近世日本の身分制社会(061/書きかけ138) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 日本のキリシタンたち - 2021/02/21

豊臣政権時代の内部的な苦労を知る上で、その政権内の重臣として特異な存在だった小西行長について触れていきたい。

しかし特徴的な存在であった小西行長を知る上で、日本が大きく変容していた当時を、小西行長のような存在たちからはどのような見方をしていたのか、にも触れながらまとめていかなければ、訳が解らなくなる所になる。

まず日本は、織田信長がきっかけとなり、時代遅れ(時代に全く合っていない社会性・裁判権)の旧態慣習が一斉否定(減価償却・等族社会化)されながら、その流れを引き継いだ豊臣秀吉によってついに、中央新政権による天下層無事(天下統一)が果たされた。

それまでバラバラだった旧態上下の全国の地方裁判権(基準・社会性)を、専制政治化(法治国家化)のための中央新政権の新規定(欠落し過ぎていた最低限の手本・等族義務)によって臣従させていく過程において、その非同胞拒絶反応も、それだけ大きく現れた時代だった。

法的(法治国家的)な中央裁判権(時代に合った社会性)のあり方の最低限の手本を示し、全国を従わせるだけでも至難で、それが達成されただけでも快挙だったといえる。

しかしいったんは全国を従わせても、調整(等族義務・専制政治化)の裁量を計り間違えてばかりで、失策ばかり重ねるようなら、どんな組織でもあっけなく崩壊してしまうものである。

 荀子主義
 教義競争。遵守し合う(主体性の確認・整理)気もない事案に偉そうに口出し手出ししたがる身の程知らずを、最低限の手本をもって制裁(格下げ)していく主義

 人文主義
 自立自制性。ただ力関係(数物威力旧式偶像観)に頼って人任せに大事なことまで決め付け合っているだけの「ただの放任主義」から脱却し、個人努力(当事者性)を確認(尊重)し合う主義

 啓蒙主義
 迷信打破。時代に合っていない、もはや必要のない何の健全性も生まない上下統制(偽善)に従い合わせることを、やめさせる主義

の手本(説明責任)が一切示されていない名目(主張や姿勢)から、教義性(健全化・向上化に繋がるといえるような最低限の手本)が生じる訳がない。

筆者は、ここでいうこの「教義性」を訴えることを主目的とする、ウインドウズプログラムに関するまとめをこの後、予定している。

その布石として、それまでに筆者が最も強調しておきたかった部分が、この「教義性」についてである。

この「近世日本の身分制社会」を書こうと思った、そもそもの動機自体もそこで、そのための根拠の付録と位置付けている。

ウインドウズプログラムに関するまとめを示そうとする過程で、ケンカ腰になって威嚇(挑発)してくる相手に対し、その

 何の主体性(自立自制性・健全向上性・教義性・最低限の手本)もない、その口ほどにもない人間性・社会性・協調性・公務公共性の認識の仕方
 
でしかない、国際品性(等族義務)など何も身に付いていない下品で汚らしいだけの共有認識(ただの偽善性癖、ただの偽善憎悪)である実態を、準備しておこうとした責任(等族義務)の自覚から、この「近世日本の身分制社会」を書くに至った。

確認(尊重)することと威嚇(挑発)することの違いも区別できたこともない、自身の大事なことまで全て人任せ・人のせいにしてきた口ほどにもない人生観しかもち合わせていない分際(偽善者)こそ、偉そうに人格否定(当事者性否定・主体性否定・信念否定・体現体礼否定)し合いたがるのである。

その器量(教義指導力)差を明確にしておくために、裁判権史(教義史)への向き合いという最低限の手本(説明責任力・確認力・尊重力・等族義務)を準備しておくことが、時間はかかっても結局は、そちらの方が手っ取り早いのと思ったためである。

「どうやって江戸時代ができたのか、それまでの日本はどうだったのか」の経緯や傾向を重点にしている理由も、そこである。

書いている内に「このことも伝えないと、時代背景が全く伝わらないのではないか」と、あれもこれもと書いている内に、気付いたら長期化していた。

当初は江戸時代についても多く書こうと思っていたが、この調子で書いていたらあと2年くらい長期化しそうになってきたため、江戸時代については今回は手短に済ませようと予定している。

