近世日本の身分制社会(071/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 過酷な第二次戦となった慶長の役と、豊臣秀吉の死去 - 2021/06/16

今回はいよいよ、豊臣秀吉が指令した 1592 年からの文禄・慶長の役(朝鮮出兵・明軍との対決)の話に触れていきたい。

その前に、その戦いに至るまでの状況をざっと整理しておく。

豊臣秀吉は、身分統制令(後期型兵農分離=公務士分と庶民の大幅な区分け)や太閤検地で、日本国内の整備を大幅に進めながら、1592 年までには天下総無事(日本統一)を達成した。

九州制圧戦(島津氏攻略)が決着した 1587 年には、豊臣秀吉は外征を行う予定を諸氏に伝えていたが、実感がない者も多かった。

九州全土の代表格になりかけていた島津義久を従わることに成功した 1587 年は、北陸・東海方面の上杉景勝(かげかつ)と徳川家康も、家格・格式の格下げは無しの公認がされる形で、豊臣政権に正式に従う運びとなった。

この時点で、統一国家を実現したも同然の状態となっていた豊臣政権は、残る関東と東北の諸氏の正式な臣従も、完全に時間の問題となっていた。

1582 年本能寺の変ののち、1583 年に旧織田政権内で代表戦(賤ヶ岳の戦い=織田領内の再統一戦)が行われ、旧織田領の諸氏を羽柴秀吉が従わせることに成功した時点で、既にその流れが見え始めていた。(翌 1584 年に旧織田領外の諸氏を従わせ始める=小牧・長久手の戦い)

1587 年頃には朝廷とも正式に和解し、もはや等族議会制の近世国家を築いたも同然となっていた豊臣秀吉は、明政府(中国)李氏政府(朝鮮)とこれまで交友関係があった対馬の宗氏を外交官に立てて、日本とその三者間との国威・格式の再確認を図った。

等族議会制の整備が果たされ、西洋との文化交流もあって日本はすっかり高次元な強国化がされた事実は、これまでアジアの代表格の国威・格式の踏み台のために日本を著しく格下扱いし続けていた中国大陸側から見ると、不都合でしかなかった。

中世から近世へ移行期において、世界規模の文明交流が本格化し始めた国際意識の強まりの、近世の特徴的な現象だったといえる。

その社会認識の変容は今風に例えると、インターネットがまだ皆に身近な存在ではなかった時代から、インターネットが誰しもに身近な存在になった時代とでの、異種異文化的な多様許容化に人々も少しは関心を向けるようになった違いともいえる。

 

当時の世界交流意識の強まりと、現代(これを記述している2021年現在)に多くの人々がインターネットと隣り合わせになってきた社会現象は、共通している部分も多い。

 

ネットは「便利になった」部分ばかり強調され、もう一方の大事な異種異文化的な対外意識をもつ機会は人任せにされがちだが

 

 今までの自分たちの社会認識のそのどれもが、狭く小さい範囲でしか通用しない低次元な劣情統制(ただの価値観争い・情報操作のいいなり)でしかなかった

 

という実態を認識できる機会だという、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方に努められる者と

 

 今までの正しさ通りになるように、面倒がりながら偉そうに非同胞拒絶(気絶・錯乱・思考停止)するだけの、気の小さい公的教義と大差ない無能(偽善者)

 

との、その優劣選別の始まりの危険信号の部分が、一向に強調されない所になる。

 

その人文性・啓蒙性の意識差つまり主体的・意欲的な活用なのか、それともその活用などない今まで通りの人任せに人のせいにし合う見方しかできないのかの差が、国力に、そして国威・格式に結び付いていったのが、近世以降なのである。

西洋からやってきたキリスト教徒たちの文化交流を通して、具体的に「我々日本人は、世界情勢からこんなに置いていかれていた状態だったのか」と実感するようになったことも、キリスト教に帰依する者が増えた大きな理由だったといえる。

西洋の宣教師たちは、最初だけは日本人のこと「なんだか教義に対しては、それを自分たちで大事に育てていこうという所にあまり熱心でない、人任せに考えている者がどうも多いように見えた」部分だけは、不満だった。

ただしそれも、今までは文化交流の面で遅れをとり、まともな対外意識の観測ができなかったに過ぎなかったことは、西洋人たちもすぐに理解した。

日本人は築城や、橋や治水の工事、都市開発などの土木設計技術に優れ、工芸や鍛冶職人たちの能力も高く、高度な社会を作れる人種だと、西洋人は感心して見ていた。

自分たちで公正な等族議会制(国家戦略)を作り始めていた、それを牽引していた織田信長にしても、職人たちにしても、新技術や新情報をすぐに理解し、熱心に改良して活用してしまう気質には、尊敬しながら見ていた。

キリスト教に理解を示す者も増えたため、西洋人たちも日本のことをすっかり「友好関係を築いていく価値のある、キリスト教徒の良き友」と見ていた。

中世から近世への移行期においては、アジア貿易に進出してきたキリスト教徒たちも同じように、今まで通りに格下扱いしながら、規制的に見ていた。

それに対し日本は、織田信長のおかげで、外国教義までもを寛容に受け入れ、その文化交流を可能とする聖属裁判権改め(教義改め・宗派の保護監視体制)が、16世紀に早くもそれができていたこと自体が、世界的な偉業だったといえる部分である。

 

近年注目されている「西洋人らに連れてこられた、黒人奴隷だったばすのヨーステン(和名は弥助・やすけ)が織田信長に気に入られ」て、家禄こそそれほど高いものではないにしてもそれでも「正式な士分待遇を与えられて家臣扱い」されたことも、今になって世界的に注目され始めている所である。

 

20世紀に入っても、異種異文化への非同胞拒絶や、人種差別からの非同胞拒絶からは、なかなか克服できなかった国々も多かった所を、織田信長は早くもそれすら「教義力次第」と克服させようとする政策を、16世紀に敷こうとしていたのである。

