近世日本の身分制社会(082/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか10/? - 2021/10/29
 

今回は、織田信長が美濃攻略の達成になったも同然になっていた 1568 年に、足利将軍家や中央関係者らの要請に応じる形で織田氏が中央進出を果たし、永らく荒れ果て続けた中央の復興事業がついに果たされた頃の様子から、触れていきたい。

公正な旗本吏僚体制・奉行所体制が織田氏には既に作られていたことが立証される形で、織田信長のおかげで 1571 年には、かつての経済都市としての京の姿の活気も、ついに取り戻されることになった。

室町将軍の政局であった二条城も修繕され、朝廷の建物も一新され、常に不足気味の橋や道路を始めとする街道整備の土木建設もどんどん進められていった。

こうして帝都としての京の姿が織田信長のおかげによって、実に100年ぶりに復興が果たされたのである。

この時点でもはや、織田氏が今後の日本の次なる新政権を維持できるだけの立証ができていたも、同然だったといえた。

その様子に、中央との関係も深かった若狭衆が、織田氏への臣従を表明し始め、同じく摂津衆や大和衆の三好派たちも織田派に鞍替えする形で、協調路線を採り始めるようになった。

この時点まで、織田氏の中央進出に反抗した近江南部の六角氏が排撃され、近江南部は代わって織田氏がその支配権を掌握、また美濃攻略の合間にも伊勢攻略も有利に進めていたこともあり

 尾張 ・ 美濃 ・ 近江南部 ・ 山城 ・ 伊勢北部の進出 ・ 若狭衆の家臣化 ・ 和泉衆(堺衆)たちとの協力 ・ 大和衆(松永氏)の織田派表明 ・ 摂津衆(荒木氏)の織田派表明

といった具合に、1569 年に中央進出してから 1571 年までの織田氏はこの時点で、6ヶ国以上の実力(裁判力・家長指令力)はあり、織田派を表明しかねていた近隣も、動揺するようになっていた。

中央近隣のそれまでの有力者たちは、旧態の室町権力の名義に頼ってばかりで勢い任せで増長し合い、表向きの権威の根拠欲しさだけで山城(京)に乗り込み合っていただけだった。

山城の復興(裁判権改め)と朝廷の建て直しという、やるべきこともやらずにただ山城を占拠しただけで天下人の一員になった気になり、それでただ威張り散らしながら周囲を利害的に従わせようとしていただけの何の見通しもない時代も、織田氏によってついに終止符が打たれたのである。

誰もできなかった中央の復興(裁判権改め)を 1571 年についにやられてしまった、その織田氏の裁判力(教義指導力・育成理念・品性規律・旗本吏僚体制)は、ただ中央に乗り込み合い、ただ将軍の擁立合戦をしていただけの今までのいい加減な旧態者らとは、訳が違ったのである。

織田氏が中央を立て直すことになったその少し前には、その今までの繰り返しをやめさせ、まとまりのない中央をついにまとめ始め、再建の希望を見せ始めたのが、剣豪将軍と一目置かれた足利義輝(室町13代将軍)である。

その希望が見えた途端の 1565 年に足利義輝は、反感分子の派閥に暗殺されてしまった。

その希望の足利義輝に同調・支援していた中央関係者らも同じく命を狙われ、京からなんとか逃れた弟の一乗院覚慶(いちじょういん かくけい・出家していた時の足利義昭)と、その一向も同行する形で越前の朝倉氏を頼るが、朝倉義景は中央進出・再建の要請に消極的だった。

当時の朝倉氏は、国土としては大きめだった越前(若狭方面を除く今の福井県)の表向きの一円支配(いちえん。まるごと・全体という意味)を維持し、隣国の加賀や若狭にも権威の幅を効かせ、1万以上の動員力もあったあなどれない勢力ではあった。

ただし、朝倉義景の代の正直な所は、先代以来からの改革的な裁判権改めが進んでいるとはいえず、自国の今までの維持がせいぜいで、織田信長のように中央の復興に出かけるような、よその法の整備までできるだけの体制(指導・指令力)などは、できていなかった。

もし朝倉氏にそれができるのなら、まとまりがない状態が続いて介入していた若狭(若狭武田氏)や、加賀南部に対し、そこでまず強固な支配力を確立できていなければならず、それらにも中央進出のための軍役の強制力(裁判力)を従わせられなければならない話になる。

これはどの諸氏でも同じことがいえる部分として、それができるようになるための尾張再統一を果たし、美濃攻略の過程でもそこをどんどん整備・強化していった織田氏と、その他の諸氏たちとの間で既に、その力量(等族議会制・教義指導力・育成理念・公務公共性改め・常備軍体制)に大きな差ができ始めていた。

織田信長の尾張再統一の時点でそこが既に異例だった、だからこそかつて尾張介入で織田氏と争ってきた今川氏も、それに対抗できるほどの時代刷新の内部整備(駿河・遠江の再統一)ができていなかった今川義元は、尾張のその様子にあせり始めたのである。

内々では時代錯誤の衰退が見え始めてきていた今川義元は、とりあえず織田氏にこれ以上の力をつけさせまいと、時間稼ぎのために慌てて桶狭間の戦いを挑んだのである。

中央近隣には、織田氏のように外に向けて強固な裁判権改めができる有力諸氏が結局いなかった中で、その裁判権改めの別格な高次元の公正さの格の違いを、京の再建という形で 1571 年までにはすっかり、他ではできないことを織田氏ではできることを、世に見せ付ける事態となった。

完全に形だけと化していた室町体制の権威機関は、8代将軍の足利義政時代に起きた応仁の乱をきっかけに、武家政権のあり方(手本家長のあり方)の事実上の教義崩壊を迎えて以後、皇室を奉じる帝都の姿を維持されなければならない中央(京・山城)も、乱の荒廃後には誰も復興させることができない状況が、延々と続いていた。

再興の見通しが一向に見えなかった中で、足利義晴(12代)と足利義輝(13代)の親子がついに再建指導の姿勢を見せ、中央復興の兆しを見せるようになった途端、いつものように不満分子たちが妨害し合って常にうやむやし続けてきたその負の連鎖を、織田信長がついに断ち切ることになった。

織田氏の乗り込みによってついに帝都は復興され、今まではその動きが見られるたびに閉鎖的(非同胞拒絶)な派閥闘争で阻害し合う手口も、織田氏はそれでは簡単には崩れないことを立証した、時代遅れの旧態の劣悪性癖を見事に跳ね返すことになった。

