれた毛利氏は、確かにかなり優れていた部類だったといえる。
しかし他にも、九州の島津氏、四国の長宗我部氏(ちょうそかべ)、関東の北条氏、東北の伊達氏・芦名氏(あしな)といった、頑張って広域をまとめ始めたそれら遠方諸氏たちの実質は、織田氏のその最低限の敷居に慌てて、その背中を追いかけ始めた中での話だったのである。
その遠方諸氏の様子も、織田信長からいわせれば「今ごろになって、はりきりおって」なのである。
1582 年の本能寺の変をきっかけに羽柴秀吉が、山崎の戦い(明智勢の掃討)、清洲会議、賤ヶ岳の戦い(選挙戦・議決性)を経て、誰が織田信長を肩代わりする中央の実質の代表格であるのかを制するまでの 1584 年までは、遠方諸氏たちにとっての猶予期間となった。
中央の実質の代表が自身であることを 1584 年までに明確化した羽柴秀吉も、天下総無事(天下統一)を目指す際に、広域統一を目指していたそれら遠方諸氏に対して「今ごろになって、はりきりおって」だったのである。
のちの豊臣秀吉の天下総無事令による、豊臣政権に順番に従わせながらの諸氏の大動員の、東北から九州までの仕置き(裁判権改め・家格裁定)が行われるが
長宗我部氏 : 四国統一目前だった表向き60万石以上 → 1ヶ国20万石で公認
島津氏 : 九州統一目前だった表向き100万石以上 → 2ヶ国と他の郡の計60万石弱で公認
伊達氏 : 陸奥中部から南部にかけての広域の表向き80万石弱 → 陸奥中部の60万石弱で公認
他に上杉景勝(かげかつ)のように、いったん縮小覚悟の越後再統一の努力と、それまでの羽柴氏への協力姿勢も評価されて、表向き90万石がそのまま公認された例や、また佐竹義宣(よしのぶ)のように常陸再統一(ひたち・茨城県)とその他の郡のおよそ50万石の他、陸奥南部(福島県)の介入で伊達氏と競ってきたことも認められて、格式としては70万石と公認された例もある。
伊達氏については少し先述したが、伊達晴宗と伊達輝宗の代までに基礎が仕切り直されながら推定20万石の支配力を推定30万石ほどに回復させ、伊達政宗の代に80万石近くまで広げられてから、豊臣政権によって60万石弱に裁定されたことは、見た目は格下げだが、格上げに大成功している部類といえる。( 1591 年の奥羽仕置き)
徳川家康も、三河・遠江・駿河のおよそ80万石ほどからの本能寺の変後の、甲斐と信濃南部の攻略で推定計120万石ほどになっていた所は、羽柴秀吉から公認されない予定だったが、小牧長久手の戦いとその後の外交で、その家格として寛大に公認してもらうことになったため、十分に大成功だったといえる。
100万石以上の関東大手だった北条氏直も豊臣氏と争うが「争う所は争い、和解する所は和解する」という、上としてのあるべき姿勢ができておらず、多くの部下たちを散々苦しめた上で降伏した所が、厳しい裁定となってしまった。
豊臣氏とは争っても、そこもできていた東海道の徳川氏、紀伊の有徳一揆たち、四国の長宗我部氏、九州の島津氏らと比較される形で、北条氏は問答無用で改易されてしまった。
織田氏が中央進出して再興事業を果たした 1571 年以降は、もはや天下の覇権を巡る、日本全体としての国内再統一のための教義競争(裁判権争い・日本全体の家長権争い)は終わっていたといってよい。
織田氏にまだ直接介入は受けていなかった遠方諸氏の実質とは、その最低限の敷居に慌て、どうにか理解しながら、もはや中央政権の確立後に備えて家格・格式を認めてもらおうとするその既成事実作りのために、広域統一を慌てて頑張っていた有様だったのである。
豊臣秀吉のこうした寛大な家格裁定からも解るように
「今ごろになって、はりきりおって」
の意味は
