近世日本の身分制社会(070/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 近世の国際外交・国際戦のまとめ - 2021/06/05

朝鮮半島を戦場に、明軍・李氏軍連合と日本軍との力量比べが行われた 1592 年「文禄・慶長の役」の外征と、その後に行われた関ヶ原の戦いにも関係してくることとして、近世の全体像を、ざっとまとめていきたい。

まず当時の日本は、豊臣秀吉が織田信長を肩代わりする形で、天下総無事(武家の棟梁の公認=日本全体の代表家長が自身であることを全国に公認させる)がついに達成された。

その達成とは荀子的な「強者的立場から順番の厳しい品性規律の資格選別と、弱者的立場から順番の救済」の、あるべき手本礼儀の法(国際社会性)のあり方で、時代遅れの旧態主義を大幅に改善させる政策が施行されていくことと、同義だったといえる。

織田信長の公正な前期型兵農分離(常備軍体制・旗本吏僚体制・武家屋敷への収容体制)の手本が活かされる形で、豊臣秀吉の公正な後期型兵農分離(身分統制令)によって、公務側と庶民側の区別による国際意識改革が、大幅に進められることになった。

政権への公認以前に「意見総代を立てて意見を整理して提出していく」という、その品性規律的(法的=等族議会的)な最低限の手本礼儀もろくに示し合うこともできない、公的教義のような身の程知らずが人を従わせようとする、人の上に立とうとすることが、ついに許されない時代を迎えた。

全国各地にすっかり溢れるようになっていた、具体的な士分家格を結局維持し得なかった多くの半農半士は今まで「強力・厳格・公正な支配者(代表家長)」による明確な保証が乏しかったからこそ、自分たちの生活権を守るために、上の不健全な騒動に便乗しなければならなかった。

だらしない上が無神経(無計画・無関心)に、下に甚大な悪影響を与え続ける低次元な価値観操作(劣情統制)ばかりしてきた、だから下同士でも低次元な旧態慣習の上下統制に頼り続け、上の騒動に便乗して奪い合う悪循環が、いつまでも終わらなかった。

戦国後期に織田信長が出現して、その負の連鎖をついに断ち切られることになり、豊臣秀吉が代わってそれに終止符を打った。

国威格式(組織理念・国際品性規律・国家戦略)として非常に重要な、代表格(手本家長)の名目(誓願・主体性)として白黒(教義競争)を自分たちではっきりさせる、という大事なことを、織田家ほどはどこもできないでいた。

織田信長にとっての、自身で勝ち取った継承式典ともいうべき 1554 ~ 1560 年の尾張再統一(地方再選挙戦)で、既にそれが始まっていた。

次の 1568 年頃までの美濃攻略でもその整備はどんどん進められていき、京(山城)に進出して中央経済を大再生し、堺衆とキリスト教徒の結び付きも具体化してきた 1571 年頃になると、諸氏とのその整備差(国際意識差)も歴然になってきていた。

ただ自分(上)に甘く、ただ人(下・外)に厳しいだけの公的教義と大差ない低次元な考えを、自分(上)たちから改める最低限の手本礼儀を示し合うことがされなければ、低次元な周りもいつまでも低次元なまま、改まっていく訳がないのである。

大勢が必要な時の戦いに、短期的に参加していた半農半士の多くは、有力者に正式な士分だと認知されていない、またその従者としての常態的な雇用関係も維持できていない者が大半だった。

そんな状況になっていた戦国後期に織田信長が、公務士分側としての、それだけの地位に見合わないと見なした者から格下げし品性規律の見込みある者から順番に格上げしながら、公務士分側・常備軍側を整備するようになった。

それに大いに遅れをとるようになった諸氏も、そのあるべき姿の背中を、慌てて追いかけ始めるようになった有様だった。

その貴重な手本を引き継いだ豊臣秀吉が、ついに「政権に許可もなく武力闘争に参加しようとすること自体が制裁対象」として、士分として認知されていない、常態雇用も維持できていない曖昧な半農半士の存在は選別から外れたと見なし、元は名族の本家筋だろうが全て庶民扱いとした。