京における民事の訴訟事も、織田氏の旗本吏僚たちの奉行所によって、事情聴収確認・意見書授与・整理・裁量が公正にされるようになり、区画整備と橋と道路の建設もどんどんされていったため、多くの人々も京に集まって商工業や物流業に励むようになり、都市経済の姿もついに取り戻された。(それも、皇室と中央関係者を支える税収特権の大きな回復となった)

その姿自体が、日本が等族議会化(法治国家化)に向かう希望の見通しがついに見えてきた良い意味の異例事態、すなわち新時代を迎えたのも同然だったといえたのである。

織田氏のこの中央再建においては、キリスト教徒との貿易関係を強め、高度な情報力・経済力・自治力を維持するようになっていた、頼もしい堺衆の商人団たちの協力も手伝っていた。

中央復興をやってのけた織田氏の影響は、今まで態度を曖昧にしていた若狭衆(粟屋勝久ら。あわや かつひさ)らや、大和衆(松永久秀)や摂津衆(荒木村重)も、何の見通しもない旧態関係と決別する形で、今後の主導性が見えていた織田氏に臣従せざるを得なくなるほど、大きなものとなっていた。

ここで、その後の本能寺の変の様子の手かがりとなる、織田信長に反感的だった一部の廷臣たちと、足利義昭ら中央関係者らとの確執について、それがどのような対立構図だったのかについて触れていきたい。

まず、織田信長と足利義昭の相互関係はどのようなものだったのかについて今一度、追っていく。

兄の足利義輝が暗殺されて京を脱出した足利義昭は、越前の朝倉氏を頼った際、朝倉義景はその一向(付随していた中央関係者ら)を保護こそしたが、中央進出・再興の要請には全く動こうとせずに消極的だった。

そんな折に 1568 年に美濃攻略を果たしたも同然となって評判になっていた織田氏に、足利義昭はその打診をし、織田氏から了承を得た一向は朝倉氏の越前を引き払い、織田氏の美濃に身を移し、庇護を受けることになった。

この頃、畿内(きない。今の関西方面)で勢力を伸ばし、山城に乗り込んだ三好氏の上層たちだったが、そんな折りに武家の棟梁(武士全体の手本家長)としての権威を回復し始め、人気が出始めていた足利義輝のことを不都合と見なし、暗殺してしまった。

その際に三好氏の上層らの都合で、足利義栄(よしひで)を次代将軍に擁立したことに、足利義昭がそれに反抗し、自身こそが次代将軍だという理由で、織田氏にその支援を要請したという形式が採られた。

足利義晴、足利義輝親子の懸命な権威回復によって、中央再興のきっかけができた矢先に、足利義輝派だった者たち(その中央関係者らと足利義昭)は三好氏に排撃されたために、その流れで中央復興の目的も重視されるようになっていた。

足利義昭に同行して逃れた者たちは、足利家の奉公衆(ほうこうしゅう 室町将軍の側近護衛・親衛隊)の関係者や廷臣たち、またその主従の中央関係者といった、三好氏との派閥的な折り合いが合わずに敵視されて一緒に逃れた、中央の事情に詳しかった者も多かった。

将軍の弟の要請として、また京の都市経済と朝廷の再興(皇室の救済)の目的も重視された名目(誓願)による、織田氏の中央進出の連絡に、当初は近江北部の浅井氏は、織田氏が美濃と山城を行き来することを妨害しない協約が結ばれ、越前の朝倉氏も当初はその妨害には動かなかった。

しかし近江南部の六角氏はその阻止に動いたため、織田氏は近江南部の六角氏攻略に乗り出すが、まとまりが欠けていた六角氏は短時間で大幅に攻略されることになった。

これで美濃と山城との交通網を素早く確保することができた織田氏は、すぐさま山城に進出した。

すると、権威利害で山城に偉そうに居座っていただけで、命がけで山城を守ろうとする訳がないような三好派のいい加減な連中は、再興の具体的な名目(誓願)をもって乗り込んできた織田氏にあっという間に排撃される形で、山城も早急に織田氏に攻略された。

ここで山城(京)の復興と、それを結ばせる織田領における街道整備のための労働者の大動員が、美濃・尾張・近江南部で行われたため、大きな賑わいを見せた。

朝廷の建物も、室町政権の政局であった二条城も、これまでろくに修繕されることがなかったものも、織田氏の手配によって全て立派なものに再建されていき、織田氏のおかげで二条城に返り咲くことになった足利義昭の鼻も高かった。

寺社と廷臣たちの荘園特権(政治力のためのものは廃止されたが、中央の有徳の領地特権としては残っていた)のはずであった山城の税収領地を、今まで不当に奪い合って勝手に占拠し合っていた風潮も、織田氏の裁判権改めによってついに許されなくなり、従わなければ手厳しい討伐が行われた。

横領が続いた山城の荘園特権も、織田氏の公認によって公正に再手配される形で、京の寺社と廷臣たちの生活権も取り戻されることになった。

廷臣たちは本来は、寺社と自分たちを支えるため、ひいては皇室を支えるための山城の荘園特権を、勝手に奪い合うことなどさせないためにも、時代に合った院政の再統一(国際性ある議決性の整備)に務めなければならなかった所が全くできていなかった所も、もはや織田信長に手入れしてもらわなければどうにもならない、末期症状だったのである。

これは本来は廷臣たちが

 「世俗側(武家側)は、ひいては皇室を支えるために神域扱いされている、伝統ある荘園領域にまで踏み込むでない!」

 「争うなら和解の理念を前提に、その神域に誓願書を提出した上で、その神域外で争え! 不遜であるぞ!」


と説教・恫喝しながら、争いの内容を吟味しながら、各地の騒乱への和解の道の斡旋にも務め、それができなくなっていた原因になっていた地方の閉鎖有徳の風潮についても改めさせていく、その手本指導を廷臣たちも示さなければならなかったはずなのである。

しかし比叡山・延暦寺(天台宗・公的教義)を見れば一目瞭然として、当事者性(人文性=自力信仰・道義狩り : 啓蒙性=他力信仰・敷居姿勢狩り)の最低限の区別整理(国際性ある議決性の組織構想=品性規律)などできたことがない、今の公的教義と大差ない低次元同士の集まりが、そんな教義力などもち合わせている訳がない。

そこに向けての中央(政権)のあり方としての議決性の再統一(等族議会制の構築=育成理念の構築=国家構想)というものが、延暦寺(公的教義・天台宗)は論外とし、いい加減な中央関係者を恫喝しながら再興を目指した兄の足利義輝のように、弟の足利義昭もそれができるのか怪しかった。