オスマン帝国(イスラム教徒)も、厳しい条件付きではあったが、東方教会(ギリシャ正教)を寛容的に公認しながら、衰退したビザンティン帝国領(ギリシャ正教圏)を代わって支配するようになった例や、チンギスハーンも条件付きで外国宗教を認めるようになり、ユーラシア大陸の東側を広大に支配するようになった例はある。

時代的にも16世紀のオスマン帝国は、それだけでも十分優れていた文化的な偉業だったといえるが、織田信長の場合は「教義力次第」だと外国宗教だろうが全体的に平等化しようとしていたのは、さらにそれらを上回る国際的な偉業だったといえる。

織田信長の教義対策はまさに、16世紀の当時に早くも19世紀の啓蒙主義と同等の多種異文化の多様許容化が実現できていた、一時的だったとはいえ、当時そんなことができていたのは世界的にみても日本だけだったといえる、偉大な部分である。

この偉業の意味を、万事面倒がりながら偉そうに気絶・錯乱・思考停止することしか能がない、今の公的教義のようなただの劣情統制の性癖の塊に過ぎない非国際的な恥知らずともには、一生理解できない部分である。

中世後期までの西方教会(カトリック)圏は、中国からも大した教義力などないと見なされ、それよりも格上の強国と見なしていたロシア帝国(ロシア正教)オスマン帝国(イスラム教)の動きだけ注視していればいいという考えだった。

インド方面もイスラム教の影響を受けつつも、元々の仏教体制からより新約多様的に強化された優れたヒンドゥー教が育っていき、あなどれない力を見せていたため、そちらの動きも注視されていたと思われる。

中世末期には、ろくでもない教義体制で終焉観ばかり漂わせていた西洋人たちも、帝国議会を中心に「だらしないことこの上ない西方教会(ローマ・カトリック・公的教義体制)の大改革」が行われるようになり、世界情勢の交流面でも大航海時代をきっかけに、今までの遅れを必死に取り戻し始めるようになった。

世界全体がそのような機運が高まっていたのが、中世から近世への移行期であった16世紀だったのである。

16世紀に世界交流の遅れを巻き返す形で、力をつけ始めた西洋人たちと、ついに日本人との文化交流が結び付くようになってしまった。

中国が、西洋人と日本人を、今まで通りの格下扱いをし続ける時代でもなくなってきていた、それがアジアの実態になってきていた転換期だったのが、織田政権と豊臣政権の時代だった。

豊臣政権に「日本列島側と中国大陸側とは、これからは対等な国威・格式の外交関係を望む」といわれた明は、日本を今まで踏み台の格下扱いしにしながら、アジアの代表格の国威・格式を永らく自負し続けてきたその政癖を、簡単に改めることなどできる訳もなく、結局認めようとしなかった。

明は「臣下のはずの日本は、新政権を公認してもらうために、明に朝貢せよ」と、中世の頃と何ら変わらない、今まで通りの親分と子分のような国威・格式関係を維持し続けようとしたため、豊臣秀吉も「今頃になって何を寝言を!」という態度で挑発的になった。

豊臣秀吉は、今までのその外交関係を仕切り直させる目的で、同じく格下扱いされ続けてきた朝鮮半島の李氏政権にも、日本に加勢するよう要請した。

しかし近世の法治国家化に手間取っていた李氏政権はどちらにしても、日本の都合でいってきたその仕切り直し外交に、参加している余裕はなかった。

朝鮮半島としても「日本列島が今まで通り、朝鮮よりも著しい格下扱いであれば良い」という外交関係のままの方が都合が良かった、だから日本の言い分をうやむやにしようとする、明と同じ態度に出た。

中国大陸側、朝鮮半島側との外交関係を悪化させたくなかった宗義智(そうよしとし)は、その相手二者に対して恫喝を強める豊臣秀吉の言い分に困りながら外交を担当していたが、互いの外交官同士の知った仲では、表向きと実態とで当然のこととして話し合われていた。

明政府も李氏政府も、豊臣秀吉の言い分自体は認識していたと思うが、とぼけながら今までの日本の著しい格下扱いの態度を、結局変えようとしなかった。

この問題を放置しておけば、以後も中国大陸側から

 「格下の分際の日本政府は、正式に中国政府から公認も受けていない非国際国家」

 「アジアの海域で日本人たち、琉球人たち、台湾人たち、旧倭寇ら、インドネシア方面の格下同士が、明に断りもなく勝手に貿易するとは何事だ。西洋人も明に断りもなくアジアまで進出しおって」

と一方的に言われ続ける関係を、放置し続けるままとなる。

後になってその貿易関係のことで中国大陸側ともし衝突すれば、その時になって日本が公然と反抗できるようになっていれば良いが、放っておけば後々もっと厄介になり得る話でもある。

 

もちろんアジアの情勢はもはや、そんな状況では無くなってきていたが、今後どうなるか解らない所も多かった。

 

実際に明は、インドネシア方面や台湾方面にまで市場進出してきた西洋人たちに対し、今までの格下感覚で規制をかけるようなかつての力はさすがになくなってきていた。

 

それもとぼけながら、表向きの国威・格式のために認めない態度を、明は出し続けていた。

 

豊臣秀吉としても、アジアまで進出してきた西洋人らや、旧倭寇の海の住人たちの事情にも詳しかった堺衆たちから、そうなってきていた事情を把握していての、強気の姿勢だったと思われる。

豊臣秀吉が強力な国際軍事裁判権を維持できている内に、中国大陸側との国威・格式を示し合いをしておかなければならない、今後の大事な国際問題だったといえる。

「もはやそんな関係は終わった」として示さなければならない、すなわち近世の「等族議会的な法治国家化(強国化)を自分たちは実現できている」ことを、外交で確認し合えない際の具体的な方法が、国際軍事裁判権の示し合いなのである。

