近世日本の身分制社会(078/書きかけ137) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか06/? - 2021/09/14

戦国後期の教義競争(裁判権改め=家長権争い=身分再統制=等族議会制)とは、今までの武家法典(今までの武家社会の手本家長のあり方)の大総括(教訓の大幅な見直し)の歴史でもあったという観点で見ることが、本能寺の変の手がかりとなる。

その視点から、今までの歴史的な問題を今後、再発させないようにする、かつて課題にも対応できるといえるほどの法(国際社会性)の整備(等族統制)の取り組みが、どこが最も優れていたのか、その意識差で優劣が決まった時代ともいえ、

 それがよりできている高次元な格上側と、そこまでできない低次元な格下側との、その力量差の白黒を示し合う時代

 より高次元な等族議会制が確立できる側こそが従わせる側、その再統制に従わなければならない側、との関係を明確にし合う時代

であり、新たな身分再統制(等族議会制=これからの法治国家のあり方)の規定によって、上から順番に格下げを受けたとしても

 士分(武家側・公務側)の立場を、維持できた側と、維持できなかった側

の差もはっきりするようになった時代でもある。

その大総括とはどのようなものであったのか、その意味で、鎌倉政権、建武政権(けんむ)、室町政権の流れについて今一度、これら特徴を見直していけば、これまで謎と強調されてきた本能寺の変もそう謎でもないこととして、順番に紹介していきたい。

これは皇室(聖属政権)の歴史としても、武家(世俗政権)の歴史としても、いずれにしても日本人である自分たちの国の歴史として、関心を向けておいて損のない話でもある。

その視点から見ていくことで、戦国後期や本能寺の変の特徴を知る上だけでなく、日本の皇室の歴史が「今まで公正に、正確に伝えられることが、されてきたのか?」という、それ自体が民権問題としても大事な部分だともいえる。

まだ国会がなかった明治時代初期に、倒幕雄藩らの有力者らが国政の実権を偉そうに握り、民権的とはいえない政策ばかり強行され、薩長藩閥と揶揄されていた、太政官(だじょうかん)を中心としていた当時の政府が、大した歴史観もない皇国史観(天皇神聖論)が性急にもち上げられ、そこが今なおも正確に訂正されてこなかった所になる。

その時に、建武時代がやたらと取り沙汰され、何の事情の説明も無しに後醍醐天皇(ごだいご)が担ぎ上げられ、当時の聖属政権の仕切り直しをまるで足利尊氏が一方的に悪意をもって妨害したかのような虚像の勧善懲悪観を国民に、いきなり急に押し付けるやり方がされた。

この時点で、自国の大事な歴史がまず、散々歪められてしまった。

所詮は今の公的教義と同じ、いい加減な見方しかできない、知りもしない、教えられない、できもしないことを面倒がりながら偉そうに権力任せに押し付けることしか能がない、時代遅れの顕蜜体質に過ぎない猿知恵の集まりがやるとそうなる典型例といえる。

 

当時の皇国史観自体の欠陥、歴史掌握力の欠陥は、そのまま国際情勢の把握力の欠陥に繋がり、そこに欠陥がある分だけ、国際視野の国威・格式における国家戦略力(国家構想力)や外交力(人文性・啓蒙性・異種異文化の多様許容性)にも支障が出てくることを、意味するのである。

国際外交とはすなわち、等族国家化(法治国家化・等族社会化のための、国際性ある議決力があるといえる等族議会制・整理回収力=民権言論性の反映力)の双方の力量を、互いに見抜き合い、または互いに見習い合うことから、まずは始められなければならない。

国民同士がまず、人としての最低限の手本礼儀(自己等族統制。体現体礼。人文性・啓蒙性重視)の示し合いがまず大前提になっていない、そこに疑問をもてない低次元な非国際的な集まりでしかない国体同士・組織同士・個人同士が、どうやって異種異文化間で国際規定的(等族規定的)といえる平和的な議決性が育つのかという話である。

人間性(国際人道観)も社会性(人文性・啓蒙性)も最初から踏み外している公的教義と大差ない分際(偽善者)も見抜けないような手合いが、よその個人や組織や国家の切り抜きの浅ましい失態や落ち度だけを見て、センノーだの愚民統制だのと、笑いものにしている場合ではないのである。

近代における法治国家化の原点・出発点となった等族議会制について一度も教えられたこともない、ただ外圧任せ(ただの人任せ・ただの数任せ・ただの権威任せ)に、気絶(思考停止)し合い、失望し合わせるために偉そうにケンカ腰になることしか能がない身の程知らずが、公的教義の実態なのである。

自国の歴史・文化を大事にできていないよそのことを、とやかくいっている場合ではない、知りもしない歴史に面倒がりながら偉そうに触れようとすると「こうなる典型例」なのが、そもそも欠陥が多かった皇国史観と、それを今もって正確に訂正されてこなかった実態であり、

 知りもしないことを、知った気にただ粉飾しておきたいだけ

 できもしないことを、できていることにただ粉飾しておきたいだけ


人としての道(等族義務)を最初から踏み外している、それでケンカ腰になろうとする身の程知らずの低次元な猿知恵の化けの皮を、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方をもって普段から疑い見抜くこともしてこれなかったような手合いが、何を偉そうに人に向かって人間性(国際人道観・人文性)だの社会性(公務公共性・啓蒙性)だのという話なのである。

そこを反省できたことがない、やたらと偉そうにケンカ腰になることしか能がない公的教義と大差ない猿知恵の塊に過ぎない身の程知らずどもにこそ、

 「貴様らなどは、低次元な猿知恵の塊の敷居同士の中で偉そうに誇らしげにケンカ腰になることしか能がない、ただ気絶(思考停止)し合いただ失望し合うのみしか能がない公的教義と大差ない、口ほどにもない集まりである!」

 「低次元同士のただの猿知恵を面倒がりながら押し付け合うのみの実態と決別もしてこれなかった、高次元な品性規律(最低限の手本礼儀の示し合い・自己等族統制)の確認(尊重)など何もしてこれなかった、非国際的な格下の集まりに過ぎん!」


と、高次元な民権言論の視点を以って、そこにお構いなしに遠慮なく、その等族違反(国際人道的な説明責任力・議決性に何ら結び付かないような、ただ偉そうなだけの閉鎖的な猿知恵)の天狗の鼻をまとめてへし折ってやればいいだけの話なのである。

それこそが、現代でも共通している、それがいかにできているかの、事態の収拾のための戦国後期の再統一戦の原則・指標であり、同時に世界全体の国威・格式を確認し合う原則・指標だったのである。

押し付けだろうが押し付けでなかろうが、間違っていようが間違ってなかろうが

 低次元(猿知恵)は低次元(猿知恵)の敷居

 高次元(等族統制・人文性・啓蒙性)は高次元(等族統制・人文性・啓蒙性)の敷居

であり、文句があるならその最低限の白黒をはっきりさせてやればいいだけの話、すなわち相手よりもこちらの方が高次元側の格上だといえるような意見・状況を自分で回収・整理した提示をし合えばいいだけの話である。

