近世日本の身分制社会(075/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 本能寺の変とはなんだったのか03/? - 2021/08/04

当時の様子が伝えられるものの中には、今までの旧態慣習が改められる、つまり法(国際社会性の敷居)の最低限の基準が変えられていく中、人々はまずはそこに困惑気味だったことを、念頭に入れておく必要がある。

今まで前例がなかった等族社会化(議会制化)への、人々の意識改革になるように仕向けた織田信長の意図を考慮せずに、文献記録の表向きをただ丸呑みするのみでは、当時がどんな様子だったのかも、全く解らない所になる。

当時の上級裁判権改め(公務公共性=国際品性規律の仕切り直し=身分再統制)にしても、まず上からその意識が欠落していて失脚していった者も多かった中、下々がその意味を知ることはもっと難しかった。

公務士分側の覚書(おぼえがき。正式な指令や報告の連絡用の文書から、日記のような個人的なものまで色々あった)の文献記録も、直接担当した者ではなかったり、協力を要請されてその施政を監督する立場ではなかった者の記録も多く、周囲の様子を書き残したものも多い。

本能寺の変で、織田信長がどんな政体を計画していたかの公文書が多く焼失されてしまったことも予測される所は、史学研究者たちの間で惜しまれている所になる。

施政に間接的に関わったりその様子を見ていた、全体像を解っていた訳ではない者の記録は、世間の風評の様子をあくまで書き残しているものも多い。

そのため、織田信長の視点、家臣たちの視点、下々の視点、諸氏たちの視点ごとで整合しながら、織田信長が何をしようとしていたのか、また誰が何を問題視していたを見ていくことが、やはり大事になる。

 

例えば「支配者同士の対立とその都合が、どのようなものだったのか?」という視点だけでも、自然な推測が可能なものもある。

例えば軍事行動で、ある部署に従軍した家臣から見て「今回のわが軍は、総勢2万を超える大規模なものと聞いている」で、味方をざっと見渡したり、誰が参加しているのかの名義を見ただけでも「少なくとも1万5000はいるな」という感覚はあった。

戦場では、山々の高低が激しかったり、伸びっぱなしの木々も多くて視界の悪い所も多いため、敵方の総勢を一望できるとは限らなかった。

前線では敵はどれくらいいるのは解っても、高台代わりになるような山の上から見ても、敵方については一度に目視できない場合も多かったため、各所に偵察に行かせて、その様子からおおまかな推察をする場合も多かった。

ただし総力戦の傾向が強まるほど、戦う前から相手の支配力(裁判力)の規模でおおまかな推察はすることもできた。

敵方のことは

 「2ヶ国の支配者でも、中途半端なまとまりしかなければ、出てこれてせいぜい8000くらいだろう」

 「3ヶ国の支配力で1万5000くらいは動員できても、近隣への警戒と反感分子の対策で5000くらいは残しておかなければならないだろうから、出てこれても1万ほどだろう」


といった推察はできた。

戦国後期の総力戦時代は、敵を不意打ちする戦い方よりも、相手よりもまとまりのある高次元な強国側だという、その威厳(軍事裁判力)を強調することも大事になってきていたため、総数は多めに誇張する場合も多かった。

桶狭間の戦いでは「織田軍は少数だった。今川軍は大軍だった」という経歴であった方が、互いに都合が良いから、細かいことは詮索せずでそれに落ち着いている感も強い。

当時の今川氏としては「その後は一気に衰退してしまったが、かつては2万以上を動員できる権勢を誇った名族だった」ということにしておいた方が都合が良かった。

そして織田氏としても「大軍を相手に、わずかな少数もってそれを大いに撃破した精鋭」ということにしておいた方が、戦果の聞こえも良かった。

桶狭間の戦いは「 織田軍4000 : 今川軍2万5000 」としておくものもあるが、当時の今川氏は3ヶ国のまとまりある支配ができていたかが怪しくなってきていたことを考えると、北条氏などの援軍を仮に得たとしても、1万8000も動員できたか怪しい所になる。

その外征への準備に協力した関係者を全て含めれば、合計で2万5000くらいはいたかも知れないが、この時の今川軍は多く見てもせいぜい1万5000ほどだったのではないかと筆者は見ている。

織田軍と本願寺軍(浄土真宗)の長島城の戦いでは、織田方の勝利がほぼ決着した時に、停戦交渉を織田方が認めずの容赦ない撃滅指令で長島城を攻め立て、2万もの大量死を出したことが有名だが、この数字も筆者は少し疑っている。

本願寺側の記録でも損害2万ということになっていて、大勢が苦しみながら死んでいった様子を見ていた織田軍側の談話記録もある。

戦後のその大量の死体は、放っておけば疫病の原因となるため、流れの強い付近の河川を介して海に流れされることになり、その処理も大変だった様子もある。

 

死人が2万もいたかどうはともかく、大量死があったことは間違いないようだが、これも実際は8000や4000ほどだったかも知れず、その数でも十分に大量死だといえる。

この長島城の戦いは、織田氏と浄土真宗とで何度か戦われ、最初は反織田連合の勢いに織田軍側は気をとられていたこともあって浄土真宗側が優勢だった。

この長島城は、尾張と伊勢の出入り口にあたり、揖斐川・長良川・木曽川という3つの強い流れをもつ大河川が合流する形で、海に流れ出る河口の三角州(デルタ地域)に建てられていたのが特徴的な城で、大軍で攻めかかるには足場が悪く攻めにい、厄介な城だった。

長島(ながしま)とよばれていたこの地域は「七島(ななつしま)」「屋長島(やながしま)」など呼び方もまばらだったが、その呼び方が全域的なものとして落ち着いたようである。