足利義昭は織田信長に、室町将軍の副将軍に就任することを打診し、廷臣たちも同じように高位の官職の任官を打診し、将軍の臣下として、朝廷の臣下としての典礼を織田氏に採らせ、従わせようとしたが、織田信長はまだその時期ではないと共に見送る態度を採った。

前者もそうだが特に後者は、廷臣たちが主体性(国際性・議決性)をもって院政の再統一をしながら、様々な事態を正常化・健全化させていくための整備など、自分たちで全くできていない低次元な集まりの合格(任官・戴冠式)などを受けても、ろくなことにならない所か、むしろ禍根の原因でしかないのである。

自分たちで課題を収拾し、整備・健全化していけるといえるような議会制の姿などろくに作れてこれなかった、今の公的教義と大差ないだらしない廷臣たちが、だからこそ気まずい自分たちの存在感を維持したいばかりに、今後の法治国家化のことなどよりも織田氏を懐柔し、自分たちの思惑通りに国事を動かしたいばかりなっていた。

そんなことばかりに一生懸命の、外圧に振り回され合うばかりの戦国前期から思考停止したままの、そこに何ら反省・教訓など見られない一部の中央関係者らの姿に、織田信長はかなりあきれた。

日本全体の今後のあり方に、中央関係者の皆が等族議会的に向き合っていかなければならない時期になってきていた 1571 年頃、織田信長と中央関係者との間の、それまでの協調路線も決裂の形となって現れ始めたのが、大和の松永久秀を巡る件だったといえる。

何度か先述してきたこの、大和の表向きの代表格の地位に居座っていた松永久秀について今一度、ざっと概要を説明する。

まず、この大和の支配代理の前任者というのが、中央の覇権を巡ってかつて権威を誇っていた畠山氏の、その有力家臣であった木沢長政の存在が、後任の松永久秀の立場に影響を与えていた。。

この木沢長政のことも少し先述したが、戦国前期を代表するような典型的な、乱暴な策士だったことで知られる。

かつて有力視されていた紀伊・河内支配の畠山氏の、その家政の実権を握って辣腕を振るっていたが、畠山氏のもうひとつの有力勢力であった遊佐信教(ゆさ のぶのり)と対立し、乱暴な手口ばかり用い続けたことで支持を急速に失っていき、自滅した口になる。

大和における世俗側の表向きの代表格(木沢長政)が自滅し、大和で混乱が起こしていた所に、一時的に権勢を広げていた三好氏の、その有力家臣の松永久秀の軍団が、大和のその混乱に乗り込む形になる。

この松永軍団の大和への乗り込みは、裁判権改めというよりも、力任せの木沢長政の後釜としての居座り方だった。

松永久秀は大和支配において、前支配代理の木沢長政ほどではないにしても、そのやり口もいくらか踏襲したため、だからこの松永久秀も策士の印象がつくようになった。

そのように畿内で、どこも中途半端なまとまりの勢い任せの支配権の争奪が繰り返されていたのを、深刻に見るようなっていた足利義輝が、中央再興に躍起になったため、各地の有力諸氏の間でも人気が出るようになって、武家の棟梁としての本来の足利家の権威が回復し始める事態となった。

中央を一時的に席巻するようになっていた三好氏の上層たちが、その足利義輝を盛り立てようとせずに、それをむしろ不都合と扱って暗殺してしまったために、遠方諸氏もがっかりした。

 

この暗殺は、策士の印象が強かった松永久秀が首謀者だと、強い風評が立つことになった。

松永久秀を含める三好氏の上層たちと、一部の不真面目な中央関係者らが反足利義輝派として結託し、暗殺が実行されてしまったのは間違いないが、ただし松永久秀の主導であったかどうかについては判然としていない。

しかし 1565 年に足利義輝が暗殺されてから、1571 年に織田信長が中央を復興させるまで、その強い風評はずっと立ち続けていた。

その松永久秀が、織田氏の中央再興の影響力を考慮して、三好派から織田派に鞍替えし、以後は織田氏の軍役に臣従したいと願い出てきたため、織田信長は受け入れた。

そのやりとりに対して足利義昭が、その風評を理由に兄の仇討ちとして織田信長に大和松永氏を討伐させたがっていたのを、織田信長が拒否する形でそれを受け入れたため、悪化し始めていた両者間の対立もここから加速していった。

織田信長がその意向を拒否した理由はいくつかある。

この対立を機に足利義昭は

 

 「本来の源氏の棟梁筋(武家の棟梁筋)である足利家が、武家の中央政局である二条城から発令しているのだ」

 

という所を強気に強調し始め、織田氏と連携など採らずに権威を発給するようになったために、中央では足利家筋の指令と織田家筋の指令とで急に、混乱するようになった。

中央再建までは、先代の足利義輝公の無念も考慮し、未知数だった足利義昭を支援する形を織田信長は採ってきたが、ただし名目(主体性)はまずはそこまでと見ていて、それ以後のことは織田家に相談してもらわないと困るという姿勢だった。

松永久秀のことで不満をもった足利義昭が、それまで多大に支援してもらった織田家との関係と決別するように、そこに開き直るように

 「人の力で二条城(室町政局)を再建してもらってそこに返り咲こうが、現に二条城の将軍(武家の棟梁)が指令している」

という理屈で、足利義昭は強気に出るようになった。

そうして織田家を無視する形で、二条城の足利家の指令に政治力がある事例作りに躍起になり始めたために、織田信長はその抗議文書を足利義昭に送りつけた。

 「織田氏への相談(等族議会的な意見提出のし合い)も無しに指令を続けるようなら、空気扱い(格下げ)する」

という恫喝の条件書状を送りつけ、要するにしばらく静かにするよう通達したため、足利義昭もますますムキになった。

少し先述したが、豊臣秀吉にも引き継がれた重要政策のひとつとして織田信長は、風評弁慶対策のためにあえて、許容したというのがある。

当時の松永久秀は、世間でも

 「有望だった義輝公は、策士の松永久秀に邪魔者扱いされて、その差し金で暗殺されたに違いない」

 「だから、二条城に返り咲いたその弟の義昭公による仇討ちの要請によって、討伐されるに違いない」


という風評ばかり強まっていた。

織田氏の等族議会制として重視していたひとつに、どれだけ正しそうな風評が強まったとしても、それが通るとは限らないことを示していく工夫されていったのが、特徴的になる。