「織田家の公務吏僚出身でもないお前ら(遠方諸氏ら)は、途中から織田家の基準に頼って、その背中を追いかけながら増長したに過ぎん!」
であり、自分たちで実際に裁判権改めができていた実質部分から、妥当な再評価による家格裁定が、それぞれ下されていったのである。
本能寺の変後の羽柴秀吉の動向とは、等族議会制(法治国家化)のための政権を制定(姿勢狩り)できる者が、織田信長を肩代わりしなければならない、そこをうやむやに戦国前期の低次元化に日本を巻き戻らせてはならないための、
海外(中国大陸側や西洋)に大きく劣るような規律しか作れない、だらしない上しかいない低次元なままの国家(低次元な法律の見方しかできない=ただの指標乞食ども)であり続けてはならない
その大変な転換期であった中でのことだった所がこれまで無視され続け、天下盗りの野心説ばかり強調されてきた。
豊臣秀吉によって、上から順番の厳しさが表向きはますます強まった一方では、諸氏の領地特権も寛大に家格裁定された。
しかし天下平定が見えてきた途端に有力諸氏たちは、次なる格上げの争点として、それまでのキリスト教徒(他力信仰主義)や法華宗(自力信仰主義)、また茶道などの芸事品性を、早くも掲げ合おうとする風潮を見せた。
豊臣政権に公認されていない、そうした風評弁慶的(指標乞食的)な基準に、だらしなくも早くも寄りかかり始めたため、豊臣秀吉に上から順番にそこが、厳しく規制していったのである。
豊臣秀吉による著名な禁止令は、当時の等族議会制の流れがしっかり説明されてこなかったために、即座の徹底弾圧であるかのように誤解され続けてきた。
中には確かに、大幅な規制もされた部分もあるものの、そこは織田信長と同じく落ち度狩り(道義狩り)中心ではなく、風評弁慶(指標乞食)に対する姿勢狩り(教義狩り)が中心なのである。
豊臣秀吉によって天下総無事(天下統一)がもたらされた、それが見えてきた途端に、有力諸氏の間で早くもそういう所で競い始め(閉鎖有徳的な非同胞拒絶主義を作り始め)、乱れ始めるだらしない兆候を見せたために、上から順番にそういう所に厳しい目で、しばらく監視を続けなければならない有様だったのである。
だらしない風評弁慶(指標乞食一辺倒)で、等族議会制(近世以降の法治国家体制)が簡単に崩れるような前例を作らせないよう、今度こそ、そこをうやむやにしないために、当時の日本のその部分をまず大きく支えてくれた(姿勢狩りで叩き込んでくれた)のが織田信長だったのであり、続いてそれを肩代わりして支えてくれたのが、豊臣秀吉だったという、両名の大偉業だったのである。
どういった当事者に合ったものなのかの確認(尊重)など何もされていない、説明理由(議決性・議事録性があるといえるような品性規律の手本)など見当たらない
ただの指標乞食(風評弁慶)どもの低次元な猿知恵(ただの劣情統制)をいきなり「ついていけない奴が悪い」で押し付け合う(猿知恵通りになるように挑発し合う)ことしかしてこなかった
すなわち評価(合格・否定)する格上側の観点なのか、評価(合格・否定)を受ける格下側の観点なのかもまず自身ではっきりさせられない、余裕をもてている前者の見方などしてこれたことがない、余裕などない後者の見方のみしかしてこれなかった
すなわち自分たちのための等族議会制(育成理念・目的構築のための議決性)を放棄し合わせるために、うちのめし合い従わせ合うことしかしてこなかった
その実態を疑い見抜くこともしてこれなかったような、国際人道観を踏み外し続けてきた公的教義と大差ないだらしない低次元同士が、何を偉そうに人に向かってケンカ腰に誇らしげに、人間性(当事者ごとの人文性・啓蒙性)だの社会性(当事者ごとの議決性・議事録性)だのという話なのである。
間違っていようが押し付けであろうが、議決性(当事者性=人文性・啓蒙性の品性規律の手本)を確認(尊重)し合うことから始められない時点で、
