近世日本の身分制社会(064/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 朝鮮出兵(慶長・文禄の役)までの、宗氏と倭寇と堺衆 - 2021/03/23

豊臣秀吉の朝鮮出兵の事情と、それまでの海の事情にも関係してくる、宗(そう)氏倭寇(わこう)について、まずは紹介しておきたい。

宗一族は、古くからの対馬の支配者の、日本の武家氏族である。

この宗氏の出身は、かつて九州で広く力をもっていた名族・少弐氏(しょうに)の有力家臣の家系だった。

鎌倉時代に主家の少弐氏から、対馬の支配代理を任されるようになったことが、宗氏による対馬の土着支配の由来となる。

戦国後期に主家の少弐氏は衰退していったが、宗氏は対馬の支配者としての存在を、どうにか維持し続けていた。

豊臣政権時代の対馬の支配者は、宗義調(そうよししげ)と宗義智(よしとし)の親子(厳密には親類養子)の時代だった。

朝鮮出兵に関してはこの2人の名もよく出てくるが、次代の義智も若い頃から、対馬における政治・外交に関わっていた。

対馬は、朝鮮半島と九州の中間といえる位置にあり、この島は九州や本土側の人々の往来を始めとし、琉球人(今の沖縄と台湾方面)、中国人、特に朝鮮人とも、古くから海の交流網をもっていた。

対馬の大きさは当時の郡ひとつ分、現代の市2つ分ほどで面積こそなかなかだが、穀物生産にはあまり適さない島だった。

そのため、海運の中継地としての交易事業と海産業に力を入れ、朝鮮半島からも穀物を仕入れながら、財源も維持してきた。

そのような外国との交流自体は本来は、中央政権による許可の下(もと)で行われなければならなかったはずだったが、対馬の島民たちは鎌倉時代から、それが当たり前の海の社会が形成されていた。

そうしないとやっていけなかった対馬は、それが地元の基本政治であるかのように、琉球人、朝鮮人、中国人らと、自由化的な交流が、永らく続けられていた。

これは文化交流だったというよりも、各海域の都合同士の、互いの生活産業のための交流が中心で、豊臣政権の時代になるまで永らくその状況が、中央から黙認され続けてきた。

それが今までは当たり前になっていた対馬も、豊臣秀吉が身分統制令(後期型兵農分離)の延長戦上で海賊禁止令(許可無き海運の禁止も含める)も発令するようになった上に、朝鮮侵攻の予定が知らされたため、宗氏は窮地に立たされるようになった。

宗氏は李(り)氏王朝(朝鮮の王族政権)とはこれまで通り、交易・食料輸入のためにも良好関係を維持していきたい所だった。

それを豊臣秀吉が「李氏王朝が日本に臣従して、明国(みん・中国政府)攻めに協力しないなら、対馬を経由して日本軍を朝鮮半島に上陸させ、李氏王朝を攻めるつもりだ」だと聞かされ、これは宗氏にとっての死活問題となった。

対馬は堺衆との交流もあったため、豊臣政権下の重役に抜擢されていた小西行長がやはり、この宗義調・義智の親子との折衝役をしている。

対馬は古くから人種間交流が当たり前だったために「小さなヴェネツィア」とでもいうべき、ちょっとした小国家的な連合人種の土地柄になっていた。

陸と海とでは、その縄張り争いの感覚は戦国後期になってもかなりの違いがあったことはよく語られる所だが、海域中心の対馬も特殊な地域柄をもっていた。

聖属政権(天皇・公家政権)から世俗政権(武家政権)への転換期となった13世紀の鎌倉時代に、今後の法(社会性)のあり方を巡って仏教も新たな転機を迎えたことは、何度か触れてきた。

源空・親鸞が活躍(新興の浄土教の台頭)した、この鎌倉仏教時代(教義改革時代)でも、それまでの海の社会が顕著になっている。

聖属中心の政権時代が終わり、古代的なままだった法(社会性)の改革が急速に求められるようになった鎌倉時代に入ると、それまで各地に根付き続けた古い伝統・慣習の内「争いの原因になるような、時代に合わなくなってきていた掟」は、改めさせていく教義体制が求められるようになった。

海の社会は、陸の社会以上に、その慣習が濃かった。

現代のような文明の利器など一切ない当時、多くの恵みをもたらしてくれる海は、反面ではとにかく恐ろしい世界だったからこそ、その分の慣習や迷信に頼らざるを得ず、どうしてもそこに縛られやすい世界だった。

衛星観測による天候予測などできなければ、魚がいるかどうかや近くに船がいるかどうかを知るための物体探知機(ソナー)もなければ、無線連絡機も緊急発信機(ビーコン)もなく、燃料駆動機もない時代である。

沖から一度遠くに出ると、帆船(はんせん。風力船。15世紀には改良型の優れた帆船も作られた)と海域に頼りながら、入れる時間帯が限定されているような危ない海域にも、容易には踏み込めない、そんな危険な世界で、例え数人でも船上で揉めてばかりいては、肝心な時にとても助からない大変な世界だった。

そのため、とにかく長年の経験・勘・言い伝えに頼らざるを得ない、非常に危険な世界だっただけに、閉鎖的で特殊な上下権威の世界に、どこもなりがちだった。

それだけに信仰も、海の社会の掟に合う、その世界独特の規律的な神道が重視され、海上活動の無事を祈るものや、大漁祈願するものなどを中心とする、厳しい掟・しきたりの共有認識によって統制しなければならない世界だった。

その掟による、厳格で儀礼的な、海域の長老格による公認・典礼次第で、仲間かどうかも決められた。

仲間でないよそ者が事前の連絡も無し、棟別銭(むなべつせん。その海域の通行料金や関税)も支払わずに勝手にその海域を渡ろうとしたり、勝手に魚貝を取ろうとする者が居ようものなら、縄張り荒らしと見なされて厳く捕獲された。

勝手に侵入したとはいっても、もちろん遭難だった場合は人道的な救助はしたが、そうではない、その海域の掟を守らない、交渉しようともしない船と見なされれば容赦しなかった。

彼らにとっての生活圏である海域の縄張りのための神道的な掟こそが、彼らにとっての絶対であり、それがもはや地域庶民政治だった。

浜の近くでの製塩業や、海草や魚の加工などを中心に生活していた地域、また市が開かれれる海岸地域も、この海の社会と関わっていた。

陸にしても海にしても、地域ごとのこうした庶民政治の中の長老格(代表格)のことを「乙名(おとな)格」といった。

これが現代では、年齢判別以外にはやけに安っぽい口ほどにもない人生の先輩ヅラをしながら偉そうに人格否定をするためだけの威嚇(挑発)の乱用語と化してしまっている「大人」の由来である。

