近世日本の身分制社会(066/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長・文禄の役)の真意 - 2021/04/21

豊臣秀吉は 1587 年に九州制圧戦で小西行長を介し、キリスト教に帰依していた反羽柴派の勢力を臣従させながら、九州の覇者になりつつあった島津氏を降すことに成功した。

すると豊臣秀吉は、途端にバテレン追放令(西洋人の宣教師たちの規制)を布令したため、キリスト教に帰依していた者が多かった九州だけでなく、全国的な動揺を見せた。

これはまずは、大衆心理の歩き任せ(放任主義の原因)のような、なんでもかんでも「その場の数物的印象」「その場の数物的勢い」にただ頼り切っているだけの共有認識(ただの思い込みやただの錯覚の拡散の迷信)を作らせない、大事なことはしっかり確認させていく意図が強いものだった。

この手口は、織田政権時代のものを前例に、手本にされているため、そちらの詳細は本能寺の変の件で後述することにする。

そしてこの布令は、武家側(公務側)における代表格的立場とその代官ら、また庶民側における名主(なぬし・みょうしゅ・庄屋)といった、人の上に立つ強者的立場となる者たちへの警告の意味が、まずは強い。

つまり強者的立場の者であるほど、その自負が強い者ほど

 「出身筋間(門閥・所属教義)で、必要以上の露骨なひいきと言い争いはしてはならない」

 「そこを中立・公正に見れるこそ者が、強者的立場でなければならない」

という警告が、まずは強かった。

織田信長の姿勢だった

 「織田家と法華宗は、確かに檀家と檀那(だんな)寺の関係が続いているが、織田政権としての聖属全体(各宗派)の見方は、どの宗派でも露骨なひいきはしない」

の貴重な前例が、のちの豊臣政権でも徳川政権でも手本にされた、解りやすい部分だといえる。

九州制圧戦で豊臣政権の天下もいよいよ見えてきた頃の日本は、神道・仏教か、キリスト教か、で揺れていた時期でもあった。

浄土真宗を抑えこんだ織田政権が、キリスト教を許容していたため、次なる他力信仰としてそれに乗り換える者も増え、以後はキリスト教が日本の国教であるかのような流れに、なり始めていた。

天下総無事の過程で、キリスト教が強者的立場になり始めていたために豊臣秀吉は「キリスト教が日本の国教だと、豊臣政権は公認するつもりはしない」と示すようになった。

 

これは厳密には「キリスト教を否定」というより「その勢い任せ主義を警告」するための姿勢だったといえる。

バテレン追放令の5ヵ条の内「日本の国教は、神道・仏教が本筋であると立ち返るべし」とあり、これは豊臣秀吉が朝廷と正式に講和したことで、キリスト教に反感をもっていた者も多かった廷臣らへの便宜も当然あったが、もちろんそれだけではない。

まず、歴史的にもしょうもない日本の公的教義の分際が、偉そうにただ格下扱いするのみで結局、何ら対抗できなかった、

 

 教義の強者的立場になっていった他力信仰の浄土真宗

に続いて

 次なる教義の強者的立場と化した、他力信仰のキリスト教

に対抗できる自力教義力などある訳もなかった。

そもそも公的教義などというのは、GHQの作り物のごとく、よその正しさのいいなりの海賊劣化教義の入れ物でしかない。

浄土真宗に代わって引き続き、

 

 その自力教義力のなさをへし折られ続ける

 

のみの、偶像権力(人格否定・偽善憎悪)に頼らないと何もできない公的教義など、

 

 放っておけばその内にキリスト教のただのいいなりと化す

 

