近世日本の身分制社会(063/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 豊臣政権の軍需と内部調停を任された小西行長 - 2021/03/13

豊臣政権の様子を知る上で、特異な存在だった小西行長について、続いて触れていく。

1582 年、備中(岡山県西部)の高松城攻め(毛利氏攻め)の最中だった羽柴秀吉は、本能寺の変が起きると急いで姫路城(播磨)に引き返し、ろくな休息もなく慌ただしく摂津、山城に進出した。

 

そして動揺していた織田氏の有力者ら味方に引き入れながら明智勢に決戦を挑み、制圧することになる。(詳細は後述)

今後の中央裁判権のあり方を巡る清洲会議、賤ヶ岳の戦いを経て、羽柴秀吉が織田体制を解体する形で、新たに豊臣政権を構築していくことになるが、本能寺の変以後の宇喜多氏は、羽柴秀吉とは協力関係が維持された。

謀将で名高かった宇喜多直家は、本能寺の変が起きる少し前に亡くなってしまい、しばらく秘匿にされていたが、堺衆の縁、小西行長の縁も手伝って、以後も羽柴氏と宇喜多氏の良好関係は続いた。

表向きの人質として、羽柴秀に養子扱いされた子の宇喜多秀家は、豊臣政権の中で重臣格に扱われるようになり、備前・美作・播磨西部の明確な裁定の57万石もの、大身の地位も保証されるという、高待遇を受けるようになる。

一方で宇喜多氏の親類家臣扱いだった小西行長も、羽柴秀吉から直々にその才覚が買われ、新政権を構築していく過程で、組織の重役のひとりに組み込まれるようになっていく。

堺衆との結び付きも強かった小西行長は、諸氏をどんどん従えて大軍化していく中央軍(羽柴軍)の大事な輜重(しちょう。兵站。軍需補給)を中心的に任せられるようになるのと同時に、前線指揮官も任せられてるようになった。

輜重は、それ自体の役割は地味に見えても、実質の組織政治力・国家構想力が問われる意味で、非常に重要な部分である。

羽柴秀吉は、前身の織田政権の姿勢からそういう所もしっかり見習いながら、中央裁判権の確立を目指していたからこそ、優れていたといえる。

 

その重要性は現代人から見た、近代戦からも教訓にできる所になる。

第二次世界大戦で日本が敗戦した大因のひとつに「短期決戦に頼るばかりで、輜重の重要性をあまりにも軽視し過ぎていた」ことが、教訓としてよく語られる部分である。

「兵器戦・物資戦の弱みも、人的戦意・戦術面である程度は穴埋めすることも可能だった第一次世界大戦」で、日本軍はアジア方面における軍事政権をどうにか確立できてしまったことが、かえって災いした。

第二次世界大戦で日本軍は「大東亜共栄圏」という名目によって、戦線規模をやたらと広げた一方では、それまでのアジアでの優位性におごって、第一次世界大戦の実績主義ばかりを教科書(基準)にし続けてしまっていた。

 

それが、第二次世界大戦における、より広域な領域戦に見合うだけの制空権・制海権を確保することも含める、この輜重・兵站体制を軽視させる、致命的な模範(前例)にした。

日本軍は確かに、第二次世界大戦の前半までは、旧態の軍事体制でも個々の戦闘によって、どうにか維持はできていた。

しかし世界前線はハートランド・ストラテージ(地政学領域性を国際性とする軍事戦略・外交戦略)が重視されるようになっていた、そういう国際戦略に変貌しつつあった情勢を、日本は分析し、対応しようとする努力をろくにしようとしなかった。

 

「とにかく勝てば良い、勝ったという形になっていれば良い」ばかりの、安直実績主義(正しさの穴埋め論)が、段々通用しなくなってきた、領域戦における地政学的な国際政治・外交が濃く問われるようになってきたのが、第二次世界大戦である。

ちなみに地政学の意味は、大戦時では軍事支配領域戦の使われ方がされていたが、現代では、各国の特徴的な文化圏の違いを尊重するための平和的な意味で主に使われるようになっている。

日本が掲げ始めた「大東亜共栄圏」も、その世界戦の変貌をただ挑戦的・挑発的に受け、前線を安直に拡大するばかりで、今まで通りのただの無計画(政癖)な穴埋め理論でしか、結局施行されなかった。

それだけの食料・武器弾薬の輜重戦・兵站戦が可能な工兵体制、そしてそれに追いつくだけの内需(国内軍需生産)という面で、国際国家としての力量が試される「総力戦体制の時代」に変貌しつつあったのが第二次世界大戦の特色のひとつである。(これからその面で紹介しておきたい、豊臣政権における小西行長の役割の大事な部分)

大本営(陸軍省・陸軍参謀本部)は力任せに日本全体の実権を握るだけ握っておいて、常に物資不足・時間不足の状況を作る手口を、とりかえしがつかなくなるほど繰り返すという、必要区別もつけられなくなっていく愚かな無能政癖循環に、完全に陥っていた。

 