本願寺の呼びかけに、この地元の半農半士の有徳連合だったと思われる大鳥居衆(おおとりい)屋長島衆らが、浄土真宗の支持を鮮明にした地元の有力寺社の願証寺(がんしょうじ)の呼びかけに呼応して、長島城に集結して織田氏に反抗することになった。

この時に反世俗政権派だった紀伊(きい・和歌山県)の根来衆・雑賀衆(ねごろ・さいか)も、この反抗運動に結託・支援していたといわれる。

そういう動きが実際にできているという事実、つまり軍事規律指導(軍事裁判権)らしきものが維持できている集団が領内近隣にいること自体が、伊勢の北畠氏を降しても伊勢を一円支配できていないことになってしまう織田氏から見れば、非常に厄介だったのである。

長島に連なる伊勢湾西部は「七里(しちり)の渡し」と呼ばれる、熱田神宮のすぐ南側の港から続く、港と港を結ぶ物流や漁業の中継地点が点在していた。

当時この「七里の渡し」が伊勢湾西部の海域の主導権をもち、この物流海上権や漁業権などの特権のあり方も絡んでいた争いだったと思われる。

織田信長は、そういう今までの旧式慣習も、今後は全て世俗裁判権の等族議会制(法的登録制)で再整備・再統制しようとしていた。

織田氏の言い分は、今までの慣習を「一切認めない」といっているのではなく「後々で問題にならないよう、まずは法的な議会制(議事録制・登録制)を通せ」だったのである。

しかしヘタに聖属(有徳)の自治力をつけすぎてしまった、惣国一揆のその慣習が根強く続きすぎてしまった地域は「世俗裁判権側に拝領・保証された特権だという事実などない、自分たちで勝ち取ったこの自治権に、世俗(織田氏)の認可を得る義理などない」になりがちだった。

「かつては商業特権は有力寺社のもののはずだった」と、今まで世俗裁判権に反抗しながらその旧態慣習の聖属裁判権(自治権)を根強く維持してきた、これからも依然としてそれを確保し続けようとした地元の反世俗政権派の不満と、本願寺の利害が結び付いていたのは間違いない。

この七里の渡しの中では庶民政治はうまくいっていたとしても、国際的な法治国家化を目指す新政権の等族議会制として、これからはその認可の保証権を基点とする法的手続き(意見提出・回収整理・認める認めないの議決)を通させる、その肝心な所を不徹底に例外を作っていては、法治国家の実現など遠のく一方である。

戦国前期までに、乱世の終始も地方のまとまりも一向に見られない世俗裁判権に人々も失望し、聖属裁判権の再認識で世俗裁判権を否定して台頭し、庶民政治をどうにかまとめるやり方で成長した、反世俗裁判権派の急先鋒であった浄土真宗も、今更になって簡単に引っ込みがつく訳もなかった所も多かった。

このように「自分たちで築いてきた、それで今までこの地域の庶民政治をやってこれた聖属裁判権(地元有徳たちの自治権)」の自負が強かった地域も、今後の裁判権のあり方の白黒をはっきりさせるために、裁判権争いをせざるを得なくなってきていた。

浄土真宗が根付いていた地域といっても、まずは戦う前に織田氏の説得に応じて浄土真宗(親鸞派・戦国後期では反世俗政権派と化した)から浄土宗(源空派・融和派)に鞍替えした所も、実際は多かったと思われる。

しかしこの七里の渡しの地域のように、自治権の根強さをもち過ぎてしまった所は、それもできなくなっていた、やむを得ない残酷な話といえる。

今後の世俗裁判権(等族議会制)の阻害になるような不徹底な前例は、織田氏としては後でぶり返さないように

 

 「これからの時代はそれはもう、一切認められることなどない!」

 

 「ダメなものはダメだ!」

 

という所を、どうしてもそこを封殺的に誇張・強調しておかなければならなかった。

だから長島城の戦いの死者の多さと残酷さも、これも誇張された方が互いに都合が良かった、だからその風評になるように落ち着いたと筆者は見ている。

それによって浄土真宗側は「長島の大勢の同胞の犠牲を無駄にしてはならない!」ことが強調できて、織田側としても

 「織田政権の等族議会制(裁判権・身分再統制)に従わない反逆者(偽善者)らの面倒など、見てやる必要などない!」

 「そこまで覚悟できた上での、反抗なんだろうな!」


と、反抗しようか迷っていた連中らへのあてつけの恫喝にもなって、互いに都合が良かった。

これもややこしい話だが、本願寺の貫主(かんじゅ。和尚。全代表)の顕如も、織田信長のその言い分の強調を、実は遠回しに助長していたともいえる。

つまり「それだけの覚悟のある者たちだけが、この反抗戦に加わるべきだ」という呼びかけであり、裏を返せば

 「あくまで胸算用だけで浄土真宗に今まで入信・荷担していた者たちは、無理をしてこの裁判権争いを手伝わなくてもよい」

 「浄土真宗にそこまで義理立てしなくてもよい。それぞれの地域の都合を阻害してまで、この裁判権争いを強制・巻き込もうとは思っていない」

 「だから地元ごとの都合を優先して、抵抗が難しそうな所は浄土宗やその他の宗派に鞍替えし、織田氏に早めに従った方がよい」


という、人々を苦しみに巻き込ませないための呼びかけを、むしろ顕如もそこを遠回しに呼びかけていたのではないかと、筆者は見ている。

というのも、なんとも不自然なことに浄土真宗側の文献記録での損害の強調は、この長島城の戦いのことばかり取り沙汰され、その他の損害はどういう訳か全く強調されていないことが、研究者の間で指摘されているためである。

長島の戦いの他にも、関西方面でも織田氏とはかなり痛み分けの戦いが繰り返されながら、浄土真宗側は次第に石山本願寺城に追い詰められていくが、織田氏側の文献記録ではそれに苦戦している様子が窺えるも、浄土真宗側は長島城を除いた損害についての記録は、どういう訳か乏しい。

