近世日本の身分制社会(073/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか01/? - 2021/07/07

 

本能寺の変も、戦国後期とはどんな時代だったかをよく理解できていないと、その事実事項をただ羅列するのみでは何も見えてこない。

 

そのため、当時の日本の様子を紹介するために、先に豊臣政権についてざっと触れてきた。

 

織田信長のしていたことにはどんな意図があったのか、見逃されがちなそのひとつひとつを追っていかないと、本能寺の変の性質も一向に解らないままである。

 

中世から近世への移行期とはどんな時代だったのか、今一度、当時を整理しながら本能寺の変に迫っていく。

 

まずは、16世紀に重要になってきていた近世の専制的な等族議会制と、その独裁制合議制の違いについて今一度、整理しておく。

 

議会制がどのようなものであったのか、そこに無関心なまま「独裁」という文言にただ機械標識的の印象に反応するのみの

 

 政治理念なき失敗型の独裁専横

 

のみしか認識できない、等族責任(最低限の手本礼儀の示し合い)など一切もち合わせていない公的教義のような極めて低次元な集まりが、そのまともな説明などできる訳もない所になる。

 

改めてここで説明しておくとまず、専制の議会制は

 

 「旧態問題を改めていくための、公正な議会(状況回収の場)が設置されることになったのだから、これからはそこへの認知も無しに勝手なことはするな」

 

 「上(上級士分たち)がその等族責任(意見回収)を請け負うことにしたから、国際社会性といえるものほど、意見を整理して法的(正式)に議会に提出し、議事録として残せ」

 

 「議会への意見提出、交渉、裁定という、基本的な法的手続きの事実確認も無いままに、勝手に奪い合ったり言い争う騒ぎを起こすな」

 

といった意味になる。(等族統制=時代に合った当事者ごとの保証権=身分統制)

 

今までの慣習通りに曖昧にし続ける訳にはこれ以上いかなくなったことがついに自覚され、

 

 慣習は慣習(主従道義性)の範囲

 

 法は法(教義性・国際社会性)の範囲

 

として、上から下までの全体のこれまでの身分のあり方まで、人類がついに議会制を以って、その整備を始めるようになった。

 

それは、中世になって問題になってきた、同じく今まで慣習任せだった

 

上級裁判権(公務士分側の法・家長権・格上げ格下げの基準)と低級裁判権(いわば庶民法についての上の管理責任)の範囲にしても、所も整備し始めた、法(国際社会性のあり方)の進化の歴史ともいえる。

 

そういう所の「自分たちの方ができている」「自分たちは決して劣ってはいない」所を、いかに見せ付け合うことができるかの世界と化していったのが、戦国後期である。

 

国内再統一(当主としての主体性の、あるべきの最低限の手本姿勢の示し合い=家長権争い・継承権争い)で白黒をはっきりさせながら、総力戦体制(教義競争・国際軍事品性規律の示し合い=裁判権争い)が競われたのが、戦国後期である。

 

織田信長と豊臣秀吉の時代は、その裁定の仕方が時代的に独裁制だったに過ぎず、当時はそれが適正だったから、結果的にそうしていただけである。

 

冷静さ慎重さ丁寧さの余裕(品性規律ある状況回収の手本)の見方をもった専制的(中央裁判権的・中央選挙的)な等族議会制が機能している以上は、後はその権限が、代表格に権限しているのか、それとも重役らにもだいぶ割り振られるようになったのかの、違いでしかない。

 

等族責任(国際社会性のあるべき手本)さえ果たされていれば、それを上回る名目(誓願)もない以上は、専制(そこを通せ)は専制(そこを通せ)であり、その裁定・認可自体は、独裁制でも合議制でも同じことなのである。

 

世界情勢が意識され始めてきていた中、織田信長も今後に対応できる日本の政体となるよう、等族社会化に整備していくための足をひっぱってぱかりの旧態観念は全て一新する、大改革を強行しなければならなかった。

 

そうした重要性はいつの時代も、多くの下々はすぐには、簡単には認識できないものであり、上がだらしなければだらしないほど、余計にそれも遅々として自覚されようとしないものである。

 

「他にできる者がいない」からこそ、織田信長がそれを主導するために独裁制を採っていたに過ぎない。

 

やがては合議制に向かわせる前提の、その準備のために独裁制を請け負っていたに過ぎない所も、今までしっかり指摘されてこなかった所になる。(後述)

 

室町以来の旧態の合議制はもはや、ただの劣悪慣習(できもしない性善説)にしかなっていなかった、だからその観念のままでは戦国時代も延々と終結に向かわないことも、はっきりしていた。

 

政体がそのままでは、今後の日本の国内政治など立て直せる訳がなかった。

 

はるばる西洋から文化交流にやって来るようになったキリスト教徒たちとの今後の国際外交にしても、それ以前のアジアでの国威・格式の示し合いも、今までの室町体制のままではまるっきり対応できなかったことも、もうはっきりしていたのである。

 

そんな国際危機が意識されて、ついに室町体制の建て直しを見せるようになったのが、13代目の足利義輝である。

 

この室町最後の希望が、主体性をもって優れた外交力を発揮し始め、足利将軍家としての人望を性急に回復し始め、ようやく世も変わろうとしていた矢先に、政敵らに危険視されて結局、暗殺されてしまうという惜しい結果となってしまった。

 

足利義晴・足利義輝の親子に対しては、織田信秀・織田信長の親子も高く評価していたが、これで室町体制もいよいよ消滅したも同然になってしまった。

 

後述していくが、織田信長が「義輝公のおかげでせっかく、そのような日本全体の建て直しの機運になっても、周囲が危機感をもって支えようとせず、目先の利害だけで妨害し合う連中ばかり群がろうとするこれが、今の日本の実態なのだ!」と、そういう所に内心では怒っていた所になる。

 

この時に同じく襲撃された、その弟の足利義昭はなんとか京から脱出し、最初は越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)を頼って、兄の後継者として復権運動を目指した。

 

朝倉氏は頼ってきた足利義昭を保護こそしたが、しかし催促されてもその擁立運動には全く積極的ではなかった。(こういう所も織田信長が問題視していた、その状況も後述)

 

そんな頃に尾張・美濃(愛知県と岐阜県)を併合しつつあった、政治・軍事の両面の改革も際立っていた織田信長がすっかり評判になっていたため、足利義昭は織田氏を頼ることにした。

 

