- 歴史観 - 2021/05/04
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)について触れていきたいが、国際的な問題も少し触れるかもしれないために今回は、その本題から視点を変えたまとめをしていきたい。
まず史学的・国際品性的・自由民権的といえるような、それだけの確認(尊重)の手本姿勢さえあれば何を主張しても許される、それが民権言論の自由原則といえる。
相手よりも、また従来よりも高次元(教義競争・国際品性)の姿勢(手本・説明責任)にさえなっていれば「何が法律(社会性)だ口ほどにもない!」といくらでも恫喝しても良いのである。
その自由民権的な状況回収・意見回収をする場が、そもそもの国会(民権運動)の原則だったことは、人として忘れてならない部分である。(明治初期の博徒問題・民権結社運動)
自身に何の信念(主体性・当事者性・等族義務)も無い、ただ偉そうに面倒がっているだけの人任せな機械洗脳反射のようなケンカ腰(気絶・錯乱・思考停止)の態度で
「皆の勧善懲悪と違う!」
と民権言論の自由原則(主体性・当事者性)をただ否定し合っている自覚(自立自制性)もなく騒ぐことしか能がない、極めて非国際的・非文明的なその典型的な無能(偽善)の姿こそが、ただ下品で汚らしいだけ公的教義の実態なのである。
それと大差ない、ただ自分に甘いだけの低知能・低次元な連中の甘言手口に、まんまと乗せられるべきではない。
そういう分際(偽善者)にこそ「上から順番に制裁」による、まずは言論面(民権言論の自由原則)から自身の最低限の手本礼儀(主体性・当事者性・体現体礼・等族義務・自身の状況回収力・説明責任力)を以って、いくらでも叩きのめしてやれば良いのである。
自身の教義力を以って、劣悪態度の相手の天狗の鼻を徹底的にへし折る
自身の教義力を以って、劣悪態度の相手の精神的支柱(最後の砦の弱みに過ぎないまやかし)を徹底的に踏みにじる
ケンカ腰になる以上は、自身と相手とのその格(次元)の違いをまずは言論面から具体化・明確化して「できて当たり前、やって当たり前」だとする最低限の姿勢(礼儀・国際人道・教義競争)を見せつけてこそが、まずは人として大事な民権言論の自由原則の姿勢なのである。
今回は、当事者それぞれに合ったそうした身近な信用構築力(組織理念・国際品性)の大事な再確認をしていく上で、その妨害になってしまうことの自覚(自立自制)をできなくしていく「悪質な善意の第三者気取り」について触れておきたい。
今回の議題のこの「悪質な善意の第三者気取り」とは、民権言論の自由原則の姿勢になっていない実態の判別方法でもある。
またなぜ人は、同じような信用事故原因を繰り返しがちで、そこに遭難・迷走しがちになるのか、自覚(自立自制性)もないまま限界を自分で作ってしまいがちなのか、その信用事故原因の仕組みの理解への足しに少しでもなればいいという意味としても、整理しておきたい。
「所詮は人間のすること」の類似点として、今一度、荀子主義、孟子主義、孟子悪用主義の構図を用い、その陥りがちな問題が、仏教でいう所の小乗仏教と大乗仏教(しょうじょう だいじょう)の歩みと照合・整理していく。
筆者は今まで荀子主義と孟子主義のことを「性悪説」と「性善説」いう便利すぎる語表現は、誤解を招く原因と見ていたからこそ、今までその語表現では強調しててこなかった。
後述予定の筆者の本能寺の変の件でも、理解しておいた方が良いこととして、今回このことに触れておくことにした。
まず性悪説と性善説の認識のされ方が、二律背反の関係(矛盾と妥協の関係・アンリヴァレンツ)であるかのように、大いに誤解している人がどうも多いようである。
この孟子主義(性悪説)と荀子主義(性善説)の成立の歴史は、「所詮は人間のすること」のごとく、仏教でいう所の小乗仏教と大乗仏教の成立の歴史とも、だいぶ類似点が見られる。(順述)
まず性悪説と性善説の関係は、二律背反の関係なのではなく、荀子が指摘しているように表裏一体の関係なのである。
荀子の主張とは、荀子側の視点としての「性悪説」をまず熟知できていない者が、孟子側の視点の「性善説」を理解できている訳がない、というまさに、裏付けでしかないという核心をついた指摘を、荀子はしているのである。
荀子の主眼とはまずは
① 悪意(悪例)を悪用(いつまでも引きづる)しないようにする