顕如は実際は品性ある賢明な人物として知られ、またその事実上の副将格・参謀として、優れた軍事指導でこれまで信徒たちを牽引していた下間頼廉(しもづまらいれん。下妻)の2人は、内心は困っていたのではないかと筆者は見ている。

当時の浄土真宗の中心人物だったこの2人は、事情が中途半端にしか理解できていない多くの信徒たちを見捨てる訳にはいかなかったために、表向きは強気の反抗の姿勢を見せ続けていた。


まず 1571 年に反織田連合の事実上の旗頭(表向きの世俗の旗頭は武田氏)に擁立される事態となると、この2人の内心は、少し困惑もあったのではないかと、筆者は疑っている。

長島城の戦いが、日本の今後の政体が世俗裁判権か聖属裁判権のどちらかが主体かを争う分岐点だったと、この両者が見ていたと思われ、これ以降の浄土真宗は、聖属裁判権のために戦っていたというよりも、浄土真宗の格式と存続を巡る戦いに移行している感ばかりが強い。

 

越前と加賀(福井県と石川県の南側)でも浄土真宗の抵抗が目立ったが、こちらも浄土真宗のあり方を巡る戦いというよりも、地元有徳(聖属裁判権)による世俗裁判権(織田氏)への、地元都合の反抗運動の面が強い。(前波吉継と富田長繁と一揆衆との対立)

当時の、織田氏の不都合が浄土真宗の好都合というその奇妙な構図も、この2人はむしろそこを第三者に逆利用されるばかりで少し困っていたのではないかとすら、筆者は見ている。

長島陥落を機に、浄土真宗は次第に織田氏に押されていくが、この浄土真宗が劣勢になればなるほど、浄土真宗に入信しようともしていない織田方の松永久秀や荒木村重が、急に慌てて浄土真宗に荷担し始めた様子は、冷静に見てみると少し滑稽な話なのである。

中国地方の大手だった毛利輝元(事実上の指揮権は吉川元春と小早川隆景)もそうで、この浄土真宗の消滅危機にまるで煽られる形で、慌てて瀬戸内海から毛利水軍で石山本願寺城の支援に向かわせているのも、名目(誓願)の観点からもだいぶ滑稽だといえる。

等族議会制の法治国家化の主体的(最低限的)な名目(誓願・公務公共性・国際品性規律)の手本を強力に示していた織田氏に、それに対抗できるらしい所など、浄土真宗くらいしかいなかった証拠ともいえる。

世俗裁判権と聖属裁判権を巡る織田氏と浄土真宗の対立は、諸氏との裁判権争いの性質が少し違うため、浄土真宗を除くと、

 武家の棟梁としての品性規律の手本礼儀がある、格上側の高次元な織田氏

 それに従わなければならない、格下側の低次元な諸氏ら

という事実上の構図が、反織田連合で一斉に噛み付いてきた 1571 年頃の日本の実態だったといえ、もはや

 

 格下げする側

 

 格下げされることに反抗して長引かせる側

 

の構図だったといっていい。

浄土真宗を牽引してきた中心人物の、顕如(けんにょ)と下間頼廉(しもづまらいれん)の2人は、長島城の敗報を機に「多くの苦しい犠牲を出すことになってしまったが、これで責務は果たされた」と内心ではもっと早くに、織田氏と和解したがっていた、そしてその気脈は織田信長も内心は同じだったのではないかと、筆者は見ている。(順述)

しかし周りがそうさせなかった、早くされると困るから、それを遅らせるために毎度のように第三者が、慌てるように定期的に、その状況を長引かせることばかりしていた。

何かあるごとに、この織田氏と浄土真宗の対立の間に第三者が入ってくるような形で、毎度のように浄土真宗をかつぎ始め、それを長引かせる、という状況が続いた。

顕如と下間頼廉の2人は本当は、織田氏との早めの和解を望んでいたことを諸氏も察知していた、だからこそ織田氏と浄土真宗とでそんなに早く和解されると困るという、あせりの現れにも見える。

第三者らができるだけそれを遅らせようと、毎度のように時間稼ぎの妨害のために、両者の和解を引き伸ばそうとしていたのが、実態だったのではないかと、筆者は疑っている。

 

織田信長もその状況に問題視はしつつも、一方ではそうした利用しようとする反感分子たちの、そのあぶり出しの指標とする、その余裕をもった見方もできていた、だから長島城のように石山本願寺城に、本腰を入れた殲滅戦には乗り込まなかったと筆者は見ている。

後述するが、織田政権の足をひっぱる、つまり等族議会制による法治国家化をできるだけ遅らせようとしていたのが、足利義昭と、公家衆の中の織田氏への反感分子の一派で、織田信長もそういう連中に内心は怒っていた。

そもそも、聖属裁判権(浄土真宗)と世俗裁判権(織田氏)の対立とはいっても、互いに他力信仰的(教義性重視)で、互いに等族議会的な組織性を備えていた高次元同士の争いだったからこそ、少なくとも上層同士では、和解の視野ももちながら争える間柄だったのである。

これは織田氏の領域内でも、浄土真宗の領域内でも、黙っていただけで下々もそこに薄々気付いていた者も、いくらかいたと思われる。

長島城を巡る戦後には、摂津でも織田氏と本願寺との間で激しい攻防戦が行われているが、この摂津での前半戦までが、両者の裁判権争いとしての実質の終結点だったと見ていい。