明政権は「今までは(中世までは)そういう関係だった」ことのみを引き合いに、これからもその関係を図々しくも続けようとしていた。

相手の劣悪態度の返信のままにしておくことは「格下扱いはやめよと、日本はただ外交上で弱々しく訴えたのみで、結局何もできなかったではないかという外交事実になってしまうのである。
 

だからこそ織田信長のように

 「そのことで文句があるなら、互角かそれ以上の国家構想(組織理念・国際品性規律)を見せよ」教義競争(主体性)の最低限の手本礼儀を以って相手を堂々と恫喝

ということが内外にできているという、その国際的な法治国家の力量を示し合うことが重要になってきたのが、近世の特徴である。

その構図は、西洋最大のスペイン・オーストリア王室(ハプスブルク家)が、制海権・貿易権を独占しながら従わせ続けるために、イギリス(エリザベス1世)とネーデルラント(ホラント州=オランダのオラニエ公ウィレム1世の反抗から始まる。次代のマウリッツも顕著)を著しく格下扱いし続けようとした構図と、類似している所になる。

イギリス・オランダが独立戦争的にスペインに宣戦布告して猛反撃を喰らわせ、これまでスペインが海軍力で一方的に独占し続けてきた制海権・貿易権を奪い始め、スペインの国威・格式を阻害し始めたように、外交で認めないのなら国益のための国威・格式を、国際軍事裁判権の示し合いを以って、国威関係を仕切り直さなければならなかったのが、近世の特徴でもある。

 ただ面倒がりながら偉そうに従わせ合うための、怠け癖の性癖でしかない外圧的な共有認識(できもしない性善説=ただの価値観争い)を、自己償却できたことがない

 すなわち、できもしない性善説(ただの劣情統制)を、できもしない性善説(ただの劣情統制)だと自覚(自立自制)できたことがない

そこに疑問をもって人文的・啓蒙的(等族議会的な状況回収=国際社会的)な最低限の手本礼儀(主体性)を示し合うことなどできたことがない公的教義と大差ない集まりが、その対外意識から危機感をもって改革(教義競争)できている側からの外圧に、まともに抵抗できる訳がないのである。

「所詮は低次元な集まりでしかない」のか、それとも「我々はそんな低次元な集まりではない」のかを互いに明確化し合い、国威・格式に見合った外交関係の線引きを、政治力・外交力・軍事力で示し合っていかなければならない世界の対外認識が強まった時代が、近世なのである。

そんな国際意識が強まっていた中で

 

 相手を散々あなどる格上側

 

 

 相手に散々あなどられる格下側

 

という既成事実としての関係を放置し続けることは、すなわち

 

 そうではないといえる代表(主体性ある意見)を立て、指導を行き渡らせる基本

 

ができていない、そうでない

 

 それができていない、格下扱いされても仕方がないだらしない国体(集まり)

 

だと、相手だけでなく諸外国に認めてしまうのと同じなのである。

現代の国際法(世界交流のあり方)においては、確かに

 

 まずは国際連盟的に協力し合う姿勢の話し合いから始める

 

または

 

 民権運動的な国際意見をまずは整理して、そこをしっかり立てる

 

そのいずれもできていない状態で、いきなり威力的な力関係(自分たちのはずのことまで完全に人任せな共有認識)でケンカ腰にうちのめし、従わせるやり方は、国際的な非難を受けるようになっている。

 

国際人道観ではそうだと世界的に認識されるようになったに過ぎないその実は、外圧(国際非難)という人任せの機械的な標識で気を付けられようになっただけに過ぎない場合も多い。

 

「では自身の周囲も、そういう所から普段から確認(尊重)し合えているのか?」といわれると、皆が人任せ・数任せ・外圧任せでただ面倒がりながら偉そうにうちのめし合い従わせ合っているだけなのが大半である。


自身で異種異文化の多様許容化の最低限の手本礼儀を示し合うことができている個々や集まりなのか、それがどれだけできているのかが、国力・外交力に即座に現れるようになってきたのが、近世なのである。

だからこそ、失望し合う人選や構築の仕方ばかりしてしまい、それで信用事故を招くことのないよう、そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方もできるようになっていくべきなのである。

 ①「国際的な非難を受ける」最低限の基準を先に作っている側

 ②「国際的な非難を受ける」最低限の基準を先に作られてしまった意味を理解し、追いかけている側

 ③「国際的な非難を受ける」最低限の基準の意味を、理解することすら皆で面倒がりながら、その偉そうな外圧で偉そうに打ちのめし合い従わせ合っている側

との差が、等族議会的な状況回収を自分たちで積極的に整備していくことができている格上側と、それがろくにできていない格下側との差なのである。

この「国際的な非難を受ける」の部分を、今の民権言論の自由原則や、起業や商戦企画といった主体性の挑み方のことに置き換えれば、現代でも参考になるはずである。

求める側も求められる側も、どこも最低限の  の敷居で面倒がらずにその大事な部分を普段から確認(尊重)し合えていないのが大半だと、いったん用心して疑って見るべきである。

 の考えのみをただ植え付け合ってきただけの口ほどにもない公的教義と大差ない集まりが急に  の敷居で一致させることなどできる訳がなく、当然のこととして  はもっと簡単ではない。

そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方もしてこれなかった者は ②(確認・尊重) と ③(威嚇・挑発) の違いを区別する知能すら疑わしい手合いなのである。

予定している筆者のオブジェクト指向批判も、まさにそこが基点なのである。

そこに冷静さ慎重さ丁寧さの余裕をもった見方もできていない、その余裕もないはずの者が、人(外)に対して設計論(国際社会性の構築力・国際人道観)をまともに認識・指導できる訳がないのである。