これからは何かあれば、意見総代を立てて意見を整理し、豊臣政権に提出する、そして等族議会的に状況回収された政権側の裁定に従う、という謄本的な法治国家の姿を互いに守ることで、それで庶民政治の保証権も約束されるという形になった。

今まではそのまともな保証など誰もできなかったから、上の騒動に便乗して奪い合いながら生活権を確保するしかなかった、上の不健全な事情に巻き込まれ続けてきた半農半士たちを、ついに総庶民化させることとなった。(身分統制令)

冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方(状況回収)ができているといえる

 異種異文化的な多様許容性(当事者性・人文性)への向き合いの、最低限の手本姿勢

 民権言論の自由原則(主体性・啓蒙性)といえるようなあるべき視野で示し合う姿勢


そこを放棄し合うようなことはしない・させない、その主導規範(等族議会的な状況回収)を目指す姿勢があって、それで個人・組織・国家それぞれのあり方のまともな認識も、できるようになっていくのである。

まずそこから余裕をもった見方などできていない、それを否定し合っているだけの

 ただ面倒がっているだけの人任せ・数任せの基準に頼り切って、ただ偉そうな打ちのめし合いで従わせ合ってきただけ

 ただの怠け癖に過ぎない、そのだらしない性癖(できもしない性善説=ただの劣情統制)を、道義関係もないよそに偉そうに押し付け合ってきただけ

 その口ほどにもない価値観争い(劣情統制)の愚かさを見抜く余裕もなく、その手口にまんまと乗せられ続けてきただけ


その非国際的な愚かさを

 自分たちで改めることができている集まり(人文的・啓蒙的な自立運動=等族議会的な意見回収体制=地方再統一・国家再統一=選挙戦)

 そこを自分たちで何ら反省できたこともないまま、面倒がりながら偉そうに人のせいにし合ってきただけの集まり(ただの閉鎖有徳)

とでの組織理念(主体性・当事者性・国際品性規律)の認識力差、つまり地方間・世界間の国威・格式の示し合いに、歴然とした差が出てくるのは、当然の話なのである。

まずその違いを区別する余裕もないはずの者が、道義内のことならともかく、道義外の人のためのことや法(国際社会性)のためのことを、まともに考えられる訳がないのである。

個人間・組織間・国家間のいずれも、民権言論の自由原則のような、最低限の手本礼儀(状況回収)を示し合おうとする普段からの姿勢が、よそとの差となって現れていってしまう所になる。

全て外圧任せにするのではなく、自分たちに合った文化的なものを、主体性をもって自分たちで大事にしていくことができている側と、ただ外圧次第(ただの劣情統制)で動くことしかできていない側の差こそが、恫喝(格下げ)する側と恫喝(格下げ)される側の差となって、現れていくのである。

これは、荀子・韓非子の指摘だけではなく孫子の兵法でも

 「挑む前に、自分たちが崩れないよう、自分たちの身の周りのだらしない欠陥を整理することが、まずは先決」

 「挑む前に、それに見合った高次元な規律(国際軍事裁判権)を外交戦(企画戦略力)で見せつけ合う姿勢が、まずは先決」


 「ただの劣情統制(できもしない性善説)に頼っているだけの低次元(無計画・無神経・無関心)な挑み方に過ぎない勝ち負けは、甚大な悪影響を与え合う衰退の原因」

が、まずは国家のあるべき前提として指摘されている、共通している所でもある。

外征の現地での代表格として任された、豊臣秀吉の信任の厚かった加藤清正小西行長の立場を知るためには、当時のこうした国際感覚をよく理解しておく必要がある。

近代の前身となった近世以降の軍事とは、勝ち負けはもちろん大事だが、条件としてのその内訳が求められることも強まった時代である。

軍事戦でも外交戦でも、自分たちができていないことが相手ができていることを見せ付けられてしまったことは、相互が衰退していかないためにも、そういう良い所は「余裕をもった見方」で互いに見習い合わなければならないという、国際意識も高まっていった。

その意味で、劣勢でも国際性のある抵抗もできていた側、という、相手の真価を見誤らずにどう向き合っていくのかが、展望ある有利な国交に結び付くという国際意識も向けられるようになった。