② 悪意(悪例)を繰り返さないために分析活用して善用していく
に立ち返り、そこに向き合い直すことの、いわば信用事故原因(人的信用)の究明の勧めである。
その初歩的な向き合いもろくにできていない、そこにそもそも精通していない、そこを全く扱えられていない者がどうやって孟子側のいう
③ 善意(善例)を絶対に逆手悪用(劣化海賊教義化)しないようにする
④ 善意(善例)をさらにより良い善用になるようにしていく
ことができるのかという、まさにその核心に迫ったのが荀子の主張なのである。
孟子学(性善説)のただの丸覚えの偽善権威(偽善設定)にただ頼っているだけ
それに頼ってただ面倒がりながら偉そうになるだけの怠け癖しか身に付いていない
その機械洗脳反射でただケンカ腰(偽善憎悪・気絶・錯乱・思考停止)になることしか能がない
ただ上(自分)甘く下(外)に厳しい害悪態度を拡散することしか結局していない
今の公的教義と大差ない、主体性(国際品性・組織理念)など何も身に付いていない口ほどにもない騒乱罪的な孟子悪用主義者ども(性善説のただの悪用主義者ども)の思い上がりに「たいがいにせよ!」と警告し始めた第1号が、荀子だったのである。
初歩的な ① と ② の向き合いからそもそもろくにできてもいない、その基本を面倒がりながら偉そうに振る舞う怠け癖しか身に付いていない無能(偽善者)が、どうやって次段階的に ③ を踏み外さずに ④ に至ることができるのかと荀子は警告しているのである。
初歩的な荀子学(性悪説側)の丁寧さ慎重さの確認(尊重)もろくに身についていない者が、その高等戦略となる孟子学(性善説側)を扱おうとすること自体が
できもしないことを、できていることにただ偽善設定しているだけの自覚(自立自制性)もなくなる原因
なのであり、その分だけ普段から自身にも人にも、普段から余計な信用事故原因を押し売りし合っているだけの
ただ偉そうに面倒がっているだけの、ただ自分に甘いだけの孟子悪用主義者
ただ偉そうに面倒がっているだけの、ただ自分に甘いだけの悪質な善意の第三者気取り
の実態なのである。
仏教の世界でも、孟子主義的だった小乗仏教側(有徳層が旧態独占化していく正統派・伝統派)がすっかり孟子悪用主義化するようになったからこそ、当初は荀子主義的にそこが非難される形で、大乗仏教(大衆救済派)の成立に至った歴史をもつ。
このありがちな構図自体は、孟子学(性善説)が結局活用できていないことが後から指摘されるようになった荀子学(性悪説)の成立の仕方と、かなり類似している所になる。
「所詮は人間のやること」として、小乗仏教側のそういう所の非難から始まったはずの大乗仏教も、口ほどにもない公的教義化(悪い意味の小乗仏教化・孟子悪用化)に陥る歴史を繰り返す訳だが、流れとしてはかなり類似している。
③ と ④ が結局できていない、つまりその裏付けである ① と ② がまずできていない分際(偽善者)の集まりが ③ と ④ のことばかりただ偉そうに連呼することしか能がなくなった小乗仏教(インドの元々の仏教体制)が、仏教界(インド内)で物議になり始めるという「所詮は人間のやること」ともいうべき構図は、世界共通といえる。
キリスト教社会でも、16世紀にはついに教皇庁が帝国議会に踏み潰され、そのどうしようもないだらしない中央教義に代わって人文主義者たち(導火線はハドリアヌス6世、エラスムス、ルターら。のちプロテスタント)やイエズス会らが全体を支えるようになった構図も、似たようなものである。
性悪説・性善説という言葉こそ使われていないが、仏教の旧態体制に ① と ② に立つ形で反抗的になって成立されていったのが大乗仏教だったという部分が、性善説悪用主義を警告し始めた荀子主義との構図と、かなり類似している部分といえる。
良い悪いの話を抜きにすれば、小乗仏教は旧約仏教、大乗仏教は新約仏教ということになるが、日本に伝わった仏教は、密教にしても、法華経にしても、浄土教にしても、禅の思想にしても、全て大乗仏教の流れによるものになる。
大乗仏教のアジアでの台頭後も「所詮は人間のやること」のごとく、やはり荀子的視点(性悪的視点・原因究明的視点)を面倒がって偉そうに孟子視点(性善視点)を用い始める、そういう怠け癖をつけ始めるとろくなことにならない歴史を経ている。