議決性(当事者にとって大事にしたい育成理念・品性規律は何なのか)など無い言い分が通用しなくなって来ている意味
すなわちただの指標乞食どもの猿知恵(ただの劣情統制)が通用しなくなって来ている意味
その状況に陥っている実態も、普段から疑い見抜いてこれたことのがないのと同じなのである。
特に直接の道義関係がない部分ならなおのこと、間違っていようが押し付けであろうが、当事者ごとの身の置き所(身の程)を確認(尊重)し合おうとしているといえるような議決性(最低限の手本礼儀の示し合い)というものが、そこがそもそも見当たらないようなうちのめし合いしかできていない低次元同士の、何をどう確認(尊重)すればいいのかという話なのである。
そこができていないということは、和解条件(目的構築・育成理念)も自身ではっきりさせられない言い分、すなわち自分たちで規律改め(議決性の構築)もできたこともない言い分をよそに押し付け合おうとする、等族社会(法治国家・法律の順番)に反する低次元同士の騒乱罪を、普段から疑い見抜くこともできていないのと同じである。(荀子・韓非子の体現体礼の手本主義=育成理念=法律=品性規律)
直接の道義関係もない部分に、ただの指標乞食どもの猿知恵(ただの劣情統制)が通用しなくても当然のことに怒りを向け始める(気絶し始める)ようなだらしない、人としての最低限の議決性(育成理念があるといえるような品性規律の示し合い)の順番も普段から守れていない低次元な集まりの、何が法律(法治国家・国会議事堂のあり方・等族議会制)だという話である。
話は戻り 1579 年に行われた、少し先述した織田氏の公認による浄土宗(源空派の他力信仰型)と法華宗(日蓮派の自力信仰型)の論争劇は、織田政権の最低限の敷居が日本全体の基準になる流れに向かっていた状況と、当然のことして関係している。
この論争は、法華宗側が浄土宗側にケンカを売る形で仕掛けておきながら、その指導部の上層たちの頼りない所ばかり露呈させてしまう結果となり、法華宗に連なる大勢をあきれさせ、失望させるばかりのていたらくぶりを、織田信長にかなり叱責・説教されてしまうことになった。
それでも織田氏の裁判権の裁定に従う以上は、多少の落ち度は大目に見られる形で「許可が出るまではしばらくは法華宗は布教運動(他宗との論争)は禁止」という処置だけで済み、その時に騒乱罪として処刑にされたのも、何の反省もない態度があまりにも悪すぎた2名だけで済んでいる。
当時、織田領内で規模が大きかった自力信仰型の法華宗としては、それほど大きい訳ではなかった他力信仰型の浄土宗よりも大きくなっていた、他力信仰型のキリスト教への対抗心の方を強めていたのは明らかといえる。
織田信長が敷く等族議会制では、その裁判権に従いさえすれば「後はそれぞれの教義力の手本次第で、それぞれの格式を公認」で外国宗教であっても全て収容していく、今後の海外との外交対策(技術・文化交流)に備えての方針が採られていた。
それをとてもできるような等族議決性の整備などはできていなかった廷臣たちの内の、不真面目ないい加減な一派は、それができる側とできない側というのを織田氏に見せ付けられ続けたことに、ただ逆恨みすることしか能がなかった所になる。
織田家とは良好な協力関係を維持していた法華宗は、教義上では必要以上の権力の上下関係を作ってはならない、同じ宗門の同胞者は共に歩んでいく姿勢が大事、という所で織田領内で人気があり、武士側も庶民側も、檀那寺と檀家の関係で法華宗に所属していた者たちも多かった。
しかし一方で、他力信仰のキリスト教に流れていく者たちも増えていたことに、自力信仰の法華宗の指導部も当然のこととして、そのことに危機感は向いていた。