織田氏はまず 1560 年頃までに尾張再統一で国内整備を進め、次なる目標の美濃攻略(岐阜県の斎藤氏攻略)を 1568 年頃に達成したも同然になってくると、キリスト教徒らも「あの織田氏こそが、今後の日本の代表政権になるのではないか?」と見るようになっていたほど、評判になっていた。

 

最初は九州を布教の拠点にしていた西洋人たちも、次第に堺衆との縁を経て関西方面まで交流網を伸ばしていたため、先々を見越してさっそく織田信長に、今後の交流のための面会を求めるようになった。

 

これは堺衆としても課題だった、京の都市経済の復興のめどを織田氏に期待していた思惑も、当然のこととして重なっていたと思われる。

 

中央(京)の復興が遅々として進まずに貧窮を続けていた朝廷も、西洋人たちから「日本のヴェネツィア」と呼ばれるほどの優れた商業都市を形成できていた堺衆に、京の復興の見通しについて日頃から相談していたと見るのが自然である。

 

美濃攻略の 1568 年頃の織田信長は、足利義昭を介した朝廷からの京の復興要請と、さらには堺衆とキリスト教徒たちからの応援・期待を受ける形で、近江・山城方面への進出の強みを得ることになった。

  

しかしこの足利義昭においては、京の都市経済と朝廷の復興後には、その先代たちとはあまりにも違った所に織田信長も大いに失望させられ、のちに両者の対立が激化していくことになる。(後述)

 

美濃攻略を果たした矢先の織田信長は当初は、期待の要請を受ける形で、近江・山城方面に進出することになった。

 

この近江進出では、それを妨害しない意味で、近江北部の浅井氏とは不戦の協力を取り付けることができたが、近江南部の六角氏(ろっかく。近江源氏の名族・佐々木一族)は、織田氏の近江・山城進出に反対し、その妨害に動かれることになった。

 

この時に六角氏が、朝廷と足利氏の要請があっても反抗せざるを得なかったのは、六角氏は領内整備が遅れていて、南近江衆はまとまりが欠けていたからだといえる。

 

そんな中で、織田氏が美濃(岐阜県)と山城(京都府東部)を行き来するための近江(滋賀県)の上洛路を六角氏がすんなり認めてしまえば、まとまりがなかった南近江衆たちに主体性のなさを見限られて、家臣たちに織田派にどんどん鞍替えされてしまう恐れがあった。

 

近江北部でまとまりを見せていた浅井氏は、六角氏よりも規模は小さいもののそこまでの弱みはなかったために、この時の織田氏とは不戦協力という形が採れたが、当時の六角氏はまとまりが欠けていたために、その流れに反抗する他ない状況だった。

 

そもそもこの六角氏(佐々木一族)は、元々は室町政権時代における、足利将軍家を支える中央政権の護衛役だったともいえる最有力のひとつとしてかつては権威を振るった、南近江におけるあなどれない列強のはずだった。

 

しかし足利義昭(それを介していた朝廷も)が、室町体制における高い格式をもっていたはずのこの六角氏に頼らずに、織田信長に頼るようになったこと自体が「今の六角氏にはもはや、政体を立て直すだけの力などない」と、遠回しに公言していたようなものだったのである。

 

そういう所に織田信長は常々疑いの目で見ていた、そうした主体性の欠けた中央関係者らの、織田氏への調子の良い頼り方とその後のいい加減さの反省のなさに、内心では怒ってたのである。(後述)

 

六角氏が織田氏の山城進出にすんなり協力してしまうことは、家系的に格上だったはずの六角氏から見れば、地方の成り上がり者のせがれ(下克上で尾張の斯波氏・今川氏を抑え込んで台頭した織田信秀の子)にあっさり臣従してしまうのも同然だったために、六角氏は反抗する他に道はなかったといえる。

 

浅井氏にしても元は、京極氏(佐々木一族)の有力家来筋だったのが、それを追い出して代わって近江北部の代表格となった口で、朝倉氏にしても、越前の管領(かんれい)家の斯波氏(しば)を追い出して、代わって越前の代表格となった口である。

 

室町体制における最上級の三管四職(さんかんししき・管領=管区長=クライス)のひとつ、武衛家(斯波氏・しば)を抑え込んで台頭した、元はその家老格だった朝倉氏や織田氏に、朝廷も足利家も頼るようになったこと自体が、

 

 今までの室町体制通りである必要などは、もはやない

 

朝廷も足利家も、遠回しにもはや、そう公言していたようなものだったのである。

 

中央関係者らが、自分たちでそう見なしてしまっていたも同然の態度を自分たちで採っておきながら、後になって手のひらを返すような不義を働き始めたことに、織田信長はその連中の等族責任のあまりの反省のなさに、内心はあきれていた。(後述)

 

順番に後述していくが、織田信長の中央再建事業のおかけで、旧中央関係者らがそれぞれ救済された途端に、公家衆の中の口ほどにもない不真面目な暇人どもの一派と足利義昭が後になって、織田信長に対して「自分たちの立場がない」などと調子良くごね始めるのである。

 

織田氏が山城に乗り込むまで、それまで中央で蔓延していた劣情統制(できもしない性善説)を織田信長に完全否定されながら、著しく大救済されてしまった、そこを完全立証をされてしまったことに、逆に「自分たちの立場がない」などと偉そうに、八つ当たりに逆恨みし始めた。

 

ただの猿知恵の丸覚えに過ぎない劣情慣習(できもしない性善説)で面倒がりながら人に偉そうに押し付け合い、偉そうに被害者側に立とうとすることしか能がない公的教義と大差ない低次元な分際(偽善者)であればあるほど

 

 「そんなことは、誰もできる訳がない!」

 

 「お前に何がわかるんだ!」

 

と散々挑発し合いながら、やたらと騒ぐことのみしか能がないものである。

 

一緒に失望し合うことで、ただ怠け癖を付け合うためだけに騒ぐことのみしかしてこなかった分際(偽善者)とは、それが通用する内はひたすらそれで調子に乗り続け、それがもはや通用しない力量差をよそに見せ付けられてしまう日をついに迎えると、いよいよその劣情統制の猿知恵を本領発揮し始めるのである。

 

公的教義と大差ない、そういう過ごし方しかしてこれなかったことの自分たちの化けの皮が剥がれそうな、その気まずさが露呈し始めると、その反動のみで今度は

 