そこを喚起していた真言宗の空海や、そういう志もあって経典の集大成体制のために日本の天台宗を作った最澄、そこを喚起した浄土教の源空・親鸞の存在などが、まさにその証拠といえる。
性善説的教義が作られたが結局、ろくに運用できなくなっていったから、その手前不足のための教義として用意されるようになった性悪説的教義ができた、小乗仏教と大乗仏教の経緯・構図と、孟子学の後に荀子学でその手前不足を補い始めた経緯・構図は、全く同じといえる。
歴史が証明しているも同然といえるこの構図とは
A 孟子主義側 = 性善説側 = 小乗仏教側 = 格上側 = 指導者を育成する側
B 荀子主義側 = 性悪説側 = 大乗仏教側 = 格下側 = 大衆を育成する側
の教義の序列構図そのものであり、裏付けである 格下側のB を体得できてもいない者が 格上側のA に至れる訳がない原則そのものなのである。
B側 にろくに向き合いもせずに、その順番を面倒がって偉そうな権力にただ頼って A側 だけ維持し続けようとすれば、いずれ教義崩壊を起こす傾国の原因となるのも当然なのである。
荀子・韓非子が指摘していることとして
「裏付け論(原因究明論)である B への向き合いを偉そうに面倒がっているだけの怠け者の脱落者風情(偽善者)が、できもしない A を丸覚えしていきなり人の上に立とうとする」
その矛盾した劣悪体制の見逃しこそ、まさに
諸国に迷惑千万でしかない、非国際的な思い上がりの傾国主義集団
滅亡して当然の何の主体性(国際品性規律・国家戦略)もない愚民統制国家
の姿なのである。
格下側の性悪説的教義を通過せずに、いきなり格上側の性善説教義を身の程知らずにも得ようとする(偉そうに人の上に立とうとする)怠慢が、
無神経(無関心・無計画)だという自覚(自立自制性)もなくなる
ただ偉そうに万事面倒がってケンカ腰になることしか能がなくなる
そういう所から人を見る目もなくなっていく
自覚(自立自制性)なき「悪質な善意の第三者気取り」の害悪拡散主義者
自覚(自立自制性)なき孟子悪用主義者(性善説の悪用主義者)
の実態なのであり、下品で汚らしいだけの今の公的教義の姿そのものといえる。
最初は A しかなかった、強力な指導者を失った後は結局 A だけでは性善説悪用主義に陥ることにしかならないことが人類史的に気付かれ、後になって段階化的に B が作られるようになる構図は、万国共通なのである。
そしてその構図は、戦国前期と戦国後期の構図にも、類似していえる所になる。
誰も B 側の手本を示そうとせず、皆がそれを面倒がって偉そうに価値争いばかりして A側 に立とうとしたのが戦国前期である。
つまりできもしない性善説でいきなり統制をしようとし、それで日本全体どころか地方すら満足に公務身分再統制(法整備=人の上に立つ基準整備)もできなかった、結局は主体性(教義性)なきただの価値観争いしかしていなかったのが戦国前期である。
それを「たいがいにせよ!」と、そこを解らせるためについに、A のみの「悪質な善意の第三者気取り(勧善懲悪)」を完全否定して、日本中に B を徹底的に叩き込んだ(再教育した)のが戦国後期の織田信長だったのである。
まず織田信長が、そして豊臣秀吉がそれをやっておいてくれたからこそ、それが活かされて徳川家康が日本を今一度、孟子型に立ち直らせ、それで法治国家としての江戸時代を迎えることができた。
B なき A の典型的な身の程知らずのただの価値観争いでしかない構図は、現代人でもそれぞれ身近に起きている多くの事象でもそのまま同じことがいえる、教訓にできるはずの大事な部分といえる。
自身でそれだけの裏付けの性悪説側に向き合うこともできていない範囲のことに、できもしない性善説側の勧善懲悪論をいきなりもち出して、偉そうに面倒がりながら従わせようとケンカ腰になることしか能がない、公的教義のようなその劣悪態度こそが、
自分に甘いだけの「悪質な善意の第三者気取り」の害悪拡散
その口ほどにもない勧善懲悪(ただの価値観争い)の害悪拡散
にまんまと陥っている状況を、余裕をもって見抜くこともできていない者が、それで偉そうにケンカ腰になろうなどと(人を裁定しようなどと)図々しいことこの上ない、騒乱罪として裁かれるべき怠け者の分際(偽善者)なのである