法華宗は仏教側として、今後の手ごわい競争相手になりそうなキリスト教が、日本国内の主体教義がその外国宗教であるかのようになってしまわないように、公的教義など無いも同然になっていた仏教側は、法華宗が今後の代表格として結束・再統一が必要だという考えを、強めていたと思われる。
他力信仰のキリスト教が脅威になっていたことに対抗意識を強めていた矢先に、織田氏の公認を得た他力信仰の浄土宗の布教活動で、法華宗の所属信徒を浄土宗にもっていかれてしまう事態が起きたため、法華宗からすると「キリスト教徒に対抗するために、法華宗が仏教側の代表格になるように進めているのに、浄土宗たちは邪魔するな」になっていたと思われる。
だから法華宗の指導部としては「同じ他力信仰で、キリスト教よりも規模の小さい浄土宗も、まず仏教側として制することもできないようでは」の所でつい過熱してしまい、その肩慣らしのつもりで教義対決を仕掛けたことも、容易に窺える所になる。
これまでの聖属裁判権も一新(有徳の地政権力の撤廃)された織田氏では、聖属同士(他宗間)もこれからは、織田氏の等族議会制による公認や、また議決性ある意見といえるような整理提出(誓願書)も無しに、奉行所への連絡も無しに勝手に否定し合い、勝手にうちのめし合うことは閉鎖有徳行為として厳しく禁止されるようになった。
天台宗(公的教義)は、それができなければならない上の立場でありながら、それを自立自制(自己等族統制)できないと見なされた、それができたことがないだらしない集まりだからこそ、織田氏がそれを肩代わりするために踏み潰されたのである。(廷臣たちもそれを管理できていなければならなかった)
しかしいずれにしても、今までの自力信仰と決別したがっていた者も多かったことが露呈していく形で、法華宗からもキリスト教に鞍替えする者も増えて、脅威になってきていた。
そんな中で同じく他力信仰の浄土宗に鞍替えする者も出てきてしまったため、まず仏教側としてそれくらいは抑えなければと、見切り発車のように慌てて論争に踏み込んでしまった。
その話を持ち掛けられた織田信長は、浄土宗とは論争はせずに、条件を提示し合う形で和解するよう勧められても、法華宗の指導部はそれを押し切る形で、論争を公認してもらうことになるが、それで大惨敗となってしまった。
思いのほか頼りなかった法華宗の指導部のていたらくぶりに、織田信長は確かにその時は叱責・説教こそした。
ただしそれは内容はともかく、キリスト教との教義競争に備えての、法華宗たちが仏教側の代表格を目指す再統一的な意欲姿勢もあった所は評価していたと思われ、そこもあって寛大な処置がされたと筆者は見ている。
1579 年に行われたこの論争によって、織田信長に直々にこの浄土教である浄土宗(源空派)が高く評価されたことで、同じ浄土教だったが織田氏と対立を続けてきた浄土真宗(親鸞派)が、その様子についに翌 1580 年に正式に織田氏に降伏・和解させるきっかけ作りにもなった所も、重要である。
聖属には慎重だった織田信長としても、この論争を政治利用のためだけに法華宗をただうちのめしっ放しに扱うつもりは、当然なかった。
キリスト教の脅威に不安になっていた者も多かった法華宗に対して、ただちに不利になることはない約束保証が 1582 年に公表される予定を、動揺しないように内々に伝えていたのではないかと、筆者は見ている。
本能寺の変が起きた直前までは、二大教義のようになっていた自力信仰の法華宗と、他力信仰のキリスト教は、変後にどちらの方が困惑していたかでいうと、明らかにキリスト教徒たちの方が困惑している。
