近世日本の身分制社会(072/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 六星術の自己言動統制(不動の信念のもち方) - 2021/06/26

 

今回は、本能寺の変の話をする上で、一見は全く関係のない話に見えて、筆者にとっては関係ある話をしておきたい。

これから説明することは、訳の解らない迷信的な話に見えても、いったんは冷静になって見ておいて欲しい話になる。

これを活用するしないはもちろん個々の自由ではあるが、熟知しておけば人的信用の構築面などでかなりの手助けにもなり得る、知っておいて損ではない社会心理学的なものと筆者が位置付けている話になる。

この話は慣れるのには手間取るかも知れないが、関心さえあれば誰でも活用できるようになる方法である。

今回は、六星占星術(四柱推命)という手法についての話になる。

六星占星術は、どの人でも計6個もっている星という意味で、その誕生日によってどのような五行図(土・金・水・木・火)をもっているか、それが四柱にどう当てられているのかを診断する方法になる。

 

誕生日から占う方法は他にも色々種類があり、ネットでも探せば誕生日を入力して簡単に診断できるものも多いが、この六星図を割り出してくれるものは筆者が見た所、ネットではほとんどないため、知りたい人は書籍で探すしかないかも知れない。

「四柱推命」などで書籍から探そうとすれば、そんなに苦労なく見つけられると思われるが、古い本だと昭和生まれまでしか対応していない本もあるため注意が必要である。

この六星図は、なぜか詳しいその説明はどこも満足にされていないため、ここでは主にそれについての話となる。

五行の意味をざっと説明するが、まず相生(そうじょう)相克(そうこく)の関係を理解しておく必要がある。

相生は、

 土は金を生む 土から鉱物が作り出される

 金は水を生む 鉱物から水脈が作り出される(鉱物が冷えると水が作られる)

 水は木を生む 生命に水を供給して育てる

 木は火を生む 生命が熱力学的な力を供給する

 火は土を生む 消費されてやがて土に還る

という循環的な手助けの関係となる。

相克は、

 土は水を制御し、木に制御される  水を堰止めて調整するが、木・生命に養分を吸収される

 金は木を制御し、火に制御される  刃物利器で木・生命を制するが、熱で溶解加工される

 水は火を制御し、土に制御される  燃え盛る火を鎮火するが、土に堰止めされたり濁される

 木は土を制御し、金に制御される  木の根で大地の養分を吸収・動けないようにするが、金に加工される

 火は金を制御し、水に制御される  金・刃物利器を制するが、水で消化される

という、制御関係となる。

相生は助けられる側と助ける側の関係であるのに対し、相克は制御する側と制御される側の関係であることが、慣れないとややこしい所になる。

相生は円状の関係だからそれほどややこしくはないが、相克は交互的な関係だから少しややこしい。

相生は、本人が支える側の立場に立った時に、支えようする先が、支えてくれる側から見た相克の関係になる所が、慣れないとややこしい所になる。

水から見ると、金が水を支えてくれる関係だが、水が木を支えようとする関係は、金にとっては木を抑えようとする関係なのである。

木から見ると 水が木を支えてくれる関係だが、木が火を支えようとする関係は、水にとっては火を抑えようとする関係、といったような順繰りの関係になる。

自然に対してや、また組織や物事の流れに対して、うまくいくこと、うまくいかないことにたまに「(五行の)気の乱れ」というような言い方がされる時があるが、これはこの五行関係が均等でない、偏った関係が続くことの気脈の崩れをたとえたものになる。

例えば、金と水の思念ばかりで、火や土の思念を排除するばかりの状態が続くと、その均衡が偏って崩れていってしまう意味になる。

自然界で、ある地域に人意的な手入れがされる場合に、例えば金や水の目的都合ばかり優先して、土や木についての手入れを疎かにするような荒い管理の仕方ばかりすると、その地域が本来もっていた恵みの土壌を崩壊・荒廃させてしまう、という意味になる。

食事についても、五行が用いられることはなくても、炭水化物ばかりで野菜の量が少なかったり、また野菜は食べていても日々の種類が少なすぎると栄養が偏ってきて、健康に影響が出てくる話も、五行と類似している所といえる。

例えば面倒がって野菜をキャベツのみしか食べないような日が続くことは、野菜を全く食べないよりは遥かに良いものの、毎日そういう食生活を送るよりも、せめて2、3種類の野菜と一緒に食べるだけでも、健康面はだいぶ良く変わるといわれている。

個々の発想も、好き嫌いの個人差は皆あるため偏るのは仕方がないにしても、絞り込むこともせずに、ただ面倒がりながら受け入れられないものをなんでもかんでも偉そうにケンカ腰になって排撃的になるのではなく、許容もしながら調和を保つ工夫もした方が良いのも、この五行の話とも共通している所になる。

中世ヨーロッパのキリスト教社会では、自然を支配する考えばかりの乱開発が繰り返された地域もあり、それで逆に自然を支配できなくなっていったために、近世になって自然との共存のあり方についても、少しは見直されるようになった。

日本では、多神的だった仏教が、元々日本にあった神道と合祀していくことで、自然に物事の摂理や人道を学んでいく共存の思想も育ったために、乱開発は控えめにされた。

しかし西洋では、人が手入れして把握することができていない土地(司教座が立てられたことがない=教区扱いされたことがない土地)は、邪神の巣窟だという思想が、古代から中世にかけて強く働いてしまうことも多かった。

フランスでは、3アンリの戦いに勝利した、品性面でも政治面でも非常に優れたナバラ公アンリ(王族のブルボン朝の、フランス王としての初代)は、戦勝後には国内の諸問題の対策に当たって強国フランスの姿を取り戻すことに貢献した英雄だが、自然保護に積極的になったことでも知られる、かなり優れた人物である。

