近世日本の身分制社会(081/書きかけ138) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか09/? - 2021/10/15
 

今回は、本能寺の変が起きる少し前の 1580 年に行われた人事整理について今一度、触れていきたいが、今回もどんな状況だったのかの話を中心とするため、余談も多くなる。

 

それぞれの人物の事情も話しておきたいため、戦国後期から終焉に向かうまでの当時の様子を知る上でも、それらの関係者たちも触れ、そのため今回も説明が少し煩雑になる。

まず、織田氏の重臣筆頭であった佐久間信盛が厳しく叱責され、これまでの全ての権限が剥奪され、その次代の佐久間信栄(のぶひで)と一緒に、親子で追放されたことは少し触れた。(佐久間信栄はのち豊臣秀吉の側近の待遇として収容された)

この時に、他にも政務吏僚の筆頭であった林秀貞、美濃時代の有力者の降将だった安藤守就(もりなり)、尾張衆の岩崎城の丹羽氏勝(にわ うじかつ。岩崎丹羽氏。参謀の丹羽長秀の一族とは全くの別系統といわれる)の3名も同時に厳しい叱責を受け、同じく失脚している。

それぞれ事情が違うため、そこを説明していきたい。

また 1576 年に手厳しく切腹をいい渡され、領地特権を没収されてしまった水野信元(徳川家康の叔父。母おだいの兄。尾張と三河をまたがる大きめの領主だった)についても触れたい。

さらにここで、三好派から織田派に鞍替えし、のちに離反・反抗した松永久秀荒木村重の両名についても今一度、触れる。

今回は、地位は高めだった佐久間信盛、林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝、水野信元、松永久秀、荒木村重の7名を主に取り沙汰するが、その関係者やその後の話なども挟んでいく。

この中では丹羽氏勝だけは、業務的な落ち度だけで、その次代の丹羽氏次には今まで通りの継承が公認されているため、他6名と比べるとだいぶ寛大な処置だったのが特徴的になる。

本能寺の変までに、織田氏による新政権のさらなる構想としての身分再統制(等族議会制)のあり方は、どんな公表がされようとしていたのかも重要になってくるため、説明が煩雑になるが教義問題なども取り上げながら進めていく。

少し先述したが、本能寺の変が起きた 1582 年は、誠仁親王(さねひとしんのう。親王は天皇陛下の子息であるから上位の人という意味)の皇位継承式典が行われる大事な予定があったこととも、変と深く関係している。

織田信長が討たれた時、その式典の予定地であった二条城に滞在していた誠仁親王は、表向きの武家側の都合による戦火に巻き込まる形となってしまった。

本能寺の変が起きた 1582 年は、有力者の面々が

 東は信濃・甲斐・上野に滝川一益、森長可(ながよし)、毛利秀頼、河尻秀隆らが

 北は加賀・能登・越中に柴田勝家、前田利家、佐々成政、金森長近(ながちか)らが

 南は四国制圧に向けて和泉に織田信孝、丹羽長秀、池田恒興(つねおき)、蜂屋頼隆らが

 播磨以西は羽柴秀吉、堀秀政らが


それぞれ出払い

 西手前の丹波・丹後(たんば・たんご。京都府西側)には明智光秀、細川藤孝らが

といった形で、山城衆・近江衆・美濃衆・尾張衆らの多くも、それら軍団の支援に出払っていたような状況だった。

多くが制圧戦・仕置き(裁判権改め)に出払い、中央では急に護衛軍を整えられなかった中で、それを見計らうように本能寺の変が起きた。

この異変に次代の織田信忠(岐阜城主だったが継承式典のために京に滞在していた)と、京で政務に従事していた旗本吏僚たちが、二条城の誠仁親王をとにかく守ろうと、わずかな手勢を率いて急いで集結した。

明智光秀が二条城を包囲し、攻撃を仕掛ける前に「親王を戦火に巻き込む訳にはいかない」とその身柄を引き渡すよう城側へ要求すると、織田信忠はそれに応じ、緊迫した中で誠仁親王は戦場を脱出することになる。

その直後に二条城は明智勢に攻められ、織田信忠と旗本吏僚たちの多くが戦死してしまい、その後には明智勢による近江・山城の再統一戦が行われるが、ここは注目である。

明智光秀が体裁ばかりで、具体的な目的(誓願)は判然としない指令しかしなかったため、本能寺で織田信長が討たれたことばかり注目されてこの部分もうやむやにされがちだが、この時のこの二条城での一戦は、政治的に非常に重要な部分になる。

少し先述したが、二条城で予定されていた式典は、誠仁親王の皇位継承と、織田信忠の正式な家督継承が同時に行われるというもので、明智光秀本人の本意はともかくとし、この阻止こそが最重要事項であったといえる。

この式典の予定は、廷臣たちの議決権などではなく、聖属を実質、支配下登録的(現代風の法人制の戸籍謄本的)に置く体制ができたも同然になっていた織田政権による議決権によってほぼ決められたために、織田氏に反感的だった一部の廷臣たちを、なお逆なでしていた。

これは本来は、皇室の継承式典の段取りは朝廷側(聖属側)が計画し、武家側(世俗側)に出資や準備などの協力を要請するという、表向きの形になっていなければならなかったためである。

しかしこれも何度か説明してきたように、室町政権の事実上の崩壊後の廷臣たちは、全くそれをしてこれずに、京も朝廷の建造物も荒れ果て続けたまま、諸氏同士の騒乱を言い伏せて和解させて出資させるだけの器量(教義指導力)なども見せられずに、大事なはずの天皇陛下の継承式典など、ろくに実施できない事態が長引いていた。

 

大したまとまりも見せないまま、継承式典も整えられずに皇室の威厳を失墜させ続けていたその、日本のことを想う危機感、深刻さに対する無神経さを疑われても仕方がない実態が、天台宗(公的教義)の劣悪姿勢そのものだったといえる。

そういう教義崩壊期こそ、廷臣たちも院政(聖属側の管理人)としての教義指導力の再興のための議会制の整備をしなければならず、各地の地域貢献と国際人道観の敷居のための寺社の正常化に務め、諸氏に和解(等族統制)のきっかけを与えながら、皇位継承のための出資や支援をさせなければならなかったそこを、全くしてこれなかったのである。

この部分について、織田信長が当時の廷臣たちのどういう所を具体的に問題視していたのかについては、後述でまとめる。

戦国前期の総国一揆(地侍闘争)時代を経て、地方各地の寺社と武士団との不健全な結び続きばかり強め、著しく閉鎖有徳化してまとまりが無くなっていったのを、戦国後期にはそれらを今一度まとめるための地方再統一(分国法・議会制の確立)のための代表格の選出が、求められるようになった。

そんな中で

 

 猿知恵の偽善権力を敷いてその顔色を窺わせ合うことしか能がない、時代遅れの旧態の顕蜜主義のままのその劣悪姿勢

 

 そこに対する最低限の手本礼儀の示し合いなどできたことがない、今の公的教義と大差ない天台宗(延暦寺)

 

が、全国の閉鎖有徳を改めさせる所か、それをただ助長しているだけでしかなかったのである。

 ただ気絶・錯乱(思考停止)し合い、ただ疲弊し合い、ただ失望し合うのみ

 

 皆がそうであり続けるためだけに、うちのめし合い従わせ合うことしかしてこなかった

 