勝った側が負けた側を無条件降伏させるという単純構造などではなく、力量に見合った妥当な条件を再確認しながら交渉し合っていくという、等族議会的な国際外交が、自覚されるようになった。

外圧の一方的ないいなりにさせられないよう、その組織(文化・民族)のための団結(国内再統一戦・代表や方針の選挙戦)でまとめる、という基本的なこともできていない、その自覚もできない集まりが、それができている強国の外圧にまともに抵抗できる訳がない、という対外性が重視されるようになった。

互いの国威・格式の力量を再確認するための等族議会的な争和が、まず国内統制としてそもそもできているかどうかが大事な所で、まさにそこを自分たちで再認識された世界だったのが、日本の戦国後期の総力戦時代の姿だったともいえる。

これは現代の個人においても、全く同じことがいえる。

まず国内や自身の周囲についての等族議会的な状況回収による対応ができているといえるような、その冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方(状況回収)が普段からできていない者が、その外に対して最低限の手本礼儀(状況回収)の示し合いなどできる訳がない原理は、全く同じである。

どの事例はどうだと格上・同格・格下なのか、大事なことは自分たちでその白黒をはっきりさせていく、自分たちのための裁判権争い(教義改め・裁判権改め)ができているのか、そのための代表的(等族議会的)な意見を立て合うこともできているのかが、内外の組織理念(主体性・当事者性・状況回収力)の認識力差・優劣差になってくるのである。

公的教義のようなただの劣情統制のいいなりの手口にまんまと乗せられて内弁慶になっているだけの、ただ下品で汚らしいだけの性癖の塊でしかないような、その外の異種異文化的な多様許容性(状況回収力)に余裕をもった見方もできないだらしない集まりが、国威・格式(格上・同格・格下)の認識などまともにできる訳がないのである。

劣情統制(できもしない性善説=ただの価値観争い)の手口で打ちのめし合っているだけの今の公的教義のような姿が、それが極めてだらしない非国際的な姿だと反省できたことがない、教義性(主体性)など皆無な弱小集団などは、いくらでも格下扱いすればよいという国際意識も、特に遠方の異国に対して強まった時代だった。

それができていないことも深刻に考えられない者同士の、ただの条件(ただの劣情統制)の押し付け合い(ただの価値観争い)で、まともな国威・格式のための国際意識や政治理念など育つ訳がないことは、強国化できた所ほどそこが学ばれるようになった。

加藤清正は豊臣秀吉に、若年期からそういう所もよく指導されてきたため、そこはよく心得られていた。

そして小西行長もキリスト教徒たちとの文化的な交流によって、西洋人の貴族品性のその国際感覚の部分は、すっかり身につけることができていた。

外征の代表格を任されたこの2人は、その視野の国際意識がしっかりもてていたのである。

そうした国際意識が自覚され始めた、その近世化の次元に全くついていけないような、あまりにも閉鎖的過ぎた国の内、開発の余地がある経済資源の豊かだった辺境地は、列強同士の市場競争の都合に巻き込まれる形で支配権を横取りされ、過酷な格下扱いをされるようになった所も多い。

強国から見れば

 「その低次元な手口で同じようによそから打ちのめされても、何ら国際的な名目で抵抗などできやしない格下どもは、強国のいいなりに従い続けておればよいのだ」

 「そういう扱いを受けても、自分たちの国(民族)を自分たちで主体性をもって代表を立てて独立運動で立ち上がり、交渉にもっていくこともできない、何ら自分たちの建国力・建設力もない弱小はあなどられて当然」

という考えになりがちだった。

自分たちのあるべき代表を立て、国威・格式を見せつけながら交渉する形にもっていく、ということができず、共同統治という国体にももっていけなかった、一方的に隷属させられることになってしまった側にこそ問題があると見なされてしまうのが、当時だった。

現代のように世界全体の視野の、保護尊重・支援面の国際法がまだ育っていなかった、航海技術の飛躍的な発達による文化交流と、列強同士の世界規模の市場競争・布教競争に忙しくなっていた当時は、格上が遠方異国の格下に厳しかったというよりも、格上の次元に全くついていけなかった格下には遠慮無用だったというのが正確である。

