近世日本の身分制社会(079/書きかけ138) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか07/? - 2021/09/24

全頁の分裂問題で、「人生経験不足」という言い回しをあえて筆者はしたが、これは偉そうな意味などではなく、思い上がってはいけない自戒を重視とする、現代でも陥りがちなその深刻さを伝える説明をしておきたい。

この典型例としていったん、後醍醐天皇(ごだいご)の初動の改革がどのような様子であったのかを例に、触れていきたい。

鎌倉末期の得宗家が、皇室・朝廷の権威を再燃させないように、当時の皇室の大覚寺系と持明院系との格式を巡る継承問題の、その足元を見る形で、そこに劣情統制的に口出しして、かき乱すやり口がされていたことは少し先述した。

鎌倉末期のように、日本全体が時代に合った公正さ(主体性・手本姿勢)が著しく欠落し始めると、そうしたやり口の乱暴さや陰湿さも強まってくるのは、いつの時代でも定番といえる所になる。

鎌倉末期の老朽化も著しくなっていたからこそ、そういう所も目立つようになる得宗家のやり口は、皇室・朝廷の間でも深刻に考えられるようになっていて、後醍醐天皇の代になると「院政(聖属)の整備・再統制に関しては、世俗側(鎌倉幕府)は口出しはできないはず」と強気に出るようになった。

廷臣たちのことならともかく、皇室の継承のことまで口出しし、鎌倉幕府に提出・認可を求めるような、実質の権力任せの強引な指名制を強要するようになっていた鎌倉権威に対抗する形で、まずは院政のあり方(日本全体の聖属の管理者としてのあり方)から、後醍醐天皇が改革し始めた。

後醍醐天皇は、院政という範囲に理由をつけながら、六波羅探題(ろくはらたんだい。六波羅は今の京都駅のすぐ南側にあった地名。北条得宗家の親類による、中央の治安と朝廷を監視する軍部の施設があった)の規制をかわしながら、優れた学者を集め、またその育成を奨励し、今後の皇室・朝廷のあり方のためにも、まとまりのなかった廷臣たちをまとめることから始めた。

鎌倉末期は、この六波羅探題(六波羅の代表が北条仲時だった)の監視が強められていたため、まとまりのなかった廷臣たちも、自分たちの置かれている立場に深刻に受け止める者も、さすがに増えていた。

悪党闘争で世が乱れるようになった中、六波羅御所(ごしょ。軍政局・役所・裁判所)は、世俗側が皇室・朝廷をもち上げようとする者が現れないよう、つまり聖属再興運動が起きないよう、規制と監視が強められるようになった。

今まで中途半端なまとまりしかなかった廷臣たちも、後醍醐天皇の代の頃のこうしたこの環境で、一時的にだが廷臣たちにも「世も騒然としてきているのに、我々は何もせずに見過ごしていて、いいのだろうか」という危機感を、珍しく抱くようになった。

これは後醍醐天皇が、貴族たち(公家・廷臣たち)と、通例の祭事儀礼や文化的な芸事などの会合をしているように見せかけ、六波羅の監視の目をかわしながら密かに改革の談合を進め、廷臣たちにその意識に向かわせたことも、大きかった。

六波羅探題の監視は、皇室・朝廷には、今の世がどうなっているのかの情報交流の規制も強めたため、六波羅権力と廷臣たちの間の険悪構図も、すっかり強まるようになっていた。

政治をうまく切り回すことができなくなり、各地の混乱を収拾できないでいた得宗家が、六波羅探題に朝廷の監視・規制を強めさせたことが、朝廷に危機感を与える刺激になった。

歴史的にもこの時だけは珍しく、廷臣たちにも危機感・緊張感をもつようになり、後醍醐天皇のおかげもあって、一定のまとまりを見せるようになった。

揉めながらでもどうにか政体が維持され、政治がなんとか切り回されている内はいいが、武家側(世俗側)の騒乱も収拾がつかなくなってきていた状況で規制ばかり強められた廷臣たちの間でも、悠長に優雅さや格式を競い合う貴族生活を続けている環境でもなくなってきていた。

整備がろくにされなくなっていた鎌倉末期のいい加減な体質は、乱暴な規制の仕方で朝廷の刺激ばかりし、朝廷を飼い殺しというよりも逆境的な追い詰め方がされたことが、かえって聖属再興運動の機運を高めるきっかけを作ってしまったともいえる。

その意味での後醍醐天皇の初動の朝廷改革は、貴重な成功とは確かにいえたが、ただし逆境的・危機的な環境があったからの、廷臣たちのまとまりを整えた感も強く、頼る面も強かった一過性(その場のノリ)な面も強かった改革だった。

さらには、聖属政権(律令制時代の天皇・朝廷政治)から武家政権(鎌倉幕府)に移行して以来、今一度の聖属政権の仕切り直しを目指す事例も歴史的に初の試みだったこともあり、鎌倉倒幕後の建武発足の途端に、多くの支障が出てしまうことになった。

これは現代でも同じことがいえる部分として、ここでいったん現代の「得たいこと、確立したいこと」の視点に変え、例えば「金」や「時間」の扱い方についての、実際は難しい問題と類似する所がある。

人が欲しがるものとして「資産や時間」だけでなく、例えば「モテたい」でもいいし、組織の中で「昇格」したり、また何かの著名人になったりして「デキる人間に思われたい」や、何かを「教える側の人になりたい」など、良いか悪いかはともかく人によって、それらの多さや強弱も様々になる。

何事でもいえるが、それらを得ること自体が目的なままになってしまっていて、その本分が何なのかが一向に自覚・整理されていかないと、結局は当事者性(本人にとっての道義性と教義性=主体性)が皆無な人任せな基準の安直な発想止まりで停滞してしまい、そのための状況整理力(計画力・構築力)が一向に蓄積されないまま、劣情憎悪ばかりの蓄積に陥りがちな所になる。

