近世日本の身分制社会(062/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 宇喜多直家と小西行長 - 2021/03/04

豊臣政権の様子を知る上で、豊臣秀吉に見込まれた、特異な存在だった小西行長について触れていきたい。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が生きた時代は、小西行長のような特異な存在も入り乱れるように活躍した時代だった。

その興味深い小西行長の経歴もまとめていきたいが、堺衆の出身である他、備前(岡山県)の宇喜多氏との縁も深かったため、せっかくなので宇喜多氏についてもざっと触れることにした。

 

謀将で名高かった宇喜多直家は、曲者に見なされがちな戦国大名だったが、その内情は必ずしも悪人だったとは断定できない。

印象こそ悪いもののその所業は必ずしも悪とはいえず、むしろ知略を駆使した優れたやり方だったと評価するべき人物といえる。

戦国後期に入りかけていた、祖父の宇喜多能家(よしいえ)の代の時、備前(岡山県)の国衆同士の政争に敗れ、宇喜多家は領地を追われ、父の宇喜多興家(おきいえ)は没落の半農半士の生活を余儀なくされた。

堺衆たちの結び付きで政商を務めていた、納屋(なや)の備前支店の主人・阿部善定は、宇喜多興家が貧窮していた時は密かに支援し、生活が困らないように面倒を見た。

宇喜多家が失脚する前か後かは解らないが、父の宇喜多興家と、この備前の有力富豪の阿部善定の娘との間にできた子が、のちに領主として返り咲き、備前を再統一することになる、謀将で名高い宇喜多直家である。

備前の重要商業を担当していたこの阿部善定(納屋)は、娘がいたが男子には恵まれなかった。

そのためのちに、堺衆の小西屋と納屋の縁で、この備前の納屋(阿部善定)の親類に小西屋から養子入りするという形で、その縁から備前の納屋を継いだのが、小西行長である。

 備前の有力富豪・阿部善定(納屋の備前支店主人)の娘を母とする宇喜多直家

 備前の有力富豪・阿部善定(納屋の備前支店主人)の親類の養子となって、その後任となった小西行長

宇喜多直家と小西行長は、武家側と商人側との格式差こそあれど、義理の親類関係の間柄だった。

小西屋と丹波(京都府西部・亀山方面)の名族・内藤氏との遠縁だった関係も判然としないが、例えば分家筋からの縁組から、段々と本家の名族と財界人(有力富豪)との間が親密になっていくことも、珍しいことではなかった。

宇喜多直家は成人すると、備前と播磨西部で実力を身につけ始めていた、浦上宗景(むねかげ)に仕官することができた。

この浦上宗景(浦上氏は播磨の名族・赤松氏の最有力家臣だった)は、方針の違いから浦上家中が分裂しかけていたため、それを機に弟の浦上宗景が、主家(兄)の浦上政宗に反旗し、代わって備前を支配しようとしていた。

備前における反宗景派を排撃しようとした際、失脚していたこの元国衆の宇喜多直家が収容されたことは、反宗景派との利害関係が、効いていたようである。

領地を失い、半農半士の生活を続けていた宇喜多家としては、とにかく浦上宗景に仕官できたおかげで、小禄であっても武家としてやり直すきっかけを得ることになった。

かつての宇喜多氏の旧臣たちもこの宇喜多直家の下(もと)に駆けつけ、反宗景派の排撃に積極的になったために、浦上宗景としても都合が良かった。

宇喜多直家は浦上軍団の中で懸命な活躍を続け、家中で一目置かれる武将に成長していき、主人の浦上宗景からも重用されるようになっていった。

宇喜多直家は、それまで困ったことがあると、納屋(阿部善定)に密かに助けられ、武家としての再出発(浦上宗景への仕官)の糸口まで作ってくれた、大恩がある関係だった。(母が阿部善定の娘である縁は強かった)

さらには宇喜多直家の優れた才覚を見込み、浪人からやがて重臣にまで抜擢してくれた浦上宗景のことも、利害関係の強い関係だったとはいえ大きな義理があったはずだった。

浦上宗景が兄の浦上政宗と対立し、備前で戦況を優勢に進められていた当初は、戦国後期のまさに突入期だった。

しかし、備前を再統一したかのように思われた浦上宗景も、その後にも続く外圧対策にも、備前国内の抗争・混乱にも、次第に事態を収拾できなくなっていった。

やがて浦上氏における備前・播磨西部の求心力(名目・誓願・主体性)が著しく失墜し、内乱が収拾せず方向性もはっきりさせられなくなってなっていた備前では、国衆らも列強(尼子氏や毛利氏)の外圧に動揺し、危機感を覚えるようになっていた。