つまりそれに頼った緊張感を常に作り、それに慌てて補い始めることこそが軍と国民の意志統制だとする、第一次世界大戦でどうにか通用していた、その危ない橋の渡り方の指導方法(偽善性癖)を、改めようとしなかった。

「広げるから不足する、だから慌てて対応させるのが意志高揚」という、常に国民に不安を煽った方が都合が良いといっているだけの、戦略性(国際品性)が欠落していく愚民統制論に頼っているだけの繰り返しから、内外の教義性(主体性・健全性・国際品性)が生じる訳がなく、負けて当然なのである。

手遅れの状況(社会性)を自分たちで無責任(無関心化・無計画化・無意欲化)に作って、その不都合(偽善性癖)の全てを非同胞のせい(よそのせい・外のせい・人のせい・下のせい)に内を煽って愚民統制しているだけの、教義性を豊かにすることなど何ひとつしない今の公的教義体制(低知能偽善思想)と同じである。

科学力・機械技術力も大いに問われる時代になってきている中、状況回収(教義性の最低限整備)をろくにしない前提でただ大目標を設定し、なおも人海戦術に頼った短期決戦の穴埋め主義で全て打破していこうとした。

 

手法の使い分けもないただの下策(戦術)の繰り返しで、上策(国際品性・国家戦略)が構築できる訳がないのである。

国際的な地政学性(その領域をその国家が支配する社会性・裁判権であるという当時の根拠)という領域戦の政治外交において、その情報戦・科学研究戦の面でも、より濃く問われるようになった時代が大戦後期である。

その競争で敵方に決定的な制空制海体制(輜重体制)、情報戦体制、科学兵器体制などを先に作られてしまったとしても、最悪は一目置かれる教義性(国家戦略・国際品性)さえあれば、ある程度の不利も跳ね退(の)けながら、平和的に和解することもできたはずなのである。

原爆を使った側のみがただ悪いのではなく、「価値がない」と否定されたのも同然の、それを使わせてしまった側の、世界(国際的)に通用しないその国体護持(教義性・主体性・国際品性・等族義務)の無さも、大いに問題なのである。

近代戦が、人種憎悪(閉鎖偽善)のためではなく最終的には世界全体の国際品性(国際規律)の向上のための、その和解の糸口を導き出すための国家の格式の力量比べ(裁判権争い)でなければならない表向きの原則は、それが芽生え始めた近世時代の教訓からも、いくらかは学べたはずなのである。

もちろん当時の日本軍は、アジアにおける代表的な国際軍事裁判権がどこにもない危惧から、強引でも日本がそれを牽引しなければならなかった点では、評価の余地も当然あるが、どちらにしても教訓とするべきことに変わりはない。

新型コロナウイルスの影響の直前までには、学校のイジメ問題、会社の不当な上下強要問題も段々と取り上げられるようになってきていたが、それを自力解決する品性手本(教義指導力・国際品性・等族義務)など皆無な公的教義のような、その最低限の人的信用(当事者性・主体性)も構築・指導できない低知能(偽善)集団の分際に、水爆(暴力)を跳ね退ける国際品性の主張など、できる訳がないのである。

そういう所から一目置かれるような最低限の手本というものを何も大事にできていない、制裁(格下げ)されるべき無能(偽善者)どもこそ、旧態権威に頼れなくなり真価が問われるようになる肝心な時に、あなどられて当然なのである。


話を戻すが、賤ヶ岳の戦いを制して織田氏を押さえ込もうとした羽柴秀吉が、織田信雄(のぶかつ・信長次男)と対立して小牧・長久手の戦いが起きると、徳川家康が律儀に織田信雄に味方したため、思わぬ大反撃を見せられることになった。

その戦況は、各地の反羽柴派の影響力も働いていて

 土佐の長宗我部氏(ちょうそかべ)

 紀伊(きい・紀州・和歌山県)の根来寺(ねごろじ・有徳勢力)


が、反羽柴派(織田徳川連合派)として不穏な動きを見せ、そちらにも気を取られることになった羽柴秀吉にとって厄介になっていた。

当時の羽柴秀吉にとって、三河の徳川家康、土佐の長宗我部元親、紀伊の根来衆の3つは、厄介な政敵になっていた。

紀伊は表向きは、かつての管領家(かんれい・室町時代の3つの地方最高長官。細川氏、斯波氏、畠山氏の三管)の畠山氏の支配下という扱いだったが、畠山氏の衰退後も有徳勢力(宗教勢力)による割拠は続き、特に根来衆はあなどれない団結を続けていた。

 根来衆(ねごろ)

 雑賀衆(さいか)

 粉河衆(こなかわ。今の地名・寺院名などはこかわ)


らが団結して軍事自治権を強め、商業経済権を確保しながら、鉄砲や大筒(おおづつ・大砲のこと)の大量生産の技術を身につけていた。

これらは火砲を豊富に揃えていただけでなく、特に雑賀衆はその扱いにおいても名手揃いだったことで著名で、それを指導して外圧に睨みを効かせていた雑賀孫市(さいかまごいち。仏教家・神道家の結び付きの強かった鈴木一族)の存在などが、際立っていた。