特に20代や30代の多くは、当事者それぞれに合った指南が得られるような体制など大して用意されていない、そこが全く不足していることを知ること自体も人によっては大変なため、そこで足踏みしてしまうのもむしろ当然といえる。(筆者の当記事の目的のひとつでもある)

金や時間を手に入れることでも、それを手に入れなければならない根強い理由が乏しいほど、もし運良く手に入ったとしてもその貴重さもろくに判断されないまま、全く有効活用などされない粗末な消費に終わるだけでなく、むしろ乱暴な劣悪性癖が身に付くばかりである。

人にとっては娯楽・道楽の範囲のことだったとしても「なんとしてもやっておきたいことだった、全部は無理でもできる所まではやっておきたい」といえるような、本人にとっては大事な悲願といえるようになっていれば、まず有効な手段が整理される可能性も高り、自他のそうした貴重も理解(尊重)し合える可能性も高くなる。

 

最初は娯楽・道楽から始まったことだったとしても、そこが強く働いていくようなものであれば、それを通して仕組みに詳しくなったりする、研究視点がもてるようになる場合ももちろんある。

最初は、

 ただ、他の者がそれを得て良い思いをしているように見えた、楽しそうな姿に見えた、恰好良く見えた

だったり、

 ただ、人よりも苦労なく楽しい優雅な生活を送りたい

だけで安直に始めてしまうなんてこともよくある話で、特に20代や30代などは「そんな詐欺まがいのことを信じているのか」「無理に決まっているだろ」と強がって笑いものにし合っても結局は皆、そこばかり気になるものである。

それが良い悪いより、それならそれで得ようと思い、何をすればいいのか考えたり試みた結果として、自身にとっての悲願(誓願)といえるような「そうまでして、そうしなければならない自身にとっての根強い目的」が何だったのかを、自身に合っていたものだったのかを地道に整理することが、どちらにしても大事になる。

資金や時間が良い例になるが特に、それを得ること自体は過程に過ぎなかったことや、本当にやっておきたかった狙いがズレていたことを、段々と整理・自覚(自己等族統制)できるようにしていくことこそが、まずは大事なのである。

当事者本人にとってそこまでしてそれを得る理由がないことを段々とはっきりさせていくことこそが、成功失敗よりもよっぽど大事で、そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方をもって、自分のことも人のことも見れるようになっていくことが、大事なのである。

人道にあきらかに反している、とはいうほどのものでない道義関係外のことであれば、ほぼ失敗することが解っていたとしても、ある程度は許容し、人を・自分たちを泳がせてみる(経過を見守る)ことも大事である。

自身では気付きにくい、人の目からは見苦しく見えるものは、成功者・立証者を引き合いにする答え合わせだけの「なんでもかんでもの、やめさせ合い」ばかりになりがちだが、それだけしていても本人にとっての整理に繋がらない場合も多い。

 

だからそういう場合は、事前に助言だけしておき、ある程度は泳がせてみればいいのである。

そして


 「以前に頓挫や失敗をした時と、今言っていること/やっていることの次元が、全く変わっていない

 「自身の前例を、自身で何ひとつ大事にできていないことが繰り返されているその姿勢こそが、そのことに面倒がるばかりのいい加減な姿勢でしか向き合えていない証拠ではないか」

 「自身のズレを自身で修正しようとしない自身のだらしなさを、ただ気絶(思考停止)し合い失望し合うのみの言い逃れ(偽善設定。できもしない性善説)に頼って、その矛先を軽々しく外に向けようとする劣悪姿勢が、既に失敗なのだ」

と、言っていること/やっていることに対する、冷静さ慎重さ丁寧さのまとまりがあまりにも見られない場合なら、さらに追撃で、

 

 「自身にとって一体どうなっていれば決着なのか。そのために例えばどの程度の資金や時間や労力が必要で、どこからどこまでが自分の務めで、人・外的要因の務めなのか、実現・維持以前に、環境選びから状況把握していく方向に全くなっていない時点で、計画負けしている」

 

 「では仮に、その希望が達成されることに1億5000万円と10年間分の自由時間を用意する必要があるとして、仮にそのための協力に、こちらが完全無償で協力するという話を仮に想定した時、そういう合意に見合っただけの熱心な務めを自身で果たす気があって言っているのか? 仮にこちらが半分の7500万円分と5年間分の準備を無償提供したとしても、自身で残りの半分を整えようとするだけの覚悟の姿勢もはっきりさせられないことに、なぜ一生懸命になろうとするのか。大きな支援が受けられたとしても、それを下回る主体性しかなければもはや外的要因など関係ないではないか。そうではないといえる自身の置き所は一体どこなのだ?」

 

 「そういう所に冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方をしようとしている姿勢が悪人、そこにだらしない低次元な姿が善人であることが世の中の正しさだと言い張るのなら、なぜ、その正しい善人とやらの発想で解消できない者同士が不満をもち合い、否定し合おうとするのか?」

 

そういう所から言い放ち合うことが結局は効果的で、多少時間はかかってもいったん泳がせてみて、そこを追求していくことが話も一番早くなる場合も多い。

その「泳がせ」の見方(尊重)もある程度される、そうした冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で普段から構えられるほど、他の類似事項についても共通点として、段々と的確に指摘し合うこともできるようにもなる。

特に道義関係外のことなら、見苦しく見えても多少は泳がせてみる余裕をもった見方(尊重)をし合い、成功・失敗・失策(落ち度)よりもその後の意欲的な取り組みに繋がるものなのかからまず評価し合い、「それだったら失敗するかも知れなくても、試行してみる価値はある」という地道な見方(尊重)をし合う姿勢作りこそが、大事である。