今回のまとめは、最低限が見えてきたら区切りをつけ、次はウインドウズプログラムに関する記述に移行したいと、今の所思っている。

これまでのプログラム関係の指導とは、それぞれの商材(書籍)にしても、ウインドウプログラムの開発環境を提供しているマイクロソフトの手本(説明責任力)も、その多くがただ偉そうに技術者(人生の先輩ヅラ)を気取りたがる無能(偽善者)ばかりなのが実態である。

「教義性(健全化・向上化)」における研究など皆無な、どれも人のことをとやかく人格否定している場合ではない、教義失格の身の程知らずどもであることを、とにかくそこを具体的に思い知らせてやりたいのである。

プログラム関係に限らないこの「教義性」において、近年では疑問視する人が増えている傾向はあるものの、誰も具体的に切り込むまでには至らず、疑問視以上・切り込み未満に留まっている。

Windows 95 が登場した 1995 年から 2021 年現在においての26年間、コンピュータプログラムにおける「理論向上研究といえるような教義性」に、具体的に切り込まれた試しすらない傾向が、今もなお続いている。

何らかの奨励機関によるそのための大会や意見回収(教義競争)もされた試しもなく、その明確な「研究家としての第一人者」といえるような具体的な代表格も、存在した試しもない。

これは筆者が、それを指摘できるようになるために裁判権史(教義史)に向き合ったからこそ改めて解ったことだが、そうした人間学(人文性)の根底からろくに向き合ったこともない以上は「組織性における理論研究(向上性)といえるような教義性」に向き合うことも、ほぼ不可能と今は思えている。

もちろん裁判権史(教義史)が絶対かどうかよりも、それに相応するような向き合いができているかどうかが、そういう人を参考にできているかどうかが大事な部分である。

内容はまだ計画中だが、MFC(マイクロソフトが中途半端にオブジェクト指向を取り入れた独自の開発仕様)に対しての、解体新書的なものになるのではないかと、予測している。

「ウインドウズの根底仕様はそもそも、オブジェクト指向とは何の関係もない概念で作られている実態」からまずまとめたいと、今のところ考えているが、できるのか、どうなるかはまだ解らない。

25年以上経過している今なお、そこを誰かによって具体的に切り込む(最低限の主体性の手本・体現体礼的な説明責任)こともされてこないまま、マイクロソフト(閉鎖有徳)の思いつきに過ぎない、偉そうな偶像崇拝(ただの偽善性癖)の野放しが続いている状況である。

だからこそ筆者が「時代遅れ(主体性皆無)の正しさで、情報産業の世界を偉そうにのさばってきた口ほどにもない無能(偽善者)どもの天狗の鼻は、いい加減にへし折られなければならない時期」と思うようになった次第である。

この反論としてCOM(コンポーネント仕様。idl)を引き合いに出す者もいるだろうが、筆者から言わせればCOMは元々のDLLの概念を、オブジェクト指向主義者どもの政癖にわざわざ合わせて追加されてきた以外に、結局大した意味(教義性)など維持できていない。

C++から見たDLL(標準API。ウインドウズの元)とCOM(ATL形状)の違いは、機能の生成方法(使用準備)が型構築化(オブジェクト指向化)されているか、そうでないかくらいの違いしかなく、DLL側の生成(使用準備)における生成番地を取得する形式と、結局やっていることはそう大差ない。

「設計性(向上性)が大して示されている訳でもない」COM/ATLの不都合(偽善性癖)の受け皿のための型を用意し、そこに生成番地を取得してその形式で手続き(機能・処理)を呼び出すようになっただけに過ぎない。

複数の関連処理をもつ概念のものであったとしても、設計性(向上性)が大して示されている訳でもない以上は、受け皿(閉鎖有徳的なただの偽善性癖)のためだけの型をわざわざ作る必要などないDLL側のように、取得した生成番地を渡しながらひとつずつ単体で呼び出した方が楽だし、そちらの方が遥かに主体的・当事者的である。

そもそも番地管理もできることが特徴的ともいえるC++側(低級言語側・格上側)が、番地管理はさせない他のオブジェクト指向言語(高級言語側・格下側)の不都合(偽善性癖)と、互換のために合わせるまではいいとしても、なぜC++側が番地管理の主体性を進んで放棄していくような合わせ方ばかり、しようとするのか。