フランス国内のカトリックとプロテスタントの対立の激化と、民権運動と、王位継承問題が複雑に絡んだ、荒れに荒れた内乱を治めたナバラ公アンリは、この戦いに挑む際にはカトリックに見切りをつけてプロテスタントに改宗していた。

そのため、その戦勝後は、先にプロテスタント派(新教派・抗議派・カルヴァン派)を散々弾圧していたカトリック派(公的教義派・西方教会派)たちは、その仕返しをされるのではないかと脅えていた。(サン・バルテルミの虐殺事件)

そこでナバラ公アンリは、自身だけが再びカトリックに改宗するという荒技に出て、今まで自身を支持してきたプロテスタントたちを説得し、これからは議会に意見を提出もしない内から、互いに勝手に弾圧し合ってはならない布令を徹底させ、両者を和解させるという優れたやり方で教義(聖属)のあり方も整理した、非常に優れた王である。

西洋でも東洋でも「均衡に感謝」という古くからの思想があり、これは、人類が文明的(法的=等族議会的)になってきた中世から近世にかけては、権力均衡(バランスオブパワー)を指すことが中心になっていったが、そちらももちろん利のある例えになる。

ただしそれも元々は、五行的(自然界的)な発想が出所で、権力均衡についても実はその見方に置き換えることができる場合も多い。

古くからインドと交流があった中国では、占星術も政治のひとつの手段として優れたものが育っていき、中国では五行思想が紀元前から認識されていた。

西洋でも、五行ではないがそれに似た自然界の原則は研究され、のちの重要な化学の研究の元となった、錬金術の研究にも活用されることになった。

本題に戻るが、筆者の誕生日によるこの六星図は、本体(日柱)を水(筆者は水星人) とし、残りの5個は 火 火 土 土 木 となる。

水星人である筆者から見ると、水を中心と見た残りの5つは、水火が2個、土水が2個、水木が1個となる。

できれば五行(土・金・水・木・火)が全て1つずつのような、均等なものが望ましいといえるが、実際はそこが平均的な人よりも、偏っている人の方が大半と思われる。

筆者の場合も相克が4個に、相生が1個という、均等的ではない六星図といえ、こういう所が性分に出てくる所なのである。

この六星図の、十分といえるような説明というものを筆者は今まで見たことがないため、ここでこの意味を説明しておきたい。

筆者の星についてはいったん置いておき、この六星図の意味自体はまず、それぞれにその星をもっているその意味というのは、基本は4つ、厳密にはもう1つの計5つの意味がある。

相生の、① 支える側 と ② 支えられる側 の、2つの意味

相克の ③ 抑える側 と ④ 抑えられる側 の、2つの意味

もう1つは、⑤ 本体(日柱)と同じ星がいくつあるかという1つの意味の、この計5つになる。

これは

① 価値を人に与える関心能力  ② 価値を自身で得る関心能力

③ 教義を人に教える関心能力  ④ 教義を自身で学ぶ関心能力

⑤ 自身を格上げする関心能力

のことになる。

複式帳簿でいう所の、相生は貸方的(道義価値的・目に見えるつじつま的)相克は借方的(教義的・原因究明的・目的教義的)な関係に相当しているともいえる。

基本の四柱(①~④)の、その場所にその星が1つもなければ、その者はそれについては全く才覚のない、無自力的といえる弱点的な所だということを、できるだけ自覚しておいた方が良い所になる。(意味を順述)

しかしそこに1個でもあれば、それについてはかなりの対応力があるといえ、2個以上あると「1を受けて10を察知する」ほどの特性にもなり得るといえる。

しかしいずれにしても、ここを自身で整理することを人と妨害し合いながら怠け合ってばかりいては、せっかくのその持ち味が伸びることもなく、中途半端にしか活かされないままになる。

筆者は、③ 教義を人に教える関心能力 が2個もあり④ 教義を自身で学ぶ関心能力 も2個もあり、また ① の価値を人に与える関心力1個もっている。(これが本体を除いた計5個の星)

筆者は、相生1個相克4個という関係では偏っているが、4原則(四柱)の全体でいうと ① と ③ と ④ の3面 をもっているため、全体としてはそんなに偏ってはいないといえる。(2面しかない、もっと偏った人もいる)

まずは筆者が ② 価値を自身で得る関心能力 と ⑤ 自身を格上げする関心能力 がない所のみを見て、この2点のことだけで「それに関する人の気持ちが、お前にはワカランノカ!?」などと迫ってくる手合いが多い。

ここを完全自覚している筆者と、ここを全く自覚できていない手合いとで、もうその時点で言論対決において既に大差があるといえる。

注意点について色々と順述していきたいが、この「近世日本の身分制社会」を書き始めている時点で最初からここを完全自覚していた筆者からいわせれば「筆者はその分野の星はもっていないため、その星をもっている者にそれをいうべき」というだけの話なのである。

以前に紹介した自評自動の原則(大事なことまで安易な自評他動・他評自動でやろうとしてはならない)も、筆者が今まで説明し続けてきた等族義務の原則も、これと連動したものになっている。

この話はもっと早く説明したい所だったが、まず十分に史学性を示しておいた上でこの説明に入った方がより説得力があると思ったことと、この「近世日本の身分制社会」がこんなに長引くとは思わなかったこともあり、後回しになってしまった。