乙名の元々の意味は、地域の庶民政治を意見回収・状況回収する者、それを代弁できるだけの一目置かれるような責任(等族義務)をもっている者などのことを指す言葉だった。

庶民政治の代表格・長老格、またその中の役職者や候補者を指す他、全体像を見渡せている者や何かに精通している者など、一目置くべき人を指す言葉だった。

中世・近世ヨーロッパの都市政治でいえば、庶民の中の有力者で構成されていた市参事会員側、その書記局長官と書記局官僚ら、またそれに見込まれていた候補者などを指す、庶民間での格式を示すための、もっと重い言葉だった。

この乙名格の風潮は、一斉に閉鎖有徳が改められるようになった織田時代・豊臣時代以後の徳川時代に入っても「本来はそうでないといけない」というその由来(等族義務)の名残りは、庶民側だけでなく武士側も活き続けた。

今一度

 

 年齢大別に過ぎない大人

 

 

 政治精神的(公正性・主体性・健全性)な乙名格

 

で意味を分離し直す必要があるといえる。

乙名格の手本(説明責任・主体性・当事者性・体現体礼・自立自制性)など何ももち合わせていない、公的教義と大差ない分際(偽善者)が出所の「大人」の偽善共有認識から、国際品性(健全性・教義指導力)など生じる訳がないのである。

国際品性(等族義務・教義指導力・公務公共性)など何も身についていない公的教義どものように、汚らしくただ加齢臭を漂わせて偉そうに人生の先輩ヅラ(人格否定)をするために「大人」という言葉があるのではない。

中国から仏教思想が日本に伝わった8世紀頃からの日本は、神仏合祀の考えが整理されていき、海の世界でも仏教も浸透するようにはなっていた。

聖属政権の崩壊は、教義をあるべき政治のために活用できずに、ただ支配する道具としか扱えなくなっていた、今の公的教義と同じただの劣化海賊教義になり下がっていたことが、それが人類史ともいうべき大きな要因だった。

 

飢饉や疫病の蔓延などで大量死が起きるたびに、貧民層ほど死が粗末に扱われ、死を差別され続けてきたそのやり方が典型的といえ、やっていることは今の公的教義も大差ない所といえる。

世俗化政権の始まりとなった鎌倉時代になると、埋葬で死者に対する礼を学ばせながら「死を差別し合い、死後の世界を支配し合う、非文明的な打ちのめし合い」の悪習も、だいぶやめさせるようにはなった。

しかし一方で海の社会は、海の悪霊・災厄神を鎮めたり、守護神などを祭る神道思想は、依然として陸よりも根強かった世界だった。

源頼朝によってこれまでの朝廷の聖属政権が抑えこまれ、世俗政権化が進められた、つまり時代遅れの古代迷信打破が進んだことで、経済社会もその分の発達を見せるようになってきた。

日本の法改革(教義改革)の第一段階だったともいえる、13世紀の重要な鎌倉仏教時代を、日本は迎えた。

経済社会の発達にともない、海の社会でもより便利な世の中にしていくための国際社交も必要になってきていた。

その中で、それまで通用していた掟の内、その阻害でしかなくなる閉鎖的過ぎる部分については、改めていかなければならない自覚も、されるようになった。

時代も変わってきて「結局その縄張りの領域(海域・土俗信仰)さえ良ければいい」となっているだけの、国際社交性(情報交換・健全性)で互いに尊重し合うことから始めようとせずに、それを遮断・妨害・反意し合うだけの古代閉鎖的な信仰(掟)については、陸でも海でも、改善しなればならない時代になった。

陸にしても海にしても、各地のそういう所を鎌倉幕府は、文明的に指導していかければならなかった所は、ここは中世ヨーロッパのキリスト教社会でも共通点が見られる部分である。

老朽化する一方だった聖属教義は、庶民に

 

 意欲や希望の教義性(健全性)

 

をもたらす所か、

 

 ただ権力のいいなりに従わせるために、特に死の扱いの悪用による容赦のない恐怖と絶望

 

しか与えてこなかったやり方が、いい加減に問題視されるようになった。

死に対する扱いからまずは大きく改められるようになったのが、鎌倉仏教の特に大きな改革だったといえるが、永きに渡るその強烈な刷り込みが続けられてきたことで、その迷信打破も非常に大変な時代だった。

 死後の世界を支配 = 非文明的人格否定

すなわち

 人格否定(主体性否定・当事者性否定・公務公共性否定) = 怠け者にエサを与えて調子に乗らせるだけの、劣化海賊教義主義をただ助長するだけで、良いことなど何ひとつない

 

 人格否定(主体性否定・当事者性否定・公務公共性否定) = 死後の世界を支配しようとしている身の程知らずの思い上がりと同じ、人類最大の無能(偽善)行為ともいうべき、世界中に迷惑をかける非国際的な国賊行為

といえる。

するべきは人格否定中心ではなく

 

 相手よりも国際品性(当事者性・主体性・公務公共性)があるといえるような、そう意思表示するだけの人的債務信用範囲の最低限の手本(説明責任・体現体礼の等族義務)の提示

 

を中心とする「教え返す」教義競争の等族姿勢である。

それが一切ない、ただ下品で汚らしいだけの今の公的教義のような、仏性(人間性・社会性)の偽善100設定からの減点方式一辺倒の愚民統制を、ついに否定し始めたのが、源空親鸞である。

万事面倒がっているだけでただ偉そうなだけの低知能の分際(偽善者)が、仏性(人が本来もち合わせてしかるべきとする人間社会性)をただ悪用していただけの、その非文明的教義の上下権威がついに具体的に否定・喚起された歴史的瞬間が、浄土教の誕生である。

「計測することがそもそも難しいような、所詮は過程的な最大値(目標値)に過ぎないその仏性(人間性・社会性)100設定減点方式のただの押し売りから教義性(健全性・向上性)など生まれるはずがない、無責任(無関心・無神経・無為欲)なものでしかない」

 

と、ついに従来と真逆の視点から抗議(プロテスト)され始めた。

状況回収をただ面倒がって、人格否定(死後の世界を支配)しながら偉そうに威張り散らしているだけのその一辺倒教義強制に反対し、0からの当事者性の確認(尊重)の等族的な「当事者にとっての加算確認までの地道な構築方式」を唱え始めて大きな反響を得たのが、2人の浄土教(浄土宗・浄土真宗)だったのである。

できもしないことを力関係(偽善関係)で一方的に求め合わせ、いきなり「ついていけない奴が悪い」ケンカ腰の一方的な合格・失格の決め付けの人格否定(主体性否定・当事者性否定・等族義務放棄)で打ちのめし合う愚民統制論が、歴史的についに否定された瞬間である。

