近世日本の身分制社会(077/書きかけ145) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか05/? - 2021/08/30

戦国後期の支配者たち(地方ごとの代表格たち)は、武家政権のきっかけの鎌倉幕府の創設である、源頼朝以来の武家法典(手本家長の家訓)を意識しながら、分国法(地方それぞれでの裁判権改め)の整備に努めていたことは、少し先述した。

 

その意味でも、そもそもこの武家政権はどのような経緯を通って戦国後期に至ったのか、その特徴をよく理解しておくことも、本能寺の変の特徴を知る手がかりとなる。

 

これからそこに触れていきたいが、戦国後期にどう影響していったのかを優先する記述の仕方していくため、時系列が何度も交錯してしまう説明になることを、最初に断っておく。

 

12世紀末に、今までの聖属政治(皇室・朝廷中心の王政。律令時代)から、世俗政治(有力武家が代行)に切り替えられることになった鎌倉政権が設立することになった事情もなかなか複雑だが、14世紀の鎌倉崩壊後の、建武(けんむ)の新政の試みによる混乱と、次なる室町政権の設立のまでの事情も、より複雑である。

 

14世紀に鎌倉幕府が解体されることになり、聖属政権(皇威・廷臣中心の政治)の仕切り直しの建武政権が発足されるも、政治問題に見通しが立たずに長続きしなかったため、世俗政権(武家政権)の仕切り直しの室町政権に至ったこの事情は、かなり複雑な所になる。

 

そしてこの室町幕府も、応仁の乱をきっかけに権力機構(国際社会性の基盤)の崩壊に向かい、以後はその機構(将軍・三管四職体制。さんかんししき)などは名ばかりの、何ら政体維持もできない迷走期の戦国前期(下からの突き上げ運動の、惣国一揆・有徳闘争の時代)に突入する。

 

そしてその荒れ模様も、地方ごとに統計的(等族議会的)に反省・集約されるようになった戦国後期の、織田信秀、織田信長の時代を迎えた、というのがおおまかな流れになる。

 

戦国後期の支配者(裁判権改めの務めの代表格・手本家長)たちの、武家法典が意識された教義競争(品性規律の示し合い)とは、逆算的な見方をすれば、

 

 鎌倉以来の歴史全体の大きな観点からも、どれだけ等族議会的に状況回収し、次の時代に向かわせることができるか

 

の今までの武家政権の全体的なあり方の改革意識を、どれだけ立証し合えるか、いかにその対応に優れた組織改革(自己等族統制・等族議会制)が他よりも確立できるかが、最終的な力量差になったともいえる、大事な部分になる。

 

人の上に立つ側(人を否定して指図しようとする側)である以上は、それに見合っただけの解決意識(手本家長の姿勢)、つまりそれだけの裁判権改め(国際社会性改革・品性規律改革)の最低限の手本礼儀の示し合いができていなければならない、そこがより競われるようになったのが、戦国後期なのである。

 

それだけの自己改革(自己等族統制・当事者性の整備=異種異文化の多様許容性の整理)の名目(誓願・意見提出)ももてていない者、そこにまず冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で当事者性(道義性と教義性の区別整理)を状況回収することから始められないような格下側が、それができている格上側からの公認(家長権)も無しに、勝手に人の上に立とうとする(勝手に人格否定しようとする。上下権威で偉そうに勝手に人を従わせようとする)ことが許されなくなったのが、戦国後期の等族社会化(身分再統制)の特徴なのである。

 

議会的な国際人道観(等族責任・品性規律・民権言論のための回収整理)があるといえるような、意見に見合っただけの整理・提示などできたことがない、議決権といえるようなものに結び付かないような、公的教義のようなただ偉そうなだけの猿知恵に過ぎない決め事を、いきなりケンカ腰に偉そうに押し付け合い、従わせ合おうとする(気絶し合い失望し合おうとする)ことが等族違反(身分再統制違反)として、厳しく裁かれるようになったのが、戦国後期である。

 

裁かれるべき今の公的教義のような、ただ偉そうなだけのただの劣情統制主義者(ただの愚民統制主義者)どものように、

 

 所詮は万事面倒がりながら人任せ・数任せ・権威任せのただ偉そうなだけの猿知恵(できもしない性善説)の劣情統制(怠け癖)を押し付け合うことしか能がない

 

 それで気絶(思考停止)し合い失望し合うのみしか能がないはずの、ただ偉そうな怠け癖の機械的な拡声器になり下がってきただけの口ほどにもない人生観しかもち合わせていないはずの分際(偽善者)

 

のその実態に、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方をもってその実態を見抜けられたことがない、疑問もろくにもてたこともないにも拘わらず、やたらと偉そうにケンカ腰になることしか能がない公的教義と大差ない身の程知らずの極めて低次元な分際(偽善者)には、到底理解できない話である。

 

そういう、人の上に立つべきではない者(人を否定できるだけの最低限の手本礼儀の示し合いなど皆無=自己等族統制・民権言論整理など皆無な身の程知らず)がいつまでも上に居続けた地方・組織だったほど、その分だけ下剋上的な下からの突き上げの組織改革も激しくなったのが、戦国後期である。

 

すなわち、政治精神的(等族議会的な品性規律の国際人道観のための再統一戦・選挙戦)にだらしない格下側そこがよりできている格上側という力量(教義指導力・国際軍事裁判権)がはっきりするようになり、格上側の傘下に格下側が組み込まれる等族社会化も、より色濃くなったのが、織田信長が生きた戦国後期なのである。

 

どういう所が求められながらの近世の等族社会化だったのか、さらには今後の皇室のあり方にも関係していた本能寺の変の性質をより理解しておく意味でも、支配者たちに意識されてきた、日本の聖属政権と世俗政権の歴史的背景に触れていく。

 

近世の法治国家化(等族社会化)に向かい始めていた戦国後期とは、過去の問題を繰り返させないためにも、

 

 鎌倉以来の武家政権の課題

 

 室町政権の時の仕切り直しの課題

 

 皇室と聖属のその後のあり方の課題

 

 海外(アジア方面や西洋)との今後の文明国家的な外交体制の課題

 

といったこれまでの課題に対応(状況回収・収拾)していくために、旧態概念(ただの偽善性癖)の大幅な償却処分が断行されながらの、等族議会制(政体の最低限の敷居の底上げ)を確立させておかなければ、近世の法治国家化の実現など到底無理だった。

 

そこに織田信長が最も改革意識をもって、大幅に等族社会化を進めておいてくれた大事な所が、今まで強調されてこなかった所になる。

 