成功・失敗・失策(落ち度)のうちのめし合いと従わせ合いばかりではなく、「ああそうか・・・」と本人に響くことがあって、初めて自身に不足していた所や、自身にはそこまでして求めていたほどでもなかったズレも、自覚(自己等族統制)されていくのである。

まず自身にとってのズレていた理由を、自身で段々と整理できるようになるから、他人のズレている様子も段々と的確に理解・指摘できるようになっていくのである。

そこを何も確認(尊重)し合ってこれなかった人生観しかもち合わせいない、権力の顔色を窺い合わせながら格下狩りでうちのめし合わせることしか能がない低次元な公的教義と大差ない、極めてだらしない低次元な手合いが、そこを教えられる訳がないのである。

これは40代以降でも、偉そうに人生の先輩ヅラをするばかりで、そこも自身でろくに調整してこれたこともない、だらしない無能(偽善者)も多い中、まして20代や30代ならなお、そこを理解することは簡単な話ではない、かなり難しい話と心得ておく必要がある。

 

つまりその事象について、

 

 ズレを知る所こそが本人(自分たち)にとっての、その時点での貴重な結論(大目標・仕切り直しの基点)だった実態を、いつまでも過程(小目標)にしておこうとする

 

それは裏を返せば

 

 よくよく冷静に考えてみると、よそから見ればただの過程(小目標)に過ぎないものを、さも最大級の結論(大目標)であるかのような大げさな価値を位置付けようとする

 

そこが整理(自己等族統制)できない低次元同士のいい加減な見方で、安直にうちのめし合い従わせようとすることばかり熱心になろうとするから、時に泳がせ(あえての経過の見守り)の余裕をもった見方というのも、できなくなっていくのである。

 

その「泳がせ」は事業などの団体運営ではよく「遊びの部分」といい現わされる場合も多い。

 

これは、いったんは上が定める社内の業績や規律の基準でうまくやっていけている所は、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の「遊びの部分」の見方も時にしながら、表向きと内実を使い分けながら、またそこを整備しながら部下たちを管理できているといえる。

 

上が定めたことに完全に絶対的に従わせるような、その定め外のことは全て「無駄・浪費」と手当たり次第に人格否定的にうちのめ合う乱暴なやり方ばかりすると、悪い意味のゲーム理論化を蔓延させていき、むしろ低次元化・信用事故化させていく危険性すらある。

 

ゲーム理論とは簡単にいうと「結果的にそうなっていればいい理論」だが、これが、理由も健全に重視されていけば非常に良い意味に作用していくが、ただ従わなければうちのめすやり方ばかり強調するようなやり方しかされなければ、悪い作用しかしない「つじつまさえ合っていればいい」すなわち「バレなければいい理論」に低次元化させていく原因になる。

 

本分からどんどん離れていってしまうような、正しさのつじつま合わせ思考に低次元化していく現象を、海外ではよく「バイアス」といい現わされる。

 

このバイアスは、本来はばらつきの大きい結果を統計的に観察することを意味する言葉だが、現場検証的に使われる場合は、異例事態が起きても異例事態だと扱いたくない思いから無理やり今まで通りのことに扱おうとしたり、逆にいつもと違う異変が起きた時に異例事態だと大げさに錯乱し、今まで通りに立ち返ればその内に元に戻ったことに余計なことばかり始める、といったように、適正な対処が行われずにどんどん事態を悪化させていく状況に、よく使われる。

 

低次元な公的教義どものように「遊びの部分」「泳がせの部分」を全て無駄と扱いながら、偉そうな絶対的な正しさを押し付けて徹底的にうちのめし合い従わせ合うやり方ばかりすると、そもそもなぜそういう定め方がされたのかの目的・規律の原点的な意識自体を誰もが大事にしようとしなくなる、教義性(衰退防止性)が全く大事にされていかない悪い意味の「求められた、定められた結果のつじつまさえ合っていればいい」に低次元化させてしまうのである。

 

本業の手本の示し合いもろくにされずに「いついつまでにこれだけの利益を挙げられたら優遇してやる」「いくらの利益が上がらなかったら見せしめの懲罰だ」の乱暴な煽り方ばかりすると、それを貯金や借金で補填して実績を挙げたことにしてその損失分を不正して取り戻そうとしたり、またはその既成事実作りのために人を踏み台にしながら、厄介ごとの押し付け合いに熱心になり始めるような、本業の努力ではなく損失補填(反則)でつじつまを合わせ合うことが「上のための努力」であるかのような体質に、低次元化させてしまう原因になる。

 

大手だけ見て「そんな愚かな会社はないよ」と簡単にいう人もいるだろうが、そこの中だけで勝手に倒産・解散するだけならまだしも、人を巻き込むような大事故や詐欺事件などに発展させることは、中小では今でもよくある話である。

 

建武の新政の失敗も、応仁の乱の社会崩壊も、まさにこういう所なのである。

 

下をいいなりにさせるために君臨することが上(家長・規律・権力)の本分なのではない。

 

皆が困らないように表向き内実(本音)を使い分けながら、規定後の「遊びの部分」「泳がせの部分」まで管理・整備(等族統制)して良い方向に導いていく、または悪化させていかないようにしていくことが、上としての最低限の手本礼儀の示し合いの本分なのである。

 

これらの話からいったん、そこもだいぶ心得ることができていた織田信長を例に挙げると、皆にとってはそれが難解な終結点の目的であっても、織田信長にとっては過程でしかない、つまり織田信長にとってそれは次なる大目標のための小目標でしかない、そこが「できて当たり前」「やって当たり前」の別格だった所なのである。

 

織田信長は、国内再統一を済ませた先には、外国教義も収容しながらの世界に向けての文化技術交流まで目指し、なんなら日本こそが世界一の技術・経済大国だといえるような国家に変貌させ、世界中に