 「ここまで解決・救済してもらうことなど頼んでいない!」

 

 「勝手なことをされた!」

 

 「今までと違うことばかりのアイツはおかしい!」

 

などと騒ぎ始めることしか能がない、それが公的教義のように何も大事にしてこれなかった、何の主体性もない手合いの実態なのである。

 

だからこそ、自分と同じ意見や、その真逆の意見を見つけ次第に、それに安易に同調したり便乗するべきではない、そういう手合いかも知れないと常に疑いながら、余裕をもった見方をしていくことも大事なのである。

 

日本全体のこと、今後の世界外交のことなど一切考えていない、まさに人の上に立つべきではない、問題が起きるたびに人を失望させ混乱させ疲弊させ合いながら得しようとする結託の仕方しか能がない公的教義と大差ない連中だから、中央復興も遅々として進まなかったのである。

 

後述するが、後になって不真面目な廷臣たちの一派と足利義昭がごね始めた時に、足利義輝のことが具体的に引き合いに出されなかっただけで織田信長からすれば

 

 「自分たちでできていなかったはずのことを、今頃になって偉そうな立場ばかり主張するのなら、それならなぜ、義輝公が真剣になって立て直そうとしていた時にお前たち周囲は、それを機に我が織田家を頼らずに、自分たちの力で命がけで立て直そうとしなかったのだ!」

 

それをいわれてしまえば全てだった、それが実態だった不真面目な連中どもへの反論だった。

 

そんないい加減な向き合い方しかできていないのなら「今までも、これからも、何も大事にしてこれない(まともな意見整理と提出もしてこれない)お前たちは、足利家だろうが織田家だろうが、もう誰でも同じことではないか!」という話になってしまう、すなわち

 

 自分たちの不始末の、その負担の押し付け先が誰なのかを毎度のように、劣情統制の猿知恵の手口で問題の矛先を操作することしか能がない、公的教義と大差ない極めて低次元・低知能な集まり

 

でしかない、政治性(等族責任・組織理念・国家戦略・品性規律)にまともに向き合ったことなど一度もない、そこに意識を向けようともしない、その反省もできたこともない迷惑千万な旧中央関係者の一派の劣悪態度に、織田信長は怒るようになったのである。(後述)

 

そもそも最低限の手本礼儀の示し合いを前提に人と向き合うことなど、ろくにしてこれたこともない

 

 できる訳がない理論

 

 知っている訳がない理論

 

 答えられる訳がない理論

 

のみで

 

 得するべきでない者が不当に得を、損するべきではない者が不当に損させられる形に、まんまと誘導利用

 

するための典型的な猿知恵の劣情挑発(人格否定)を煽られたら、

 

 そのことに失望・混乱・疲弊させられる必要のない者が、失望・混乱・疲弊させられる形にまんまと誘導利用

 

に、いとも簡単に乗せられてしまっているようでは、自身で大事にしてきたものなど何ひとつないのと同じ、全て人任せ、数任せ、外圧任せ、権威任せに面倒がりながら偉そうに過ごすことしかしてこれなかった、公的教義と大差ない口ほどにも無い人生観しかもち合わせていないのと同じである。

 

その極めて下品で汚らしい低次元な猿知恵の手口を普段から見抜くこともろくにできていない、すなわち国際人道観を既に踏み外している時点で、人のことを偉そうにとやかくいう資格などはなく、戦国後期のこと、織田信長のことも、到底理解できる訳もないのである。

 

そのような等族違反には、常に荀子的(高次元的・原因究明的・等族責任的)な疑いの目で、そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった状況回収の見方で判断・対応していく心がけは、いつの時代でも大事なのである。

 

話は戻り、六角氏は織田氏との対立をきっかけに南近江衆を団結させようと狙ったものの、この反抗戦でやはり領内整備(政治体制の近世化=等族議会制)が進んでいた織田氏との差が歴然と出てしまい、列強のはずであった六角氏は、織田氏にどんどん吸収合併されていくことになった。

 

六角氏攻略で短期間で上洛路を確保できた織田軍は、すぐさま山城に進出できた。

 

山城(京都府東部)では、それまで三好軍が占拠し続けていたが、大してまとまりを見せていた訳でもない、つまり山城復興のための裁判権改めなどもろくにできていないまま、うわべの権威のためだけにただ居座り続けていたに過ぎなかった。

 

織田信長は、山城に居座り続けていた三好派たちの追い出しもあっけなく成功したが、これも三好氏が何よりも、そこに居座り続けるだけの政治的な名目(誓願)が欠けていた、直接対決ではそういう所で大差が出始める時代になってきていたのである。

 

三好氏の追い出しもあっけなく終わると、織田信長はこれまで整備してきた公正な旗本吏僚たちをさっそく手配しながら、尾張、美濃、近江南部の庶民たちも大動員して、京の都市経済と朝廷の復興建設および、それらとの流通路を結ぶための大規模な街道整備も着手された。

 

閉鎖有徳と不要な城や関所がどんどん解体され、代わりに公正に状況回収するための奉行所(役所)がどんどん設置され、山城・近江・美濃・尾張を結ぶ街道整備によって、物流で大きな賑わいを見せるようになった。

 

街道整備は物流経済の恩恵にもなる上に、織田信長が公正に編成し直した常備公務軍による、領内の不正集団の取り締まりのための移動も快適にした。

 

奉行所の布令(裁判権)に従わずに反抗しようとする、今の公的教義と大差ない低次元な時代遅れの劣情上下統制をいつまでも続けようとする閉鎖有徳どもは、次々と検挙されていった。

 

これができるだけの、等族議会的な旗本吏僚体制による公務政体が、織田氏では既に作られていたことが、一気に立証されてしまった。

 

もはや新政権として十分にやっていけるだけの、国際的な裁判権改め(教義改め・等族議会化)というものが織田氏だけができていて、他はそこまでできていなかったことを具体的に立証してしまったようなものだったのである。

 

この織田信長の「お前たちに、これだけのことができるか!」という、この最低限の手本礼儀を見せ付けられてしまった全国諸氏も、いよいよ慌て始めた。

 

尾張では先駆けで「上から順番に制裁」「下から順番に救済」の公正(等族責任的)な農商業改革が先に進められていたことで、山城(京)の復興事業も可能な食料や財力を蓄える国力まであった、その力量差を諸氏に決定的に見せつけた、歴史的瞬間だったといえる。

 

