近世日本の身分制社会(074/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか02/? 2021/07/23

 

自分たちの道義性(内)教義性(外)の区別を、等族議会的に区別・整理、その最低限の手本礼儀(教義指導力)の示し合いができたことがない、主体性(組織理念・主体都合的継続の使命感)など皆無な公的教義と大差ない

 「皆の知っている正しさと違う!」

 「知らない間に勝手なことをされた!」


などと騒ぐことしか能がない、所詮は

 できもしない性善説(ただの怠け癖の猿知恵の丸覚え)を、できもしない性善説(ただの怠け癖の猿知恵の丸覚え)だと、見抜けられたことがない

 すなわち、気絶・錯乱・思考停止(疲弊・混乱・失望)し合うことしか能がない、そのくだらなさにまんまと乗せられている愚かさの実態も見抜けたことがない

 すなわち、不当に得する者と不当に損する者が出てくるようにする劣情統制(等族違反)の手口も見抜けたことがない

 すなわち、ただ上(自分)に甘く、ただ下(人・外)に厳しいだけの、ただの人任せ・数任せ・外圧任せ、権威任せの弊害の押し付け合いしか能がない実態も見抜けたことがない


そのように

 そのいいなりのただの機械的な拡声器になり下がって騒ぐことしか能がない

 その手口にまんまと乗せられてしまっている実態を、普段から疑うこともできていない

公的教義と大差ない劣悪態度の実態もそもそも見抜けられない、低次元・低知能な手合いが、

 

 時代に合った異種異文化の許容多様化(当事者性・人文性・啓蒙性)

 

 法(国際人道観・品性規律・国威格式)のための回収・整理・裁量(等族社会化)

 

の高次元側の取り組みなどできる訳がないのである。

中世の末期症状であった、霊感商法と大差ないただ偉そうなだけの破門(失格)と戴冠式(合格)の劣情統制の手口で、気絶・錯乱・思考停止(疲弊・混乱・失望)させ合い教義崩壊させることしか能がない当時の口ほどにもない枢機卿団どもと、今の公的教義もそれと一体何が違うのかという話である。

そもそも人としての最低限の民権言論(等族社会化)の手本礼儀の示し合いもまず守れないような、最初からその国際人道観を踏み外している公的教義と大差ない手合いが、人のことに偉そうにケンカ腰に軽々しく破門(失格・否定)扱いしようとすること自体、思い上がりもいい所の身の程知らずといえる。

まず自己等族統制もろくにできたこともない公的教義と大差ない極めて低次元・低知能な手合いが、世(国際人道観)のため人(次代たち)のためのことなどに、まともに向き合ってこれた訳がない。

今まで通用していた、ただの猿知恵、ただの劣情統制の手口もついに、織田信長の等族議会制(主体性)によって通用しない時代を、日本は迎えた。

そういう所をまず上が、冷静に慎重に深刻に受け止めることができない、図々しく強者的立場に居座り続けようとする公的教義と大差ない迷惑千万な身の程知らずに対しては、上から順番にいくらでもうちのめしてやっても構わない所になる。

しかし一方で、その時代に合った等族意識を、弱者的立場の多くの下々に向けさせることは、決して簡単な話ではない。

公的教義のように、ただ下品で汚らしいだけの劣情統制の塊でしかない風紀をただ威力で抑えつけるのみ、ただ丸覚えさせるのみで、等族議会的に確認(尊重)し合う組織理念に関心意識を向けさせる工夫がされなければ、戦国前期に巻き戻るばかりなのである。

16世紀の等族議会制は、今まで体験したこともない教義改め(裁判権改め・社会性改め)によって「上から順番に制裁」「下から順番に救済」していくその意識改革に挑むことは、決して簡単ではない、大変な事業なのである。

そこは日本の織田政権も、西洋の帝国議会も、そこは同じく苦労しながら対応されていった所になる。

対象の劣悪態度(旧態慣習・ただの怠け癖・ただの猿知恵・ただの劣情統制)を否定する以上は

 こちらの方が明らかに高次元側

 相手の方が明らかに低次元側

であることを、まずは民権言論的(名目・誓願・等族議会的)な観点から、自分たちの問題は自分たちの問題として白黒はっきりさせ合う、その最低限の手本礼儀の示し合いができている側こそに

 国際人道的・国際社会的・品性規律的に否定するべきを否定

できる所になる。

等族議会制は、人類がやっと法的意識(異種異文化の多様許容化・国際人道観の整合化)の回収・整備・裁量で、国内整備をし始めた時代である。

近世化(等族社会化)に向かった16世紀は、日本も西洋も、それで自分たちの品性規律の法基準を自分たちでしっかり立てていくことができている高次元側と、そこがろくにできていない低次元側とで、国力・国威・格式に大差が出始めるようになった時代である。

この原則こそが、まさに戦国後期の力量の構図だったともいえる。

閉鎖慣習で今まで非同胞拒絶し合ってきた旧態社会からいかに脱却し、いかに公正に国内整備していけるか、いかに身分再統制(公務公共性・等族義務)の見直しもできているか、その力量が意識競争されるようになった時代である。

孫子の兵法もつきつめれば「自分たちの組織理念は自分たちで回収・整理・整備していく基本中の基本から取り組んで指導できていなければ、まず戦う前の軍備計画や外交戦略から大きな優劣差が出てきてしまう」ことが、繰り返し喚起されている所なのである。

ただの怠け癖の猿知恵(できもしない性善説)をただ丸覚えして高次元側が損して、低次元側が得する社会」にすることしか能がない、迷惑千万な公的教義と大差ない、極めていい加減な向き合いを喚起するために、孫子や荀子らは書き残してくれたのである。

 

織田信長は、等族社会化のための閉鎖有徳狩りを徹底し、国内整備の手本前例の多くを示しておいてくれただけでも、それだけでも十分に偉大だけといえるが、それだけではなかった。