浦上家中ですっかり人望を身につけていた宇喜多直家は結局、この浦上氏と手切れする形で、信用できる浦上家臣を選別収容しながら代わって備前の再統一に乗り出すことになった。

赤松氏の最有力家臣であった浦上氏が代わって備前を支配するようになったように、今度は浦上氏の最有力家臣に成長した宇喜多氏が代わって備前の再統一に乗り出し始めた形である。

まとまりのない国内を、誰かが代表格を肩代わりして再統一を進め、名目(誓願・主体性・裁判権)を自立自制的に固めていかなければ、やがて組み込もうとしてくる周辺の列強に何の格式も示せないまま格下げされながら、全ていいなりに従わなければならなくなる運命が待っているのである。

当時はいくらでもあり得たことで、それを阻止するこその下克上社会の原則ともいえる、戦国後期の特徴である。

浦上氏の衰退に、代わって備前の混乱を収拾できそうな器量(教義指導力・裁判権の整備力)をもつ最有力候補が、宇喜多直家くらいしかいなかった状況だった。

遠方では、この時の宇喜多直家の背信的な下克上の部分のみ見て、美濃の斎藤道三の時以上に「あれだけ浦上氏に抜擢してもらって、とんでもない奴だ」観の見方ばかりがされた。

さらには、宇喜多直家による備前の再統一の進め方も、他ではなかなか見られない特殊で極端なものだったことが、さらにその悪印象に拍車をかけていた。

まず、宇喜多直家が再制定する裁判権(国際規律)に協力的な国衆に対しては、信用関係が築かれながら収容されていった。

しかしそれに全く協力的でない旧態的な国衆や、反感的な風潮が見られる者たちは、宇喜多直家は疑いの目で常に監視し、まずそれら素性を調べ上げることに余念がなかった。

皆のためにならない、下の手本にならないような、信用できない格下げされるべき連中を狙い撃ちするように、いつ、どんな時に、どこに出かけ、誰と会う傾向があるか、またどんな趣向の者なのかの素性の身辺調査がされていった。

それら秘密裏の諜報員を影で駆使し、信用できない家臣や従わない国衆らの動きを掌握し、反抗の首魁になりそうな連中の、まずはその上からを狙って、問答無用で誘殺・暗殺していった。

反感分子の頭目格からまずは粛清していき、その閉鎖的な利害関係で固まっていたことで動揺・混乱を見せるようになった連中を見逃さずに「宇喜多家の裁判権に従わなければ攻め滅ぼす」と恫喝していった。

宇喜多直家は、信用できる仲間だと認めた国衆たちは再家臣化していき、国際軍事規律を整備しながら軍団をどんどん大きくしていった。

そうして味方の多さを見せつけながら、信用ならない反抗分子の首魁たちは次々に誘殺・暗殺されていき、政敵の統制が崩れ始めた所に「従わなければ攻め滅ぼす」を繰り返した。

その手口による宇喜多直家の備前再統一の内戦においては、合戦らしい合戦に発展したのは2回ほどしかなかったといわれ、それ自体が異例だった。

宇喜多直家はできるだけ合戦をせず、軍の動員もできるだけ無血開城で屈伏させる手段として用い、上の都合に多くの下々をできるだけ巻き込まないようにして、備前の国土を荒らさない方針で、その再統一を進めた。

一見は卑怯なように見えても、治安悪化の原因になりがちな「上の都合に多くの下を巻き込む」ようになることはできるだけ避け、ひたすら政略と策謀の上策ばかり用い、そのやり方でどうにか備前をまとめたこと自体、かなり優れた異例だったといえる。

 

つまり宇喜多直家は「巻き添えを増やさないよう、手本にならない本当に死ぬべき上の無能(偽善者)だけが死んでいけば良いのだ」といわんばかりの「一殺多生」ができる、その体現者だったというべき優れた人物だった。