この記事を書き始めた前半では今まで、遠回しに筆者に対して、反感的なことをいっていた者はチラホラと数人は見られた。

もし誰かが直接対決を挑んできた相手が「ただごねるばかりの、どうしようもない解らず屋」だったなら「まず自身の六星図の自己言論統制(自己等族統制)ができてから、人にモノを言え!」の原則で叩きのめしてやる準備高を以って構えていたが、しかし誰も直接対決は挑んでこなかったため、急いでこの話を書く必要もなかった。

やたらと偉そうにケンカ腰になりたがる手合いというのは、自身の六星図の自己言論統制ができている筆者からいわせば、これがそもそもできていない者同士のただうちのめし合い、従わせ合いが、適正性の示し合いになる訳がないという論拠なのである。

この4原則(四柱の等族義務)をまず完全自覚(自己統制)できている筆者に対し、自身のそれができていない未熟者が、筆者に対して偉そうにケンカ腰に挑もうとすること自体、既に釈迦に説法という構図なのである。

本記事を書き進めている最初の方では、多くの反発を受けて直接対決を挑んでくる者もいくらか出てくると思っていたが、あまりの知名度の低さのせいか、誰からも直接対決の挑戦は受けたことがないのは、筆者としても残念な所になる。

筆者がそういう所に平然としていられるのも、② 価値を自身で得る関心能力 の星をもっていないことと、⑤ 自身を格上げする関心能力 の星をもっていないことが、それが筆者の性分だと完全自覚できているからで、ここはやせ我慢でもなんでもない所になる。(順述)

この六星図(六星五行四柱)のことで、気をつけなければならないことを、色々と説明していく。

まずこの六星図は、価値のことと教義のことをむやみに混同してはならず、さらにはそれを与え授ける場合受け得る場合の行動理念も、むやみに混同してはならないことを教えてくれている。(四柱)

自評自動の件で少し触れた動と動でいったん整理しなければならない」といった理由も、これである。

先の意味をもう少し状況的な表現をすると

① 与価与動  ② 受価受動

③ 与教与動  ④ 受教受動

⑤ 自己格上げ

という、基本の4原則(四柱の等族義務)の見方ができるようになると、当事者本人にとっての状況の把握と、当事者本人にとっての今後どうすればいいのかの認識力・把握力も、どんどん高まっていくはずである。

この「当事者本人にとっての」という客観的・等族議会的、つまり当事者本人にとっての身分統制(その者にとっての今の身の程の立場確認)になっているのかの部分こそが、大事な所になる。

物事ひとつひとつのことは、この4つの内のいずれの、どの部分までがどの範囲まで該当するのか、当事者本人にとってのその構図に落とし込ませて物事を整理させる方向にもっていくことは、指導・指摘したい側であるならなお、特にそう仕向けてやらないといけないのである。(等族義務)

できもしない性善説をできもしない性善説だと自覚されずに、延々とそれを繰り返そうとする者が多いように、当事者本人に本当に合っているのかどうかも解らないような勝ち負けや条件の押し付け合いからくる失敗や失言を、面倒がりながら偉そうに何度もしつこく繰り返そうとする者というのはまず、その者にとってのこの原則に物事を落とし込ませることが一向にされないためといえる。

自身のことを自身でしておくべき、この最低限の手本礼儀(状況回収・四柱の等族義務への落とし込み)を、本人にとって結局できていないままであることが、悪癖(できもしない性善説)が悪癖(できもしない性善説)だと自覚されずに繰り返される原因なのである。

当事者本人にとっての状況把握(状況回収・四柱の等族義務への落とし込み)になっていない指摘の仕方は、その者にとってのできもしない性善説をただ押し付け合っているだけである。

本当に相手(次代たち)のため、法(国家構想・国際人道観)のためだというのなら、自他の傾向を面倒がらずに冷静に慎重に丁寧に状況回収し合い、その者にとっての4原則(四柱の等族義務)に落とし込ませていく地道な姿勢こそが、自他や現場にとっての改善の秘訣なのである。

その者の生い立ちの環境も違えば、さらにはこの星(六星五行四柱)が違う時点で、その感受性も全く違ってきて当然なのである。

 

自身の六星図を中途半端にしか自己統制できていない者同士が、その中途半端なものをただ押し付け合うだけで、うまくいく訳がない。

筆者が劣悪態度に対し、民権言論の自由原則的に

 

 「劣悪態度で向かってくる手合いこそ、自身の力で相手の天狗の鼻をへし折り、その最後の砦の弱みを遠慮なく踏みにじってやればよい!」

 

といってきた意味も、この

 

 「そもそも自身の最低限の手本礼儀である、自己言動統制(自身にとっての六星五行四柱の落とし込み=体現体礼)もできていない分際(偽善者)めが!」

 

なのである。

筆者にはない、本体の星をもう1個以上もつ ⑤ 自身の格上げの星 をもっている者は一見有利に見えるが、逆にいえば4原則(四柱の等族義務)への関心がその分だけ減ることになるため、自己完結的な性分になる傾向も強まることになる。

⑤ 格上げの星 を2つもっている(最大で2つ、同星計3つが最大らしい)者というのは、仮にどれだけ権威を身につけようが、いくら人生経験が豊富だろうが、教義史(裁判権史・国際人道史)に強い関心をもっている筆者ともし教義対決をしたら、よほどの準備でも整えない限りまず勝てない。(環境や努力にもよるため、その星だけで皆が成功者や著名人になれるという意味ではない)

その者も教義のことに関心をもっていたとしても、格上げの星がある分だけ自己完結的な性分になるため、それをもたないことを完全自覚できている筆者との教義対決に勝つこともその分だけ難しくなる。