 自力信仰一辺倒 = 正しさ設定のつじつま追従主義        = 聖道門(正道門)一辺倒主義

 他力信仰     = 当事者の人的信用範囲ごとの整合構築主義 = 厭世主義・全体環境主義


これは

 威嚇(挑発・結果的貸方論)= 不都合主義・義理的・道義的追従性・上意下達(トップダウン)

 確認(尊重・目標的借方論)= 都合主義・健全教義性(向上性)・当事者性・主体性・自立自制性・国際品性・下意上達(ボトムアップ)


の組織学的な債務信用区別の話である。

その最低限の品性区別もできたこともないまま、前者の追従性一辺倒の強制のみが社会性だと勘違いし、それに頼らなければ何の自立自制性もない身の程知らずの公的教義主義(偽善教団・愚民統制団)が、教義面でもついに否定・喚起されるようになったのが、鎌倉時代である。

世界中に甚大な迷惑と負担をかけることになる人格否定(主体性否定・当事者性否定・公務公共性否定)のただのいいなりになっている自覚ができたことがない、非国際的な無能(偽善者)こそ、人権など与える必要などない差別されるべき格下人種といえる。

国際性(国家戦略・国家構想)の基本中の基本のこうした最低限も理解できずに偽善憎悪(気絶・錯乱・思考停止)し始め、人格否定(主体性否定・当事者性否定・公務公共性否定)に頼らないと何も主張・意思表示・状況回収できないような無能(偽善者)の、何が人間性だの社会性だのという話である。

鎌倉時代は、劣化聖属政権から世俗政権化への、日本の法治国家化の出発点だったといえる。

 

中世から近世への移行期である戦国後期まで、かなりの時間はかかったが、その統計的な整理から16世紀にようやくそれが本格化されていくことになるのは、そこはヨーロッパの帝国議会でも見られる共通点である。(等族社会化・専制政治化)

鎌倉時代に中央で見直され始めていたそうした教義改革を、海の社会でも取り入れさせようとしたが、これがまた大変だった。

仏教が多神多教的とはいっても、仏教の経典で案内されている如来(先生)との格式と整合させることもどうも難しいような、独特の格式と由来をもつ神が、各地元の信仰の中で無数にいたために、その格式を整合して合祀していくことも、簡単な話ではなかった。

例えば、

 天照(アマテラス・太陽と光)

 月詠(ツクヨミ・月と闇)

 須佐之男(スサノオ・元々は災厄の恐ろしい神だったが「怒らせなければ災害を未然に防いでくれる神」という見方に改められた)

 大国主(オオクニヌシ・大地の恵み)

といった、自然界との根拠も深く、古くから広く知られていたような格式の高い神なら、経典の如来との共通点もそれだけ見られるため、その格式と整合しやすかった。

 

例えば、仏教の経典にある

 

 薬師如来

 

 日光菩薩

 

 月光菩薩(がっこう)

 

が、神道の天照、月詠、須佐之男の関係性と類似しているため、整合しやすい。

 

薬師如来はその字の通り、医術や薬学の神(先生)として江戸時代も重視されていたが、それだけでなく「人々の精神的苦痛も治癒してくれる、人々を良い方向に導いてくれる」意味もある、医術面を祈る意味だけでなく、救世主的指導者の出現などの政治精神的な祈願の意味もあった。

 

日光菩薩(太陽・光)と月光菩薩(月・闇)は、この薬師如来の脇侍とされているが、これは宇宙や万物の原理が両脇となって、この薬師如来を見守っているという構図が、神道における天照、月詠、須佐之男の関係と類似している部分である。

 

仏教の薬師如来は救世主的な見方が基本であるのに対し、神道でのこの存在に相当する須佐之男は、皆がいい加減な向き合いしかしなければその制裁をし始め、皆が真剣に向き合うなら救済の手助けをしてくれるという見方に違いはある。

 

その解釈が少し違うだけで両方とも、普段から責任(等族義務)をただ押し付け合って、偉そうに要求し合う態度しか皆が採っていない、皆がそういういい加減な向き合いしかしない中で何の取り組みも努力もせずに、ただ要求的に祈ることのみしかしなければ、そんな調子良く救済が得られる訳がない原則は、両方とも同じである。

 

誓願と同じで、ただの怠け者根性で100億円を要求的に祈った所で、その目的に見合った取り組みを誓うことなど何ひとつできていないなら、誓願として最初から成立していない理屈と同じ、戦国前期ではその名目(誓願)がどこもいい加減だった理屈と全く同じである。

神仏合祀の話に戻り、一定の地域限定だったとしてもそれなりに広がりを見せていたような神だったならまだしも、完全にその地域のみの閉鎖的な神だと、その地元民にとっては絶対的な神であったとしても、全国的に見た場合、さすがにそれらの次席に扱う訳にもいかなくなってくる。

極端ないい方になるが「自身そこが、天の啓示を受けた、何々を由来とする新たな生き神だ」などと言い張る者が現れ、そこらの数人で祭り上げているに過ぎないようなその得体の知れない「自称神」を、多神教だからといって格式の高い神たちと即座に同列・次席に扱う訳には、当然いかなくなってくる理屈である。

それでも例えば、神懸り的に大災害を2度も3度もピッタリと言い当てたなら、それがただの偶然であったとしてもまだ様子見の余地も少しはあるが、そうでないなら聖属政権時代では朝廷への不遜の「神道荒らし」と見なされて、討伐される危険行為となる。

それまで海の社会でも、仏教の取り入れもされてはいたが、どうしてもその世界独特の、神道的な古い言い伝えを重視しなければならない結社の社会性が続いた。

海の社会でも、時代に合った改革を求められたことの理解こそ示したが、仏教との合祀と一致しないからとって、その土俗信仰を手放すようなことは絶対にしようとしなかった。

どうにも折り合いがつかなかったため、そのことで仏教側(寺院側)がその方針を巡り、かなり揉めるようになった。

つまり、

 地元それぞれのそうした神社の存在はそのまま認めつつ、仏教による教義改革をそのまま導入させ、合祀という形で海域政治を徐々に改革させていけば良い

という意見と、

 古くから多くの人に格式として信仰されてきた訳でもない、経典との共通点もろくに一致しない独特過ぎる土俗信仰との安直な合祀(公認)は、神道(神社)の格式も乱れる上に教義の一貫性も保てず、かえって争いの原因になるから避けるべきだ

という意見で分かれがちだった。

海の社会にも向き合わなければならなくなった鎌倉仏教は、時代における多様化(許容化・新興化)を巡って地上でもただでさえ宗派・流派ごとの布教合戦が激化しがちだったが、海の布教合戦でもやはり同じように激化していくことになった。