時代遅れの閉鎖的な価値観を、ただ維持し続けるためだけの劣情統制(できもしない性善説による、何の健全向上性もない偽善上下統制)で今まで縛られ続けてきた最下層庶民たちが解放されて以来の労働観念も、頑張っただけの見返りがこれからはできるだけ受け取れるような公正な経済意識になる、教義性ある等族政治が行き渡っていたからこそ、それも可能だったといえる。

 

織田信長が、そのような尾張再統一を達成しつつあった 1560 年頃に、一方ではかつての列強気取りの旧態のままの、織田氏とは政敵関係だった駿河・遠江(するが・とおとうみ・静岡県)の今川義元が、その様子を見て慌てて大軍を率いて織田氏に挑むことになったのも、そういう所だったのである。(桶狭間の戦い)

 

これは六角氏や三好氏なども同じようなことがいえるが、織田氏にそういう所を見せ付けられるほど、今まで大軍を動員できていた所ほど、その旧態概念(怠け癖)の裁判力に頼り続けて衰退に向かい始める流れに、あせり始めるようになった。

 

今川義元も、自分たちができていない、時代に合った国内整備を織田信長にすっかり先駆けされてしまった危機感に慌て、大軍が維持できている内に慌てて織田氏に決戦を挑んだのが、桶狭間の戦いである。

 

この桶狭間の戦いは実際の所は

 

 少数でも前期型兵農分離(公務士分の品性規律の見直しの、新たな身分統制)が進んでいて、慌てる必要などなかった織田軍側

 

 今までの権勢任せの大軍動員もできなくなりつつあった、織田氏ほど兵農分離(時代に合った身分統制)も進んでいない、短期間しか軍を維持できない今川軍側

 

とで、基本的な政治改革の力量で大差が出始めていた、そこをごまかすように今川氏が挑んだ戦いが、桶狭間の戦いなのである。

 

そうした領内整備が織田氏より遅れていた今川氏は、どれだけ大軍を動員しようが、その維持もできてせいぜい2、3ヶ月である。

 

所詮は大軍任せ(ただの勢い任せ)に尾張に乗り込んだ今川軍が、尾張で裁判権を維持できるのも、その大軍(ただの勢い)がそこにいる間に過ぎない。

 

この時点で長期維持が可能な常備公務軍が2000以上はいたと思われる織田軍と、一方では大軍は動員できても常備軍自体は800もいたか怪しいような今川軍は、どこへ出かけようがいずれ撤退するまでの裁判権に過ぎない、すなわち裁判権を広域に維持できる役人体制などできていないことを意味する。

 

そもそも高次元化(次段階の等族議会化)していた尾張の裁判権(国際社会性)に対して、尾張よりも低次元(惣国一揆でモタモタ見直されていた分国法のまま)な駿河・遠江の裁判権(社会観)の今川氏が、たったの2、3ヶ月でその尾張の裁判権を簡単に獲得できるのなら、戦国時代は長引いていないし、どこも苦労はないのである。

 

地方全体どころか、郡1つの支配権(裁判権)の確保すら実際は困難だったといえる桶狭間の戦いとは、もはや尾張の支配権のために今川軍は出かけたのではなく、時間稼ぎの阻害のために出かけたようなものだった、そういう名目的(誓願的)な所に大差が出始めてきた時代になっていたのである。

 

話は戻り、いったん独裁制(荀子的政治・主体都合継続的)で大幅な裁判権改め(国際社会性改め・国際人道観改め・国際品性規律改め)を進め、最低限の敷居が底上げされてから今一度、合議制(孟子的政治・不都合的完結)に戻される流れは、ごく自然な流れである。

 

織田政権が、独裁制(荀子的政治)から合議制(孟子的政治)に移行されようとしていた、その過程で起きたのが本能寺の変だったという、この部分がなぜか指摘されてこなかった所になる。

 

この事変自体は、複合要因も多いため、そのことにも順を追って説明していきたいが、羽柴秀吉もかつてのその経営陣側の重役のひとりとしてその一連の様子を良く見てきたからこそ、もうしばらく独裁制を続けることにした、ということに過ぎない。

 

徳川家康も、ヘタな発言は避けていただけでそこはよく見ていた。

 

慶長の役(朝鮮半島での戦い)を経て間もなく、関ヶ原の戦いを制した徳川家康は、政治性の高い戦い方ができたことで、等族議会制の改革意識も全国諸氏にだいぶ浸透させることもできた、だから徳川政権の時代になってようやく、合議的な幕藩体制に移行できたといえるのである。(荀子政治型から孟子政治型への移行)

 

関ヶ原の戦いは、規模こそ同じだった応仁の乱とはその点でまるで違う、もっと政治的な総選挙戦にできていた。

 

応仁の乱は本来は、政権のあり方のためのそこを再確認するためのものにしなければならなかったのが、結局できていなかった。

 

だから関ヶ原の戦いでは今一度、そこをやり直す再確認ための戦いにもできていた、そこを教義的にもしっかり認識させることもできた戦いだったといえる。(日本全体の手本的家長権の確立=新たな武家法典の確立=武家の棟梁の確立=新政府)

 

日本をその方向に進めることができたのも、まずは等族社会化に向けての多くの貴重な前例手本を示しておいてくれた、織田信長のおかげだったといえる。

 

日本全体がその等族議会的な意識に向いていく流れを、織田信長が作ってくれていたからこそ、豊臣秀吉と徳川家康もその重要さをよく理解しながら、せっかく法治国家としてまとまりつつあったその流れを壊さないよう、努力されていった所になる。

 

江戸時代の「天下のご政道」とは、将軍家(徳川本家)の公認次第という権威の形はあっても、今風の財務省、国防省、産業省といったそれぞれの最高長官に相当する、老中(ろうじゅう)と呼ばれる政務閣僚たちの合議制による整理から、将軍家と確認し合っていく幕藩体制が、基本となっていった。

 

もちろん将軍家も「こういう所を改革したい所だが、なんとかならないのか?」と老中たちに確認しながら、企画倒れも含めて色々な計画が老中たちによって立てられていく形も、当然ある。

 

人類がようやく自覚し始めた、文明的な法(国際社会観・国際品性規律)の原点となった近世以降の等族議会制の意味が理解できていないと、そこが基点のはずの、本来のあるべき独裁制合議制の特徴を認識できない所になる。

 

