近世日本の身分制社会(065/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 豊臣秀吉の九州制圧戦と宗教対策 - 2021/04/09

羽柴秀吉が 1585 年に土佐の長宗我部氏(ちょうそかべ)を四国制圧戦で従わせ、続いて 1586 ~ 1587 年には九州の大手・島津氏を九州制圧戦で従わせることにも成功した。

九州統一を目前にしていた島津氏は、格下げも目に見えていた羽柴氏の天下総無事令を結局聞かず、九州の覇者としての家格を身につけようと反抗したが、その力量差を見せ付けられて降参することになった。

四国よりもっと規模が大きかった九州制圧戦も、緒戦では地元の頑強な抵抗に、羽柴方も最初は苦戦している。

降したばかりの四国の長宗我部氏、親交で臣従した中国地方の大手・毛利氏を始めとする西側諸氏にも、この九州制圧戦のための軍役(国際軍事裁判権)が指令された。

九州全土を巡る大規模な制圧戦では、羽柴方は四国攻めの時よりもさらに大軍化し、四国攻めは15万、九州攻めは20万といわれる。

日本でそのような動員が当時できたのは織田信長羽柴秀吉くらいしかおらず、のち徳川家康も同格の指令力(裁判力)を身につけるが、それを可能としたこと自体が、源頼朝足利義満といったかつての強力な武家の棟梁(日本全体の家長・元締め)以来の快挙だったといえる。

この戦いでも小西行長は、前線の輜重(しちょう・兵站)を支え、また大勢の諸氏が揉めないように調停するという、地味ではあるが重要な役割を任せられた。

九州制圧においてはさらに小西行長も、軍事・調略面でも目立った活躍もしている。

羽柴秀吉はこの九州制圧での緒戦は、諸氏の将器を見出して機会を与え、手柄を立てさせて格上げしようとする人選もしている。(尾藤知宣や仙石秀久ら他)

しかしそれでやらせてみたものの、性急に大軍化していく中の不慣れでの前線はイマイチまとまりがなく、それもあって九州をよくまとめることができていた島津氏のさすがといえる猛反撃に、最初は苦戦した。

羽柴秀吉も出馬することになり、前線には弟の羽柴秀長も出てきて現場をよくまとめ、包囲線を敷いて着実に島津氏を追い込むようになると、戦況はどんどん羽柴方が優勢になっていった。

島津氏は緒戦での勢いを失いながら、しばらくは抗戦を続けたが、あまりの力量差を見せ付けられる形で降参することになった。

島津氏は、天下総無事令に反抗した不届きこそあったものの、多くの家臣たち、多くの庶民たちを守ろうと戦ったそれまでの組織のあり方は、羽柴秀吉から評価されるという、寛大な対応を受けた。

島津氏は、九州の大部分の支配権を放棄させる条件として、改めて地元の薩摩と大隈(おおすみ。鹿児島県東部)2ヶ国その他の領地特権でおよそ50万石ほどの大名として、羽柴秀吉から寛大に公認されることになった。(ここがのちの、長州と同じくの倒幕の大きな震源地となる)

九州制圧戦が起きた 1586 年には、それまで親交的だった北陸大手の上杉氏も正式に新政権(豊臣政権)に臣従し、毛利氏と同じく優遇的な家格が公認されている。

四国制圧戦に続いて九州制圧戦が起きた時期は、羽柴氏(豊臣氏)による新政権で日本がひとつにまとまろうとしていた流れを、皆もいよいよ意識し始めていた頃だった。

1584 年に羽柴氏と小牧・長久手で争って休戦した徳川氏も、格下げされないよう、家格を身に付けようと、九州制圧戦が行われる 1586 年まで態度を曖昧にし続けながら、対立者であった上杉氏北条氏との間で信濃・甲斐・上野を巡る争奪(天正壬午の乱=本能寺の変の影響の信濃・甲斐・上野の混乱、の延長戦)をのらりくらりと続けていた。

1585 年の四国制圧戦で、諸氏を動員できるほどの国権(国際軍事裁判権。それだけの規律)を羽柴氏がもはや行使できることも明らかになってくると、当時はそこまでの裁判力はさすがになかった徳川家康も、1586 年についに観念するようになる。

1587 年には羽柴氏よる九州制圧戦も果たされて、西日本側の天下総無事は達成したも同然となり、同時に上杉氏と徳川氏の2つの大手の臣従も達成された。

それまでは徳川氏と北条氏は家格欲しさにのらりくらりと争っていたが、もう1つの対立者であった上杉氏が羽柴氏から優遇扱いされるようになると、「羽柴氏・上杉氏」への対抗意識として「北条氏・徳川氏」で同盟して、東日本における二強主義を強調するようになっていた。

しかしその徳川氏も、豊臣氏(羽柴氏)に臣従することになってしまったために、北条氏は色を失っていた。

北条氏・徳川氏による二強主義は、それだけの力はなかった東日本の残りの諸氏から見れば、大きいものがあった。

しかしだからといって、その連合の名目(誓願)によって関東から東側の全て諸氏を一斉に従わせ、対豊臣氏のための動員力(国際軍事裁判権)を維持できるのかと問われると、できたとしてもせいぜい数ヶ月で、両者の国際裁判力の差は明白だった。

その二強主義も所詮は豊臣秀吉から見れぱ「地方裁判権と地方裁判権が一時的に合体したに過ぎない、中央選挙戦(中央的再統一・中央裁判権の確立)といえるような名目(誓願)が成立している訳でもない、他愛のない存在」に過ぎなかったのである。

徳川氏は実質は羽柴氏にお膳立てまでしてもらい、どうにか折り合いをつけてなんとか臣従することができたが、北条氏も格下げも覚悟で羽柴氏に臣従しなければならない時期を、ついに迎えてしまった。

 

最初に徳川氏が、東側の大手に対する格下げの基準にされかけた立場となったように、今度は関東から東側における格下げの基準に、大手の北条氏がその立場になってしまった形である。

北条氏は関東の最大手として、上杉氏、徳川氏よりも格上の自負も強かったことで、その和平交渉は徳川氏よりもさらに難航した。

1586 年末から 1590 年までの北条氏との和平交渉は約3年ほど続いたが、この間は関東より西側では大きな騒乱は起きず、制圧戦も行われなかった。

その間には豊臣政権による、これからの法治国家のあり方としての日本の行政改革がどんどん進められ、豊臣秀吉が健在な内は少なくとも、中央政権は確立したも同然と見なされていた。

 

この間には身分統制令(後期型兵農分離)の影響で、各地の軍縮も少し進みつつあり、各地の騒乱もついに治まって平和がもたらされた影響で、土地開発に専念できる地域も増え、国力を身に付けるようになった所も増え始めていた。

朝廷とも正式に親交する形で、豊臣姓を与えられて皇室にも公認されるという典礼も受けた豊臣秀吉は、少なくとも本人が顕在である内は、織田政権に代わって豊臣政権が法治国家を肩代わりできることが立証されたも同然となった。