そうではないといえるような等族義務(主体性=最低限の国際性の手本礼儀の示し合い)の整備(法=育成理念)など自分たちでろくに議事録的に確認・整理・提示・裁量などしてこれなかった、つまり

 議決性(等族義務・品性規律・育成理念)を自分たちで何ら大事にしてこれずに、面倒がりながら偉そうにただ外圧任せに否定し合ってきただけの集まり

 

が、自分たちの議決性(言い分・待遇・社会観)を尊重してもらおうとすること自体が、そもそも大いに矛盾している身の程知らずなのである。

 そこを疑い見抜きながらの、最低限の手本礼儀の示し合い(法=民権言論性の原点)もできている高次元側(育成理念がある側=国際性の手本の品性規律がある側)

を目指している訳でも、参考にもしようともしていない手合いが、やたらと偉そうにケンカ腰になりながら否定しようとするような、無神経(無計画)な低次元同士の立場をただ図々しく押し売りしているだけの劣悪姿勢こそ、身分再統制(再育成のための制裁・格下げ・国賊扱い)がただちに必要な、公的教義と大差ない身の程知らずどもなのである。

これについては織田信長から言わせれば、

 「そこにそんなに不満があるのなら、それならなぜ、いつまでもまとまりのない院政側の上層たち(聖属教義の管理人の立場である廷臣たち)は、そこになぜもっと深刻に考え、自分たちで地道に方針(国際人道観・国家戦略)を再統一し、高次元化のための国際性ある議決性(等族議会制の手本)が生じる取り組みをしてこなかったのだ!」

という話なのである。

育成理念(目的理念・品性規律・公務公共性)に貢献するような議決性(等族資格・品性規律)ある整理力(状況回収の等族義務)など何ひとつ大事にしてこれず、ただの猿知恵の偽善権力を敷いてその顔色を窺わせ合うことしか能がない、そこも疑い見抜くこともしてこれなかったただの劣情統制のいいなりの機械的な拡声器どもに、議決性(国際性ある手本)など生じる訳がないのである。

一部の廷臣たちは織田信長のことを逆恨みしていたが、ただし正親町天皇(おおぎまち)とその後の後陽成天皇(ごようぜい)も、このような式典を盛大に実施しようとしていた織田信長に、嫌悪感をもっていた節がない。

その後の豊臣秀吉は、朝廷側から歩み寄ってきたことを評価し、豊臣氏側が朝廷に歩み寄ったという形に合わせ、朝廷と豊臣政権との融和的な交流関係が築かれることとなった。

豊臣秀吉の場合は、重要なことは豊臣政権にも対等的に事前に相談するということなら、聖属側のことは廷臣たちに任せ、廷臣側の企画における出資も、相談さえあれば等族責任をもってできるだけ豊臣政権が請け負うという寛大な形が採られたため、良好な関係となった。

しかしのち徳川氏の天下となり、徳川家康が 1615 年の大坂夏の陣を最後に亡くなってしばらくすると、江戸幕府は聖属側(朝廷)に対して格下げ同然の厳しい規制に乗り出した。

これは廷臣たちだけでなく皇室も嫌悪感をもったのは間違いなく、織田氏の時はともかく、豊臣氏の時と比べてかなり対照的だったといえる。(紫衣事件が顕著。しえ)

1582 年は両継承式典と同時に、今後の日本政権としての、聖属(日本の自力教義)のことも含めた多くの重要な発表も控えられていたことも間違いない。

もはや天下の趨勢を明確化する意味もあったその式典によって、織田氏に反抗的だった中国方面の大手の毛利氏や、態度を曖昧にしていた遠方諸氏らを早く降そうとする政治的な意図も強かった。

この重要な発表(身分再統制)に、織田氏に反抗的だった往生際の悪い一部の、今の公的教義と大差ないただ下品で汚らしいだけの廷臣どもの低次元な人生観を完全否定(格下げ)されて当然の公布も入っていたのも、間違いない所になる。

本能寺の変によってそこがうやむやにされてしまい、多くの文献書類も焼き払われる形となってしまったのは、歴史的にも残念な所になる。

その予定を当然知っていての明智光秀は、それを阻止するために本能寺の変を起こす訳だが、これまでの従説ではどういう訳か権力欲的な黒幕説ばかりで、そもそもそれを阻止したことにどんな重要な意味や事情があったのかについては、ろくに考察されてこなかった所になる。

1580 年は、世俗裁判権か聖属裁判権かを巡って争った浄土真宗(本願寺)をついに降し、実質の織田氏の勝利としての和解に至った年になる。

それはすなわち、日本の自力教義のあり方について、世俗裁判権側(織田氏)が聖属側(日本の自力教義)を監査・謄本保証する側である、今後のその関係の明確化がひと区切りついたことを意味する。(公的教義の今までの具体的な否定)

織田氏と浄土真宗との対決は、1578 年あたりには、戦況的にはもう決着していたのも同然だったが、終焉しかけていたその対立構図に慌てる形で、松永久秀や荒木村重が離反し、中国方面の毛利氏も慌て、織田氏の身分再統制を時間稼ぎするかのようにその阻害に動くという事態が続いた。

1580 年に浄土真宗(本願寺)が降参し、聖属裁判権(聖属武力)の放棄が約束され、以後は世俗裁判権の保護・監視下に置く形が採られた時点で、それを上回る自力教義機関がなかった日本国内において、日本の自力教義も議会的に制定する主導権は織田氏にあることが、明確化されたも同然となったのである。(西洋の帝国議会も類似)

それまでにも、ただ騒ぎ合い、ただ疲弊し合い、ただ失望し合うのみしか能がない、今と大差ない論外の公的教義(天台宗)は叩きのめされっぱなしなまま、自力信仰でも他力信仰でも外国教義でも、織田氏の裁判権に従う以上は教義力次第の保証の下(もと)、多少の落ち度は大目に見られながら、どんどん収容されるようになっていた。

本来は公的教義が、顕蜜体制というのならなお、日本全体の今後の自力教義のため、すなわち世界情勢の情報交流・技術交流のためにも、それができなければならなかったのである。

しかし自分たちの信じる正しさが格上でその他が格下であればいいとしているだけの、狭量の偽善権力(ただの猿知恵のただの劣情統制)を敷いてその顔色を窺わせ合うことしか能がないような、今の公的教義と大差ない極めて非国際的(時代遅れ)で閉鎖的な低次元な集まりが、日本の自力教義のための育成理念(人文化・啓蒙化のための整理力。国家構想)などもち合わせている訳がないのである。

浄土真宗たちを降して間もなくの、今回取り沙汰する人事整理も、近々の新たな国際政権としての、そのさらなる身分再統制の発表に向けた、布石だったともいえる。

この一斉整理は、浄土真宗を降したことが契機だったことが注目されずに、突然行われたかのような印象ばかり強調されがちだが、逆である。

今までは監視と勧告が続けられながら大目に見られてきて、これを契機に見込み無しの判定がされたに過ぎない。

この時の一斉整理は、今風の感覚でいえば、球団などにおける戦力外通告のようなものだったといえる。

順番に説明していくが、離反した新参筋の松永久秀と荒木村重を除く面々は、どれも尾張・美濃時代までの古参株である。

 