民権言論の自由原則という最低限の礼儀姿勢も無しに、直接の道義関係もないよそに対し偉そうにケンカ腰になろうとする愚行は、格下側の B の中での怠け者の脱落者風情がそれを飛び越えていきなり格上側である A に立とうとしているのと同じくらいあつかましい愚劣行為なのである。
筆者が見ている A側 だといえる者というのは
A に至れる可能性のある、本物といえるような者は10億人に1人いるかどうか
A を目指している側といえるような者は、1億人に1000人もいるかどうか
A を目指してはいるが、途中で脱落していく者は1億人に1万人くらい
だろうとざっと見ている。
しかしそもそも A側 におかしな指標(設定)を置き始めること自体が、当事者に合うかどうか解らないような、ただ偉そうなだけの価値観争いにさせてしまう原因とすらいえる。
そういう邪念に頼り切っているだけの公的教義の偽善設定上下のような、従わせる A 側と、従う B 側という非文明的な「悪質な善意の第三者気取り」の怠慢思考にまんまと乗せられるから、そこに陥るのである。
それだったらむしろ A(性善説) に至るかどうかなど意識せずに B(性悪説)の中であるべき道を目指し続ける、という、つまり達成感のためだけの余計な設定など必要以上にしようとせず、その立ち位置で居続ける方が遥かに健全といえる。
浄土真宗の親鸞の悪人正機説の姿勢などは、まさにその頂点無視の最低限重視だったのである。
むしろ A(性善説側)がどうのなど一切無視して「自分はまだまだ B(性悪説) の中で努力中なのだ」という意識に自身を常に位置付け続ける方が、非国際的な公的教義のようなあつかましさも無くなって健全的である。
格下であるB(性悪説) もろくに通過できてもいない者が その格上であるA(性善説)を巡って偉そうにケンカ腰になって勧善懲悪を言い争おうとする、その公的教義のような非文明的な図々しさこそが、口ほどにもないただの価値観争いなのである。
自身はB(性悪説)の中で努力中だという、健全な相互意識がもてるようになれば、その最低限の礼儀(手本・状況回収の説明責任)を示し合うことも皆が重視し始め、健全化に向かっていくはずである。
まず格下の中のB側(性悪説側)の最低限の礼儀(手本・主体性)から確認(尊重)し合うこともできていない連中が、できもしない格上のA側(性善説側)を面倒がりながら偉そうにいきなりもち出し、勧善懲悪(価値観)の押し付け合いをいきなりやり始めるから、話がおかしくなるのである。
自身が格下のB側(性悪説側)だという身の程をわきまえていないからこそ、できもしない格上のA側(性善説側)を軽々しくもち出し始める自他の愚かさも認識できなくなり、偉そうにケンカ腰になり始め、ただの勧善懲悪の押し付け合い(ただの価値観争い)が始まるのである。
それこそ「思い上がり」である。
そこを心得られていないのは、それだけ「人(人間性・社会性)を見る目もそれだけない」その浅さを露呈させるばかりで結局、人を損させて自身も損させることにしかならない、後で失望し合う関係の中の我慢大会で過ごす先々にしかならない。
織田信長、豊臣秀吉の恫喝も
「まずそれだけの格下側の性悪説側の最低限の礼儀も扱えていない、そこを怠ける脱落者風情が何を偉そうに格上側の性善説側(強者的立場)に立とうとしておるのだ!」
が原則である。
現代においても、いくら「皆のこと・人のことを考えていない!」と熱心に勧善懲悪(価値観)を主張した所で、民権言論の自由原則という最低限の礼儀姿勢の示しがない、すなわち
B(格下側の性悪説) なき A(格上側の性善説) ではないことを自力で言動
できていなければ、その時点で悪質な善意の第三者気取り(偽善)でしかない。
もしそうでないというなら、特に直接の道義関係でもないよそに対してケンカ腰になる以上は「自身よりも対象者の得を優先、自身よりも対象者を損させない優先」が前提の宣告(恫喝)ができるようになるべきである。
筆者は少なくともこの「近世日本の身分制社会」においてはそれが前提だと言い切れる、誰からも謝礼を求めようとも思っておらず、筆者が得をするより、読んだ人にできるだけ得してもらいたいという優先姿勢で書いている。
人の劣悪態度にケンカ腰になる(人のことを裁こうとする)以上は、そうだといえるような、悪質な善意の第三者気取り(ただの価値観争い)ではないといえるような、つまり B 無き A などではないという最低限の礼儀姿勢でやるべきである。