やり方がやり方だっただけに、宇喜多氏による備前再統一を根付かせるのも時間はかかり、依然として表向きしか従わずに、不都合次第の反抗も長引く地域もあったが、それでも代表格として備前をまとめることは、できていた方だった。

宇喜多直家は規律ある軍団こそ編成できたものの、なかなか一騎駆け(当主直々の戦場への出馬)をしたがらない傾向もあったため、戦意はイマイチだったといわれている。

逆に宇喜多直家のこうした態度によって、国内の政敵や列強の外圧に、常にその本意を読まれることなく欺くことができた。

そのため、その非戦的な当主の宇喜多直家を支えるべくの、信用できる人材として見出された

 明石全登(あかしたけずみ。ぜんとう)

 戸川逵安(みちやす。逵が達と間違われやすい)

 花房正幸(はなふさ)

 長船貞親(おさふねさだちか)

など、地方史でしかパッとしない面々ではあるが、肝心な時に頼りになる地元の有力家臣たちで固められた。

弟の宇喜多忠家「兄と面会する時、用心のために常に、中に鎖帷子を(不意打ちで刺されないように)着ていた」と語っていたといわれるが、これは演出意図の強い逸話と思われる。

良い意味で人々に恐れられるハクをつけようとして、兄の直家に対して少し恐れるフリをして「従うと良いことがあり、従わないと大変なことになる」所を、兄のために強調していた。

この宇喜多忠家は、判然としない悪評もあったが、兄のために悪印象をあえて被ったこともあった、実は兄想いの良臣だったのではないかと筆者は見ている。

宇喜多直家は、どうしても軍を動員しなければならなくなった時は、名代(みょうだい・代理責任者)としてこの弟の宇喜多忠家に本軍を任せることが多かった。

これはかなりの信用関係がなければ不可能なことで、韓非子のような性質の宇喜多直家としても、心底から信用できている訳でなければ、とてもそんなことを任せることなどしなかったはずだからである。

このように軍団の指揮権を任せて、それを根付かせてしまうと「自身こそが当主に相応しい」などといい始め、支持を得ようと内乱を始めてしまう者も多かったが、弟の宇喜多忠家はそんなことはしようとはしなかった。

地方の代表格の家系というのは、後継者を介した権威争いのために、本家の兄弟たちの間で派閥分裂し、大勢の下々を巻き込んでこの上なく険悪化することは、そこに一生懸命になっている場合ではない戦国後期になっても、珍しくなかった。

一族との政争はあった中でも、一方で団結もできていた兄弟もいた戦国大名というのは、それだけでも組織的に優れていた指標と見ることもできる。

 島津義久における島津義弘

 武田晴信(信玄)における武田信繁

 毛利隆元における吉川元春・小早川隆景

 長宗我部元親における吉良親貞
(短命だったため惜しまれた)

あたりがまずは顕著で、実弟たちが強力な知勇の将として、力強く主君(兄)を支えたことで著名な例である。

ただしこのように、弟たちがあまりにも派手に活躍し過ぎると、主家の威厳・格式の阻害になってしまう懸念もあったため、あえて自身の存在感を押し殺して控えめになる傾向もあった。

 伊達輝宗における留守政景(るすまさかげ)

 宇喜多直家における宇喜多忠家

 結城政勝における小山高朝(おやまたかとも)

といった、控えめで目立たない者が多かったが、兄を家長として、良臣の手本となって協力的に支えたこれら弟たちもその例といえる。

そうした協力的な兄弟関係が確認できる時点で、それだけでもその組織はかなり団結できていたといえ、それを維持すること自体が大変な時代だった。

親類衆の上からという、最低限の重要な手本を結局示せなかった、「ただ上(自分たち)に甘いばかり、ただ下(外)に厳しいばかり」で時代に対応し得なかった組織はどんどん崩壊し、そこを努力できていた所はしぶとく生き残ったのが戦国後期の特徴である。

地方の代表格ではなくても、羽柴秀吉にも羽柴秀長という、控えめで思慮深い優れた実弟に支えられている例からも、他とは少し違う、何らかの優れた所が見られる指標だといえる。

また郡をしぶとく維持し得てきた小勢力の木曽義昌も、上松義豊(あげまつよしとよ)という、それなりに良好関係が維持できていたと思われる弟がいるが、地方史からでないと確認できないような小さい所は、それがあっても解りにくい場合も多い。