羽柴秀吉が、織田信雄・徳川家康に小牧・長久手の戦い( 1584 )を挑んだ時、四国勢、紀伊勢が不穏な動きを見せたことで、中央の諸氏も、親羽柴派と反羽柴派とで揺れるようになっていた。

羽柴秀吉はその戦いの最中にも、それら影響で揺れていた諸氏への外交・調略もどんどん進め、羽柴派を具体的にしていった。

小牧・長久手の戦場では徳川勢の猛反撃によって戦況こそ良くはなかったものの、外交的には羽柴側が有利になる和解にもっていき、織田信雄を説得して抑えこむことに成功する。

羽柴秀吉は織田氏・徳川氏との対立をいったん終結させると、旧織田領外の近隣で依然として羽柴秀吉の警告(天下層無事令・身分統制令)に従おうとしなかった紀伊の有徳勢力と、土佐の長宗我部氏の抑え込みに乗り出す。

長宗我部元親は四国統一を目指していた最中で、羽柴秀吉としても早く抑え込みたい所だったが、それと連動していた厄介な紀伊の有徳勢を、先に制圧することにした。

身分統制令(後期型兵農分離)による、まずは公務士分でない者の、許可無き武力の解体・規制のためのその有徳勢の制圧に乗り出されたが、この時に小西行長が、大規模化していく羽柴軍の物資運搬を任され、さらには水軍指揮も任されるという抜擢がされている。

羽柴秀吉は、諸氏を従えて大軍を動員するようになっていくと同時に、政治面での納税に関する測量や貨幣の基準整備などと連動しながら、その輜重体制もどんどん整備していったが

 羽柴秀長

 浅野長政

 増田長盛

 石田三成


ら優れた行政の首脳たちと連携を採りながら、物資運搬の陸運・海運の整備の大役を任されるようになったのが、堺衆との結び付きも強かった小西行長である。

根来衆は、織田政権時代には、浄土真宗の対立と同じような事情で、世俗裁判権に従おうとしない聖属裁判権を巡って織田軍と軍事衝突が起きていた。(宗教改め・教義改め)

紀伊の有徳勢力は、浄土真宗のように一本化された宗派ではなく、奈良仏教のように地元の寺院のそれぞれの格式を重視する、地域連盟型の団結の仕方をしていた。

ただし奈良仏教の場合はそれほど戦国仏教的でもなく、格式さえ認めてもらえるなら世俗裁判権とは柔軟に和解していく姿勢も示していたのに対し、根来衆はそれがなかなか見られなかった。

織田氏が浄土真宗(本願寺)と激戦をしていた頃、聖属裁判権を維持しようとする浄土真宗に共鳴した根来衆は、浄土真宗たちに味方して、支援し続けていた。

織田信長はそれを止めさせるために、いうことを聞かないこの根来衆にも攻撃を加えていたが、鉄砲と大筒を大量に抱えていたその自治軍を、簡単には制圧できないでいた。

しかし浄土真宗の貫主(かんじゅ。代表指導者。和尚)である顕如(けんにょ)が、ついに聖属裁判権(軍事自治権)の放棄を認め、織田氏(世俗裁判権)の裁定に従うことになった。( 1580 )

断続的に10年近く続いたといわれる織田氏と浄土真宗との対立がついに終結したために、織田氏と根来衆との対立もいったんは落ち着きを見せたようである。

顕如が摂津の石山本願寺城を退去すると、それまで盟友関係だった根来衆が身柄を引き取ることになり、師弟たちのいくらかもそれに同行した。

これからの浄土真宗のあり方について、顕如たちは師弟たちと方針を巡って、紀伊で議論・再整備をしていたようである。

その事情もあったために、織田氏と根来衆の対立もいったんは停戦状態になったようで、今後どうなるかという状況の中で、本能寺の変が起きてしまった。

羽柴秀吉が中央で台頭し、天下総無事の名目(誓願)で身分統制令(後期型兵農分離)を近隣から向けていくと、格下げを恐れた(今までその地域で通用していた上下権威が維持できなくなる)根来衆もかつての閉鎖自治を強めるようになり、反羽柴派らと連携を採って不穏な動きを見せるようになった。

羽柴秀吉と根来衆との関係が悪化したため、紀伊に滞在していた顕如は、羽柴氏と和解するよう根来衆に説得したが、折り合いがつかなかった。

顕如は織田信長と約束した「聖属裁判権(宗教武力)の放棄」を守ることにし、その争いの不介入を決め、浄土真宗の一同は紀伊を退去することになった。

羽柴氏と根来衆の和平交渉が決裂したため、根来衆が寺領扱いにしていた領内の太田城に集結し、ここで篭城・反抗の姿勢を示した。

羽柴秀吉は、この太田城攻略の際に、備中の高松城攻略のように、付近の河川を利用して水攻めできることに気付き、多くの人手を動員してそれを実施した。

この作戦はやはり心理的な効果は大きく、今まで水攻めなど体験したことがなかった、強兵で知られた根来衆も、それをできてしまえる羽柴秀吉に対して動揺した。

太田城を意図的に水没・大洪水状態にして、城内で高台になっている所に皆が密集するように避難しなければならない環境を作り、限定的な荷物に囲まれながら地面の自由がすっかり奪われる水攻めの心理的効果は、非常に高かった。