現代では、外国によるそうした植民地的な支配権の確立の仕方は当然のこととして許されない、保護尊重・支援面も重視する国際認識になっているが、それは第二次世界大戦を経て、特にアジアでの日本の影響力の貢献も強かったからこそ、やっと時代に合ったその国際認識に正常化されることになった所になる。

当時の西洋人たちの目立った、キリスト教の教義を押し付ける植民地的なやり方は、現代感覚で非道的だと強調したがる者が多いが、そこは少し冷静になって考えてみるべきである。

それについては、今の国際法による抑制のおかげで、それが非道だとかろうじてそう判定できているに過ぎず、その意味を自身でしっかり理解できているとはいいがたい者が、実際は大半である。

所詮は人任せの抑制の「許されることと・許されないこと」に頼っているだけで、ただ機械的に判定して、非道的だと思われなければ非道的に人を踏み台にして従わせてもよいという図々しい態度を平然と採る者が大半なのである。

結局は人任せに判別しているに過ぎない、つまり何が非人道的なのかに向き合うことに面倒がりながら、偉そうに解った気になりたいだけの、自身の教義性(主体性・当事者性・等族議会的な状況回収力)で認識する(そこに責任感・使命感をもつ)気などない者が、大半なのである。

人的信用事故を起こさないためにも、期待外れの失望をし合わないためにも、そういうやたらと耳障りの良い社会正義の体裁ばかり求めようとする、口ほどにもない分際(偽善者)だと常に疑いながら、冷静さ慎重さ丁寧さの余裕の見方で対処していかなければならないのである。

現代でも、武力闘争かどうかはともかく「異文化的な近隣にくくられる今まで通りの干渉関係は続けるべきではない、地域独自の文化的な国際国家として独立した方がよい」という意向が高まったなら、代表を立てて意見をまとめて、その運動をしなければならない原則は、今でも同じである。

そのように、外圧に対面した時に「自分たちの問題は、自分たちでなんとかしなければ」という大事な部分に少しでも関心を向けようとする姿勢があって、それで従わせ方や力関係が非人道的なのかどうかも、少しは認識できるようなっていくのである。

これは現代でも、国家だけでなく個人や会社組織でも、今までは同業者たちとの協調路線でやってきたが「自分たちの文化的な強みの路線でやっていく方が自分たちに合っている」と思えば、今までの協調路線から独立路線に切り替えることもある話と、類似している。

今まで同業者との協調路線でやってきたのはいいが、それが衰退して共倒れが見えてくるようになった場合、他の同業者たちにはない自分たちの文化的な強みも育ててきた者なら、それで共倒れすることから回避しなければならない場合ももちろん含む。

自分たちの文化的な強みも育ててきた側と、力関係的な協調路線にただ延々と頼り切ってきた側とでは、状況に応じて自立的に動ける側と、今までの関係と共倒れするしかなくなる側とで、当然のこととして差がでてきてしまうものである。

困った時に、どうにか対応できる者と、なんとも対応できなくなる者とは、

 人任せでない全体像的な視野の格上・同格・格下の基準(等族議会的な状況回収)も見る、余裕をもった見方もしてきた者



 人任せの閉鎖的な格上・同格・格下の基準(できもしない性善説=ただの劣情統制)で内弁慶になり、万事面倒がる偉そうな見方しかしてこなかった者

とで、差が出てくるのは当然の話になる。

教義性と道義性の違いも区別できていない、ただの劣情統制(ただの価値観争い・ただの劣化海賊教義)に過ぎないものを偉そうな共有認識(ただの怠け癖・できもしない性善説)として立てて、そのいいなりになり合わないことに騒ぐことしか能がない公的教義と大差ない集まりが、外圧へのまともな認識や対応ができる訳がない。

戦国武将の器量の原則と同じで、正確には「強い者に付く」のではなく「より等族議会的な国家理念がある側に合わていく」ことを、そこを人任せにせずに主体性をもって、それぞれ自身で選別してこれたかどうかという話である。

 

それができている者同士の話し合いなのか、それがまるでできていない者同士の話し合いなのかが、まさに文明的な人間選別の世界なのである。

国際意識をもって教義指導できるだけの代表を自分たちで立てられているのかが、国威・格式の国際軍事裁判権の力量として、産業政治力や外交力などにもそのまま現れてくるのである。