そういうことをしたがる(番地管理間の見なし参照や代入をイチイチ規制したがる)マイクロソフトは、C++としての主体性を曖昧にいい加減にさせ、すなわちC++の教義性を低下させることばかりしてきたといえる。(番地管理をわざわざ規制したがる)

CとC++は、安直オブジェクト指向主義者どもによってこれまで勝手に格下的な高級言語扱いされ続けてきたが、筆者からいわせればCとC++は格上的な低級言語である。

汎用性を重視するあまり、参照オブジェクト/ライブラリが激しく分離されているのがそもそも特徴的な Windows 開発環境において、使用者による「COM/ATL基底設計の大きな利点」による設計向上性の論証など、これまで挙げられた者などいないのではないか?

機能間の関連性まで激しく分離してしまう傾向の強いマイクロソフトが、分離されすぎて仕様も訳が解らなくなるその不都合(政癖)に対し、その関連性を再度つなぎ合わせるための安直な思いつきに過ぎない概念こそが、何の主体性もない口ほどにもないMFC/COM/ATLの実態なのである。

COM/ATLは使用者(教義性)の都合(尊重)が主体なのではなく、所詮はマイクロソフトという閉鎖有徳の怠け癖(偽善性癖)から出た不都合(押し売り)の思いつき(ただの偶像機能)でしかない。

下品で汚らしいだけの今の公的教義と同じく、教義性(主体性。当事者尊重)など見当たらない、ただ偉そうなだけのそういう世の中の正しさとやらの大半は、怠け癖(主体性放棄・当事者性放棄)から出た不都合(ただの偽善性癖)の押し売りが実態だと疑っておくくらいが丁度良い。

Windows の元々の仕様である標準API(元々のDLL仕様)の観点から順番に説明しようともせずに、何の整然性もないままオブジェクト指向を安直に用いただけの思いつきのMFC構図に強引に当てはめ、説明した気になっているだけの偉そうな無能(偽善)態度は、歴史的な大失敗(怠け癖)といえる。

CreateWindow を始めとするウインドウの基本処理部のDLL(標準API)でも、関連性まで激しく分離され過ぎてしまった状態を、ただそれをつなぎ合わせたい考えだけで、大した整然性もないまま安直にオブジェクト指向(COM/ATL)が用いられたに過ぎない。

ついでに、CPUが 32 Bit から 64 Bit 化された時、オブジェクト指向の都合(主体性)で追加された新機能(追加された機械語)も皆無で、16 BIt から 32 Bit 化された時もそれは見られない。(これまで Windows と関係してきた 8086 系CPUにおいて)

マイクロソフトは「勝ち続けること」が社訓だったらしいが、所詮は典型的な低知能オブジェクト指向主義に陥っているその口ほどにもない怠け癖(主体性放棄・当事者性放棄)の実態を再認識して「反省し続けること」に直ちに改めるべきだろう。

確認(尊重)することと威嚇(挑発)することの違いもろくに区別できたこともないような、そういう口ほどにも無い人生観しかもち合わせていない分際(偽善者)どもに限って、偉そうな人格否定(人生の先輩ヅラ・当事者性否定・主体性否定・信念否定・体現体礼否定)をさせ合う原因を作って蔓延させたがるのである。

C++と直接関係ある話ではないが、覚えている人がどれだけいるか解らないが、アメリカほど日本では騒ぎにはならなかった 1998 年頃に問題になったブラウザ(ホームページを閲覧するためのソフトウェア)競争をここで例に採りたい。

当時は、ネットスケープ社(当時マーク・アンドリーセン氏)が、W3C(通信規格機関。ティム・バーナーズ・リー氏)の規定に合わせていた訳でもなく、ネットサービス仕様を独自に構築して、市場を勢い良く占有していた時代だった。

当時のネットスケープブラウザは有料版と、機能限定の無料版があり、仕様公開の魅力もあって両方とも人気があった。

それに対しマイクロソフトは、のちにウインドウズに標準搭載されるようになったIE(インターネットエクスプローラ)をIE3から、W3Cに整合してIE4とし、ブラウザ市場を巻き返した。