全ての物資を限定的な高台に引き揚げなければならなくなるため、人が密集する限りある高台に全て引き揚げられない分の食料や弾薬などを台無しさせる効果も、大きかった。

羽柴秀吉は「さっさと降参しなければ全て閉鎖有徳と見なし、三木城攻めの時や鳥取城攻めの時のように容赦しないぞ」と、小田原包囲戦の前身の攻め方を、この太田城で実践していた。

戦いはできれば早めに終わらせたかった羽柴秀吉は、洪水状態の太田城に対し、小西行長に水軍を編成させ、攻撃するよう指令した。

これは太田城がどれだけ反撃力があるか、またこの攻撃によって太田城はどれだけ動揺するかといった、小手調べの意図も強かった。

手勢を任された小西行長が、13隻の船団を整えて太田城に攻撃を仕掛けて見たが、予想通りの火砲による猛反撃は凄まじく、戦況を見ていた羽柴秀吉も急いで攻撃を中止させた。

その攻撃中止が指令が水軍に届くまでの間、小西行長は城からの猛反撃にもひるまずに果敢に攻め入る指揮を採ったために、損害こそ大きかったものの、小西行長のこの攻撃は一目置かれ、また城側にも動揺を与えることになった。

根来衆の火砲による反撃力は有名で、どんなに勇敢な者でもそれに戸惑う中での、小西行長の果敢な攻勢だった。

太田城に立て篭もった根来衆たちは実は、抗戦派と和解派との間でのまとまりが欠けたままに、つまり反抗と和解の線引きが計画できていないままに抗戦を決めてしまっていた。

火砲で凄まじい反撃を受けているにも拘わらず、全くひるまない果敢な小西水軍勢の影響が、城内での抗戦派と和解派とで揉める原因を作ることになった。

その戦闘がきっかけとなって、ついに我慢できなくなった和解派が、抗戦派の指導者らの取り巻きたちを慌てて説得し始め、その首魁たちを捕縛するという騒ぎが、城内で起きた。

城内で和解派たちが主導権を握り、急いで羽柴秀吉に和解の使者を送り「捕縛した抗戦派を自分たちで裁いて降伏するため、どうか大勢の下々を助けて頂きたい」と歩み寄ってきたため、羽柴秀吉もそれに応じることにした。

羽柴秀吉は

 「では捕縛した抗戦派の指導者らは、こちらが裁くことにするため、まずはそれら身柄を引き渡すのだ」

 「これからは羽柴氏による中央裁判権の裁定(新たな社会性・等族義務)に従うという所を、皆がしっかり約束(誓願)するのなら、皆を助け、今後の政治も新政権(豊臣政権)が保証することを約束をしよう」


と返答し、その和平が実現された。

根来衆の火砲による反撃力の恐ろしさは有名だった中で、小西行長のひるまない、皆の手本になろうとする果敢な戦い振りは一目置かれた。

羽柴秀吉としても、その攻撃によって狙い通りに根来衆を早期降伏させられたために、喜んだ。

どうにもならない場合は、時間をかけて相手を降していかなければならない場合もあるが、1つの城を制圧するのに

 結局、何か月もかかって手間取った

のと

 攻撃を仕掛けてから数日で決着がついてしまった

にできるのとでは、それにかかる手間や費用だけでなく、その地域のその後の怨恨面や治安面としても、中央政治力の力量の印象・影響力もやはり左右してくる所である。

理由はどうであれ「あの手ごわい根来衆でもあっけなく制圧させられているため、これはヘタに反抗しない方が良い」という流れにもっていこうとする影響力は、かなり大きくなってくる所である。

太田城攻略におけるこの小西行長の抜擢は、羽柴秀吉がこれからの新政権体制において、この小西行長が大軍遠征の軍需を管理する、つまり総帥(旅団長を率いる師団長の代表格)の支援役である軍監(副官格、中央からの現場監査・指導補佐。大谷吉継もそれに次ぐ立場だった)ともいうべき大事な立場に、これからなっていくことを宣伝する意向も強かった。

 

厳密には、この貴重な人事調停の大役がまずはできていたのが羽柴秀長であり、組織の規模がどんどん大きくなっていく中で、それがあまりも大変になってくるから、それを支えられそうな重要人物として見いだされたのが、大谷吉継や、特に小西行長だった。

この戦いによって、紀伊を羽柴氏の天下総無事に従わせることに成功すると、依然として警告に従おうとしない、四国の長宗我部氏の制圧に間もなく乗り出される。

羽柴氏と長宗我部氏が争うことになった 1585 年には、かつて力量争いで互いに苦労し合った毛利氏はもはや羽柴氏のことを中央裁判権と認め、それに従う交渉が和平的に進められていた毛利氏も、その四国攻略戦に参戦している。