摂津の戦いは、浄土真宗の本拠地であった石山本願寺城に、織田軍が包囲線を敷きながら追い詰めていく作戦が展開されたが、やはり当初は織田方は苦戦している。

この封鎖線を浄土真宗側に突破され、織田信長の重臣の原田直政(山城勢と大和勢を率いる軍団長だった)が討ち取られてしまうという、大打撃を受けている。

この包囲作戦に参加していた明智光秀(近江坂本勢と丹波勢)も、この時に猛反撃してくる浄土真宗に討ち取られかけた。

包囲線は総崩れになりかけたため、織田信長も慌てて旗本たちを連れて、直々にその救援に向かった。

明智勢も危なかった所を、織田信長の本軍の活躍によって浄土真宗も撤退し、その包囲線の維持に成功しているが、織田信長が直々に前線に出て陣頭指揮を採ったことで、本人も負傷するほどの厳しい戦いだった。

明智光秀が戦死しかけたのを、この時に織田信長の救援で助けられたことが皮肉な話だと取り沙汰されることがあるが、本能寺の変はそんな単純な話ではない複合要因が招いたことを、後述する。

摂津攻略を任されていた原田直政が戦死してしまったため、山城勢と大和勢の指揮は、織田信長の副将格だった佐久間信盛が請け負うことになるが、この時の戦いを機に、摂津の浄土真宗は本拠の石山本願寺城に追い詰められ、その身動きを封じることに成功した。

浄土真宗は、まず長島城の戦いで織田氏に猛反撃を喰らわせ、今度は摂津の戦いでは織田方の包囲線を突破して、重臣の原田直政を討ち取るという大戦果を挙げたこと自体「これだけ我々の軍事裁判力(品性規律)の実績を見せ付けておけば、十分だろう」と内心は思っていたと思われる。

反織田連合の序盤の一斉の噛み付きで、応援軍が間に合わずに討ち取られてしまった織田方の大将格はいたが、直接対決的に織田方の大将格をここまで討ち取ることができていたのは、この浄土真宗くらいだったといえる。

長島の戦いでは、親類の織田信広(信長の兄)、織田信次(信長の叔父)ほか一族の多数、美濃衆の有力者の氏家直元(うじいえなおもと)、また有望視されていた林通政(みちまさ)らが討ち取られ、摂津の戦いでは原田直政が討たれ、明智光秀も討たれかけて織田信長を負傷までさせている。

他にも三方原の戦い(みかたがはら・三河)で武田軍の進出を防ごうとしていた徳川軍の援軍に向かった、織田方の平手汎秀(ひらてひろひで)が、劣勢の中でも果敢に戦い、戦死してしまった例があるが、この戦いは直接対決ではなく間接的な戦いだった。(この時の責任者であった筆頭格の佐久間信盛は、平手汎秀が討ち取られてしまった落ち度を後で織田信長から叱責されている)

総力戦は損耗率の度合いが重要になってくるが、名のある将がどれだけ討ち取られたのか、またどのような戦死の仕方だったのかも、軍事裁判権争いでは重要になっていた。(平手汎秀は人々に高く評価されて惜しまれた)

摂津の話に戻り、摂津のもうひとつの地元連合の代表格であった池田氏は、その有力家臣の荒木村重が頭角を現し、池田氏と交代する形で台頭すると、この一団は関西方面でかつて権威を振るっていた三好氏とのこれまでの協力関係と手切れする形で織田派に鞍替えしたため、摂津攻略(浄土真宗への包囲戦)に当初は有利に働いた。

荒木村重は織田信長から公認されて一応は重臣格扱いされ、浄土真宗への包囲戦にも協力するが、すぐには決着しなかった。

この包囲作戦は、原田直政の後任として佐久間信盛に任されるが、この佐久間信盛は、浄土真宗への威嚇攻撃なり降伏勧告なりの対策に大して積極的な様子も見せないないまま、かなりダラダラとした睨み合いが、その後に4年近く続けられた。

浄土真宗を石山本願寺城に追い詰めたのちに、睨み合いの状況が長引いたため、摂津半国を公認されていた荒木村重はその代替義務として、播磨攻略を任されていた羽柴勢への加勢を要請されたり、丹波の仕置き戦(裁判権改め)を任させていた明智勢への加勢を要請されたりしていた。

それまで協力的だったその荒木村重も、まるで何か大事なことを思い出したかのように、突然に織田氏から離反・反抗する形で浄土真宗に荷担し始める。(この時に、荒木村重の寄騎だった、高槻城の高山重友が窮地に陥る)

まず、織田氏の中央裁判権(国家裁判力)もいよいよ決定的になってきていたことにあせった毛利氏は、織田氏に降伏しようか迷っていた本願寺の様子を見て、それに慌てて加勢する形で毛利水軍を向かわせた。

大軍の毛利水軍が木津川口(大阪湾)・播磨灘に押し寄せてきて制海権を抑え、そこから石山本願寺城を支援し、また播磨の反織田派を煽りながら、織田軍(羽柴勢・近江長浜勢ほか)の播磨再攻略の妨害に動くと、荒木村重もそれに呼応した。

荒木村重が本願寺・毛利連合に組したその様子も、まるで織田氏と本願寺(浄土真宗)との和解が実現されてしまうと困るかのような慌しさで、大和の松永久秀の離反にしても、そこが同じような様子である。

1578 年頃の、毛利氏のその動きに呼応した荒木村重の離反には、織田氏も当初は手を焼いたが、木津川口・播磨灘の制海権を抑えていた毛利水軍(村上水軍)がついに織田水軍(九鬼水軍)に撃破されると、荒木氏も結局攻め滅ぼされるが、これを機に本願寺も観念したかのように、ついに 1580 年に織田氏に降参することになった。

天下の大局もいよいよ見えてきていたそんな頃の、その1年前の 1579 年に、織田領内で顕著になったあの、法華宗と浄土宗の宗教論争が行われたのである。

織田家と法華宗は、檀家と檀那寺(だんなでら)の関係がこれまで続いたといっても、他宗でも外国宗教(キリスト教)でも織田政権の裁判権に従う以上は必要以上のひいきはせずの、教義力次第の保護対象とする態度を、織田信長は強調していた。