海の社会にとっては、前者の方がまだ妥協ができたために「それだったら」と受け入れる所も増えたが、そのあり方を巡って仏教側ではかなり揉めるようになった。

後者の意見だった宗派・流派は、前者の宗派・流派のやり方に対し「合祀の自由化といえば聞こえは良いが、無責任にただ派閥を拡大したいだけの、極めて軽率な詭弁ではないか!」と怒っていた。

この「その地域(海域)による、その都合のためにある御利益(ごりやく)」が中心の結社的な信仰や掟のことを現世利益(げんせりやく)といい、この現世利益のこれからのあり方を巡って、鎌倉時代には大いに物議となった。

揉めらながらでもどうにか仏教による改革が、海の社会でもいくらかは導入されるようになっていったが、この海の現世利益主義は、その後も根強く残り続けた。

室町政権が激しい教義崩壊を起こして戦国時代になると、当然のようにこの現世利益主義もいよいよ閉鎖有徳化し、地上での激しい領域争いに倣(なら)うように、各海域でも縄張り争いを巡る闘争が起きた。

瀬戸内海でも乱れた海域が増えていた所を、戦国後期にはその広範囲の海の裁判権(国際規律)を再統一・整備・再連盟化してよくまとめたのが、毛利氏と協力関係が築かれていった、村上水軍で著名な村上一族である。

豊臣秀吉の海賊禁止令では「あるべき代表を仰ぐことができている国際品性・規律のある、政権や周辺海域ともしっかり話し合いができる者たち」なら、それまでのその海域の利権も、力量(格式・品性規律)に応じて改めて公認されるというものだった。

しかしそれだけの国際規律も身につけていないような「戦乱の原因となるような、海の勝手な上下権威の押し付け合いしかできない閉鎖有徳集団」は、長年の縄張りだろうが伝統の現世利益だろうが全て討伐対象の「海賊」と見なし、その海域における一切の利権を剥奪・否定するというものだった。

この海賊禁止令は、海上における天下総無事令・身分統制令だったといえ、各海域にいた、公認無き海の自衛団たちの、海の生活と関係ない軍船や武具も巻き上げられるようになった。

その背景から、政権の手本としての公式の海軍を組織する必要も出てきて、その司令官に丁度うってつけだったのが、小西行長だったのである。

各海域の事情にも詳しい堺衆との縁の強かった小西行長が、軍の大事な輜重(しちょう・補給体制)だけでない、国際品性ある海の保安長官の存在としても求められていたことから、海賊禁止令を進める上でのその政治的な役割としても、政権内で非常に高いものがあった。

豊臣政権によって、海の社会もいよいよ法治国家化しようとしてた頃、独特だった対馬の宗氏に触れる上で、その経緯と関係していた倭寇(わこう)についてもまとめておきたい。

この倭寇が文献で顕著になるのが、世俗政権のやり直しになった室町政権の、3代将軍の足利義満時代の時である。(それ以前から存在していた)

それまで皇室の2つの有力筋であった、持明院系(じみょういん)と大覚寺系の険悪な因縁も、足利氏もその和解を手伝ったこともあって、ようやく皇室問題も落ち着きを見せるようになった。

皇室間を和解させ、改めて朝廷(皇室側・聖属)と足利氏(武家側・世俗権威)とも和解する形にもっていったことは、まずは大きかった。

反抗しがちな諸氏もいた中でも、その影響もあって足利新政権は全国的に一目置かれるようになり、日本の法治国家の姿もいくらか取り戻されるようになった。

それまで国内紛争が永らく続き、中国大陸との交易も途絶したままになっていた中、それなりに日本の平穏を回復させた足利義満が、明(みん・当時の中国政府)との貿易を再開するようになった。

国威も必要になってくる、国際交流でもある貿易が今までなかなかできないでいたのを、足利義満がついに再開するようになったために、足利氏のことを日本全体の代表と具体的に認めざるを得なくなるという、政治的な効果も大きかった。

この時の貿易は「日本が明に朝貢し、見返りに返礼の品々を授ける」という形式を最初だけは採らされたものの、所詮は外交上の交易の中だけの話で、その表向きの体裁も最初だけだった。

武家社会の浸透によって、日本人にとって歴史的に深く関わるようになった日本刀は、ただの武器としてだけでなく、格式を込めようとするその意匠性が、美術工芸品としても明でも特に注目された。

明でも優れた刀剣や、また火薬を使った試験的な炸裂弾なども作られるようになっていたが、日本人の意匠性がよく出ていた日本刀は、交易品として人気があり、高く評価された。

他の交易品も、元は中国から学んだものが多かったが、それでも日本独自で発達させていった扇子などの工芸品も、交易品として高い評価を受けた。

その頃の明は丁度、貨幣改革を計画していた最中で、廃止予定の永楽通宝・永楽銭という銅貨が、大量に倉庫に保管されていた。(通宝は貨幣という意味)

日本でも貨幣は作っていたが少量で、明国のその銅貨のように、品質の高い貨幣を大量生産できる体制はまだできていなかった。

日本側がそれを欲しがったために、廃止される予定だったその銅銭を明国は譲ることにし、その膨大な量の貨幣が日本に持ち帰られた。

これから伸びようとしていた日本の経済社会を、この時に持ち帰られたこの銅銭による貨幣経済で支えたことで、世の中は一気に便利な世になり、急速に発達させていくことになった。

日本国内の経済社会の勢いと共に貿易も盛んになり、物流経済も全国的にどんどん発達していったため、日本は今まで体験したことがないほどの爆発的な、今までの社会観念が全てひっくり返るほどの異様で乱暴な数物主義・貨幣主義ともいうべき高度成長社会を迎えた。

何度か説明してきたが、これに対応できるだけの法(社会性)の整備が間に合わなくなったからこその、今までの考えを大きく改めなければならなくなった戦国時代を迎える、そのきっかけにもなった。

この時に、中国大陸と日本列島の間にいた、東シナ海側の海域の住人らもその貿易経済に便乗し、明政府から見ると密貿易のごとくの、両政府に無断で勝手な取引を始めたために、明もそれに手を焼くようになったのが、倭寇問題である。

その時に明が取締り対象として、非公認の海賊と見なしてして呼んだのがこの倭寇(わこう)で、この問題は少しややこしい。

この「倭」とは明から見たよそ者の連中として、特に日本側と見なした民族たちのことを指した。

そして「寇」「権力者を暴力で困らせて、その権益をゆすろうとする集団」の博徒のような意味の、非公認の闇市を勝手に作ってそこで密売買を続ける暴力団結社のような意味で使われていた。