これら課題に対応するためには、ここ数年の動きだけでなく、もっと以前からのかつての経緯の理解にも努めなければ到底、その改革などできる訳もない所だった。

 

その意味で支配者上層は、これまでの武家政権にとっての経典ともいうべき武家法典(手本家長の姿勢)を意識しながら、今後の武家政権(世俗政権)のあり方にどう取り組んでいくのかという、その意識差が現れた時代だったとも、いえるのである。

本能寺の変を知る上では、皇室のあり方を巡っても、一部の廷臣たちと対立した織田信長の事情を知っておくことも大事な所になる。

 

そもそもこの廷臣たちと織田家の対立自体、武力抗争はなくても聖属側と世俗側の対立構図だったといえたこと、そして織田信長が当時の聖属側のどのような所を問題視していたのか、歴史背景から見ておくのも大事になる。

江戸時代も続いた武家政権は、そもそもどのようなものだったのか、つまり皇室・朝廷側(聖属側)と、将軍側(世俗の武家政権側)の関係は、これまでどんな議決的な経緯を歩んできたのかを知っておくことも、大事な所になる。

まず8世紀頃の日本は、法(国際社会性)の整備が日本よりもだいぶ進んでいた中国大陸側が見習われ、それまで古代呪術的な色ばかりが強かった日本にとっての法治国家化の試みとして、日本に律令制と仏教が持ち込まれる。

 

しかし律令制が導入されても、12世紀末の律令制時代までの日本は、聖属政治中心(皇室と朝廷中心の政治)が続いたことで、中世の経済社会の物的世俗化に対する法(国際社会性)の整備にも、今までの古代呪術的な体制をただ当てはめるだけのやり方では、いい加減に対応できなくなっていた。

 

皇威と朝廷の衰退(教義指導力の低下)を機に、世俗側の武家権力の大手として台頭した平清盛(平氏の本家筋)の軍団に、中央の聖属政権についに乗り込まれる形で、聖属側を抑え込むように平清盛が、中央政治の実権を握るようになる。

 

しかし今度は、中央政権の独占専横が目立つようになったその平清盛に対し、武家間でもその人事差別に不満をもつようになった者も増え、政権のあり方を巡る争いとして、激化するようになった。

 

もはやあやつり人形扱いになっていた聖属政権(天皇制の院政)をこれからも維持するのか、それとも世俗政権(武家政権・鎌倉幕府)に変えるべきなのか、そこもどうするのかという課題も含めて争われたのが、平清盛派と源頼朝派(平清盛の反感分子だった関東平氏たちが特に源頼朝を支援・後押しした)に分かれて戦われた、どちらが武家の棟梁かを巡る闘争・支持戦が行われた。

源頼朝派が勝利した12世紀末、世俗政権に切り替えられるきっかけとなった鎌倉政権(武家政権)が設立されるが、14世紀に入るとこちらも時代に合った法(国際社会性)の整備が間に合わなくなっていき、その老朽化も著しくなった。

この時に、親鎌倉政権派と反鎌倉政権派で争われ、鎌倉幕府は解体されることになったが、「解体」というのも改革の内といえるが、解体の場合はより「今までを一新」が強調される所になる。

鎌倉解体後には、聖属政権(皇室・朝廷中心の政治)の再燃・仕切り直しとしての、建武の新政の動きになるが振るわず、政治問題を処理し切れずに長続きしなかった。

 

建武政権による聖属政治の復興は時期尚早だったと見なされると、武家政権(世俗政権)の仕切り直しとして、また戦国時代のきっかけにもなった室町政権の設立に向かうが、この事情も、のちの本能寺の変の手がかりとしても、武家政権の歴史としてもかなり重要な所になってくる。
 

そういう経緯も織田信長は意識しながら、等族社会化を進めていたことが、今までしっかり説明されてこなかった所になる。

 

だから織田信長その観点から、当時の不真面目な一部の廷臣たちや足利義昭らに対し、上の立場でありながら、そこにいい加減な取り組みしか今までしてこなかった、格下げされるべき権力者どもに対する「たいがいにせよ!」の内心の怒りの意味も、しっかり説明されてこなかった所になる。

まず、12世紀末までは、経済社会の世俗化が強まるようになっていた中で、これまで世俗側の公務も全て聖属政権が行ってきたものも、いよいよ噛み合わなくなってきて、これからは世俗側の公務は武家側が代行することとなった世俗政権化の始まりが、鎌倉政権になる。

 

今までの古代呪術的、霊的慣習なままの聖属権威をただ当てはめ続けるだけのやり方では、物証化が進むようになっていた社会観念に対する法(国際社会性)の整備にもはや限界があったこともはっきりしてきた中世の特徴は、西洋でも共通している所になる。

 

諸氏からの支持を集めながら平清盛派を排撃し、武家の棟梁として今までにないほど強力な家長権の地位を確立した源頼朝に対し、これまで皇威を中心としてきた朝廷政治の聖属裁判力(教義指導力・等族義務)ももはや、この源頼朝を今まで通りに「武家側は今まで通り、何でも朝廷に従うべき立場」だと言い聞かせることも、困難になっていた。

 

これからは世俗政治が中心だとする、それを目的とする鎌倉幕府が源頼朝によって新設され、政治がどんどん切り回されていく姿に朝廷も、今までの聖属政治を中心とする形を採りたくてももはや、それに対抗できるだけの裁判力(教義指導力)もなく、その形を渋々公認せざるを得なくなった。

 

聖属側(皇室・朝廷)と世俗側(武家側)の力関係を完全に逆転させた形となった鎌倉政権はその後、主導権を握り続けるため、またかつての聖属政権を再燃させないため、皇室と朝廷(公家・廷臣たち)に規制をかけ続けながら、武家政体の新たな地頭制(じとう。地方長官。今風の知事)を手配し、旧態の荘園制(しょうえん。有徳政治)の権威への規制・削減を進めていった。

しかしこの鎌倉政権も100年も経つと、かつての聖属政権と同じように、時代に合った公務公共性の整備(等族責任)を果たせなくなり、政体の老朽化による不当の横行も目立つようになっていた。

 

聖属政権では間に合わないからの世俗政権の発足ではあったが、こちらも同じように旧態権威のままのものが整備されずにただ当てはめ続けるのみのだらしなさが目立ったため、鎌倉末期には不当に蹴落し合う典型的な欺瞞社会の歯止めもかからなくなっていた。

鎌倉の執権(しっけん。今風の総裁)である北条氏(得宗家・とくそう・事実上の政権の頂点だった)に対し全国の武家も、代表としてのその務めが遅々として果たされないことに失望し、反感をもつようになっていた。

 