 「インドの本場仏教だろうが、キリスト教だろうが、ロシア正教だろうが、ギリシャ正教だろうが、イスラム教だろうが、中国の思想学だろうが、国際的な法治国家というからには教義力次第の世界全体のその受け皿が、この日本では用意されていて当たり前である!」

 「それができている側と、それができていない時代遅れの旧式の非同胞拒絶主義の脱却もできていない側との違いを、世界に見せつけてやるのだ!」


というような、16世紀の日本をいきなり19世紀、20世紀に連れて行こうとする意気込みすらあった。

 

ここが本能寺の変の重要な要素だったといえる所だが、起きるまでの状況がややこしいため、詳細は後述とする。

皆にとっては地方統一も難儀していたのに対し、織田信長にとっては全国視野・世界視野で動いていた、全てはその過程でしかなかった所が、そもそも別格だったのである。

資金や時間の用意の話でも、新政権樹立でも、それを準備したり、その姿形を果たし得たその先の

 「こういうことのため」

 「できそうなら、あれも、これも」

 「できれば年内に、ここまでやっておきたかった」


という意欲的・積極的な根強い理由が常々になっている側と、そうだといえるような状態になっていない、そこまで整理できていない側とで、

 よそからは優位に見えるその姿自体が、当事者たちにとってはもはや次への過程に過ぎない余裕ある側



 当面の目的をなんとか達成・維持させる観念、今まで通りの力をなんとか維持する観念だけで精一杯な側

とで力量差が出てしまう所は、戦国後期の地方再統一戦でも、現代の起業や新規開拓などでも、「教える側の姿形」における整理視野の力量でも、同じである。

40代以降でもそこに難儀している者だらけなのに、20代や30代の皆が急にそれが身に付くのなら、誰も苦労はない所になる。

道義的(契約主従的・不都合的完結)にほどほどにうわべの歩調を合わせる一方で、「この人のいっているここの部分は、自分にとってあてにならない/参考になる」という教義的(手本的・主体都合的継続)な見方で、自身のことは自身で整理していくことも、大事である。

他者にとっては終結の姿形に見えても、本人にとってのその姿形は、所詮はその先の大目標のための小目標に過ぎない過程のオマケ扱いに過ぎなくなっている、といえるものがあるほど、むしろその過程価値と、次に向けての実態実態をより把握できるようになる、その分だけ有効な絞り込みの手段が整備されていく可能性も高くなる、という理屈である。

特に20代や30代の場合は、自力中心でやろうとすることは、何事も9割は失敗したり長続きせずに頓挫する、くらいで見ておいた方がよく、ただしその9割が大成しない才能のない人種、という意味ではない。

試みと失敗・頓挫でウンザリしたことが多かった期間が長かった一方で、しかしそれについて何がダメだったのかの根強い意識も途絶しなかった者、つまり人よりも少しでも自力的な挑戦に向き合われた分だけ、後々になって急に活きてくる可能性も高くなる。

単純に考えても50代以降でも、起業や新規開拓企画などに限らずに、やったことが全くないことを自力中心で急に始めれば、失敗率9割なんてことも、ザラなのである。

1回の試みが5%~10%と見た場合は、努力工夫を重ねる10回の試みがされれば25%~50%と確率も上がってくるという、よくよく考えてみれば、実現自体は簡単ではなくてもその力量差を理解すること自体は、そんなに難しい話ではない。

試みの姿勢の努力工夫が全くない、つまり何ら反省・教訓も活かされないまま全く同じ手口で同じような失敗・失策を繰り返し、ただひたすら全て環境や外的要因のせいに終始しているだけでは、何度繰り返しても5%~10%のままである。

これもただ「チョロっとやって1回」を数えているのと「人から見て、とてもここまではやろうとは思えないことが1回」と数える意識とで、当然その力量差も変わってくる。

モテることや、自身を大物に見せたいといった、人生の中の過程に過ぎない姿形が最終目標のようになってしまい、余裕もなくただそう見えるようにそこに一生懸命になってしまっている小物が、このいつまでも5%~10%のままの実力不足の小物なのである。

一方でそんなものはもはや過程のオマケに過ぎなくなっている大物の可能性が、25%~50%という大差の実力を身につけようとしている大物の可能性なのである。

小物が自身の実力で10回の試みの内に1回しか良い結果を出せないでいる間に、大物は自身の実力で2回から5回も良い結果を出せるようになっているほどの大差が、単純にできてしまうのである。

この場合の小物は100言100動の内、あてになる確信が5個から10個しかないのと同じ、すなわち自身の力では90~95個はいい加減な言動しか採れないことになり、そこを平均的な無難論の中で世の中を解った気になりながら、面倒がりながら偉そうにうちのめし合うことしか能がない、公的教義と大差ない手合いなのである。


そのように、自分たちの課題は自分たちで白黒はっきりさせていく積極性などない、ただの低次元な歩調で誇らしげになっているだけの者が、本当の意味で他よりも一目置かれるような尊敬や信用が、得られる訳がないのである。

その構図はまさに戦国後期に、織田氏の立証の背中を追いかけながら、その基準に格下げされないよう地方再統一に必死になっていた遠方諸氏たちとの、差なのである。

小物側と大物側とで対立すれば、その実力差もすぐさま出てきてしまい、産業観・組織観の相場(身分再統制)を決める主導側と、それを一方的に決められながら崩れないように必死に維持する側との力関係ができてしまうのも、冷静に考えてみればその構図自体はそんなに難しい話でもない。

モテようとする根拠や、大物に見られようとする根拠に見合った、その裏付けの本業的な根強い大目標に取り組まれずに、モテる理由、大物である理由、頭が良いとする理由、仕事がデキる理由といった、虚像の偽善設定ばかりに一生懸命になり始めるような、すなわち、