現代の法(国際社会性)の出発点となった、近世に自覚されるようになった等族議会制(近世以降の裁判権)の本来の意味としての、独裁制(荀子型政治)合議制(孟子型政治)の区別も使い分けもできないということは

 

 時代遅れの劣情統制(できもしない性善説)で人を裁き続けようとする劣悪態度とは決別するための、人文的・啓蒙的な等族責任

 

 

 道義関係がない相手にまで、手当たり次第に時代遅れの劣情統制(できもしない性善説)で裁き続けようとする、等族責任を妨害し合う集まり

 

との違いもまともに区別できたことがない公的教義と同じで、それだけ後者の愚かさを自覚(自立自制)してこれなかった、それだけ自分(上)に甘く人(外・下)に厳しいばかりの口ほどにも無い人生観しかもち合わせていない証拠なのである。

 

まずは冷静さ慎重さ丁寧さをもって、

 

 自身(当事者)に関する道義性(不都合的完結)と教義性(主体都合的継続)の区別をつけながら地道に認識(状況回収)していく

 

という、人としてあるべきその最低限の手本礼儀の示し合いもろくにしてこれなかった、その余裕の見方をまず自身でしてこれなかった公的教義と大差ない極めて低次元な手合いが、よその道義性と教義性のことをまともに確認(尊重)しようとする訳がない。

 

それもそもそもできていないということは、世(国際社会性・民権言論の自由原則)のため人(次代たち)のためのことなど、まともに考えられる訳がないのと同じである。

 

世界的な情報交流・文明交流の示し合い(国威・格式・国際軍事裁判力の示し合い)の社会意識が高まるようになった、だからまずは国内での「ただ自分(上)にただ甘く下(外・下)に厳しいだけ」の旧態体制も、先進国の間では段々と許されなくなってきた時代が、近世なのである。

 

自分たちのそういう所を改善していくための等族議会制が作れているか、またそのための代表格(代表意見)を自分たちで整理(国内再統一・選挙戦)しながら立てることができているのか、そこからの国威・格式(産業政治力・軍事品性規律・国際外交力)が問われるようになってきた時代に入ったのが、近世である。

 

自分たちの課題のはずのことまで万事面倒がり続ける、その弊害の負担を、延々と偉そうに押し付け合うことしかしてこなかった、その自覚(自立自制)もできたことがない公的教義と大差ない集まりが、そこを議会制ですっかり改善するようになった列強の外圧に、まともに抵抗できる訳がないのである。

 

「今まで通用していた時代遅れの旧態観念も、段々と通用しなくなってきた」ことが意識されるようになった、近世の等族議会化の影響は、低級裁判権(民事的な社会性。納税・労役義務とその代替保証権)の観念にも、段々と変化が見られるようになった時代でもある。

 

近世に、賦課(ふか)税という発想も顕著になってきた所などは、これは現代的な観念が近世になってついに導入され始めた、当時の意識改革が窺える大事な所になる。

 

まず賦課とは、古代から中世までに永らく続いていた賦役(ふやく・ふえき・ぶえき)に対し、人類がついにそれを経済換算的・信用取引的に解決し始めるようになった制度のことになる。

 

この賦役の賦課税化への様子は、中世から近世への移行期での大きな特徴のひとつで、これは本能寺の変を説明する上でも間接的に関係あることとして、是非とも触れておきたい重要な話になる。

 

賦課の発想自体は中世からあり、当時はまだその言葉は使われていないものの、中世にはその認識だけはされるようになっていた。

 

日本でも西洋でも、人文性・啓蒙性(等族責任)がやっと自覚され始めてきた中世後期までは、旧態の慣習任せからなかなか脱却できないでいたために、その現代的な観念だけは立てられても、それを公正に機能させるにはしばらく時間が必要だった。

 

まず賦課の元である賦役とは、これは低級裁判権(民事的な庶民法の管理)が近世化される前に顕著だった、貴族特権者への慣習のひとつで、元々は領民たちの貴族(領主)に対する奉仕義務のことを指し、祭事・典礼も多かった。

 

他人種・異文化と陸続きで揉めがちだった西洋では、キリスト教がないと人としての生き方を見失いがちだったためにそれに頼らざるを得なかったが、ただしそのおかげで日本よりも社交的な貴族思想が育ったため、この賦役の形式も西洋の方が少し目立つ部分といえる。

 

賦役は色々で、西洋では例えば、領主が狩りに出かける時にそれを手伝う人員だったり、城の内外の清掃係、また城や役所や道路や橋といった、公共建造物の修繕や建設の人員などで、領民の当番制になっていたものが多かった。

 

これは元々は、貴族(領主)と領民の協力、つまり地域の公共的な協力の精神を重んじるための、古代の教えらしい無償の奉仕義務であったため、領主もあまり過酷な労役の無償奉仕ばかり負担させようとすると、無償なだけに領民も当然、不満が高まることになった。

 

領民たちも「そんなにキツいものばかり要求するのなら、だったらそれに相応する代替保証権もよこせ」と怒るようになり、目先の利害ばかりで本来の目的とズレてくると、領主と領民の信用関係も薄れて奉仕意欲も損なわるため、領主としてもあまり無茶な要求はできなかった。

 

しかし中世になって、量産社会の流通経済を人類が体験するようになると、今まで古代的だったままの法(教義性)を、時代に合ったものに整備することがどこも間に合わなくなってきた。

 

そうした時代の人々のあるべき生き方というのも、世俗と聖属の境でフラつきながら、上から下まで閉鎖的な正しさの乱立が始まって、どこも荒れるようになった。

 

時代に合った法(国際社会性・品性規律)が一向に整備されていかない中で、上から下まで、成り上がり的な数物資産権威はどんどん乱暴になり、その奪い合いや阻害・破壊のし合いで暴力的に騒ぐことばかり強まっていったのが、中世の特徴である。

 

うわべだけヒトの信用が大事だといい、その実態はモノとカネ次第でヒトを騙し合ってうちのめし合えば良いとする、政治精神(組織理念)を大事にしない、今の公的教義と大差ない劣情統制(できもしない性善説)のただの怠け癖の塊の分際(偽善者)が威張り散らす欺瞞社会が蔓延するようになった。

 

乱世で荒れ、和平解決に一向に進まない先々の理念などないまま、損失補填をただ繰り返しているだけの過酷な負担に毎度のように付き合わされるようになった領民も、領主を手本の誇りに思えるような一体感など生まれる訳がなかった。(貴族権威への失望=聖属への失望=旧態の聖属裁判権の崩壊)