格上げの星をもっている者というのは、4原則(四柱)の星がその分減る者となる、つまりそれだけ自己完結したがる性分をもっている可能性が高い者なのである。(個人差はもちろんある)

格上げの星(自己完結の性分)をもっている者が、それがない筆者に対してやたらと偉そうにケンカ腰に教義対決(人間性・社会性=国際人道観を巡る言論対決)を挑もうとするその無計画行為自体が、

 

 筆者を相手にする意味が、その者にとって「自己完結」がいつまでもできない苦痛で仕方がなくなる意味

 

が最初から理解できていないのと同じなのである。

その完結を巡る都合にしても

 自己責任的(自力信仰的)・完結的・道義的・人文的・男脳的・価値観争い的(共感的)・不都合的完結(威嚇・挑発)

 全体責任的(他力信仰的)・継続的・教義的・啓蒙的・女脳的・教義競争的(原因究明的・等族法的)・主体都合的継続(確認・尊重)

の区別がつけられていない側が悪いという、その形が採れているのか、採れていないのかの差なのである。

どこまでをどちらの範囲としていっているのか、それを自身で区別できてもいない、ただ人任せ・数任せ・外圧任せに頼り切っているに過ぎないものをやたらと偉そうにもち込んで、手当たり次第に軽々しく怒りをぶつけ合うべきではない。

筆者としては、そういう劣悪態度さえなければ、ただ相手が自身と違う星をもっているというだけや、ただ何かを批判しているというだけでは、こちらもいきなりケンカ腰になる無礼を働く気はない。(ただし公的教義に対しては、便宜上別である)

厄介そうな話ほど、この4原則(当事者本人にとっての四柱の等族統制)で落とし込む意識で普段から見ていけば、相手やその集まりについての傾向の、本人にとってと、相手にとってとの、互いの認識力・対応力も、段々と伸ばすこともできるようになる。

相手がどんな星(六星図)をもっているかよりも、まずは自身がどんな星(六星図)をもっているかは自身のこととして、できるだけ知っておいた方がよいということを、筆者は強く推奨しておく。

自身の星に合った4原則(自身にとっての四柱の等族統制)を、可能な範囲でまずは自身のことを自己統一させていくことから始めていけば、他者がどんな星なのかは解らなくても、自身のその体現体礼の力から、状況の認識力や対応力も今までよりも、有利にしていけるというよりも「今まで不利だった所を改善」していけるはずである。

この話に興味をもった人は、六星五行四柱(六星図やそのいい方はされていない)が誕生日から算出できる、六星占星術四柱推命といった関係の書籍を探して、それで自身や気になった周囲について一度、確認してみるのが良いだろう。

本を探すことは確かに手間かも知れないし、また本を見ながら誕生日から六星図を算出するのを自分でやろうとすると、その手間も20分~30分くらいはかかるかも知れないが、一生のことと考えれば大した労力でもないはずである。

大抵の書籍は、この肝心な六星図の具体的な意味についてはほとんど書かれておらず、その他の説明ばかりしているため、六星図さえ解ればそんなに熱心に読まなくても、後は筆者のいっていることに照らし合わせるだけでも十分である。

こうした占星術は、他にも色々な種類のものがあるため、興味のある人はもちろん個々で研究的に見ていこうとすることも、もちろん大事なことになる。

注意点としてまず筆者を例にすると、筆者は相克側の ③ 与教与動 と ④ 受教受動 を両方とももっているから、こちらは何も問題なく、後は自身でこれをよく自覚できていれば、そのまま相克側の得意を伸ばしていくことができる。

筆者の場合のように、相生側で ① 与価与動 はもっているが、 ② 受価受動 はもっていない、このように片方が欠けている状態については注意が必要である。

これは相克側でも同じことがいえるが、片方は1つ以上もっているが、片方は1つももっていない場合の人は、特にその意味に注意する必要がある。

まず、四柱(①~④)のどの場所においても「その人には、その星がない場合の注意点」としては

 

 その星をもっていない者が、そのことに自力で一生懸命になろうとしてはいけない

 

 その星をもっていない相手に、そのことに自力で一生懸命にさせようとしてはならない

 

 その星をもっていない人に、うちのめすためだけに、その星をもっている人と比べさせようとしてはならない

 

のが大事な所で、そこにその星がある者とない者との、その感受性自体も、そもそも大いに違ってくることも対処の心得としてかなり大事な所になる。

つまり、その星がない者に対して「他の者はできているのに、なんでお前はできないんだ!」とただ怒鳴りつけているだけのような何の工夫もないやり方は、その者にとってできもしない性善説をただ押し付けているのと同じ、すなわちその者にとっての本来の六星図(人生図・六星五行四柱)

 

 破壊しようとしているのと同じ

 

なのである。

自分ができている・自分が知っている性善説(威嚇・挑発)ではなく、その者にとっての原因究明の確認(尊重)になるような姿勢・対応でなければ、ならないのである。

推奨と強制の違いについても、よく注意しなければならない所である。

 「もしこういう状態にもっていきたいなら、自力でこういう所まではできなければならない」

 

 「どうも、本人ではそこまでできそうにないと思うなら、本人にできそうな範囲までにしておく」

 

という、冷静さ慎重さ丁寧さのある、許容的な案内の仕方なら問題はない。

また、その星をもっていない者同士のやり口(共有認識)で、その現場が成立しているに過ぎないことに、逆にその星をもっている者や現場に向かって「皆がそうなんだから、お前らもそれに合わせろよ!」とやたらと偉そうに大口を叩き合うのも、同じく互いの六星図(人生図)を破壊しようとしているのと同じなのである。(当事者性の等族統制)