世界的にどこも手を焼くようになっていた教義問題も、織田政権では今までの聖属裁判権を改めさせつつ全て収容し、対象が仏教だろうがキリスト教だろうが、また元はその者が黒人奴隷だろうが

 「わが織田政権では、内外の聖属の保護も、公務士分待遇も、低級裁判権(庶民法)の保証も、海外通商・文化の受け入れも、全て教義力次第!」

と、異種異文化の多様許容化の手本の、その世界規模の受け皿を目指していたこと自体、別格だったといえる。

織田信長は16世紀にもはや、19世紀の人文性・啓蒙性をもち合わせていたといっても良いほどの、新たな身分再統制が目指されていた所が、さらに優れた部分だったといえる。

いかに自分たちで閉鎖慣習から脱却し、いかに自分たちで等族議会的に異種異文化の多様許容化の法的回収・法的整理・法的裁量(法的=相手を上回る品性規律)ができているか、それでいかに自分たちで身分再統制(公務公共・品性規律の指導のあり方=人の上に立つあの方)の見直しできているか、その国内整備(自己等族統制)の競い合いが力量差となった時代である。(孫子の兵法でも指摘)

 

この等族社会化の原則はよくよく考えてみれば現代でも、個人間・組織間における競合競争の意識・環境作りにおいても、全く共通していえる部分といえる。

 

この等族議会性(民権言論性)を完全否定するために、ただの怠け癖の猿知恵を丸覚えすることしか能がない、公的教義と大差ない極めて低次元・低知能な手合いが、その重要な意味をまともに認識できる訳がないのである。

 

本題に入り、この等族社会化において、上の立場の者たちに対しては、その重みに応じていくらでも厳しさを向けても構わない所だが、ただしそれを今まで認識する機会も余裕もなかった多くの従事層たちに対し、ただ威力任せの厳しさを向ければいいという訳では、当然ない。

等族社会化に向けた法治国家(高次元の裁判権=等族議会制=国際社交性)のあり方の最低限の手本礼儀の示し合いを、上は上、下は下で身分(公務公共責任)に応じた適正なやり方(教義性と道義性)で指導できなければ、あっという間に戦国前期に逆戻りである。

上はともかく、多くの従事層の下々には、今まで体験がないような新たな等族統制の意識を向けさせることは簡単ではなかった中、織田信長はただ威力任せではない、当時できる限りの、そこへの非常に優れた努力工夫が見られるやり方がされている。

これは、当時の様子が窺える話として、さらに本能寺の変にも関係してくることとして紹介していきたいが、そのやり方だけを紹介しても誤解しか伝わらないため、その説明からしていきたい。

織田信長の下々への努力工夫は、おおまかに2つの要点の使い分けになる。

 ① 上は等族議会制を議事録的に通しながら下を確認、下も等族議会制を議事録的に通しながら上を確認し合う

 ② 皆の意識がどうであろうと、等族議会制を通した事実がない以上は決定権はない


特に、等族議会制を通さない以上は、つまり

 状況・意見を整理して提出する(最低限の手本礼儀の示し合いをする)という法的(国際社会的・民権言論的)な基本

 

など一切されていない、

 

 名目(誓願・提出)なき、いい加減な共有認識(怠け癖・猿知恵・劣情統制)

低次元・低知能な公的教義と大差ない、何の法的効力(国際意識・品性規律)もない、その確認(尊重)のし合いをただ面倒がっているだけの風評弁慶主義は一切通用しない、誰も整理し合おうとしない、その議事録的なものも皆無ないい加減なもので上下統制を押し付け合うことが、もはや許されない等族社会化に向かっていることを解らせる工夫が、織田信長のやり方の目立つ所になる。

まず等族社会化の改革は、

 上・公務側の上意下達(トップダウン) = 教義性(主体都合的継続)の最低限の手本礼儀を示しながら、下・従事層側の道義性(不都合的完結)を回収・整理する

 

 下・従事層側の下意上達(ボトムアップ) = 道義性(不都合的完結)の最低限の手本礼儀を示しながら、上・公務側の教義性(主体都合的継続)を要求する

 

互いのこの等族責任を、どうやって認識させながら取り組ませていくのかは、前例がないほど難しい所になる。

日本を法治国家に向かわせるために、そこをなんとかしなければならなかった織田政権のような立場とは、

 ただ面倒がっているだけの単純な威力任せで、ただ偉そうなだけの猿知恵を丸覚えさせるだけ

の、口ほどにもない公的教義のようにただ極めて低次元・低知能なやり方で等族社会化(改革)ができるのなら、戦国時代は長引いていないし誰も苦労はない。

織田信長の方法論としてまず

 罰する(うちのめす・人格否定)する前に「公式・公正な意見整理の事実と、その提出と裁量の事実」をまずは意識化・明確化・誓願化させる

 まず意見を民権言論的に整理・提出させる基本(まず意見総代を立てさせる基本)から始めさせる


というその最低限の手本礼儀の等族責任(自己等族統制)をまず認識させ、その大事な向き合いの順番から守らせることが、法治国家(品性規律)としての、まずは基本中の基本の大事な所なのである。

その最低限の手本礼儀の示し合いも「やって当たり前、できて当たり前」になっていない、それを威力(人任せ・数任せ・外圧任せ・権威任せ)に頼らないと何ら自立自制できない、

 ただの猿知恵に過ぎない、ただの怠け癖の劣情統制論でしかない共有認識の実態も見抜けずに、それにただ頼って騒ぎ合うことしか能がない劣悪態度が、等族国家(法治国家)のあり方な訳がない自覚・反省もできない

 それが気絶・錯乱・思考停止(疲弊・混乱・失望)し合うことしか能がない実態だと見抜けたことがない、そのことにただ向き合った気なりたいだけのだらしなさを自覚・反省もできない