 

こうした流れは日本でも、上から下までの保証権など一向に整備されていかないまま、負け組みの半農半士で溢れるようになった戦国前期にも、類似して見られる所になる。

 

いい加減な地方の代表格ら上層たちに、半農半士庶らも各地域で士分を自称し合いながら、有徳(寺院)を介して庶民層と結託し、そこでの閉鎖的な上下権威を構築しながら上に反抗、政治力を身につけ始めたのが、のちの閉鎖有徳問題となった惣国一揆(地侍闘争)の出発点になる。

 

上(自分)がだらしない分だけ、その甚大な負担と苦痛の下(外・よそ・周囲)に押し付け合いに至り、失望し合う悪循環は、人々を信用に向き合わせる意欲をどんどん失わせていく、名目(誓願・主体性)なき中世の失望の流れは、日本も西洋も共通していた部分だったといえる。

 

中世末期の西洋では、人文性・啓蒙性が自覚・許容され始め、これからの時代に合った経済社会のあり方についても、ついに整理され始める等族議会制にやっと取り組まれるようになると、今までの賦役に関する慣習も、やっと法的(教義的)に見直されるようになった。

 

時代に合った品性規律の手本姿勢の示し合いというものを、まずは上(自分たち)から始めなければ、下(外・周囲・社会全体)を改善・健全向上化させられる訳がない所も、ついに見直されるようになった。(等族統制)

 

こうした裁判権(社会性)の等族議会化の影響が、今までの古代旧態的すぎた賦役も見直されながら、必要なものは賦課税化していく流れにも、顕著にも現れているようになった。

 

その意味を説明していくが、その前にまず中世の西洋の庶民は、都市では市民権をもった市参事会員(商工会の役もちたち)たちと、教区の聖堂参事会員(民事的な裁判を担当)による庶民政治が行われていた。

 

一方で農村では、領主に税を支払う代替として農地の保有地権を公認されるという主従関係の、その自由保有地権をもつ農家たちによる、農村組合を中心とする庶民政治が行われていた。

 

また農村は、都市の原料生産(食料の他、亜麻糸や綿や染料といった衣料原料など)を担当するという、都市との協約的な関係も重視されていた。

 

都市で市民権をもたない最下層は、市民権をもっている者に沿う労働従事者が、そして農村では自由保有地権をもたない最下層は、それをもっている者の支配下の小作人としてやっていく他ないという、労働搾取的な扱い、収奪的な扱いばかり受ける貧困層が多かった。

 

中世の乱暴な数物社会を人々も体験すると、今まで通りの法(裁判権)ではその格差関係も広がるばかりだった中、議会制が自覚され始めると、貧困層に対する救済・福祉対策の遅れも、ようやく国際的に問題視されるようになってきていた。(貧困層が自治権を得る運動=特殊商工会の設立=ツンフト運動=のちのプロテスタント運動の助長)

 

元々はどこも司教都市だったはずの諸都市も、中世の数物社会が始まると、今までの聖属政治では法(社会性)の対応が間に合わなくなってきたために、各都市はその旧態体制に民権運動的に反発を始めるようになった。

 

すなわち、公的教義の都合ではなく、市参事会の都合に合った神学校の学長や修道院長を擁立する形で、司教座の司法判事(フォークト・司教の代理人)を追い出し始めるようになった。

 

中世になって、イタリアよりもドイツの方が国力も上回るようになってきて皇帝権(王族の代表格)もイタリア貴族からドイツ貴族に移行するようになって以来は、ドイツを中心とするローマ帝国というくくりでの、キリスト教社会の帝国議会制が意識され始め、その流れで司教都市も次々と帝国都市(自由都市)に鞍替えし始めるようになった。

 

つまり、今までの公的教義(司教領と教皇庁)の時代遅れの聖属政治の規制・条件から逃れようと、これからは都市の税を公的教義(司教や高位司祭ら、また教皇庁への献納)のために支払うのではなく、皇帝(帝国議会)に支払う代替として、都市が望む条件を皇帝(帝国議会)に公認してもらう流れで、次々に帝国都市(自由都市)に脱却するようになった。

 

司教都市の自由都市(帝国都市)への世俗化、すなわち都市は伯爵領に次ぐ等族諸侯扱いという格式を受ける形を、帝国議会が整備し始めるようになったことを意味する。

 

司教権威はそれを阻止しようと、破門するぞ(聖職行為禁止処分にするぞ=異教徒扱いに制裁するぞ)などと、今の口ほどにもない公的教義と大差ない古臭いやり方で偉そうに脅しながら、帝国都市(自由都市)に脱却しようとする先に、軍を率いて制圧しようとした。

 

帝国議会側に肩をもつ都市や貴族たちと、公的聖属側に肩をもつ都市や貴族たちとで、目先の利害ばかりでグダグダに揉めるようになったのが、中世ヨーロッパの乱世の特徴である。

 

司教都市からの脱却を目指す有力都市は、教皇庁や司教や、またその肩ももつ貴族や司教都市らとは、軍事戦の前に、外交戦(名目・誓願・国際品性規律)で言い負かし合うことから、まずは国際社会性を示し合わなければならなかった。

 

だから都市の市参事会は、できるだけまともで優れた神学者を招いたり育成したりしながら、地元の修道院、聖堂参事会を強化することにも熱心になった。

 

このように、公的教義(司教権威・教皇庁権威)が「あまりにもだらしくなく、あまりにもあてにならない」ことにあきれ、それを典型的な悪い手本と見なし始め、有志たちが自立自制的に教義性の見直しに取り組まれるようになった。(人文性・啓蒙性)

 

日本と西洋の中世以降の教義性(国際社会性)の歴史とは、公的教義が人類のための教義性を向上させた試しなどは一度もない。

 

公的教義の歴史などというものは、もはやそこが問題視されて民権運動的に人々に訴えられるための指標でしかない、いつの時代も等族責任を否定し続けてひたすら人類の足をひっぱり続け、人類に甚大な負担をかけ続けることしか能がないお荷物集団でしかなかったのが、歴史的な実態なのである。

 

司教都市からの脱却の動きは、今までの古臭い聖属への高額な献納制度に、各都市も渋り始めるようになった、つまり旧態の聖属権威(聖属裁判権)が崩壊し始めたことを意味した。

 