 公的教義のような極めて低次元な、ただの権力任せの猿知恵設定の公認制の敷き方で、それにただ従わせ合いうちのめし合わせているだけ

で、それが得られるのなら誰も苦労がないのは、建武の廷臣たちの失敗でも同じである。

 荀子的独裁制 = 自分たちのための教義性(主体都合的構築継続・品性規律)の仕切り直しによる最低限の敷居の引き揚げのための取り組み(身分再統制)

も十分にされていない、敷居の確認(尊重)すらし合えていない低次元なままに

 孟子的合議制に頼っているだけ = 従来のボヤけた平均的な無難論のままの道義性(不都合的完結)の権力(従わなければならない正しさとやら)をただ敷いただけ

でしかない、まず前者の仕切り直しも自分たちで十分にできていないような集まりが、後者の偽善設定を敷いただけで、それをしているだけで再統一でも新規開拓でも全て大成功できるのなら誰も苦労はなく、人のことをとやかくいう話も同じである。

筆者の場合はまず、対象を否定(こちらが高次元側であり、相手がただ下品で汚らしいだけの低次元側だと恫喝・格下げ=身分再統制)する以上は、

 まずは民権言論の整理面から、それに見合っただけの最低限の手本礼儀(組織理念・品性規律)の示し合いをせよ!

 こちらが否定する高次元側(こちらが格下げする高次元側・教える側・決める側)であり、相手が否定される低次元側(格下げされる低次元側・教えられる側・決められる側)だという、その白黒をはっきりさせ合え!

 事態収拾(等族回収)など何ひとつできない低次元同士のただの騒ぎ合い(ただ気絶・思考停止し合うのみ、ただ疲弊し合うのみ、ただ失望し合うのみ)の手口に、イチイチ乗せられるな!


と、それが裁判権争い(荀子・韓非子のいう国際社会性の手本礼儀・家長権の示し合い。等族議決性。教義競争)の根底だと繰り返してきた。

筆者は厳密には「教える側の姿形」に意識を集中などしておらず「このややこしい意味は、どういう説明をすると伝わるのだろうか」に意識を集中させているだけである。

 

その意味でもし筆者のことの「教える側の姿形」にうらやましく思ったり、ひがんだりしている人が仮にだがもしいたとしても、筆者にとってはそこは過程の小目標のオマケ扱いに過ぎない。

その姿形の部分ばかりの、そこの張り合いや見せびらかし合いなどは、筆者にとっては何ら重要ではないと、ここで恫喝しておく。

当事者性(道義性・教義性)の区別整理もせずのただの外圧任せ(人任せ・数任せ・権力任せ・外的要因任せ)のみで、やたらと偉そうにいきなりケンカ腰に向かってくることしか能がない、自身の器量(教義指導力・品性規律の手本礼儀)で対決してこれたことがない公的教義と大差ない低次元な問題児(偽善者)ども全てに、

 民権言論(国際性=等族議会的な議決性に結び付くといえるような説明責任力)の最低限の手本礼儀(品性規律のあり方・自己等族統制)の示し合い

を以って、そこを何ら示し返せない身の程知らずどものその実態(どちらが高次元側で低次元側なのか)の白黒をはっきりさせ、その天狗の鼻を上から順番にまとめてへし折る、なんなら全人類が対象だというこの部分が、筆者にとっての大目標になる。

ここでいったん整理するとまず、建武政権の廷臣たちもまさにそうだったこととして、そうでありたい姿ばかりに囚われて、そう見えるようになることばかりの、ただのその偶像性癖ばかり一生懸命に陥ってはいけない。

そこはあくまでうわべの道義上(契約的主従関係)の範囲までしておくべきで、特に道義関係もない者同士で、人生観全体のことまでその道義感覚のみで劣情統制的にいきなり強要し合おうとするなど、もっての他といえる。

「そうでありたい姿」に気をとられてばかりの、そのただの偶像性癖に一生懸命に陥っているのは、所詮は低次元同士のただの猿知恵の塊の中の猿芝居大会に過ぎない、ただ下品で汚らしいだけの非国際的・非文明的な公的教義どもの学位学歴とやらと大差ない、極めてな低次元な虚像と同じである。

 

その猿芝居大会に命懸けになるのはそれぞれの勝手だが、高次元を目指すのならまずそこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、そういう猿芝居劇場のバカバカしさを疑い見抜きながら、自身に合っているものと合っていないものを整理していくことから始めることが、まずは先決である。
 

そういうだらしない、芝居小屋の表裏も見抜くこともろくにしてこれなかったような手合いが、何をいきなり人に向かってやたらと偉そうにケンカ腰に、人間性(人文性=異種異文化の多様許容性)だの社会性(啓蒙性=等族議決性=国際品性規律の敷居向上)だのという話なのである。

よその虚像の姿形にうらやましく思ったりひがんだりする前に、それ自体が既に猿知恵のただの格下狩り(劣情統制)に従わせ合う猿芝居に過ぎないことに、余裕をもってそこを疑う見方をもてるようにすることが、まずは大事である。

 

そしていったん、なぜそうでなければならないのか、なんとしても果たしたい悲願だといえるほどの自身の重要な使命感がそこに垣間見えたのか、ガツンと思い知らされるものがあったのか、そういう所から当事者本人(自身)に合ったものなのかどうかを客観視し、自己整理(自己等族統制)していくことが、まずは重要なのである。

 

筆者は、それを確認し合うための、もう少し直接的・具体的な議題もあった方がいいと思って、次は Windows プログラム(C++)に関する記事を、予定しているのである。

その成功者とやらや、その著名人とやらや、また大勢の同調者とやらのいう「こうでないとおかしい」といっていることが、本当に心底からズドンと気付かされる、思い知らされるほどのものがあったのか、ただの猿芝居にまんまと乗せられて軽々しく人をうちのめし合おうとする低次元な人生観しかもち合わせていないような公的教義と大差ない連中と、一緒になっている場合ではない。