ことを思い知らせることがまずは重要な所で、その劣悪手口を禁止するための閉鎖有徳狩りがまさに、その等族違反に対する解りやすい取締りだったといえる。

 

まずそうした自己等族統制もできていない、国際人道観を踏み外すことしか能がない公的教義と大差ない、何ら冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方の品性規律も身についていない低次元・低知能な集まりが、何が世界平和だという話であり、おこがましいにもほどがあるといえる。

「状況・意見を整理して議事録として残そうとする」ことを誰もしようともない、その法的(等族議会的・国際人道的・民権言論的)な物事の順番を妨害し合い、そこ(名目・誓願)を常にうやむやにしながら偉そうな正しさ(いい加減な共有認識・ただの価値観争い)を乱立し合いながらただ騒ぎ合うことしかしない劣悪態度こそが、戦国前期の愚かさの実態だったのである。

戦国後期の突入期には、織田信秀、武田信虎(のぶとら)、長尾為景(ためかげ)といった、主体性をついに自覚し始めた、各地方の強力な支配者(代表格)が、ついにその法的(分国法的・武家法典的・専制君主制=等族家長制)な取り締まり・整備を始めるようになった。

等族社会化(法治国家化)の妨害、すなわち法(国際社会性)を時代に合ったものに整備(異種異文化の多様許容化)していくという、その基本中の基本の取り組みをただ妨害し合っているだけの騒ぎ合いが、織田政権の裁判権(品性規律)への反逆(偽善)であり、まずそれが重罪扱い(騒乱罪)なのである。(態度が裁かれる時代)

等族議会を何ら通していない、状況・意見の何らまともな整理すらされていない、その実態が皆無ないい加減な共有認識(ただの風評弁慶主義)でうちのめし合い従わせ合う、霊感商法的・劣情統制的な時代遅れな破門制(人格否定・上下統制)がついに許されなくなったのが、人類がついに法治国家を自覚するようになった、16世紀の等族社会化の時代である。

状況・意見の整理という名の戸籍謄本的(民権言論的)な裁量認可に貢献する議事録(保証規定)を、結局誰も用意していない、そこをまず等族議会制を通して法的(国際人道観的・民権言論的)に確認(尊重)し合う最低限に向き合うことから始めることもできていないのに、どうやってまともな法的保証(あるべき品性規律)が実現できるのだという原則である。

上(公務士分側)も、下(従事層側)も、そこを面倒がって妨害し合いながら不当に利益を得ようとしたり立場を維持しようとする、今の公的教義と大差ない、今まで通用していたその時代遅れの猿知恵の劣情統制の手口も、ついに許されなくなった。

織田信長が、等族議会制という国際意識(国威・格式)の基準(品性規律)でその実態が精査されて見抜かれていくようになり、今までの身分制(人の上に立つ資格・人を否定する資格)もそこを基準についに再統制される(見直される)ようになったのが、16世紀の世界的な等族社会化の動きなのである。

法(国際社会性・品性規律・国威格式)というものに人類がついに、まともに向き合い始めるようになった、その地道な等族社会化(旧態との決別)こそが国益(産業力と貿易力)の優劣に繋がることがついに自覚されるようになった時代だったのである。

しかし今まで前例がないそれを、下々に改めて教義的(主体都合継続的・等族国家的)に認識させていくことは簡単ではない。

ただ面倒がりながら偉そうに威力任せ(不都合的完結)のみで等族国家の政体が実現できるのなら、戦国時代は起きていないし長引いていない、まさに上の努力工夫次第の、ひと苦労な所になる。

 この織田政権のような等族議会的な裁判権のあり方が、今後の世界情勢にも広く対応していくための、国威・格式の法治国家のあり方なのだ!

 この最低限の高次元の中央裁判権のあり方も整備(自己等族統制)できない、それについていけない低次元な領外諸氏はさっさと降伏しなければ、もっと格下げするぞ!


の恫喝でまずは「上から順番に厳しく制裁」していくのは良かった。

しかしそれが、下々とっても良くなることだったとしても、今までの上のだらしないやり方で常にうやむやに旧態慣習(極めていい加減な共有認識=ただの猿知恵=劣情統制)を延々と押し付けられ続け、それでうちのめし合い従わせ合う不当な負担を永らくさせられてきた下々にとっては、解放されたのはいいとしても、その等族社会化の利点をすぐに認識することは難しいことだった。

これからは等族議会的な確認(尊重)のし合いを皆がしていかなければならないことに対し、「皆がそうだといっているのだから、その認識が正しいはずだ!」と今まで通りそこを面倒がり続け、怠け続けようとする当時の風評弁慶主義への、織田信長の下(従事層・庶民たち)へのこの対策がどのようなものであったかを、紹介していきたい。

まず、ただ閉鎖有徳狩りだけしていても「それは上の一方的な都合」くらいしか認識しようとしない、だから皆にも利点が多いという等族議会制の意識を、何らかの方法で、下々に向けさせていかなければならなかった。

これはのちの豊臣秀吉もその努力工夫が続けられ、この2人がこの風評対策をかなりしておいてくれたからこそ、その貴重な流れを徳川家康が活かす形で、幕藩体制(法治国家化)になんとか整備していくこともできたとも、いえるのである。

等族議会制に意識を向けさせるための、この風潮弁慶対策だった織田信長と豊臣秀吉のその意図を理解せずに、文献の事績をそっくり鵜呑みにするばかりでは、何も見えてこないだけでなく、大いに見誤ってしまう所になる。

まず、時代に合っていない旧態慣習をただ撤廃し、新たな品性規律に従わせることだけにただ熱心になるだけでは、意識改革になるとは限らない所が難しい所は、現代でも共通していえる所になる。