一部の不真面目な廷臣たちから見ると、外国宗教であるキリスト教については、日本から追い出したい点で確かにかなり嫌っていた者が多かったが、織田氏のせいとやらで仏教側としての当面の代表格の後釜になるかも知れなかったこの法華宗の方は、もっと問題視していたのではないかと筆者は見ている。
織田信長が「しばらく反省しておれ!」といわんばかりに天台宗(公的教義)を踏み潰し、うちのめっ放しにされ続けてきて以来の廷臣たちの中の反感分子は、織田信長の死後にその肩代わりが明確化してきた羽柴秀吉に対し、少しは反省する形で歩み寄った。
羽柴秀吉としても、廷臣側が天下総無事の意向に合わせてくれるのなら、条件付きで天台宗(公的教義)の再興を便宜・調整しても良いという意向で、廷臣側に合わせる寛大さを見せた。
教義力など身につけたことがない天台宗(公的教義)の存在感など皆無だったのとは真逆だった、他力信仰の浄土真宗とキリスト教徒たちに、羽柴秀吉はその調整のために彼らに厳しくなるが、不受不施(ふじゅふせ)の法華宗に対し、全仏教界の読経会を強制する形で特に厳しさを見せたのも、そこも大きく関係していたのではないかと、筆者は見ている。
天台宗は、以前のような公的教義としての権威まではさすがに便宜される訳がなかったものの、存在感の回復といえる必要限の便宜は、豊臣秀吉に十分にしてもらうことになった。
これまでの織田信長と豊臣秀吉の荀子的独裁制(姿勢狩り)のおかげで、日本の等族議会制(法治国家のあり方=法律のあり方)の敷居も、とりあえず上同士ではだいぶ向上するようになったことが確認(尊重)されながら、豊臣政権から徳川政権への移行時に、孟子的合議制に整理される、すなわち幕藩体制の江戸時代が始まる。
徳川時代になると、豊臣時代にいったん存在感を回復してもらった天台宗も束の間で、廷臣たちへのあてつけのように幕府側は、天台宗に厳しい規制で扱い始める。
幕藩体制が少しずつ整えられていき、江戸中期までには、キリスト教はすっかり摘発が強められるようになり、それまでに仏教側も全て横並びの状態にされたため、その頃からの幕府はどの宗派にも、聖属側(仏教側)には公認も無しに勝手に力をもたせないために、厳しい規制で扱うようになっていた。
しかし幕藩体制の初期では、内々ではキリスト教は、大きな問題さえ起こさなければ大目に見られていて、関ヶ原の戦いで東軍の味方を表明した浄土真宗のことも、徳川家康の内心は好意的に見ていたこともあって、当初はこれらには表向き厳しいだけだった。
しかしやはり法華宗に対しては、徳川政権も当初から厳しめだったのは、これまでの公的教義に代わる仏教側の代表格の座に、法華宗が成りかけていたから、という所に向けられたのではないかと、筆者は見ている。
整理すると
織田時代 天台宗に最も厳しく、敵対した浄土真宗ともやりあったが、裁判権に従いさえすればキリスト教でも何でも寛容で、特に法華宗には寛大だった
豊臣時代 空気同然のしょうもない天台宗を条件付きで回復させてやった一方で、キリスト教にも浄土真宗にも厳しめで、法華宗には特に厳しかった
徳川初期 当初はキリスト教と浄土真宗は大目に見られ、天台宗と法華宗には最初からかなり厳しかった
ただし豊臣秀吉の場合は、風評弁慶(指標乞食)対策の姿勢狩りとして、有力な聖属側に表向き厳しくなった所が重要になる。
それは、キリスト教が強調されていた小西行長と、法華宗が強調されていた加藤清正の、信任の厚かったこれら重役の扱いからでも解るように、権威(指標乞食)優先ではなく教義(育成)優先なら容認という手本を、この2人に請け負わせていたことから窺える。
後述でまた触れるが、豊臣秀吉の時代になって、外国教義を国内に置くことは中止になったことは明らかで、織田政権時代の外国教義の方針(海外との今後の外交対策)は切り替えられていったことが窺える。