それができている  と  の格上側から見れば

 「自分たちで確認(尊重・状況回収)し合うことを面倒がりながら放棄し合い、全て外圧任せ(人任せ・数任せ)に偉そうに威嚇(挑発)し合うことしかしてこなかったはずのお前たちが、今頃になって一体何を確認(尊重)して欲しいというのだ!」

すなわち、

 大した国際性(主体性・真剣さ)などない言い分は、聞き入れる必要などない格上側



 「なぜ言い分を聞いてもらえないのか」の確認に熱心になろうともせずに、それを延々と面倒がりながら偉そうに人のせいにし合うのみの格下側

の関係にあっという間になってしまう、その法的な実態(国際品性規律・状況回収力)が国力にすぐに現れ、国威・格式に直結するようになったのが、近世なのである。

 

その等族議会的な観点から、認められる者と認められない者とで時代に合った新たな身分統制(公務公共に見合った資格の整理)がされ始めた、その縮図であったのが、戦国後期のその力量比べの総力戦時代だったのである。

 

そうした対外感覚で危機感がもたれるようになり、まずは国内改革(国内再統一)に意識が向けられるようになっていったのが、近世に自覚された等族議会制の法治国家化である。

この原点的な所は「今までどうだったのか」「これからのあり方」を整理するために、現代の個人や組織でも十分に参考にできるはずの部分である。

衰退に向かわせないためにも、何でも人任せ・数任せ・外圧任せに面倒がるのではなく「ここができていない他と違ってウチは、当然のこととしてできているのだ」といえる、その責任者(主体性ある代表意見)のあり方の意識競争の視点で、冷静に慎重に丁寧に確認(尊重)していく姿勢も大事だという点は、今でも共通している部分である。

明が「日本のことをこれからも、今まで通りの格下扱いをし続ける」と返信した意味は「だからといって日本は、一体何ができるというのだ」と返信していたも同然なのである。

互いに「そんな力関係などではないはず」と思うのならなおのこと「では、互いの言い分のどちらの方が、本当の意味で口ほどにもないのか」を白黒はっきりさせなければならない、そこを前提とするようになっていたのが、近世の特徴である。

国際軍事裁判権を見せ付け合いながら両者の条件を確認し合っていき、それで折り合いがつけば「互いにここを尊重し合う和解とし、今後はこの条約で友好関係を維持していく」第一次世界大戦の前身の姿が、近世には早くも見え始めていた。

しかしそういう話にもっていく前から、それこそ片方が調略や威嚇行動だけで簡単に崩れてしまうような、一目置くような抵抗力など何ら見られない、ろくな団結(国際軍事裁判権・国防体制)も確立できないだらしない国体だと見なされてしまえば「そんな低次元な相手の要求に合わていては衰退の原因」だと、著しい格下だと見なされてしまう世界である。

それも含めて、相手や集まりに対して

 「許せん!腹立だしい!」

 「身の程知らずの低次元どもの分際で!」

と強く思う以上は

 「人任せ・数任せ・外圧任せのただの価値観争い(ただの劣情統制・できもしない性善説)も見抜けずにそれ頼り切っているに過ぎない、その化けの皮を剥がしてやろうか!」

という姿勢(主体性・教義性)ある挑み方が、よりできている方が有利になっていくに決まっているのは、現代での独立起業や商戦などにおける競合との、新規開拓的な競争でも大事な所になる。

そうした情勢になってきていた中で、アジアにおける中世までの時代遅れの格上・格下の国交関係を一新するために行われたのが、豊臣秀吉が企画した文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の外征だったという所が、今までしっかり説明されてこなかった部分になる。

この戦いは

 文禄の役 = 第一次戦

 慶長の役 = 第二次戦

と大別する見方となる。

この戦いの主戦場にされてしまった朝鮮半島にとっては、災難この上なかったが、日本軍と明軍で本格的な過酷な激戦が行われたのは、第二次戦の方になる。

第一次戦でも激戦は行われたが、それぞれ政府の代表として戦線を任されていた互いの司令官同士は、互いに険悪を装い、その実は奇妙な取引も行われながらの早めの和解を前提としていた。

 

その意味の、演出的なうわべの戦いもされていたのが、第一次戦の特徴だったといえる。

第一次戦では、明軍の火箭(かせん)兵器と、日本軍の改良型の火縄銃の威力に互いに驚きながらの、小手調べの意味も強かった戦いが中心で、全面戦争らしい戦いで叩きのめし合うことまでは、第一次戦ではそこまではされなかった。

現地の司令官同士が互いに、外交的に時折の手抜きもしながら、いったん停戦にもっていく運びとなった。

しかし外交は折り合わず、明政府の高官たちも、豊臣秀吉も、第一次戦での戦い方を結果的に問題視するようになり、今度は互いにもっと本格的に争わせる運びとなったのが、第二次戦の慶長の役である。

第一次での国際軍事裁判権の示し合いで、もし明側が、日本側の国威・格式の言い分に少しでも譲歩し、今までの日本に対する見方を改める様子を遠回しにでも見せさえすれば、豊臣秀吉もその既成事実に納得して手を引いたかも知れず、その後の過酷な戦いに互いに苦しまなくても済んだかも知れない。

しかし「激戦を装う」傾向が強かった、演習的だった第一次の外征の戦果事実だけでは、明政府の高官たちは開戦前との態度を全く変えようとしなかった。

結局その折り合いが付かなかったために、ついに本格的な、全面戦争的な激闘として第二次戦が行われることとなった。

その様子について、紹介していきたい。

まず、1592 年に日本軍が本当に、朝鮮半島への南側からの上陸作戦が開始された事態には、明政府も李氏政府も「まさか本当に乗り込んでくるとは」とかなり驚いた。

上陸しても日本側は、李氏政府に加勢するように訴えたが、それに応じなかったために、朝鮮半島の性急な支配戦が始まった。

完全に日本の主導的な時期(タイミング)で乗り込まれたこともあり、押す一方の先手の日本軍と、押される一方の後手と李氏軍との、一方的な戦況となった。

日本軍にあっという間に当時の首都(漢城)にまで押し寄せられた李氏政府側は、首都の住民たちも総出で北部の平壌に避難し、明の援軍が来るまで持ちこたえた。

小西行長はその時の日本軍の第一陣を任されていた。

豊臣秀吉に親類格を受けていた後陣の宇喜多秀家小早川秀秋らが表向きの総大将ということになっていたが、事実上の指揮権は小西行長と加藤清正の2人に託されていた。

第一陣である小西軍に許可を得ずに、第二陣以降の加藤軍らが前に出ることは軍律違反(等族違反)という関係だったために、実質は小西行長が全権だったが、加藤清正も現地では、小西行長と同格の発言権が公認されている、という構図だった。