 「倭寇の船団が取引に出かけ、現地でそれを断られると暴力を振るうようになり、その内に海岸沿いの商業都市や村々を襲撃するようになった」

などと、何が起きていたのか状況が全く解らないような切り抜き報道的な伝達ばかりされていた。

まず、足利義満時代における室町政権で爆発的な高度成長社会が興り、その影響で中国大陸と日本列島の間での交易も盛んになったために、東シナ海の海域の住人たちがその好景気に便乗し始めたことが、倭寇問題の発端だった。

足利義満が、国内の騒乱をそれなりに鎮めるようになって国威を示し、魅力的な交易相手だと思われるような産業政治力も日本にあることも示したため、明としてもあなどれない交易相手と見るようになった。

明と日本との交易が再開され、日本の交易品にも魅力があることが改めて知られるようになると、東シナ海側の互いの海域の住人たちが、交易品になりそうな国内の品々を買い集めるようになり、取引船団・商人団を組織して取引を始めるようになった。

東シナ海における明の最重要貿易港になっていた寧波(ニンポー)は、上海(シャンハイ)から見て近めの南側にある著名な貿易都市だったが、その周辺に市場を作って価格競争を始める者なども出現し始めた。

その社会現象は明でも大きかったらしく、明政府の国益を大きく阻害するようなっただけでなく、恐らくその利益を巡って、上から下まで揉め始めていたと思われる。

そのため海岸側のそれらを全て非公認の闇市扱いにして、明軍が取り締まるようになり、それら闇市の解体が強行されていった。

それに対し、海岸側と結び付いていた各海域の住人たちが「慣習荒らしだ!」と明政府に怒って団結し始め、それに反抗するようにしばらく闇市合戦のような状態が起きたが、結局排撃されてしまった。

その海域で古くから生活してきた住人たちは、今まで自分たちにとっての特権だと思っていた、社会性の全てだったはずのその海域権を奪われてしまったことに、激怒した。

それを恨んだ彼らはその内に、明が日本や琉球に出していた貿易船や使節船を襲撃するようになった。

明はそれら海の妨害者らをまとめて「倭寇」と呼んで追跡したものの、古くから海域に精通し、海域間での広い交流網ももっていたこの倭寇たちをとても捕まえられず、手を焼いていた。

倭寇は、寧波近隣の海岸沿いの商業都市や村々も襲撃するようになったが、これは略奪が目的だったというよりも、その海岸沿いの権利を取り戻そうとする抗議運動のためにやっていたと思われる。

この倭寇問題は、陸における閉鎖有徳改めの問題だけでない、それよりももっと厄介な問題だった。

この倭寇は海の社会独特の、奇妙な、政府非公認の小国家的な政治外交力を、明らかにもっていた。

対馬もこの倭寇と同じように、その海域社会による奇妙な政治外交力が構築された、日本人、明人(中国人)、琉球人、朝鮮人らの混成連合だったが、明政府と揉めていた連中はもちろん明人が多かった。

海域に精通していた倭寇たちに手を焼いた明は、日本に倭寇の討伐を指示するようになった。

倭寇の中には日本人もいたために、その時のいい方も、格式を意識した明が体裁上は、日本側の問題児扱いするような曖昧で強引な言い方で「だから日本側が処理するべき」だと倭寇退治を要請したに過ぎない。

一方、日本列島側も同じような状況は起きていたと予測されるが、日本側は室町政府がそれを全面的には規制しようとはしていない節がある。

日本側もこの倭寇問題で何らかの支障は出ていたかも知れないが、明ほどの騒ぎにはなっていない。

「市が開かれたらなら、とりあえず儲けた分だけの税さえ払えば良い」とする制度の新設で、ある程度は自由化が許容されていたと思われる。

この高度成長期には、のちの楽市楽座の前身が作られ、その物流経済に対応するべくの大規模な金融業・両替商・為替市場も、さっそく作られるようになっていた。

この倭寇問題を、室町政権が具体的にどうやって解決したのか詳しく確認はできなかったが、室町政府が明政府に対して「倭寇を制圧した」と報告し、とにかくその騒ぎをいったん治めていることに成功している。

この時に室町政府は、追いかけても徒労に終わるのみのこの倭寇を、実際は制圧したのではなく「交易活動がしたいのなら日本側の海域でせよ」といくらか生活権を認める政治な懐柔で、どうにか治めたのではないかと見ている。

明が「制圧せよ」といってきて、表向きは相手が格上だったからそれに合わせて「制圧しました」と返答しただけではないかと、筆者は見ている。

明と揉めなくなった(騒ぎもマシになった)以後の倭寇は、今の長崎県のすぐ西隣にある五島列島(ごとう)・福江島に、戦国時代以後もそこで生活している倭寇の一団がいて、対馬や朝鮮半島との交流もしていたことも解っている。

この五島列島は、戦国時代にはその周辺の海域もまとめていた宇久氏(うく)が代表格だったが、宇久氏が衰退して福江島のまとまりが無くなると、その親類家来筋の玉之浦氏(たまのうら)が下克上闘争を起こした。(玉之浦納の乱。 1507 年頃)

この宇久氏は、平戸周辺の海域勢力としても古くから著名だった松浦氏(まつら・まつうら・末羅党)との親類関係をもっていたため、玉之浦納(たまのうらおさむ)による宇久氏排撃の折、若年当主の宇久囲(うくかこい)は、松浦氏のもとに亡命した。

しかしこの玉之浦納は、14年間ほど福江島の統治に成功したものの、再統一・再整備をし切れず、次第に地元の反抗を抑えきれなくなった。

それを機に、宇久氏が松浦氏の協力を得て、島民に呼びかけながら玉之浦氏は倒され、福江島の奪還に成功している。

この福江島にいた倭寇(北西部の貝津神社との関係?)は、その周辺の海域政治にも関係してくる闘争に当然関与していたと思われ、宇久氏とも時折は揉めつつも、融和的な交流関係を維持していたと思われる。

15世紀末、ポルトガルの航路開発によってついに大西洋側からアジア貿易(今のインドネシア方面)まで進出するようになると、広い交流網をもっていた倭寇も早くからポルトガル船と接触していた。

16世紀初頭には、この倭寇の交流網の中にポルトガル人もすっかり混じっていたことが知られている。

1543 年に、交流を目的に宣教師フランシスコ・ザビエルを乗せたポルトガル船が日本を訪れた時に、人々の話題の的になったが、それより数年前に、福江島の方までポルトガル人が、調査員として下見に既に訪れていたかも知れない。

ポルトガルが地中海貿易(ヴェネツィア)を介さずに、独自でアジア貿易を始めるようになったため、ヨーロッパの西側では、リスボン(ポルトガル)とアントウェルペン(ネーデルラント)の二大貿易都市による大経済景気で盛り上がっていた。(そこに新大陸事業が重なった)