新たな裁判権(品性規律・国際社会性)を制定しても、手本でなければならない上はすぐにそれに対応できたとしても、下々の意識はどうしても時間がかかる。

今まで許されていたものが許されなくなり、今まで許されていなかったものが許されるようになると、下々は「今までと違う」という感覚ばかり強めて、最初は困惑から始まるものなのである。

さらには、今までの上のいい加減な不徹底に慣れすぎてしまっていると「そうやって聞こえの良い善行をいつものようにただ並べるだけで、どうせ後になって手のひらを返すに決まっているのだ」という、今までのスネた考えも、簡単には改まらないものである。

こういう所の人々の様子を面倒がらずに人心掌握することを、織田信長は誰よりも努力工夫できていた、だから日本を変えるきっかけを作ることができた。

織田信長は、ある地域で例えば水不足や食糧不足の問題が起きたりすると「上は、下がこういうことに困っていることなんかちっとも考えてくれない、どうせそこは今まで通りなのだ・・・」といった無意欲的な風評が蔓延し始めると、それを見逃さずに好機に活かした。

その「どうせ今までのまま」「どうせ上は」になればなるほど、織田信長は資金と労力を惜しまずに「え? それだけでなくこんな所まで?」と、逆に驚かせる施政まで当たり、その強い印象を与えながら人々の無意欲的な予想を覆していくことに、余念がなかった。

 

織田信長が京に乗り込んで、荒れ果て続けていた京が大再生され、治安も保証されると人々も続々と京に集まり、ちょっとした金融業も栄えるようになっていた。

 

すると貧困層の内の、その高利の借金が返せずに厳しく取り立てるられることを苦に、幼い子を抱いて入水自殺をしてしまった親子の事件が起きたため「そういう弱者的立場いじめは、織田の御当主様が最も嫌うはずだから、その原因を作った金融業者は大変な制裁を受けるに違いない」という風潮が強まった。

 

その業者は出頭を命じられ、織田信長が直々に取り調べることになったため、業者も青ざめた。

 

織田信長は「何があったのか正直に、経緯も全部話せ。内容に不当があってもその説明の態度次第では、少しは許容してやる!」と恫喝し、ことの成り行きを全て正直に話させた。

 

織田信長はその業者から今までの稼ぎを全て没収し、事業からいったん手を引かせることで、命だけは助けることにした。

 

そしてその差し押さえの資産を丸々、政務吏僚の松井友閑(ゆうかん)に預けて、当時の橋不足を解消するために橋と道路の建設にあたらせたため、京の交通網もどんどん便利になって、人々も喜んだ。

 

やってしまった後、そうなってしまった後では、もうどうにもならないものも多いことを、ただ恨み合うだけでは、何の意味もない。

 

人々の苦痛で作られた資産も、人々の助けとなる公共事業に使われることが強調されることで、それに苦しんだ者たちも結果的に人々の役に立つことに努力したことになるという、そこが一番大事だという織田信長らしい、庶民政治の指導の仕方だったといえる。


「どうせ上は確認にこない」という風評が強まるほど、旗本吏僚(奉行所の役人)だけでなく重臣が直々に、さらには織田信長が直々に確認する、といった具合である。

そういう時こそを面倒がらずに、皆の無意欲的な予想はどんどん覆されることばかりされていったために、人々も次第に、無意欲的な風潮を共有認識し合おうとするその意味のなさ、その愚かさへの意識を、向けさせることもできた。

意識改革をしたければまずは、皆が面倒がる怠け癖の原因になる「誰もやる訳がない理論」「できる訳がない・答えられる訳がない理論」が通用しない環境作り(主体性作り)が、大事なのである。

自身の方が明らかに格上だと思うことなら、そのことでなお面倒がる態度を見せ合うべきではない、なお冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方ができている品性態度で「だからこちらの方が高次元の格上側なのだ」と示し合うことが、人々に言い返させない上でも、まずは重要なのである。

その最低限の手本礼儀の示し合いもできていない、それも見抜けないということは、公的教義のように「皆が面倒がっていることを面倒がらないお前は異常だ!」とはき違いの怒りを人に向け始め、気絶・錯乱・思考停止(疲弊・混乱・失望)し合う怠け癖の負担を偉そうに押し付け合っているだけの、その口ほどにもない愚かさの実態も見抜けられたこともないのと同じなのである。

それこそが、そこを見抜くことができている高次元な格上側に向かって、そこを見抜くこともできていない低次元な格下側が偉そうに図々しく否定・指図しようとしている愚かさの構図なのである。

次に「風評に決定権などはない」ことを解らせるやり方も多くされているのも、織田信長の特徴といえる。

 「皆がそうだといっているのだから、上もそうだと認識するはずだ!」

 「皆がこうだといっているのに、そうだと認識しようとしない人間がいるのは異常だ!」


という、意見が整理・提出された訳でもない風評が強まると、織田信長はそれが下々の意欲的な取り組みに結び付くものなら否定はしなかったが、特に無意欲化の風評(ただの猿知恵・ただの劣情統制)と思えるものには否定的な決定で強調していた所も特徴といえる。

織田信長の尾張再統一時代、その方針に共鳴的だった前田利家とは良好な関係であったことは組織内でも目立ち、また準親類扱いで評価も高かった中川重政も、組織内では目立っていた。

だから「この前田様と中川様がいずれは、まずは組織の最重要幹部になられるに違いない」という認識が、下々の間ではそう目され続けていた。

ところが実際は、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀の方が、その2人よりも格上に抜擢されることになった。

参謀役だった丹羽長秀においてはともかく、この3名の方が、織田信長との旧縁として有利なはずだった前田利家と中川重政の2人よりも格上に抜擢されたこと自体、誰も予想しなかった意外な人事だったのである。