筆者の例でいうと ① 与価与動 はもっているが ② 受価受動 はもっていないため、それについてはできるだけ「自力で一生懸命になろうとしてはいけない」し、できるだけ「その星をもっている者と一生懸命に比較しようとしてはならない」のである。

では、どうすれば良いのかだが、その星がないことについては、自身の選択責任をもって、そのことは人に「委任」するのが最も良いといえる。

ここで気をつけなければならないのが、「委任」した以上は、もはやどのような扱いをされても、できるだけ一切の不満も言わないくらいの覚悟で「委任」するべきという所になる。

つまり、その星がないからそのことを人に委任せざるを得ないという、その身の程の覚悟ももてずに、委任先に扱いや待遇にやたらと偉そうに不満ばかりいおうとするその劣悪態度こそが、迷惑千万な身の程知らずの人任せ・数任せ・外圧まかせ行為なのである。

その星がない以上は、自力で一生懸命になろうとするのではなく、潔く人に「委任」し、その選択責任も当然のこととして本人がもつべきなのである。

相克側(教義性側)においては、その「委任」の部分を「出典委任」に置き換えると良い。

こちらも、人生観の全責任をその出典(いい加減な情報や、いい加減な肩書きなど)のせいに丸投げにしたり、自身の信念として大して導入できている訳でもないはずの出典(情報)をさも熟知し、さも自己の実力であるかのように振舞おうとするから、後で信用事故が起き、失望し合う関係になり下がっていくのである。

その星をもっていない者に、その星をもっている者と安直に比べ合わせようとしてはならないし、それをしようとしている者がいたら止めさせなければならない。(等族義務)

道義関係(契約主従的・義理的関係)も、可能な範囲でそこを許容し合ってもやっていけそうな範囲で、できるだけ結んでいくことが望ましい。

その星をもっていない者でも「こういう形までもっていきたいなら」「やってみてできそうにないなら、できる所まででやめておいた方が無難」という、当事者性ある冷静さ慎重さ丁寧さの案内の仕方であるなら、何の問題もない。

筆者を例にするとさらに ⑤ 自身の格上げの星 ももっていない。

だから筆者の本質(六星図)というのは、沢山の利益を得ている者や、出世街道を登っている者と比べられて挑発されても「ほほう。そうか」や「だから何なのだ」と、そこに常に冷静で慎重で丁寧な態度でいることが、筆者にとっての最適な態度なのである。

 それは自分が作った道義(権力や価値)ではない

 

 その道義(権力や価値)の利権や決定権をもっている者、それに便乗している者が、そう決めているに過ぎないこと

 

 その道義関係を自分はもってもおらず、またそのことに関心をもって調査・分析をしている訳でもない

 

という決別の仕方で、道義上のことも最悪は「そんなにこちらのことを許容できないなら、そちらが関係を絶つようにすれば良いだけのことだ」という覚悟さえもっておけば良いのである。(筆者の場合)

つまり筆者は、そこにひがむこと、置いていかれることといった競争発想自体が、自身の六星図(人生図)通りでは全くないことを完全自覚(自己の六星図の自己等族統制)しているから、少なくとも自身の言論統制上で平然としていられるのである。

筆者からいわせれば、自身の六星図の自己言動統制の最低限できていない未熟者が、やたらと偉そうにケンカ腰で向かってくること自体が、ただ自分に甘く人に厳しいだけの身の程知らずの劣悪態度とし、天狗の鼻のへし折り認定なのである。

 

そういう姿勢を最低限の手本礼儀としている筆者のまとめ記事は、組織理念的な損得の話は書かれていても、それを面倒がる利己完結的な 受価受動 と 自己格上げ のための一過的な損得の話などは全く書かれていないため、人気がないのも自然といえる。
 

適正性(その者にとっての六星五行四柱)を何も考えずに、できもしない性善説的完結論で無神経(無計画)に挑発し合おうするから、口ほどにもない公的教義と大差ない無能(偽善者)どもが調子に乗り始め、当事者ごとの本来の六星図(人生図)の破壊し合いが始まるのである。(六星五行四柱の乱れ)
 

その星をもっていない者に対しては「自分にはそれに関する力はなく、自分にとっては難しいと思っているからこそ、出典・委任に依拠している」という身の程の態度を通させるべきで、特に劣悪態度でも道義関係でもない先に対し、踏み台にするためだけに調子に乗って威嚇(挑発)し合うべきではない。(等族義務)

与動側の星がない者と、受動側の星がない者との感受性は全く違うことも、要注意である。

 

まず、相生にしても相克にしても

 与評与動は無星 受評受動は有星

と、その逆の

 与評与動は有星 受評受動は無星

の場合とで、そもそも感受性が全く違ってくる。

 

さらには、このように片側しかもち合わせていない者の方が、両側をもち合わせている者よりもかなり多いという所にも、要注意である。

それは筆者の例のように、相克側両方とも有星だったとしても、相生側片方は無星である以上は、その傾向も強まる。

特に前者の 与動は無星 受動は有星 の場合の者は、知った気・解った気に大いに勘違いし、勢い任せに調子に乗り出す図々しさばかりの悪癖がつきがちな六星図になる。

もちろん自身の六星五行四柱の完全自覚(自己等族統制)ができている者同士の関係になれば、最終的にはどの者がどんな星であっても何の問題もなくなるはずだが、この原則がそもそも浸透していない時点で、その状態を作ることも難しい。

 

そのため、片方が、または両者共にそれが全くできていない前提での厳しめな話をしていくが、これは先に説明した「その星をもっていない者をうちのめそうとするのを、最もしたがる者をやめさせる」目的からになる。(順述)