もちろんそれによって、人々が意欲や希望を失っていたことに、意欲や希望をもてるようになるようなものなのであれば、許容・公認されることも当然あった。

ただしその部分と大して関係ないような、上が決めることに下・世間の風評が強く立ったというだけで、その風評を優先したかのような議決・判決がされたかのような見方がされてしまうと、人々をむしろ低次元化(不健全化)させていってしまう原因になることが、この時にも配慮されたのである。(裁判権・等族議会制への向き合い方の問題)

つまり、風評(人文的・啓蒙的に意見整理・提出・裁量されていく確認・尊重など何もされていない共有認識)に議決性があるかのような前例を作ってしまうと、誰もろくに議決性(民権言論の最低限の確認・整理・提出・裁量の示し合い)を重視しなくなり、ただの外圧任せの風評(ただ人任せなだけの猿知恵)通りにならないことに怒りの押し付け合いを始め、それでうちのめし合い従わせ合い始める、戦国前期の巻き戻りの低次元化の原因への、対策なのである。(劣情統制化=退化問題)

 「そうまでして納得がいかないことがあるのなら、まずはその言い分に人文性・啓蒙性あるといえるような、国際的な議決性に繋がるといえるような誓願書として、確認・整理・提出することから始めよ」

 「公認してもらいたいことがあるのなら、人々への希望や意欲の手本となる活躍を見せたり、それだけの誓願書の提出がされる、最低限の手本礼儀の示し合いが見られるのなら、上もそれに応じて公正に裁量する等族義務を果たす」

という互いの民権的な品性規律(手本家長のあり方=裁判権のあり方)の確認(尊重)のし合いによって、人々を等族議会化(法の整備=法治国家化)に向かわせていく意識改革も、していかなければならないのである。

次に、尾張・美濃時代までの古参筋と、近江・山城以降の新参筋とで、新参筋たちの織田氏への臣従の表明にはできるだけ寛大に許容し、不慣れな分だけ長めに大目に見てやる姿勢を示しておくことで、織田氏の裁判権に早めに従いやすくすることも、この松永久秀の投降の際に考慮された。

古参筋にはかなり厳しかったのは、

 「先に織田政権のことを体験して優遇されている古参たちは、ただ古参の優位性を維持するために新参たちの意欲を奪う存在に成り下がっていいはずがなく、倍の手本を示す存在として新参にその姿勢に続かせる存在になっていて当然

 「古参を上回る最低限の手本の示し合いができている新参が、古参を追い抜く体制になっていて当然、良い所は古参も新参も健全に見習い合う体制になっていて当然

現代でもありがちな、敷居向上(衰退防止)の示し合いなど見られないような、ただの古参主義で新参たちを気絶(思考停止・刷新停止)させ合い失望させ合う偽善権力を敷くことしか能がない、ただ下品で汚らしいだけの今の公的教義と大差ない劣悪姿勢化(低次元化)への対策でもある。

現代においては、直接的または間接的(共通点的・関心的)な道義関係(契約主従の身や関連業者の身など)があってのことなら、それがただ「古参(年上・先輩)のやっていることを尊重しろ、歩調を合わせろ」のみだったとしても、そこに多少の人道の疑問はあったとしても、それ自体は各所の勝手自由な話となる。

ただしそこの道義体制と直接関係などない、その外の相手に対して「相手のこと、皆のことを考えていない」といった態度を強く向ける以上は、その最低限の手本礼儀(民権言論の自己等族統制)の示し合いがされることが、人として当然の国際人道観(国会議事堂の元々の目的=国際性ある議決性=等族義務)といえる。

間違いや押し付けがどうであろうが、裁判権(法=品性規律・育成理念)の基本中の基本といえる、和解条件(当事者本人にとっての終結点)の線引き・裁量も自分でできないケンカの売り方しかしてこれなかった、自身の言い分を自身で収拾してこれたことがない、公的教義と大差ないだらしない分際(偽善者)こそ、引っこんでおれという話である。

「尊重しろ、歩調を合わせろ」を外に向けるだけの、当事者性(人文性と啓蒙性が整理されるような議決性)ある最低限のより良い手本の示し合いを強調し合う維持(育成理念ある品性規律)に努めているかどうかが、荀子・韓非子的独裁制(最低限の敷居の向上=手本家長の示し合い)の改革重視の期間においては、されて当然なのである。

自分の所の裁判権改め(国際人道観改め・品性規律改め・公務公共性改め)の最低限の手本礼儀の示し合いの初歩(姿勢狩り・教義狩り)もできたことがない、公的教義と大差ないだらしない集まりが、よその裁判権改め(敷居向上・衰退防止の指導)ができる訳がない。

それによる閉鎖闘争(ただの正しさの乱立の、ただの価値観争い)を止めさせる器量(手本家長といえるような教義指導力の恫喝)ある地方全体・日本全体の代表格(指標)もはっきりさせられない中で、今後に向けた等族社会化(法治国家化)のための国内再統一などできる訳がないのである。

そこが日本でも西洋でも(人類史的に世界的にも)不足していたから、等族社会化(法治国家化)が遅々として進まずに、それを巡るための裁判権争い(教義競争)もできていなかった、15世紀末・中世末期までの不健全な争いが繰り返された原因として、16世紀に大いに反省された所になる。

日本では戦国後期の突入期(織田信秀・武田信虎・長尾景為らの時代)が、等族議会制(武家法典・分国法・手本家長のあり方)による一新が自覚され始め、その仕切り直しがいよいよ始まる転換期となった。

その改革(裁判法の仕切り直し=等族議会制)を大前提に中央をすっかり復興させた 1571 年の織田政権の裁判権(最低限の敷居)こそが、今後の日本の等族議会制(法治国家)における主導であることも、明確化し始めるようになった。

それはすなわち、その最低限の敷居に見合わない地方の有力者らは当然のこととして格下げされながら、その旗本吏僚体制の中に全て再収容(再家臣化)され、それに組み込まれる国内再統一の見通しが、明確化し始めてきたことを意味する。

それは地方の有力者たちだけの話でない、皇室を支えなけばならない廷臣たちも含めた室町権力の中央関係者も、全ての聖属機関(地方各地の有力寺社)も、全てがその織田政権の裁判権(最低限の敷居)の対象となることを、意味するのである。

その今後も巡っての、織田信長と足利義昭の対立であり、もし足利義昭の当時の室町権威の姿勢が表向きだけに留められ、織田氏との力量差を認識してそれに協力する姿勢でいたなら、織田信長としても足利義昭の姿勢を評価し、のち播磨や信濃ほどの大国1ヶ国ほどの家格に据え、権威的な役職も授与していたかも知れない。