中世の世俗的な数物権威の流れに、今まで通りの「破門という従わせる凶器」「戴冠式という認定で従わせる盾に頼って面倒がりながら偉そうに抑えつけてきただけの、古臭い霊感商法と大差ない手口など、いい加減に通用しなくなってきた、教義性の手本など皆無な実態が露呈した公的聖属側は、財政難に陥るようになってきていた。

 

そういう肝心な時にこそ、ただ下品で汚らしいだけの中世以降の公的教義というのはただ化けの皮が剥がれるのみ、ただ人々を失望させるのみしかない、ただ重荷なだけの余計な存在でしかないのである。

 

そういう時の公的教義のだらしなさの極めつけは、教義の代表でなければならない教皇までが、数物権威の逆流の煽りを受ける形で、ついに対立教皇の擁立合戦で揉め始めるようになった。

 

教皇選挙(コンクラーヴェ)もまともにできなくなった、そういう肝心な時にこそ、ただ化けの皮が剥がれるのみで何の役にも立たないのが、公的教義の実態なのである。

 

教会大分裂という、ただ下品で汚らしいだけの口ほどにもない教義崩壊の姿を恥も外聞もなく延々と見せ続け、キリスト教社会全体を著しく失望させ続けたことからも、ただ図々しく人の上に居座っているだけの中世以降の公的教義(枢機卿団)の権威などいうものは所詮は自由教義性(人文性・啓蒙性)など皆無な、

 

 肝心な時に化けの皮が剥がれて、人々をより失望させ合うことしか能がない、人類の役に立った試しなど一度もない口ほどにもない集まり

 

であることは、歴史がとうに証明していることなのである。

 

人々をただ失望させ続けるのみの、その口ほどにもない教義崩壊の様子は、今までの賦役の内の、ただ足並みを揃えるためだけで国際社会性と結び付いていないようなただの惰性慣習に対しては、人々も当然のこととして、疑問の目で見るようになった。

 

中世になって処理し切れない訴訟ごとも絶えなくなっていた中、ただ面倒がりながら高額な献納代を偉そうに要求するのみの、教義的な手本など何ひとつない、ただ人の時間と金を掠(かす)め盗ることしかしていない、今の公的教義と大差ないその無価値な司教権威の代理人(都市法の元々の判事であった、司教の代理人=フォークト)を、ついに追い出し始めるようになった。

 

破門と戴冠式に頼っているだけの高位聖職者らのその時代錯誤の古臭さには、貴族層たちですら内心はあきれ始めていたのである。

 

司教都市から自由都市(帝国都市)に脱却し、帝国議会(皇帝)に等族諸侯の格式を公認してもらうためにも、自分たちで神学者の招待・交流・育成に熱心に、敵対諸侯と競争意識をもちながら、都市法についても揉めながらでも自分たちで整備し始めるようになった社会現象は、賦役の賦課税化とも当然関係している。

 

農村よりも経済感覚に敏感であった都市側では、先駆けで賦役の賦課税化の考えは進むようになっていたが、中世末期には帝国議会の意識も高まったことで、農村側の慣習も少しずつ整備されるようになり、農村も賦役の賦課税化の考えも進むようになった。

 

市民権や自由保有地権をもっている者たちに、今まで通りに負担させるような伝統慣習の当番制を続けるのではなく、市民権、自由保有地権による生活保証権をもてずに、常に職にあぶれて困っていた最下層の貧困層にやらせれば良い、といった発想に転換されていった。

 

ただし特権階級者との主従関係としての、地域の協力精神のための慣習自体は、その後も大事にされていった。

 

地域振興として祭事を企画・開催準備をすることには、今まで通り協力するが、それぞれの大事な本業を阻害してまで、他の者でもできるような労働力の奉仕義務(賦役)まで今まで通りに時間や手間をとらせるような慣習を強要し続けることは、経済全体の弊害という人文的・啓蒙的な考えも、尊重されるようになった。

 

他の者でもできるような奉仕義務(賦役)なら、本業に忙しい者にさせるのではなく、職にあぶれている貧困層らや、これから社会を覚えていく若手などに、無償ではなく賃金を払ってやらせれば、その方が意欲も出て良いという、現代の分業的な考えをやり始めるようになった。

 

市民権や自由保有地権をもっている者は、その奉仕義務を免除してもらう代替として、それを維持するためのものとして「賦課税」という形で支払うようにして、特権者がその税を使って今までの伝統的な奉仕義務を維持していけば良いという、今風の住民税のような考えに整理されるようになった。

 

無償の奉仕義務は労役だけでなく、石工たちはこういう石材を年にこれだけ納品せよ、皮職人たちは馬具や軍用の靴などの革製品を年にこれだけ納品せよ、ぶどう酒の生産者たちはこれだけ納品せよ、といったものも多かった。

 

量産の数物的な流通経済化が進んで、業種も分業多様化していく中で、今までの慣習を強引に当てはめ続けることは「こういう場合、その仲介的な仕事を請け負っている人の負担はどうなるんだ」という不平等的な無理も当然出てきて、どんどん煩わしくなっていった。

 

それなら今までの賦役(奉仕義務)は、どうせ負担するなら賦課税という形に換算してそれを支払うことで賦役を免除してもらい、特権者(近世以降の公務士分側)はこれからはその税で慣習のために必要な品々を注文したり労働力を確保すれば良いという、今までの古代的な奉仕義務の慣習が、経済社会的についに換算されるようになったのが、賦課税の特徴になる。

 

ただし、常に賦課税化で全て処理されるようになった訳ではなく、大事な工事に人手がどうしても足りない時や、また災害の規模が大き過ぎてそのための賦課税をとても用意できない、ということもよくあることだった。

 

その場合は仕方がないため、皆で手分けして、それに対処していく奉仕義務で助け合っていかなければならないことも、多かった。

 

しかし何にしてもまずは「それなら、こういう見通しでこういう額の賦課税を用意するという計画をしていけば、良いのではないか?」という前提で、上と下との間で、全体像を換算しながら等族議会的に交渉していくあり方が自覚されていったことが、法(国際社会性)の大きな進展に向かったといえる。

 

日本でも江戸時代になると、この賦課税のことも視野に入れながら、村役たちの間でも話し合われるようになったのが顕著な所になる。

 