家臣団の中では地位が高めで、本来は収公返上の形で武家屋敷に収容されてもおかしくなかった、古くからの地縁の領地特権の公認を許容されていた者たちばかりで、いつ異動を受けてもおかしくなかった者たちばかりである。

1582 年にはもはや20ヶ国近くの支配力が織田氏にはあった中で、多勢でも少勢でも部下を率いる側、つまり人の上に立つ側としての目立った有力家臣(寄騎)だけでも100名は軽くいたことを考えると、この人事整理はその中のたったの数人に過ぎず、新参は依然として大目に見られながらの寛大な処置だったとすらいえる。

これら人事整理は落ち度狩り(道義狩り)よりも、等族議会的(身分再統制的)な姿勢狩り(教義狩り)が中心だったのも、あきらかといえる。

織田信長はこれまでまるで、自ら独裁者の立場を好んで権威を偉そうに振るっていたかのような想像ばかり強調され、身分再統制(旗本吏僚体制・前期型兵農分離・家長指名権など)による指令線の公正化(法治国家化)の改革面においては、ろくに説明されてこなかった。

 等族議会的(16世紀に求められていた主導的家長権=身分制議会)の法則として、荀子的独裁制に取り組まれていたに過ぎなかったこと

 その区切り(最低限の敷居の底上げ)がついたら、孟子的合議制(新政府の制定)に移行させようとしていたこと


に、経緯こそ違うが西洋でもそこは共通していた、本能寺の変はまさにその移行(確定作業)に関する発表もされようとしていた時期に起きた、異変だったのである。

戦国を終焉に向かわせたも同然になっていた、すなわち裁く側と裁かれる側との力量差の明確化は決着したも同然になっていた、すなわち織田政権時代における等族議会制(身分再統制)が確立しつつあった、その重要な部分がどういう訳か注目されないままに、本能寺の変を説明しようとする試みばかりが、これまでされてきた。

さらには、

 応仁の乱で世俗政権が崩壊した際に、院政(皇室・朝廷)が関わる形の聖属再興運動の再燃はされなかった

 それも含めた世俗権力(武家政権)も聖属権力(皇室・朝廷のあり方)もいったん仕切り直される形で、室町政権が成立した歴史的経緯


の中世までにおける武家政権の家長権(武家法典のあり方・分国法)の課題・反省点も考慮されずに、本能寺の変の説明がされようとしてきた。

これも同じく、西洋でも同じ傾向が見られた部分として、西洋における

 教会大分裂問題 = 対立教皇問題

 大空位時代 = 明確な皇帝(王族の代表格)の長期にわたる不在期


という、西洋のキリスト教徒たちも抱えていた課題・反省点であった、自分たちのための(キリスト教徒たちのための)主体的・議会的な代表格の選挙力・選任力面(品性規律面=等族統制力)の欠落は、まさに日本でいう所の

 皇室を安直に担ぎ上げようとすることの対立天皇問題 = 天皇陛下の擁立合戦問題 = 綸旨の乱発問題・皇威失墜衰退問題

 
荀子的改革(等族議会のあり方の見直し)がろくに行われなくなるままの、更新(時代刷新)なき孟子悪用的な合議制がいつまでも続けられることの、将軍権力(世俗権力・中央力)の衰退

とで、日本と西洋は、その姿形の意義こそ違えど、中世に体験したその組織崩壊(教義崩壊)の構図は、全く類似する問題なのである。

戦国終焉の意義自体が「そこが大幅に改革される、今後再発させない政体の確立」でなければならない自覚(等族統制)がついにされた。

 

中世までの諸問題を今後は繰り返さないようにするための「等族議会制」という、近代化に向かうきっかけとなる近世化に向けての、法治国家的な政治精神、組織理念、品性規律の整備力(人文性・啓蒙性)の重要性が、ついに強く自覚(等族統制)されるようになった、それが16世紀なのである。


日本でも16世紀半ばの戦国後期にはすっかりそこを、教義競争(器量=教義指導力)の基準とされるようになったのである。

日本では確かに「等族議会」「等族諸侯」「等族国家」という言葉こそ使われずに「人望」「器量」「分国法・武家法典」といった言葉で代用されてきた。

中世までの社会観念とようやく決別されていく形でついに人類が、現代の法治国家化の元になった等族社会化(近代的な裁判権のあり方)に向かったその重要な部分がこれまで、ろくに説明されてこなかった部分になる。

この姿こそが、現代における民権言論の自由原則(当事者性=人文性と啓蒙性の整備の向き合い)の大元ともいえるのである。

ついに人類にそこが自覚され、近世はまだまだ制限が多くてもその文明的な前例が少しずつできていったからこそ、明治初期に博徒問題と連動した自由民権運動によって、10年越しに創設された「国会議事堂」ができた根拠にもなったと、いえるのである。

現代でも重要な心得といえる、荀子・韓非子のいう、人としての最低限の手本礼儀(体現体礼)の示し合い(等族回収の整理力・説明責任力)がされて当然の

 法治国家としての基本中の基本である等族議会的な姿勢(人文性・啓蒙性の回収整理=育成理念=国家構想=裁判権のあり方)

に向き合われて当然の意味を、これまで日本の公的教義がここをまともに説明できたことも、その最低限の手本礼儀の示し合いも一度もできたことなどない時点で、致命的かつ深刻といえるのである。

本題に戻り、明智光秀のそもそもの動機についてもまた後述する。

1580 年に行われた織田氏の人事整理は、1582 年に控えられていた、新政権の議会制(身分再統制)のあり方の発表に向けての布石だったことが窺える。

ここも、落ち度狩り(道義性)姿勢狩り(教義性)の違いも区別されないままに、筆頭の佐久間信盛の失脚が驚かれた処断が、突如としてされたかのような説明がされがちな所になる。

実際の所は、今までは大目に見られてきた中で、1580 年の浄土真宗の降参を機に「時間切れ」と見なされ、もう見込みがないと思われた者たちに対して「人の手本にならないこういう上層ら(人の上に立つ側)は、今後の我が織田政権では許されない」ことを事前に示しておく一環だったといえる。

織田信長のこうした「時間切れの者たち」の姿勢は、織田氏に反感的だった一部の廷臣たちにも、当然のこととして向けられていた部分である。

聖属側は、単独で浄土真宗を上回る自力教義力が他にはなかった中で、織田氏の裁判権(等族議会制)の許容の下で次なる他力信仰型の台頭としてキリスト教が、日本の自力教義として成立し始めて、そこも今後はどうなるのだろうかという、今まで日本が体験したこともない異例事態となっていた。

この教義問題も、織田信長と一部の廷臣たちとの対立の件として、織田信長はどういうつもりでいたのかも含めて後述でまとめるとし、本題の人事整の経緯を順番に見ていく。

まず重臣筆頭であった佐久間信盛だが、7ヶ国ほどの各郡の管轄地をもつ、地方にこだわらない混成軍として織田領全体の民政と裁判の管理人としての機能も担当していた、織田政権における中央軍としての役割も担当していた重役だった。

織田氏が摂津の浄土真宗(本願寺)の制圧戦に苦労し、やっと石山本願寺城に追い詰めると、その包囲線を佐久間信盛が主に担当することになるが、どういう訳か、攻略に動くなり和解を勧告・斡旋に動くなりの積極性など全く見られないまま、まるで長引かせたいかのように4年もモタモタとただ包囲を続けてことに、まず織田信長を問題視させていた。