バテレン追放令( 1587 )、海賊禁止令( 1588 )と続く形で、宗教問題、海の問題にも具体的に着手されるようになったのも、そのような状況の頃である。

東北方面では伊達氏「豊臣政権による、関東・東北での具体的な裁定が始まってしまう前に、なんとしても家格(国際品性・国際規律)を立証しておかなければ」と地方統一戦を頑張っていたのが目立ったが、それももはや豊臣政権との来たるべき対面が強く意識された、戦国末期の近世的な統一戦と化していた。

その3年間で北条氏は、大勢の家中の、一部の抗戦派を結局抑えきれず、豊臣氏との交渉決裂を象徴する名胡桃城事件を 1590 年に起こしたのを機に、関東制圧戦(小田原城攻め)が開始された。

これからの最低限の手本としての、中央の新たな行政法制・身分統制令(社会認識)が関東にも波及していくと、それについていけずに格下げも必至になってきた一部の北条家臣が錯乱・暴走を起こしてしまった、それを象徴する事件だったともとれる。

北条氏自慢の、難攻不落を誇った巨大な小田原城に対しても、むしろそれを大包囲・輜重体制を長期維持できるだけの、今まで誰もできなかったその政治力が豊臣政権にはあることが示される形で、半年ほどで北条氏は敗れ、改易された。

視点を 1586 年から 1587 年にかけて行われた九州制圧戦に戻し、海の問題と合わせ、九州にはキリシタン勢力も多かった面でも小西行長もその対策に深く関わっている。

小西行長は、それまでキリスト教徒という正式な強調はしていなかったものの、キリスト教徒との友好的な交流によって、キリスト教徒同然に見られていた。

かつて織田信長にも評価された高山重友が、その頃には日本人キリスト教徒の代表格に目され始めていた頃だった。

宣教師たちから熱心に教理と典礼を学んでいた高山重友は、織田政権時代から、キリスト教に興味をもっていた織田家中の間でも評判になり、指導を受けたがる者が増え始めていた。

小西行長も、日本人キリスト教徒の代表格に成りつつあった高山重友から、キリスト教の帰依の正式な式典を 1586 に勧められたため、それを受けて小西行長もキリスト教徒であることが強調された。

高山重友はこの時点で、ほとんど日本の司教も同然の特殊な存在に成りつつあった。

豊臣秀吉は、九州制圧戦でも小西行長を重要な補佐官として位置付けていたが、九州に多かったキリスト教徒の調略に活用するための容認もあった式典だったと見て良い。

九州制圧戦が終わった矢先の 1587 年、バテレン追放令(キリシタン禁制)を布令しているが、これはただの安直な利害采配などではないややこしい政情として、何が起きていたのかを順番に説明していきたい。

その前にまず、少し複雑な経緯をもつこの高山重友について、戦国後期の特徴としても今一度、整理していく。

この高山氏は摂津(大阪府北部)の国衆出身で、地方の要所であった高槻城(今の大阪府高槻市)の和田氏の重臣だった。

和田氏が地元をまとめきれなくなっていく一方、キリスト教に熱心だった高山氏が和田氏を凌ぐ人望・人徳を身につけるようになり、抗争を通した高山氏による、和田氏との高槻城主の交代劇が起きた。

摂津全体の代表格としては、元々は浄土真宗池田氏の二大勢力で均衡していたが、池田氏もかつての力を失っていくと、その直臣で躍動的だった荒木村重が、池田氏に代わって代表格を肩代わりすることになった。

こちらも多少の抗争は経たが、池田氏は失脚したというよりも荒木氏の重臣と扱われる形での、政治的な交代の性質も強かった。

高山氏にとっての元々の主家だった和田氏が、元々の摂津の代表格であった池田氏の寄騎であったように、両者で交代劇が起きたことによる、そのまま高山氏が荒木氏の寄騎という形が継続されることになった。

衰退が目立っていた関西方面の三好氏に対し、中央に進出してきた織田氏によるその排撃も顕著になると、織田信長は摂津で目立っていた、三好氏の傘下扱いだった荒木村重に関心を向け、織田政権の部将格として傘下に入るよう呼びかけた。

 

荒木村重も三好氏と手切れをして織田氏に応じることになったため、そのまま荒木氏に付随する形で高山重友も、織田軍団に組み込まれることになった。( 1574 年頃 )

織田信長は荒木村重を見込んでいたが、その寄騎で、能力面・品性面だけでなく熱心なキリスト教徒としても目立っていた高山重友のことも、もちろん注目していた。

1578 年頃にはもはや天下の趨勢も見えてきていた織田氏が、西側の最大手の毛利氏と激突するようになると、その時の織田信長からの肝心な参戦指令に荒木村重は離反し、毛利氏・浄土真宗・播磨の反織田派らの、反織田連合側に組するようになった。

荒木村重は、織田家からも周囲からも思い直すように説得されたが、結局離反の姿勢を変えようとはしなかった。

 

織田信長は、その寄騎であった高山重友に対し、荒木氏と手切れをして織田側に味方するよう呼びかけたが、高山重友はそうしたくても、荒木村重に家族を人質にとられていたために進退に困っていた。

当時、寄騎として従う証として、子を主家に預け、主家に後継者としての典礼を受けて保証してもらう一方、何かあった時に離反させないための人質として抱え続けることは、どこも基本になっていた。

荒木村重からは「離反せず従え。人質を処刑するぞ」、織田信長からは「従わなければ摂津におけるキリスト教は全て閉鎖有徳と見なし、容赦しないぞ」と両者から迫られた高山重友は、窮地に陥った。

そこで高山重友は、その時に非常手段に出たやり方が、それが織田信長からより評価を受けることになり、多くの人々も驚かせた。

この時に高山重友は「自身はキリスト教徒としての立場でさえあれば良く、これまでの士分階級の家格も領地権も、これより放棄いたします」という荒技に出て、単身で織田信長の前に出頭し、捕縛してもらうという策に出た。

本来なら荒木村重は、自身が指令する軍役に高山重友が従わない時点で、慣例通りに人質を処刑し、見せしめを示さなければならなかった。

しかし高山重友の家中はキリスト教徒が多く、領民も仏教からキリスト教に乗り換えていた者も大勢いて領内では絶大な人気があったために、その「全てを投げ出し、キリスト教に全てを捧げる」という軍役放棄の仕方で織田信長に捕縛されるという形を採ったことに、荒木村重を逆に困らせることになった。

荒木村重も摂津における反織田派を鮮明にした手前、ただでさえ不安定だった摂津での支持力を、対処を間違えてその低下を招けば、致命的になる恐れもあった。

高山重友はただキリスト教に熱心なだけでなく、単独の兵力こそ小さいものの戦上手として知られ、政治上のことも時代に合ったものは、国内外に関係なく関心を向けて研究熱心になる知恵者としても知られていた。

織田信長もその事情を理解しながら、それをとぼけるように「高山重友の裁定はとりあえず後回しとし、摂津でのキリスト教はこれまで通り織田氏が再公認し、城主不在の高槻城をいったん接収」という形を採った。

 