織田領内では自力信仰型の法華宗(日蓮派)が多かった中で、毛並みの違う他力信仰型の浄土宗(源空派)の布教が織田領内で目立つようになったために、法華宗の上層の指導部がそれに不満をもったことが発端となった、教義論争だった。

織田信長は和解を勧めたが、織田家が法華宗でありながら何ら便宜を計ってくれない織田信長にムッとした態度で、教義対決を望んだため、やむなく正式な場がその翌年の 1579 年に設けられて争われることになったが、結果は法華宗の大惨敗だった。

法華宗に連なる寺院と信徒たちをただただ失望させるばかりの結果に終わってしまった、ケンカを売るだけ売っておいてのその指導者層のあまりのていたらくぶりを、織田信長からもかなり叱責されてしまった。

この時に中立の立場で審査にあたった南禅寺(禅の思想重視の臨済宗)と、むしろ法華経の経典の理論でいい返した浄土宗のことを、織田信長はこの二者の姿勢の良さを絶賛し、これを以って「織田政権の裁判権に従い、教義の姿勢の良さ次第では、浄土教でも臨済宗でも手厚く保護する」ことが強調された。

それを遠まわし見せられた浄土教の浄土真宗(親鸞派)も、その翌年の  1580 年にはついに織田氏の言い分の「今までの聖属裁判権は放棄し、聖属はこれからは世俗の等族議会制の裁判権(登録制)への提出・整理・裁定・保証に従う」に折れる形で降伏した。

浄土真宗をついに降すことに成功すると同時に、それまでの浄土真宗の包囲作戦を任されていた佐久間信盛は、今までの管理責任を織田信長に厳しく叱責され、これまで7ヶ国の各郡の預かり地を任されていた特権は全て解任・剥奪となり、織田政権からの追放処分となったために、世間も動揺した。

この時の織田信長の、佐久間信盛に対するネチネチクドクドの19ヵ条の折檻状が有名だが、本質的な集約は主に3つほどだったと筆者は見ている。

ひとつ目は、浄土真宗を包囲したのちの対策への積極性が乏しく、その状態をいたずらに長引かせたことが、領外諸氏や内部の反感分子らに政治利用され、厄介な問題を次々と引き起こすことになっていた、その自責の念が乏しかったこと。(後述)

ふたつ目は、織田氏の最重要幹部の重臣たちの中では、この佐久間信盛だけは今まで少し特別扱いし過ぎてきた中、上のあり方の手本としての姿勢が、他の者と比べて佐久間信盛は乏しいだけでなく、それに開き直りの態度すら出していた。(後述)

 

みっつ目は、佐久間信盛に任せた支配地の仕置き(裁判権)の整備について、旧態への懐柔策の協調路線ばかり採り、裁判権改めに遅れが出ていた所を、織田信長に以前からかなりイライラさせていた。(後述)

参謀格として少し特殊だった丹羽長秀を除くと、この佐久間信盛だけは重臣たちの間の中では珍しい、古参中の古参から順当に重役を任されてきたという、譜代の見本になりがちな経歴だったために、より厳しい見方がされたともいえる。

 

念押ししておくと、織田信長はそうなった結果だけでいっているのではなく、人の上に立つ者としての、日頃からの最低限の手本姿勢の部分こそを、特に問題視していた感が強い。

ここでいったん、この佐久間信盛についてまとめておく。

佐久間氏は元々は、その叔父の佐久間盛重(もりしげ)その本家筋だったのを、織田信長の家長指名権によって、この佐久間信盛を佐久間氏の本家筋の家長に公認したという経緯がある。

叔父の佐久間盛重は、桶狭間の戦いの折りに、織田信長の率いる本軍の援軍が来るまでもち応えようと、前線の砦で少数で果敢に戦ったが、援軍が間に合わずに戦死してしまったことは少し先述した。

この時の佐久間盛重の決死の反抗戦は、結果的に今川方の先鋒軍(朝比奈勢・三河松平勢)の出鼻をくじくほどの損害を与え、それが今川方の作戦の支障となり、これがきっかけで織田軍にかなり有利な状況を作ったことは、織田信長は実際はそこを高く評価していた。

桶狭間の戦いは先述したように、今川方はいくら大軍を率いることはできても長期維持できないために、とにかく戦果をあせるしかなかったのと比べ、織田軍は何らあせる必要などなかった。

しかしもちろん、できるだけ相手に損害を与えることや、敵方の大将首を挙げる戦果が挙げられれば、良いに越したことはなかった。

この戦いでは、兵力的には大して優勢でもない織田軍が、大軍の総大将の今川義元の首級を挙げることになったその影響力は、政治的にも大きなものがあった。

織田信長が、この時に大活躍した佐久間盛重の戦死を絶賛しなかったのは「人の上に立つ者とは、それくらいはして当然の最低限」という所を維持したいからだったと思われる。

織田信長は地位の低い者や不利な立場な側には、奨励するための賞賛はしたが、地位が上になるほど賞賛は控えめで、むしろ上としてのあり方をどんどん求めて厳しくなり、しかし待遇もどんどん格上げしていく、という組織作りを信条としていた。

佐久間盛重のこの時の功績は実際には織田信長からは多大に評価され、佐久間一族がその後に優遇される大きなきっかけだったといっていい。

今川義元の首を挙げた毛利良勝(よしかつ)、先に槍をつけた服部一忠(かずただ)の2人が、前線における表向きの戦功の第一と第二とされたが、この2人は地位が低かったから強調されたに過ぎない。

今川本陣が、多勢をうまく展開できないような手狭の桶狭間で布陣しまい、そこを織田軍に乗り込まれて大混乱を起こしている中、先に服部一忠が今川義元を発見して槍で負傷させたものの、服部一忠も今川義元から刀で反撃されて足を負傷してしまい、取り逃がしかけた。