その間にも佐久間軍団は、他の軍団とは連携を採ってその支援はしていたものの、この軍団としての主任務であった浄土真宗の攻略戦にはやけに消極的で、権限があったにも拘わらず他の軍団に作戦の支援を要請もしなければ、織田信長に外交戦や調略戦の提案もろくにしなかった。(今まではしていた)

佐久間信盛のこうした心理は、松永久秀や荒木村重に抱えていた問題と恐らく共通していたと思われ、そちらで一緒に説明する。

次に美濃衆の有力者出身の安藤守就(もりなり)だが、こちらも 1580 年に浄土真宗が降伏・和解に動いたのを契機に、これまでの領地特権の剥奪・没収を受けることになった。

安藤守就の場合は、それと同じような事情だった同格の、美濃三人衆といわれた稲葉良通(よしみち。一徹者という言葉の語源説の、稲葉一鉄の号名の方で著名)と氏家直元(うじいえ なおもと。氏家卜伝。ぼくでん)と比較すると解りやすい。

経緯から説明すると、織田信長の 1560 - 1568 年の美濃(斎藤氏)攻略によって、斎藤氏における重臣格であったこの3名(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)も降参することになるが、彼らはこれまで通りの美濃の有力領主としての地位を望んだ。

これは、降将である以上は本来は、織田信長にいったん領地特権を返上させる形で強制的に、本拠地の武家屋敷に収容される形が採られてもおかしくなかったが、織田信長の厳しさの一方で、寛大さも窺える部分だったといえる。

織田信長は「だったら保留的に公認はするが、ただしそれに見合うだけの、下たちの多くの手本になるような働き次第だ!」とそこを強調した。

この中で稲葉良通は筆頭だったからこそ「お前(稲葉良通)のことはやはり公認せずに、上意討ちしようと思っていたが思い留まることにし、働きを期待することにした」と、最初だけは非常に厳しく恫喝している。

尾張・美濃の併合時代までは、下に納得させるためのこうした前例の「簡単に公認してもらえると思うな!」の風紀を作っておこうと、上への厳しい表向きの姿勢が重視された様子が窺える。

そこが重要であったため、織田信長がこの時に本気で稲葉良通のことを上意討ちしようとしていたかどうかは、怪しい所になる。

この稲葉良通は、名族・河野一族(カワノでも広く知られるが本家筋はコウノ)出身で、しぶとくどうにか戦国後期の乗り切った家系のひとつだった。

河野氏の本家は伊予(いよ。愛媛県)の武士団で、そちらは衰退の一途に向かってしまったが、全国的に広く点在していた小笠原一族のように河野一族も、各地の有力者としてどうにか時代を乗り切っていた者たちも多かった。

この河野一族は、大和(奈良県)でかつてかなり力をもっていた、寺社との結び付きも強かった越智(おち)一族との親類関係ももっていたといわれ、大和の代表格を織田信長から公認された松永久秀とは協力関係だった、地元の有力者のひとり林通勝(みちかつ)も、この河野一族といわれる。

織田信長の政務吏僚の家老だった林秀貞もこの河野一族で、その名族意識が強い一族だったのが特徴的で、通し字である「通」を意識して用いた者も多い。

 河野宣(みちのぶ) 本家の大名としての最後の当主

 河野康 河野通宣の弟

 久留島総(くるしま みちふさ) 河野通康の子。豊臣秀吉の唐入りの際の水軍を担当

 忽那著(くつな みちあき) 伊予河野氏の親類

 稲葉良(よしみち。稲葉一鉄) 美濃斎藤氏の有力家臣だったが、織田氏の有力家臣となる

 稲葉重(しげみち) 稲葉貞(さだみち) 稲葉良通の子

 林勝(みちかつ) 大和の有力者。大和の有力筋の越智氏と恐らく親類関係

 林具(みちとも) 織田信長の家老の林秀貞の弟

 林政(みちまさ) 織田氏の家臣の林一族で、槍技に定評があったが長島の浄土真宗との激戦で戦死

織田信秀と斎藤道三が争っていた頃の、斎藤氏の有力家臣である稲葉氏(河野一族)と、織田氏の有力家臣である林氏(河野一族)は、裏での親類意識も強く、隣国同士ではこうした構図自体は珍しいことでもなかった。

のち関ヶ原の戦いの勝敗の決定打といわれた、西軍を装い続けて結局、東軍に味方した小早川秀秋の、その参謀役の家老だった稲葉正成も、河野一族である。

この稲葉正成は、織田信長の重役の家老だったが失脚した林秀貞と近い親類と思われる、林政秀の子である。

当時19歳といわれる小早川秀秋が若すぎて状況を判断できない代わりの、関ヶ原における小早川勢としての重要な決断を代行した当事者だったことに加え、さらには福(ふく。のちの春日局)が元妻だったという関係から、黒幕説がたまに浮上する人物でもある。

関ヶ原の戦いは、西軍と東軍で表向きは互角の戦いが続いていた中で、松尾山に布陣したきり全く動こうとせずに、戦闘に参加せずにしばらく傍観していた、大軍を抱えていたこの小早川勢がどちらに加勢するかが勝負所になったために当時、その動向が大いに注目された。(その動向自体に不明点が多く、諸説あり)

この稲葉正成が、ある意味で関ヶ原における勝敗の鍵を握っていたようにも見える上に、元妻の福(春日局)がのちに、徳川将軍を指名するほどの大奥制度の権威まで作ったこと、また小早川秀秋が関ヶ原の戦いから間もなく急死してしまい、小早川家の改易後に、徳川政権から改めて大名資格が与えられるなど、いかにも噂が立ちそうな経歴である。

しかもこの元妻の福(春日局)は、明智光秀の筆頭家臣であった斎藤利三(としみつ)の娘で、本能寺の変の間近にはこの斎藤利三が廷臣たちと密会していたといわれ、変における実行班だったのではないかという説もあり、こうした経緯もそれをなお手伝っている。

なんだか怪しげな経緯に見られがちな稲葉正成は「何か特別な事情を知っていたのではないか」「汚れ仕事をやらされていたのではないか」などの黒幕説がたまに浮上する人物でもあるが、筆者としては陰謀・黒幕論の強調しない方針で、説明していきたい。

ややこしい話だが、美濃斎藤氏が消滅して織田氏に編入された時に、美濃の元々の代表格の土岐源氏一族を支えた、地元の重役の家系だった斎藤一族も、織田氏に家臣化された者たちも少なくなかった。

斎藤一族では、この斎藤利三の他、斎藤利治(としはる。斎藤長竜)らも格式に応じて織田氏に家臣として編入されたが、特に斎藤利治は斎藤道三の近親者(実子?)だったことで、織田信長の妻(斎藤道三の娘)の縁で遠回しに優先権が与えられ、優遇された。

本能寺の変を起こした明智光秀が、中国地方の平定戦を中断して引き返してきた羽柴秀吉と山崎(今の京都と大阪の中間地点)で決戦した際に、明智勢は動揺し続けていて不利な状況だった中でもこの斎藤利三は、明智光秀のために果敢に戦ったが破れ、戦死してしまう。