羽柴軍は、最初の四国上陸戦では、反羽柴派の反抗に苦戦させられたものの、毛利氏の水軍と、羽柴氏の新鋭の小西水軍の連携によって、水際から四国勢を圧迫していったため、制海権を完全に奪われた四国勢(長宗我部勢)は、次第に劣勢になっていった。

小西行長は、大規模な大軍の遠征に必要な、特に大変だった水運の複雑な物資運搬を、増田長盛らと連携を採りながら、まずは見事にこなした。

 

さらには前線における水軍の指揮官としても、毛利水軍と陸地側の味方と連携し、長宗我部勢を追い込んだことも、相手の降伏を早める手助けになっている。

 

ついにこないだまで、友好関係もなかった諸氏、また敵対関係もいた諸氏同士で揉めずに、現場での連絡司令線が乱れないように公正に連携を採らなければならないという、簡単ではないその役割も小西行長はこなしたため、皆から一目置かれるようになっていた。

この四国制圧戦いは羽柴秀吉にとっての「大軍の遠征、大軍の渡海のための、多くの物資輸送が今、我が新政権体制では、どれだけ可能であるのか」を実際に確認するための、大事な軍事演習にもされていた。

つまりこの 1585 年の四国制圧戦(長宗我部氏制圧戦)は、次の、より規模の多かった「九州統一を目指している最中だった島津氏制圧」のための大事な軍事演習にされていただけでなく、のち 1592 年の朝鮮出兵(慶長・文禄の役)の構想まで、この時点で既にされていたのである。(後述)

豊臣秀吉の朝鮮出兵は「急に思いついて、無計画に始めて、大失敗に終わった」かのような強調ばかりされがちだが、これは実際は、かなりややこしい意図的な事情が絡んでいる。(後述)

小西行長は、宇喜多氏の親類家臣時代の家禄は1000石もあったか怪しかったが、羽柴秀吉からまずは3000石ほどの家禄に格上げされて直臣扱いされ、太田城攻略後は1万石、そして四国攻略後は6万石に、急激に格上げされていった。

その短期間での格上げ自体が、破格の出世劇だったといえるが、九州平定後には最終的に20万石に格上げされるに至ったのは、これも異例中の異例だった。

羽柴秀吉が次々に近隣を従え始め、諸氏たちの動員規模もどんどん大きなものになってくると、その遠征を支えられるだけの中央行政機関との連携役と、現場の連携役の重責を任されることになった小西行長は、豊臣政権内でも際立つ存在となった。

妙な派閥意識を振る舞うこともなく、生真面目で人的信用を大事にするその品性面は、政権の首脳たちとも、前線の有力諸氏らとどうにか内部調停し、大組織を円滑に遂行する役ができた小西行長は、それだけでも逸材だったといえる。

そこがどれだけできているかによって、作戦可能規模とその成否も決まるようになってきていた第二次世界大戦の近代でも、そこに対する整備は簡単ではなく、派閥都合で乱れがちな司令線には、どの国家も苦労している部分である。

輜重体制は「ただ物資を運ぶだけのことだろう?」という、ただ「下っ端がやる仕事」であるかのようにテキトーに任せて、テキトーにこなすようなそんな簡単な事業ではなく、実際はもっと地政学的な重要な軍政戦略なのである。

軍全体の戦略能力そのものとして深刻に響いてくる輜重体制の大変さを、そのようにあなどってたことが、第二次世界大戦における日本の大本営(陸軍省)の大失態だったのである。

羽柴秀吉の天下総無事によって、今までの地方裁判権止まりの者同士が、これからは中央裁判権を基準で交流していかなければならない世の中にどんどん変貌していっている中、諸氏と揉めることも少なかった、その中核ともいうべき大変な役をこなした小西行長は、まさに貴重な存在だったのである。

ただしこの小西行長が、譜代たちを差し置いて政権内であまりにも急激な抜擢がされてしまったために、譜代たちからは内心は、どうしても不満をもたれる原因になった。

 

日本で帰依する者も増えていたキリシタンたちの人望の的にもなりがちだった小西行長は、本人が公正性を保とうとしていても、その面ではどうしても派閥的になってしまう所もあった。

大和の支配代理の立場の増田長盛    20万石 政権直轄領管理分の推定100万石

近江の支配総代の立場の石田三成    19万石 政権直轄領管理は不明 あれば推定50万石

越前・近江の支配管理の立場の大谷吉継  5万石 政権直轄領管理分の推定50万石。軍監役

甲斐の支配代理の立場の浅野長政  推定20万石 政権直轄領管理はしていたか不明


新参の小西行長の20万石は、これらと政務の重役らと同列の家格を与えられていることが窺える。

大谷吉継も政権内では、行政面だけでなく小西行長に次ぐ軍監役としても任される権限は高かったが、表向きの家格は5万石だったため、非難はあまりされなかった。

浅野長政の場合は、織田信長からもその能力・品性を評価されていた、豊臣秀吉が木下藤吉郎を名乗っていた尾張時代の縁からの親類譜代だったこともあり、その待遇を受けても全く非難はされなかった。