この倭寇たちは、アジアまで進出していた西洋人たちと早い段階から接触していたため、西洋の事情も早い段階で察知していたと思われる。

その後もこの倭寇は、明とも朝鮮王朝とも、海域のことで時折揉めているが、倭寇は明らかに、アジアの海域における華僑のような奇妙な政治外交力をもっていたと見て良い。

豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まる4年前の 1588 年に、海賊禁止令でこの倭寇も取り締まり対象になると、倭寇は豊臣政権による公認保証の裁定に従うようになり、永らくの倭寇の旧態体制は、少なくとも日本側では解体されていったようである。(倭寇禁止令)

それまでこの倭寇は、琉球・寧波・対馬という広範囲の海域で、何かあるごとに「慣習破りだ!」と海域の信仰・掟の名目(誓願)を基準に騒ぎながら異様なしぶとさを見せ続け、中国と朝鮮をかなり困らせていた。

「自身は最下層庶民出身者であり、それらの味方である」を連呼し続けていた豊臣秀吉に対し、早期的に和解したと思われる倭寇は、その華僑精神が恐らく影響していた。

華僑とは何かについても、まとめておく。

まず華僑は狭義だと、大抵は近代中国で目立つようになった「不健全な規制を嫌い、その自由化を求める意味での慣習破りの商工業従事者ら」中国人華僑のことを指し、広義にはどの時代どの国も限定しない「その精神性をもつ労働者のこと」を指す。

近世から近代への移行期は、ヨーロッパで顕著だったスペイン・ドイツ(ハプスブルク家)が今までは中心の神聖ローマ帝国を始めとする王政が、次々に解体されていったように、世界的に王政・王権解体の動きが顕著だった。(日本の王政解体=倒幕)

近代に世界中で意識されるようになっていた、法(社会性)がどんどん複雑化していくその時代に、国威にも影響してくる産業革命時代を乗り切るには、それまでの専制王政的な整備の仕方では、もはや対応不可能な状況になっていた。


世界がそういう動きになってきているのに、日本では幕府が相変わらず参勤交代だの鎖国令だので「できもしない今までのやり方」でその時代を乗り越えようとしていた姿に、いい加減に皆もあきれ始めていた。

そんな幕末時代に坂本竜馬が

 

 「外国では、伯爵領(藩)というくくりなど解体されながら、カムパニー(会社)という結社単位で、過去の慣習に囚われない自立自制的な商工業や物流業を、世界に向けて自由的に営業しているという話だ」

 

といって、脱藩者たちと亀山社中という日本最初といわれる会社を作ってしまったが、その考えも当時でいう所の華僑精神だったともいえる。

世界が近世脱却・近代化に向かっていた中、中国は近代化が遅々として進まず、近世の王政時代の旧態風紀(政癖)を異様なほど長引かせ、近代における法治国家の姿を取り戻せなくなっていた。

農地から人を逃げられないようにするための戸籍統制による、相変わらずの地縛的な階級制がいつまでも続き、労働を選ぶ権利すら与えられない、近代に対応できない近世のままの法がどんどん劣化し、古代奴隷制度に等しい抑圧政策になり下がっていた。

だから中国は、近代化が進んだ日本も含める列強国から、格下の領土であるかのように散々の食い物扱いにされる事態に陥り、列強同士のそうした市場争奪も大きな原因となって発展したのが、第一次世界大戦である。

この時点で中国は、2つ3つに国家を分けて統治しなければならない状況にきていたほど、中国全土に一党的な法で統治することも、もはや困難なほど、近代化による法の複雑化(多様化)は深刻化していた。

良いか悪いかはともかく、当時日本が軍事的に中国に乗り込んで、長春を独立国家的な満州国に作り上げようとしていた理由もそこである。

 

長春における鉄道と物流を独占し、現地人を強制労働させたことばかり強調されるが、それは満州だけでなくどこもそうだった。

 

満州は日本の属国化のためというよりも、現地の軍属や政治家との派閥結束を強め、政敵を排除しながら日本との対等国を目指し、独立国家になろうとしていた節すらある。

ヨーロッパでは、同じゲルマン人でもオーストリアとドイツとで一応は、都合によっては地域柄に合わせた国家・地域間でくくることもしてきた歴史がある。

帝国議会(神聖ローマ帝国)というくくりでまとめるようにして、地域柄ごとを尊重する必要が出てきた場合は、公領(デューク)や司教領・侯領(マーキス)といった、地域を国家的な単位と扱いながら交渉する関係も、それなりにしてこれた歴史もある。(管区政治・クライス)

これについては、陸続きの他人種で揉めがちだったヨーロッパを、貴族品性(人の上に立つべき階級の者に必要な、本来の有徳主義)からの国際社交性で和解する方法を教えてきた、キリスト教のおかげだったともいえる所である。

中国はそれまで、政府の既成概念が老朽化し教義崩壊を起こすと「強力な代表が台頭して、一党的に皆をまとめれば良い」という、天子思想(天啓的に選ばれた者主義)からくる英雄主義の歴史的背景が強かった。(明の開祖となった朱元璋も、中国共産党の毛沢東のその後の扱われ方も、その良い例)

専制政治が重要だった近世まではそれで何とかなっても、ついにそれでは対応できなくなってきた、世界的な産業革命時代に突入し始めて、いよいよ、法が複雑化(多様化)してきただけでなく国際外交も複雑化(多様化)してきた近代になって、そこに中国は苦しむことになった。

近世前後までの中国は、常に時代の先端を走ることができていたのも、そうした一党統制的な優れた所があったからだが、近代に入ると完全にそれが裏目に出ていた。

まとまりが全くなくなった中国大陸全土で馬賊(組織的な武装博徒。傭兵団。規律自治団化して縄張り争いをしていた所が多かった)が横行し、むしろ馬賊の方がまともとすらいえる、大半はただ偉そうに威張り散らしているだけの不正役人の横行と、劣悪な軍閥が乱立するようになった。

そんな混乱が続いた中国情勢の中で、とくに農地に地縛させられ続けてきた者たちが、権力者の追跡から逃れる形で都市部に集まって、勝手に商工業労働組合を作り始めるようになった。

劣化権力の規制を破りながら、生活品などの生産と販売を勝手にやり始めて、財を築いた者たちが多かったのが、その華僑たちの財力の由来である。

権力者の圧力の危険もともなっていたが、この華僑たちはそもそも、勝算が高い環境が前提にあったからこそ、劣化権力への慣習破りの団結さえできれば、富豪にのし上がる可能性も高かった。