しかし足利義昭が織田信長に出た態度は、織田政権を基準とする国内再統一を否定する形で、室町将軍を基準とする国内再統一という表向きで、反織田派を呼びかけるに至った。

この時に確かに、反織田派に組した有力諸氏も多く、最初だけは威勢よく織田氏に一斉に噛み付くことこそできたが、足利義昭に国内再統一ができるだけの裁判権改めなどできる訳がなかった時点で長続きする訳がない、その面で最初から無理があった、苦し紛れの反抗運動だったといえる。

この時点でそもそも室町権威は、まず越前と尾張の斯波氏(しば。足利一族)が、地方行政権威を失い、その最有力家臣であった朝倉氏、織田氏が代わってそれぞれ代表格として支配(行政権威を代行)するようになっていたのである。

また、室町権威の筋である駿河・遠江の今川氏(足利一族)も、近江南部の六角氏(室町権威の上層のひとつ)も、その織田氏にろくに対抗もできずに、失墜していったのである。

中央の廷臣たちと寺社の荘園(しょうえん。聖属側の領地特権)、また足利氏の本部を支える奉公衆(親衛隊)らの公領のあった、まず山城の再統一(裁判権改め)もできるかどうかも怪しかった足利義昭がした訳ではなく、織田氏によってされたのである。

足利義昭が京から逃れた時に、諸氏に中央進出・再興の呼びかけるも、それに応じることができた、すなわちそれが当時可能だったのは織田氏くらいだった。

室町権威としての、近江北部における元々の代表格であった京極氏(六角氏の親類の佐々木源氏一族)も、その有力家臣であった浅井氏に代表格の座をすっかり奪われ、近江北部における室町権威(京極氏による指揮権発動)など皆無になっていた。

関東管領(かんれい。室町権威における関東全体の代表格)のはずであった上杉氏が、北条氏によって関東を追い出される形で越後に逃れ、上杉氏の最有力家臣として越後をどうにかまとめていた長尾氏に、やっていけなくなった上杉家の名跡を継承させた有様だった。(長尾景虎 → 改名後 → 上杉謙信)

室町権威としての播磨の代表格であった赤松氏も、播磨・備前(兵庫県・岡山県)を長らくまとめきれずにいた中で、その最有力家臣であった浦上氏が赤松氏の権威を上回り始め、その浦上氏ものちにその最有力家臣として台頭した宇喜多氏に備前の代表格の座を奪われるという刷新が続いた。

室町権威の能登畠山氏も、かつて能登(石川県北部)と越中(富山県)をまとめていた大手だったが、重臣たちの派閥闘争を収拾できなくなっていき、ろくにまとめられなくなっていた。

そのように、1571 年時点の室町権威は、旧式なままではその建て直し自体がどこもほぼ不可能になってきた中での、足利義昭の表向きの室町権威による反織田連合の呼びかけだったのである。

当時はそれに呼応した有力諸氏も確かに多かったものの、ただし室町権威の再建のための呼びかけの結束などではなかった、そこがそもそも苦し紛れのものであったのが実情である。

それは、織田氏の裁判権の最低限の敷居に結局ついていけてなかったことで、誰もが織田氏の旗本(武家屋敷)の収容対象という、格下げ必至が見えていた、その気まずさからの時間稼ぎのための場凌ぎ利害で一時的に一致したに過ぎず、その他の団結の根幹(名目・誓願)など極めて曖昧な反連合運動である。

足利義昭の呼びかけは、織田氏に対抗できるような法治国家化(等族社会化)の政体構築が目指された呼びかけだった訳でもなんでもない、織田氏による日本総偽善制裁(落ち度狩り一辺倒しか能がない連中の、姿勢狩りによる総格下げ)の気まずさで、反抗に加わったに過ぎない。

織田氏に認めてもらって協調路線が採れるほどの、その最低限の敷居に見合うような地方再統一などできていなかった、織田氏の基準に追いついておらずに大幅な格下げも必至になった集まりが、その等族社会化(法治国家化)の確定を遅らせる時間稼ぎのために、織田氏に一斉に噛み付いたに過ぎないのである。

それまでの中央関係者の中には、何かあるごとに「あいつらのせいで今の自分はこんな悪い環境なのだ」「そんなことは誰もできる訳がない」と言い訳し合ってきただけのいい加減な者も少なくなかった、すなわち

 ただ気絶(思考停止・更新停止)し合い、ただ疲弊し合い、ただ失望し合うためだけの世の中の正しさとやらの歩調に合わせない者を、うちのめし合い従わせ合うのみ

しか能がない、今の公的教義と大差ないただ下品で汚らしいだけのだらしない一部の中央関係者どもは、それを織田氏の旗本吏僚体制によってその劣悪姿勢がついに完全否定される形で、あるべき行政手本を見せ付けられてしまう事態となった。

それは、今まで信じて合ってきた世の中の正しさとやらの低次元な猿知恵(ただの劣情統制)に過ぎないその言い訳が、もはや通用しない織田氏の最低限の敷居(等族議会制=法治国家体制)と、今後どう向き合っていくのかの表明化(その敷居の議決性による歩調)が、求められるようになったことを意味する。

それで反感的になった足利義昭にしても、一部の廷臣たちにしても、織田信長はそれら中央関係者には先手で討ち入りする形で粛清しようと思えば、いくらでもできたのをあえてやらなかった。

その最低限の敷居の恫喝(高次元化)に耐えられずに、いつもの手口でそこをうやむやにしようと騒ぎ始める無能(偽善者)をあぶり出して選別し、姿勢狩り(教義狩り)で順番に制裁していった所が、織田信長らしいやり方だったといえるが、ここも今まで注視されてこなかった所になる。

戦国前期までの、ただの偉そうな偽善権力を敷き、ただ落ち度狩りでうちのめすことしか能がない、上の不都合で下をただ押さえつけるだけの非国際的な時代遅れのやり方の繰り返しが、織田政権によってついに完全否定される大前例が示されたのである。