マイクロソフトが開発資金を投じてIE4にW3C規格を整合し、反撃に出るようにネットブラウザ市場を攻めると、それまでW3Cに合わせずに独自にネットサービス機能の仕様展開を続けてきたネットスケープの天下も一気に押されるようになり、ネットスケープも慌ててW3Cに対応するようになった。

ネットスケープがそれまで市場を独占できていたのは、ブラウザのプラグイン・アドイン(追加・補佐機能)の概念がまだ弱かった当時、急にPC(パソコン)とネットが普及(電話線からISDNに高速化)し始めたことで、その性急な需要に応えることができていたネットスケープが、それまで支えていたからともいえる。

しかしIE4以降、ネットサービス仕様を巡る競争は、それまではOSのような扱いだったブラウザという単位で競争する時代から、プラグイン・アドイン(追加・補佐機能の開発)で競争するのが、正しい競争であるかのような、よく解らないような市場に変わった。

マイクロソフトがW3C規定を用いてネットスケープの独占を排撃した途端に、まるでW3Cの役割はそこでもう終わったかのようなよく解らないような認知が、一時的だが世界中でされ、ネットサービス開発市場は今度は、浅ましいプラグイン・アドイン競争が始まった。

もちろんW3C規格は現在でも重視されているが、そういう見方しかしない人々に、当時のティム・バーナーズ・リー氏は内心はあきれていたと思われる。

それまでネットスケープの仕様こそが世界(ネットサービス・通信開発)の中心・基準であるかのような錯覚が続いたことで、今までそれを基準に社内管理など開発を進めてしまった大手の企業や、ネットサービス開発に参入していた企業が多かった。

非規格的だったネットスケープの独自仕様が廃れた途端に、作り直さなければならなくなり、費用がかさんで悲鳴を挙げた所も多く出た。

ネットスケープの株も大暴落したために、ネットスケープに裏切られたように感じた多くの企業からの、大損失の非難の怒りが当時、マーク・アンドレーセン氏に殺到したようである。

ここで強調しておきたいのは、W3Cという規格を守った・守らなかった差という、そこだけの人任せの放任的な錯覚はしてはいけない、という所である。

ネットスケープの崩壊例は、規格性がなかったことが問題だったのではなくそこまでの教義性がなかったことが結局は問題だったに過ぎず、活かされ続ける、活かされ続けない根底も結局はそこである。

 

ある一定の期間までは重宝されても、機器性能や他の流通が向上したことで、もうそれに頼る必要がなくなってくることや、新解釈の登場によって役割を終えるようなものは、規格でもよくあることである。(USB規格によるRS232Cの存在など)

規格以前に、教義性(主体性)が全く確認できないような、偉そうなだけの概念価値にただ頼り切り、ある日を境にその偶像価値が崩壊してしまってから、そうなってから誰がどう悪いなどと騒いでももう手遅れだという所こそが、大事なのである。

道義上(契約的・義理的関係)の債務責任範囲と、それぞれの当事者性(主体性)の人生観(適正性)は別であり、そこを丁寧さ慎重さ(人文性・礼儀)をもって確認(尊重)し合えるようなものであって、最低限の人的信用(教義性)といえる。

教義性(等族義務・主体性・当事者性)を否定(放棄)し合い、偉そうな数物偶像権威でいきなり一方的にケンカ腰で掛かってくる公的教義のような下品で汚らしい一過的な規格に、教義性が生じる訳がない所か、無能化(偽善化)させていくだけなのである。

規格であろうがなかろうが、主張されたもの・作られたものに教義性(主体性)が確認できない以上は、それでその時は良い思いができたとしても過程的に支えられるに過ぎず、人々を退化・無能化(偽善化)させていく原因なのである。

規格にせよ教義にせよ、ただ従わせたいためだけの主導権の道具としてしか見てないような無能集団的(孟子悪用主義的)な偽善権威(ただ偉そうなだけの世の中の正しさ)などは、いつかは崩壊する時がくる。

教義性があるかのように錯覚され続けたオブジェクト指向が、マイクロソフトがその市場における主導権を握るための道具として丁度良いから用いられただけなのは、COM/ATLがもたらされたからといってそれを中心とする競争すら起きていないことからも、明らかである。