 「押し付けだろうが押し付けでなかろうが、間違っていようが間違ってなかろうが、文句があるなら相手と同格かそれ以上の高次元な民権言論(確認・回収・整理・裁量)を以(も)って、堂々と言い返せるような器量(教義指導力)の示し合いをして見せよ!」

 ただ気絶(思考停止)し合い、ただ失望し合うのみ止まりの猿知恵をたらい回すことしか能がない、公的教義と大差ない低次元な実態も見抜くこともしてこれなかった格下側が、それを見抜いて整理提示(国際人道的な議決性の事態収拾の示し合い)ができている高次元な格上側に向かって、何を偉そうに反抗しようとしておるのだ!」

 ただの猿知恵の偽善性癖(怠け癖=思考停止)の怒りを無神経(無計画)に偉そうに人にぶつけようとする、その劣悪態度も自立自制(自己等族統制・体現体礼)できないだらしないことこの上ない迷惑千万な公的教義と大差ない低次元側の格下どもは、ひっこんでおれ!」

自身の方が高次元側の格上(相手を否定する側・失格扱いする側)だと姿勢を鮮明にする以上は、その態度を出しただけの人としての最低限の手本礼儀の説明責任(等族責任。事態の整理・収拾の姿勢)の示し合いまでできていて、それができていて最低限の国際人道観をもてているといえる。

相手を叩きのめしたい以上は、荀子・韓非子だけでなく孫子の兵法の組織理念(国際軍事裁判権の原則=品性規律=人の上に立つ者のあり方)でも指摘されている、そういう所こそをまずは民権言論面から恫喝し合い、その白黒をはっきりさせてやればいいだけの話である。

末期症状(低次元)を末期症状(低次元)だと深刻さももてない者が、どうやって政務吏僚体制(公務公共性=国家戦略)を構築できるのか、どうやって政治戦、外交戦、諜報戦を展開できるのか、その立場の視点に関心も示せない者がどうやって近世の等族議会制のことや、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の立場のことを理解できるのか、という話なのである。(孫子の兵法でも指摘)

間違っているかどうか止まり、押し付けかどうか止まりだけでただ足踏みするのではなく、高次元化を目指す以上はどちらの方が、

 相手よりも、より面倒がらず、より冷静さ慎重さ丁寧の余裕をもった見方で、普段から無能(偽善・等族違反)を疑い見抜くことができているか

 相手よりも、よりその手本礼儀(民権言論性=国際人道的な議決性に結び付くといえるような説明責任)の示し合いに向き合うことができているのか


そこからまず確認(尊重)し合うことが大事なのである。

これは、戦国後期の地方・国内の再統一戦でも、現代の民権言論面での最低限の示し合いでも、商戦の企画戦略や発明的な新規開拓の姿勢でも、

 「自分たちにこそ、その主導性がある」に結び付くような「よそではなかなかできていない所を目指すことが、自分たちはできている」という積極的な姿勢で取り組めている側



 そういえるような積極的な姿勢で自分たちで取り組めている状態とは、いえない側(よその立証の背中を追いかけるだけで精一杯な側)

とで当然のこととして差が出てきてしまう原理的な所は、現代でも全く同じことがいえるはずである。

高次元側だと堂々とする姿勢を目指してすらいないような、万事面倒がりながら偉そうに人のせいにすることしか能がない生き方しかしてこれなかったような的教義と大差ない低次元側が、何を偉そうに高次元側よりも誇らしげに構えようとしているのだという所を、まずは民権言論面からガツンと恫喝してやればいいだけの話である。

低次元同士のくだらなさにあきれる余裕をもった、人としての最低限の見方も普段からできていない、そこを疑い見抜くこともしようともしてこなかったということは、それだけ高次元側の参考などしてこれたことがないの同じ、それだけ人を見る目もないのと同じなのである。

筆者が今も一応は予定している、次のコンピュータプログラム( Windows と C++ について )に関するまとめ解説も、実際できるかどうか、またどのような方針のものになるかの詳細もまだ判然としていないが、いずれにしてもこちらの構築理念(組織理念)の姿勢を提示しておいてからを、予定していた。

つまりプログラム関係の記事を書いた時に「皆に合わせない」という所のみ機械的に拾って錯乱(気絶・思考停止)しながら「間違っている」だの「押し付け」だの、大して向き合ってきた訳でもない人間性だの社会性だのを軽々しく偉そうに用い始める、その今までの猿知恵の手口など通用しないことを思い知らせる事前対策が、本記事の「近世日本の身分制社会」の位置付けでもある。

人間性(人文性=国際人道観・異種異文化の多様許容性)だの社会性(啓蒙性=品性規律・等族統制・高次元化のための民権言論性)だのをもち出す以上は、それをもち出しただけの人としての最低限の手本礼儀としての説明責任(等族責任)の示し合いの前提の形を、こちらから準備しておき

 「では、その分野においてどちらの方が、より冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方ができている高次元な格上側だといえるのか、説明責任力(確認力・回収力・整理力・裁量力)をもてているのか」

そこの違いの、言い逃れ無用の白黒をはっきりさせ合えば良いだけの話であり、誰もそこをガツンと恫喝・決着させようとしないから、ただ下品で汚らしいだけの公的教義のような低次元側の猿知恵がいつまでも通用すると思わせる勘違いを横行させ、いつまでも調子に乗り続ける無能(偽善者)も後を絶たないのである。

「そこまでの言い分(民権言論性=等族議会的な議決性への整理回収)などもてていないのなら、ひっこんでおれ!」という等族裁量の手本姿勢をはっきりさせ合うことがされないから、事態も一向に収拾していかないことも問題視されるようになった、だから低次元が許されなくなり、高次元を巡る戦国後期の国内再統一戦(裁判権改め・身分再統制・手本家長の示し合い)に向かったのもまさに、そこが重視されたからなのである。

今後のためにもその違いを事前にはっきりさせておく目的もあって、読む人がいるかどうかはともかく、この記事を筆者は書き続けているのである。

本題に入り、本能寺の変の特徴を知るためにも大事になってくる、日本の武家政権(世俗政権)のややこしい事情について、前頁の続きとして今回も触れていく。

まず、日本の聖属政権の世俗化の転換期となった12世紀末は、社会全体の物的世俗化もいい加減に強まってきていた中、相変わらず古代霊的・旧態的なままだった聖属政権をただ当てはめ続けるばかりでは、いい加減に法(国際社会性)の整備(等族統制)も間に合わなくなり、それがついに代行される形で、世俗政権(武家政権)が発足される。

しかしこの鎌倉政権も、時代に合った法(国際社会性)の見直しも間に合わなくなる14世紀になると、不当が横行するばかりの欺瞞政治が蔓延し、それが原因の各地の悪党闘争(反発運動)も、段々と収拾がつかなくなる様子を見せた。