小西軍の中には、キリスト教繋がりの有力者らと、豊臣政権から見た新参の九州勢(キリスト教徒が多かった)らで編成され、宗義智の対馬勢もこの第一陣に加わっていた。

第二陣以降が、譜代勢たちが続く形となったために、第一次戦の意味を中途半端にしか理解できていなかった各諸氏の下士官たちは、その構図に不満をもつ者も多かった。

緒戦では、朝鮮半島の南端から急に上陸して押し寄せてきた日本軍に、李氏軍も急には抵抗できずにいて、朝鮮半島の南側から次々に占領されていく、一方的な戦況だった。

 

その過程で、第二陣以降は、主導権のあった小西軍の後ろで手伝い戦をさせられているような形になっていたために「小西軍に手柄を全て独り占めにされてしまう」という所ばかり気にしたためである。

外交的なうわべの作戦も多かった第一次戦では、異文化への外征など体験したこともない諸氏に連れられた多くの家臣たちは、その意味もよく呑み込めていない者も多かった。

 

第一次戦では、外交の要であった宗義智が、当然のこととして朝鮮半島の経済をできるだけ破壊したくない考えでいたため、小西行長も遠まわしにその意向に合わせていた。(結局は第二次戦でメチャクチャになった)

派閥で内部分裂しがちだった李氏軍も、当時の首都をいったん放棄する形で、北部にいったん避難した。

 

もう内部分裂している場合ではない深刻さで、さすがに李氏軍も団結し、抵抗力を見せ、残りの北部で国体をどうにか維持しながら、日本軍の隙を窺う睨み合いが続いた。

日本軍は明に対して、遼東半島への進出を挑発したが、これは豊臣秀吉の狙いだった。

豊臣秀吉は、明軍がいつまで経っても朝鮮半島に援軍にやってこなければ、日本軍を遼東半島に進出させたかも知れないが、李氏政権があっという間に崩壊寸前になってしまった様子に、明軍も慌てて駆けつける結果となった。

明軍としても国防上の問題から、遼東半島の領内を戦場とされて国土が踏み荒らされるよりも、朝鮮半島を戦場とした方が都合が良く、豊臣秀吉としても補給線の問題や、何かあった時の増援の問題からも、深入りするよりも朝鮮半島を戦場とした方が都合が良かった。

そんな間にも、第一陣の小西行長と宗義智は、両政府に対して常に外交で確認し合っていた。

明軍としても、李氏軍としても、知った仲だった対馬の宗義智が折衝役をすることになったことは、なんだかんだで助かっていた。

 

宗義智の義父である小西行長が最前線の大将だったことも、明軍と李氏軍は当然意識していたと思われる。(宗義智は、小西行長の娘と結婚しているため)


豊臣秀吉がやたらと明に対して悪態をつき続けたのは、そもそも明が「今まで通りの著しい格下扱いするからといって、だからといって日本は一体何ができるというのだ!」という返信に対しての「その扱いをやめよ!」のための応酬だったに過ぎない。

小西行長と宗義智の二人は、できるだけ損害が大きくならない内に早期で和解にもっていくことばかり考えていて、これは対馬の海域経済も重視していた堺衆たちの希望でもあった。

豊臣秀吉もとぼけていただけで、もちろんそこはよく理解はしていた。

キリスト教徒の付き合いが深かった小西行長は、西洋人たちのそうした戦時の外交感覚をすっかり心得られていた、だから豊臣秀吉は小西行長を重要な第一陣の大将に任じたのである。

豊臣秀吉の外征は、当時の表向きの発言が鵜呑みされるばかりの「凶暴説」「思い上がった愚行説」ばかりがこれまで史学上ですら強調され続けてきた。

しかしそもそも、この軍の編成のされ方からも解るように、少なくとも第一次戦では実際はそうではなかった、かなり理性的な挑み方がされていたことが、十分に窺える所なのである。

ただし不慣れなまま外征に連れてこられた多くは、小西行長のその軍事と外交の駆け引きの意味が中途半端にしか理解できずに、当初はその指揮に不満に思う者が多かった。

「この戦いで大きな手柄を立てておかないと、目立った手柄を立てた者たちと、全くなかった者たちとで比較され、大幅に格下げされてしまうのではないか」という所ばかり気にする者も、まだまだ多かった。

天下総無事令と身分統制令が敷かれてまだ間もなかった当時は

 「これからは、国際的な品性規律をもって状況回収できる、等族議会的な公務公共性を大事にできる者こそが、人の上に立つ時代なのだ」

は、理論的には解っていても実感が薄く、戦場に立たされてしまえばかつての手柄主義に傾いてしまう者も多かったのも、仕方のないことだった。

そのため最初の朝鮮半島の攻略戦や、明の大軍と対峙した最初の頃に、小西行長のやっていたことには「どういう訳か手抜きをしているようにしか見えず、けしからん!」と見る者も多かった。

何か動きがあるごとに「相手に大きな損害が与えられる総攻撃の機会のはずなのに、なぜあんな中途半端な攻撃指令しか出さないのだ!」と不満が溜まる一方だった。

その小西行長に対する不満を、一身に受け止める役を引き受けていたのが、加藤清正である。

第二陣以降らに所属する下士官たちは、前線で何が起きているのかがよく解らないまま、何か動きがあるごとに不満を挙げていた。

 