人任せ主義同然と化しているだけの生命体でもないオブジェクト指向の、そのただのいいなりに過ごしてきただけで、教義性が身に付く訳がないのである。

何においても結局は、用いる当事者の教義性(主体性)の器量・力量にかかってくるに話に過ぎない、そういう意味で筆者はマイクロソフトの全てを疑っている訳でも、オブジェクト指向の全てを否定している訳でもない。

マイクロソフトが教義性(当事者性・主体性)をもって作った訳でもないオブジェクト指向が、主導権を握るためだけに用いられてCOM/ATLの押し付けが始まった意味は、マイクロソフトの思いつきのいいなりを通させるための基準(言い訳)が、ただもたらされたに過ぎない。

その構図は、16世紀の等族議会制によって、聖属が教義(社会性)を独占して従わせる時代がついに法的に(身分制議会的・専制政治化的・法治国家化的に)終焉し、強国が聖属を従わせる側に立場が逆転し、自力教義も確立できていない他国にその聖属を道具に従わせようとするようになった構図と、何が違うのかという話である。

「オブジェクト指向」という聖なる称名さえ用いれば、全ての正しさ(説明責任)を果たしたことになるとし、ろくな手本(説明責任)も果たされていない雑で荒いだけの怠け癖の態度で使用者をただ振り回しているだけのMFCの仕様態度などから、設計性の向上などしていく訳がないのである。

具体的な教義性(向上性)の手本(説明責任)がどこにも示されていないような、思いつきから作られたに過ぎない偶像機能の使い方にただ振り回されてきただけの者が、教義性(主体性・当事者性)に向き合うことなどしてこれた訳がない。

それに頼らないと何の自立自制性(人文性)も自力構築してこれなかったような分際(偽善者)が、何が偉そうに人道だの社会性だのという話である。

典型的な低知能オブジェクト指向主義に陥り、自分たちの怠け癖(主体性否定)の不都合(偽善性癖)の集大成に過ぎない実態がMFCであることに、マイクロソフトはこれまで責任(等族義務)をもって正直に白状(反省)してきた試しがない。

主張した者、作った者にこそ、その分だけの教義性(主体性・当事者性)における最低限の手本(説明責任)が果たされ、それで初めて最低限の手本(国際品性・等族義務)といえる。

それが示された試しがないマイクロソフト(閉鎖有徳)のような無能(偽善者)の集まりこそ、筆者から恫喝(格下げ・閉鎖有徳狩り)されながら無条件降伏するべき格下の分際(偽善者)なのである。

そういう口ほどにもない分際(偽善者)に対し、国際品性(等族義務・主体性・当事者性)の手本をもって公正に情報統制できたことがない、偶像崇拝することしか能がない小心者(低知能)の集まりの公的教義(偽善者)どもが偉そうに人を指導しようなど、身の程知らずもいい所なのである。

たかがマイクロソフト(閉鎖有徳)も恫喝(格下げ)できないような、教義性(主体性)が欠けた情報産業を一度も警告できたことなどがない、力関係のいいなり低知能集団であり続けたのが、日本の公的教義の実態なのである。

C++についての詳細はのちほどまとめる予定とし、どういうものになるのかまだ解らないが、誰1人として興味を示さないような内容になるかも知れなくても、もし誰か1人でも興味がある人がいるのなら筆者はその1人のためにしっかり説明できるものにしたい。

話は戻り、織田信長の徹底した閉鎖有徳狩りよる、あらゆる旧態偶像権威の踏み潰しの大幅な教義改め(宗教改め)は、これまで信じられてきた偉そうな正しさとやらでは、健全な救済に何ら向かっていかないことを、日本中が思い知らされるきっかけとなった。

織田信長が日本の法(裁判権・国家構想)を大幅に整備し、京の都市経済を大再生させ、公正な経済社会に見事に立て直した手本(誓願・最低限の国際品性・国際軍事裁判権のあり方)が示されたことは、今までの「そんなことは無理に決まっている」偉そうな閉鎖有徳の風潮を完全に覆した。

どうにもならないくらい教義崩壊を起こしていた日本に、等族義務(法治国家化)を自覚させるきっかけを作った織田信長のやったことは、冒涜どころかむしろ転輪聖王(てんりんじょうおう)の所業ともいえるほど、偉大だったといえる。