柴田勝家は、織田信長と表向きの継承権のことで争って結局殺害しなければならなくなってしまった弟・織田信勝の家老・参謀出身で、対立後に織田信長に降参した口であったため、その分の出世も、古参たちよりも遅れるだろうと見られたいた。

木下藤吉郎(羽柴秀吉)も、大した権力基盤の縁もない、どこにでもいるそこらの半農半士の中の下っ端で、士分扱いしてもらっただけでも、大変な大出世だったといえるような者だった。

明智光秀も、尾張再統一、今川氏との戦い、美濃攻略戦までに功績のあった家臣たちを差し置く形で、美濃攻略以後の新参で大抜擢された口である。

尾張・美濃時代に、前田利家の家来が、織田信長の直参旗本と言い合いになり、刃傷事件(にんしょう)を起こしてしまった際に「前田様は殿に厚く信頼されている方だから、今回のことはそんな重い処置は採られないだろう」という風評が蔓延したため、織田信長はあえて厳しい格下げと謹慎処分を下した。

前田利家は、長めの謹慎処分を受ける印象付けがされたため、皆も「縁が強い者だからといっても、そういう落ち度の管理責任は、誰にでも重く追及されるのだ」という認識をさせることになった。

織田信長は、この時の前田利家にかなり厳しめの態度を示しているものの表向きだけで、内心は大して怒ってはいなかったと思われ、家長権(規律)のためにその重みを浸透させた上で、のちに前田利家を復帰させ、功績に応じて重臣に次ぐ地位にまで昇格させている。

羽柴秀吉も、織田信長のこの風評対策の一環として、本人からするとかなり不条理なとばっちりを受けることになった。

織田家中で、羽柴秀吉が組織内で最も対立した阿閉貞征(あつじさだゆき)という人物について、当時を知るための大事なこととして触れておきたい。

織田信長が、越前の朝倉氏、近江北部の浅井氏の両氏と対立したのち、浅井氏の旧領管理を羽柴秀吉が任されることになるが、その降将で羽柴秀吉の寄騎(よりき。支援・協力する属将)として配属された阿閉貞征とはうまくいかずに、揉めるようになった。

この阿閉貞征は、旧近江衆の中では一目置かれていた、伊香郡(いか・近江東部)の根強い有力豪族のひとりで、京極氏(佐々木源氏一族)に代わって近江北部の代表格となった浅井氏とはそれまで協力関係が続いていた。

織田氏と浅井氏・朝倉氏連合が争うようになって、連合側が劣勢になっても阿閉貞征はしばらく抵抗を続けたが、調略に応じて降参したため織田信長からは優遇されていた。

伊香郡をまとめることができていたこの阿閉貞征はあなどれず、この阿閉氏に時間稼ぎの反抗を続けられることは織田氏にとって、一斉に噛み付いてきた本願寺ら他の反織田連合らへの対応にしても、近江攻略にしても、だいぶ影響が出てしまうような状況だった。

そんな中で阿閉貞征は織田氏の調略に応じて、以後はその裁判権に好意的・協力的な姿勢を見せたため、特権の規制などの格下げもなく、今までの伊香郡の代表的な山本山城の城主としての待遇も、ほぼ認められた。

当時、等族議会制のためにこうした新参たちはいったん格下げされて、地縁と切り離される形で武家屋敷に一斉に収容される流れだった中での、その待遇自体が特別扱いだったといえる。

近江衆はこの阿閉氏のように、織田氏に協力的な姿勢を見せた有力者たちは、他にも日野の蒲生賢秀(がもうかたひで)、朽木谷の朽木元綱(くつきもとつな。くちき。京都の北側)のように、少し特別扱いされていた者も多い。

こうした近江衆たちへの織田信長の調略は、山城(京・朝廷)との縁、つまり中央の貴族社会(公家衆)との縁も深い者も多かった近江衆たちへの支持を得ることの、聞き分けのない中央の廷臣ら(公家衆たち)への政治的な対策も強く働いていた。

近江北部の代表格であった浅井氏が織田氏に攻略され、羽柴秀吉がかつての浅井氏に代わる、織田政権における近江北部の管区長(長浜城主)の地位に就き、今度は阿閉貞征は羽柴秀吉の寄騎として改めて配属されることになるが、2人の仲は険悪なものとなっていった。

阿閉貞征は、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)にあった、当時重要視されていた竹生神社との、氏神と氏子の根強い関係が続いていたため、この竹生神社と阿閉氏を介した、伊香郡の家臣団たち、領民たちと阿閉氏との結束の縁も、根強いものがあった。

羽柴秀吉が阿閉貞征に対し、今までの竹生神社との縁を手放すよう指示しても、阿閉貞征が一向に手放そうとしなかったために、領民も依然として阿閉貞征を支持し続けるという状況が続いた。

浅井長政がこの阿閉貞征を裁判権(家長権)で完全に従わせることはできていなかった所を、かつての浅井氏に代わって近江北部(3つの郡)の管区長となった羽柴秀吉が、阿閉氏の伊香郡の支配権(指令権)を整備し、羽柴氏の指揮権に伊香郡を従わせようとして起きた、竹生神社を巡る対立だった。

この阿閉貞征は、羽柴秀吉の寄騎として配属されたとはいっても、それは本部(織田氏)の都合に合わせているという態度で、伊香郡が羽柴秀吉の管区だという言い分に対し、伊香郡は阿閉貞征が主体の領地だという所を強調し続けた。

それが、竹生神社の左義長(さぎちょう。当時の氏子総代や、政治的な名目誓願者としての、名義人のこと)が誰なのかを巡る問題と結び付いていたため、羽柴秀吉がその名義人になろうとして阿閉貞征に手を引かせようとしたが、それに反抗されて双方の険悪関係は決定的になってしまった。