福の父である斎藤利三は、元は稲葉良通を支援する寄騎の関係だったが、織田信長の美濃攻略後に稲葉良通と一緒に家臣化されてしばらくに、明智光秀が織田家中で急抜擢され始めると、斎藤利三は明智光秀と意気投合する形で、明智軍団の一員になろうとした。

斎藤利三は、目上の稲葉良通の娘と結婚している間柄でもあったが馬が合わなかったらしく、織田氏の編入後は正式な部下ではないという想いを強めていたようである。

急抜擢されるようになった明智光秀としても、有力な家臣を必要としていた矢先の、見所のあった斎藤利三との意気投合は、斎藤氏は土岐一族と親戚関係になっていた者も多かったことの、土岐氏出身の明智氏の旧縁の事情も関係していたかも知れない。

織田氏に編入後に、稲葉良通の家臣団扱いだった斎藤利三が、正式な話も許可もなく明智軍団に組み込まれようとしていたことに、稲葉良通は織田信長に訴えた。

 

織田信長も稲葉良通の言い分を聞き入れて明智光秀に、斎藤利三を返すように言った。

しかし明智光秀が、この斎藤利三の件をどうか公認して頂けないかと織田信長に願ったためにややこしい話になり、結局これが公認されたようである。

この話自体が判然としない所が多く、1582 年までに織田信長と明智光秀がだんだん険悪になっていった要素に、この時の人事問題のことも尾を引いていたのではないかと、指摘される場合もある。

筆者の意見としては斎藤利三は、今後の織田家中で、まず現状維持ができるかどうかになっていた稲葉良通と美濃時代のままの協力関係を続けるよりも、頭角を現していた明智光秀のような有力者の元で働きたいという想いを強めていたのではないかと、見ている。

 

荒木村重が織田氏に離反することになった要因に、その有力寄騎であった高山重友はともかく、もうひとりの有力寄騎であった中川清秀が、荒木村重とのこれまでの関係に内心の不満を強めていたのと、この斎藤利三も似ていたと、筆者は見ている。(順述)


この時に稲葉良通と斎藤利三とは個人的には険悪関係になったようだが、かつての美濃衆として他にもたくさんいた稲葉一族と斎藤一族の同胞関係自体は悪化したという訳でもなかったと思われる。

斎藤利三が戦死してしまい、残されたその娘の福(当時15歳~20歳くらいと思われる)を、それら親類たちも放っておく訳にはもちろんいかなかった。(羽柴秀吉はこの福に対しては、厳罰的な追求はしなかった)

 

福の母が稲葉良通の娘であった縁と、斎藤氏と稲葉氏(林氏・河野一族)のかつての美濃衆の同胞の縁も働く形で、その一族の稲葉正成が、身の引き受けの助け合いの意味も含めて、結婚することになったのだと思われる。

稲葉正成と福の間に子ができたのちの離縁であり、判然としないが両者は夫婦仲が悪くて離縁したのではなく、大奥の公務の大役を受けるようになった際に、何かあったときに稲葉家の次代たち(自分の子ら)を巻き添えにしないようにするための、政治的な理由だったと思われる。

 

余談が長くなってしまったが、美濃における今までの地位を望み、仮の公認扱いの「ならば功績や手本次第だ!」と織田信長に厳しい目で見られていた、美濃衆の有力者出身の稲葉良通、安藤守就、氏家直元らは、ウカウカしていられなかった。

 

そして、稲葉良通と氏家直元はかなりの活躍を見せ、織田信長をなんとか納得させることができたが、結果的に安藤守就だけは、2人のようにその地位を望むに見合うような、目立った良い所が結局見せられなかったために、人事整理の対象に挙げられてしまった。

 

これらは、部将と寄騎の中間の地位といえる、織田信長や織田信忠に直属する軍団長だったと思われ、まず稲葉良通が特に目覚ましかったのが、浅井氏との戦いの時である。

 

織田氏が越前の朝倉氏と対立すると、織田氏とは婚姻で同盟したはずの浅井氏に、朝倉氏に加担されてしまい、近江の支配権を巡って浅井氏と戦うことになった際には、劣勢だった浅井軍の決死の猛撃に織田軍は押され、危うく敗れかける事態となったことがあった。

 

その時に、加勢に来ていた三河勢の徳川家康と、美濃勢を率いていた稲葉良通がそれを懸命に押し返し、戦況を逆転させて浅井軍を撃破するという、大活躍を見せることができた。(2人の指揮振りは皆から賞賛された)

 

氏家直元も、長島城の浄土真宗との激戦で織田軍の本陣が狙われ、織田信広(織田信長の兄)、織田信次(叔父)らと一緒に懸命にそれを支えて戦死し、そのおかけで本陣が撃破されずに済み、被害も最小限に抑えることができたという活躍を見せた。

 

元々、優遇的な立場だった稲葉良通は、その後に大幅な領地特権やさらなる役割を受けることはなかったものの以後の働きも認められ、氏家直元も、皆を助けた戦死が評価されて次代の氏家直昌にそのままの地位が公認された。

 

ただし安藤守就だけは、今までの地位を望んでおきながらこの2人と比べると、そういう所が乏しかった。

 

次に、政務吏僚側の重役であった林秀貞についてだが、追放の理由は佐久間信盛と似た所があったと思われるが、この中ではその理由が一番難しい所になる。

 

部将(旅団長)の筆頭格であった佐久間信盛のように、政務吏僚側の筆頭格であった林秀貞も、今後の執権(織田信長を代行する総裁)としては、人徳の力量よりも、人望の事情が大きかったのではないかと筆者は見ている。

 

この林秀貞については「織田政権では、永らくの功臣であったとしても、こういうことは常に起こりえる」ことの、上への厳しさの前例を作っておくための、やむなくの演出だったと筆者は仮定している。

 

織田信長のこうした前例が、のちの江戸幕府における改易制度国替え制度としての武家としての家長権(裁判権)が整備される、貴重な要因になっているが、林秀貞が河野一族だったことも、恐らく関係している。

 

つまり、今後の国際政権(等族議会制)に向けて、この尾張時代からの最古参である林秀貞に執権(総裁)の地位であり続けさせておくことは、そのまま織田政権における絶対的な総裁の家系だと根付かせてしまい、その後に河野一族が政権を牛耳り始める風潮を作ってしまうかも知れない所が、懸念されていたのではないかと筆者は見ている。

 

つまり等族議会制としては、武家の棟梁から大役を任され、代行する総裁(江戸幕府でいう所の大老・老中ら)としての地位が必要な場合は、棟梁以外は中世のような家系的資格の前例一辺倒ではなく、議会的・再統一的な整備をしながらの適任者の選任体制であるべきを、強調したかったのだと思われる。(鎌倉の執権制度の課題)

 

この林秀貞は、余罪的な追求は他と比べると大して厳しくない所からも、上に厳しい風潮を作っておく織田信長の意向に、本人も理解を示して協力する形になったのではないかと、筆者は見ている。

 

政務吏僚として有能だったといわれる林秀貞は、その意味であまり報われなかったといえるが、逆にいえばそのくらいの覚悟で地位にしがみつくことなどしない者こそが総裁の地位に就くべきという手本を、上だからこそ見せておかなければならなかった所ともいえる。

 

この林秀貞は結果的には、他の手助けによって報われており、その子の林一吉が、土佐藩(山内氏)の家老格として5000石という、幕府閣僚並みの待遇・格式で迎えられていることから、上の間では内実の評価もされていたと見て良い。