織田信長は、良い意味でそこを曖昧にしながら高山重友とその家臣らを、そのまま政治的に味方に引き込むことに成功した。

 

各地の制圧戦で忙しかった織田氏は、高槻城の高山重友がもし荒木氏側として抗戦されると厄介だったことが予測されていた中での、この高槻城の接収の成功は、荒木氏を一気に不利にする決定打となった。

「高山重友が織田信長に捕縛されている」という所で、政治的に見事に乗り切られてしまった荒木村重は、摂津近隣のキリスト教の帰依者らから恨まれるその後も危惧され、人質も結局処刑されずに助かったようである。

キリスト教という教義を普段から大事に熱心に向き合い続け、それが活用される形で結果的に窮地を脱出してしまった高山重友は、知恵者としても当然のこととして注目され、ますます一目置かれるようになった。

織田信長は、聖属に対する評論は中立を維持しておきたいため、キリスト教のことは表向きは持ち上げようとはしなかったものの、高山重友のことは改めて高く評価した。

高山重友は織田信長から格上げされる形で今度は、織田政権の強力な重役・実力者になっていた、明智光秀の有力寄騎として手配されるこになった。

しかし明智光秀が突然に本能寺の変を起こすと、摂津でも動揺が起きたため、高山重友はまずはそれを収拾した一方「明智勢による近江攻略(近江再統一戦)」の呼びかけには応じず、それに加勢しなかった。

間もなく、それを制圧しに急いで引き返してきた羽柴勢に高山重友も合流・協力することになり、戦場となった山崎・天王山で明智勢と戦う活躍をした。

この高山重友と同じような立場だった、同じく明智光秀の有力寄騎のはずだった中川清秀(摂津の国衆。茶道や陶器芸術に精通していた古田織部との親類関係だった)も、同じくこの時に羽柴勢に加勢している。

高山重友は織田信長から評価を受けた経緯も手伝い、羽柴秀吉からも評価されてさらに格上げされていったため、その信望は高まっていく一方だった。

本能寺の変が起きた時に、羽柴秀吉は「明智光秀は用意周到に、計画的に起こした訳でもなんでもない」、その名目(誓願)の地盤など磐石でもなんでもなかった大前提で摂津に乗り込み、山城方面に進出していることが窺える。

明智光秀の親交的な縁者ら、利害の同調者らが、明智勢の近江再統一戦に加わっているが、大半は熱心ではなく道義的(契約主従的)に随行していただけの者が多かった。

明智光秀に攻められて人質を取られたりしながら、強制参加させられていた有力者も少なくなかった。

近江・日野の蒲生賢秀(ひの。今の滋賀県西部の日野市。がもうかたひで)は反抗し、こちらはすぐに制圧できそうになかったために明智光秀に後回しにされ、難を逃れている。

また近江・瀬多(せた。大津の南側)の山岡景隆(足利将軍家の旗本衆出身といわれる)にも反抗されたことが、明智勢が羽柴勢への迎撃体制を不利にした要因にもなっている。

本能寺の変の開始状況は、今風にいうと、野党側が「政情をこれ以上見過ごしてはならない! 行政改革のための解散選挙を今、絶対にやるべきだ!」と大いに騒ぎ立てて、人々にその関心を向けさせて選挙にもち込もうとした、というような改革機運で行われた訳では、全くなかった。

明智光秀とそれなりに縁のあった者らは協力したものの一部で、直属の近江坂本勢・丹波勢でさえ、大して士気・戦意もふるわないような様子だった。

明智光秀がどういう訳か道義上の指令しかしなかったために、直属の丹波勢・近江坂本勢の多くも「え? なに? どういうこと?」と困惑気味に、道義的(主従契約的)な参戦の仕方しかしていなかった者も多かった。

本能寺の変を起こした明智氏の大軍が、近江に急に押しかける形で再統一が開始されたために、近江衆はそれに一方的に攻められないために、渋々でも態度を鮮明にしなければならなかった。

明智光秀がどういう訳か名目(誓願)を強調させることもないままに近江攻略戦が進められたため、明智氏の寄騎扱いだったその外の摂津衆(高山氏・中川氏ら)、大和衆(筒井氏)、丹後衆(細川氏)らもその参加要請を渋っていた。

織田家中の有力寄騎らの中には、なぜ明智光秀がそんなことをしたのか解っていても、「口は災いの元」というように、そのことにヘタに触れると、本当の話であったとしても後で政治利用されることを恐れ、知っていても黙認し続けた者も多かったと思われる。

柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、池田恒興ら最重要幹部たちについてはともかく、それぞれの有力寄騎らの中でも、中央の事情をよく知っている者から、各地の現場のことしか詳しくない者まで様々だった。

その中でも「その可能性も無いこともないと、なんとなく予想もしていたが、結局そうなったか・・・」と内心は思っていた有力寄騎らも、結構いたのではないかと筆者は見ている。

本来は明智光秀と同格に扱われても良いほどだった、丹後を丸ごと任されて朝廷の事情も詳しかった細川藤孝(明智光秀の寄騎扱いだが、織田信長から直々に高い格式を公認されていた)などは、ほぼ全貌を知っていたのではないかと、筆者は見ている。

明智光秀の呼びかけに周辺でそれなりに応じたのは、中央との旧縁関係で駆け付けた一部の若狭衆くらいだった。

明智光秀の有力寄騎であった摂津衆の高山重友は、すぐ近隣の和泉(いずみ)の、キリスト教に帰依していた者も多かった堺衆らとは、友好的な交流も当然していた。

羽柴秀吉が本能寺の変の情勢を有利に察知できたのは、寄騎に従えた備前の宇喜多軍団の中にいた、小西行長の存在も大きかった。

変の時に毛利氏と交戦中だった羽柴秀吉が、講和して急いで中央に引き返す際、高山重友 - 堺衆 - 小西行長の交流連絡網も活かされていたことは容易に予測できる。

高山重友の様子からだけでも、明智光秀が摂津衆、丹後衆、大和衆の寄騎らをろくに協力させられていないことを、羽柴秀吉は把握できた。

変が起きた時、和泉衆・河内衆(いずみ・かわち)をこれからまとめる目的もともなう、四国制圧戦の準備中だった織田信孝(織田信長の三男)も、その体制が根付く前に本能寺の変が起きて中央の司令線が崩壊した(旗本吏僚らの多くを失った)ことで、編成中だった織田信孝の手勢は大混乱を起こして離散してしまっていた。

その織田信孝を補佐する予定だった、和泉の支配代理だった蜂屋頼隆(有力寄騎だが半分は部将・吏僚扱いされていた)と池田恒興(河内勢を任されていた?)の手勢だけで明智勢に当たるのは不足していた。

織田信孝は、丹羽長秀、池田恒興、蜂屋頼隆といった重臣で固められていたものの、父と兄の仇討ちをしたくても、明智勢を制圧するだけの軍勢がすぐには整えられない事態に陥っていた。