すなわち、現代における裁判法の原点ともいえる、

 確認・整理・提出・回収・裁量・公判裁定(事例尊重)という、法治国家(等族議会制)としての最低限の品性規律の手順

を守ろうとしている高次元側なのか、それともそれを基準に争えば化けの皮が剥がれるのみだから、それをうやむやにしようと

 今まで通り気絶(思考停止・更新停止)し合い、疲弊し合い、失望し合うのみの低次元同士のままであり続ける歩調を強要し合うために、うちのめし合い従わせ合う

 それによって、人の上に立つ資格(人を否定する資格)などない者が、いつまでも人の上に立ち続けようとする(人を否定し続けようとする)虚像を維持し続けようとする


今の公的教義と大差ない後者の低次元どもがついに、裁判法(等族議会制)の最低限の手順(=国際的な法治国家としての本来の品性規律)の姿勢を普段から守ろうとしない、その姿勢狩り(教義狩り)で裁かれるようになる等族社会化(法治国家化)が始まった、歴史的な転換期を、16世紀に迎えたのである。

それができてない低次元同士が、それができている高次元側の公認も無しに、身の程知らずにも否定し合おうとすること自体がもはや許されなくなる等族社会化(法治国家化)の改革による、大幅なその敷居向上を今後の日本のためにしておいてくれたのが、織田信長の大偉業なのである。

これは現代においても、裁判であろうがなかろうが、品性規律・公正性・自治性などの話である以上はその裁判法の原点手順(確認・整理・提出・回収・裁量・公判裁定)を、普段から重視・尊重しようとしている高次元側なのか、それともそれを認識するだけの知能など皆無な公的教義と大差ない低次元同士の集まりなのかが、品格の分かれ目なのである。

普段からそこを疑い見抜くこともできていない、いい加減な集まりが、

 姿勢狩り(等族議決性=裁判法の品性規律の手順=公正な育成理念/目的構築の確認)ができている者によって落ち度狩り(道義狩り)がされる、すなわち高次元化させられる姿勢

なのか、それとも

 姿勢狩り(等族議決性=裁判法の品性規律の手順=公正な育成理念/目的構築の確認)ができたことがない身の程知らすが、ただ面倒がりながらただ偉そうに落ち度狩り(道義狩り)だけで優位に立とうする、低次元同士のままであり続けようとする劣悪姿勢

なのか、ただ上(古参・自分たち)に甘く、ただ下(新参・外)に厳しいばかりの公的教義と大差ない集まりが、ここを疑い見抜く区別整理などしてこれた訳がないのである。

その最低限の欠落は、末期症状(ただの猿知恵)を末期症状(ただの猿知恵)だと反省・自覚(自己等族統制)もろくにできたことがないのと同じ、荀子的独裁制(原因究明範囲・借方的)孟子的合議制(共和範囲・貸方的)の相互関係(当事者性・育成理念)を公正に見ようとする訳がないのと同じである。

話は戻り、織田信長から見て、一部の不真面目な廷臣たちを問題児扱いするようになった決定的な理由について、ここで触れておきたい。

まず 1568 年に美濃攻略を果たしたも同然になった頃に、各地だけでなくキリスト教徒たちの間でも評判になっていた織田氏に、足利義昭は頼ることになり、それに付随してきた中央関係者らに対しても、織田信長は当然のこととして、そういう所の内心の疑いの目も緩めずに、彼らの中央再建の要請に応じることにした。

この時点では織田信長は、頼ってきた彼らの、今まで自分たちで中央を立て直すことができなかった、それについて等族責任をもって反省ができているといえるような姿勢も見られるなら、当然のこととしてそこは評価しながら支援するつもりでいた。

ところが実際に織田氏に、見事なまでに中央を大再生されてしまい、公正な旗本吏僚体制を見せ付けられてしまうと、低次元どもの猿知恵など全てふっとばされ、すなわち彼らがしがみついてきた階級の正しさとやらの立場など微塵も無くなると、今までの劣悪姿勢の化けの皮がどんどん剥がれるようになっていった。

要するに、国内外の外交機関としての朝廷を維持し得ず、皇室保護の最低限もしてこれなかったにも拘わらず、織田氏に立て直されてしまった後になって

 

 「我々でやろうとしていたのに、織田氏に勝手にされてしまった」

 

かのような今の公的教義と大差ないような低次元どもの、できたことがないことのそういうごね方をし始める無神経(無計画)な集まりとは

 自分たちの議決性のあり方の、その向き合い方に問題があった、自分たち課題(自己等族統制)に向き合おうともしない

 

 この後に及んでまだ、そこを時代遅れの虚像権威(猿知恵)の手口で、ただ気絶(思考停止・更新停止)し合い、ただ疲弊し合い、ただ失望し合うのみになるように、人のせいにし合ってうやむやにしようとする

その愚かさを何ら反省・自覚(自己等族統制)などしてこれていない、人の上に立つべき資格(仲裁・調停できるだけの等族議会的な品性規律)などない、そこを普段から疑い見抜くことなどしてこれたことがない劣悪姿勢ばかり見せるようになった。

「やはり」のこうした一部の不真面目な廷臣たちに、織田信長はそもそも以前から問題視して疑って構えていた題材が既にあった。

それは何かというと、少し先述したこととして、中央崩壊後の廷臣たちが、各地に下向(げこう。首都の高官が地方に出向くこと)し始めたあの文化活動の、今までのその姿勢についてである。

 

まず応仁の乱以降、中央に一向にまとまりが見せられずに、廷臣たちや寺社の荘園特権の奪い合いの横領も改革・再統一されなかったことで、皇室や廷臣たちの貧窮も、長引いていた。

 

そんな折りに戦国後期の突入期を迎えると、地方では等族議会制(分国法・武家法典=手本家長のあり方)が自覚され始めて、地方再統一が顕著になり始めた。(尾張の織田信秀、甲斐の武田信虎、越後の長尾景為ら)

 

その社会現象は、国際組織的な品性規律による格式意識の高まりから、各地で禅の思想の見直しによる茶道の作法や、外交様式の典礼作法といった、日本の文化的な様式を、地方組織も導入しようとする向きも、強まるようになっていた。

 

そうした日本の伝統文化の礼式の専門家でもある廷臣たちは、地方をまとめ始めるようになった群雄たちのもとに下向するようになり、その指導の見返りとして、貧窮していた廷臣たちの生活権を支えてもらうようになった、までは良かった。

 

ところが、織田信長からいわせればこの廷臣どもは、地方で力をつけた群雄たちと蜜月な関係になってそこに入りびたるばかりで、その関係を元手に今一度、中央再興に向けての国際的な議決性の整備もしながら、皇室を具体的に支えさせなければならない所には、ろくに取り組むこともができていなかった、そこを内心問題視していたのである。

 