に決まっているのである。

今と同じ、自国教義など何ひとつ守れたことなどない、自国の状況回収など何ひとつできたことがない公的教義を、豊臣秀吉も仕方なく弱者的立場と扱い始めて救済し始めた。

もちろん内心では名族高官主義など否定的だった豊臣秀吉は、このろくでもない公的教義など、当然もち上げるつもりなどなかった。

公的教義が自ら何も大事にできていない、ただその看板(肩書き)のみが大事な見方しかできないのだから、豊臣秀吉もそういう見方しかしなかったというだけの話に過ぎない。

織田信長も豊臣秀吉も、今と同じ数物権威主義、つまり日本全体のただの風評弁慶どもの風潮をどうやって改めさせるかという、政権としての大事な責任(等族義務)に務めている。

それをいかに改めさせるかが、いかに法(社会性)を健全化させていくかにかかってくる部分であり、言い方を替えればここに対する教義改め(風評弁慶改め)が、法の制定をするのも同然で、過言ではないといえる。

この大事な部分がこれまで、ろくに切り込まれてこなかったために、触れていきたい。

筆者のしつこい公的教義に対する非難否定を整理すると

 自分たちの問題(状況回収)を自分たちで解決(整理整合)する知能・手本など皆無な分際(偽善者)が、万事偉そうに確認(尊重)を面倒がって、偽善設定で威嚇(挑発・従わせ合う)こと能がない

 仏性(人としてあるべき人間性や社会性とは何かという意味)にまともに向き合ったことなど一度もない分際(偽善者)が思いついた迷惑千万な偽善規定を、ただ丸覚えさせることしか能がない

 その低知能な偽善設定で人格否定(主体性否定・当事者性否定・等族義務否定)し合い、偽善憎悪(気絶・錯乱・思考停止)し合うことしか能がない


旧態上下権威をただ維持し続け、次代たちに甚大な迷惑と負担をかけ続けるだけの、ただの自力信仰一辺倒主義、孟子悪用主義から何ら脱却できていない態度とは、ひいては

 自身の最低限の基本範囲(状況回収力・主体性・当事者性・等族義務)というものを、自身で制御できていない

 その見方ができる余裕が、そもそもない
 

それが、織田信長、豊臣秀吉が政権の務めとして対処しようとしていた、大衆への「風評弁慶改め」ともいうべき部分である。

何ら自立自制性(国際品性・組織理念・体現体礼・等族義務)など身に付いていない自身の、そのだらしなさを自覚もできずに放任し合っているだけのただの風評弁慶・ただの外圧弁慶どもというのは、ネット上でも溢れ返っている今風でいう所の、

 口ほどにもないただの情報商材弁慶 = 何百億円稼ごうが教義的には口ほどにもない、ただの実績弁慶

 口ほどにもないただの学位学歴弁慶 = 落ち度狩りで従わせることしか能がない、ただの公的教義弁慶

 口ほどにもないただの霊感商法弁慶 = 自力の人文性で迷信打破できたことがない、ただの迷信弁慶

当事者同士の対決・決着を重視できたことがない、それだけの自身の器量(教義指導力・裁定力)もない分際とは、そういう外圧のただのいいなりになって、それに頼って偉そうに人生の先輩ヅラをしたがる無能(偽善者)でしかないのである。


本当に腹立だしいと思い、心底から叩きのめしたいと思うなら、織田信長、豊臣秀吉のように

 自身の本物の器量(教義指導力・組織理念・品性規律)の手本(状況回収力・体現体礼)

をもって、

 

 態度が劣悪な相手の天狗の鼻を、徹底的にへし折ってやればいい

 

だけの話である。

相手の態度がどうしても許せないという以上は、

 自身の器量を以って、相手の天狗の鼻を徹底的にへし折る!

 自身の器量を以って、「最後の砦」に過ぎない相手の精神的支柱を徹底的に踏みにじる!