日本も、聖属政権から世俗政権に移行して経済社会化が強まり始めた13世紀(鎌倉時代)には、穀物の他、製塩業者、製紙業者、製鉄業者、陶器業者、衣料業者といった業種ごとの分業と物流の発達も、少しずつ顕著になっていった。

 

当初はそれぞれからの物的納税を中心としてたが、業種の分業化が進み、さらには貨幣経済が浸透するようになる中世後半の室町の大経済時代に入ると、ちょっとした証券経済も浸透し始め、同じような賦課税化の原型の発想を、日本でも自覚し始めるようになった。

 

江戸時代では、米価の相場を中心とする貨幣社会が浸透し、米もそのまま貨幣同然の役割を果たすようになったため、米による納税自体がもはや貨幣を納税していたようなものだった感覚が、西洋と少し違う所もあるが、何にしても近世の賦役の賦課税化は、日本でも同じように意識されていった所は共通している所になる。

 

いつの時代も共通する、公的教義と大差ないただの悪習にしかなっていない、何の工夫もない低次元な意味での

 

 「皆が体験してきた苦労苦痛を、皆が、若い連中が、同じように苦労するべき!」

 

 「自分たちがいいなりに従ってきたことを、若い連中も全く同じようにそのいいなりに従おうとしないのは、おかしい!」

 

と、ただの人任せ・数任せ・外圧任せ・権威任せの劣情慣習(できもしない性善説・口ほどにもない猿知恵)のいいなりに、ただ面倒がりながら偉そうに過ごしてきただけのその愚かさに、人類もついに気付き始めたその大きな進展のひとつが、等族社会化によるこの賦役(社会奉仕)の賦課税化だったといえる。

 

中世に問題になってきた、今の公的教義と大差ないただの縛り規則の悪習と化すようになっていたこの賦役問題は、賦課税化の発想に転換させて、今後の世界情勢に対応できるようにしていかなければ、ならなくなってきていた戦国後期には、これにどう対策していくかという所も、深刻な課題になってきていたのである。

 

当時の時代遅れの賦役は、少し極端になるが今風に例えると、橋が壊れたら、水道が壊れたら、道路が崩れたら、皆で当番制で全て対処し、ゴミ処理もなんでもそれでやろうとしていたことが、段々と問題視されるようになってきていた。

 

公共的のものだけでなく、例えば町に売店をひとつ作るにしても、その場所にその売店は「今までの慣習通りでないから皆が認めない」と禁止し合ったり、また売店の店員は誰がやるのかも「今までの慣習通りでないから皆が認めない」から禁止し合う、というように、一向に等族議会化していかない旧態慣習の許可制は、経済成長の弊害ばかりが目立つようになってきていた。

 

西洋では中世後期には、都市の資本家たちが遠隔地間の商業網を築き始めるようになり、今までの地域ごとの慣習による反抗を、この資本家たちがついに壊し始めたこと、さらには近世に入ると、世界貿易と王族の国債発行と結びついた証券取引景気という、今まで人類が体験したこともない市場までできた、こうした社会現象が、今までの時代遅れの慣習も改められていく、きっかけになった。

 

しかし西洋で顕著だったのが、例えば都市や農村の衛生に関する、清掃員についてはともかく、かき集められた粗大ゴミや汚物などを運ぶ係りの者は「庶民の中の格下の問題児の下っ端どもがやる、差別されるべき仕事」であるかのように、うちのめし合いながらやらせるやり方ばかりで、それを処理していくことの大切さに真剣に向き合おうとしなかった、悪い部分もあった。

 

賦課税化で政治性が進展するまではその悪習も横行し、「これは清き仕事、これは問題児どもがやらされる仕事」などという時代遅れの悪習観念で、都市や農村の衛生管理が軽視されがちだったために、歯止めのない不衛生な水質汚染や疫病の元になっていた。

 

そうした悪循環の悪習性癖も、近世の等族社会化によって、ようやくそういう所にも少しずつ向き合われるようになった。

 

そういうものを一斉にやめさせるべく、時代をどんどん立証していこうとする織田信長に、全くついていけない反抗的だった者たちは、いつまでも足をひっぱり続けることをやめようとしなかった者も多かった。

 

「ロシア正教圏、ムスリム(イスラム)圏の今までの遅れを取り戻せ」と西洋人たちが飛躍的な活動を見せるようになっていた、その世界情勢はもはや、現代のGDP(内需生産と外需生産)のような世界間の経済力量関係の原型の発想や、現代の外資・外国為替・外貨準備高の原型の発想まで、近世には出始めてきていたのである。(アントウェルペンの世界証券経済)

 

だから今後の日本も、その国際感覚が当たり前になってきていた海外に対応できるだけの政体を作っておかなければならなかった、しかしそういう所に何ら危機感をもたない国内の低次元な反感分子たちに、織田信長も対応しなければならなかった、それが非常に大変なことだった。

 

織田信長の閉鎖有徳狩りとは、できるものからどんどん「賦役の賦課化」でこれからの経済社会に合ったものに対応させていくために、今までの古臭いやり方は撤廃させていかなければならなかった、そのための教義改め(裁判権改め)として徹底された政策とも、いえたのである。

 

その織田信長になんとかついていけたのが、その最低限の手本礼儀の基準で新たに身分統制されていった、織田政権の重臣たち、旗本吏僚たちだったのである。

 

そしてそれに全くついていけなかった旧態者らとは「世界は今、こういう動きになっている」と、賦役の賦課税化の話や、外貨準備高の話をしても、怠け癖の丸覚えしかできたことがない今の公的教義と大差ない口ほどにもない低次元な連中は

 

 「皆の知っている正しさと違う!」

 

 「我々が要求する待遇を保証すれば、認めてやらんでもない!」

 

という気絶・錯乱・思考停止の機械的な反射しか、返ってこないのである。

 

この「賦役の賦課税化」が等族議会的に整備できているかどうかも国力に、ひいては世界に向けてあなどられないようにするための文明的な品性規律の国威・格式に直結していた、大事な課題だったのである。

 

何かあった時にそもそも賦課税化の発想で指導できていない、それも説明できない格下側が、その発想で指導できている、それを説明できる格上側に向かって、身の程知らずにも何を偉そうに否定・指図しようとしておるのだ!」の世界なのである。

 

しかしこれを改めていくことは非常に大変なことだった、本能寺の変にも関係してくることとして、織田信長がその等族社会化の方向に日本を改めていこうとした中で、どんな工夫したやり方がされていったのかを、次にその続きとして紹介していく。