 

林秀貞はやむなくの汚名のようになってしまったものの、林家にとって、つまり織田家中の河野一族たちにとっては結果的にはそうなっていた方が良かったのではないかと筆者は見ている。

 

つまり、そんな流れで河野一族ばかりが権力を握るようになれば、皆からかなりひがまれながら、本人たちもそれ振り回されたりして大変なことになる危険性もあったためである。

 

元々地位が高めだった河野一族はそんなものに欲張らずに、それぞれ健全に家系の維持の仕方に務めるようにした方が、結果的には良かったと筆者は思っている。

 

そういう身分再統制(等族議会制)の時代だった所が理解できていた、その意味で林秀貞は内々で「上の厳しさのため」にやむなく受け入れたことは賢明だったといえ、筆者はその姿勢を高く評価したいが、再抜擢の計画もあったかも知れない。

 

それと比べると佐久間信盛は、人の上に立つ立場でありながら、自身の評価を気にする姿を見せてしまった、だから佐久間信盛は織田信長に、余罪的な19箇条のネチネチクドクドの手厳しい言いがかりをつけられてしまったのではないかと、筆者は見ている。

 

教義狩り(姿勢狩り)が重要なのであり、上でありながらそれに等族違反していた分だけ、余罪的に19箇条が並べられてしまったに過ぎない、そちらの道義狩り(落ち度狩り)そのものは大して重要ではなかったと思われる。

 

次に 1576 年に失脚した水野信元についてだが、これはまずその前年の、織田徳川連合軍と武田軍の大合戦となった 1575 年の長篠の戦いまでの、三河の件と関係していると思われる。

 

この水野氏はそもそも、立場が少し特殊であったことからの説明も必要になる。

 

尾張の室町権力の支配者であった斯波家(しば)が衰退し、その最有力家臣の織田氏が牛耳るようになり、さらにはその織田氏の家来筋である織田信秀が下剋上的に台頭することになる戦国後期の突入期までは、それまでまとまりのなかった尾張において、尾張南部の領主であった水野氏は、小大名のような自治権を身に付けてしぶとく維持してきたという経緯があった。

 

尾張で織田信秀が台頭するまでは、水野氏は尾張南部の池鯉鮒郡(ちりゅう。今の愛知県知立市)と、その隣の三河の刈谷方面にまでまたがる広めの地帯をまとめ、発言権を高めていた、あなどれない勢力になっていた。

 

尾張の斯波氏の衰退、そして三河の代表格の松平氏の衰退に、駿河・遠江の今川氏がそれらに激しく介入するようになると、この水野氏は情勢に応じて今川氏についたり、松平氏についたり、織田氏についたりと、争和を繰り返してきた。

 

今川義元(足利一族)が、衰退した尾張の斯波氏(足利一族)の代理を名目に尾張支配介入に動き、織田信秀がその反撃に出るが、部下や庶民たちの面倒見も良くて人気があったこの織田信秀によって尾張のまとまりが見られるようになって以降は、水野氏は織田派で続くようになっていた。

 

織田氏と臣従関係だった水野氏と、今川氏と臣従関係になってしまった三河の松平氏は、織田氏と今川氏の都合で前線(水野領の刈谷市から、松平領の安城市にかけて)で険悪になることが多く、争和が繰り返される中、水野氏と松平氏の和解で、松平忠広(徳川家康の父)と水野忠政の娘の於大(おだい。徳川家康の母。水野信元の妹)が結婚することになった。

 

しかし織田氏と今川氏の都合で両者が険悪になると、水野氏と松平氏のその束の間の和解も決裂となり、松平元康(徳川家康)を産んだばかりの於大は離縁させられ、子と生き別れるような形で実家の水野家に、強制的に呼び戻されてしまう。

 

水野氏と松平氏のそうした不健全対立もついに終止符が打たれるきっかけとなったのが、尾張における織田信長の再統一戦・身分再統制(等族議会制)の整備・改革の様子にあせった今川義元が乗り出した、あの桶狭間の戦いだった。

 

この桶狭間の戦いでもやはり、尾張衆扱いの水野信元が織田方として参戦し、三河の松平元康(徳川家康)は今川方として戦わされるが、この両家の「やらされ対立・手伝い戦」もこれが最後となった。

 

桶狭間で今川義元が討たれて以降、駿河と遠江における今川権威の体制の立て直しが振るわずに、三河・尾張介入どころではなくなってくると、三河における今川権威の追い出しも顕著になった。

 

それを機に松平元康(徳川家康)も急いで三河再統一に乗り出すが、今川権力から離脱するようになった松平元康(徳川家康)が、織田氏との和解の段取りの清須同盟が進められると、織田信長の家臣扱いに再統一されていた水野信元(徳川家康の叔父)とのこれまでの不健全な争いも、ついに終始することになった。

 

松平氏(徳川氏)による三河再統一以降は、刈谷側(三河側)にいた水野一族は、徳川家康が水野氏の惣領の水野元信の甥だということで、三河衆の同胞者として良好関係に回復していった。

 

のち江戸幕府でこの水野家は「家康公の母方の実家の家系」ということで、徳川一門に次ぐ特権の格式として、幕藩政治に参与する資格も得て重きを成すことになるが、江戸時代における大名への、国替えや改易の制度のきっかけにもなった家系だったともいえる。

 

戦国後期には、地方の代表格が再統一するまでのまとまりが無かった期間は、この水野氏のように代表格の公認ではない自治権争い・領域争いで自治権・発言権を強めてしまった、こうした厄介な領主は各地にも多かった。

 

代表格の公認ではない形で、他にも根強い自治権を維持し続けてしまった、信濃の木曽郡の木曽義昌や、若狭の高浜郡の逸見昌経(へんみ まさつね。へみ。若狭武田一族)、南陸奥(福島県)で芦名派(あしな)か伊達派かを迫られた三春の田村清顕(きよあき。伊達政宗と結婚した愛姫の父)、その隣の相馬義胤(よしたね。平将門の末裔だが千葉平氏一族の意識の方を強めていた)らなどは皆、そのしぶとい口だったといえる。

 

織田氏の近江・山城進出時代に、早めに従うようになった日野の蒲生賢秀(がもう かたひで)、朽木谷の朽木元綱(くつき もとつな。くちき)、伊香郡(いか)の阿閉貞征(あつじ さだゆき)、佐和山の小川祐忠(すけただ)ら近江衆たちもその口ではあるが、織田信長はそうした立場の、尾張・美濃時代までの古参たちには厳しめで、それ以降のこれら新参筋には、姿勢次第ではかなり寛大な所があった。

 

失脚した美濃の安藤守就と同じく、尾張南部で大きめの領地を抱えていたこの水野信元に対しても織田信長は、最初から厳しめに見ていた。

 

織田氏が、閉鎖有徳狩り(教義・聖属改め)の一環として、公証(制度的な謄本登録)のための寺社領特権の表向きのいったんの返上を求め、公認で再手配していくという表向きの形が採られたように、織田氏の再統一(裁判権改め・集権化・身分再統一)によってこれらの口の領地特権も、いったんの織田氏への返上が迫られた。

 