その様子を見ながら後ろから駆けつけてきた毛利良勝が、服部一忠の手柄を横取りすることになってしまうことに一瞬、戸惑いを見せたために、その様子をすぐさま察知した服部一忠はとっさに「俺に構うな!」と声を掛け、それで毛利良勝が、負傷していた今川義元を取り逃がすことなく、その場で討ち取ることに成功した。

毛利良勝も「服部一忠のおかけで自分が討ち取ることができました」とその時の様子を正直に、織田信長に報告した。

 

織田信長も、いがみ合うことなく協力し合い、今川義元を逃がすことなく討ち取ることができたこの2人の姿勢に非常に喜び、服部一忠の戦功こそ表向きは第二としたものの、2人とも同格の昇格をさせることにした。

一兵卒に過ぎなかった2人は、少数ではあるが部下を率いる側の地位に格上げされ、以後は織田政権内の旗本吏僚として、もしくは重臣たちの寄騎として組織に貢献していくが、毛利良勝は本能寺の変で戦死してしまった。

服部一忠の方は織田政権時代の文献記録が少なく、本能寺の変後に羽柴秀吉が中央政権を獲得し始めた時に、改めて吏僚筋として拾われてからは再び記録が見られるが、のちに豊臣秀次事件に巻き込まれて、失脚してしまった。(後述予定)

織田信長が桶狭間の戦いの戦功を、この2人のことばかり表向き絶賛し、佐久間盛重のことは賞賛しなかったために、今までここがどうも見落とされてきた所になる。

叔父の佐久間盛重が戦死し、その甥の佐久間信盛が以後の佐久間一族の総領として、組織の筆頭格として扱われることになるが、これは佐久間盛重に後継者がいなかったことも関係していたと思われる。

また当人の佐久間信盛も、早くからの織田信長の直属の家臣として働き、佐久間氏は尾張再統一から織田氏に協力的だった姿勢も評価され、それでその扱いを公認されることになった。

この、織田氏の筆頭格であったはずの佐久間信盛が大転落した経緯に触れていくが、これは組織が急速に大きくなっていく過程でどうしても出てくる、門閥意識も絡んだ避けて通れない問題も窺える所といえる。

そのため、織田信長と佐久間信盛の関係がどのようなものであったのかの様子も知っておくことも、本能寺の変がなぜ起きたのかの大事な手がかりになる。

まず織田信長と佐久間信盛の信用関係は、美濃攻略までは良好だったが、京への上洛戦以後、特に反織田連合後には、2人の信用関係も乏しくなる様子が窺える。

中央の復興後の、織田氏と朝廷との、今後の見通しの融和対策において、織田信長は組織全体の副将格であったこの佐久間信盛には、名義のみ関与させ、実質はそれに関与させなかった。

その役割は、織田氏から見て新参の、足利家との縁が深く、朝廷の事情にも詳しかった細川藤孝の協力をまず得る形で、その細川藤孝と盟友的な関係だった明智光秀がのちに、その重要な役が主に任されることになった。

この様子は今風にいえば、織田信長という全権会長が、佐久間信盛という本部社長に、大手間の社交界の交流会に参加させない状況が延々と続いたといえ、そこに内心のあせりを佐久間信盛はもっていたと思われる。

これは、佐久間信盛だけがあまりにも順当過ぎる門閥で、今まで家格を得てきた古参筋だったための、織田信長の差配だったと思われる。

織田信長の重臣たちの顔ぶれを見てみると、参謀役の丹羽長秀、旗本吏僚の筆頭格の堀秀政、同じく吏僚としたの性質も強かった池田恒興蜂屋頼隆らを除外すると、順当な古参上がりからの部将格(師団長格)は佐久間信盛くらいで、その順当な基準から見ると他は「なぜこのような経歴の者が?」といえるような、それぞれ訳ありの者ばかりである。

まず柴田勝家は、尾張再統一時代に織田信長と揉めた弟の、織田信勝の家老・参謀として、織田信長の暗殺計画にも関与した立場から降伏した口だったため、出世も遅れるだろうと思われていた。

連枝衆(れんき・親類衆)の中川重政が、佐久間信盛に次ぐ重臣になるだろうと思われていたが、その中川重政を飛び越える形で柴田勝家が佐久間信盛に次ぐ重臣に格上げされ、当時は驚かれた。

滝川一益は、近江南部の甲賀郡(こうが。こうか)豪族の出身といわれ、どうも地元の内部闘争から逃れてきたらしいのを、織田信長に拾われた流れ者だったといわれる。(織田信長の家臣となった経緯がはっきりしておらず、諸説ある)

滝川一益は当時「これからの戦い方を変える新兵器になるのではないか」と見られていた、西洋からの渡来技術の鉄砲に早くから関心を向け、その腕前に優れ、その戦術にも研究熱心だったことから、そういう所が織田信長に買われた。

近江南部の甲賀郡の地元豪族たちは、隣接する伊賀(三重県西部)と伊勢(三重県)の豪族たちの交流の結び付きが深かった者も多かったといわれ、表向きの近江南部の六角氏(ろっかく)、伊勢の北畠氏(きたばたけ)との縦の主従とは裏側の、豪族同士の横の繋がりも強かったといわれる。

 

この滝川氏は、伊勢の名族・木造氏(こづくり)とは親類関係だったといわれ、伊勢と深い関係があった志摩の九鬼氏とも交流関係があったようである。

甲賀出身の滝川一益は、そうした交流関係による情報網をもっていたらしく、伊勢についての地理やその地元豪族たちの派閥関係の事情にも詳しかったようである。(北畠氏は、伊勢領内で乱立する派閥をまとめる再統一ができていなかった)