そもそも、部将(現場総司令・重臣)に配属される寄騎という、近代でいう所のこの師団長と旅団長の関係は、当時はそれは師団長の司令権(家長権)が絶対なのではなく、本部の司令権(家長権)の要請に道義的に応じる上下関係に過ぎず、直接の主従関係ではないという考えも強かったからこそ、起きた問題だったともいえる。

これも本能寺の変に関係してくる話だが、もはや19世紀の発想と大差ないこの寄騎体制自体、どこも限定的にしかできてなかった中で、織田信長だけがそれをまるで「できて当たり前、やって当たり前」であるかのようにやろうとしていたこと自体が、別格だったといえる。

だからこそ、こういう問題も付きもので、革新的すぎる織田信長と、家臣団との認識差というのも、当然のこととしてズレも出てくる所になる。

最重要幹部であった佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益、池田恒興、堀秀政ら重臣たちは、織田信長がとにかく主体性をもって熱心に指導しながら「そうなるようにせよ」といわれる以上は、そうなるように努力工夫するのみだった。

この19世紀の人文性・啓蒙性に対して彼らも「我々はなんとか理解できたが、家臣団のそれぞれの階層ごとでこれを、本当に理解させることができるのだろうか?」という疑問と同時に「もしこれが浸透させられるのなら、国際的にも相当凄いことだぞ」という考えももっていたと思われる。

話は戻り、羽柴秀吉は、伊香郡の阿閉貞征がこの織田政権の管区整備に従おうとしないことを織田信長に訴え、阿閉貞征もまた織田氏に今まで通りを公認されているはずの特権に、羽柴秀吉が横領に動いているとと訴え合い、ややこしいことになった。

この時もやはり「浅井家から織田家に鞍替えした新参の阿閉様は、信長公の信任で管区長となった羽柴様の寄騎のはずなのに、その指示に従おうとしないことは、何らかの制裁を受けるのではないか?」という風評ばかりが強まった。

これも風評に大きく反する形で織田信長は、阿閉貞征の言い分を優先した上に、直臣願いの訴えまで認めてしまったために、下々もこの一件は印象強く受け止めることになった。

もはや管区長としての羽柴秀吉の面目は、丸潰れだったといっていい。

羽柴秀吉はこの時、内心は怒っていた、厳密には羽柴家中がかなり怒っていたと思うが、ただし織田信長がなぜそんなことをしたのかも羽柴秀吉も理解はしていたと思われる。

新政権に向けての当時の指導の大変さが窺える、複雑な所といえる。

「あれでは羽柴様の立場がない、その面目も丸潰れで残酷ではないか」という世間の風潮が強まると、さらに織田信長はわざとらしく、阿閉貞征と阿閉貞大(あつじさだひろ)の親子との親交を強め、ちょっとした特別扱いをするようになった。

羽柴秀吉は半農半士の下っ端の最下層から一躍、組織の重臣に抜擢されたその知恵者ぶりには、庶民の間でも評判になっていた。

「誰もがなれる訳ではないが、しかし織田政権では努力次第では、出身に関係なくあのようにちゃんと認めてもらえるのだ」という意欲の指標として、また皆から好意的に英雄視されて所もあっただけに、そうした見方をする下々も多かった。

しかし「それとこれとは別」という意味で明らかに世間に対して

 等族議会的に誰も整理していない、誰も提示・提出もしていない、その法的なやりとりもされていない世間の風評に流されてはならない、それだけで揉めたり反抗しようとしてはならない

 誰も何の確認も整理もしない、いい加減な風評弁慶主義(共有認識)で決定権が生ずる訳もなければ、状況が変わる訳もないことを、自覚・反省しなければならない


 ただ騒げば聞いてもらえると思い込もうとする、自分たちの甘えでしかない、大事なことを等族議会的に確認し合うという取り組みを怠け合い、その面倒ごとの負担を押し付け合うための、劣情統制(風評弁慶主義・猿知恵にすぎない共有認識)の押し付け合いを繰り返してはならない

ことへの、下々へのあてつけの強い意図として、羽柴秀吉はこの件を政治利用されてしまった、そういう上への厳しさも向けられたことが窺える一幕である。

ここを解らせるために織田信長は、あえて重臣たちをわざと困らせることで、下々にそこを考えさせようとしたやり方は、重臣たち、旗本吏僚たちは当然理解できていたが、従事層らにはそれを学ばせていく大事な時期だったというここが、今までどうも説明されてこなかった所になる。

大事なことだと思うならなおのこと、そのことに面倒がらずに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方で、状況を整理し合う最低限の手本礼儀の示し合いがどれだけされているか次第で、公務士分待遇も再統制がされる、等族社会化の時代に入ったことを理解させていかなければならなかったのである。

確認・整理・提出・裁量という、最低限の等族議会的・民権言論的な法的手続き(国際社会性・品性規律)の手本礼儀の示し合いを守ろうとしない、ただ風評弁慶主義に頼って万事面倒がりながら「そんなこともワカランのか理論」でただ偉そうに騒ぐのみは通用しない、その劣悪態度こそが格下げされることを、自覚させなければならないのである。

当事者性(道義性と教義性・不都合的完結と主体都合的継続)を区別・整理されると困るような、ただの猿知恵の劣情統制でただ気絶・錯乱・思考停止(疲弊・混乱・失望)し合う怠け癖で、ただ騒ぐことしかつけてこなかった、公的教義と大差ない口ほどにもない人生観しかもち合わせていない手合いなど、民権言論(自己等族統制・国際社会性)の視点において、合わせる必要など一切ない。

 「そういう公的教義と大差ない、口ほどにもない手口がいつまでも、通用すると思うな!」

と、等族議会的・民権言論的な手本礼儀の示し合いという最低限の指導もできたこともない、公的教義と大差ない極めて低次元な格下側が、それを大前提としている高次元の格上側に向かって