まずその B側(性悪説側) の順番を守ることもできていない、それを怠けているけだけの脱落者風情が偉そうにケンカ腰になろうとする(人の上に立とうとするめ強者的立場になろうとする)こと自体が、その対象者のことをただの勧善懲悪の押し付け合い(ただの価値観争い)のための踏み台にしているだけなのである。
公的教義の劣悪態度のように、人のことを結局ただ踏み台にしているだけのあつかましいその悪質な善意の第三者気取りの無能(偽善)態度のやっていることというのは、偉そうに「皆のことを・人のことを考えていない!」と偽装しているだけで所詮は
対象当事者を得させるため(損させないため・当事者に合う適正性・等族義務)
なのではなく、B 無き A でないという人としての基本を怠けているだけの脱落者風情に無神経(無関心・無計画)に加勢して
悪質な善意の第三者気取り(偽善者)側を得させるため、損させないため
に加担し、相手が損をしてでも自分もあつかましくそれで得しようとしているだけ、それに従わない者が目に付いたらただ偉そうに格下狩りでただ踏み台にしているだけの分際(偽善者)である。
それだったら、偉そうに人間性だの社会性だの人のためだのと体裁を飾るのをやめて、悪意の悪用と善用の考えで「自分は人を踏み台にして得しようと思って、ケンカ腰になっている」とそこに正直になった方が、遥かに自立自制性があるといえる。
その悪質さも度を越えない余裕のあるものであれば、工夫次第ではそちらの方が表裏の面白さの健全性があるとすらいえる。
その余裕ももてていないのに、人間性だの社会性だのをあつかましく訴えながら踏み台にしようとしているだけの、その図々しい愚行こそが、気の小さい悪質な善意の第三者気取りども(ただの風評弁慶ども)の実態なのである。
間違っていようが間違ってなかろうが、言い分が通ろうが通るまいが、ケンカ腰になる(人のことを裁こうとする)以上は民権言論の自由原則という最低限の礼儀姿勢として
自身の教義力を以って、劣悪態度の相手の天狗の鼻を徹底的にへし折る
自身の教義力を以って、劣悪態度の相手の精神的支柱(最後の砦の弱みに過ぎないまやかし)を徹底的に踏みにじる
ことさえできれば、少なくとも国際人道観としてはあるべき許される行為である。
筆者のその意味は、人間性・社会性・公務公共性の面でそんなに正当側に立ちたいのなら、すなわち 格上側(性善説的な強者的立場)にそんなに立ちたいのなら、それだけの格下側(性悪説的な弱者的立場の救済側)の順番を守ることが、人としての最低限の手本礼儀だといっているだけである。
筆者は、孟子学と荀子学の歴史通りのこと、小乗仏教と大乗仏教の歴史通りのこと、戦国前期から戦国後期にかけて織田信長と豊臣秀吉がしてくれた通りのことを、それが人として当然の戒訓だと、ただ主張しているだけである。
そこが心得られている分だけ、普段から悪質な善意の第三者気取りを見抜けられていることになり、国際人道の踏み外しも少なくなってくる。
しかし普段からその甘言手口に頼って同調してしまっている分だけ、自他のそこを見抜く力も著しく低下させていってしまい、肝心な時にろくな判断もできなくなっていくのである。
そこを心得られていない者が、直接の道義関係もない者に偉そうにケンカ腰になった所で、その悪質な善意の第三者気取りをただ拡散させることにしかならないからこそ、控えるべきなのである。
否定や非難をしてはいけないといっているのではなく、もう少し余裕をもった見方で、残念がる程度に自制するべきである。
悪質な善意の第三者気取りを普段から見逃し許しているような、それに頼って人を踏み台にしないと自身の存在感も保てないような自身に甘いだらしない分際(偽善者)が、当事者のためにケンカ腰になっている訳がないのである。
怒る以上は、低次元・低知能な悪質な善意の第三者気取り(ただの価値観争い)のただの押し売り合戦に一緒になって騒ぐのではなく、格下側(性悪説的な弱者的立場の救済側)の順番も守らずに偉そうに人を踏み台にして格上側(性善説的な強者的立場)に立とうとしているその虚像作りに、まず怒るべきである。
国際問題に触れるにしても「間違っている間違っていない」「意見が通る通らない」以前のそうした心得の姿勢がまずは大事だという話を今回、まとめておきたかった。
次も引き続き、近世日本の身分制とはどのような様子だったのか、豊臣政権時代についてまとめていきたい。