鎌倉権力の各地の地頭による、権力任せの人事差別・地域差別も横行し、不当に良い思いができる武士団・地域と、不当に負担を押し付けられながら失脚させられていく武士団・地域とで目立ってきたことに、各地もウンザリするようになっていた。
 

法(国際社会性)の整備(状況回収の等族義務)が一向にされないままの、権力任せの不当な領地特権の配分が原因で、地頭から不当ばかり受けることになった武士団も段々と反抗し始め、地方各地で自治力を強めるようになったのが、悪党である。

 

少し先述したが、地頭(鎌倉権力)のいうことを聞かずに反抗するようになった、各地域のこの武士団のことを当時の権力者側が「悪党」と呼ぶようになったことで、それが定着した呼び方になった。

 

この悪党の中には、ただの山賊・水賊まがいのいい加減な集団もいたが、悪党側として著名だった楠木正成(くすのきまさしげ)のように、地頭(権力)に対して、地域の不満を代弁する形で公正さを訴える反抗をしていた、人気のあった悪党も中にはいた。

各地で地頭(鎌倉権力)に反抗的な悪党たちが増加して社会問題化し、鎌倉政権もそれを制圧するのに手を焼くようになっていたその様子を期に、全国の武家に鎌倉倒幕を呼びかけたのが、あの有名な後醍醐天皇(ごだいご)である。

 

難儀しつつも、それがきっかけでなんとか鎌倉倒幕にもっていくことに成功するが、その後はもっと大変なことになった。

 

これが、鎌倉幕府の解体後の、建武の親政(建武の新政)の発足の経緯となるが、これは聖属政治(皇室・朝廷政治)の復興の試みだったものの長続きしなかったために、武家政権(世俗政権)を仕切り直しの室町幕府が設立されるきっかけとなった。

 

その事情と様子も、非常にややこしい。

まず、後醍醐天皇の鎌倉倒幕の呼びかけに、それに荷担した各地の反鎌倉政権派たちと、その工作に積極的に動いた廷臣たち(後醍醐天皇の側近たち)によって、なんとか鎌倉解体にもっていくことには成功した。

鎌倉倒幕戦では、打倒利害で公家側(廷臣たち。皇室の周囲を固める側近たち。聖属側)と武家側(世俗側)は一致していたが、その時点ではその後の新政権のあり方まで、確信的に一致していた訳ではなかった。

これは現代でも、その時の道義面の利害(不都合的完結な目的・理由)では一致できていても、教義面(主体都合的継続な目的・理由)では十分に確認(尊重)し合うことなどは大してされておらず、そこが錯覚されがちで、劣情統制に陥っている自覚もなくなっていく、よくある話といえる。

 

教義性(主体都合的継続・他力信仰)への向き合いを面倒がりながら、道義性(不都合的完結・自力信仰)の勢い任せの統制に頼ってばかりで、それで調子に乗って偉そうに打ちのめし合ってきた分だけ、その後の話は「思っていたものと全然違っていた」「この後は全くまとまりもないまま、難儀ばかりだった」ということも多い。

 

当事者性(道義性と教義性と区別整理)の確認(尊重)というものが普段からろくにできていない者同士であるほど、後でそれだけ「どうしていくのかを自分たちのこととして、自分たちで向き合っていかなければならなくなる」時に、それだけ内輪揉めを起こしやすくなるのは、よくある典型的な流れといえる。

その典型的な流れは、14世紀の鎌倉幕府解体でも、19世紀の江戸幕府解体でも顕著だが、どちらも旧態権力を解体すること自体がそもそも大変だという、仕方がない部分もある。

まず政権の老朽化問題は、各地の有力者上層の間では深刻さが自覚され、仕切り直しや解体の意図が働いたとしても、いつの時代も上層の事情など普段から聞かされていない、状況を曖昧にしか理解できていない中層以下の大勢を急に理解させて支持を得ようとすることが、そもそも簡単ではないことが課題として付いて回るためである。

時代に合った法(国際社会性の最低限の敷居)の整備が遅々として進まないことは、これまでの勧善懲悪の観念はもはや悪習化(できもしない性善説化・偽善性癖化)であることも認識できなくなっていること、不当が横行していることの再認識も、簡単ではない環境といえる。

 

そんな中で「今まで通りのことをしていては」と上層や有志たちの間では解っていても、しかし今までその権力構造でその立場を維持してきた皆が、旧式から急にあっさり決別できる訳ではない所もまた、課題となる。

なぜ、どういった名目(誓願)でその再統一戦(再選挙戦)に参加するのかの、等族社会化(時代に合った公正な議会制=国際人道観)に向き合わなければならない時期になっていても、等族議会制(人文性・啓蒙性)がまだまだ中途半端にしか育っていなかった中世の鎌倉末期は、より難しい話だった。

旧態権力を解体して、新政権を作ろうとすること自体がそもそも難しいことであるため、だからセンノーだろうが口車だろうが、それらしい理由で有力者や大勢を誘導するしかない場合もどうしても多くなってくるが、その意味でもそうではなかった織田信長は異質だったといえる。

歴史的にも織田信長の場合だけはそこが大違いの別格で、それを除く刷新期というのは大抵は、敵味方共に(改革派も旧態派も)支持戦になり振り構って居られずに、少しでも多くの味方を増やそうと

 できもしない約束手形(協力の成功後の見返り)の発行を、どうしても乱発されがちな所

になるが、その見苦しさは、14世紀の鎌倉幕府の倒幕・解体と、19世紀の江戸幕府の倒幕・解体とで、まさに共通していた部分といえる。

人の上に立つべき者の最低限の姿勢として、今の公的教義と大差ないような、

 できもしない約束手形(できもしない猿知恵と劣情統制に過ぎない性善説=ただの怠け癖の原因)を図々しい押し売りを続け、その買い支えを延々と強制することか能がない

 

 偉そうに面倒がりながら一方的に人に押し付けるだけ押し付けておいて、等族議会的な状況回収など一切しない

という典型的な手口などには一切頼らなかった、それが通用しなかった織田信長は、あるべき身分再統制(前期型兵農分離)の一環として、特に旗本(当主の直属士分)は公務吏僚(公務公共性の手本としての公務員)だと強調し、

 中層の者たちも、人々の最低限の手本礼儀(人文的・啓蒙的な議会制)の指標であって当然

 それが公務公共性の役人としての最低限の等族義務(手本礼儀の示し合い)であって当然


という品性規律を根付かせようと、そこを努力工夫して大幅に意識改革(=国家戦略化=国威・格式化)させた所が、まさに大偉業といえる所になる。

刷新期にありがちな手口の「できもしない約束手形の乱発」が後々深刻な問題になる、そういうやり方は織田信長は特に嫌った、だから刷新期でありながらその典型的な手口は用いようとしなかった所が、別格なのである。