特に筆者が疑いの目で見ている、その問題児扱いの未熟者(劣悪態度)の対象者として

 相生 与価与動 無星  受価受動 有星

 相克 与教与動 無星  受教受動 有星

 自己格上げ 有星

この形が疑わしい、またこの性質の真似ばかりしようとする問題児どもを、タチが悪い引き合い例として説明していく。

 

織田信長も、この六星五行四柱の原則を知っていたのかどうかは不明だが、女脳的・体感的にこの性質で劣悪態度が際立った未熟者を士分(公務待遇)失格と見て、どんどん格下げしていたのではないかと筆者は見ている。

今一度、自身で完全自覚している筆者の六星図とは

 

 相生 与価与動 有星  受価受動 無星

 相克 与教与動 有星  受教受動 有星

 自己格上げ 無星

になり、一見は相生相克との対立的な所が重要であるかのように見えがちだが、対人関係においてはどちらかというと、与動受動の関係の方が重要になる。

 

この構図からだけでも、一致する所が少ないほど感受性もかみ合わなくなってくるため、互いにこれを完全自覚させるか、もしくはできもしないうわべの性善説的な足並みの揃え方でもしない限りは、統制も難しいのも当然となる。

 

こういう問題児型の手合いには、いくらでもうちのめしてやっても構わない理由と、またそれをしてはならないその他との違いについても、順述していく。

 

まずこの問題児型は、全体が困るということなど何も考えずに目先の受けられる損得ばかりで人ごとに態度をやたら変え、そこ指導・指摘されても一向にその深刻さを受け止めようとしない完全利己型の無能(偽善者)が多い。

その悪癖を自分で改めようとしないことが、自身の情報連絡処理に支障が出てきていることを、最も自覚しようとしない手合いである。

 

つまり同じ状況や似た状況を、目先の損得だけで大違いと伝えたり、全く違う状況を目先の損得だけで全く同じと伝えてしまう、その悪癖を一向に改めようとしないために、人に負担と迷惑をかけ合うことにも延々と無神経なまま「自分に降りかかることにさえならなければ良い」だけで同じ信用事故と失望のし合いを何度も繰り返させようとする手合いが多い。

 

しかも「行き着く所は人類は永遠に絶対に、そういう考えしかしないはずで、お前も結局はそうなんだろ!嘘をつくな!」という、ただ下品で汚らしい中世の閉鎖有徳どもと大差ない、全宇宙的劣情統制論のオマケつきである。
 

この問題児型は利己的な要領だけは良く、やたらとうわべの肩書のためだけの正義感ばかり出したがるため、最初だけは便利な共用もしやすい者も多いため、それが落とし穴になりがちになる。

信用し過ぎて油断していると、気付いた時には、見えない所でどうにもならないくらいの怠け癖の手抜きが横行していたり、見えない所での無用な縛り付けばかり横行させていて、気づいた時にはもう取り返しがつかなくなるほどの状況を作ってしまっていることも多い。

 

この問題児は、勢いの力強さの短期的な結束こそ得意だが、乱れるのも一瞬である。

 

とやかくうるさく騒ぎ合う劣情統制の手口こそを、自身の存在感を最も保とうとする手段としたがる小心者が、とにかく多い。

 

だから、つい昨日まで「その正しさとやらに、今まであんなに狂信的になって散々騒いでいた」はずのことも、それが価値として通用しなくなった途端に、自分は最初からそんなものは知らなかったかのように、まるで記憶喪失者のように何の反省もせずにあっという間に放棄し始める。

 

つまり、勢いがなくなった途端に、今までただの機械標識としてしか扱っていなかったその口ほどにもない正しさの化けの皮も剥がれ、何ら踏みとどまろうともせずに総崩れに任すがままに「我先に助かりたい」と一斉に散るのみなのである。

 

戦国後期の組織力(国際軍事裁判権=品性規律・名目・誓願)も、そういう所に大差がついていったのである。

 

筆者が、よその騒ぎに「わざわざその低次元・低知能な連中に合わせて一緒になって騒ぐのは、無能(偽善者)の劣情統制の手口にまんまと乗せられながらエサを与えるようなものだ」といっていたのも、こういう所である。

 

自身で確認(尊重)できているものがない、そこを面倒がりながら今まで人任せ・数任せ・外圧任せに偉そうにうちのめし合い従わせ合ってきただけの公的教義と大差ない分際(偽善者)が、自身が不都合になった時のみ「自分のことを尊重せよ」といい始める、自身のその矛盾も自己解決できたこともない、人に対して一切それを自分から進んでやってこなかった、そこに真剣に向き合う姿勢などこれからもない手合いなど、思いやる必要などないはずなのである。

 

この問題児型の常套手段というのは

 

 ① 自身の落ち度が発覚しそうになるのを隠蔽したい場合

 ② 自身の言い分をどうしても通したい場合

典型的な手口として、大騒ぎしながら手当たり次第に非難を始め、騒ぎ(話)をできるだけ拡大・拡散させることで、自身の落ち度をうやむやにしながら自身の思い通りの話にもっていこうと、その劣情統制の手口に注意をそらしながら目的を達成しようとするやり方こそが、この問題児型の常套手段なのである。

 

その騒ぎに、他者にも加熱的になるような口出し手出しをさせるよう仕向け、それを劣情同調に利用して騒ぎを大きくすることしか考えていない、だから低次元・低知能な相手と同次元になるようなその手口に安易に乗ってはならないと、筆者は念押ししているのである。