一向に改善に向かわない鎌倉政権のあり方に、多くの武家の諸氏から不満がもたれるようになっていたその様子を機に、後醍醐天皇が「日本は皇室・朝廷政治(聖属政権)が本来だった」ことを訴える綸旨(りんじ。天皇直々の勅令)の書状を、各地の有力武家たちに送って倒幕を呼びかけ、苦戦しつつもなんとか鎌倉解体にもちこむことに成功する。

この時の鎌倉倒幕戦の名目(誓願)でもあった建武政権の発足とは、かつての聖属政権(皇室と朝廷中心の政治)の仕切り直しの再出発と、世直しの公武一体の協調路線の政治、ということだった。

しかしこの建武政権は結果的には、ただの時代逆行の古代復興にしかなっておらず、聖属政権のあり方の仕切り直しも、公武一体も、とてもできているとはいえないものだった。

順番に説明していくが、世俗政権から聖属政権に戻されること自体は武家側としては、公正なものとして世直しになるのならそれでも構わないという見方だったことと、のちに武家側が反発したのは聖属政権に対してというよりも、廷臣たちのやり方が乱暴だった人事問題が主因だったことも、しっかり説明されてこなかった所になる。

 

明治時代におかしな皇国史観が作られ、第二次世界大戦後も、そこは実際はどういうことだったのかという観点からしっかり訂正もされて来ずに、永らく曖昧にされ続けてきた所になる。

話を戻し、世俗政権化を受けて権威を削減されてきた廷臣たちが、聖属側のかつての領地特権(荘園特権)を過剰に取り戻し始めるばかりで、倒幕戦と建武政権の構築に、懸命に協力・貢献してきたはずの各地方の武家側には、それに見合った待遇もろくに手配されない、人事差別を受けている者たちが多かった。

公家側(聖属側)の中には、ろくな功績もなければ、典礼も受けてもいないはずの者までが過剰に見合わない特権を得ながら、武家側(世俗側)を人事差別ばかりするようになったことで、その中央の様子に武家側は動揺・失望するようになった。

公武一体(公家政治と武家政治の、互いの良い所の協調路線の政体にしていく)の武家側に対する公約が一向に守られずに、何かあれば皇威をもち出して武家側に、中央が得するためだけの過酷な出費と労役の無償奉仕を一方的に強制されられるばかりだったため、皆も困り果てるようになった。

全員ではなかったが、代替特権が手配されない者が多く、それぞれの地元の地域貢献と関係ない無償奉仕の強制に付き合わされて貧窮させられる一方だった武家側が多かったため、建武政権を支えようとする意欲など減退していくに決まっていた。


あれこれ命令してくる中央に武家側も手抜きし始めると「手抜きしたら朝敵と見なして討伐令を出すぞ!」「その討伐令に従わなかったり手抜きする連中も、討伐対象にするぞ!」と脅し始めるようになった

その構図こそまさに、鎌倉末期の悪党闘争の混乱と何ら変わらなかったため、武家側も「鎌倉末期の時の状況と、一体何が変わったというのだ」だったのである。

武家側から見たこの建武政権(聖属政権の仕切り直し)とは、かつて武家側が地頭制(じとう。地方の世俗権力)を手配し、荘園制の権力(しょうえん。聖属=かつての公家権力による労役権や徴税権などの政治力)を削減し始めた構図の、廷臣たちのその巻き返しのただの逆襲劇にしか、見えなかった。

経済社会の世俗化もより進んでいた中で、昔のままの聖属政権の形にただ戻すばかりで、鎌倉時代の諸問題に対する日本全体の利点になるような時代に合った対策・改革といえるようなものが、一向に見られない有様だったのである。

建武政権は発足した途端に、異様な速さで行き詰まりを見せたが、これは現代の会社などの団体運営でも同じことがいえる所として、こうした現象は、完全に行き詰まりを見せるようになっていた江戸時代の後半でも顕著な所になる。

自分たちの整理も工夫もろくにされないままの、自分たちに合うかどうか解らないようなよその正しさを安直に当てはめたり、過去の社会慣習・過去の勧善懲悪観を延々と当てはめ続け、面倒がりながら偉そうにうちのめ合うやり方ばかりの典型的な「よそ/過去の正しさのただの再確認終始主義」の、社会病的な総思考停止(総偽善)の典型例といえる。


中世後期から近世初頭に顕著だったヨーロッパの、リナシタ(教義のあり方の原点回帰運動=人文主義運動に貢献)のように、

 冷静さ慎重さ丁寧さの落ち着きある人文性・啓蒙性の視野をもち合う、今一度のキリスト教徒としての、今までの良い部分と悪い部分の見直しが議会的にされる姿

と、そこが全くない今の公的教義のような

 権力任せにただ面倒がりながら偉そうに、過去通りの価値観(社会観念)を延々と押し付け合い続けるのみ、過去を強引に当てはめ始め続けようとしているだけの姿

とで、高次元側、低次元側の差になってくる所になる。(教皇庁の後者一辺倒の姿が、いい加減に社会問題視されるようになったための、世間側からのリナシタ意識の芽生えだった)

ここで、後醍醐天皇もこれまで歴史的に誤解され続けてきた所としてまず、鎌倉末期には朝廷(聖属側)への抑え込み方が強引だった得宗家(とくそうけ。鎌倉政権の事実上の代表格だった北条家のこと)には、確かに嫌悪感はもっていた。(順述)

ただし後醍醐天皇は武家社会そのものについては毛嫌いなどしておらず、世俗政権化に至った経緯に健全な興味をもって、実際に公武一体をやりたがっていた意図は、十分にあったといっていい。

その意味でも大事なのは、後醍醐天皇を奉じる廷臣たちの建武政権(聖属政権の仕切り直し)が振るわない中で、好転するまでなんとかしていくのか、それとも光厳天皇(こうごん)を奉戴することになった足利氏による新政権(世俗政権の仕切り直し)に切り替えるかを巡って、日本全体が二分して争わざるを得なくなった南北朝戦争の対立構図も、これもただ聖属政権か世俗政権かを巡るというだけの単純構図などではなかったその事情も、今までしっかり説明されてこなかった所になる。

順番に説明していくが、明治時代の皇国史観では、後醍醐天皇(南朝)と散々対立して、皇国運動を著しく妨害したとする足利尊氏のことを一方的に悪人扱いするばかりで、その代行元の当の光厳天皇(北朝)の貴重な存在と、その大事な事情を完全無視している時点で、おかしな皇国史観を押し付けていた権力者どもの言う「不遜」とやらがそこに生じていて、大いに矛盾しているのである。

今の公的教義のように、知りもしないことを教えようとするとこうなる、自国の歴史(裁判権史・教義史)のことなど一切大事にしてこれないような低次元な無能(偽善者)どもに触らせるとこうなる、典型悪例といえる。

鎌倉政権が解体され、いざ建武発足を迎えた途端に、肝心の廷臣たちの中で公武一体の賛成派(世俗権力との許容・融和派)と反対派(世俗権力との拒絶・差別派)で早くも分裂し始め、急にまとまりがなくなってしまった、建武政権がうまくいかなかったそもそもの第一原因がここだったことも、今までしっかり説明されてこなかった所になる。