それを加藤清正が、皆の意見をよく聞き、目を吊り上げながら「よし! 俺が皆の意見を代表して、小西行長めに一喝してきてやるぞ!」と受け止めていた。

これは一見は、

 加藤清正 = 自力信仰型の法華宗信徒

 小西行長 = 他力信仰型のキリスト教徒

の対立であるかのようにも見えるが、この外征ではその構図がむしろ善用され、そのような険悪を装いながら、軍の士気を維持するための手段に用いられていた。

 

これ自体が作戦だった。

 

加藤清正が小西行長に怒る姿を見せることで、各軍の下士官に対して「加藤様が我々の意見を聞いてくれている」という形を作り、どうにか軍の不満を抑えることができた。

 

意見が通るかどうかはともかく「皆の意見を、とりあえずは聞いている」という形を採っているのと「皆の意見を、一切聞く気などない」と思わせてしまうのとでは、団結に大きく影響してくるのである。

 

加藤清正の「同胞者同士は権威的に固まろうとするのではなく、誰も置いて行きぼりにならないような助け合いの仕方を、皆でしていかなければならない」という、非権威的な助け合いの法華宗のやり方が、この時にかなり良い方向に活かされた。

 

理解できていない状態での小西行長のやり方は、「適当にやっていれば良いのだ」という誤解を与え、肝心な時に軍全体の士気が保てなくなってしまう問題があったため、そうならないように加藤清正が補佐していた。

 

そのため加藤清正は、各軍の下士官たちから当然のこととして人気が出て、本格的な戦いになると、加藤清正による戦意の高い指揮も、うまい具合に機能させることもできた。

 

小西行長も、手抜きできない攻撃指令をしなければならない時には第二陣の加藤清正に指揮を任せながら、しかし既成事実作りの外交的なうわべの戦いは小西行長が担当、という連携が採れていた。

 

日本軍が、当時の朝鮮半島の首都であった漢城を占拠した時に、明軍の前に、明の外交官の沈惟敬(しんいけい・チェンウェイチン)が使者として、小西行長の陣に訪問した。

 

沈惟敬は「我が明の大軍が、既にすぐそこの国境まで来ていて、駐屯している」と表向きは尊大ぶりながら、日本語の通訳もできる沈嘉旺(しんかおう)という、倭寇との交流もある部下を連れて、小西行長、宗義智と交渉を始めた。

 

旧倭寇らと親交があった宗義智は、この沈嘉旺とも知った仲だったかも知れない。

 

沈惟敬は、表向きは格上の尊大な態度ばかり出して険悪を装っていたが、表向きの問題と、日本が望んでいた実質を理解し、ここで密会のようなやりとりが行われた。

 

とりあえず50日間の停戦が結ばれ、互いに望み通りの報告をし合うことになった。

 

沈惟敬は明政府の高官たちに「日本とは今まで通りの力関係で、今後の貿易と国交の関係をしたいということになりました」、そして小西行長も豊臣秀吉に「明が日本を著しく格下扱いしてきたことを、今後は控えよという言い分に、遠まわしに譲歩するようになりました」と互いにとぼけた報告をし合った。

 

明軍としても、懲罰軍役を課された日本の諸氏も、できることなら早期に戦いを和解したいという思惑は同じだった。

 

豊臣秀吉は、現地でとぼけたその交渉報告を受けて「さて、これで明側はどう出てくるか拝見といくか」という、表向きと実質を区別しながら構えて見ていた。

 

これは、今後は折り合いのつかない所については、日本は日本の解釈の当事国間の取り決めで、明は明の解釈の当事国間の取り決めでいくという意味があった。

 

つまり豊臣秀吉の思惑通り「中国大陸側と日本列島側との直接の交易でもないことに、もはやアジアにおける明の国威・格式など関係ない(そんな理屈をもちこみ合うのはやめる)、という形を、今後は認めるという和解で良いのだな?」なのである。

 

これが締結される意味は、明側が今までを改めさせられ、日本側が今までを改めさせたことを意味した。

 

表向きは尊大ぶっていた沈惟敬もとぼけていただけで、実は日本の言い分に拠った交渉に合わせたのである。

 

小西行長としても「これで和解・終戦の方向に動いてくれれば」と、沈惟敬に手土産として、日本製の火縄銃や防具を贈呈し、正式な回答までの50日間の停戦提携を結んで、会談を終えた。

 

明も、西洋の弾丸式の火縄銃は入手済みだったが実戦用には導入されておらず、生産量も少なかった。

 

改良されて、使い勝手も威力も強力に進化していた日本製の火縄銃を、沈惟敬に渡したということは、これは日本の機密を相手に売るのも同然の行為だった。

 

それだけの価値があったからこそ、沈惟敬にそれをあえて渡すことでひとつの手柄を立たせて、友好の証も踏まえて政府の高官たちの説得題材にさせるという小西行長の外交的な思惑に、沈惟敬も応じたのである。

 

しかしその表向きと内実のやりとりの意味を明が結局受け入れずに、日本軍との開戦に踏み切られることになった。

 

朝鮮半島に進出してきた明軍の動きに、沈惟敬が明政府の高官たちへの説得に難航していることを悟った小西行長は、第二陣以降の損害は抑えて温存しようと、第一陣だけで対応しようとした。

 

しかし第一陣の小西軍の総勢1万6000あまりに対し、その倍はいた明の先鋒軍が、朝鮮半島に押し寄せてきた。

 

北部で体制を立て直していた李氏軍と小西軍が睨み合いをしていた所に、明の先鋒軍に合流される形で開戦となった。

 

これには小西軍も大した対応もできそうにもなかったために、すぐに後退することになった。

 