確認(尊重)することと威嚇(挑発)することの区別もついていない、すなわち

 切り札の強み(尊重) = 確固とした信念・主体性・当事者性・公務公共性・状況回収力・体現体礼

 最後の砦の弱み(挑発) = 所詮は人の力や過去の同調実績に頼って構築したに過ぎないまやかし

の信用区別もついていない相手の、その口ほどにもない部分を徹底的に踏みにじってやればいいだけのことである。

ケンカ腰になる(教義指導力差=裁定力差を見せつける)以上は

 天狗の鼻をへし折る側 : 天狗の鼻をへし折られる側

 口ほどにもない精神的支柱を踏みにじる側 : 口ほどにもない精神的支柱を踏みにじられる側

そんなにそのことが許せないのなら、互いの自力教義力のそこに歴然とした差があることを、明確にしてやればいいだけのことである。

 

それができて当たり前、やって当たり前になっている側こそが、ケンカ腰になる(教義指導力差=裁定力差を見せつける)資格があるといえる。

その教義競争の王者である織田信長、豊臣秀吉からいわせれば

 「それもできん分際で、情勢や価値観にただ騒ぎ、ただ偉そうに指図・要求し合っているだけの身の程知らずの風評弁慶ども(自分に甘いだけの、ただの許される主義者ども・偽善者ども)は引っ込んでおれ! 処刑(格下げ)するぞ!」

である。

 余裕をもって全体像を見る姿勢(状況回収・人的債務信用計画の確認)そもそもなれていない

 所詮は人の力に頼ったり圧力に屈しないとろくに主張もできない

その自覚もできていない、そこを余裕をもった見方ができていないということは、

 

 公的教義の偽善設定の甘言手口にまんまと乗せられ、その理屈をただ押し付け合っているだけ

 

 自責論(人文性)・他責論(啓蒙性)をただ偉そうにすり替え合い、ただ押し付け合っているだけ

 

 迷惑千万なその余計な負担を、ただ押し付け合っているだけ

 

の自覚もできていない、それこそ騒乱罪として裁かれるべき態度なのである。

まずその余裕ももてず、よその低知能・低次元騒動にまんまと乗せられている自覚もできない無能(偽善者)が、偉そうに人に怒りを向けたり笑いものにしている場合ではないのである。

 自分の力で、相手の天狗の鼻をへし折る

 自分の力で、口ほどにもない相手の精神的支柱(最後の砦)を踏みにじる

それができる名目(誓願・等族義務・状況回収力)を誰ももてていない者同士のただの威嚇(挑発)合戦にただ乱入するだけなのは、

 

 偽善設定に過ぎない勝利条件ごときで、偉そうに格下扱いして従わせることしか能がない

 

 偽善設定に過ぎない勝利条件ごときで、ただ勝ち誇った気になっているだけ

 

 偽善設定に過ぎない勝利条件ごときで、世の中を知った気になっているだけ

 

ただの人任せどもの自責論と他責論のすり替え合戦、そのただの指図合戦(押し売り合戦・挑発合戦)をしているだけの自覚がそもそもできていない時点で、人のことを偉そうにとやかくいっている場合ではない、そういう人生観しかもち合わせていない口ほどにもない分際(偽善者)といえる。

ただ自分に甘いだけの、ただ許される主義でしかない風評弁慶どもの威嚇(挑発)合戦にまんまと乗せられ、それに一緒になってただ乱入しているだけの自覚もできない、その自立自制性のなさこそが

 

 当事者間で決着させなければならないことを、毎度のように大勢を巻き込んで海賊教義化させていくことしか能がない


まさに戦国後期に改善に取り組まれるようになった、戦国前期の課題部分である。

「当事者同士で決着させる」という、宇喜多直家の体現体礼でいう所の、

 関係ない者をできるだけ巻き込ませない、一殺多生(当事者殺生)の裁判権(国際品性・組織理念・国家戦略)のあり方

の原則を、それぞれがいったん区別できているかどうかである。

余裕をもってその見方ができていない時点で、迷惑千万な多殺一生の甚大な負担を押し付け合っているだけの、それがただの風評弁慶なのである。

 天狗の鼻をへし折る側と、へし折られる側

 精神的支柱(最後の砦)を踏みにじる側と、踏みにじられる側

その最も重要な肝心な部分を人任せ(ただ風評弁慶に餌付けして調子付かせているだけ)にしておきながら、偉そうにケンカ腰になろうとする(教義指導力差=裁定力差を見せつけようとする)こと自体が