増田長盛も、元は大した身分でもない立場からの大身の格上げを受ける結果にはなったものの、行政の最高長官・長老格として皆から一目置かれていたため、まだ納得できる所はあった。

ただし石田三成と小西行長においては、その能力の高さこそ一目置かれたが、若い頃からの格上げが急激過ぎたために、政権内で内心では不満をもつ者も増え、特に石田三成がそれが顕著だった。

それでも小西行長については、能力の高さだけでなく品性面でも一目置かれ、政商団体だった堺衆との関係もあったため少しは納得できる所もあり、時に対立もあってもそこまで険悪化することはなかったが、その点で石田三成は対照的だった。

まず、織田政権に続いて、日本をさらに大変貌させていった豊臣政権のその人事自体が、人々が今まで見たことも聞いたことも体験したこともない、大規模な異例人事の体験期間だったといえる。

織田信長が武家法典(御成敗式目)のやり直しともいうべき、大幅な裁判権改めが強行されていった様子については、これまでしつこく紹介してきた。

織田政権による

 

 手本(等族義務・健全化)にならない上からの大幅な格下げ

 

 下の手本(等族義務・健全化)になる下からの大幅な格上げ

 

は、元々は大した身分でもなかった明智光秀と羽柴秀吉が重臣格に抜擢されたその存在が、まずは広告塔になっていた。

続いて豊臣政権時代による大規模な異例人事が2度にわたって続き、旧来の概念があまりにも通用しなくなっていったことで、本当の意味で気絶・錯乱した者も少なからずいたと思われる。

今までではありえなかった格下げ(降格劇)と格上げ劇(昇格劇)が、織田政権時代で断行されるようになって世間を驚かれたのが、豊臣政権時代にはついに諸氏を平らげられながらの、そのもっと派手な異例人事が断行されたために、さらに世間を驚かせていた。

「士分待遇として厚遇まではされても、さすがに国持ち大名ほどまでは成れないだろう」と思われていたような織田氏の陪臣(ばいしん。羽柴秀吉の家臣たち)たちが、その後の豊臣秀吉の裁定によって、織田政権時代の有力寄騎たち以上の家格・格式を身につけてしまうという、恐るべき異例事態が起きたのである。

全国規模で収拾がつかなくなるほどの騒乱が起きてもおかしくないほどの、その「恐るべき異例事態」をやってしまった、それが織田信長に続く豊臣秀吉の器量(教義指導力)だったとも、いえるのである。

羽柴軍団の直臣筋として、増田長盛ら行政首脳らに次いで1万石以上の待遇、つまり新区画(藩体制の前身)による「一国一城の主(あるじ)」といえるほどの昇格を得た者たちはざっと

尾張衆・美濃衆出身

 尾藤知宣(びとうとものぶ・羽柴軍部の筆頭だった)、蜂須賀正勝(参謀役)、前野長康(参謀役)、小出秀政(こいで)、前田茂勝、山内一豊、中村一氏、堀尾吉晴、加藤嘉明、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)、谷衛友(もりとも)

近江衆

 増田長盛、石田三成、大谷吉継、田中吉政、宮部継潤(けいじゅん)、脇坂安治、富田信高、小野木重勝

親類衆


 杉原定利と木下家定の一族たち(浅野氏の親類連合たち)、加藤清正と福島正則(勇将で知られるこの2名は、豊臣秀吉の母方の親類だったといわれる)

また彼らほどではないにしても、他にも行政筋の重役としてかなり格上げされた、近江衆出身の大野治長、片桐且元(かつもと)、速水守久、宮城豊盛(とよもり)ら、近江長浜城時代の人選で家臣に見込まれた者たちとして顕著である。

 

また、美濃時代からの木下秀吉の名参謀として支えた竹中重治のその次代、竹中重門(しげかど)も家禄こそ5000石ほどだが、1万石以上に相当する特別扱いの格式を得て、のち徳川家康にも竹中氏のその特別家格が公認されている。

元は羽柴秀吉の家臣ではない者でも、織田政権の最有力のひとつだった丹羽家から強制的に巻き上げるように、能臣として豊臣政権の人事に組み込んでいった長束正家(なつか)、溝口秀勝、村上義明らも、かなりの格上げがされている。

清洲会議、賤ヶ岳の戦いを経て、羽柴秀吉に非協力的だった織田氏の有力家臣たちはことごとく失脚させられていったが、あえてその都合に合わせてくれた前田利家、金森長近、堀秀政(旗本吏僚の筆頭格)、毛利秀頼、池田輝政、森忠政ら、他にもかつての能臣たちも、破格の格上げを受けた者も多い。

羽柴秀吉が苦労して播磨再攻略(播磨の裁判権改め)を進めている以後、協力的だった播磨衆の黒田孝高(よしたか)、有馬則頼(のりより)、別所重宗ら、また羽柴秀吉の中国方面平定に組するようになった但馬衆・因幡衆(たじま・いなば。名族山名氏の旧臣ら)の中にも、高待遇を受けている者もいる。