 「自分たちでまともな整理・提示などできたこともない低次元側が何を偉そうに、身の程知らずにもそれができている高次元側を否定・指図しようとしているおるのだ!」

所詮は面倒がって偉そうにうちのめし合い従わせ合ってきただけの、そこを白黒はっきりさせられない者同士の低次元な格下側が、その白黒をはっきりさせられる高次元な格上側によって身分再統制がされる時代になった、よくよく考えてみれば人として、法治国家として当然の話といえる。

その本来のあるべき人としての順番の自己等族統制もろくにできていない、もはや産業廃棄物の老廃物でしかない猿知恵をただ丸覚えすることしか能がない公的教義と大差ない低次元・低知能な集まりが、世(国際人道観)のため人(次代たち)のためのことなど、まともに考えられる訳がないのである。

話は戻り、このように新参の阿閉貞征(あつじさだゆき)があえて優遇された意図は、他にもいくつか理由があったと思われる。

この阿閉氏は近江衆の中では名士として知られ、「阿閉氏に認められたら一流」という、地位の低い者からでも人材を見出そうとする、面倒見の良い所もあった。

この阿閉氏が出発点となって、のちに全国的に一目置かれた人物が、藤堂高虎(たかとら)と渡辺了(さとる)だが、他にも大出世はなかっただけで推挙された者は何人かいたと思われる。

近江衆(近江の有力者たち)は、山城との縁、つまり中央関係者の廷臣たち(公家衆)との縁が強い者も多かった。

この阿閉貞征は貴族思想も強かったと思われ、名族高官主義を織田信長以上に嫌っていた羽柴秀吉とは、互いの門閥感覚が全く違ったために、そこが折り合わなかったのも、対立的になってしまった所と思われる。

羽柴秀吉はのちに豊臣政権を樹立していくに当たって、自身が武家の棟梁(全国の手本家長)となる再自覚で、そこにはだいぶ寛容にはなった。

豊臣秀吉は、廷臣たち(公家衆)の名族高官主義は、裁判権を阻害するものでなければだいぶ許容したが、ただし武家側の中で名族高官主義の態度を必要以上に強調して、それで地位を維持しようとする者には、少し厳しかった所があった。

豊臣秀吉から見て厄介な事情をもっていた、織田信雄(のぶかつ)小笠原貞慶(さだよし)の2人に対して、厳しかったというよりもその扱い方をもてあましていた所も、最下層から昇り詰めた者から見ると、どうしてもそういう所も出てくる、仕方のない部分だったといえる。

小笠原貞慶もかなり名族主義が強く、深志城を退去させられ、讃岐半国への国替えを命じられた時に、これは扱いとしては加増の格上げではあったもの、信濃の代表格の名族出身の自負の強かった本人は、この措置にかなり不満を漏らしていたといわれる。

豊臣秀吉は上に対しては、織田信長以上に厳しかったために、小笠原貞慶の家臣たちは青ざめていたといわれるが、豊臣秀吉は国替えの時点ではその態度も許容していた。

しかし、織田政権時代の羽柴秀吉軍団の、軍部の筆頭格であった尾藤知宣(びとうとものぶ)と豊臣秀吉との仲が険悪になり、尾藤知宣が失脚、奉公構(ほうこうかまい・牢人=謹慎処分。その処分を出した家の許可も得ずに、その者の仕官を認めたり支援をしてはならない)が出された時、小笠原貞慶はそれを堂々と匿った。

豊臣秀吉のいうことを聞かなかった小笠原貞慶は、讃岐の領国を没収されることになったが、本人は言葉にこそ出さなかったが「そうしたいなら勝手にせよ!」というまるで逆の立場であるかのような態度を、ありありに出していた。

尾藤知宣は信濃出身の武家で、小笠原長棟(ながむね)か小笠原長時(ながとき・小笠原貞慶の祖父と父)の時代の頃の家臣だったが、やっていけなくなって尾張に流れた所を織田氏に拾われ、出世頭の羽柴秀吉との主従関係ができた口だった。

小笠原貞慶は、旧主の徳川家康に対しても少しそういう所があったが、豊臣秀吉に対してのその態度はもっと大きかったのは、これは相手が天下人だからこそ、本人にとってもますますペコペコする訳にもいかない、難しい立場だったといえる。

小笠原氏はいったんは武田氏に敗れ、信濃を追われて亡国の身となり、本能寺の変をきっかけに徳川軍の支援を受けて、表向きの信濃の代表格の地位に返り咲いたことは紹介した。

その兄筋から派生した武田源氏も全国的に広く点在していたが、弟筋の小笠原源氏は、武田氏以上に全国的に広く点在していた。

小笠原氏の宗家・本家筋の、かつての権威などはとうに失墜していても、それでも名族・小笠原一族の出身であることに誇りをもって、それでどうにか家名存続を乗り切った、全国諸氏の家臣たちもかなり多かった。

 

本家の威厳が著しく衰退していたそんな時に、徳川家康の力を借りたとはいえ、奇跡的な復帰劇(深志城争奪戦)を果たした小笠原貞慶は、当然のこととして全国の小笠原一族たちからも、どんな扱いをされるのかの注目はされていた。


小笠原貞慶は、彼らの誇りの支柱でなければならなかった、だからこそただ自分が助かりたいからと権力にペコペコして、全国の小笠原一族を失望させる訳にもいかない立場だった、だからそういう態度を採っていたことは、豊臣秀吉も理解はしていたと思われる。

ただ、尾藤知宣の一件は政権の都合としては見過ごすことはできなかったため、豊臣秀吉はやむなく小笠原貞慶の領国を没収することにした。

するとやはり全国の小笠原一族は、声こそ出さなかったものの「我欲など一切ない品性をもち合わせている貞慶公にその扱いは、武家の棟梁としての面倒見が悪すぎやしないか!」という無言のヒンシュクをかなり受けたらしく、これは豊臣秀吉も少し参っていたようである。