真田信幸と真田信繁(幸村)も、家名存続と義理のために徳川派と豊臣派とで、やむなく決別することになったが、この2人は決して険悪な仲などではなかった優れた兄弟だった。

武田晴信に信濃を追われた小笠原長時も、信濃復帰運動を続けた際に、実弟の小笠原貞種(さだたね)との協力関係が維持できていたことも、それが結果的には小笠原貞慶(さだよし)による奇跡的な深志城(松本城)の復帰を果たすための助力に結び付いた。

池田輝政も、小牧・長久手の戦いで戦死してしまった、尊敬していた兄の池田元助の意志を引き継ぎ、豊臣秀吉からも徳川家康からも、功績だけでなく、織田氏の重臣格の父・池田恒興(つねおき)の次代としての格式も高く評価されて、播磨50万石という大藩主の開祖となった。

織田家でも上からの手本として、弟の織田信治織田信興(のぶおき)ら親類衆が、劣勢でも危険な前線で果敢に戦って戦死し、近江方面や伊勢方面で崩れかけた組織の団結(裁判権)を支えた例も、それが十分に確認できる存在だったといえる。

羽柴秀吉の功臣として、兄弟で評価された一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)と一柳直盛も、兄弟で「俺が俺が」で揉めがちだった当時において、兄を家長だと、互いに認め合う協力信用関係を築くことができていた所が目立った。

のちに豊臣政権の重臣格に抜擢される小西行長も、協力的に支えた弟の小西行景(ゆきかげ)がいる。

そういう所からも努力されることが、格式として大きく評価される場合もある健全な世の中に具体的に変えたのが、織田信長の偉業のひとつだった。

裁判権改めによって、各家系の家長権の国際品性の手本(規律)のあり方が大幅に改められ、そうした品性面からも格上げ・格下げが徹底されるようになった前例が、江戸時代における親子主従の武士道の模範になっているのである。

一族で争ったとしても、一方で兄弟や親類での結束が見られた武家というのは、それが家名存続の助けになったり、また没落したとしても後になって、血縁の信用関係を大事にできていた者が再評価されて復帰する場合も、少なくなかった。

話は戻り、浦上氏に代わって代表格として台頭した宇喜多氏が、備前での大幅な支配力(裁判力)の掌握・整備をするようになった頃は、もはや織田氏のひとり勝ちの天下制覇の勢いが著しくなってきていた時期だった。( 1578 年頃)

西国で大手に成長していた毛利氏としても、織田氏に対しては「何か手を打たないと、いずれは毛利家も織田家から一方的に格下げされながら、傘下に組み込まれていく状況」を懸念し始め、毛利家の家格(国際規律)を見せつけようと慌ててその阻止に動くようになった。

毛利氏(広島県)と、織田氏(兵庫県進出)の、その中間にいた備前(岡山県)の宇喜多氏は、毛利氏の影響力の方が強かった時までは、毛利氏に渋々従い、織田軍(羽柴勢)の進出阻止に協力させられていた。

しかし羽柴秀吉が、苦労して播磨の反織田派(毛利派)を排撃し、播磨再攻略戦でその優れた器量(教義指導力)を見せ付けると、宇喜多直家もそれを機に、ここぞとばかりに毛利氏と手切れをして、織田派に鞍替えすることになる。

宇喜多直家の政商として、また堺衆からの人脈・情報源としても重要されていた小西行長も、その動向に影響している。

備前を大体は支配し、美作(みまさか・岡山県北部)にも影響力も与えるようになっていた宇喜多氏は、少なくとも20万石、多ければ35万石ほどの支配力は維持できていた。

400万石はあったといわれる織田氏と、120万石ほどの支配力(裁判力)の毛利氏の、その対立の中間に位置した宇喜多氏は、それら列強を相手に真っ向に対立しても、とても防ぎ切れるものではなかった。

それら列強から見れば宇喜多氏は霞んで見えてしまうが、ただし「領地を失ってから再起し、備前をまとめ、一代で20万石30万石といった戦国組織を再構築した宇喜多直家」は、ただ者ではない器量人だったといえる。