 丸覚えした機械的な安っぽい偶像用語をただ並べて、勝ったことにしているだけ

 自責論と他責論をただすり替え合って(挑発し合って)、口ほどにもない縛り規則(偽善設定)を押し付け合い、余計な信用事故原因を増やしているだけ


 誰かのためといいながら結局ただ踏み台にして、世の中を解ったことにしているだけ

それこそ典型的な「ダメ上司」「ダメ責任者」の人間像そのものといえる。

 

「結局できもしない」ことを「できたことに偽善設定しているだけ」の実態も見抜けられなかったに過ぎない信用事故原因を、自責論と他責論を偉そうにすり替えながらただ人のせいにし続けることしか能がない、それが公的教義と大差ない、何の対応力(主体性・組織理念)もない愚民統制論を延々と維持し続けることしか能がない分際(偽善者)の実態なのである。

 

その最低限も自覚できたこともないにも拘わらず、道義関係もないよそに対して偉そうにケンカ腰(教義指導力差=裁定力差を見せつける)になろうとすること事態、そもそもその矛盾も自覚できたことがない人生観しかもち合わせていない身の程知らずなのである。


そういう口ほどにもない迷惑千万な産業廃棄物を量産し続けるそもそもの元凶は一体どいつなのか、その最も使い物にならない矛盾性癖をただ支えるためだけに貴重な税金や時間が使われ続けることに、もう少し国民は深刻に考えるべきである。

織田信長、豊臣秀吉からいわせれば

 「自身の器量で相手の天狗の鼻をへし折る、という最低限の規律も示せず、ただの風評弁慶(ただ自分に甘いだけの無能)どもにエサを与えて調子付かせる騒ぎ方しかかできない下品で汚らしい身の程知らずどもは引っ込んでおれ! 処刑(格下げ)するぞ!」

なのである。

個人にせよ組織にせよ、そこに余裕をもった見方ができないということは、内部問題をろくに片付けられない不満そらしを外に誘導することしか能がない、そういうだらしない国体(組織理念)の見方しか結局できない、そういう口ほどにもない人生観しかもち合わせていない証拠といえる。

よその国のそういう所に、偉そうに格下扱いしながら優越感を楽しんでいる場合ではない、日本国内の内情もそれと大差ないと再認識するべきである。

戦国後期とは、閉鎖有徳を取り締まるようになった反面、風評弁慶(ただの人任せの数物権威)で偉そうに指図・要求し合う面でもついに許されなくなる自覚もされ始め、その態度も裁かれるようになる、等族議会制(法治国家化)の基準が教義競争された時代である。

ただの風評弁慶のまやかしも見抜けない、すなわち人の上に立つべきでない者をいつまでも許し続ける偽善集団(公務身分統制放棄=愚民統制団)は、それができている国際規律(主体性)がある側からまず調略で切り崩されながら、ただ図々しく維持され続けてきた格式(身分)が、著しく低下させられていった時代である。(孫子の兵法でも国際規律として指摘)

これは現代としても「時代に合った改革も主体的に進めながら、良い提供物を作り続けている」ことができている他社に、それに全くついていけなくなって、過去の実績にただ頼り続けるばかりになってしまった競合商社が、その内にやっていけなくなる理屈と全く同じである。

結局はよその実績の背中をただ追いかけることしかできず、その中でも「自分たちに合ったやり方を、主体性をもって自分たちで摸索」していくことも結局できなかった、下請け根性でしかなくなってしまった競合商社は、年々不利になっていくに決まっている理屈である。

所詮は競合相手の主体性の王者(中央裁判権の理念)の背中をただ追いかけているだけの、その下請け根性(地方裁判権止まり)の存在でしかないなら、その傘下にならざるを得なくなってくるのも必然的な話となる。