ここも現代でも共通するありがちな所だが、この時点で廷臣たちの間で何が起きていたのか、すぐに解った人と、全然解らない人とで、筆者はこの言い方はあまりしたくない表現だが、偉そうな意味ではなく深刻さを知ってもらいたい意味で「人生経験不足」の差、という言い方をここであえてしておく。(分裂問題の意味も後述)

時系列が前後するが、織田信長が一部の廷臣たちを問題視していたのも、まさにこういう所なのである。

 「肝心な時にこそ陛下を支え、日本全体の国威・格式のためにも、中央政権とも協調的・健全的に交渉し合い、助け合っていかなければならないのが、本来の廷臣の務めのはず」

 「そのために院政側の者たち(聖属のあり方の管理者たち=廷臣たち)も、大事な教義手本として等族議会的な議決性をもって、時代に合った方針を廷臣たちの間でも整備・再統一(選挙戦)していかなければならないはず」

時代に求められていたそこを、中途半端にしかしてこれなかった廷臣たちの反省度合いが足りなかった、そのだらしない姿勢がまさに、自国の自力教義(教義史・皇国史)を自分たちで大事にしてこれなかった姿であり、その化けの皮の姿こそが、ただの権力化のためだけの猿知恵の顕蜜体制でしかなかった、延暦寺(公的教義)の虚像そのものだったといえる。

かつての廷臣たちの建武失敗のやらかしは、時代的にも難しいことだった酌量はあっても、廷臣たちにもまとまりがなかった問題も多大だった所は、廷臣たちの課題として反省し、教訓に活かさなければならない大事な所なのである。

 

そして等族社会化(法治国家化)に向かい始めていた戦国後期の大事な時期までに、廷臣たちにその反省・教訓が十分に活かされているとはいえない部分が目立っていた。

かつてのやらかしの教訓など全く活かされずに、相変わらずの自分たちのまとまりがなさの、そのだらしなさが露呈し始めるたびに、

 それをごまかすために外のせいばかりにして、むしろ外を巻き込んで騒ぎを大きくしながら毎度のように、万事うやむやにしようとする

そのいい加減な劣悪性癖の猿知恵体質なままだった一部の廷臣たちに対して、織田信長は問題視していたのである。

もうどうにもならないと思われていた室町政権(武家政権)に、最後の希望であった足利義輝が懸命な立て直しの姿勢を見せるようになり、諸氏も一目置くようになって足利義輝に従い始めた時も、織田信長が中央に乗り込んだ時も、廷臣たちのそこが相変わらずだった。

そうやって中央の立て直しが見られるようになり、日本全体の方向性が見え始めるようになると、廷臣たちが自分たちで向き合わなければならなかった、それぞれの利害筋の絡み合いから起きる非同胞拒絶(合併アレルギー)をろくにまとめられずに、何かあった時の騒動をいたずらに助長させるばかりだったのである。

つまり中央の立て直しが一向に進まない要因に、この廷臣たちの、自分たちのあるべき院政(日本の聖属教義の管理者)の方針の再統一(選挙)の等族統制の努力が足らなかったことは、それこそが建武の失敗の大きな反省点でもあったのである。

足利義輝は、そのだらしない反感分子(偽善者)たちに器量(教義指導力)を危険視・暗殺されてしまい、織田信長の場合も厄介な反織田連合の動きになった時も、皇室と朝廷のあり方のためにも、中央をどう支えていくのかという部分でやはり、廷臣たちの力量不足ばかりが目立った。

どういった世俗側(武家側)の姿を自分たちで選んでいきながら、聖属側としては何をどう一貫していくのかという国事について、廷臣たちの課題として自分たちでそこをしっかり整理できていなかった、厄介事が起きる肝心な時に限っていつもそこをまとめ切れずに、全てよそごとの事なかれ主義でうやむやに過ごされ続けてきた。

聖属側の問題も全て武家側のせいにするばかりで「自分たちで皇威と朝廷をしっかり支えていくという務めを、果たしてこれた」とはとてもいえなかった、廷臣たちの建武の失敗がろくに活かされていなかった姿もすっかり露呈していた、そこを織田信長は問題視したのである。

「中央の立て直しが始まれば、騒ぎが起きて崩壊」が繰り返されてきた定番も、織田信長に中央(京)に乗り込まれると、ついにその負の連鎖も終止符が打たれた。

反織田連合の最初の勢いに織田氏も最初こそ苦戦こそしたものの、それを見事に跳ね返し、所詮は短期間しか維持できない反連合側の結束の弱まりも露呈していくと、その後の織田氏の地方制圧戦(全国に対する、織田政権による裁判権改め)を、誰も止められない状況となった。

すなわち、騒動が起きるたびに、今までその騒ぎに頼ってうやむやにしてきた廷臣たちのいつもの猿知恵(ただの劣情統制)の手口を、ついに織田信長の公正な旗本吏僚体制の前に、その劣悪な機会を完全に奪われ始める状況を迎えてしまった。

そしてついに、今まで廷臣たちが自分たちでろくに整備してこれなかった、自分たちの問題であった今までの聖属(神道・仏教)の管理者としての見直しとして、避けて通れなくなる廷臣たちの課題である非同胞拒絶(合併アレルギー)に向き合わざるを得なくなってしまった、だらしない廷臣たちが恐れていた「その時」が、織田信長についにもたらされてしまった。

織田信長からついに

 「地方の閉鎖有徳どもと大差ない廷臣たちは、外・よそのことを、とやかくいっている場合ではない、まとまりのない自分たちの深刻なその課題を自分たちで自己解決(自己等族統制)できてから、外・よそのことを言え!」

と、悪用再燃させないために公的教義(延暦寺)は踏み潰されっぱなしなまま

 「悪い意味の称名(しょうみょう。経典から耳ざわりの良い文言を抜き取っただけの、ただの標語集)をただ丸覚えすることしか能がない猿知恵の顕蜜体制(口ほどにもない学位学歴)なんぞに、いつまでも頼りおって!」

の、もはや言い逃れ無用の環境を、突きつけられてしまったのである。

話を戻し、建武政権の発足(聖属政権の仕切り直し)がいざ始まったと思ったら、廷臣たちの間での大事な名目方針のまとまりが、急になくなってしまった様子に触れいきたいが、その前に、時系列が前後するが後醍醐天皇・新田義貞の南朝側(大覚寺系・だいかくじ)と、光厳天皇・足利尊氏の北朝側(持明院系・じみょういん)のその対立構図のややこしい経緯について、先に触れる。

この経緯は、鎌倉後期に問題視されていた諸問題にも関係している部分である。

まず得宗家(執権。鎌倉政権の事実上の頂点)は、聖属政権の機運が再燃しないように、皇室の格式を巡る問題として、大覚寺系の出身と、持明院系の出身の皇族との、格式と継承権を巡る問題を公正に調停せずに、逆に皇室内・朝廷内での結束を劣情統制的に乱すために、常に片方に不当なひいきをするやり方で対立を煽って、乱し続けてきた背景があった。