それが特に顕著だったのが、周防・長門(すおう。ながと。山口県)の大内氏と、越前の朝倉氏で、彼らは廷臣たちの協力を得て、京とそっくりな文化都市を地元で形成することばかりに熱心になった。

 

地方都市の商業力と中央文化力の規模が競われるようになり、多くの人々もそこに集まるようになったため、長門(山口県)や越前(福井県)の都市開発にこの上ない賑やかさと華やかさを見せるようになり、来日したばかりのキリスト教徒たちも、この大内氏が築いた文化的な大都市を訪問している。

 

大内義隆朝倉義景も、まるで中央(京)不要論であるかのような、自分たちが築いた地元の文化都市こそが中央(京)に代わる、今後の日本の中心地であるかのように誇らしげになるばかりで、この傾向は今川義元にも見られる。

 

中央で皇室が貧窮して苦しんでいるというのに、これらは「だったら我々の文化都市に廷臣たちがどんどん下向すれば良いのであり、それだったら貧窮している中央関係者たちを支援する」という足元を見た態度ばかり出していたのである。

 

地方を先駆けでどうにか再統一できていた大内氏や朝倉氏に、廷臣たちが中央を再興するように説き伏せることは簡単ではないことは確かだが、しかしそこは本来は廷臣たちが等族責任を請け負って努力するべき部分なのである。

 

廷臣たちが「そこは努力してきたものの、残念ながらそれに至らずに、我らとしても等族責任を感じている所です」という、健全に悔やむ姿勢も見られるのなら、織田信長としても「それだったら」と共同的に支援するつもりでいた。

 

織田信長が中央に乗り込んで再建を見事に果たすと、そういう姿勢をもっていた有志の中央関係者と、「我々のせいではない」ばかりで何ら反省・自覚しようともしない、人の上に立つ資格(善悪を判断する資格・任官する資格)などない、時代遅れの閉鎖的な虚像権威の劣悪姿勢ばかり見せ続ける中央関係者とで、そこが織田氏にあぶり出される形ではっきりするようになっていた。

 

織田氏の記録によく出てくる、松井夕閑(ゆうかん)や楠木正虎(まさとら)といった有志の中央関係者たちの抜擢人事はまさに、その様子が窺える所になる。

 

こうした有志たちが織田信長から信任を受け、中央行政の権限を任されるようになっていったため、彼らも「これでやっと中央を立て直せる」と懸命に努め、彼らの人脈が活かされる形で皇室が貧窮しないように、不正がないように信用できる者同士で連絡をとりながら、織田氏の旗本吏僚たちと協力しながら、本来の中央の姿が支えられるようになったのである。

 

織田政権によって、こうした有能な中央関係者と、いい加減な無能(偽善者)の集まりの中央関係者の公正化の選別が始まり、口ほどにもない後者はどんどん窓際族扱いされていった。

 

つまり、虚像権威の歩調の合わせ合いで足を引っ張り続けていた、当時の延暦寺(天台宗・公的教義の総本山)の劣悪姿勢そのものの後者どもがついに、中央行政のことを口出しできなくする等族体制(議会制・議決性)が、織田氏にもち込まれてしまったのである。

 

先代将軍であった、実質の室町最後の希望だった足利義輝も、織田信長と同様にそこを問題視するようになり、父の足利義晴のその志を引き継ぐ形で、いい加減な中央関係者を恫喝し始めるようになった姿勢が、足利義昭とは全く違ったのである。

 

当時できることなど限られていたにも拘わらずの足利義輝が、本来の武家の棟梁(手本家長)として姿勢を見せ付け始め、諸氏を納得させ始めて人気が出るようになったその矢先に、いつもの定番のうやむや騒ぎが始まり、暗殺されてしまったのである。

 

その構図こそが、戦国後期にそこを等族議会的に地方再統一し切れた所と、それをし切れなかった所とでの、自分たちのあるべき代表格の選任力の、地方全体としての品性規律の組織理念の敷居の差として、そのまま列強と弱小の差となった所とも、いえるのである。

 

しかし中央で今度こそ、それをさせない構えで乗り込んだのが、尾張・美濃の再統一までにも旗本吏僚体制をどんどん強化させていた織田信長だったのであり、その強固な新時代体制(法治国家化の育成理念)の前に、いい加減な中央関係者らのいつもの猿知恵の偽善手口など、何ら歯が立たないその白黒も、はっきりさせられてしまったのである。

 

織田氏の最低限の敷居についていけずに、格下げ必至に追い込まれた足利義昭側の不満分子の苦し紛れから発展したのが、織田包囲網と呼ばれた、1572 年頃にいよいよ顕著になった、反織田連合の厄介な一斉の噛みつきだったのである。

 

この反織田連合の構図自体が、反抗側のだらしなさがそのまま表れているといえる。

 

もはや名ばかりの室町将軍の足利義昭を発起人とし、その肩代わりの代理代表が武田氏で、実質の反抗の主体が浄土真宗(本願寺)という、この構図自体が最初からチグハグなのである。

 

格下げ必至の時間稼ぎのためにその反抗に加わったに過ぎない連中はまず、その中の一体誰が、本気になって足利義昭を中心とする、室町政権再興の支援などしようとしていたのか。

 

聖属裁判権か世俗裁判権かを巡って織田氏と対立した、その抵抗の最有力であった浄土真宗が頼られる傾向も強かった部分にしても、だったらそれに頼った連中は、一貫して聖属裁判権を中心とする政権樹立を掲げる気があったのか。

 

そして表向きの反連合の肩代わりの代表代理である武田氏にしても、三すくみで永らく対立し続けてきた上杉氏や北条氏を大幅に抑え込むこともできていない、東国を大幅に従えている訳でもない武田氏に、皆が新政権の代表代理として仰ぐ気があったのか。

 

その反連合が、誰の名義の荀子的独裁制(改革目的)の裁判権(指令力)によって一貫しているのか、それが足利義昭なのか、武田信玄なのか、それとも浄土真宗の顕如なのか、そこを等族議会的にはっきりされられないような烏合の衆が、最初だけは不都合利害だけで勢いよく織田氏に噛みつくことはできたとしても、その団結が3年ももつのか最初から怪しいといえる。

 

1574 年までにはその一斉の勢いも停滞し、1575 年には長篠の戦いで武田氏がいよいよ派手に粉砕され、1577 年頃には包囲線で浄土真宗の動きを封じられるようになると、上から順番に全国に向けられる織田氏の最低限の敷居による身分再統制(等族議会制)も、いよいよ時間の問題となってきていた。

 