その縁から滝川一益は、織田氏の伊勢攻略の作戦を主に任され、かなりの活躍を見せている。

そして伊勢攻略後は伊勢北部の支配代理を任され、その後も数々の戦いに参加し、また伊勢湾と関係が深かった九鬼水軍(織田水軍)との連携を任される作戦顧問も担当、のちには関東平定軍の司令官に抜擢された。

ちなみに戦国後期の歌舞伎者として知られる前田利益(利大。とします。前田慶次郎)も、この滝川一族の出身である。

 

織田氏の家臣同士の、滝川家と前田家の友好関係で、前田利家の前当主であった前田利久の養子になったといわれる。

 

この前田家は、織田信長が前田一族の中で才覚が目立っていた前田利家を次代の本家筋の家長として指名し、以後の前田家の当主となるが、前田利益が前田利久の養子としてその後継者になることが織田信長から認められなかったことは、当事者の前田利益としては当時、これに内心の不満はもっていたかも知れない。

 

以後の前田利益は、前田利家の家臣としてではなく別枠の家臣団として織田氏の中で従事していたようだが、こうした経緯や、織田家の中でも少し異色だった同族の滝川一益の気概も、のちの傾奇者としての異色ぶりの影響を与えたと思われる。

 

当時はそうした有力家臣同士の縁組は目立ち、佐久間氏と柴田氏の関係や、それら重臣たちに配属されていた寄騎たちとの縁組による社交関係も、積極的に行われていた。

羽柴秀吉は、織田氏の弓衆(親衛隊)を務めていた浅野氏の親類連合の中の、半農半士の下っ端の最下層から、織田信長に直々に認知してもらった口である。(生駒氏や蜂須賀氏らの交流説など諸説あり)

浅野氏の親類の木下氏の、その実質の家長を指名されるという破格の待遇を受ける形で木下秀吉が誕生し、さらには浅野連合の代表格として織田信長から直々に指名されたのも、異例事態だったといえる。

 

木下秀吉はこの浅野一族の武士団の総長格として、これを下地に、織田氏の組織における幹部としての重役を任されるようになったのである。(このことから羽柴秀吉は、木下党と主従関係のあった半農半士の出身だった可能性も考えられる)

原田直政(塙直政。ばんなおまさ)も、摂津攻略戦で戦死してしまったが、元々はそう大したこともない身分から、旗本の中での手柄の競い合いを見込まれ、山城勢と大和勢の支配代理を任される重臣・軍団長にまで抜擢された口である。

明智光秀は、足利義昭に付随していたのを、足利義昭が朝倉氏を頼ったのちに織田氏に頼った際に、織田信長に見込まれて大抜擢された口である。

明智光秀は正確には、足利将軍家の直属の家臣だったのではなく、足利家の奉公衆(ほうこうしゅう。足利将軍家の直属の親衛隊)のひとつ、三淵家(みつぶち。三管の細川氏の親類)出身の細川藤孝(三淵藤英の弟。みつぶちふじひで)の部下・中間(ちゅうげん)だったといわれる。

細川藤孝が細川氏を名乗っていたのは、表向きの和泉総代の家系だった細川元常(三管家の細川家の重役の家系だった)の後継者がおらず、その和泉守(いずみのかみ)の名跡を継承するために養子入りしていたことによる。(和泉の支配権など皆無で、形だけだった)

戦国後期の中間(ちゅうげん)は、江戸時代の中間とは解釈が少し違い、身分統制令の前からあったこの中間という立場にそもそも正式な基準があった訳ではない大雑把なものだが、戦国時代の中間は、武家との同胞的な主従関係の意味が、江戸時代よりも強かった。

美濃から逃れた亡国の身であった明智光秀は、家格的な領地特権はもっていなかったものの、武家としての明確な立場は維持されていたため、武家側の人間だと見なされていた。

美濃の明智一族(四職の土岐源氏一族)だったといい、美濃の内紛で斎藤道三(どうさん)と斎藤義龍(よしたつ)で美濃再統一を競った際に、明智光安は斎藤道三派として争って破れ、明智一族は居城の明知城を追われるが、何らかの縁で明智光秀は、奉公衆の縁者である細川藤孝に拾われたようである。

没落してしまった当時の、この明知城(今も岐阜県に明知の地名は残り、明知駅もある)の家長だった明智光安が、明智光秀の叔父だったといわれるが、そこもはっきりしていない。

 

その事情も少しややこしく、美濃の元々の代表格であった土岐氏にまとまりがなかった頃に、その介入に越前の朝倉氏と、尾張の織田氏がかつて代理戦争していた縁から、土岐一族である明智光秀の亡命を朝倉氏が受け入れ、朝倉義景(よしかげ)の客将扱いで世話を受けていた。

そんな折に、中央から追われて同じく越前の朝倉氏の所に逃れてきた、その足利義昭に同行していた細川藤孝が、先に越前に寄留(きりゅう)していた明智光秀と出会い、2人は意気投合したらしく、細川藤孝との盟友的な主従関係になったようである。

 

足利義昭が望んでいた支援要請(兄を討って足利義栄を擁立し、中央を占拠し続けていた三好氏の、掃討戦)に、朝倉義景が全く積極的ではなかったのを見て、次に織田氏を頼ろうと使者を送るが、その時に明智光秀が同行していたのを、織田信長に見込まれるきっかけになった。(ここも重要な所として後述)

 

織田信長に見込まれて旗本吏僚に組み込まれていた、元は美濃斎藤氏の吏僚であった猪子高就(いのこたかなり。美濃の有力者の事情を知っていた)が、この明智光秀のことをどうも知っていたらしく、人物評の斡旋もされたようである。

 

明智光秀の娘である明智珠子(たまこ。細川ガラシャ)が、細川藤孝の次代である細川忠興と結婚し、2人の間にできた子の子孫たちが、幕藩体制以降の大藩の細川家の代々の藩主になっていることからも、2人の盟友関係は親密だったことが窺える。