後醍醐天皇が得宗家に内心怒っていたそもそもの理由もそこで、そのかき乱しを深刻に考えるようになったから、後醍醐天皇の代になると世俗政権側の言い分をかわしながら、まずは今までの院政のあり方から、改革し始めたのである。

そして鎌倉倒幕後に、建武政権の賛否を巡って物議となった時に、聖属政権を維持するのか、それともやはり世俗政権を仕切り直すのかを巡って戦われるようになった南北朝戦争の、武家側の主役となる新田義貞足利尊氏の対立構図も、それと似た経緯をもっていた。

この2人の家系の事情は、これは鎌倉政権を発足した源頼朝と、それを支えた関東平氏の筆頭格だった北条時政(得宗家)の関係がどのようなものであったのかから、理解しておく必要がある。

武家政権のきっかけ(聖属政権から世俗政権化のきっかけ)を作った源頼朝が、皇室の衰退に便乗して中央政権を不当に専横するようになった平清盛の派閥に対し、全国の反感分子を再結束させて倒すことができた、初動のその原動力となったのは、関東平氏たちの後押しによる所が、まずは大きかった。

 

「我々は、平清盛を武家の棟梁などとは認めない」と関東平氏たちが怒って「源頼朝こそが武家の棟梁(世俗における日本全体の手本家長)で良い」と擁立・後押しされる形で、強大になり過ぎていた平清盛の派閥の切り崩しに動いたことは、何度か紹介してきた。

これも何度か説明してきたが、平安の律令制時代末期は、平氏も源氏も、それぞれの系統の伝統的な家系の格式が重視されていただけで、上層同士の派閥関係こそ左右しても、その血族くくりだけでただちに対立していた訳ではない。

源氏の本家筋である父の源義朝が平清盛に抵抗して敗れると、源氏の本家筋の派閥勢力がいったんは失脚したが、関東平氏たちが平氏の本家筋である平清盛の派閥の蹴落としを目的に、対抗馬として源氏の本家筋の源頼朝をもち上げ、それに反抗するようになった。

それを討伐しようと関東に乗り込んできた平清盛派の大軍と合戦になり、苦戦しつつも撃退に成功した源頼朝と、それを後押ししていた関東平氏たちの姿を見て、今まで平清盛の人事差別に不満をもっていた、特に先代の源義朝派に立って失脚していた各地の源氏一族も、再起を計る形で源頼朝派として加勢し、巻き返しに動くようになった。

平氏の中でも表向き同調はしてきても、今までの平清盛の派閥のやり方に不満をもっていた者たちも「源頼朝が武家の棟梁になった方が良い」と、源頼朝派に鞍替えする者も増えていき、政治戦、軍事戦が有利に進められながら、強力な支持力の家長権をかつてないほど獲得できた源頼朝が、それを背景に鎌倉政権を樹立したのである。

初動の関東平氏の後押しがなければ、平清盛派を掃討することは難しかったことが強調されない所だが、関東平氏たちの多くは当然のこととして、以後の鎌倉政権の中で大領特権を得たり、政治権力を握るようになった者が多い。

檀越(だんおつ。地域振興として寺社を積極的に支援する有力者・富裕者のこと)としても著名だった、全国的に多くの遠隔領地をもって治安的な睨みを効かせるようになった千葉常胤(ちばつねたね)以来の、全国に広く点在するようになった名族・千葉平氏一族などは、まさにそれを物語っているといえる。

源氏の本家筋の源頼朝の家系が3代で途絶えてしまうと、源頼朝の義父(北条時政)の家系として、執権(しっけん)という地位の実質の副将軍ともいうべき家格の得宗家が、以後の政権の代表の代行人として、鎌倉政権の全実権を切り回すことになる。

これも、平氏の本家筋だった平清盛を倒して、代わって関東平氏が中心の政治になっていれば良いという意識が、鎌倉政権内では強かったことが窺える経緯といえる。

源氏の本家筋は途絶えてしまったが、ただし源頼朝の家系と近縁で、その家来筋の最有力の筆頭として、源氏一族の中で高い格式をもっていた、こちらが源氏の次なる本家筋だと見なされるようになっていたのが、新田義貞と足利尊氏の家系である。

これも朝廷対策と同じように、源氏の本家筋による政権主導を再燃させずに得宗家が実権を握り続けるために、鎌倉末期にはこの両家を劣情統制的な人事差別で対立を煽り続け、源氏一族の結束を阻害しながら、政権に参与させ続けない、実績を作らせない露骨な飼い殺し政策が、続けられていた。

新田義貞の家系は、足利尊氏の兄筋の家系で本来は格上のはずだったが、源頼朝の時代に新田家の家系は協力的ではなかったことで優遇されず、足利尊氏の家系は源頼朝に協力的に功績を立てたことで優遇された経緯を、得宗家は逆手にとっていた。

こうした姿は、今の公的教義の姿でも、会社などの団体組織でも、特に家族間に権力を混同ばかりさせているような親族経営などでありがちな、いい加減な賞罰基準で公正性(民権性)から劣情(できもしない性善説)に注意をそらせようとする、いいなり体制の上下統制の常套手段としてあちこちで使われる、現代でも共通する典型の、ありがちな猿知恵の手口といえる。

関東平氏たちばかりが実権を握り続け、棟梁の本家筋の抑えこみの不遇が続けられていたことは、特に鎌倉後半で目立っていたため、この源氏の本家筋を尊重しなかったことで、鎌倉末期には得宗家はこの両家に見限られ、背かれる形となった。

特に高い格式をもちながら、武家政権の参画から外され続けてきた足利家は、本来の武家の棟梁だという格式意識が新田家よりも強く、鎌倉末期に得宗派か後醍醐天皇派かで分かれるようになった時にも、特に格式が高かった足利家の動向は全国的に注目された。

鎌倉末期の混乱で、実際に足利家が後醍醐天皇派を表明すると「本来の武家の棟梁の本家筋がそう動くのなら」とそれを機に、今まで態度を曖昧にしていた者たちも一気に、後醍醐天皇派につくようになった武家も増えたという、政治的な影響はかなりのものがあった。

そのため建武政権としても、新田氏と足利氏については武家側でも別格扱いの格上げの大領特権を認めざるを得ず、元々大手ではなかった新田一族はともかく、元々大手組織であった足利一族がこれでますます大きくなってしまったことで、廷臣たちから警戒ばかりされるようになった。

聖属政権から世俗政権に移行することになったかつての教訓が「バッチリ活かされている」などと堂々とできていなかった廷臣たちが、聖属側の教訓的な教義指導力をもってこの大手の足利家と協調路線を採っていける力量は、残念ながら無かった。(後醍醐天皇が特に嘆いた部分だった)