転輪聖王は、もうどうにもならないくらい世の中に悪意が蔓延するようになった時に、それを改めに天からやってくる使徒・救済者という意味がある。

世俗政権のための鎌倉幕府も、それが再確認された室町政権も、それが目指されながらやりきれずに終わってしまったのは、ヨーロッパでも同じくそれは結局150年、200年とかかる、決して簡単な話ではなかった大事業だったことが解る所である。

織田政権の前身であった室町政権までの、世俗にせよ聖属にせよ、それまでの「ただ偉そうなだけの正しさ」のどれもが「実にくだらないものであった」実態を、強烈に叩き直したのが、織田信長のやったことなのである。

織田政権という他力信仰(厭世主義・えんせい。全体連帯責任性)によって、所詮は日本の怠け癖の政癖でしかなかった公的教義的な自力信仰一辺倒(聖道門主義・しょうどうもん。できもしない個人責任化による押し付け合い)の化けの皮が完全に剥がれた時代だった。

日本の戦国時代は見方を変えれば、自力信仰一辺倒他力信仰が挑む教義競争時代だったともいえ、ヨーロッパは逆に、他力信仰一辺倒に自力信仰が挑む教義競争時代(人文主義時代・宗教改革時代)だったといえる。

織田政権が出現するまでは、他力信仰の浄土真宗(本願寺)が日本の自力教義をどうにか支えていたが、のちほど織田政権が台頭すると、雌雄を決しなければならない状況に、やはりなった。

空気同然の公的教義(廷臣ども)などもはや完全無視で、他力信仰同士の運命的な、あとは世俗権力か聖属権力かでの教義性を巡る力量比べ(裁判権争い)の激戦を、せざるを得ない状況となった。

戦いがどれだけ残酷でも、その力量比べの対決をしっかりやって国際軍事裁判権(国際品性規律・国家構想・中央裁判権)という観点から明確にされていくからこそ、改めて皆に納得させるようになった。

他力信仰(厭世政権)の先駆けとなった浄土真宗(本願寺)が顕在でも、日本の仏教(教義)のそれまでの派閥を、聖属で統制して日本全国を牽引することはもはや困難になっていた。(だから戦国仏教化した)

織田信秀の戦国後期の突入期には、今まで錯覚され続けてきた教義性(法)のどれもが「実にくだらないものであった」実態が自覚され始めた、丁度そんな時期に、西洋から渡来してくるようになったのがキリスト教の宣教師たちだったのである。

戦国前期では、地域間の閉鎖的な団結のためだけの閉鎖教義ばかり重視されてきたのが、戦国後期になってその視野の狭さが自覚され、広域に通用する国際軍事裁判権が重視されるようになってくると、茶道の禅の思想のような、教義の自由化的な傾向も顕著になってきた。

西洋のキリスト教徒の思惑は別とし、宣教師が渡来したばかりの日本は、まだ具体的な教区がある訳でもなく、教皇庁権威が介入している訳でもなかった。

乱れていても国家の体裁はそれなりにあった日本は、キリスト教は当然のこととして「自由宗教・自由教義」に写った。

教義上では必要以上の上下権威には否定的だった法華宗や、でしゃばらなかった禅宗浄土宗(源空派)なども、時代に合った教義に改めることはできていた方だった。

しかし結局は総本山的なものとの関わりができてしまう、古くからのそれぞれ経典の優先順位からくるしがらみがあった仏教は、それと比べると、日本国内ではまだ総本山も教区も根付いてなかった当時のキリスト教は、格好の自由宗教として扱われるという、珍しい現象が起きていた。

どの宗派でも結局は、その宗派の経典の優先順位による規制ばかりされるようになる、その教義の自由性(人文性・啓蒙性)対する強い不満をもっていた者も実際は多かった、当時の日本人のその本音が大きく現れた瞬間が、キリスト教徒との出会いだったといえる。

西洋の宣教師たち(主にイエズス会たち)たちは、文献上では仏教徒を異教徒として厳しめに書いているが、その文献の多くは教皇庁(ローマ)の公文書を意識しての、表向きの姿でしかない。