豊臣秀吉による、全国への降格(格下げ)劇は厳しかった一方で、この昇格(格上げ)劇も同時に目立ち、今まで見たことも聞いたこともないその異例事態に当時、多くの人々を驚かせた。

本能寺の変の黒幕説として、羽柴秀吉の策略説がよく挙がる理由も、ここである。

 

世の中を大きく変貌させていった織田政権・豊臣政権の、その難しくてややこしい事情を世間がまともに理解することは困難だった中で、いつでも噂話を好む世間のそうした噂も、現代だけでなく当時も、立っていたようである。

本能寺の変が起きる直前、織田政権ではまさに、後継者の織田信忠の大々的な継承式典が間もなく行われようとしていた時だった。

 

予定されていたその継承式典は異例のもので、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の次代、誠仁親王(さねひとしんのう)の継承式典と共に行われるというもので、これも朝廷の廷臣(公家衆)たちま内心を逆なでし、心底怒らせていた。

 

これではまるで、誠仁親王(次代天皇陛下。院政代表者)と織田信忠(世俗議会の最高代表者)が同格であるかのように見えてしまう扱いである。

 

その式典を手配し、廷臣たちを遠まわしに恫喝しながらそれ断行しようとしていた織田信長に、廷臣たちは心底から怒っていた者が多かったために、正親町天皇も表向きは難色を示すふりはしていたが、内心はそうでもなかったと筆者は見ている。

 

戦国時代が長引き、日本全体の政体も遅々として定まらず、その間の皇室の大事な継承式典もろくにできなくなっていた期間が、あまりにも長引き過ぎていたためである。

 

織田氏が台頭する少し前に浄土真宗が戦国組織化し、余裕があった時は朝廷に多額の献納もできたこともあったために、その時はまともな継承式典ができた、だから浄土真宗は山門扱いから禁門扱いに格上げされたという事情も強かった。

 

織田信長は実際に京の都市経済を大再生させ、ボロボロだった朝廷の建物も全て建設し直し、皇室と廷臣の生活が貧窮することがないよう、その手配も欠かさなかった。(それまでは餓死寸前に追い込まれていた廷臣も多くいた)

 

織田信長のおかげで、形だけでも院政(寺社政治)のまともな姿は再生され、あれだけ荒れていた日本を新たな裁判権(社会性)で健全化させ、法治国家の形に導くことまでされた。

 

だから正親町天皇もその偉業は認め、誠仁親王と織田信忠がまるで同列に扱われるような継承式典が望まれたことについても、それだけのことをした織田信長に対しては、大目に見ていたと考えられる。

 

これまで皇室は、盛大な継承式典が満足にされなくなっていたことの方が、そちらの方が遥かに深刻な問題だったのである。

 

その意味で、盛大な式典になるよう準備してくれていた織田信長に、少なくとも正親町天皇はそこに対しては、決して悪い気などしていなかったと思われる。

 

本当は廷臣たちが、諸氏が争っていようが何だろうがそれを協力させ、盛大な継承式典ができるように整えなければならなかったのである。

 

それは皇室の継承式典だけでなく、例えば貧窮に陥っていた伊勢神宮の伝統的な、内宮と外宮の遷移式典が永らくできないで困っていた時も、それも本来は廷臣たちが諸氏に協力させなければならず、そういう所もろくにできていなかった。

 

それも織田信長が、あるべき公正さで地域政治を支援しながら、全て肩代わりしていた有様だった。

 

廷臣たちは、中央の騒乱も満足に調停できず、室町将軍を支えることも結果的にできず、室町政権の再生を計った最後の希望ともいえた有能な将軍・足利義輝についても、結局守ることもできなかった。

 

進出してきた織田信長に中央の治安を回復され、都市経済を大再生されてしまったその教義指導力の大差を廷臣たちは見せつけられ、打ちのめされた。

 

あてにならない廷臣たちから役割を巻き上げる形で、日本国内における諸氏間の外交も、日本国外の西洋間との外交も、廷臣たちを通さずに、織田政権の旗本吏僚たちが直接対応するようになってしまったため、廷臣たちの立場もいよいよ無かった。

 

最後の砦になっていた乱暴な公的教義(比叡山)が踏み潰されながら「その教義力の無さを反省しろ!」と織田信長から遠まわしに恫喝され続けながら、廷臣たちの多くは強制的に窓際族扱いの制裁を受けていたのである。

 

廷臣たちは「そういう話は朝廷を通してもらわないと!」という体裁の態度を一生懸命出し続けたために、織田信長から見ると「それだけの教義指導力(状況回収力)もない連中が偉そうに諸氏を任官しようなど、迷惑千万だ!(乱世の原因だ!)」でしかなかった。

 

廷臣たちよりも状況回収が遥かにできていた織田政権の、その旗本吏僚たちの方が、優雅さ以外の公務公共面、社交品性面の国際意識は、遥かに格上になっていたのである。(後述)

 

廷臣の全員がそうだった訳ではないが、永らくの自力信仰一辺倒主義から脱却できていなかった多くが、他力信仰主義(全体環境主義)だった浄土真宗に教義の中心の存在感を奪われ、続いて他力信仰主義(全体環境主義)だった織田政権に、ついに具体的に恫喝される時代が到来したのである。(態度が裁かれる時代)