そこで建武政権の廷臣たちは、制御が利く新田家ばかりもち上げて政権参画させ、格式がより高かったはずの大手の足利家はまたしても政権参画外しがされるという、弱腰政策もいい所の人事差別に出た。

 

つまり廷臣たちにとって、武家側の間で格式・人望が高すぎた足利一族を政権に参与させてしまうこと自体が「聖属側が格下で、世俗側が格上という発言力の構図」が即座に出来上がってしまい、聖属側の政権力を著しく脅かされてしまうことが、危惧された。


それでは聖属政権を中心とする仕切り直しなどではなく、世俗政権の仕切り直しの下(もと)に聖属側も政権に再参与するという力関係の構図になってしまうことを、廷臣たちは恐れたのである。

 

足利家を政権参与から外し(厳密には形だけの参与で、重役から外されていた)、新田家ばかり優遇するこの構図も「鎌倉末期の得宗家のやり口と、一体何が変わったのだ」と、その主体性のなさに武家側をあきれさせる原因になっていたが、聖属側と世俗側の対立が強まるほど、そこも目立つようになった。

 

ちなみに徳川家康の家系は、この新田源氏の末裔と称され、その親類の一団が三河の支配地に着任し、その本拠地が松平郷(ごう。郷の集まりが郡。郡の集まりが州地方)であったことから、この一族が松平氏を名乗るようになった。

 

松平元康(徳川家康)が三河再統一で地方をまとめるようになると、新田氏の家系により近い旧姓の徳川(得川)に名乗りを戻し、のち徳川姓と松平姓での親類家格の基準となった。

話は戻り、勇敢な一方で普段は穏健な仁者として知られていた当主の足利尊氏は、冷静にその状況を見ていたが、ただしその執政であった弟の足利直義(ただよし)と、それと同列の最有力家臣の執政の高師直(こうのもろなお)の2人は、廷臣たちのやり方にかなり怒っていた。

 

ちなみに政略家として知られるこの弟の足利直義が、あの有名な源頼朝の肖像画が、この足利直義ではないかという説が出ている。

 

表向きは新田義貞が、建武政権が公認する武家側の代表的な代弁者ということになったため、各地方の武家側が新田義貞に貧窮を訴えたものの、新田義貞もなんとかしてやりたい所だったが、実権を握った廷臣たちにうるさく規制されたため、その対処も遅れた。

 

新田義貞に相談していては間に合わないと見た武家たちは、泣きつくように足利尊氏の下(もと)に相談に走ったため、足利尊氏は私財を投げ売ってでも、地位の低い者たちに対しても救済に動いた。

 

その様子に全国の武家たちも貧窮するたびに、段々と新田義貞を通さずに足利尊氏の下にばかり殺到するようになった。

 

足利尊氏は、泣きついてきた皆の苦境の話をよく聞き、「我が足利家は政権から外されて、すぐにはなんとかできないが、この問題を交渉してみるから今しばらく我慢し、今はこれでなんとか凌ぐのだ」と、金銀や食料を惜しみなく分け与えた。

 

当然のこととして面倒見の良い仁者としての足利尊氏の人気は沸騰し、建武政権で不遇な扱いばかり受けていた武家たちの間では

 

 「足利家が政権に参与すれば、話は一番早いはずなのに、なぜ廷臣たちは参与させないのだ」

 

 「何なら足利新政権が作られ、公正な政権の仕切り直しと、領地特権の再手配が行われれば良いのだ」

 

と皆が思うようになったのはいうまでもないが、いったん聖属政権の仕切り直しの名目(誓願)によって倒幕してしまった手前から、皆も表向きにはそれを言い出せないでいた。

 

足利人気に廷臣も「武家の所要について新田家を通さずに、政権に断りもなく勝手に全国の武家の懐柔工作に走る足利家のやっていることは、皇威(建武政権)の意向に背く反逆だ!」といいがかりをつけ始めた。

 

廷臣たちが後醍醐天皇の前に出て、また足利直義、高師直らが足利尊氏の前に互い出る形で、建武政権のあり方を巡って両者で激しく言い合いをするようになった。

 

本当は後醍醐天皇と足利尊氏は、公武一体について歩み寄りながら、和解的に調整していきたい所だったが、その想いも廷臣たちと足利家中の間で、険悪な関係に悪化していくばかりで、戦争手前のどうにもならない所にまで深刻化した。

 

足利直義、高師直ら足利家中の有力者たちが「廷臣たちが皇威の悪用ばかりして、政権樹立に貢献してきた武家たちの多くを粗略に扱い続け、彼らの面倒をろくに見ずに追い詰めることばかりしているから、こういうことになったのではないか!」と言い返しても、猿知恵の回答しか返ってこなかった。

 

廷臣たちは「お前たち武家側は、自分たちで進んで陛下に味方した、すなわち自分たちで武家政権を否定し、聖属政権の仕切り直しに賛同したではないか!」と、世直し仕切れていないことを棚に上げて、そこばかり強調の一点張りで、諸問題についての等族回収の姿勢が見られなかった。

 

そのように揉めていた矢先に、鎌倉幕府の跡地で、得宗家の残党たちによる鎌倉再興運動の「中先代の乱」が起きた。

 

それをきっかけに、京に駐屯していた足利軍団と廷臣たちとの、どうにもならない喧騒をいったん鎮める意図もあって、一時的に厄介払いするような形で、この鎮圧に足利軍団に向かわせることになった。

 

その鎮圧に成功した足利軍団は、関東にしばらく滞在したが、泣きついてくる全国の武家を救済していたことで足利家も財政難になっていたため、鎮圧先の領地を私有地的に利用・補填するようになった。

 

朝廷(建武政権)が足利家に、鎮圧地から立ち退くよう、足利尊氏は京に戻ってくるよう指令しても足利軍団は居座り続け、武家たちの救済のために私有地化を続けた。

 

もうひとつの大きな事件だった「大塔の宮の暗殺事件」については割愛するが、これらを機についに朝廷は、建武政権の指令に従わない足利氏をついに朝敵扱いし、その討伐に乗り出されることになり、朝廷と足利家は完全に和平決裂の関係となった。

 

大規模な動員となったため世も騒然としたが、のちに北朝方として天皇を仕方なく名乗ることになる光厳上皇(じょうこう。皇室の本家筋の近縁者)は、この時点ではまだ動きは見せておらず、混乱の様子を冷静に見続けていた。

 

この時に各地の武家たちの多くは、できることなら足利尊氏に味方したい所だったが、もし失敗して朝敵扱いになったら、ますます立場が悪くなることを危惧し、朝廷側として渋々参戦した者が多かった。

 

足利軍団は善戦こそしたが敗れ、関東を結局追い出される形となり、この一団は追撃を逃れながら九州方面へ逃れることになった。

 

なんとか九州に逃れた頃には、直属だけでも少なくとも8000はいたはずの仲間も、領地を失って維持費も足らずでいったんの離脱者が増え、1000もいるかどうかの状況となっていた。

 