怠け癖を植え付けることしか能がない公的教義のような、ただ下品で汚らしいだけのただの劣情性癖の塊でしかない極めて低次元・低知能な分際(偽善者)に、近世以降の国威・格式の等族議会的な「格上・同格・格下」の国際感覚を理解できる訳がないのである。

400年前の近世の国際意識よりも遥かに劣っている公的教義が、近世から近代にかけての変容がどのようなものだったのが理解できる訳がなく、現代の国際認識などまともに理解できている訳がない。

近世から近代にかけては、近世までの市場支配競争から脱却するために、第一次世界大戦で新たな国際意識に転換していかなければならなかったが、第二次世界大戦までやり合わなければ結局、近世の国際感覚から脱却できなかった。

兵器はどんどん近代化していき、軍需の科学技術だけは格段に上がっていく一方で、世界全体の国際感覚は、近世から遅々として近代化にどこも脱却できなかった。

第一次世界大戦で甚大な死者を出すことになり、その凶兆が出ていたことの認識だけはされたが、国際意識だけは近代化に脱却できずにさらに凶悪化に向かっていったのが、第二次世界大戦である。

そこを正常化するために戦わなければならなかったのが第一次世界大戦だったが、日本も含めた似たり寄ったりの列強同士のどこもが、近世的な奪い合いを互いに止めさせることができなかった。

どこの列強も、保護とは名ばかりに、近隣の弱小国を格下扱いの支配下に組み込んで、領域戦線を拡大していくばかりだった。

やっていることは列強同士で優位性を奪い合いながら、列強同士の対立を激化させるばかりの、和解の線引きも見出せずに歯止めのかからない戦いに向かっていってしまったのが、第二次世界大戦である。

第二次世界大戦では「所詮は人間のすること」という、兵器だけが凶悪化していく一方の、航空戦闘機による広域な制空権の奪い合いが行われ、戦艦と潜水艦による制海権の奪い合いまでするようになった。

電波を使った通信技術が発達した一方で、傍受(ぼうじゅ。敵が使っている周波数の電文のやりとりを入手すること)を防ぎ合うことはできなかったために、電文を暗号化するようになると、暗号解読競争をし合うという、情報戦まで展開されるようになった。

他にも危険な生物や薬品を使った非人道的な研究や、水爆の元になった原爆の製造など、今まで人類が体験したことのないような、そういう訳の解らない競争ばかりが激化していった。

第二次世界大戦になって、市場競争から資源戦争に争点がむしろ退化していくような、民権運動の観点からいえば情けない戦いだったといえるが、もはや何を国際基準にしていいのか解らなくなっていた中で、互いに甚大な死者を出しながら、それで相互を再確認し合うしかなかった時代だった。

それをやったからこそ、その危うさが認識され、乱暴な市場競争や資源戦争は抑制されるようになる、現代の国際法が育つようになった。

列強たちが近世のままの対外意識で、劣勢だったアジアを格下扱いしようとしたのを、日本が訳の解らない異様な力を発揮して列強たちに猛反撃して散々苦しめ、その天狗の鼻をへし折ったことの影響は結果的に「とにかく近世感覚のままの格下扱いをやめさせる」貢献として、多大だったといえる。

 

世界全体の国際基準を作ることが難しかった第一次・第二次世界大戦は、列強同士で暴挙をやめさせ合う力が互いになかったからこそ、列強が近隣を格下扱いに傘下に組み込まざるを得ず、それで力の均衡を保とうとすることばかり優先されてしまった。

資源の奪い合いと軍需技術ばかり凶悪化していく一方で、近世の対外意識のままの国威・格式の示し合いしかできなかったことは、人権よりも兵器や資源の方が偉くなってしまう、もはや人類を尊重する必要などない人類淘汰主義だという、人類が克服していかなければならないその難しい大きな矛盾に、向き合われることを意味した。

政治精神(国際社会性・組織理念)の直接の関係になりにくい科学技術競争にしても、発見や発明をしてしまえば、後はその理解者が真似すればいいという世界になりがちである。