この明軍との緒戦は、半分は茶番だった節があり、明の大将の李如松(りじょしょう・リルースン)も沈惟敬の意図を理解しながら、小西軍の退路を熱心に断とうとせずに、手抜きしていた感も窺える。

 

豊臣秀吉が、最前線に小西行長と宗義智に布陣させていた意図は、相手方にかなりの影響を与えていたと思われる。

 

明としても、政府高官らのアジアの国威・格式の思惑と、現地の明軍将兵らの思惑など、大して一致していなかったと思われる。

 

現地の明軍の将兵らも、懲罰軍役を課された日本軍と感覚は似たようなもので、直接の利益になると思えない、しかも朝鮮半島を巡る戦いに積極的になる訳もなく、当初は本国の権威のためだけに表向き熱心になっていただけだった。

 

現地ではそうしたのらりくらりな押し合いがされながら交渉が続けられ、互いに本国に報告し合っていたが、互いの現地の思惑は毎度のように無視されるような形で、明政府の高官たちと、豊臣秀吉との折り合いは、埒が明かなかった。

 

その交渉には李氏政権の言い分も当然入るため、三者でややこしい条件提示が行われて難航した。

 

今までの現地の茶番戦もいい加減に許されなくなってきて、両軍ともに本国からそこをうるさくいわれるようになり、全面戦争的な本格的な総力戦に激化していくことになってしまった。

 

その厳しい激戦が半年ほど行われて、互いに損害が目立つようになったため、両軍が深刻に考えて「とりあえずは、いったん停戦的になろう」と、第一次戦は軟化していった。

 

最初の茶番戦で半年、そして激戦が半年ほどの計1年ほど争われて、戦いはのらりくらりの押し合いと睨み合いに戻って、交渉が熱心に、実に3年近く続けられることになった。

 

その間に延々と日本軍に朝鮮半島に居座られてしまったことで、日本よりも格上とやらの李氏政権の表向きの権威など著しく低下していき、同じくその状況を阻止できないでいた明政権の、今までのアジアの自称的な代表権威も大いに阻害された。

 

明軍としても体裁上は日本軍が朝鮮半島に駐屯を続ける以上は、その対峙軍の維持を続けなければならず、何年も続いた双方の大軍の維持費と労力も、実に大変なものだった。

 

しかしこうした持久戦は先述したように、直接の利益にはならなくても、国威・格式の外交面では、著しい格下扱いを続けられる日本にとっては、その面を大いに否定できる得しかなく、明政府と李氏政府にとってはそこを大いに阻害される一方だった。

 

交渉は難航したため、政務吏僚の増田長盛、石田三成、大谷吉継ら重役たちも現地にやってきて、現地の状況を視察しながら、和解・終戦に向かうように動いた。

 

沈惟敬の来日もあって、第一次戦(文禄の役)は和解に向かうかのように見え、現地でもその期待が高まったが、豊臣秀吉はまるでその皆の期待を裏切るかのように、心を鬼にして 1597 年の第二次戦(慶長の役)を指令した。

 

その翌 1598 年に豊臣秀吉が亡くなってしまい、それを機に今度こそ和平交渉が行われて、やっと終戦にもっていくことがされたが、この第二次戦こそが、まさに明軍にとっても、李氏軍にとっても、日本軍にとっても苦しんだ、最悪の地獄の戦いとなった。

 

本格的な潰し合いが始まってしまった、まさに第二次世界大戦のような歯止めのない戦いが始まってしまった瞬間だった。

 

この時に結果的に豊臣秀吉が、内部的にはどのような意図であえてそんなことをしたのかと関係あることとして、本能寺の変の件でそこも後述する。

 

それまで状況を中途半端にしか理解できていなかった、各大名らに所属する多くの下士官たちは、今までは小西行長に対して「作戦にせよ、交渉にせよ、何をモタモタやっているのだ」不満をもっていた。

 

しかし、地獄の戦いと化した第二次戦がついに始まってしまってから、第一次戦で小西行長がやっていたその重要な駆け引きの意味を、この時になって皆も少しは理解したと思われる。

 

苦しい激戦が続いたことで両軍ともに内心では悲鳴を挙げ始め、小西行長に「以前の交渉の仕方はされないのだろうか」と泣きついたと思われるが、小西行長としても「こうなってしまった以上はもう、自分の一存ではどうにもできない」と返すしかなかった。

 

沈惟敬は、小西行長、宗義智、そして豊臣秀吉との国交の縁で、明政権内の発言力を派閥的に強め過ぎていたと思われ、派閥闘争を抑える意味と、日本と決裂する態度を鮮明にする意味で、沈惟敬は処刑されてしまった。

 

豊臣秀吉は、沈惟敬に託した外交の意図を、明政府がうやむやにしようとしていた所に表向きは怒っていたと思われ、明政府としもその関係を看過できなくなり、沈惟敬の存在をもてあまして内部に亀裂が生じ始めてきたための、やむなくの処刑だったと思われる。

 

第二次戦の詳細は省略するが、こちらの戦いは第一次とは比べ物にならない戦いで、地理的には日本軍側が圧倒的に不利だったにも拘わらず、果敢に応戦して、倍近くの損害を相手に与えることができていた。

 

近代戦のようなこうした戦いは、優劣は損耗率で結局決まることが多く、明軍と李氏軍の連合は、日本軍の倍近くいたはずが、日本軍の倍近くの損耗率の損害を受けていることから、この戦いは結果的には日本優勢で終結したも同然だったといえる。

 

ただし現地では、苦しい一方の過酷な全面戦争をさせられ続けていたため、そんな実感など全くなかった。

 

第一次戦では日本軍は、確かに朝鮮半島の南部から中部までの半国を占領下におくことはできていたが、各地元に対しての具体的な裁判権改めがされていた訳でもない、支持上の占拠ではなく、作戦指令上の占拠をしていたに過ぎない所がほとんどだった。