織田信長の公認によって確かに、キリスト教が大いに盛り上がるようになったが、日本のそれまでの神道と仏教のあり方と、日本における今後のキリスト教は、どのように位置付けていくのかの発表も、本能寺の変が起きる 1582 年に予定されていたと思われる。
織田氏の領外では、東側ではその 1582 年に武田氏があっけなく織田氏に制圧され、上越方面でも上杉氏の制圧も時間の問題になってきていて、西側では毛利氏が、織田氏からの格下げを防ごうと、手ごわい羽柴勢に必死に抵抗していた。
北陸方面を担当していた柴田勝家、中国方面を担当していた羽柴秀吉の2名と、それに付随していた有力寄騎たちも、厄介な反抗に苦労はしていた。
しかしそんな一方でも織田家中の内々は、織田氏の天下はもう明確になってきたため、皆が少し浮かれたようなソワソワしていた所もあった。
武田氏の信濃・甲斐をあっという間に制圧した 1582 年までには、
織田信忠の指南役の家老格であった河尻秀隆が甲斐まるごと1ヶ国の管理人に
寄騎としてこれまでの力量を認められた毛利秀頼(尾張の元々の代表格であった斯波義銀の弟・しばよしかね)が信濃南部の政局である飯田城主として半国分の管理人に
父の森可成(よしなり)からの功績が認められた森長可(ながよし)が、信濃北部の川中島の広域の、半国分の管理人に
武田氏から織田氏に鞍替えし、武田氏攻略のきっかけを作った新参の木曽義昌が、信濃中部の広域の、半国分の管理人に
柴田勝家の有力寄騎として数々の攻略に功績があった前田利家が、能登1ヶ国の管理人に
同じく柴田勝家の寄騎として活躍が目立っていた佐々成政が、越中半国の管理人に
同じく柴田勝家の寄騎として、飛騨攻略の指令が予定されていた金森長近が、飛騨1ヶ国の管理人となる予定に
蜂屋頼隆が和泉の管理人に
織田信長の参謀役の丹羽長秀が、越前・若狭・近江の一部の広範囲の管理人に
智将で評判の羽柴秀吉が、近江の一部と、播磨とその周辺以西のいったんの管理人に
政治・作戦の多くを立案してきた明智光秀が、近江の一部と丹波を中心に、佐久間信盛に代わって丹後・摂津・大和その他を従える管理人に
戦上手で知られる滝川一益が、伊勢北部と、上野(こうづけ。群馬県)1ヶ国の管理人に
といったように、特に古参の中で、旗本吏僚出身としてこれまで多くの活躍をしてきた者たちの、新政権体制の配置が始まっていた。
今までの荀子的独裁制から、孟子的合議制への確定化の動きに、移行し始めていたことが窺える。
一応は重臣格扱いされていた荒木村重と松永久秀は、その筋たちの枠にとても入れていないことが年々解ってきたため、格上げの面で部下たちにかなりの風当たりを受けていたと思われる。
本能寺の変が起きた 1582 年は、重臣たち、有力寄騎たちに、新時代に向けた身分統制の手配がいよいよ強まり始めた、これまで見込まれて功績を立ててきた者たちが、形としていよいよ報われ始める時期に、なってきていたのである。
それは聖属側(教義側)も同じように、これまで織田氏に評価されたり、良好な協力関係でこれまでやってきた者たち、特に法華宗などはそうした身分再統制の期待に、内心はソワソワしていたのである。
そんな中でそれを盛大にぶち壊すべく、そこをいったん全て白紙にしようとした動きが、最後のうやむや騒動をあえて起こすに至った、歴史的な異変が、明智光秀によるあの本能寺の変だったのである。
明智光秀がどういうつもりだったのか、そもそもどんな存在だったのかなども、順番に説明していきたい。
しかし本能寺の変が起きるまで、当時の人々が織田政権のことをどのように見ていたのか、中央関係者たちの視点、織田家中の視点、各宗派の視点、遠方諸氏たちの視点を把握しておくことも、大事な手かがりになる。
次も、本能寺の変が起きるまでは、どんな様子だったのかについて、引き続き触れていく。