 

主体性(人文性・啓蒙性)などボヤけた平均的な無難論に過ぎないもので、誇らしげにただ正しい立ち位置に立っていて良いのは、道義(契約主従)関係までである。

当事者性(道義性と教義性=人文性と啓蒙性)の区別整理もろくにしてこれなかったことに何ら反省(自己等族統制)もしてこれなかったような公的教義と大差ない人生観しかもち合わせていない40代以降も、99.99%を占めるくらいに、心得ておくくらいが良い。

これを書いている時点の45の筆者がそう断言しているのだから間違いなく、40代以降で上から順番に天狗の鼻をまとめてへし折る最低限(自己民権言論統制)ができていた者を、筆者の周囲では少なくとも見たことがないことに違いはない。

筆者はそこを強調したり悲観している訳でもなく、もちろん筆者を上回る現代訳的な民権言論の整理者といえるような人がもし居るのなら、困る所か嬉しいくらいでむしろ是非紹介して欲しく、そういう話があるならコメント欄にどんどん書いて欲しい所である。

その最低限もできたこともない無能(偽善者)が、やたらと偉そうにケンカ腰に人生の先輩ヅラばかりしながら、若年層や迷走している人の足元ばかり見ていいなりにさせようと、ただの猿知恵・猿芝居劇場に過ぎないもので、ただ気絶(思考停止)し合い失望し合うのみを吹き込もうとするその劣悪態度に対し、

 主体性(人文性・啓蒙性)ある品性規律(自己等族統制)といえるような最低限の手本礼儀(民権言論といえる議決性)の示し合い

という、本来の国会議事堂の原則(等族義務)でもあったはずのその姿勢を以って、それを何ひとつ示し返せない公的教義と大差ない、ただ下品で汚らしいだけのその無神経(無計画)な天狗の鼻を、なんなら片っ端から徹底的にへし折ってやる所存であり、なんなら全人類が対象なのである。

人としてのその最低限もできたこともない、低次元同士のただの猿芝居劇場(劣情統制)のいいなりに過ぎない、すなわち

 価振情踊

この4文字で片付いてしまう公的教義と大差ない人生観しかない、その機械的な拡声器になり下がることしか能がない、もはや人である必要などない、AIなどの自動化で片付くような低次元な連中が、その劣情統制(猿芝居劇場の芝居小屋)の外側・裏側のいったい何が見えていて、何を知っているのだという話である。

その被験体のために皆が生まれてきて死ぬことが世の中の正しさの全てであるかのような、そこを疑い見抜く自覚(自己等族統制)など一切してこれたこともない、その4文字で片付いてしまうような人生観の怒りをただ押し付け合うことが、本当に人(次代たち)のためになるのか、それぞれがよく考えるべきだろう。

建武政権の失敗の話に戻り、これらの話と結び付けていきたい。

まず、鎌倉の政治がうまくいかなくなり、不穏な情勢が続く中で、六波羅探題の厳しい監視が続くようになった皇室・朝廷は、鎌倉権力との関係がいよいよ悪化し、切迫した逆境の環境となった。

この逆境に頼れてしまった部分が、鎌倉倒幕を果たすことができた一方で、建武政権の樹立後の禍根となってしまった部分といえる。

その一時的な逆境統制で、派閥間のまとまりがこれまで常に中途半端な廷臣たちを珍しく結束させることができてしまったことは、朝廷を議会的に再統制(議決性で整理)できていたかもその分だけ怪しくなるためである。

いずれにしても、後醍醐天皇の裏での熱心な改革意識のおかげではあったが、これは現代での起業や新規開拓企画や、また落ち目で倒産しかけている商社の逆境における、社内一新改革などでも共通する、陥りがちな共通点でもある。

まず後醍醐天皇の鎌倉倒幕計画は、かなりの苦慮・苦戦もあったが、結果的に後醍醐天皇派が勝利して鎌倉幕府は解体され、聖属政権の仕切り直しが行われることもはっきりした、までは良かった。

この倒幕戦の立役者としては、当初から地頭(地方長官。鎌倉権力)と仲が悪く、悪党扱いされていた楠木正成(くすのきまさしげ)の初動の懸命な活躍の影響が、まずは大きかった。

後醍醐天皇の粘り強い呼びかけと、大軍相手に小勢で反抗し、全国的への決起の訴えを助長できていた楠木正成の戦い振りをみて、内心は鎌倉権力に反感的だった武家たちも段々と後醍醐天皇派に鞍替えし始める者が増えた。

そして冷静にその様子を見ていた、飼い殺しされてきた源氏の本家筋扱いの新田義貞と足利尊氏も、一向に収拾できないでいた鎌倉政権についに見切りをつける形で後醍醐天皇派を表明したため、皆もそちらの流れに一気に傾き、解体の決定打となった。

廷臣たちにとっての目先のカタキであった六波羅軍においては、播磨の勇将・赤松則村(のりむら。赤松円心で著名。えんしん。おかしな皇国史観で明治時代に足利尊氏のことと同じく散々叩かれた)の活躍が特に目覚しく、それを撃破した立役者のはずだった。

のち廷臣たちとケンカ別れする形となった足利軍団が、まだ光厳天皇と連盟関係になる前に関東から追われて九州に逃れると、今度は建武政権の重鎮として武家の中で人望が高かったこの赤松則村も、廷臣たちから段々と危険視され、その格下げに動かれる事態となった。

鎌倉倒幕戦の時に、廷臣たちにとっての目先のカタキであった六波羅勢の大軍を実際に、派手に撃破したこの戦上手の赤松則村の人望を恐れ、その功績を認めようとせずに、全ては皇威と廷臣たちの采配のおかげであったかのように扱うようになった。