法治国家の実現のために、非同胞拒絶反応(多様化の合併アレルギー)の状況回収に向き合いながら、今までの風評弁慶任せもやめさせていかなければならなかった、そこが最も努力された時代でもあったのが、織田政権時代、豊臣政権時代だったのである。

乱世から、その公務身分統制の法治国家の形をどうやって作っていくのかが問われた当時は、現代でも教訓にできる所が多い。

そういう所の自戒など皆無な公的教義(天台宗)の再建を支援した所で、自力で教義を立て直せる訳がないことなど、豊臣秀吉も解りきっていた。

自力教義力を身につけることなどありえない、歴史的にしょうもない今と同じこの公的教義は、少なくとも荀子政治で監視される内はいくらでも抑えが効くからこそ、この役立たずが最底辺教義と見なされる形で逆利用されただけに過ぎない。

公的教義(天台宗)へのこうしたあきれた見方は徳川政権になっても同じで、孟子政治的だった徳川政権ではそこがもっと露骨である。

豊臣秀吉は内心はそう思っていても、廷臣たちの方から歩み寄ってきたことは評価し、表向きはその態度は露骨には出さないという寛大さを示した。

しかし孟子的だった徳川政権では、徳川家康が亡くなってしばらくすると、公家諸法度を制定していく過程でその態度を露骨に出すようになっていった。

ついに弱者的立場と見なされた宗派(といっても、そんなだらしない対象は公的教義くらいだが)が救済される形で、自力教義力を身につけ過ぎた浄土真宗や、対抗意識で信徒を増やしていた法華宗らが、槍玉に挙げられるようになってしまった。

豊臣秀吉は、臣従した各地の外様(とざま・各地方地域で臣従を公認された代表格ら)たちに対してだけでなく、豊臣家の直臣筋らに対しても、所属教義や門閥(出身筋)といった狭い人生観視野を露骨に強調すること自体、反逆者(格下げ対象)扱いし始めた。

その手始めともいうべきバテレン追放令の恫喝によって、豊臣秀吉が何をいっているのかのその政治的な意図をすぐさま察知した強者的立場たちは、今まで許されていた、露骨に所属教義びいき、門閥びいきしていた態度を、慌てて控えるようになった。

豊臣秀吉からいわせれば、地方の代表格ともあろう者が、また中間管理職的な立場ともあろう者が(強者的立場ともあろう者が)

 「人の上に立つべき者が、そういう露骨な所属教義びいき、門閥びいきをするとは何事か!」

 「それこそ人の上に立つ資格(公務公共性)などない、迷惑千万(騒乱罪・乱世の原因)な反逆者(格下げ対象)の所業である!」

なのである。


そうなったばかりの時期だったからこそ、上層ほどその意味は理解できていても、中間層以下はやはりそこが中途半端にしか理解できていない、つまり風評弁慶(ただ自分に甘いだけの、ただの許される主義)に流されてばかりの者も、まだまだ多い時代だった。

 

だからこその豊臣秀吉の「上がまとまりもないまま、それぞれの所属教義や門閥の格式の誇り合いばかりして、下への風評弁慶(不健全な巻き込み)を助長してどうするんだ! それでは戦国前期と何も変わらんではないか!」だったのである。

織田信長がその対策が少し難しく、解りにくかったからこそ、豊臣秀吉がそこをもう少し解りやすくする形にしていったからこその、上へのその恫喝も目立った部分になる。

小西行長が丁度、そうした手本の指標になっていたと見ることができる。

豊臣秀吉に早くから信任され、前線現場筋と政務吏僚筋との仲介役を任されるようになった小西行長も、そういう意図もよく解っていたから、指令上では自他の所属教義のことや門閥のことは、露骨に出さなかった。

小西行長はそういう所も豊臣秀吉に見込まれて信頼されたからこそ、求められた重要な役割にもしっかり対応することもできていたといえ、こうした信用基準は他にも、見込まれて大領を公認された前田利家にも共通していた所といえる。