足利軍団の残党が九州に逃れたのは、東北方面は廷臣の最有力のひとり北畠親房の一族による支配権が強まっていたのに比べると、九州や四国では、関東や東北ほどの建武政権の支持力・強制力はまだ強くなかったのが理由だったと思われる。

 

朝廷は足利の残党討伐令を緩めず、諸氏に追いかけ回させたものの、足利軍団に恨みどころか恩があった各地の武家たちは、討伐令を言い渡されても、さも激戦したかのようなフリばかりして手抜きし、トドメを刺すには至らなかった。

 

脅威の存在であった足利家を大いに弱体化させ、九州に追いやったことに廷臣たちは満足して浮かれたが、廷臣たちのその喜びも束の間だった。

 

それは、脅威を排除したように表向きは見えていただけで、全くもって脅威を排除した内に入っていなかった実態が、しばらくしてはっきりしてしまう。

 

旧鎌倉体制時代に、大覚寺系(のち南朝)と持明院系(のち北朝)とで皇位継承を巡って煽り続けられた問題について、後醍醐天皇と懇意な者たち、つまり大覚寺統の縁の強い廷臣たちが和解的な交渉もなしに、次に譲位する順番のはずだった持明院系に対し、権力任せに一方的に排撃的に廃止するといい始めたため、持明院の縁の強かった廷臣たちと険悪な関係となった。

 

まとまりのない廷臣たちが、何でもかんでもその時の権力任せに面倒がりながら無神経(無計画)に、目先の目立った不都合に敵視ばかりし始め、その手口の劣情統制を繰り返そうとする、やりがちな内部崩壊の悪化もいよいよ深刻化が見えてきたため、ついに持明院系の代表者であった光厳上皇が、動き出すことになった。

 

この時の光厳上皇の意図は、大覚寺系(南朝)の派閥が、持明院系(北朝)の廃止政策にただ反抗するためだけの目先の目的だけで動いたのでは決してない。

 

光厳天皇は今までのこうした朝廷内の劣悪性癖的な深刻な課題と、日本全体の先々の問題も憂慮した上で、この時に仕方なく政治的に対立天皇として動くようになったことが、今までしっかり説明されてこなかった所になる。

 

筆者としては、南北朝戦争で足利尊氏を手助けすることになったこの光厳天皇と、戦国後期の正親町天皇(おおぎまち)の2人は、先々の憂慮を冷静さをもって見据えた行動がしっかり採れていた、歴代の中でもかなり優れた天皇だったと見ている。

 

光厳上皇はついに天皇を名乗り、足利尊氏に名義貸しを許可した、これは遠まわしではあったがすなわち、廷臣たちの力量不足で聖属政権の再興は結局は時期尚早だったことを、光厳天皇に正式に認可してもらう形が採られた、つまり事実上の武家政権の仕切り直しを足利尊氏に託す動きに、出たのである。

 

権力を取り戻した途端に、調子付きながら皇威の悪用で暴走するばかりだった、大覚寺派たち(南朝派・後醍醐天皇の側近たち)からすると、まさに墓穴を掘るような、この上なく困った状況を招いてしまったのである。

 

権力を握った途端にろくでもないことしかできなくなっていた、厄介ごとに直面するたびに揉めながら、うやむやにすることしか能がない、調停力(等族議会的な議決性)など皆無で律令制時代の教訓など活かされていなかった、後醍醐天皇の内心を失望させるばかりの当時の廷臣たちがいかにだらしなく、いかに実態に対処する力もなかったかが一気に露呈した、歴史的瞬間だったといえる。

 

戦国後期に織田氏についに中央に乗り込まれてしまった時の廷臣たちの、そのまとまりの無さの低次元ぶりもこの時と大差なかった、後醍醐天皇、光厳天皇、正親町天皇の心労をこれまで支えることをしてこれていない劣悪姿勢を、織田信長に大いに問題視されたのである。

 

まず、光厳上皇に仕方なくの対立天皇を表明されてしまい、足利尊氏を臣下として名義貸しを認可されてしまったことで、廷臣たちの乱暴な皇威の用い方で一方的に朝敵扱いする手口も、今まで通りにいかなくなってしまったことを意味した。

 

足利尊氏の政治運動が、光厳天皇の臣下としての政治運動であることが明確化されると、今まで乱暴な廷臣たちのやり方に渋々従っていた、内心では足利尊氏を支持していた武家たちが、光厳天皇派・足利派に味方し始めるようになった。

 

これが、後醍醐天皇派の南朝方の武家の棟梁の新田義貞と、光厳天皇派の北朝方の武家の棟梁の足利尊氏との、全国を二分して戦われるようになった南北朝戦争の始まりだが、この戦いも事情はかなりややこしい。

 

九州に逃れた足利尊氏が光厳天皇の助けを得ると、やっていけなくなって今まで離脱、潜伏していた足利家臣や味方たちが一斉に、足利尊氏の下に駆け付けるようになり、九州や四国での建武政権の不満分子たちも続々と、北朝方(光厳天皇)の足利尊氏側の指示を仰ぎ始める者が急増した。

 

南朝方の新田義貞や名和長年(なわながとし)や楠木正成(くすのきまさしげ)ら武家の最有力たちの周囲たちは、しばらくは味方を装っていた者が多かったが、足利尊氏が全国的な支持力による指令権で多くの武家を動員しながら中央(京)に押し寄せるようになると、新田派から足利派に鞍替えする者も急増するようになった。

 

地域差もあって南朝に不都合でなかった有力者らもおり、南朝方の新田派として最後まで懸命に戦った勢力も少なくなったが、優勢になる一方の足利勢を防ぎきれずに、建武政権の権力者らは結局京を追い出され、建武政権の消滅もあっという間だった。

 

しかしこの南北朝戦争は、新田義貞が討たれ、建武政権の消滅を以って終わり、にはならず、ここからがむしろ大変だった。

 

まず建武政権で、廷臣たちの乱暴な聖属皇威による執政権の有効性があまりにも強調され過ぎてしまったことで、武家政権の仕切り直しの新政権となる室町政権の初期では、足利家はその聖属風潮を再び世俗化に戻すことに、とにかく難儀した。

 

これは、京を追われた後醍醐天皇が吉野山に逃れ、ここから反足利派の南朝方の残党たちに延々と呼びかけ続け、後醍醐天皇が亡くなった後も南朝方の後継者たちがそれを止めようとしなかったために、その問題も長引き続けた。

 

厄介なことに、足利新政権で仕切り直している最中に、今までが一新され、裁判権(国際社会性の基準)が改められることに不満をもち反抗的な者が現れると、目先の利害だけで南朝を引き合い出して利害利用して反感分子が結束しようとする風潮が、後を絶たなかった。

 

これは、鎌倉末期の欺瞞政治に続いて、建武政権のさらなる欺瞞政治が続き、大きな騒乱が立て続けに起きてしまったたことで、「正直者がバカを見る」所ばかり強調されてしまい、政治的な信用に真面目に向き合おうとしなくなってしまう風潮を強めてしまったために、軽々しくそういう動きに出る者も後を絶たなかった原因になっていた。