そういう観点からの、人の上に立つべきではない不真面目な一部の廷臣たちと足利義昭のその劣悪態度に、織田信長は問題視していたのである。

織田信長の、人の上に立つ者(政務吏僚に見合わないと否定=破門・格下げ:政務吏僚に適している=戴冠式・格上げ)としての最低限の手本家長の資格があるといえるその教義姿勢が、まさに豊臣秀吉と徳川家康も見習われた、大事な部分だったといえる。

豊臣政権から徳川政権に移行する転換期となった関ヶ原の戦いは、それまでに織田信長と豊臣秀吉とで大幅な意識改革(身分再統制=何ら国際的な議決権など生じない、意見の整理提出もろくにできていない、ただの愚民統制・劣情統制でしかない風評弁慶主義を叩きのめす大幅な規制)をしておいてくれたおかげだった、まだ年月が浅くその風紀が強かった内に行われた戦いだった。

関ヶ原の戦いまでには、有力者たち(近世大名たち=武家の上層たち)は公務側だという風紀(身分再統制)が、織田信長と豊臣秀吉の2人によって強められていた、だからできもしない約束手形(協力の成功後の見返りという、無計画な先付け発行の乱発)などに頼らなくても、サッとやってサッと終わらせることができたのである。

その観点で見てみると、14世紀の鎌倉幕府解体後(その後の南北朝戦争の収拾まで)も、19世紀の江戸幕府解体後(その後の博徒問題と絡んだ自由民権運動一揆の収拾まで)も、後処理の乱れが極めて酷かった。

それに比べ、16世紀から17世紀にかけては足利政権、織田政権、豊臣政権、徳川政権と、名義的には激しい異動が続いたにも拘わらず、大坂の陣などの乱れはあったものの、それでも総選挙的(等族議会的)な性質が全く違った所になる。

ついに戦国終焉の方向に進んだ16世紀後半から17世紀初頭の日本は、織田信長が貴重な前例手本を示しておいてくれた等族議会制のおかげで、その政体意識は簡単に総崩れを起こすようなことはなかった。

 

豊臣秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮出兵による、明政府と李氏政府を相手取った戦い)という、あの大規模な軍事行動を何年も続け、向こうは共に政体意識にも大きな支障が出たにも拘わらず、日本はその面では全く支障など出なかったのである。

 

当時の日本はそこが世界的にも異質だったといえる、それだけ教義競争(等族社会化=人文的・啓蒙的な最低限の品性規律の示し合い=再統一戦)が重視された時代だったのである。

織田信長がまずは大事な教義改革(裁判権改め)を強力に牽引し、豊臣秀吉がその部分をしっかり引き継ぐことがされたからこそ、それが見習われた等族議会制(近世の法治国家化)の流れも維持できた、偉大な部分といえる。

戦国時代のきっかけになったといわれる、室町体制の総崩れの決定打となった応仁の乱は、これは本来は、日本全体の再統一戦(総選挙戦)でなければならなかった、室町政権(世俗政権)の見直しのためでなければならなかったが、そこが全くできていなかった残念な戦いになってしまった。

そのための国際規律(国際人道観・公務公共性)の理念(名目・誓願)など誰ももっていなかったことが露呈したのみ、すなわちただ騒ぎ合い、ただ気絶(思考停止)し合い、ただ失望し合うのみしかできなかった、その先など皆無な今の公的教義と大差ないそのだらしなさの白黒がはっきりしてしまった戦いが、1467 年の応仁の乱だったのである。

そしてそこをついにやり直すことができた、そこを今一度しっかり再確認しておくという重要な意味にもできたのが、関ヶ原の戦いなのである。

すなわち関ヶ原の戦いという一大決戦によって、日本全体の代表格(日本全体の手本家長)の名乗りを挙げ、等族議会的な総選挙戦(国内再統一戦)の務めが果たせられる格上側それだけのことができない格下側という、決定的な形が作られた。

つまり、

 関ヶ原の戦いのようにサッとやってサッと終わらせ、次なる政体を整備することもテキパキとできていた高次元側

と、それがろくにできていなかった低次元側、すなわち

 応仁の乱のようにただ面倒がり合いながら偉そうに騒ぎ合い、ただ気絶(思考停止)し合い、ただ失望し合うのみしか能がない低次元側

 すなわちただの劣情統制(猿知恵・怠け癖)の丸覚え(ただの偶像崇拝。できもしない口ほどにもない性善説の共有認識)に頼り続けることしか能がない実態がただ露呈したのみの、今の公的教義と大差ない低次元側


という歴史構図が作られた、つまり

 事態の収拾に向かわせる、関ヶ原の戦いのような高次元な戦い(議会的な手本礼儀になっている=再統一・再選挙戦の手本になっている)ができた側



 だらしなさの実態がただ露呈させるのみの、応仁の乱のような低次元な戦い(議会的な手本礼儀がない=再統一・再選挙戦の手本になっていない)しかできない側

の差としての、その最低限の差をはっきりと示せる者こそが、皇室・朝廷を肩代わりする日本全体の国威・格式を代表する手本家長(武家の棟梁)だという明確化が、されたのである。

それができた格上側に対し、それができないだけでなく意見(名目・誓願)もろくに整理もできたこともない格下側が、格上側の公認も無しに偉そうに否定・要求・指図する資格などないと扱われて当然、格上側の政権(議会が回収整理する裁判権)の規定に従わなければ罰せられて当然という、その最も大事な法治国家化の形を今一度、はっきりさせることができたのが、関ヶ原の戦いだったのである。

中央進出後の織田信長が、当時のだらしない一部の廷臣たちや、先代の兄の足利義輝の姿勢と全く違った足利義昭に対して問題視していた所も、等族議会的な議決権に何ら貢献しないような、曖昧な約束手形を発行するだけ発行してろくに回収しようともしない、ただ偉そうなだけの旧態権威を主張することをやめようとしなかった、応仁の乱と大差ない等族違反を続けようとしていた態度に対してなのである。

最終的に関ヶ原の戦いをやってのけた徳川家康だが、それまでの織田信長と豊臣秀吉の流れが無かったら、徳川家康だけの力ではその形を作ることは困難だった、だから結果的にはこの3人の共同努力によってなんとか日本を、戦乱のない法治国家化に向かわぜることができた、というのが正確な所になる。

 