豊臣秀吉は「この小西行長のような、あるべき品性態度の者こそを、今の政権は求めておるのだ」と小西行長の存在を指標にしていた。

豊臣秀吉は、所属教義びいき、門閥びいきを厳しく監視するようになったが、法治国家としての政権の公認を超えないものであれば、表向きは厳しくても、信仰自体は容認はしていた。

所属教義びいき、門閥びいき(数や勢いに頼ってばかりの風評弁慶)を抑えなければ、それを引き合いに言い争い始め、当事者間で決着させるべき問題も全て大勢を巻き込んで、うやむやにしていく劣化海賊教義化・劣化権威化・教義崩壊化(戦乱)の原因となるのである。

豊臣政権とは、法治国家化のためのやむなしの、そこを諸氏に教え込むための、その嫌われ仕事の恫喝の発信機関、日本全体のそのための修業道場でもあったといえる。

朝鮮出兵の厳しい軍役も、半分はそれが目的だったと見て良い。

織田信長に続いて豊臣秀吉も、名族高官主義をあてつけに否定するかのように、今まで評価されずに埋もれていた人材を派手に抜擢し、大出世させることもした。

また、今まで不当な旧態上下で意欲や希望を奪われ続けてきた下(弱者的立場)を大救済するための行政体制を、織田信長に続いて改革していった。

 

しかしその反面では、国内紛争を完全に止めさせるための、下の弱者的立場への悪影響になりやすかった、その原因の風評弁慶を上の強者的立場が作りがちだった、そのための上からの強い規制も顕著になる。

 

これは、織田政権、豊臣政権が荀子主義だったからこそ、そこもそれだけ顕著だったともいえる。

当時は今以上に、地位が中途半端な者ほど「これからはこの概念に価値がある、格上げ(社会的地位)のきっかけになる」という大衆価値的(風評弁慶的・数物権威的)な部分ばかり追いかけようとし、価値任せ主義(人任せ主義)に皆がそれに飛びつこうとするだけの者も、それだけ多かった。

 皆がキリスト教こそが人道といっているから、キリスト教に帰依

 茶道に詳しければ人道を指導する資格があるとされるから、茶道に詳しくなれば良い


 それが人を従わせる理由(正しい立ち位置に立って人をうちのめしても許される)になる


という機械的な安っぽい見方しかできない、政治精神性(主体性・組織理念・国際品性)など何ひとつ教えられない、乱立され続けるその機械的な安っぽい情報商材商法機械的な安っぽい公的教義商法機械的な安っぽい霊感商法らと大差ない、結局は人任せなだけの安直な考えも、著しく蔓延しがちな時期だった。

これは本人に、それだけの信念(主体性)で真剣に向き合えているはずだったなら、これに何ら気分を害すこともなく「そういう、いい加減な者も確かに多い」という余裕をもった見方ができるはずであり、その指標こそが、まずは重要なはずである。

これまでは政争のどさくさで、力づくで奪い合ったり恨みを晴らしたりすることもできた戦乱を、ついに天下総無事令で戦乱という名の、下を巻き込んで下に甚大な負担をかけようとする偉そうな情報商材巻き上げられるようになって間もない、法治国家に皆がまだ慣れない時期だったために、そういう大衆心理も働きやすい時期だったのである。

それもまだ天下総無事違反による軍役があった内は、風評弁慶に流されやすい解らず屋たちも当面は「従わせる側と、従わせる側」の解りやすい指標でどうにか自立自制性を維持できていた。

しかしそれがいよいよ終わってしまうと、今までの攻撃的な偉そうな風評弁慶の人格否定に頼ってばかりいたのを止めさせられた者らが、だらしなくもその禁断症状(合併アレルギー)を起こすようになった。

 

ここは現代と全く同じ、自身で何ら人文性(自責)啓蒙性(他責)も大事にできていない、その区別すらできていないにも拘わらず

 

 「皆の勧善懲悪と違う!」

 

とただ偽善憎悪(気絶・錯乱・思考停止)で偉そうに攻撃的になることしか能がない、

 