播磨の有力武家だった赤松氏に、実績や格式をつけられてしまうのを恐れてのことだったが、赤松則村からすれば、後醍醐天皇のために大軍の六波羅勢と果敢に戦ったのに、廷臣たちの器量(教義指導力)不足のまとまりのなさの不都合から、いきなりの敵視統制に利用されために「そんなバカな!?」という話である。

結局この赤松氏は、南朝方(後醍醐天皇・新田義貞派)とはケンカ別れする形で、当然のこととして北朝方(光厳天皇・足利尊氏派)に荷担することになった。

この時点でも廷臣たちがいかに、建武政権のあるべき方針のための再統一などできていなかったか、律令制時代の聖属政権の終焉で武家政権(世俗政権)に移行することになった経緯のかつての反省点も、大して活かされていなかった有様が窺える部分になる。

倒幕の実質の最大の立役者だったといえた、情勢を良く理解できていた楠木正成が、九州に逃れて縮小した足利軍団をあなどってはいけないことや、綸旨(皇威)をただ力任せに乱発するばかりの建武政権の今のままでは、いずれ内部分裂を起こして民心も離れ、崩壊してしまうことも何度も助言したが、廷臣たちは全く聞かなかった。

後醍醐天皇からも直々に信任の厚かったこの楠木正成に対して、廷臣たちはさすがにあからさまな敵視や格下げには動かなかったものの、自分たちの信じる正しさと違う、的確な楠木正成の意見を採用をしてしまったら自分たちの立場がなくなってしまう、今の公的教義と大差ない、国事の心配よりもそのくだらない化けの皮の表面ばかり心配した。

まさに、良いことは全て上(廷臣たち)のおかげで、悪いことは全て下・外(武家側の実力者たち)のせいという、一刻も早く身分再統制(公務公共性改め=国際社会性・品性規律の敷居向上の仕切り直し)が必要な状況である。

定番として、上(廷臣たち)で手柄(名声)の盗り合いばかりして、それで上同士のまとまりがなくなればその劣情統制のために下・外(武家側)への落ち度狩りの叱責を頑張り始める、上の不始末(名目・誓願不足)の甚大な負担を全て下・外に押し付けていただけの典型的な姿だったといえる。

とてもではないが、人の上に立って人のことを否定・裁定(格下げする。決める)する器の姿形などではない。


上とは、下の公非を吟味する側、そこに余裕をもった見方で裁定することができる側でなければならず、そこから認めてもらえるように下に意欲をもたせて頑張らせることが、近世に自覚された等族議会制(法治国家)の根幹である。


その厳密な意味で、認めてもらうこと/認めさせることに頑張らせることは下の務めであるにも拘わらず、上の立場のはずの者が力関係任せ・権力任せに、極めて低次元な人生観を下に認めさせることに頑張ろうとする、当時の廷臣たちのその浅ましい姿自体が、既に教義(主体性)崩壊している劣悪姿勢なのである。

 

難しい説明になるが、今回特に説明しておきたかったのはこの、上である側としての、認める認めないを決める側のはずが

 

 認めてもらおうとしている/認めさせようとしていることに気を取られているような、そこに余裕がもてていないはずの、その下っ端根性も卒業できていないような極めてだらしない未熟者ども

 

が偉そうにケンカ腰に軽々しく、特に道義関係もない者同士で否定し合ってはならない(=そこに余裕がないにも拘わらず、身の程知らずにも軽々しく人の上に立とうとしてならない)ことが、今回の前述部分の説明でも、結局はここに帰結する話になる。

 

筆者から言わせれば、立場的には下でも、意識的には少しくらい高次元化を目指す見方を自分からもせよ、である。

 

その等族回収といえるような議決性ある意見整理など何ひとつできていない、低次元な猿知恵の正しさの乱立を始める者は「等族諸侯(近世大名)の資格剥奪がされながら、上からも厳しく裁くようになった」のが、近世以降の等族議会制(法治国家)の根幹なのである。(日本でも西洋でも)

 

そうならないように、そこを問題視して喚起できるものになるよう、廷臣たちが聖属管理(自国教義のあり方を整理するための顕蜜体制)ができてなければならなかった、そのための自国教義機関こそが、天台宗(延暦寺・公的教義)の本来の務めだったはずなのである。

 

当時の朝廷改革は、そこまで再統一できていたとはいえない状況で、建武発足を始めてしまったことが、結局は問題だった。

 

それは鎌倉打倒のための姿形(小目標)だけで精一杯で、新政権(大目標)に向けての名目(誓願)の再統一までは結局し切れていなかったといえ、そこは同じように尊王主義をもたれた江戸幕府倒幕の時の状況も、だいぶ類似している部分といえる。

 

その後の明治新政府の最初の10年間は、薩長藩閥どものその後のいい加減な姿勢が、自由民権運動と連動した博徒問題の大騒動となって現れ、また第二次世界大戦までにそこが整備されずにボロが出始めた、あのいい加減な皇国史観(国家戦略)の成立内容も、そこがよく窺える所といえる。

 

現代でも陥りがちな所として「やってしまってから」の状況に頼る形で、乗り出すことばかり慌てて後のことは「必要に応じて器用に、要領よく対処していけば良いだけのことだ」という「できもしない」かも知れないものも整理せずに、安易な考えで乗り出してしまいがちである。

 

そして「その後を維持するための物的体制・理念体制の準備不足といった、やってしまってからの多くの欠陥が判明し、その欠陥を整備する余裕もないまま、どうにもならなくなる」ということも、よくある話である。

 

その勢い任せでも、どうにかやっていける場合ももちろんあるとは思うが、その姿形(小目標)に最大の正しさを求め合わせて従わせ合い、うちのめし合い続けることに頼り続けてばかりの、高次元化に向かうことなどない姿形の出来上がりというのも、ありがちな姿である。