 

特に、廷臣たちが無神経に後醍醐天皇に綸旨(りんじ。陛下直々の勅令書。公認書)の要請ばかりし、いい加減な綸旨が世に乱発されてしまったために、ここぞという時のためのはずだった綸旨の著しい威厳の低下を招いた上に、ニセ綸旨が横行するようになり、詐欺事件があちこちで起きて深刻に社会問題化し、それを収拾するのにも室町政権はかなり苦労した。

 

鎌倉末期と建武政権のやらかしを正常化するのに足利家は苦労し、毎度のように起きる騒乱に、苦労しながら対処を続けてきたそうした諸問題の大幅な改善が、足利義満の代になってついに、実り始めるようになった。

 

北朝方の武家政権が事実上の政権力を掌握しても、北朝は南朝のことを、直接的に単純に力でねじ伏せようとはせず、武家政権に委託しながら、南朝との地道な議会的な和解交渉を繰り返したことが、その修繕運動が足利義満の代についに実現することになる。

 

騒乱も徐々に軟化していき、北朝の後小松天皇(ごこまつ)と、南朝の後亀山天皇(ごかめやま)の代で、和解的な皇室の再統一、つまり今まで分裂して、のちの派閥闘争の再燃の原因にもなりかねなかった深刻な、北朝(持明院)と南朝(大覚寺)の一本化の和平が実現した。

 

これによって皇室の継承問題を巡って起きがちだった、廷臣たちの派閥闘争の問題解決と、世俗政治は武家政権への委託で一致することの、皇威の持ち出し騒乱問題の解決という、本来はそこも整備しなければならなかった鎌倉政権と建武政権のやらかしの、深刻化していた後遺症がこれでやっと、解決されることになった。

 

この姿こそ、光厳天皇が足利尊氏に託していた、互いに生前中には実現できなかった、当初から予定されていた希望だったのである。

 

時期尚早に乱暴に皇威をもってくるようなやり方は、それで処理し切れずにもし問題が深刻化していくと、皇室そのものの威厳が著しく低下することを、意味するのである。

 

武家側としても、皇系(皇室の本家筋)ではないというだけで、表向きは皆が元々は天皇陛下の一族から派生した、清和源氏や村上源氏、桓武平氏、また武士団化した藤原氏ら廷臣の名族を祖先とする、一応は皇室の血族の系譜が自負された上層たちの家長権を指標とする、皆が一応は皇室の家臣という観点から、皇室の衰退は武家側の家長威厳の衰退そのものであり、日本全体の国威・格式の衰退に直結するという、日本独特の深刻な問題は自覚はされていたのである。

 

ややこしい話だが国事のあり方として、皇威を威勢良くもち出しあって、処理し切れずにうまくいかなくなって揉めるようになることは、その皇威に問題があったことになってしまい、問題の全てが皇威のせいになってしまう矛盾を招き、それが処理し切れないほど皇室の威厳を著しく衰退させてしまう原因になるのである。

 

そういう低次元な姿の実態こそが、ただ気絶(思考停止)し合い、ただ失望し合うのみの口ほどにもない劣悪姿勢に過ぎないものに世の中の正しさを求め合おうとする、社会病的な矛盾を招くのである。

 

廷臣たちが、自分たちで処理し切れない乱暴な皇威を強行し続け「皇威を全宇宙・全世界の正しさだと皆が再確認する教義にし、それでうちのめし合い、従わせ合うようになっていれば良い」とするだけの、今の公的教義の時代遅れの顕密主義と大差ない、律令制時代の古代聖属政治と何ら変わらない、猿知恵の正しさの再確認終始主義しか結局できなかったから、建武政権は失敗したのである。

 

これは第二次世界大戦でも共通していた、皇国史観の欠陥の露呈部分ともいえ、当時の日本はそういうものに頼らざるを得なかった、不利だった酌量は確かにあるが、それでもこうした歴史の反省・教訓が活かされなかった分だけ、前線で頑張っていた兵士たちに作戦面で甚大な苦痛ばかり強要するようになった、いい加減な陸軍大本営の欠陥だったといえる所になる。

 

等族議会制もまだまだ育っていない中で皇威をもち出すことは結局、日本そのものの衰退を意味するから控えるようにし、だからこそ政治問題は武家(世俗)がやはり全て肩代わりし、どうせ衰退するなら皇室を巻き込まずに武家同士(世俗)の間だけで衰退し、立て直しを繰り返す方が遥かにマシという、再認識がされたのである。

 

表向きは後醍醐天皇を中心に、という発足で建武政権ができてしまった手前、本人も内心は深刻に思っていても、廷臣たちの煽りを抑えられなかった自責からどうにも引っ込みがつかなくなっていた、その様子にやむなく、むしろ融和的で賢明だった光厳天皇がそれを見かねて、今後が危惧されて動かれる形となったのである。

 

後醍醐天皇は少し前に出過ぎてしまった等族責任は確かにあったが、しかしそういう所も含めて、それをろくに支えることができなかった、後醍醐天皇の存在を損ねる結果ばかりになってしまった、その責務をかばい切れなかった廷臣たちこそに、結局は重大な等族責任があったのである。

 

後醍醐天皇は表向き、皇威に従わない足利尊氏を反逆者扱いし続けたが、互いに周囲にうるさく訴えられ続けた立場だったこの2人が心底から険悪だったかははっきりいって怪しく、後醍醐天皇が亡くなった時に足利尊氏が、生前中に和解できなかったことを惜しんで弔ったのも、真心のものだったのは間違いない。

 

倒幕戦の時には良好だった後醍醐天皇と足利尊氏は、後醍醐天皇の諱(いみな)である尊治(たかはる。本名)の尊の字の拝領を受けて尊氏と名乗るようになって以来、変えようとしなかった所でも窺える。

 

これが、応仁の乱で世俗政権が事実上崩壊しても、皇室・朝廷による聖属政権運動が再燃しなかった、今回説明しておきたかった理由である。

 

廷臣たちのまとまりなさは相変わらずだった一方で、皇室を安直に政治に用いると大変なことになる、「またニセ綸旨を蔓延させ、皇室間の対立天皇の原因を作り、さらに日本中を混乱させるつもりなのか!」になりかねない、できもしなかった廷臣たちの建武のやらかしの部分だけでもとりあえずは反省されたから、再燃しなかったのである。

 

戦国後期までこうした問題を経てきた武家政権が、改めて今後の皇室・朝廷と、中央で台頭とした織田政権とで、これから互いにどう歩んでいくのかに改めて向き合わなければならない時期になった、そんな大事な時期に本能寺の変が起きてしまったのである。

 

先に挙げた分裂問題は次頁に持ち越しとし、次も、戦国後期に織田氏に中央に進出され、見事に立て直されてしまって動揺していた廷臣たちのことを、織田信長がどんな見方をしていたのか等に、触れていく。