それが通用しないと思わない内、つまりその実態を完全に見抜かれるまでは騒ぐことをやめようとしない、大半は公的教義のようなただの丸覚えの猿知恵を並べることしか能がない分際(偽善者)に過ぎない、だからそれを本当にやめさせたいのであれば、それは通用しないことを誰かが徹底的にガツンと恫喝(説教)してやらなければならない。

 

「完全に実態が暴かれてしまった」という、完璧といえるほどの決定打を与えない限りは、それが通用すると思い続けている内は、人間関係面でひたすらその手口で調子に乗り続けようとする。

 

その実態が完全に暴かれてしまうまでは、筆者にはお見通しの小賢しい猿知恵を得意げに無神経に並べながら「自分の方が格上」だと図々しく、延々と言い張り続けようとする。

もし大変な想いをしながらその実態を暴いてやったとしても、この問題児は相手に苦労させたことなど微塵も配慮せず、そこではただ通用しなくなったという「邪魔された」という見方のみしかせず、むしろ逆に、ますます人を失望させる反撃をしたがる手合いなのである。

 

そこではその手口は通用しなくなってしまったという標識的な認識のみで、自身の実態が知られていない他の所、つまり場所を変えて全く同じ手口を延々と繰り返そうとする、とにかくそういう口ほどにもない手合いが多いのである。

 

つまりこの問題児型の星をもつ者の多くは、人間性面では本気で相手にする価値などないことは、その本人にとってもそれが性分で、まさに道義上の関係のみで良い、人間性・社会性のことで関わろうとすると最も人を失望させ合う天性の性分をもった問題児なのである。

 

そういう手合いかも知れないからこそ、筆者は指導・指摘する価値があるのかどうかも怪しいような、人を失望させ合う天才児(偽善者)に対し冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方も無しにイチイチ本気になって怒った所で、ただ疲れるだけでなく、人間性面での期待を大いに裏切られて逆に人間不信に陥り、自身の精神までも歪ませてしまうという意味で、だから安直な手出し口出しはしてはならないと、喚起しているのである。

 

この問題児型に対してなぜ、手厳しい言い方をしても問題ないかというと、そもそも相生と相克の両方の受動の星をもっている者とは、最も解った気に勘違いして最も図々しくなりがちで、「自分が図々しいから皆も図々しくなればいい」無神経な態度を出す手合いが特に多いためである。

 

そもそも人を失望させ混乱させ疲弊させていきながら、その合間に自身を有利にしていくその手口こそが、この問題児型にとっての競争指標(性分)で、その口ほどにもない猿知恵こそがこの問題児型どもにとっての「頭の良い正しさ」なのだから、だからその劣悪態度をいくらでも叩きのめしてやっても何の問題ないのである。(等族義務)

 

この問題児型の手合いの多くは、健康面や、完全な自己の大失敗や大不運などでなければ、精神的にヘコんで自殺を考えるようなことなどまずない図々しさの性分をもち合わせている小心者が大半だから、その面でいくらでも叩きのめしてやっても良い。

 

一方で、相生と相克のいずれかの受動の星をもたない者こそ、その問題児型の真似ばかりしようとする甘言手口に乗ってはならない。

 

片方の受動をもっていない者が、両方の受動をもっているこの問題児型との歩調を合わせようとすることは、その問題児型はその受動の星をもっていないことの足元ばかり見て踏み台にして、少しでも気に入らなければ用済みになった時に使い捨てするような見方しかしないためである。

 

受動の星のない者に、無神経に比較させて悲観させようとするのは、その者をただ侮辱しながら精神病に追い込み、また間違えれば犯罪者に育て上げようとしている、極めて危険な行為ともいえるのである。(そういう人間が増えることこそが、この問題児型にとって最も望ましい手口=その者の六星五行四柱の壊し屋)

受動の星がない者の扱いを周囲が気をつけないと、それを見た周囲が勘違いして、皆が格下扱いし始めて大いに調子に乗り出し、その者を一生懸命に踏み台にして、散々利用するだけ利用するという環境が、あっという間に作られてしまいがちになる。

受動の星がない者は、受動の基準を委任型にせざるを得ないために、本人でそこを調整できないことも多いから、周囲がそこに気付いてある程度は調整してやらないといけない場合が多い。

ただし受動のない者も、周囲によってその立場や待遇を得られていることを、さも自身の実力で勝ち取ったかのような態度を少しでも出すと、周囲をかなり失望させたり、かなり嫌われたりするため要注意である。(その調整も自分でしにくい性分のため)

こちらは最初は使い勝手がかなり悪かったとしても、問題児型の甘言が蔓延している間柄ではなければ、言い聞かせれば体制的にちゃんと覚えていくため、扱い方を間違えなければ安心して育てられる人材も多いはずである。

しかしそれを扱う側や周囲が面倒がって、ただ踏み台にするだけして、用済みのごとく手切れする前提のやり方しか繰り返されなければ、それ以上のその展望性や組織理念も育つこともない。

受動の星がない者は、問題児型の甘言が蔓延さえしていなければ、勢い任せではない分の組織理念的な見込みはあり、崩れそうになった危ない場合でもある程度は踏みとどまって支えようとする責任感をもつ者も多い。

もちろん、ただの友人関係とかなら、相手が問題児型であろうが、そんなに気にしなくてもいい場合も多いが、人生設計的、組織理念的な話になってくる場合はかなり要注意である。

受価受動と受教受動の両方をもつ六星図をもっている者は、世の中の真髄を熟知したかのように最も錯覚しやすく、やたらと猿知恵(世の中の正しさ)を並べたがる気の小さい未熟者の自信家になり下がってしまう場合が多いため、気を付けた方が良い。

 