皆がやりたい魅力的な商売にしても、あらゆる概念は権力者の特権階級制扱いにされて、規制され続けていたためである。

例えると、平成・令和という時代になっているのにまだ、大正・昭和時代の生産方法、昭和時代の品質のままでないと罰せられ(人格否定され)、その構成員の人選、人数、生産体制の認可は、全て地元の権力者の特権という、状況回収なき暴力専制の、ただの劣化教義の世界になりさがっていた。

 

だから昭和後期や平成期に流行していたような旧態商品でも、その産業力についていけていなかった中国大陸側ではそれも飛ぶように売れた、それこそ国内の売れ残り商品でも売れた、そんな楽勝商売ができたから、列強同士の険悪な市場競争が起きた。

今の公的教義と大差ない、こうした国際品性(主体性・当事者性・教義競争)なき非文明的な世界とは、誰もがいつでもどこでもそれと隣り合わせだということを忘れてはならない、笑いものにしている場合ではない話である。

農地でもどこでも全てそれで、政局と強く結び付いていた地主層の権力を絶対とする、ただ秩序を維持する以外には何の展望(主体性・方向性・教義性)の見通しもない、ただ王様と奴隷の暴力関係を強めるばかりの、後進的な無責任政治が横行していた。

その自由競争を延々と規制していたからこそ「今までよりも質が良くなって、しかも安ければ、飛ぶように売れるのは目に見えている」ものばかりの、非常に解りやすい市場状態だったのである。

権力者は最初はその流通を妨害し、首謀者やその団体を捕まえて、処刑したり農地に戻そうとしたりしたが、購入者たちが飛びついて買うようになるその本音の所は、止めようがないことも多かった。

ほとんど無政府状態に近かったために、どの地域の役人も、国際品性(主体性・自立自制規律)など一向に生じる訳もないまま、閉鎖的な力関係の暴力でただ威張り散らしながらの、収奪と収賄が全ての偽善世界だった。

そんな状態が続いてまともな生産力・工業力もなくなっていた中国に、どの列強も「商品を持ち込めば飛ぶように売れる中国市場」に、自国の経済景気欲しさで大量生産した商品をもちこんだために、その内に市場を巡る中国大陸での派閥闘争も激しくなり、列強同士でも揉めるようになった。

広大な中国大陸をまとめるのも大変だった所を、その足元を見た列強たちは、自国のそれぞれ社会基準で、現地中国人を隷属労働者化し始め、主体性のない政府がそれを止めることもできないまま、形ばかりの役人もその力関係に買収される一方の世界だったのである。

 

財を成していく華僑たちも、利害次第でしか動かないその、ただの劣化教義型の特権階級者気取りの偽善役人どもなど、買収すればいいだけの話だった。

列強の市場競争の踏み台にされた中国は「所詮は国内ではなく他国の踏み荒らしで良かった戦争景気」をもたらすようになってしまい、近代化に不慣れもあった列強の、国内での意思統一(愛国心)に利用される形で、第一次世界大戦に発展させる要因となった。

アヘン戦争に発展したそもそもの原因もそういう所で、そういうものをろくに主体性(教義性・国際外交力)をもって跳ね返せなくなってしまう、自分たちであるべき代表を選出できなくなってしまった国家の、宿命だったともいえる。

それを取り締まる主体性などどこにもない国家などというのはいつもそんなものだが、だからこそ当時の中国は、地元の有力者らによる軍閥の乱立による、群雄割拠が起きた。

そのように混迷していた中で、商売で財を成していった華僑たちは、この「慣習破り」同士で助け合う精神が大事にされた華僑同士での自立自制性によって、裏での政治団結力が身につけられていった。

そんな情勢の中で力をつけていった華僑たちは、列強他国の財界人たちとの交流も当然のこととしてもつようになったが、これはただの売国奴うんぬんの問題などではなく、どうやって中国大陸を建て直すのかという政治的な理念ももたれた上での、やむを得ない国際派閥的な都合も強かった。

華僑たちはその財力と結束で、他国の財界人たちとも国際交流的に結び付きながら政治力を身につけていき、華僑たちの支持次第で、時に指導者・政党を指名支援するようにもなった。

有力な政治学者として期待・信用された孫文が、何度も危機的な状況になっても、その立場が簡単には揺るがなかったのも、華僑たちの影の支援が強かった。

中国がそんな状況だったからこそ、孫文・毛沢東・周恩来・朱徳ら著名人が活躍する話になるが、長引いてしまうため、他の機会の別枠としたい。

華僑の慣習破りにおいては、これまで何度か紹介してきた中世ヨーロッパ以来の、14世紀頃に盛んになった特殊組合(ツンフト)の世界とも共通点がある。

世俗化が進んだことで農商業改革と貿易経済も今までよりも発達するようになり、法(社会性)の世俗化も顕著になっていった中世ヨーロッパでも、帝国議会も、都市や農村の庶民政治も、それにすぐには対応できなくなっていた。

法(社会性・教義指導力)の整備が進まず、それで乱れることも多くなると、過去の権威に頼る定番の教義劣化も起き、都市の商工業組合(ギルド)も、人選と人数をより厳しく階級制的に規制するようになっていた。

経済は豊かになってきているのに、相変わらず市民権や自由保有地権(社会保障制度)を獲得する機会は規制され続けた都市の日雇い労働者や小作人層ら最下層は、いつまでも庶民同士の過去の上下権威に縛られ続けることに、いい加減に不満をもつようになった。

それら最下層たちでも蓄財や社会保障が構築できるように、その経済景気の過程で最下層たちが勝手に作り始めたのが、特殊組合(ツンフト)である。

金融都市アウクスブルク(バイエルン州)で著名だった政商フッガーに関連する記録から、のちプロテスタント運動にも関係した、アウクスブルクにおけるこの特殊組合(ツンフト)の様子が判明している。

中世のアウクスブルクの周辺農地では、亜麻(あま)糸が盛んに栽培され、亜麻糸と木綿を原料とする「バルヘント織り」という、人気のあった織布(しょくふ)の輸出特産品を、都市で盛んに生産されるようになっていた。

今まで市場を規制し続けてきた商工業組合(ギルド)に対し、いつまでも社会的地位が改善されていかない最下層庶民たちが慣習破りする形で特殊組合(ツンフト)を組織し始め、農村で勝手にその「バルヘント織り」工場を真似して、生産し始めるようになった。

最初は見よう見真似でやっていったために粗悪品が作られていたが、慣れてくると、亜流品でもそれなりの品質のものが作られるようになった。

今までのバカらしい労働搾取・収奪から逃れる形で、勝手に労働体制と販路を作り始めて、低価格で販売されるようになったそちらの商品も人気が出始めたために、商工業組合(ギルド)側の今までの利益が圧迫されるようになった。