丹羽長秀が、本拠の佐和山城(近江)を離れ、織田信孝を補佐するためにそれに同行していたことも、致命的だった。

丹羽長秀は近江の佐和山、若狭、越前(福井県)を管轄にしていたが、その留守中に本能寺の変が起きて国許(くにもと・本拠地のこと)の指揮網が遮断され、丹羽長秀の名義による軍の召集もできなくなっていたのも、不利にしていた。

この丹羽長秀が織田信孝を補佐するために管轄地を留守にしていたことも、明智光秀の決起の要素になっていたと思われる。

丹羽長秀は吏僚・執権の性質が強く、前期型兵農分離の軍縮の手本の影響もあって、目付・参謀として現地に赴いていたこの時の手勢は1000もいたか怪しく、新地に着任したばかりの織田信孝の手勢も1000もいたか怪しい。

蜂屋頼隆と池田恒興はいてもそれぞれ4000ほど(計8000ほど)だったと思われ、混乱気味だった中での織田信孝の旗頭(名義)で、合計1万の指揮が採れたかどうかだった。

これは織田信孝(信長三男)の才覚以前の話として、織田信雄(次男)もそうだが、この2人の格式の典礼は常に後回しされ続けてきた弊害が、この時に出てしまったというのが正確である。

織田信雄はそれを不満に以前から、父の織田信長に対して抗議していた。

2万はいたと見られていた明智勢に対し、混乱気味で結束も怪しかった織田信孝は、攻勢に入れるような状況に至れずにモタモタしていた。

中途半端な状態で織田信孝がヘタに山城方面に進出すれば、明智勢に迎撃・撃退されるのも目に見えていたため、山城に進軍することもためらわれていた。

そんな状況の中、姫路城にいったん帰還した羽柴秀吉が、

 

 播磨衆(兵庫県。旧赤松一族ら)

 

 備前衆(岡山県。宇喜多氏)

 

 但馬衆・因幡衆(たじま。兵庫県北部、いなば。鳥取県。山名氏の旧臣ら)

 

 美作衆(みまさか。岡山県北部。羽柴氏と宇喜多氏で共同統治していたと思われる)

 

らによる具体的な大軍を率いて、急いで摂津入りした。

これらの旗頭としてまとめることができていた羽柴秀吉は、少なくとも1万8000、多ければ2万5千以上や3万はいたといわれるが、実質は2万2千ほどだったのではないかと筆者は見ている。

まとまりがあった備前の宇喜多勢は少なくとも6000、播磨を掌握できていた羽柴秀吉の播磨勢も少なくとも7000、そこに尾張・美濃・近江出身者ら常備軍勢の推定2000ほどを加えた少なくともその1万5000を中心に、自身の器量(教義指導力)で従えるようになった但馬衆・因幡衆・美作衆らを招集していた形である。

羽柴勢が2万~3万ほどの大軍を率いて、明智勢と戦うために堂々と摂津に入ったことで、摂津は織田領内西側における、反明智派の前線集結地としての賑やかさを見せた。

明智勢への加勢をためらい、かといって反明智派として中途半端に集結でもすれば、明智勢に狙われて撃退されることを恐れ、諸氏はその結束もためらい進退をモタモタしていた所だった。

そんな中で、対抗馬の旗頭らしい大軍として摂津にやってきた羽柴勢を見て、諸氏もそれに集結する動きを見せた。

織田信孝は結局その旗頭に成り得ずに、その羽柴勢に頼る形となった。

羽柴秀吉も頼ってきた織田信孝の、父と兄の仇討ちをするための支援という表向きの形式を採った。

重臣格だった丹羽長秀、池田恒興、蜂屋頼隆たち、旗本吏僚の筆頭の堀秀政、摂津の高山重友、中川清秀(2人は明智氏の有力寄騎だった)らの皆が羽柴勢に合流することとなったため、羽柴方は膨れ上がり、戦意も盛り上がった。

旗本吏僚の筆頭格であった堀秀政は、本能寺の変が起きた時、羽柴秀吉の中国地方平定戦への加勢を織田信長に命じられて、軍勢を率いて向かっていた所だったため、羽柴勢にそのまま加勢することになった。(これも明智光秀の計算に入っていたと思われる)

明智光秀と直接の対抗馬に成り得たといえたのは、主に柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益だったが、柴田勝家は越中の反抗分子や上杉氏と、滝川一益は北条氏とそれぞれ激戦中で、明智勢の鎮圧にただちに向かえるような状況ではなかった。

摂津を賑わせた羽柴勢が山城進出の動きを見せたため、明智勢も山城への侵入を阻止しようと迎撃に向かうが、明智方が少しモタついたことで、対峙地となった山崎の天王山で、羽柴方に有利な布陣をされてしまった。

この時の羽柴勢の本軍は、ろくな休息もない急行軍だったためにヘトヘトに疲れきっていたといわれ、そのため多くは防衛線の陣を敷く要員に留まっていた。

ただしその中でも羽柴秀吉の有力家臣の加藤光泰(美濃衆出身)が手勢を動かしている所を見ると、中国地方の平定戦で前線には出ずに後方を固めていた、それほど疲労はしていなかった一部の留守組が起用されていたと思われる。

羽柴本軍の布陣だけでも明智勢を十分に圧迫できていたため、後はそれに見守られる形で集結した将たちが中心となって、明智勢と果敢に戦ったが、その時の高山重友の活躍も目立った。

その後の賤ヶ岳の戦い以降でも高山重友は羽柴派として活躍し、羽柴秀吉によって評価されて格上げされていったため、その存在感はますます高まることになった。

1582 年の本能寺の変から、宗教対策に乗り出される 1588 年のバテレン追放令(キリシタン規制)までは、豊臣秀吉もそこは許容していた。

しかし日本でのキリスト教の勢いは「政権の裁定による保証」という枠を飛び越え始めようとし、高山重友ももはや日本の大司教ともいうべき信望を集めすぎてしまったことも危惧され、規制をせざるを得ない状況になってきていた。

1586 ~ 1587 年の九州制圧戦において、九州での反羽柴派の内の、キリスト教勢力への調略を、小西行長が担当している。

キリスト教徒のよしみとして、格下げも覚悟で小西行長の斡旋で新政権に臣従する勢力も出てきたが、しかし一方では頑強に抵抗を続ける所もあったため、それらは閉鎖有徳と見なして制圧せざるを得ない所も少なくなかった。

九州制圧の折には、小西行長が今までよりも前線で活躍するようになったことで、羽柴秀吉の親類の自負も強かった加藤清正が、かなりの対抗心を見せていた。

豊臣秀吉の遠縁の縁者だった福島正則加藤清正は、軍事面で著名だったが、2人はそれだけでなく土木建築設計による築城・治水技術なども羽柴秀吉から学びながら、そちらの経験も積んでいたため、開発現場の設計・指揮も得意としていた。

2人は豊臣政権での前線における、諸氏への目付としての重役も任されるようになっていたが、この2人よりもなんだか目上のようになってしまっていた、組織の中核を任されるようになった小西行長や、今風にいう官僚筋の増田長盛の次席たちの存在には、納得していなかった所も多かった。