応仁の乱(できもしない性善説・ただの猿知恵・ただの怠け癖)と関ヶ原の戦い(等族議会制)の違いの区別・整理などできたことがない、その低次元側と高次元側の敷居の違いを見ようともしない公的教義と大差ない分際(偽善者)が、何を人にいきなりケンカ腰に偉そうに人間性だの社会性だのという話である。

 

織田氏が台頭するまでの混迷期には、先駆けとして他力信仰(教義性)で台頭できていた、日本の自力教義の最後の希望だった浄土真宗も、それまでその教義改革への喚起にかなり貢献していた。

当事者性(道義性と教義性の区別。冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方の異種異文化の多様許容性)の整理など一度もできたことがない、いつの時代も極めて低次元な公的教義が、教義性(国際人道観・品性規律)の立て直しができた試しなど、歴史的に一度もないのである。

何ら最低限の手本礼儀の示し合いなどできたことがない怠け者の無能(偽善者)の集まりでありながら、毛並みの違う後発の他力信仰の浄土真宗を散々毛嫌いし、ただ偉そうに格下扱いを続けるのみしか能がなかった天台宗(公的教義)は、その浄土真宗に日本の教義主導の座を完全にもっていかれてしまい、自滅的に空気扱いされるようになったのである。

有徳闘争(惣国一揆)後の聖属と世俗の境界を巡る、今一度のその白黒の明確化もしなければならなくなってきていた、本来はそこも教義的に管理・指導できなければならなかった廷臣たちの本来の院政としてのその務めも、大して果たしてこれなかった。

今と大差ない、ただの猿知恵に過ぎない学位学歴とやらを偉そうにたらい回すことしか能がない、極めて低次元な集まりでしかない公的教義が、法(国際社会性・等族議会制・時代に合った品性規律)のあり方を整理収拾できる訳がないことも明白になってきていた、できないから浄土真宗が肩代わりすることになったのである。

その意味での、織田氏による比叡山焼き討ち(等族違反を繰り返す公的教義の否定)と、長島城の掃討戦(閉鎖有徳の撤廃)とでの政治的な性質の違いも、今までしっかり説明されてこなかった所になる。

そこも順述していくとして聖属問題の歴史経緯に視点を変え、鎌倉幕府が解体される時、当初は公武一体としてこの解体戦で活躍した公家(聖属)と武家(世俗)の有力者たちの間で協調路線を採りながら、今後の政治体制が作られていく、ということになった。

表向きは、後醍醐天皇の綸旨(りんじ。勅令。天皇陛下直々の最高指令の強調)の全国への呼びかけによって「それで反得宗派(反鎌倉派)を結束させ、打倒を果たすこともできた」ということで、後醍醐天皇の皇威が再確認される朝廷政治復活の、建武(けんむ)の新政(親政)が始まる。

それでうまくいくのかどうかも含め、後醍醐天皇に協力した武家側の各地の諸氏も、これからの政体改革に期待しつつ、ひとまずそれに従いながらの様子見ということになった。

皇威を中心に今一度、かつての聖属政治の反省の仕切り直しの意味もあったはずの建武政府だったが、大して時間が経たない内から

 

 「問題が多かった旧鎌倉政府のままだった方が、まだ良かったではないか」

 

 「これでは鎌倉政権を解体した意味が、全くなかったではないか」

 

と、早くも武家側から不満の声が強まり、混迷するようになった。

この建武政権が長続きしなかったのは、皇威・朝廷権威を性急に回復させようとした廷臣たちのそのやり方が強引過ぎて、何かあれば後醍醐天皇の皇威をもち出して強権を強行するばかりの無策が続いたことが、まずは原因だったといえる。

ただしこれは「試しに王政復興(天皇制)に立ち返ってみたものの、結局振るわず、まだそういう時期ではなかった」という見方も当時は強かった所も、重要になる。

鎌倉解体を機に、聖属政権(天皇政治・朝廷政治に立ち返ることが試されるも結局立ち消えとなって、室町政権による世俗政治(武家政治)で仕切り直されるようになったこの事情がどのようなものであったのかは、日本の歴史として知っておいて損のない大事な所になる。

14世紀のこの後醍醐天皇の王政復活運動を最後に、19世紀の江戸幕府解体の明治時代を迎えるまで、「元々は日本国王の立場も兼任していたはずであった、天皇陛下を中心とする帝国主義」の立ち返り運動が結局再燃することはなかった事情も、かなり大事な部分になる。

そしてこの問題は、本能寺の変にもやはり関係してくる、大事な部分になる。

織田信長も問題はゼロではなかったかも知れないが、皇室が衰退しないようにしていく今後の体制までをも、救済の手助けをしようとした織田信長に、まさにそこに「自分たちが全くできていなかった」一部の廷臣たちからかなり逆恨みされたことも、内部的に対立することになった要素になる。

話は戻り、建武発足から間もなく不満を漏らすようになった、武家側の諸氏たちも当初は「武家側との協調路線の朝廷政治の復帰ということで、それでうまくやっていけるのなら、それでも構わない」で見ていたという所も、重要になる。

後醍醐天皇がきっかけとなったこの建武の親政は、支持された部分もあったが不評だった部分も段々と目立つようになり、「それは時代に合った政体だと果たしていえるのか?」という所には、大いに疑問なものばかりになってしまった。

朝廷が天皇制(聖属裁判権)の復活に向けて、その権威を固めるために、これまでの武家(世俗)権力を性急に削減し始めたそのやり方が、まずは武家側から問題視された。

何の功績も典礼(格上げの優先権が与えられる理由)もなかったはずの側近・廷臣たちにまで領地特権が配分されながら、武家側をあからさまに格下扱いし始めるやり方で、今まで協力してきたはずの諸氏のことを大いに逆なでし始めたために、武家側からはかなりの不評を受けるようになった。

朝廷は、京を帝都の威厳としてより高めようと、都市改革を熱心に進めたために、文化・商業都市としての京の機能はより高まり、今までよりも賑わいを見せてより華やかな都市に成長させたため、その点では人々も喜んでいた。

ただしこれも「帝都(京)さえ良ければ、他はどうでもいい」かのような、中央の都市整備ばかり熱心で、地方の整備などは大して奨励されないまま、帝都を増強させるために武家側の諸氏に、過酷な労役や出費を一方的に負担させることばかりしていた。

朝廷に対して(皇威に対してというよりも廷臣たちに対して)反感的な態度を少しでも示す地方があると、朝廷は等族回収しようともせずに、問答無用で朝敵扱いにして、他の諸氏に討伐令を負担させる建武政府のその姿は、皇威任せの恐怖政治のような兆候が、早くも出始めた。

何かあれば廷臣たちは勅令の強権を用いて武家側に強制的に大変な出費と労力を負担させるばかりで、それに見合うような恩賞や代替特権がろくに配分されなかった。

 