 

日本軍が最初に朝鮮半島に上陸して、李氏政権への加勢要請の最後通達が決裂すると、各地の軍も住民も組織的な抵抗もできないままに総出で避難されたことが、これが第二次戦で日本軍に不利に響いた。

 

庶民の多くは、持てるだけの食糧を抱えて北部に非難し、占領地は人の居ない空白地ばかりだったため、朝鮮半島の中部から南部にかけての農商工の生産力などは皆無となっていた。

 

現地での物資調達は困難になっていたために、本国からの補給に頼るしかなかった所を、李氏軍の李舜臣が、まとまりのなかった軍を危機感をもってまとめて、その補給線を狙い撃ちするように反撃に出たために、この攻防戦にも苦労させられていた。

 

日本軍は食糧危機に何度も陥って、間違えれば全滅したかも知れない局面も度々あった。

 

明が、地理的には不利なはずであった日本軍を追い返そうと大軍をもって戦ったが、戦国後期を通して戦い慣れた高度な戦術と、火縄銃の威力、刀や槍の切れ味の質の良さで、地理的には優勢であったはずの明軍と李氏軍を圧倒するような反撃を度々見せ、驚かせた。

 

特に李氏政権は甚大な打撃を受けていたが、それでもやられっぱなしではなく、何としても国威・格式を見せつけようと日本軍に猛反撃を加えることもできていた。

 

この戦いは、互いに苦しい戦いを通して、結果的には互いの国威・格式が再確認されることになった。

 

のちに徳川政権が鎖国令(徳川幕府の貿易権の独占・許可制)を敷いて、アジアの海域における現地人たちや西洋人たちとの貿易が円滑にされたのも、アジアでの日本の国威・格式を、豊臣秀吉がこの戦いを通して、立証しておいてくれたからともいえる。

 

アジアの一大強国であったはずの明に対し、優勢に戦うことができていたこの日本の国威・格式を、琉球や台湾、インドネシア方面は認めない訳にはいかず、アジアに進出してきた、その感覚が当たり前になっていた西洋人たちから見ても、それができていた日本の国威・外交力をあなどる訳には、ますますいかなくなった。

 

徳川政権は、国交をいたずらに険悪化させないように、中国大陸側とやりあった実績はあえて強調することはせず、中国側もかつての著しい格下相手というあからさまな態度は、だいぶ控えるようになった。

 

明政府はこの戦いの無理が後遺症となって、モンゴル勢力との対立で圧迫されるようになってしまい、李氏政権もその緊張が終わると再びまとまりがなくなって崩壊してしまうが、豊臣政権から即座に政権交代された徳川政権だけは、そうした後遺症的な崩れ始める様子は見られなかった。

 

朝鮮半島においては、終戦時には日本のことを恨みながらも、西洋人たちとの交流が進んでいた日本の文化に改めて関心を示すようになった。

 

終戦時に短期間ではあったが、撤収の挨拶の過程の、日本人と朝鮮人との和解的な交流も行われ、互いに魅力的な文化品の物々交換や、職人たちの技術交換も行われた。

 

17世紀に入ろうとしていた当時は、焼き物の陶磁器に関する技術は、アジアでも西洋でも、どの諸外国も、品性文化面でかなり重要視するようになっていた。

 

日本でも、愛知県の瀬戸市のような、陶器の研究と生産に熱心だった歴史をもつ地域が各地にあり、朝鮮人たちも優れた陶器技術をもっていたことは日本にとっても魅力的で、朝鮮人たちもそこは同じように見ていた。

 

当時の朝鮮の陶器技術者たちが「奴隷として日本に連れ去られた」ことばかり強調されているが、格下相手とやらに負けに近かった李氏政権の体裁の悪さを補おうと、そういっていただけと思われる。

 

実際は、日本の大名が現地で技術者を募集したものと思われ、島津氏などは藩の政策として、専門職人の官職体制を作って、技術者には高待遇を与えて、焼き物の研究指導と生産を奨励しているほどである。

 

日本列島よりも冬は厳しい朝鮮半島では、モルッカ貿易で日本にも入ってきていた香辛料が朝鮮でも注目され、厳しい冬を越す助けとなる唐辛子を使った、今の韓国料理の原型となる文化料理が、この時をきっかけに発展していったものが多いといわれている。

 

日本軍も朝鮮半島に上陸して冬を越した時に「話は聞いていたが、朝鮮の冬はこんなに寒い気候だとは思わなかった」と現地での冬の寒さを体験していたため、戦時中には唐辛子が使われていたのではないかと、筆者は見ている。

 

朝鮮の風土に詳しかった宗義智は、諸氏に防寒対策を喚起していたと思われる。

 

ともあれ、豊臣秀吉の死去によって、日本軍の総撤退が決まる最後まで、その交渉にも苦労することになったが、1598 年にようやく終戦を迎えることができた。

 

豊臣秀吉の明に対するケンカ腰外交は、1587 年頃の倭寇禁止令の布令や、亀井茲矩(これのり。尼子一族=近江源氏の佐々木一族)を琉球守と公認したことを強調している所から、既に始まっていたと見ていい。

 

豊臣政権という名の修行道場で、くだらない価値観争い(出身筋争い・閉鎖的な人生観争い)に厳しい規制を受けるようになり、極めつけの凄まじい懲罰軍役で修行させられた諸氏は、改めて天下泰平のありがたさと尊さを、実感することになった。

 

まもなく 1600 年(慶長5年)に、総選挙戦であった貴重な関ヶ原の戦いが行われるが、その懲罰軍役を経験したからこそ、ズルズルダラダラなどではない、等族議会的な政治の展望がしっかり意識されて、サッとやってサッと終わらせることができたのである。

 

次は、本能寺の変とは何だったのかについて、織田政権、豊臣政権、徳川政権との比較的な整理をしながら、そちらの話を進めていきたい。