加藤清正は、政務側の長老格であった増田長盛に対してはそれほど不満はなかったが、ただしその次席の石田三成大谷吉継らに対しては、まるで前線現場を指図する側であるかのような組織構図になりつつあったことに、「彼らにそこまでの家格ではない」と不満を強めるようになっていた。

これは加藤清正と福島正則の2人だけでなく他の者たちも、前線の現場ではその内心の不満を強めていた者も多く、それだけにその中継役でもあった小西行長への、前線現場からの風当たりも強まっていた。

しかも法華宗(日蓮宗)の熱心な信徒でもあった加藤清正の方は特に、キリスト教徒を鮮明にした小西行長への対抗心を強めていた。

九州における反羽柴派のキリスト教徒を小西行長が懐柔しようとしていたのを加藤清正は無視するように、キリスト教が強まっていた勢力に対してかなり厳しめな当たり方をしている。

少し前述したが、教義上では反権威的だった法華宗は、日蓮の不受不施(ふじゅふせ・中途半端な関係のままの者と、中途半端な同胞関係を続けてはならない)の教えが大事にされていた。

戦国後期の法華宗は「法華宗同士は同胞意識を重視し、助け合う精神」を強める教えとしてそれが活かされていたのは良かったが、ただし他宗には厳しい規律として強める傾向も目立っていた。

法華宗は解りやすくて人気はあったものの、そこに相変わらず尖ってばかりで柔軟性がないと、他宗からも思われていた。

法華宗の上層の全員が他宗に厳しい訳ではなかったものの、自力信仰的だったことでたださえ他力信仰の浄土教には厳しく見る者も多かった中、同じく他力信仰的で外国宗教だったキリスト教に、法華宗は余計に厳しく見る所も強かった。

日本に西洋人たちが訪れるようになり、まず九州での交流と貿易も盛んになると、キリスト教徒に帰依する者が九州でさっそく増えるようになっていたが、その頃から九州でのその反抗派として顕著だったのも、やはり法華宗だった。

戦国後期には、今の公的教義と同じく何の国際品性(法治国家・時代に合った組織構築の人的信用の教義性・等族義務)ももち合わせていないことをなおも反省せずに、悪影響を与え続けていた中央教義(天台宗)は論外とし、法華宗は浄土真宗に次いで、日本全体を意識した仏教の建て直しは、できていた方だったといえる。

織田氏と法華宗は、檀家と檀那(だんな)寺の関係が続いたことから、家臣たちも「主家である織田家と一応合わせておこう」と考えた者も少なくなく、旧織田政権内における法華宗も目立っていたが、九州でもキリスト教の対抗馬として、法華宗は目立っていた。

今までの国内教義の旧態仏教のしがらみに見切りをつける形で、キリスト教に帰依する者も増えていたからこそ、法華宗も対抗心を強めるようになっていた。

浄土真宗の肩代わりをするように、日本での次の新風となったキリスト教は、今までのしがらみとは決別し、日本に合ったものとしてこれからその中身が構成されようとしていた状況だった。

 

今までの国内教義の伝統・歴史からは、決別・一新したがっていた者も内心は多かった本音も、それだけ露呈していた様子が窺える。

織田氏と対立した浄土真宗が抑え込まれるようになると、日本の自力教義の最後の希望が、なんとなくだが浄土真宗から法華宗に代わったかのような流れになると、キリスト教への抵抗に法華宗が頑張るようになっていた。

織田政権時代では「織田家は確かに法華宗だが、ただし織田政権は法華宗優遇の政権ではない」と、裁判権(教義改め)の裁定に従いさえすれば結局、浄土教でもキリスト教でも公認する形で、政権内の非武力の教義競争をさせようとしていた。

本能寺の変をきっかけに織田政権はいったん解体される形となり、これからの宗教改めもいったん白紙になった後も、キリスト教の増加には歯止めがかからなかった。

他力信仰の浄土真宗を肩代わりするかのように、今度はキリスト教が大衆化し始めたため、自力信仰重視の法華宗は安心している暇などないまま、次なるキリスト教に対抗心を見せていた。

織田政権はそもそも、浄土真宗やキリスト教以上の他力信仰的(異教異人種収容の、全体環境の健全化・状況回収主義)な政権だった。

だから織田家は法華宗でありながら、同胞意識を大事にしないように見えたため、そこにうるさかった法華宗の指導者らがその部分で織田信長にムッとした態度を示していた時もあった。

織田信長は教義上では反権威的だった法華宗のことは評価し、他宗に乗り換えようともせずに指導者らのその態度も許容してもらっていただけでも、特別に便宜してもらっていたとすらいえる。

豊臣政権でも多くの諸氏を臣従させつつ、それをまとめていくための門閥ごとの整備もしていかなければならなかったが、宗教対策も絡んで、話はややこしくなっていた。

この門閥と宗派で複雑化していく問題に向き合っていかなければならない状況は、九州制圧戦の時にはかなり強まっていた。

いってみれば

 古参譜代筋 尾張・美濃時代の寄騎・家臣ら

 準譜代筋  近江長浜時代の寄騎・家臣ら

 外様筋  (とざま)中国地方で味方につけた寄騎諸氏らや、天下総無事で臣従させた地方の代表格ら

 親類筋   浅野連合一族、また羽柴秀吉の母方の縁の加藤清正、福島正則ら見込まれた親類たち

に加え

 現場監督筋 能力を買われて、現場の功績でどんどん格上げされていった者たち

 政務吏僚筋 内官筋。企画院・元老院。執権の増田長盛ら

 文化交流筋 宗教対策。外交官。廷臣たちや宗派の広い人脈の前田玄以や細川藤孝ら

というように、豊臣政権が朝廷と正式に親交したことの影響も出てくる、廷臣たちや宗派との結び付きももっていた交流筋の門閥意識もややこしかった。

織田信長の貴重な前例を豊臣秀吉が工夫する形で、より多くの諸氏を短期間で収容するようになったからこそ、今までの国内教義(神道・仏教派)と外国教義(キリスト教派)とでの内々の対抗意識も、どうしても強まることになった。

そこにさらに、戦国後期に禅の思想が見直されたことの茶道交流筋による、品性資格社会化まで強まっていたため、人事もいよいよ複雑化していた。

日本が教義崩壊で一度離散した状態を今一度、法治国家として整理整合していかなければならなくなる上での、避けて通れない非同胞拒絶反応にも地道に向き合っていかなければならないのが、人類史の大事な転換期ともいえる。

それが求められるような時代こそ、時代に合った等族的な、仏教でいう所の仏性(人としてのあるべき人間性・社会性)とは何かを、丁寧さ慎重さで確認(尊重)し合い整理整合していかなければならない姿勢こそが、国際人道の基本中の基本ともいえるのである。

例えば外様筋の者が、その筋の不都合のみにしか関心を示さずに、その外の筋には無関心に

 

 「外様筋の経緯のみが仏性(人間性・社会性)の全てであり、全知全能の全宇宙」

 

という閉鎖有徳と大差ない考えのみ堅持し、

 

 「その他の古参譜代筋、準譜代筋、親類筋、現場監督筋、政務吏僚筋、文化・外交官筋、茶道品性筋は全てその格下扱いになるようなものになれば良い」

 