自分たちの所の地域政治と関係ない無償奉仕ばかりさせられる武家側は貧窮・衰退していき、廷臣たちばかり良い思いをする一方だった、そう仕向ける過酷な勅令が繰り返された。

武家側の諸氏としては、鎌倉倒幕の際の具体的な名目(誓願)として、後醍醐天皇の世直しの呼びかけに呼応したという自分たちの手前もあったため、武家側も不満はあってもしばらく様子見で従っていた。

武家側も、建武設立の最初だけは仕方ないと従事し「公家と武家の公武一体の協調路線の公約として、政権の形ができていけば、そこもきっと後で平等的に整備されていくだろう」という期待で、しばらくは様子を見ていた。

 

しかし、その期待は一向に見られないまま、公家の格上げ、武家の格下げばかりの政策が続いたため、諸氏も悲鳴を挙げ始め、大いに失望するようになった。

帝都と朝廷(廷臣たち)のみがただ格上げされ、武家側の苦境は何ら対策されない古代復興に、当然の話として地方の武家側が中央(建武政府)を支えようとする意欲など、減退していくに決まっていた。

度々の普請(ふしん。政治上の工事などの要請)や、反感分子への討伐勅令などに、武家側の諸氏も手抜きするようになると、朝廷は今度はそれも問題視して「手抜きする者たちにも討伐勅令を出すぞ!」というような、ありがちな恐怖政治にどんどん進み、諸氏も困り果てるようになった。

それはまさに鎌倉末期の時の、不当だらけの執権(得宗家)と地頭(地方ごとの支配者)たちのしていたことと全く同じ構図だった、悪党闘争と大差ない末期症状が建武設立から早くも出始めていた、だから武家側の諸氏も「鎌倉末期と、今の状況と、一体何が違うのだ」だったのである。

公家たちへの領地特権ばかりが過剰に手配されていくことは、公家と強く結び付いていた各地の、かつて政治力を有していた寺社(有徳)が力を取り戻すことを意味した。

それはかつて寺社(有徳)を中心としたその地域ごとの政治の復活、つまりその治安裁判権のための僧兵体制も復活するかも知れないことを、意味した。

寺社(有徳)を中心とする地方の裁判権の再興は、これは無策であれば、間違えればかつての「できもしない有徳政治とその僧兵体制」のただの逆戻りの時代逆行の劣悪政策でしかない。

放っておけば閉鎖有徳主義を強めて凶暴化するばかりなのも目に見えていた僧兵体制は、その内に政権や皇室に対し、やたらと偉そうな神輿(しんよ。神仏のミコシ)を担ぎながら激しく強訴(ごうそ)し始め、政体を著しく阻害し始める愚劣性癖の原因になる。(平安のまさに末期症状だった)

そもそもキリスト教のような他力信仰型でもない日本の旧態仏教が、ヨーロッパのように、フランシスコ会やベネディクト会といった宗派ごとの各修道院に属する騎士団という構造で、それでどうにか王政と等族議会を維持していくということなど、とてもできなかったことも露呈したのが、平安末期だったのである。

他力信仰型の西洋でさえ、各地の騎士修道会に所属という形で、聖職(人々のために戦う公務十字軍=クルセーダー)だという品性規律を保つ軍の統率の仕方で、それで足並みを揃えることに、西洋でさえ難儀していたのである。

神道の教義性(他力信仰)よりも、今の公的教義と大差ない権威構造(顕密体制。けんみつ。教義全体を統合集権化しようとする動きのこと)としての仏教権威(道義性一辺倒・自力信仰一辺倒)ばかり強め、顕密体制側(道義側)が神道側(教義側)をただ利害利用することしか能がなくなっていたのが、平安末期だったのである。(キリスト教社会の中世は、そこが真逆だった)

禅の思想が再確認され、またついに浄土教が台頭するまでは、他力信仰性(教義性・主体都合的継続)など実質皆無になっていた日本の旧態仏教(旧態顕密=不都合的完結一辺倒)が、寺社に所属するかつての僧兵体制を何の工夫もなく採用した所で、それで公務軍としての国際品性規律の再認識など、できる訳がなかったのである。

 

これは、日本の公的教義である天台宗が、西洋の公的教義である教皇庁の十字軍遠征のような指揮権発動と同じことができたことが、一度でもあったのかという話である。

 

他力信仰型の西洋でさえ、それで足並みを揃えることに苦労していたのに、そのように全国の僧兵に号令をかけて国際国防軍の意識をもたせて召集・整列させることなど一度もできたことがない日本の公的教義が、何ら工夫も無しに荘園制の僧兵体制を復活させた所で、正しさを乱立させ合って荒れ始めるだけなのである。

今の公的教義と大差ない、自力信仰一辺倒(不都合的完結一辺倒)でしかない中で、かつての日本の僧兵体制(西洋でいう所の騎士修道会体制)を用いた所で、閉鎖有徳主義を全国にただ強めてしまうだけなのは解りきっていた、だからそこも武家側が代行するようになったのである。

 

顕密体制(公的教義)を無神経(無計画)に押し付けるだけ押し付け、等族責任をもってそれを状況回収できたことがないことが問題視されるようになったから、衰退するばかりの聖属政権から武家政権に移行する形で、武家側が世俗政治を肩代わりするようになったのである。

織田信長が延暦寺(比叡山・天台宗・公的教義)を踏み潰した理由も、その禁じ手(等族違反)のはずである僧兵体制を何の工夫も無しに再燃させ、反織田連合に組しようとした(世俗闘争に介入しようとした)のが、焼き討ちに踏み込まれることになった決定打だったのである。

その時にも代替保証を提示しながら、世俗闘争から手を引くよう織田氏が説得しても、延暦寺(天台宗・公的教義)は偉そうにそれを突っぱねる態度に出て、自分たちで事態を収拾できもしないことを、再燃させようとした、その劣悪姿勢に織田信長を大いにあきれさせたのである。

そういう所こそを外交的に回収・調整し、等族社会化に向けて正常化に向かわせなければならなかったのが院政の務め、つまり廷臣たちが公的教義と連携することの本来の務めなのである。

 

だからこその教義改革だった織田氏に対し、目先の不都合のみでただ反抗的に煽るだけのその劣悪性癖を自戒しようとしない一部の廷臣がいた、積極的に和解に動こうともしなかったその制裁の意味もあって、比叡山が焼き討ちされたのである。

当時の、織田信長が強行した「比叡山焼き討ち事件」とは、今の公的教義と同じく等族義務など何ひとつもち合わせておらず、全て外のせいに煽り始めることしか能がない、その化けの皮が剥がれた、その実態があぶり出された歴史的瞬間だったといえる。