筆者に対して、やたらと偉そうにケンカ腰になろうとする身の程知らずの無能(偽善者)とは、まずは両方の受動をもっている手合い、そしてその甘言手口(劣情統制)にまんまと乗せられている予備軍の手合いといえる。

 

人を失望・混乱・疲弊させ合いながら自身の有利にしていくという、未熟者の典型的な猿知恵の劣悪態度の手口で向かってきたなら、筆者にはそんなものは一切通用しないことを、徹底的にその天狗の鼻をへし折ってやり、猿知恵(できもしない性善説)は猿知恵(できもしない性善説)だと、そこを徹底的に踏みにじってやるのみである。

 

筆者は聖人を気取っているのではなく、ただ自身の六星五行四柱に沿って自己等族統制・自己言論統制したというだけの、そこに関心さえもてれば、やろうと思えば誰でもできるような話なのである。

 

筆者は水星人であるため、筆者のいっていることに、やりにくくて仕方がないと感じる人は、本体(日柱)が火星人か土星人である可能性が高い。

 

また筆者のいっていることに、不満に思いつつも納得できる所があったり運命的に思ったりしている人は、金星人や水星人や木星人である可能性が高い。(もしくは六星図が近い)

 

恋人や結婚相手の選ぶことは、ある程度は本人でなんとかできるが、その間に生まれてくる子はどうにもできない。

 

子が親に対して少々乱暴に見える構図というのは、例えば木の親に対して火や金の子が生まれてくる場合も当然のようにあるため、ある程度は許容してやらなければならない。

 

夫婦はできれば同星か相生の関係が良いものの、本体(日柱)では相性は良くても六星図側では全くかみ合わない場合もあるため、どちらを優先するかも、難しい所になる。

 

また夫婦が相克の関係、例えば水と火が結婚しても、間に木が生まれると、その家庭の調和は保たれやすいが、木ではなく金が生まれてくるとかなり厄介な家族関係になりやすい。

 

例えば両親ともに水で、間に木の子が生まれてくると、その木の子はかなり恵まれ、道の踏み間違えもしっかり指導されながらの、その子に合った有利な育成を受けられる場合も多い。

 

逆に親が水で、火の子が生まれてしまった場合は、親がそこを気を付けなければならない。

 

例えば水の夫と木の妻の間に土の子が生まれてしまった場合、水の上に立つ木の妻は勢い任せに土の子に、虐待の領域までやってしまう危険性もあり、土の子は父の水に対して「なんで助けてくれないんだ」という最悪の関係に陥りがちになる。

 

親は人生の先輩であるため、子の親不幸をやめさせることも大人側の努力次第だと話は片付けられるが、人生の後輩である子供側は、その子に合った観念が一切与えられずに無自覚に一方的に徹底的にうちのめされ続ける、その歪んだ構図を大人側が一切気づこうとしない以上は、どうすることもできない。

 

子だけでない、対人との相関図についてもそういう所を心得ていないと、相生と相克の両面で有利になり過ぎる構図は、勢いがつき過ぎてしまって周りが見えなくなる、いいなり体制(イエスマン体制)が無自覚に作られてしまう欠点もあるため、難しい所なのである。


相生で受動側に立ち、相克で与動側に立ってしまうと、特に後者は相手のことがバカに見えてあなどり、礼を欠きがちになるため、その構図に調子に乗ってばかりいると、その内に大いに失望させる事態を招く原因になる。

 

六星五行四柱の自己等族統制の話は、まずは自己問題としての取り組みになるため、そちらについてはいくら熱心になっても何の問題もないが、それもなしにこちらの五行の対人構図に頼ってばかりいると怠け癖ばかりついて、それに頼れなくなった時に結局困るの本人であるため、そこに注意が必要である。

 

偏るのは仕方がないにしても、陥りがちなのが例えば、水星人が水星人や金星人ばかり集めてしまい、それが閉鎖的な考えで凝り固まってしまうことは、逆に五行の乱れを及ぼしてしまう、という所になる。

 

そのため、本人が相生として支えてもらう側 相克として責め立てる側に立つ ということを優先するのではなく、自分から相生として支える側に立つことを優先した方が、実はうまくいく関係が作れる。

 

水星人である筆者は、自身の六星五行四柱を完全自覚(自己等族統制)できているため、相手が土星人だろうが教義面で劣悪態度に出てくるなら徹底的に叩きのめしてやれるが、多くの場合はなかなかそれも難しい。

 

そのため、本人が水だった場合は、土を相手にする場合は調子が狂って責め立てられやすい関係になることが多いため、だから木を支えることで、乱暴に見える場合の土を、その木の力で抑えさせるのも手なのである。

 

水から見て、つまり支えてもらうことばかり気にして金に頼るよりも、自身が木を支える側に積極的に立とうとすることの方が、結果的に自身の身を守る手段にもできるというのが、この五行図の特徴でもある。

 

ただし学び合う関係が軽視された、利己的な頼り合いの関係ばかり強めてしまうと、その者は後になって、少しでも今までの意図通りにならないだけで「裏切者!」とか言い出し始めるため、注意である。

 

気づいた時には、こちらが支えてやらないと何もできなくなってしまっている関係ができてしまう場合も多く、逆にお互いのためにならないため、そういう状態に陥るような利己関係は、末永い学び合う維持などをしたい場合なら、できるだけ避けたい所になる。

 

これから本能寺の変について触れていく上で、この六星五行四柱の話はあまり触れないが、当時の教義競争の時代にあって、織田信長が足利義昭や公家衆たちの態度の、どういう所に怒っていたのかを知る上の足しになるのではないかと思い、今回紹介することにした。