という、今の公的教義のような時代遅れの閉鎖的な発想で、皆で押しつけ合い、打ちのめし合うことしかできていなかったのが戦国前期である。

外の人生観筋のことを何ら確認(意見回収・状況回収・整理整合)しようともせずに、ただ偉そうにケンカ腰で遮断し合って人格否定(主体性否定・当事者性否定・等族義務否定)し合い、ただ偽善憎悪(気絶・錯乱・思考停止)することしか能がない、今の公的教義と大差ない身の程知らずが、偉そうに人間性・社会性(仏性)を語ろうとすること自体が、国際的に甚大な迷惑と負担をかけようする国賊行為なのである。

その態度がついに裁かれるようになり、閉鎖有徳扱いされて踏み潰されるようになったのが、織田政権時代だったのである。

 ただ落ち度を手当たり次第に拾って偉そうに人格否定(主体性否定・当事者性否定・等族義務否定)することしか能がない、それに頼って攻撃的にならないと何の信念(主体性)も示せない分際(偽善者)

 

とは、

 

 少しでも整理整合しようとするための、自他の人生観の再確認

 

などできたことなどない、

 

 人格否定(主体性否定・当事者性否定・等族義務否定)のためだけの偉そうな正しさを、ただ押し売りするためだけに、口ほどにもない人生観を再確認することしか能がない分際(偽善者)

 

といえる。

 仏性(人間性・社会性・当事者性・主体性・等族義務)や人文性(個々の自立自制性の努力の尊重)や啓蒙性(時代に合った迷信打破)にまともに向き合っている者

 

を参考にできたことがない、すなわち

 

 偽善憎悪(気絶・錯乱・思考停止)のためだけの人生観の再確認を、ただ繰り返すことしか能がない分際(偽善者)


その自力信仰一辺倒主義こそが非国際文明的(主体性の欠落・当事者性の欠落・組織理念の欠落)な騒乱罪的発想だと自覚できたことがない、極めて低次元な公的教義と同列の価値基準のいいなりになってきただけの分際(偽善者)が、何を偉そうに人間性だの社会性だのを教えられるのかという話である。

 

教義性(健全性)など一切ない公的教義のような低知能集団にこそ、偽善憎悪(気絶・錯乱・思考停止)の道具にしかできないゆえの「人生観の再確認禁止令」による、裁かれる規制が必要ともいうべき、非人道的な格下人種もいい所といえる。


急に組織が大きくなっていくほど、そういう所も特に整理整合していかなければ、少し放置するだけであっという間に教義崩壊である。

少し気を抜いて、おかしな裁定が少しでも行われようものなら、ただの力関係に頼った教義性(手本)など全くない不都合派閥同士の劣化権威の悪例慣習ばかり蔓延していき、あっという間に収拾できなくなり乱雑化していくものである。

 

織田信長、豊臣秀吉、それに次いでその役割を引き継ぐようになった徳川家康は、戦国後期を経た今までの多くの人生観筋を、どう収容していくのかという立場で裁定していかなければならない立場だったと認識することが、まずは重要になる。

 

今の口ほどにもない公的教義のように「イチ人生観筋のみに囚われているだけの気の小さい狭い全宇宙観」の見方しかできなれば、何が起きていたのか、その大変さも全く理解できないまま、されることの全てがただおかしく見えるのみとなる。

せっかく日本が法治国家の姿を取り戻しつつあった中、だからこそこうした整備にも向き合われていかなければ、あっという間に戦国前期に巻き戻りとなり、せっかくの織田信長の改革もまさに「水泡に帰す」なのである。

織田政権時代は、日本の政体も今後どうなるか、新たな時代に向けて次々に布令されることになっていたその時に、本能寺の変が起き、いったん白紙状態になってしまった。

一方で新政権として、具体的にそこが着手・構築されていくことになった豊臣政権だったからこそ、その難しさも窺える部分である。

そういう所に対応する難しさと大変さが前例となって、徳川政権時代にはそこも大いに見習われたからこその、どうにかの家格制定の、徳川氏による幕藩体制の設立だったのである。

有能と評価された有力者ほど、キリスト教に帰依する傾向もあり、帰依した者、または好意的だった豊臣政権の直臣筋たちは

 高山重友、藤堂高虎(豊臣秀長の家臣)、小西行長、宮部継潤(けいじゅん)、田中吉政(豊臣秀次の目付家老)

豊臣政権に臣従したかつての有力者らで、キリスト教に帰依、または好意的な姿勢を見せていた者たちは

 京極高佳(近江の名族・佐々木源氏一族)、前田玄以(げんい。豊臣政権の宗教対策長官)、前田利家、蒲生氏郷(うじさと)、黒田孝高(よしたか)、細川忠興(ただおき。細川藤孝の後継者。ただしキリスト教の不満もあった)

豊臣政権に臣従した九州の、キリシタン大名として目立っていた、またはキリスト教に好意的だった諸氏は

 有馬晴信、大友義鎮、寺沢広高、竜造寺氏の旧臣ら、また平戸の松浦氏や五島列島の宇久氏ら海の勢力

他、当主はあくまで中立的な立場を維持していただけで、その家中ではキリスト教への帰依者が増えていた、という所も多い。

福島正則と加藤清正の2人は少年期から、羽柴秀吉から将器の教示を受けながら武将として育った経緯からも、特に加藤清正は、自身も組織の中核のひとりだという自負が強かった。

前線での権限を任されることはあっても、しかし大軍団を支える輜重と中央との連携役、組織の調停役を実際に任せられたのは、堺衆や宇喜多氏と深い関係があった新参の小西行長だった。

加藤清正は、小西行長には何かと厳しく当たっている所が目立つが、これは小西行長の能力や品性はいったんは認めつつの、個人的というよりも組織的な人脈に対しての対抗心が強かった。

現場監督筋よりもなんだか格上扱いされるようになった、政務吏僚筋側と見なされていた現場での小西行長が、さらにはキリスト教徒(他力信仰・厭世主義)だったことも、それと対立的だった法華宗(自力信仰・聖道門主義)の熱心な信徒だった加藤清正に、対抗心の拍車をかけていた。

1587 年の九州制圧戦の間もなくに、豊臣秀吉がバテレン追放令(キリシタン規制)を布令することになるが、当時の複雑さが窺える。

この布令に、キリスト教に帰依していた者たちは当然のこととして全国的に動揺したが、これは実際はかなり政治色の強い、宗教対策全体の布石であったことが、その前後関係で見ていくことで、それが窺える。

豊臣秀吉は、少し後になって仏教側の規制にもやはり厳しめに見るようになっている。

仏教側から先に触れるが、1587 年のキリシタン禁制からしばらく後になる 1595 年には、豊臣秀吉は「千僧供養会」という、仏教界の宗派間の和解交流をさせることを目的とした、読経(どきょう)会のための召集を、各宗派に強制している。

これは、宗派は違っても今後は宗派間でいがみ合うことをしてはならない、仏教間で険悪になってはならない、親交的な交流性を大事にしなければならないという、その和解を再認識させる誓紙(誓願)の提出もさせる、各宗派への強制参加だった。