日本全体の社会病と化していた、庶民同士(半農半士の下っ端同士)で勝手な格差収奪上下(閉鎖有徳社会)を作り始めて、地方全体の農商業の整備を阻害し続けてきた閉鎖有徳問題を、今と大差ないこの公的教義どもは、それをやめさせる本来の等族義務(教義指導力)など何ら果たさずに今まで通り、皆がこれからも気絶(思考停止)し合い、失望し合い続けるよう、無神経に見過ごし続けてきた愚劣態度が、当然のこととして織田信長に制裁されただけの話に過ぎない。

この自立自制(自己等族統制)など皆無な、極めて低次元な公的教義(口ほどにもない顕蜜体制=できもしない性善説)のような、この猿知恵の集まりなどとは訳が違ったのが、あの他力信仰の浄土真宗の一向一揆(もはや品性規律を巡る軍閥闘争)の台頭だった、だからそれを抑えるのに織田氏も難儀したのである。

世俗政権の発足となった鎌倉時代には、経済社会の物的世俗化を自覚するようになっていた仏教界も、大幅な見直しのきっかけとされ、ついに他力信仰の不足が意識されて、それを専門とする浄土教(源空と親鸞)が誕生したのも、特徴的な所になる。

それに対し、今と大差ない低次元な公的教義(天台宗)どもめは、ただ偉そうな権威任せの顕蜜主義で、毛並みの違う新興の浄土教(他力信仰)をそれまで目のカタキに、教義指導力など皆無な身の程知らずが見苦しくも、偉そうに延々と否定しながら格下扱いし続けていたのである。

 

鎌倉仏教時代の公的教義(天台宗)は、僧兵体制から手を引いたものの、政権に保護されていたに過ぎない顕蜜主義は完全には崩れておらず、表向きの権威としてのやたらと偉そうな公認制(破門と戴冠式)は一応は生きていた、この猿知恵しか身に付けない勘違いの怠け者どもはただその環境に頼り切って一生懸命に、浄土真宗に格下扱いし続けてきた。

 

戦国時代に聖属側として軍閥化らしい形で先駆けで台頭した浄土真宗は、これは当時の世俗裁判権が一向に改善の兆しも見せずに、永らく迷走し続けたことが理由で、今一度の聖属裁判権の見直しとなった運動だったことには違いないものの、ただしこれは皇室・朝廷を巻き込んだ聖属政権運動だった訳でもなんでもなかった所が、かなり異質であることも、今までしっかり説明されてこなかった所になる。

 

最初から公的教義(中央聖属)と協調路線など採れてこれたことなどなかった所か、目のカタキにされて延々と格下扱いされ続けてきた、不利な扱いを受け続けてきたこの浄土真宗に、公的教義が今までできたことがなかった聖属運動を、この格下とやらの浄土真宗に見事に立証されてしまったのである。

 

公的教義の「口ほどにもない」とは、まさにこのことだといえるが、軍閥らしい形まで作った、地方の代表格たちよりも先駆けでその組織化の手本姿勢を見せた浄土真宗のその事績自体が、異例中の異例だったのである。

 

政権にも関係してくるような日本の聖属運動といえば、明治時代でも顕著だが、神道の見直しでも仏教の見直しでも、それまでは神の眷属の末裔の本家筋である皇室と、それを固める周囲の太政官(だじょうかん。今風の宮内庁)が深く関わることが当然だったのが、浄土真宗は完全にそれと切り離された聖属運動だった、つまり皇威に全く頼らずの前例のない聖属裁判権運動として一定の政治的な成功を見せた、それ自体が、それまでの日本の歴史の中でも異例だったのである。

 

ここがどういう訳か大して説明されてこなかった大事な所になるが、この朝廷と決別するような形で一定の成功を見せた浄土真宗の意味自体が、「自力信仰一辺倒の低次元な公的教義(中央権力)なんかといつまでも関わるから、いつまでも日本全体の教義(国際社会性)のあり方も一向にその見直しも進まないままなのだ」と遠回しに廷臣たちと公的教義の存在を否定していたのも同然だったのである。

 

 「権力機構(室町)が崩壊してしまったら何の教義価値もなくなるような格下側の公的教義から、公認(戴冠式)された、否定(破門)されたから、だから何だというのだ」

 

 「自分たちで法(国際社会性・裁判権)の整備(自己等族統制)に今まで何ら貢献できたことがない、権力任せ(顕密体制任せ)に過ごしてきただけの何の教義性もない格下側の公的教義の公認・否認に、もはや教義的に格上側の我ら浄土真宗がなぜ従わなければならないのだ」

 

聖属(教義)の世界でも、その等族社会化(身分再統制)の自覚が先駆けでされていた、ただし浄土真宗は皇室には迷惑をかけたくない配慮で、あからさまにそこを直接否定することを控えていただけの話だったことも、今までしっかり説明されてこなかった所になる。

 

応仁の乱以後は特に、中央がすっかり崩壊して荒れ放題のままが続き、皇室の住まいまで整えることも困難になっていた。

 

それを支援しようと浄土真宗は、余裕がある時は朝廷に多額を献納し、救済に動くこともできていた、だから皇室ももはや浄土真宗が表向きは天台宗(公的教義)と同格とする、山門扱いから禁門扱いに格上げされたのである。

 

これも表向きはそうだっただけで

 

 「では、もし中央聖属として今後、公正に収拾できるだけの教義力があるといえるのは、天台宗か浄土真宗か、どちらか?」

 

と問われれば、ただの自力信仰一辺倒の閉鎖有徳の集まりに過ぎない、そもそも権力に頼らなければ自己改革(自己等族統制)の最低限の手本礼儀の示し合いなど今まで歴史的に皆無だった天台宗(公的教義)が、近世化の刷新後にもしその役割が仮にあったなら、それがもはや務まる訳がなかったのである。

 

それだったら他力信仰が再認識された浄土真宗の方が、遥かにその見込みがあったのも、明らかだった。

 

その問題だけでなく、諸氏が揉めて戦争中だろうが本来は、廷臣たちが和解を斡旋しながら諸氏に、皇室や朝廷の建物を再建させるための献納をさせなければならない立場なのであり、公的教義も本来は、そういう時にこそ教義指導できる形にしておかなければならない立場だった、その管理責任も廷臣たちにあったのである。

 