 

足利義昭に同行していた細川藤孝と明智光秀の2人は、織田信長にさっそく見込まれて、政治から軍事作戦から、また朝廷対策の相談役として、信頼されるようになった。

 

細川藤孝も知恵者として知られ、政治の先見性に優れるだけでなく、茶道や歌道にも卓越していた風流な文化人でもあったことでも知られ、中央の貴族層(廷臣たち・公家衆)からもその教えを望まれるほど、一目置かれる人物だった。

 

その交流の縁から、朝廷の貴族(廷臣・公家衆たち)の事情にもかなり詳しかったため、朝廷対策のことで織田信長に相談されるようになり、細川藤孝としても中央復興のために、積極的に織田信長に協力した。

 

表向きの立場は、当時の明智光秀は、細川藤孝の家臣だったことになるが、実際は意気投合の盟友的な間柄だった。

 

織田信長はこの2人について内心では、同格の評価をしていたと思われ、組織の都合で明智光秀が表向きの幹部層として抜擢されると、細川藤孝はその寄騎扱いとされるが、実際の所は細川藤孝のこともかなり優遇している。


明智光秀を近江坂本の管区長とし、丹波と丹後を攻略させていくと、細川藤孝にも丹後の丸ごと一国の支配総代にさっそく任じられていることからも、有力寄騎の中でかなり高く評価されていたことが窺える。

 

室町最大の実力者であった細川氏の、その本家筋であった細川昭元もすっかりやっていけなくなっていて、織田信長に臣従して保護されたが、その庶流のはずであった、何事も研究熱心だった細川藤孝の方が織田信長から遥かに格上扱いされていた。(細川昭元も、本家の著しい落ち目の中で継承し、存続努力の姿勢はまともな方だった)

 

前田利家も、主に柴田勝家の有力寄騎として活躍してきたが、柴田勢(越前勢・加賀勢)の北陸方面への進出が進むと、前田利家にも能登の丸ごと一国の支配総代にさっそく任じられていることからも、前田利家も寄騎の中ではかなり高く評価されていたことが窺える。

 

中川重政よりも格上に抜擢された柴田勝家、浅野一族の総長格に指名抜擢された羽柴秀吉、本家の細川昭元よりも格上扱いされた細川藤孝の、そのさらに格上に抜擢された明智光秀、伊勢の諸氏よりも格上に扱われた滝川一益、才覚で前田家の家長に指名された前田利家、といった、かつての格上と格下の関係が平気で覆されていくことが強調されるやり方自体、織田信長らしいやり方だったといえる。

 

そしてむしろ、こうした家格整備の通過儀礼の経緯をもたない古参体質的な者ほど、いったんは臣従を認められても、その後の姿勢次第ではどんどん格下げされていったため、それに追いついていなかった有力者らの内心は、常に動揺していたことも容易に推測できる。


蜂屋頼隆(よりたか)は和泉の支配代理を、大和では松永久秀の失脚を機に筒井順慶(じゅんけい)が改めて、明智光秀の寄騎となる条件で大和の代表格を公認、また柴田勝家の有力寄騎のひとりであった金森長近(ながちか)による飛騨再統一も計画され、飛騨の支配総代に割り当てられようとしていた。(羽柴秀吉の台頭後に実行される)

 

中央復興後の 1571 年の反織田連合による、織田氏への一斉の噛みつきから、それから10年も経たない内に、織田氏の等族議会制の下(もと)で、部将(師団長)たちだけではなくその寄騎(旅団長)までもが、かつての地方ごとの代表格たちよりも強力な地方の支配者に成り始めていたのである。

 

上級裁判権(公務公共性・主体都合的継続の教義性=あるべき上意下達・トップダウン)の整備、すなわちこれができるだけの家格整備としての家長指名権の体制も、部将と寄騎の動員体制も、地方の代表の公認制も、聖属の収容保証体制も、織田氏の等族議会制だけができていて、他はこれができるだけの内部再統一(そのための選挙戦や議会制)など、とてもできていなかったのである。

 

もはや新たな政権としてやっていけるだけの、別格中の別格の立証ができていたも同然だった、時代遅れの旧態概念を全て覆してしまったも同然だったといえ、これがのちの江戸時代の家格整備の大きな前例として、幕藩体制の維持のために大いに参考にされることになったのである。

 

織田政権がそんな状況に成りつつあった頃、副将格の佐久間信盛はいってみれば、豊臣政権における蔵入地(くらいりち。本家・政権としての税収地。また事業などのための人々の動員の直轄地)の管理者に相当する立場のままだった。

 

織田氏の蔵入地の、各地方の各郡の預かり地こそ多かったものの、他の重臣たちや有力寄騎たちのように、具体的な地方の代表格としての立場ではなく、表向きは筆頭格扱いされていたが、柴田勝家や羽柴秀吉たちの方がいよいよ格上に成り始めていたのである。

 

仮定的に重臣扱いされていたに過ぎなかった、織田派に鞍替えした摂津の荒木村重と大和の松永久秀の2人は、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益らの毎度の目覚ましい活躍ぶりを見せられて、内心はウカウカしていられなくなっていた。

 

佐久間信盛は少し事情が違ったが、織田信長が求めていた人の上に立つ最低限の手本礼儀の姿勢というものが、その重臣たちだけでなくその有力寄騎たちにすら追いついていなかった、だから格下げされかねない内心の気まずさを、地位が高かった者ほどそれをかなりもっていた様子も窺える。


次も、他にも強調された失脚していった者たちの紹介もしていき、その中でも佐久間信盛は少し特殊な存在だったことから、織田信長とは互いにどのように見えていたのかも触れながら、本能寺の変の手がかりに迫っていく。