織田信長と織田家中も、反連合にはかなり厄介な思いこそさせられたものの、刷新期には定番のように起きるうやむやにするためのいつもの騒ぎ合いの大規模化である、この反織田連合も見事に跳ね返す形で、見事に制したのである。

 

そして本能寺の変もまさに、この「うやむやにするたのいつもの騒ぎ合い」の延長線上のものといえるが、まずこの流れが理解できていないと、こちらのややこしい事情も全く理解できなくなる所になる。(順番に後述していく)

 

室町政権の再興にしても、新政権の発足にしても、反連合に加担した側は、そのあり方の主体性(人文性・啓蒙性)を巡って織田氏と争ったのではなく、織田氏による等族社会化(法治国家化・高次元化)の最低限の敷居(手本家長のあり方)が確定されてしまうと、それに追いついていない者たちが全て格下げされることが目に見えていたから、その時間稼ぎの往生際の悪さで反抗していただけなのである。

 

1574 年に織田氏に越前に侵攻された朝倉氏は、単独では抵抗し切れずにあっけなく総崩れを起こし、消滅されられることになる。

 

織田信長はこの時に、朝倉氏がこれまで一乗谷で築いてきた、自慢の京風の大都市の存在を公認せずに、不真面目な一部の廷臣たちの偽善権威の温床と見なし、あてつけのようにそれを徹底破壊している。

 

足利義昭の反織田連合の運動が盛んだった時期に、それまで中央近隣で織田氏にいったんは臣従した有力者の中には、織田氏の勢いにただ便乗して自身を格上げすることしか考えていなかったいい加減な連中も当然おり、その最低限の敷居についていけずに格下げの対象にされ始めた後になって「自分たちは足利家の家臣」と言い張り始めて離反した者たちも少なくなった。

 

そういう連中というのは、足利義昭を本気で奉じようとしてそうした態度を示した訳でもなんでもなく、以前の低次元な敷居のままであれば今まで通りが許され、格下げにはならないという場凌ぎの態度のものでしか、大半はなかった。

 

そもそもの名目(誓願)不足から、単独では長期的な根強い反抗など大半はできる訳もない中、単独でも反抗できていたといえるのは、聖属裁判権を掲げて先駆けの戦国組織化を示し、世俗裁判権側を喚起していた浄土真宗くらいだったのである。

 

足利義昭は、兄の足利義輝のように、いい加減な中央関係者らと決別・恫喝する形で、室町政権の裁判権(手本家長・政務吏僚体制としての今後のあり方)を大幅に整備しようとしていたような所から支持された、という訳でもなんでもなかった。

 

織田氏の最低限の敷居についていけなかった連中の不都合の一致によって、足利義昭が一時的に担がれる形で支持されたに過ぎない、だから反織田連合の発起人としての効力を中途半端に得たに過ぎない。


織田氏から見れば中途半端な地方再統一しかしてこれなかった、よその裁判権改めも3、4ヵ国かせいぜいが大半だった諸氏が、高次元の織田氏の最低限の敷居によってこれから、上から順番に一斉に格下げされることが目に見えてきていた。

 

等族社会化(法治国家化・高次元化のための議決性)のための代表格(議会の名義人)は誰なのか、そのための最低限の敷居の示し合いもできない、そういう所の身の程の進退を自分たちではっきりさせられない、人の上に立つ資格(人を否定・指図する資格)などない集まりが、仮に織田氏を倒せたとしても、そのまとまりのなさがそのまま、いつもの不都合次第のうやむやの騒ぎ合いの内部分裂の禍根にしかならないのである。

 

法の整備が進んでいる外国に日本も遅れをとらないよう、商談や文化技術交流でもあなどられない国家にしておくためにも、織田信長のようにそこをバシッと止めさせる最低限の敷居(手本家長の最低限の姿勢=裁判権の基準)の国家構想(育成理念)をもっている者こそが仕切り直しをしなければ、一向に等族社会化(法治国家化)に進んでいく訳もない、騒動の繰り返しなのである。

 

織田氏が中央再興に乗り出した当時、松永久秀が織田派に鞍替えしてきたことに、足利義昭が兄のカタキだの許せないだのと騒いで織田信長に討伐させようとしたことは、それで自身に織田氏に指令権があるかのように見せたかった、その権威ばかりが重要だったいい加減な姿勢も、後になって現れている。

 

織田氏の最低限の敷居についていけなくなった松永久秀は、まるで織田氏と浄土真宗との対立が終結すると困るかのように、それを長引かせようと反織田側を表明した際、中央を追われて毛利氏の下に逃れて反織田を煽り続けていた足利義昭は、その兄のカタキとやらの批判など何もしていない。

 

ただ即席な正しさと抱き合わせて言い分を通そうとし、それが通用しなければただ気絶(思考停止)し合いながら失望し合うためだけに騒ぎ合うことしか能がない、そういうだらしない分際(偽善者)こそ、やたらと偉そうに威勢よくケンカ腰になりながら人の上に立ちたがる(人を否定しようとする・指図したがる)典型的な悪い見本なのである。

 

本当に心底から、世の人の踏み外しや暴走を抑止したいと思うのなら、自由民権運動がきっかけとなって創設された国会議事堂(近代の等族議会)の本来の目的であった、まずは民権言論による最低限の敷居(育成理念・品性規律)の示し合い(より高次元といえる議決性の確認・尊重のし合い)という、人としての基本中の基本に立ち帰ることから始めれば良いのである。

 

その人としての最低限(育成理念・品性規律・高次元化)を放棄し合っているだけの、万事面倒がりながら法的権力任せで偉そうにうちのめし合い従わせ合うことしか能がない、それで人の上に立った気になっているだけの口ほどにもない身の程知らずの公的教義と大差ない、猿知恵(ただの劣情統制)しか身に付いていないだらしない低次元な集まりどもを、普段から疑い見抜くことから始めることが、まずは大事である。

 

そこに普段から、冷静さ慎重さ慎重さの余裕をもった見方で疑い見抜くこともしてこれていない、その向き合いを常にうやむやにするために偉そうに騒ぎ合うことしか能がない低次元な集まりとろくに決別もしてこれずに、それと一緒になっているような手合いが、何を人に向かってやたらと偉そうにケンカ腰にジョージャクだのセンノーだのという話である。

 

次は、反織田連合の反抗力など皆無になってきて、周辺から順番に裁判権改めがどんどん進められるようになっていった、織田氏の天下もいよいよ時間の問題になってきていた 1577 年頃からの中央の様子や、聖属の様子などに、触れていきたい。