この千僧供養会は、各宗派でそれぞれ100名ずつ、読経会に強制参加させるというものだったが、実質は法華宗に対しての強烈な制裁政策でもあったといえる。

他宗は表向きは大した嫌悪感も見せていないが、ただし法華宗だけはこれを強制させられたことを機に、今後の方針を巡る形で、内部で険悪な論争が展開されることになった。

江戸時代になっても法華宗の「不受不施」は、閉鎖有徳化の問題も多分に含んでいたことで、それをどう改めていくかの問題が、内部で遅々として片付かなかったことを度々幕府に問題視されて、厳しく介入されている。(法華宗の不受不施問題)

豊臣秀吉に支援・再建してもらった天台宗(他宗から見た公的教義としての格式は、いい加減に薄れていた)も、この千僧供養会には「他宗と同列扱いされるとは」という内心の不満はあったと思うが、恩があった豊臣秀吉に、さすがに嫌悪感を出す訳にもいかなかった。

今までのあり方を自力で改めていこうともせず、騒乱に便乗して武力蜂起を起こして織田信長に噛み付いたことを大いにあきれられ、踏み潰されて10年以上空気扱いされ続けたことは、良薬になっていた。

自力信仰の天台宗や法華宗とは真逆だった他力信仰の、浄土宗(源空派)の方は、そもそも融和的であったためにこの会合でも当然のこととして何事も無かったが、浄土真宗(親鸞派)もこの会においては何事もなかった。

ただし浄土真宗(親鸞派)においては、かつて聖属裁判権を身につけ、織田政権と対立しただけの自力教義力を立証してしまっていたからこそ、豊臣秀吉からかえってそこを政治利用されることになってしまった。

聖属裁判権を放棄することになった浄土真宗の、その後の方針を巡る整理・議論は、さらに後継者も巡って長期化していたため、豊臣秀吉がかなり陰険に介入されることになった。

これは「世俗政権が最終的には聖属側の裁定権がある」ことの見せしめとして、さらには天台宗(公的教義・自力信仰)を便宜しなければならなくなったための、その対立教義の急先鋒である浄土真宗(他力信仰)を体のいい槍玉に挙げられてしまったという、あからさまな処置だった。


「時間はかかるかも知れないが、最終的には自分たちで解決したがっていた浄土真宗」の上層は、豊臣秀吉が一方的にその問題に介入してきて、浄土真宗の後継者を強引に指名してしまったために、内心はかなり恨んだ。

豊臣秀吉も、浄土真宗からは恨まれることは解っていたと思うが、廷臣との親交で、天台宗にも会合を強制参加させた代償として「天台宗など霞んでしまう自力教義力があった浄土真宗」は、なんとかしなければならない所があった。

自力教義力があったからこそ、さも問題児扱いするかのように厳しめに当たることで、天台宗の存在感を回復しようとする便宜がされてしまった。

 

情けないことこの上ない話として、要するに豊臣秀吉はこの天台宗をとうとう「哀れな弱者的立場」と扱い、浄土真宗のことを「ちょっとくらい叩かれても、自分たちでどうにでも立ち直れる強者的立場」と扱い、このしょうもないただの家長気取り(国教気取り)の公的教義(天台宗)を保護し始めた、歴史的瞬間だったといえる。

 

 教義で時代にあった法(権力)を見直していく

 

のではなく

 

 権力の都合で偉そうに教義を偽善設定しているだけ

 

という、人類最大の愚行(孟子悪用主義)を一生知覚できることなどない、今の公的教義の分際(偽善者)の姿そのものといえる。

調整の部分だけでいえば、キリシタン禁制でも同じである。

 

聖属が再び世俗政権を再び上回り始め、収拾がつかなくなっていくことのないよう、法治国家として事態を収拾していく基本への懸念もあった、一方の宗教ばかりが力をどんどんつけていくことをさせないための、規制だったのである。

本能寺の変の件で後述するが、この部分は織田信長もかなりの苦労と工夫が見られる部分である。

あるひとつの、その意見自体には教義性(健全性)があるものだとしても

 「皆がそれが良いといっているのだから、そうするべきだ」

という考えばかり強めさせ、その状況・風潮を政権側が軽く見て放置することは

 「まず意見を整理して提出させ、政権側は面倒がらずに慎重に裁定し、そこを皆も面倒がらずに地道に認知していく」

という法治国家(組織理念)の基本を、皆が面倒がり始めて怠け癖をつけていくことを、見逃すことを意味する。

それが、自分たちの国、自分たちの地域で何を大事にしていくのかを、自分たちでしっかりと確認していこうとしなくなる、悪い意味で

 

 「そんなもの言われなくてもやれよ」

 

 「それを確認する役割の奴が確認すれば良かっただけの話だろ」

 

 「それを確認する役割の奴が全て悪い」

 

ばかりの偉そうな結果追従性一辺倒のみ蔓延させ、その大事な責任者選びすら、まるで雑用係であるかのような見方しかしなくなり、全て人任せ主義となって皆が面倒がり始める、教義力(法のあり方・組織理念)を著しく低下させていく原因なのである。

大事なことはあなどらず、念のために面倒がらずに皆がひとつひとつ確認(尊重)していくという、法治国家(組織理念)としてのあるべき姿勢を怠けさせる悪い手本態度の見過ごし続けこそ、教義崩壊、劣化海賊教義化、劣化権威化の原因なのである。

その状況回収を誰もが面倒がってやらなくなり、

 

 皆が偉そうな道義追従性(自力信仰一辺倒・偽善憎悪のためだけの人生観の再確認)の怠け癖にただ頼っているだけ

 

 皆が人生の先輩ヅラをしながら(汚らしく加齢臭を漂わせながら)人格否定(主体性否定・当事者性否定・等族義務否定)で打ちのめし合っているだけ

 

しか能がないという、その自覚すらできなくなる、下品で汚らしい非国際文明的な今の公的教義のような無能(偽善)態度こそ、人々の社会性(教義性)をどんどん低知能劣化させていく原因なのである。

大事なことだと熱を上げ、誰かや何かに、そこまで怒ったり反発したり問題視したいというのならなおのこと、

 その意見は、どの部分にどの程度の関心力でどう整理・提出(主張)されたことによる、どの程度の公正判断を、誰によってどこまでされているのか

社会性(健全性・向上性・教義指導性)の議題だと思うのなら、その主張当事者本人(担当者)がまず、そのことにどれだけ向き合えていて、どれだけ確認(尊重)しようとしているのかの器量(教義指導力・状況回収力)に、結局かかってくるのである。

そこを疎かにし始める風潮を作らせないための、その難しさへの対応の工夫は、織田信長もよく見られる所になる。(本能寺の変の件で後述)

豊臣秀吉の場合は、旧織田領外の諸氏(外様勢力)は、格下げはしても織田信長とは違ったやり方で寛大に素早く収容していき、日本がまた分裂しないよう素早く天下総無事を進めるやり方がされた分、収容後のやむなしの厳しさも、目立った所になる。