その代わりに、人質扱いの意味もなくなってしまったその子の小笠原貞政には、秀の名を与えて小笠原秀政と改名させて優遇し、今後の格上げの優先権が与えられ、それで全国の小笠原一族たちの内心の不満もどうにか抑えられた。

 

豊臣秀吉は織田信長以上に、上には厳しかったために、より恐れられていた中、何も恐れずにこんなに堂々としていた人物は数えるほどしかいない。

 

この織田信雄、小笠原貞慶の他にも、伊達政宗や、徳川家臣の榊原康政や本多重次らもそういう所があったために、彼らも一目置かれている。

等族議会制を阻害するような、無神経(無計画)な負担を下に一方的に押し付けるような上の弊害(ただ迷惑なだけの名族高官主義)なら遠慮なく叩きのめしてもいいが、そうでないものなら、上の都合も許容しながら、できるだけ皆が納得できる家格も調整していかなければならない所が、難しい所なのである。

話は戻り、織田信長は羽柴秀吉と阿閉貞征が対立した時に、阿閉側の肩をもったのは、

 阿閉氏は貴族的でも、地位の低い者の応援もしていたこと、また伊香郡では人望もあったこと

 抜擢された羽柴秀吉の例が、常に絶対の指標となるとは限らないこと

 新参でも、織田家の裁判権に協力的なら、必ずしも古参の方が有利とは限らない例を示し、投降させやすくすること


そうした政治的な組織指標を示しておく意図も強かったことが窺え、こういう所こそが、等族議会制がどれだけできているかの力量ともいえる所になる。

明智光秀が、尾張再統一時代、美濃攻略時代の以後の新参であったにも拘わらず、それら功臣たちよりも格上に抜擢された所も、同じことがいえる。

織田信長の武田氏攻略(信濃・甲斐進行)でも、木曽郡では人望があった木曽義昌をすんなり味方に引き入れた上に、この木曽義昌に信濃の代表格の筑摩郡・安曇郡を与えようとしていたことも、、新参は古参よりも必ず不利とは限らないことを示そうとするやり方が窺える。

組織は大きくなればなるほど、結果論的な古参の功績指標が自動的に風評弁慶化していきがちで、そこを放っておけば皆がそれに当てはめることしかしなくなっていき、どんどん面倒がりながら偉そうに乱暴的に公的教義化(劣情統制化)していきがちになる、すなわち等族議会制が維持できなくなっていく原因となる。

 

自身の力(権威・規律)で人を従わせているつもりが、いつの間にか自身も風評のただのいいなり主義になり下がっていたという、面倒がる怠け癖ばかりで当初の主体性・主導性など皆無になっている実態も、見抜けなくなっていくのである。

そこをどう調整していけるかで、織田家とその他とでまさに、大差になっていった所になる。

ただしこの阿閉貞征は、本能寺の変で明智光秀に「積極的に荷担していた」ことが強調され、羽柴勢と明智勢との戦後に羽柴秀吉は、この時に阿閉氏だけは厳しい処置を下している。

明智光秀に渋々荷担させられた近江衆の小川祐忠(すけただ)のように、領地特権はいったんは没収されたが、大抵は復帰の機会も与えられていたのと比べると、阿閉氏のみにその寛大さがなかった所は、これは羽柴秀吉というよりも、羽柴家中の阿閉氏に対する不満が反映されたものと思われる。

小川祐忠などはその後に柴田勝家に仕官し、羽柴秀吉と柴田勝家が対立する賤ヶ岳の戦いで再び羽柴勢と対立する側に立つことになってしまうが、柴田派が破れると羽柴秀吉に改めて拾われて、今治7万石の格上げまで受ける特殊な存在だったが、その差からも阿閉氏に対する厳しさが窺える。

この賤ヶ岳の戦いという、旧織田政権内の事実上のその後の実権の中央選挙戦を制したも同然となった羽柴秀吉だったが、しかし山崎の戦い(本能寺の変の時の、羽柴勢と明智勢の戦い)の時点では、まだそこが明確化していなかったために、阿閉氏に対してのような、一部への厳しい処置を下すこともできたといえる。

 

今回の話をざっと整理すると、その上(上級裁判権)から下(低級裁判権)までの、色々な事情ごとの差配の難しさに、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方をもって回収・整理・裁量していく気などない、それを面倒がり始めるような者に決めさせるようなことなど、あってはならない。

 

それが具体的に確認・整理されていったという議事録(説明責任・等族責任)などどこにも見られない、ただの風評(いい加減な共有認識)などに議決権などないことを、その高次元の観点で合格か失格かを、面倒がらずにひとつひとつしっかり示していくことが、改革時代には非常に大事なことなのである。

 

現代でも、何かいい分があるなら、そのための民権言論的な新たな学術会、新たな議会を自立的に構成すること自体も、その会員制を作ることも、何の問題もない。

 

いきなり暴力的な要求や阻害に動くものではない、まずは民権言論面での国際人道観の最低限の手本礼儀の示し合いの観点で、何らまともな反論もできないものなら、それが公認されようがされまいが、それが存在すること自体は何の問題もない。

 

それができている者なら、等族責任性(民権言論性)など何も見られないような、ただ権威に守られているだけの公的教義と大差ないただの猿知恵の塊の口ほどにもない議決権だと批判しても、何の問題もない。

 

「そのための議会制を作ったのに、なぜそれを通さない」を認識させ、無意欲な共有認識(ただの風評弁慶)で面倒がりながら偉そうに怠け合い、その弊害を押し付け合いながら人を否定し合おうとする(人の上に立とうとする)愚かさを意識改革していったのが、織田信長の教義改め(閉鎖有徳狩り・身分再統制)なのである。

 

次も、当時の風評の内実はどのようなものだったのか、織田政権時代はどんな様子だったのかについて、引き続き触れていきたい。