 

織田信長は廷臣たちに対し「お前たち廷臣どもは、正親町天皇の格式・品性に免じて討ち入りされないだけでも、政権の保護下で面倒を見てもらっているだけでも有難く思え!」の態度を遠まわしに出していた。


間もなく行われようとしていた、織田信忠と誠仁親王の継承式典の予定は、多くの政治的な意味があった。

 

まず、この大々的な継承式典を介して、これからの日本の政権のあり方が全国に一斉に告知されることで、もう時間の問題だった、まだ従う姿勢の折り合いがついていなかった東西の諸氏たちに「お前たちにこれだけの式典ができるか!」と見せつけ、威厳を大いに低下させて早く従わせようとする意図があった。

 

そしてこの継承式典の時に、多くの有力家臣たち、多くの旗本吏僚たちへの、大規模な家格・格式の辞令が予定されていたと思われ、その新支配体制の具体的な配備が全国的にまさに行われようとしていた時に、本能寺の変が起きた。

 

それを結果的に明智光秀に阻止されてしまい、旗本吏僚たちも多く失い、それが中断されてしまっていた状態だった。

 

見方を変えると、その中央の白紙状態を羽柴秀吉が掌握し、その白紙を良い意味でやりたい放題の人選人事を断行して埋めてしまったために、その部分ばかりが強調されたのが、当時も今も曖昧に語られ続ける羽柴秀吉の結果論的な黒幕説になっている。


しかし、日本がこれからのあるべき法治国家に向かっていく上で、大幅な裁判権改め(新政権の設立)が求められていた中、良い方向に健全に指導していかなければならなかった重責として、誰かが織田信長の肩代わりしなければならなかった中での話なのである。

そんな中でただ「周囲を利で釣れば良い」という「視野の狭いコソ泥感覚で掠(かす)め盗る」安直な考えしかない戦国前期のような発想だけで、それだけで日本全体が再統一(新たな国家構想の国際品性の制定)ができるのなら誰も苦労はせず、戦国時代(教義崩壊)など起きていないのである。

今の下品で汚らしいだけの公的教義のように、教義というものが

 ただの偶像性癖(数物権威)に頼り切って手当たり次第に人格否定(主体性否定・当事者性否定・等族義務否定)で徹底的に打ちのめし合わせ、従わせ合う道具

としてしか知覚できない、極めて低知能な共有認識で偽善憎悪し合うことしか能がない、発想が戦国前期(地方裁判権止まり)の無能(偽善者)どもには、一生理解できない世界といえる。

そうではなく、荀子主義・人文主義・啓蒙主義のように「教義とは、教えられたら教え返す(改良していく)姿勢があって、初めて教義性(自立自制性・国際品性規律・等族義務)といえる」という姿勢をもって、人的信用(社会性)を教義競争(裁判権争い)として見れるようになれば、その難しさも段々理解できるようになっていく。

 

外の良いものを元に、それを活用して自分たちでどんどん改良しながら取り込んでいく積極的(主体的)な姿勢があれば、当事者にとっての適正な方向性が段々見えてくるようになったり、一目置かれるようになったりするのである。

 

そうではなく外の良いものの、そのただのいいなりになって打ちのめし合うだけの向き合い方しかしなければ、ただ劣化海賊主義を蔓延させるのみの、それが社会性だと勘違いしている公的教義のただの愚民統制理論と同じなのである。

 

ただの海賊行為を教義などと根本から勘違いしていることを自覚できたことがない公的教義のような分際(偽善者)こそ、それで人の上に立とうとすること自体が迷惑千万な国賊行為に等しい所業といえるのである。

織田政権に続く、豊臣政権の天下総無事令・身分統制令によって、まずは旧織田領内の諸氏を再統一する形で従えていくと、それを手本に次は旧織田領外に向けられていき、日本がついに、ひとつの新政権に統一されるに至った。

その過程で、旧織田領外の外様(とざま)筋、旧織田家臣の中で協力的だった旧友筋、羽柴軍団の譜代・直臣筋・新参筋といった序列的な門閥意識は、どうしても出てきてしまうものである。

 

組織が大きくなったら大きくなっただけ、そうした門閥ができて、特に軍の大動員の時にはどうしてもそこで揉めがちになる内部問題を、羽柴秀長と小西行長がその調停役としてよく支え、どうにかまとめられていた。

 

徳川政権時代には、そうした経緯から、親藩、譜代、外様から、その細かい内訳まで家格・格式が今一度整備されていった。

 

第二次世界大戦でもインターネットの普及でもそうだが、そういう時代こそ、国際品性(健全教義性・主体性・当事者性・等族義務)をもって「閉鎖的な旧態政癖(偽善憎悪)による非同胞拒絶(合併アレルギー)」との決別と向き合っていかなければならない時代とも、いえるのである。


そんな大変貌時代を生きた小西行長に視点を置きながら、次も豊臣政権の様子についに触れていく。