浄土真宗もキリスト教と同じく、皮肉にも他力信仰による自力教義力があったからこそ、自力信仰側との調整のための槍玉に挙げられてしまい、策謀的に政治利用されてしまった。

豊臣秀吉は、そこまでの自力教義力はないと判断した先、つまり弱者的立場と見なした先には、厳しい態度で当たれば潰してしまうことになるため、出過ぎた態度さえ採らなければ、恫喝はしなかった。

 

浄土真宗は「それくらいでは潰れないだろう」と思えるほどの強者的立場だったからこそ、そういう扱いを受けることになってしまったが、浄土真宗からすればその扱いは「失礼な!」と不条理に思うのも当然だった。


政治上の都合とはいえ、それでも豊臣政権時代では扱いがどうも不当だと感じていた浄土真宗は、のちの関ヶ原の戦いに、やはりそこが現れている。

関ヶ原の戦いの時に徳川家康が全国諸氏に「豊臣方か徳川方か、態度を鮮明にせよ。中立は許されない」と強制参加を宣告した際に、浄土真宗は

 「我々は聖属の立場ではありますが、徳川派で完全一致しています」

 「もしお困りなら各地の信徒に反豊臣の一揆を起こさせ、豊臣派を大いに混乱させて見せます」

と親書を送っている。

徳川家康は、聖属を再び武力闘争に介入させてはならないことの自覚は強くもっていたため、この時の加勢はさすがに断ったものの、これはかなり勇気付けられた心強い親書だった。

規律ある浄土真宗としても、その心得の前提もあった上で、明らかに格上げや恩賞目当てなどではなく、他宗との調整のために自力教義力を槍玉に挙げられるようになった教義上の不満からきていたことも、徳川家康もよく理解していた。

徳川家康が若かった頃の三河再統一の折、徳川家康は浄土真宗と対立したこともあり、その後もそれと戦う織田軍に加勢したこともあった。

しかしこの頃は徳川家康も浄土真宗も互いの立場を理解し合えており、浄土真宗は気持ちだけ受けとってもらうことになった。

豊臣方か徳川方かで全国諸氏が決断を迫られた際には、その部分では浄土真宗は徳川家支持で一致したが、ただし内部の方針を巡る整備・議論は、関ヶ原の戦いの後も続いた。

関ヶ原の戦いの2年後の 1602 年には、やっと東本願寺西本願寺で、今後は言い争いはせずに分派するという話で、徳川政権の公認下で決着されたが、この時の浄土真宗への裁定に立ち会った徳川政権は、両派に高圧的ではなく穏便な仲介の仕方で接している。

ひとりでも多くの味方が欲しかった大事な関ヶ原の戦いで「浄土真宗は徳川家の味方」だと勇気付けられた徳川家康は、その道義上の義理を重んじていた。

聖属の最終的な裁定も、これからは武家政権が公認保証を請けもつという、織田政権からの法治国家の手本のその流れは、徳川政権にも受け継がれた。

その際に、東本願寺と西本願寺で分派してもやっていけるように、徳川家康も寺領特権の寄進もした上でその和解を見届けるという、寛大な裁定がされた。

これは、のちの徳川氏の宗教対策の厳しさと比較すると、かなり寛大な処置だったといえる。

浄土真宗は、内部で揉めながらでも、時間はかかっても自分たちの問題は自分たちでなんとかしようとしていた、その規律ある姿勢も、当然評価されての裁定だったといえる。

法華宗もそこは頑張っていた方だったが、全て解決することは困難だったために、徳川政権から手厳しい裁定を何度も受けるようになった。

今までの、他宗とは壁を作るばかりの面も目立った不受不施とは決別する形で「他宗の良い所は見習っていく」という意味の「受不施」派という改新派が作られ、そちらの法華宗については徳川政権に公認してもらうことはできていた。

しかし一方で、不受不施の禁止が布令された後も「不受不施派こそが日蓮上人の伝統だ」と言い張って、隠れてそれを通そうとする法華宗の一部も後を絶たなかったため、幕府も度々のガサ入れ(宗門改め)をしなければならない状況が続いた。

大規模な島原の乱が起きて以来、仏教を模造していた隠れキリシタンたちにも幕府はいよいよ手厳しい宗門改めを強めるようになったが、それと同じように不受不施を改めようとしなかった一部の疑わしい法華宗も監視しながら、同じくらい厳しい宗門改めもされているのである。

話は戻り、1587 年のバテレン追放令の、キリシタン規制ばかりに気をとられると見失いがちなこととして、豊臣秀吉はキリスト教だけに厳しかったのではなく仏教も厳しく監視し、後々で問題にならないようにしていくための、やむなしの喧嘩両成敗的な宗教対策がされていったのが実質だった。

 

織田家臣の出身筋の中には法華宗も多かったこと、そしてキリスト教の勢いに対する不満は、それも放っておけばいずれ政治問題に発展しかねない課題だった。

絶大な人気があった高山重友のことにしても、なんとかしなければならない次元にまで来ていて、徳川政権時代になると、高山重友はついに日本からの追放処分が下されてしまうことになる。

豊臣政権時代では小西行長も、キリスト教徒としての存在感も高まり、加藤清正ら現場からの風当たりは強くなっていたものの、それでも立場的には教義にとらわれずに公正な調停役に徹する役割が果たされていたために、小西行長についてはそれほど大きな問題にはならなかった。

既に播磨で、格式ある明確な一国一城の待遇を受けてしまっていた高山重友は、日本人キリスト教徒たちの信望の高まりが、もはやその領地が日本の司教領も同然になってしまいそうな、政権側から見ると、制御不能になりかねない脅威の存在になっていた。

 

その事情もあって、清廉だった高山重友としても、豊臣秀吉から拝領した領地を返還することに決め、豊臣秀吉に信任されていた加賀の前田利家が、その身柄を引き取ることになった。(こうしたきっぱりとした態度も、やはり称賛された)

 

関ヶ原の戦い後、高山重友の存在は徳川家からはしばらく大目に見られていたが、鎖国令の一環として、まずは外国と日本人との接触を厳しく取り締まる方針を決めた際、前田氏の客将扱いになっていても影響力がありすぎた高山重友は、国外追放処分を受けてしまい、人々に惜しまれた。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われる前から、こうした内部問題の対策はされ始めていた。

 

政権が公認保証していくという戸籍謄本的、法人保証的な法治国家の形を作っていかなければならなかったため、その枠を飛び越えての品性資格社会化が進み過ぎてしまった茶道筋にも、かなり厳しい対策がされるようになり、徳川政権時代でもそこが見習われている。

 

豊臣秀吉も、それぞれの人生観筋から恨まれることも承知で、そこは心を鬼にして法治国家の実現のために、それぞれその人生観筋が全てだった者たちにもそれぞれ厳しく当たり、そこは織田信長と同様、いわゆる嫌われ仕事もやむなしで、強行していった。

 

次も小西行長に視点をあてながら、日本がどのような状況になっていたのかに触れながら、朝鮮出兵の事情などに触れていきたい。