それまで渋々毛利派を装っていた宇喜多直家は、毛利氏から派兵の要請を受けても、あれこれ理由をつけて自身は出馬せず、弟の宇喜多忠家に指揮させていた。

これはつまり「本腰を上げて要請に応じる気などしない」態度を明言していたようなものだった。

播磨に進出してきた織田軍(羽柴勢)に、義理的な牽制しかしない場合も多かったために、毛利氏もその宇喜多氏の態度には、内心の苛立ちを覚えていたと思われる。

毛利氏は、宇喜多氏と同じような立場だった備中の三村氏は、毛利派としてそれなりに従わせることはできていたが、堺衆と厄介に結び付いていた備前の宇喜多氏は、表向きしか従わせれていなかった。

地方をそれなりにまとめていた、宇喜多氏や筒井氏といった代表格を、格上の群雄が寄騎として従わせ、政務・軍務を指令する強制力(中央裁判力)を有しているかどうか、そういう所が、織田氏と他との器量差(教義指導力差)に大きく出ていった所といえる。

織田信長は、堺衆に三好氏との手切れを迫り、今までの軍事自治権を放棄させ、その軍備にかかっていた費用を丸々税として支払わせ、その代替として商業特権も改めて公認することで、堺衆を味方につけていた。(前期型兵農分離・公務の常備軍体制)

備前の商業との結び付きも強かった堺衆は、政商の小西屋と納屋の筋による宇喜多氏との裏の繋がりが、以後も維持されていた。

小西行長( 1558 年生まれ)は、備前の代表格の宇喜多直家( 1529 年生まれ)とは親子ほどの年齢差があったが、義理の親類関係だったことも手伝い、良好な信用関係が維持されていた。

中国地方の平定を織田信長から任されていた羽柴秀吉は、播磨再攻略の激戦の最中には、その布石として近隣各地に調略の手を伸ばしていた。

小西行長は、20になる前から堺と備前を頻繁に行き来して、備前の商業に若い頃から関与していたといわれる。

当時の複雑な情勢を、10代の頃は把握することは難しかったと思うが、ただし堺衆の気鋭の首脳たちは当然把握できていた。

小西行長はその指導による連携をしっかり採っていたため、宇喜多直家からまずは資本面・情報面において重用されたが、「堺衆のため、宇喜多家のため」と公正感・責任感の強かった小西行長の人柄も、かなり評価されていた。

堺衆としても、義理の親戚関係として小西行長が宇喜多直家に信用を得ていたことは、備前の商業の都合を融通してもらうためにも、その関係が重視されていた。

そうして堺衆との良好関係が維持されていた宇喜多氏は、表向きは毛利派として争った、播磨に進出していた羽柴秀吉との仲が険悪にならないよう、裏での外交工作の便宜も当然していた。

小西行長はまだ若いながら宇喜多直家から信用され、半分は宇喜多家の政商、半分は宇喜多家の公務の親類家臣の扱いされ、近隣に対する宇喜多氏の外交補佐官としての役割を任されるようになっていた。

小西行長は、羽柴秀吉と宇喜多直家の間の、その格式の高い武家同士の正式な使者にこそならなかったものの、そうなるまでの両者間の気脈を通すための、重要な役割を任されていた。

宇喜多氏が表向きは毛利派を装っている間、織田氏に臣従する条件が着々と整えられていったのは、宇喜多家と堺衆との縁のある小西行長が関与していた。

羽柴秀吉もその時から、まだ20そこそこの生真面目な小西行長の存在を認知し「この若者は磨けばいずれは、有能な人材となる」と早々に見込んでいたかも知れない。

宇喜多直家が、織田派に鞍替えする条件のひとつに、子の宇喜多秀家を羽柴秀吉の人質として渡すことになったために、羽柴秀吉としてもこれは鼻が高かった。

小西行長の案内もあって、梟雄だ謀将だと当時、備前国外では曲者扱いされがちだった宇喜多直家のことは羽柴秀吉も信用し、表向きは人質の宇喜多秀家のことを、自身の養子扱いとした。

織田氏の最重要幹部のひとりであった明智光秀が、有力寄騎の細川藤孝(丹後勢)筒井順慶(大和勢)と縁組によって、その大組織の中での部将(師団長)と寄騎(それに属する旅団長)の関係が築かれていったように、羽柴秀吉と宇喜多直家の間でも、そのような関係が始まっていた。