しかし彼らは自分たちの自立自衛力で結束して維持してきた、その自負をすっかり強めてしまっていた部下たちのために、それに簡単に応じることもできない者も多く、ここは戦国後期の群雄たちの悩み所でもあった部分である。(武家屋敷の収容化・再家臣化問題)

 

織田信長としてもそこは許容した一方で、しかしそうした身分再統制(等族議会制)の流れで誰もがいったんの格下げ(武家屋敷の収容)を受けるようになっていた中で、今まで通りの待遇を求めるのなら「だったらそれに相応する、下々を大いに納得させられるだけの手本を示せ」という恫喝付きの仮公認の扱いだった。

 

その内訳で失脚の監視対象になった美濃三人衆(安藤守就)や、尾張南部の水野信元は、柴田勝家や羽柴秀吉や滝川一益らのように、まず織田氏の旗本に再収容された状態から、献策や手柄によって順番に表彰されながら、信任的に大きな権限・待遇が分与されていったのとは、あきらかに違う。

 

小口はどんどん武家屋敷に再収容され、見込みがありそうな者から旗本吏僚扱いされ、地方の代官としてや管区長として派遣されていくという、この織田氏の身分再統制の旗本体制こそが、のちの江戸幕府の旗本制度の大きな参考の前例になったのである。

 

だからこそこうした口の、織田氏から見るといったんの格下げの再収容を免除してもらっていた、待遇が仮公認されていた者たちは「そこからより大きな権限・待遇を得たいのであれば、その前に今の仮公認に見合うだけの最低限のものを見せよ」という意味で、まずそこも越せていない彼らに、さらなる格上げのための優先権など与えられる訳がなかったのである。

 

むしろ、いつ失脚するかに内心はおだやかではなかった水野信元は、織田氏の軍役には常に従い、なかなかの活躍も見せているものの、例えば羽柴秀吉のように、抜群の功績と手本を示し続けてついに近江長浜城を与えられた経緯と、最初からそのような待遇だった水野信元とで比較すると、どうしても見劣するのは仕方のない所になる。

 

その意味で織田家中では評価が不安定だった水野信元は、だからこそ三方ヶ原の戦いの時に、佐久間軍団の寄騎として同行させられ、そこが試されたのではないかと筆者は見ている。

 

この時の佐久間軍団4000の半数は水野勢だったと思われ「甥である徳川家康のために同胞意識をもって懸命に戦い、残念ながら惜しくも敗れてしまった」という姿勢が、佐久間信盛と同様にそこが見られたのか怪しかった所は、織田信長にかなり厳しく見られていたと思われる。

 

徳川家康としても、この叔父の水野信元についてそこまで嫌っていた訳ではないと思うが、そのすぐ隣の親類の徳川家の三河勢が、強敵の武田軍を相手に散々苦労しているというのに、その手助けの積極性が大して見られなかった、織田信長にそこを相談していたかも怪しいその姿勢に、徳川家康も当時は、そこに内心の不満はもっていたと思われる。

 

三河・遠江で苦戦している徳川勢に、水野信元が加勢したいという意欲を織田信長に見せていたら、理由は多い方が対武田のきっかけ作りも、それだけしやすくなる所だった。

 

織田信長としてもそういう姿勢を見せて欲しかった所で、水野信元もその姿勢に熱心になっていれば、失脚していなかった可能性もある。

 

自分たちの維持に精一杯で、同胞者のはずの徳川家を助けたいという義理を見せる余裕もないようなその姿勢狩りで、この水野信元は長篠の戦いから間もなくに織田信長から色々といいがかりを付けられる形で、手厳しく切腹を申し付けられてしまった。(性急な粛清劇で、やはり驚かれた)

 

尾張南部の水野領は全て巻き上げられてしまった決定打はそこだったと、筆者は見ている。

 

水野家の当主である水野信元が織田氏の家臣扱いであったために、徳川家康はその処置にどうすることもできなかったが、刈谷側の水野一族は恐らく、三河衆扱いされて咎めはなかったと思われる。

 

惣領家側(尾張南部・池鯉鮒側)の一族は、その後のその領地の預かり人となった佐久間信盛に追放されたらしく、彼らは徳川家康によって収容されている。

 

ちなみに、幕藩体制の構築の初期時代で重きを成した土井利勝(としかつ)はこの水野信元の子で、公正性を重視しながら情勢をよく掴み、法治国家化に向けての多くの献策をした、徳川家康の信任の厚かったひとりになる。

 

幕藩体制での色々な規律について上層たちで話していた中で、ヒゲのことで「正式な場では、武張るような威厳的なヒゲはよろしくないため、皆に剃ってくるように徹底させた方が良いのでは」と議論された際、まだ決定はしてなかった中でその会議に参加していた土井利勝が、自分からヒゲを剃ってきたことがあった。

 

土井利勝がヒゲを剃ったのを見かけた上層たちが「土井様がヒゲをお剃りになられた」と慌ててヒゲを剃るようになり、それを知った江戸の旗本中の上から下までが慌ててヒゲを剃り、急にそれが規律になってしまったという、皆から一目置かれてかなり注目されていた話も伝わっている。

 

次に丹羽氏勝だが、築城や道路工事を担当していた際に、丹羽氏勝の管轄の作業員たちがヘマをして、織田信長が通りかかった時に巨石がそちらに転がってしまったという、間違えれば大怪我になっていたかも知れない不祥事を起こしてしまった。

 

丹羽氏勝は厳しく叱責されて追放処分になったものの、ただしその子の丹羽氏次はそのまま岩崎城の領主としての継承が公認されているため、道義面の表向きの厳しさが強調されただけといえる。

 

この丹羽氏次は、羽柴秀吉と徳川家康とで一戦となった、あの小牧長久手の戦いで大活躍している。

 

丹羽氏次は、織田信雄(のぶかつ)の家臣の立場として織田・徳川側で一貫して参戦するが、羽柴方が徳川方の背後を突こうと、その通り道であった、兵力的には大したことはなかった岩崎城の攻略に動いた。

 

その作戦のための通り道になっていた、丹羽氏次の居城であった岩崎城は、簡単に落城するだろうと思われていたのを、しぶとく応戦されてしまい、思わぬ時間がかかってしまった上に、損害も出てしまった。

 

岩崎城は落城してしまったものの、この活躍は徳川軍の動きに有利に作用するきっかけになり、その全体としての勝利に貢献したほどの助けとなった。

 

徳川家康は絶賛したい所だったが、織田信雄の家臣であったため控えられ、しかし小牧長久手の戦いが休戦・和解となると、この岩崎丹羽氏は改めて、敵ながらと羽柴秀吉からも、味方を有利にしてくれた徳川家康からも高く評価された。

 

関ヶ原の戦いの際も、この岩崎丹羽氏は東軍徳川を表明し、この時に徳川家康の期待に応じる形で美濃の徳川派たちを支援した。

 

たまたまもあるが、岩崎丹羽氏は徳川氏とは共同的な縁か続き、かつての小牧長久手の戦いの時のことも高く評価され、三河で1万石の大名資格とさらに、一代限りではあるが徳川家の由来の婚姻関係も受けるという、かなり優遇の格上げを受けている。

 

徳川家の由来の地であった三河の領地は特別扱いされていて、例えば旗本で1000石でも、三河の領地かその他かで、同じ1000石の者でも優先権に大きな差ができる場合もあったため、皆がうらやましがった。

 