 

廷臣たちが「皇威のおかげで鎌倉倒幕の企画をまとめ、成功させることができたのだから、その立証の正しさである皇威に絶対的に全て従わなければならない」としていただけの、ただ力任せにねじ伏せるやり方のみで高次元化していく訳がない、すなわち低次元化していく一方なのも、まさにその理屈である。

 

自分たちの信じた正しさで歩調を合わせ、やたら偉そうにケンカ腰に攻撃的になろうとする、そういうだらしない所こそを恫喝し合う最低限の手本礼儀の示し合いなどしてこれたことがない、末期症状(低次元)を末期症状(低次元)だと自覚(自己等族統制)できたことがない集まりの典型的な姿といえる。

 

実績・結果にこだわるのはいいとしても、自身に合うかどうかも解らないような、さも価値があるかのようなよその姿形(小目標)に過ぎない所を疑い見抜きながら、そこにうらやましがり合わせたり、ひがみ合わせようとする低次元な公的教義と大差ない劣情統制のバカバカしさに、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方をしていくことも、大事なのである。

 

鎌倉解体、建武失敗、室町の仕切り直し、応仁の乱と経て、かつての反省・教訓が世俗も聖属も、その社会観の中でどれだけ活かされてきたのかが、いよいよ求められ始めてきたのが、戦国後期の総力戦時代である。

 

廷臣たちは結局、そこを自分たちで改革・再統一できていたのか怪しいまま、その時間切れともいうべき織田政権時代(室町終焉期)を迎えてしまった、気まずい状況となった。


ただの自力信仰一辺倒の低次元とは大違いだった他力信仰の浄土真宗たちは、世俗裁判権がすっかり崩壊してしまったために聖属裁判権運動を再燃させ、のちに世俗裁判権が今一度、織田政権によって巻き返される形で、両者は激しく対立することになった。

浄土真宗は織田政権に降参することになったため過少評価されているが、織田氏が台頭するまでの日本の自力教義(組織理念・品性規律)を先駆けでどうにか仕切り直し、戦国前期に閉鎖有徳(惣国一揆・地侍闘争)に振り回されて地方再統一もろくにできていなかった、だらしない諸氏たち(世俗裁判権側)に喚起できていたのも、浄土真宗たちなのである。

それだけの品性規律(裁判力=組織理念の手本姿勢)の示し合いができていた、簡単には崩壊しなかったからこそ織田政権にあれだけの痛手を何度も反撃できた、しかし織田政権の方がその面でもさらにうわ手の格上であったことが見事立証された、「後で誰にも文句を言わせない」貴重な高次元な裁判権争いがされたのである。

天台宗(延暦寺・公的教義)のやっていたことは、猿知恵の権力(偽善設定・できもしない性善説・怠け癖)を敷いて、浄土真宗(親鸞派)や法華宗(日蓮派)らを偉そうにただ格下扱いし続けるのみで、今と同じ日本の自力教義(組織理念のあり方)のことなど何ひとつ貢献できていなかったのである。

それしか能がなかったからこそ、そのただの劣情統制(猿知恵)の手口もいよいよ通用しなくなる戦国後期(総力戦時代)に突入し、化けの皮が完全に剥がれたのである。

公的教義が日本の自力教義(品性規律の主体性)を何ら支えることなどできないこともはっきりしていたからこそ、そこに危機感をもった浄土真宗が、本来の公的教義の務めを肩代わりをするようになった有様だった、それが実態だったのである。

その他力信仰の浄土真宗の存在に危機感を覚えながら、とりあえず織田氏と協力して地域ごとの寺院(有徳)の正常化に務めることができていた法華宗(日蓮派)の方が、公的教義なんかと比べれば、そちらの方が遥かに教義努力できていたといえる。

応仁の乱以降に、日本の代表的な自力教義の主導立場を、最後の希望といえた浄土真宗たちに完全にもっていかれてしまって以来、その立場を何ら取り戻すことなどできないまま、ついに織田氏に中央に乗り込まれることになってしまったのである。

ただ下品で汚らしいだけの何の役にも立たない学位学歴なんぞで懐柔しようなどと、そんなものは一切通用しない、言い訳無用の「上から順番」の特殊監査官(織田信長)に

 「日本全体の自力教義の顕蜜化(自力信仰=人文性・他力信仰=啓蒙性の等族回収の整備正常化)に務め、中央で聖属面で陛下を支えなければならないはずの廷臣たちは、建武頓挫から今まで一体、何をしておったのだ!」

 「その反省(自己等族統制)などしてこれたことがない、よその人間性(人文性)社会性(啓蒙性)をとやかく判定・指図する資格などない、議決性ある意見提出もろくにできない身の程知らずの廷臣たちや延暦寺(公的教義)がこの後に及んで、我が織田政権に向かって何を偉そうに要求・指図しようとしておるのだ!」

 「浄土真宗は劣悪な環境から聖属の仕切り直しができたのに、かつての大ヘマ後も環境は遥かに恵まれていたはずの天台宗(公的教義)はなぜ浄土真宗たちよりも著しく劣っているのか、怠慢もいい所ではないか!」

 「低次元な猿知恵の権力(ただの偽善設定・ただの劣情統制)を敷いてその顔色を窺い合わせることしか能がない、国事(品性規律・教義史・国家戦略)のことに真剣に向き合ったことなど一度もないコウモリどもめが!


と、ついにそこを厳しく追求されることになった、廷臣たちが恐れていた言い逃れ無用の事態を、ついに迎えてしまったのである。

織田信長が、当時の廷臣たちのそうした不真面目な一部の連中に対し、どういう所に内心怒っていたのか、また全員に怒っていた訳ではなかったその様子の詳細は、のちほど順番に説明していく。