明智光秀と同格の立場だった羽柴秀吉も、播磨再攻略を果たすといよいよ、地方の戦国大名よりももはや格上の裁判権を有する存在感として、見られ始めていた。

地方の代表格との縁組関係をもっている者よりも、織田氏の重臣である羽柴秀吉や明智光秀との縁組関係をもっている者の方が格上となる社会性に、もはや成り始めていたのである。

元々の代表格であった播磨の赤松氏が、国内の裁判権を全く整備できなくなっていたために、それを肩代わりするように播磨を再統一・再整備した羽柴秀吉は、とにかく大変な想いをさせられた。

そんな中で、備前の裁判権(社会性・品性規律)を自力でだいぶ整備できていた宇喜多家を、羽柴軍団の味方(寄騎)につけられたことは、羽柴秀吉にとってもこの上なく大きなことだった。(そういう所から家格・格式が評価される時代に、変わりつつあった)

羽柴秀吉は、それまでに有利に働きかけてくれていた小西行長のことも、早い段階で高く評価していたと思われる。

ところが羽柴秀吉が、この備前の宇喜多軍団の寄騎化を吉報として織田信長に報告した所「宇喜多氏は油断ならないから、何か心証を確認できるような行動を示さなければ、それは公認しない」と返ってきてしまったために、少し慌てた。

宇喜多氏はそれまで、のらりくらりの態度も目立ち、本腰を上げて参戦するような積極的な動向も少なかったための、織田信長からの警告だった。

羽柴秀吉からその事情を伝えられた宇喜多直家も、少し慌てた。

その態度を鮮明にし、公認してもらおうと、宇喜多軍も織田軍(羽柴勢)の協力軍として共に毛利領に攻め入り、積極的な姿勢を示した。

宇喜多直家が毛利派だった時は、どうも積極的でなかったのが、織田軍(羽柴勢)に鞍替えした途端に、積極的に毛利領に攻め入るようになったために、毛利氏側もその事態には内心は、くやしがっていたと思われる。

疑いの目で見ていた織田信長も「それなら宇喜多氏のことは、しばらくは様子見の、後は働き次第の仮の公認ということとする」という改善の返答が得られたため、一同も少し安心した。

羽柴軍団による中国方面(主に毛利氏)の攻略に、宇喜多軍の中で小西行長も手勢を任されてその中に従軍していて、もはや宇喜多家中の親類家臣扱いになっていた。

本能寺の変が起きた時の、有名な「中国大返し」のきっかけとなった高松城攻めの時も、高松城への水攻め工作と威嚇攻撃に、羽柴秀吉の親類家臣の浅野長政と共に小西行長も、その作戦の献策と参戦をしている。

織田軍(羽柴勢)に有利になるような、水運の技術や物資の支援が、宇喜多軍に従軍していたこの小西行長を介した、堺衆の助力もあったといわれる。

この羽柴秀吉による、備中の高松城攻めの最中の 1582 年に、本能寺の変が起きた。

その一大異変の状況を羽柴秀吉が有利に察知できたことも、その後に有利な行動を採れたのも、優れた情報連絡網と人脈をもっていた堺衆の影響力も、かなり手伝っていたと思われる。

宇喜多直家が毛利氏と手切れをして織田氏に鞍替えする際も、小西行長を介した堺衆の情報網がやはり効いていた。

 

織田氏が摂津の荒木村重や大和の松永久秀に離反されて手間取ることがあったように、毛利氏も伯耆(ほうき・鳥取県西部)で南条元続が離反したり、豊前(ぶぜん・福岡県東部)の杉重良に毛利派から大友派に鞍替えされるなど、手を焼いていた。

 

大小に関わらず、現代でも急成長をしていく組織というのはどうしても、内輪揉めや不祥事が起きる率も、どこも高くなってくるものである。
 

織田氏との対立だけでない、他とも対立が続いていた毛利氏の情勢も的確に判断した上での、宇喜多氏の織田派への鞍替え劇だったのである。


宇喜多氏に家臣扱いされて手勢を任され、将器の才覚も見込まれ始めていた小西行長は、寄騎として従えていた羽柴秀吉からも、その堺衆との情報網や資本力の魅力だけでない、磨けば人材となりそうな所は、早くも目にかけられるようになっていた。

 

次も、小西行長に視点を当てていきながら、豊臣政権に関するまとめをしていく。