1万石だと、大名資格としては最低限のため大したことは無さそうに見えるが、きつい義務の免除など、他にはないかなり有利な特権も当然与えられていたと思われ、三河で1万石は、格式的には5万石ほどのちょっとした外様大名ほどだったと思われる。

 

次に、摂津で台頭し、織田信長から優遇されていたはずだった荒木村重の 1578 年の突如の離反について触れる。

 

これはまず、この頃に降参しかけていた浄土真宗(本願寺)に、織田氏と早く和解されては困るかのように、その加勢に慌てて東進してきた中国地方の大手の毛利軍の、その呼びかけに荒木村重が応じる形で織田氏を離反する形となるが、諸説あって判然としない所になる。

 

その前年の 1577 年でも、浄土真宗の攻略から離脱して離反した松永久秀も、まるで対抗馬の浄土真宗を失っては困るかのような動きである。

 

摂津、大和それぞれで部将格を織田信長から公認されていた、立場が似ていた新参筋のこの2人は、織田政権の天下と、準備されていたさらなる身分再統制の予定を意識していたのは間違いない。

 

この頃にはもう弱まっていた石山本願寺城(浄土真宗の本拠)の包囲を担当した、古参の筆頭重臣である佐久間信盛も、そこをかなり意識していた。

 

尾張再統一時代からの佐久間信盛についてはともかく、安藤守就や水野信元らのように、松永久秀も荒木村重も、織田氏の旗本(武家屋敷)にいったん収容(家格の再裁定)されてのことではなく、織田氏が中央に進出する前の三好氏の権勢下で、その地位を得ていた筋になる。

 

新参筋は、尾張・美濃時代までの古参筋ほど厳しさは向けられなかった傾向はあるものの、ただし今までの地位をそのまま公認してもらった者たちというのはやはり「ならば手本・働き次第だ!」という仮公認に変わりはない。

 

だからそこでまず、その地位に見合う織田領内全体の多くの下々を納得させられるような最低限を見せ、織田信長を納得させられなければ、少なくともさらなる格上げのための優先権など、与えられる訳がなかった。

 

松永久秀も荒木村重も、かつて権勢を誇っていた三好氏でその地位を獲得してしまった筋で、これまでとは別格の高次元な敷居の織田氏の等族議会制に従うことになったために、「今まで通り」のことをしていては通用しない、その気まずさも年々強まっていったことは、容易に窺える所になる。

 

特に、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉らの働きは目覚ましく、それに続くように滝川一益、池田恒興らも目立っていた。

 

彼らが松永久秀や荒木村重の2人よりも、任せられる権限と待遇が上回り始め、さらには有力寄騎の蜂屋頼隆前田利家佐々成政、斎藤利治、金森長近ら、また旗本筆頭の堀秀政などの活躍・威厳も目立ち始め、それらの方が格式が上回り始めていたのである。

 

当初はそれら有力寄騎たちよりも、表向きの格式は上であった松永久秀と荒木村重の2人は、彼らほどの手本・働きを示せておらず、どんどん追い抜かれていきそうになっていた事態に、かなりあせっていたと思われる。

 

特に荒木村重は、その寄騎の中の高山重友中川清秀といった才気溢れる摂津衆を従えていた身だったために、出世競争の観点でのそうした状況に、荒木村重に対する風当たりもかなり強まっていたと思われ、この事情は松永久秀も同じだったと思われる。

 

先の斎藤利三が「今まで通りの地位をこれから立証しなければならなくなっていた稲葉良通」とのこれまでの関係と手切れして、明智光秀の家臣になりたがっていた所も、こういう所だったのではないかと筆者は見ている。

 

松永久秀においては、半分は過去の三好氏の権勢に頼って大和の代表格の地位を維持してきたに過ぎず、ただでさえややこしい大和の有徳たち(興福寺や春日大社などを始めとする有力な面々)を、自身の器量(教義指導力)による再統一(裁判権改め・再結束)が進められていたのかで見れば、その支配力もせいぜい半国ほどだった。

 

柴田勝家も、明智光秀も、羽柴秀吉も、織田信長の代理人として地方を、皆苦労はしていたが裁判権改めで従わせることができていたのに対し、荒木村重はともかく松永久秀などは、それと同格の働きなどできていないことが、年々の差になっていった。

 

大和は特殊な地域柄で、確かに裁判権改めは簡単ではなかったが、ただし単純に考えても、その本拠地の地方再統一も実質できない者が、他の地方の裁判権改めができる訳がないと、それがもう頼りないと見なされてしまうのである。

 

戦国後期は、それができなかった勢力はどんどん消滅していき、それができていた勢力に等族議会的に併合されるようになっていった力関係が、どんどん濃くなっていった時代である。

 

そもそも丹羽長秀、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益、池田恒興といった、かつての群雄たちの実力を上回り始めていたこれら重臣の面々を選別・育成できていた織田氏のように、時間の経過とともにそうした国家構想的な組織として成長させられていたといえるような、これらと肩を並べられるといえるような高次元な組織など、他は皆無だったのである。

 

松永久秀も荒木村重も「なんとかついていこうと、やっていこうと思っていたが、あまりにも高次元過ぎて、とてもついていけなかった」といったように、立場がすっかりなくなっていて、部下たちの統制も怪しい状況に陥っていたと思われる。

 

これは結果的な所だけ見れば、2人の能力不足のせいという話になってしまうが、重臣の面々のように旗本たちと近い関係から始まる歩み方(育成)を受けていないと、他で認められてその地位を得た者が、高次元な織田氏の最低限の基準(身分再統制的な家格・格式)でそのまま通用するか怪しいことが、はっきりしてしまった部分だったともいえる。

 

これは現代の教義競争でも商戦でも同じことがいえるが、実際は中途半端な実力でヘタに良い結果や地位を得てしまった後に、他に築かれてしまった高次元な最低限の基準に対応しなければならなくなると、今まで人よりも良い思いをしてしまった分だけ後で困ることになる、ありがちな構図である。

 

そして定番として、それについていけなくなる者の多くは、自分が信じてきた猿知恵(ただ偉そうなだけの正しさ、ただ偉そうなだけの地位や権威=育成理念など皆無なただの偽善性癖)が手放せなくなり、面倒がりながらやたらと偉そうにケンカ腰に、皆で高次元側を否定し合う寄せ集めになり始める、その身の程知らず行為を始めがちである。

 

末期症状(猿知恵)を末期症状(猿知恵)だと自覚(自己等族統制)できたことがない、公的教義と大差ない低次元同士(偽善者ども)の典型といえる。

 

そこも普段から疑い見抜けられていないということは、自身の経緯をそれだけ大事(丁寧)にしてこれなかったのと同じ、まず自身のそこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方もできていない者が、人がしてきたことを尊重・把握できる訳も、人がしてきたいい加減な実態を疑い見抜くことも、できる訳がないのである。

 

身分再統制(旧態の偽善価値の一斉償却)の存在そのものであった織田政権の台頭によって、人の上に立つ資格などない、それに見合わない地位や待遇を求めようとした者たちは内外問わずにどんどん沈没していった、そういう公正な世の中に向かわせた、すなわち戦国終焉に向かわせた貴重な前例を作ったのが、織田信長の大偉業だったのである。

 

次も、本能寺の変が起きるまでに何があったのかの特徴などについて、説明を続けていく。