 自身の器量(教義指導力・等族義務・状況回収力)を以って、態度の悪い相手の天狗の鼻をへし折る

 

ことなどできたことがない、そこに自身で責任(等族義務・信念・誓願)をもてたことがない身の程知らずの分際(偽善者)で、偉そうにカンジョーだのジョーシキだのシューキョーだのと機械的な安っぽい言葉を並べて人生の先輩ヅラ(家長)を気取ることしか能がない、それがただ偉そうなだけの口ほどにもない風評弁慶どもの実態なのである。


豊臣秀吉は、そういう風評弁慶ども「ただ面倒がって外(朝鮮半島・中国大陸)に向けた」のではない。

 

少々のことで禁断症状(合併アレルギー)を起こして攻撃的に騒ぐことしか能がない、そこから卒業できないだらしない全国の解らず屋どもに徹底的に解らせていくための、そのためのもはや懲罰軍役の教育訓練だった、それが朝鮮出兵の実態だったのである。(その他の目的も後述)

織田信長の荀子政治の

 上から順番に制裁

 下から順番に救済

が引き継がれた豊臣秀吉のその部分とは、織田信長より控えられた所もあれば、より凄まじい所もあった。

 

豊臣秀吉の、かなりのすっとぼけながら始まった朝鮮出兵は、増田長盛ら政務吏僚たち、浅野長政、徳川家康、前田利家、加藤清正、小西行長、宗義智(そうよしとし)あたりも、表向きはとぼけていただけで、その真意は理解していたのではないかと、筆者は見ている。

豊臣秀吉が、朝鮮出兵というこの強烈な懲罰軍役の引き締めによって、上への思い上がりを懲らしめておいてくれたからこそ、徳川政権時代にこの上なく活かされるようになった。

 

豊臣秀吉は

 

 「ただ偉そうなだけの価値観利害で常に誰かと合体したがり、常に誰かと延々といがみ合いたがるばかりの気の小さい欲張りどもは、たいがいにせよ!」

 

 「そんなに延々と誰かといがみ合っていたいのなら、お望み通りいがみ合う理由を作ってやるから、そこ(朝鮮半島と中国大陸)で好きなだけいがみ合ってこい! いくら危機的状況になろうが日本に帰ってくるな!」

 

 「あるべき法(社会性・等族義務・国際品性)のあり方のためなどではない、ただ偉そうなだけの価値観の誇り合い・奪い合い・打ちのめし合いばかりの欲張りどものいがみ合いはもうコリゴリだと、心底そう思えた者だけ帰国させてやる!」

 

と、現地の戦況など正直知ったことではないといわんばかりに、容赦ない前進指令ばかり強行した。

 

その非常に綺麗で美しい懲罰軍役で徹底的に打ちのめされた諸氏も、その意にだいぶ反省するようになり、徳川家康のその後の対処の良さもあって皆、偉そうな愚かな欲張り争い・価値観争いはだいぶ控える(償却する)ようになった。

 

強者的立場の者たちが、大した整理整合(教義性)もない価値観(人生観)のことでほんの少しでも偉そうに不満を挙げて押し付け合うようなことを始めようものなら、その甚大な悪影響を弱者的立場にあっという間に広めてしまうことになる。

 

それが、大勢を巻き込んでばかりで誰も事態を収拾し切れなくなっていくという、戦国前期の愚かさ(無神経さ・無関心さ・無計画さ)だったという所も、これによってかなり自覚されるようになった。

 

法(社会性=組織理念の主体性)のあり方を巡って真剣になって争うのではなく、ただ多忙になりたがるばかりの暇人どもが、ただ偉そうなだけの口ほどにもない価値観(人生観)のことでいがみ合おうとする、平和になったら平和になったでそういう所ばかり競おうとする、その平和のありがたさをどうも大事にできていない者が多かったための、懲罰軍役だったといえる。

 

次もその頃の様子などについて、引き続き触れていきたい。