それもできなくなっていた廷臣たちと公的教義であったにも拘わらず、織田氏が中央に乗り込んで全て再建してもらうことになり、生活権の面倒まで見てもらっておきながら、この不真面目な一部には「自分たちができなかったことを、織田氏や浄土真宗に全部されてしまって屈辱」という、歪み切った逆恨みの劣情統制で固まろうとするばかりの、今の公的教義と大差ない何ら反省などしない連中もいたのである。

 

織田氏が中央に乗り込む前から、中央教義の実質の主導は完全に浄土真宗にもっていかれていたことまで「織田氏が我々(廷臣たちと公的教義)を立てようとしない」と、今までの自分たちのだらしなさの不始末を、織田氏への憎悪に転化してそこをうやむやにしようとするばかりの、筋違いもいい所のこのどうしようもない一部の等族違反の旧態権力者らを、織田信長は問題視していたのである。

 

中央に乗り込んで、朝廷の建造物と都市経済を見事に再建したその後も、簡単に崩れることはなかった、今まで誰もできなかったことをついに織田氏にされ、一貫した等族議会制のための政体がどんどん強化されていく姿を見せつけられてしまったことに、今まで「そんなことは誰もできる訳がない」で怠け続けてきた廷臣たちは、その異例事態を受けて錯乱を起こしていたのは、容易に想像できる所になる。

 

これは、19世紀の黒船事件で騒がれるようになって、江戸幕府を解体するかどうかで日本が沸き返っていた時の廷臣たちと同じように、尊王攘夷では一致していても、佐幕派や雄藩派などいくつかで意見が分かれるようなり、廷臣同士で対立構図ができてしまっていたあの状況が、この時にはもっと深刻になっていたものと思われる。

 

織田政権が、聖属もこれからは世俗裁判権に従わなければならない代替の等族責任(公正な意見回収)として、教義力に見合った待遇でそれぞれの宗派を保護していくと、自力信仰の法華宗だけでなく、他力信仰の浄土宗(源空派)でも、中道的だった臨済宗でも、外国のキリスト教でもなんでも収容し始めたのである。

 

顕密体制だという以上は、本来はそれができていなければならなかった、その教義の収容化(異種異文化の多様許容性の整理=等族議会制)も結局されないまま、権力任せに他力信仰を一方的に否定し続けることしかしてこなかった、国際化など何もしてこれなかったからこそ公的教義は、教義の主導の座を浄土真宗に完全にもっていかれてしまい、空気状態になったのである。

 

織田政権の中央への乗り込みによって、今まで自分たちが信じてきた正しさと全く違う世の中に一気に変えられてしまった、もはや「今までの顕蜜体制(公的教義体制)など、織田政権では完全無効」といわれてしまったも同然に、権力に頼らないと何もできないような公的教義のような小心者の集まりが、錯乱しない訳がないのである。

 

まず自国の他力信仰もろくに許容してこれなかった、そういうものこそ協力的に協調路線をとって中央教義を整理・強化していく側の上としての手本を示さなければならないことも今までしてこれなかった、今の公的教義と大差ない低次元な集まりが、今後はキリスト教徒たちだけではないかも知れない世界情勢の外交視野を前提とした収拾力・対応力など、確立していける訳がない。

 

だから織田信長は、今までを反省させる制裁の意味でしばらく、廷臣たちの本来の務めであった公式な外交役を、全てではないがそれを巻き上げる形で、廷臣たちを懲罰的に窓際族扱いし始めていた。

 

本能寺の変にも関係してくる、廷臣たちへの政治的な制裁は厳しいものだったように見えるが、実はこのやり方を採った織田信長はそのだらしなさに内心は問題視しながらも「廷臣たちの問題も、なんとか改革しなければ」と、むしろ少し寛大過ぎたといえるほどである。

 

織田信長はこの廷臣たちのことは丁度、大ヘマをやらかした法華宗(日蓮派)の指導部上層たちと同じような扱いで見ていたのではないかと、筆者は見ている。

 

その理由などものちほどまとめていくが、接待・饗応の典礼面についてはともかく、公務面ではもはや廷臣たちよりも、織田信長の旗本吏僚たちの方が遥かに品性規律は上回っていた。

 

自分たちで改革してこれなかった廷臣たちの中で、旗本吏僚たちにその役目を奪われてしまったために、廷臣たちもかなり逆恨みするようになっていたが、しかしこの対立などは全くもって甘っちょろいものであったことを廷臣たちは後になって思い知ることになる。

 

今までの荀子型政治(教義的独裁制)による裁判権(国際社会性・品性規律)敷居の高まりも十分と見なされ、孟子型政治(道義的合議制)に移行するようになった徳川政権の時代になって、そこがはっきりされる。

 

徳川政権の朝廷への厳しい規制への乗り出しはまるで「お前たち廷臣は、織田政権時代にはあんなに大甘に大目に見てもらっていたのに、それに不満をいいながら足を引っ張り、武家政権のやることの大ごとにまで関与しおって!」といわんばかりの厳しさである。

 

教義的独裁制を経て道義的合議制に移行されるということは「教義面(品性規律)を指摘しても道義面(権威)でしかモノをいわない相手には、遠慮なく道義面(権威)で思い知らせてやれば良いのだ!」になったことを意味する。

 

朝廷との衝突は少なくとも表向きはなかった豊臣政権はともかく、それがあった織田政権と徳川政権との廷臣への対応の決定的な違いとして、織田政権の場合は徳川政権の時のような公家諸法度を敷くような取り締まりの仕方まで、しようとしていたのかは解らない所になる。

 

徳川政権の、この武家側からのあからさまな公家・寺社に対する、格下げ的な治安規制であった公家諸法度は、もはや廷臣たちを幕府の外様家臣扱いとしたも同然の処置だったといえ、これは織田政権時代、豊臣政権時代とは比べ物にならない厳しさだったといえる。

 

本能寺の変が起きるまでに何があったのか、こうした特徴的な話をのちほど、まとめていく。

 

歴史経緯の視点に戻し、建武の新政の聖属裁判権の再興運動と、戦国後期の浄土真宗たちの聖属裁判権の再興運動とでは、全く異質な部分が多かったこの大事な所が、今まで説明されてこなかった所になる。

 

建武の失敗を受け、武家政権(世俗政権)の仕切り直しとして室町幕府が設立されるが、応仁の乱がきっかけでこの権力機構の崩壊が起きたこの時に、皇威・朝廷政治の復興運動が再燃しなかった事情も、これがどんな重要な意味があったのか、ここも今までしっかり説明されてこなかった所になる。

 

次はそういう所の説明もしていき、また戦国後期までの武家側が、皇室をどのように見ていたのか等、建武の新政にもよく現れている所としてそこを紹介していきながら、本能寺の変の手がかりについて引き続き、記述していく。