だから人を政治精神的な所から尊重し合おうとせずに、偉そうな結果のみを崇拝しようとしがちになる。

公的教義のように偉そうな結果をただ丸覚えさせ、面倒がりながら人が作った基準のいいなりに従わせ合うのみなのは、人間よりも情報機器の方が偉いといっている矛盾も自覚できていない、人類淘汰主義の衰退を植え付けているだけといえる。

 

何ら教義性(主体性)に向き合われることがなければ、兵器にしても教義にしても機関にしても情報機器にして、人間が仕様を作ったり改善していかなければならないはずが、いつの間にか人任せのその仕様のいいなりに人間がなって、それに振り回されているだけのだらしない構図の愚かさも、自覚もできなくなっていくのである。

 

筆者のオブジェクト指向の批判の根底も、まさにそこである。
 

人が育つことなるのかについてを面倒がって誰も確認(尊重)せず、人間よりも偉そうな機器仕様的な規則に従わせて罰することの方が大事にされてしまっているのは、第二次世界大戦の人類淘汰主義の矛盾を何ら理解できていないのと同じといえる。

それが理解できていないということは、大変な想いをして国を守ろうとして甚大な苦痛と戦い、戦死していった当時の多くの人たちの貴重な犠牲を、完全否定しているのと同じといえる。

戦後は、強者であった側こそ、甚大な死者を出しながらその矛盾を多く体験したからこそ、反省されることになった。

同時に、当時の軍需技術競争がその後に、便利で豊かな社会のために活かされることになった。

軍用の技術が、その後の造船や自動車や航空機の技術などに活かされるようになったり、元々は偵察のためだった衛星技術が、気象観測の技術となった。

元は遠くの敵機を発見するためのものだった電波反射機(レーダー)も、旅客機や旅客船の安全のためや、魚の群れがいるかどうかを調べるために漁業船に搭載されるようになった。

インターネットが一般化されたのは 1995 年頃で 2005 年頃までにだいぶ整備・普及されたが、その原型ができたのも、第二次世界大戦の 1942 年頃の軍需がきっかけである。

IMF(世界間の通貨価値を整理しながら、資金面を支援し合う国際機関)やIAEA(環境問題も含めた原子力発電に関する国際機関)といった、現代の国際連盟の意識のやりとりができるようになったのも、第二次世界大戦によって、近世のままの対外意識から、やっと脱却・卒業できたからだといえる。

話はそれたが、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の外征が開始された当時の朝鮮半島は、近世化の整備に手間取っていてまとまりがなかったものの、大将格の祖承訓(そしょうくん)、李舜臣(りしゅんしん)あたりの戦い振りから、近世の国際感覚は心得ていたと見ていい。

あわてて対応するようになった明政府の大将格の沈惟敬(しんいけい・チェンウェイチン)や李如松(りじょしょう・リルースン)も、同じくである。

だから局地的な攻防結果ばかり見ていると、現地でこれらと対峙した小西行長加藤清正が、どのような国際感覚の対応の仕方で争和の駆け引きしていたのかが、全く解らない所になる。

すっとぼけていた豊臣秀吉はともかく、国内待機で戦況を逐次聞いていた、大身の徳川家康前田利家や、高官の増田長盛らは、何が起きていたか、うわべの報告とその実態の違いを判断できていたと見ていい。

小西行長と加藤清正の指揮下で、軍役を課されることになった全国の諸氏も、それぞれの重臣・参謀らは、現地で何が起きていたのか理解はできていたと思うが、ただしそれに従っていたそれぞれの家臣たちの多くは、地位が中途半端な者ほど、その意味も中途半端にしか理解できていなかった。

今まで日本が体験したこともない外征だったために余計で、それぞれの部下たちが現地で困惑することも多かったのも無理はなかった。

そこは、明軍側、李氏軍側も部下たちを率いる事情も同じだが、強いていうとこれまで列強であり続けて、大規模な遠征の経験もあった明軍は、その国際意識による統制は日本よりもできていたと思われる。

ただし身分統制令(公務軍体制)においては、明軍よりも日本軍の方ができていたと思われ、だから倍以上いたはずの明軍が苦戦させられているのも、そういう所だったと思われる。

次も、当時がどんな様子だったのか、どのような影響を与えることになったのかに触れていきたい。