都市の商工業組合(ギルド)たちの特権であったはずのそのバルヘント織り産業を、この特殊組合(ツンフト)が慣習を破って農村で勝手に始めたせいで、自由保有地農民(農村の庶民の有力者ら)たちまでその慣習破りを真似し始めたため、協力関係だった都市組合と農村組合でも、揉めるようになった。

それを、都市の聖堂参事会側による裁判にかけたくても、聖堂参事会は普段は市参事会側(主に商工業組合から構成されていた)とは互いに監視し合う関係だったことに加え、当の土地所有貴族たちも、この特殊組合(ツンフト)を規制することも積極的ではなかった。

特殊組合(ツンフト)側の言い分としては

 「我々は大昔の過酷な納税の滞納借金利息証文をいつまでも根拠に、不当に労働搾取・収奪される一方で、不景気や飢饉が起きても、裁判権側は我々を守るための代替保障など今までしてこれなかったではないか!」

 「餓死者が出てもそれを上が責任(等族義務)をもって救済してくれた試しがないから、我々が自力で社会保障制度を作ろうと立ち上がっただけのことの、それの何が悪い!」

という、その責任(等族義務)の反論に対しては、簡単には手出しできなかった。

そもそも最下層庶民たちからすれば、代替補償(市民権や自由保有地権)をもっている側の都合で、代替補償をもっていない側にそれを延々ともたせずに労働隷属させ続けようとしているだけの、その矛盾した聖堂参事会側の裁判権など、いい加減に守る義理などない風潮が、中世には強まっていた。

司教都市扱いだったアウクスブルクは、13世紀には司教権威の司法判事(フォークト)を、地元聖属教義(地元教区・修道院)の教義力で遠回しに追い出す形で、帝国議会の公認で自由都市にすっかり脱却していた世俗化の流れも強まっていたために、余計だった。

 

中世の世俗化によって、市参事会側(世俗側)の権威が強まる一方だったため、司教権威の追い出しでは一致しても、その点では聖堂参事会側(聖属側)の気分も良い訳がなかった。

 

しかし市参事会側(商工業組合側・ギルド側)が都市の等族政治力を身に付けるようになったことは、それまで隷属させていたその下々の世俗化も進むことになり、その内に特殊組合(ツンフト)という形で下からの突き上げを受けるようになった。

 

世俗化(司教都市から自由都市に脱却)で市参事会側(商工業組合側・ギルド側)が等族政治力を身に付けるようになったのに、特殊組合(ツンフト)をただ抑えつけるためだけに旧態の聖属裁判権を用いようとすることが、そもそも大きな矛盾になっていたのである。

これは日本でも中世では、数物権威が横行するようになった物質社会がより顕著になってきたからこそ、今までの観念も通用しなくなってきたそうした所に向き合わなければならない時代となり、互いに乱世を経験した16世紀になってようやく、等族整備されるようになった所である。

最下層救済の福祉事業は14世紀から叫ばれていて、帝国議会でも認知だけはされていたが、法(社会性)の整備が間に合わずにどこもろくにそれに対応できなかったために、その救済処置として、特殊組合(ツンフト)を黙認せざるを得ない状況になっていた。

15世紀末あたりにようやく、ネーデルラントでその福祉運動の手本が見られるようになり、16世紀にはアウクスブルクのフッガー家が最下層救済のための、世界初といわれる本格的な都市型の福祉住宅が建設されて驚かれたが、それまで最下層の苦痛は見て見ぬフリばかりされていたのが実情だった。

そんな中で、特殊組合(ツンフト)が慣習破りだとはいっても、武力一揆を起こしている訳でもない、あくまで労働問題で揉めているに過ぎない彼らをヘタに弾圧すれば、帝国議会からは表向き等族諸侯扱いされなければならなかった都市も土地所有貴族も、国際品性の欠落と見なされ、大いに不利になる恐れがあった。

世俗化の勢いの、中世の暴力的な数物権威主義は、関税権問題、教区主導権(司教都市から帝国都市への脱却など)、ユダヤ人の奪い合いなどを巡って、その法(社会性)の整備が全く間に合わなくなっていた中で諸侯間で激しく対立するようになり、敵対諸侯に名目を与えないようどこも必死だった。

話は戻り、明から厄介視されていた倭寇「無秩序なただの反政府博徒集団」であるかのような扱いを受けていたが、実態は、海域の信仰・掟で団結する華僑的な団体であったと見ていい。

政府に対する慣習破りの制裁に対抗する形で、海域の信仰・掟によって「お前たちの方こそ慣習破りだ!」とやり返すようになった、気骨ある者たちだったとすらいえる。

その海の社会性によって、遠くからアジアまでやってくるようになった西洋人たちとも、早速交流を始めるような国際性も、もっていた。

建物も壁もない広々とした海が生業の中心だった海の社会では、恵みをもたらしてくれるが危険も多かった海と関係ないような、浄土真宗のように厭世的でない、公的教義的な陸側の都合の規律を海側にまで押し付けられることは、窮屈に感じて仕方がなかったと思われる。

だから西洋人がアジア方面までやってきても「偽善設定の正しさと違うことを機械的に判別し、偽善憎悪(人格否定・気絶・錯乱・思考停止)することしか能がない、非国際的な公的教義」と違って、広々とした海の神道的な考えが強かった、海の社会の者たちは、大して嫌悪することもなくキリスト教のことも確認(尊重)し合えたのだと思われる。

小西行長もそうだが、キリスト教徒が堺衆に受け入れられやすかったのも、そのような倭寇とも関係していた対馬との交流・情報網を、堺衆は以前からもっていたのも大きかった。

15世紀あたりまでは対馬も時折、朝鮮王朝と揉めていて、対馬を制圧しようとする動きも見せているが全く振るわなかった。

対馬の宗氏は、そうした海域の広い交流網の代弁者として、それらとの良好関係の維持を続けてきたために、国家相手だろうが何かあるといつも倭寇らが騒ぎ始めて海の慣習を守ろうと結束したため、どうにもできなかった。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に、この宗氏は「表向きの無理難題」をあれこれ言われるようになったが、この奇妙な小国家的な立場だった宗氏は、だからといって反国家的だった訳ではなくむしろ国際交流派だったとすらいえる。

宗氏は豊臣政権に対しても「この特殊な海域の住人たちの生活が保証されるものなら、政権の都合に従いたい」という姿勢で、豊臣秀吉もとぼけていただけでそこは認知していたと思われる。

そういう流れできていた、立場が特殊だった対馬の宗氏は、とにかくそこに一生懸命だったということを念頭に入れる形で、引き続き豊臣秀吉の朝鮮出兵や小西行長に関することに触れていきたい。