実際の宣教師たちは、日本では神道と仏教がどのように扱われてきたのか、最初は訳が解らなかったがその経緯はちゃんと確認(尊重)し、だから「この大日如来の存在が、我々のいうデウスの存在と同一なのだ」と解釈する努力もした。

「大日如来という格式の高い大いなる先生(神)のことを、日本人も大事にしてきているのなら、キリスト教徒の良き友なのだ」と、日本の仏教徒と歩み寄る努力もしていた。

口車かも知れなくても、日本人からすれば「その大日如来に相当する格式の高い先生(神)を、改めて最高神として強調し、それを預言・案内してくれたイエス・キリスト様を大事にする」ことさえすれば、そこから先は、もはや自由宗教も同然の状態だった。

珍しく、他力信仰(厭世論)であるキリスト教の良い面がこの時はたまたま、そこばかり強調された。

これは日本がそれなりに、仏教の教理を理解できていた者も多かった状態から、一方で日本での規定など皆無に等しい初期状態でキリスト教がもち込まれたからこそ「それこそ自由宗教(自由教義)ではないか!」と感激した者も多かったのである。

宣教師たちはキリスト教徒に改宗していった日本人を見て、早くも「もはや西洋人を上回るほど、その教義に熱心な、敬虔なキリスト教徒ばかりになったではないか!」と内心ではかなり驚いていたと思われる。

そうなる者が出てくるのも当然だったといえるが、この意味は、キリスト教の特徴としてかなりややこしい所で、ヨーロッパではここに問題があったからこそ、プロテスタント運動(自由化運動)に発展した所ともいえる。

物凄く単純ないい方をすれば、多民族収容型(厭世型)のキリスト教というのは「絶対の神とその案内人のイエス・キリスト様さえまずは大事にしてさえいれば、その中身など正直どうでもいいような、それが物凄く良い部分でも悪い部分でもある。

日本の仏教の場合はそこが真逆で、キリスト教徒以上に権威外のことまで規律にこだわりすぎる所があったゆえに、キリスト教以上に閉鎖性ばかり強まる所があった。

その自力信仰一辺倒からついに脱却したのが、源空と親鸞による、大衆収容的で当時は自由的だった他力信仰(厭世論)の浄土教だったのである。

ヨーロッパのキリスト教は、日本の仏教以上に聖典による後付け的な教義の構築の仕方ばかりしてきたために、自由性(主体性)を偉そうに規制する割には枢機卿団(公的教義)どもの怠け癖(偽善)しか見られなかったことが原因で、プロテスタント運動が起きてしまったようなものだった。

 

どちらにも良い所も悪い所もあるもので、規格だろうが宗教だろうが裁判権だろうが、所詮は人間のやること、所詮は用いる者たちの器量(教義指導力)が全ての世界なのである。

日本では口ほどにもない公的教義(天台宗・廷臣ども)など完全無視で浄土真宗(本願寺)が、もはや日本の仏教の代表格のごとく台頭し、山門扱いから禁門扱いに朝廷から正式に格上げされ、浄土真宗に乗り換える者もかなり増えた、

 

しかしだからといって、これまでのしがらみの強すぎた仏教全体の旧態性癖を完全収容することは難しかった。

浄土真宗が公的教義を肩代わりする教義実力があっても、法華宗のように浄土真宗も、教義上では公的教義的な上下権威にはそもそも否定的だったことからも、浄土真宗による公的教義化も簡単な話ではなかった。

つまり聖属同士で教義統制を採る時代でもなくなってきていた、だからこそ織田政権の世俗裁判権に全て聖属をその保護・監視下に置くことがされたのは、ヨーロッパの帝国議会の事情とそこは似たようなものだったといえる。

そんな中で、いってみれば日本におけるキリスト教は外見だけで中身がまだ何もないような状態だった事情が、織田政権の事情とも好都合と見なされる傾向があった。

その後の日本の政治がうまくいっていればを前提とした場合、ヘタをしたら日本のキリスト教の方が、教皇庁(ローマ)の役割すら肩代わりする形で、それを従えるようになった強国スペインを上回る教義力を身につけた可能性すらあったといえる。

当時の日本にとっての、この自由宗教的なキリスト教は、高山重友の存在で盛り上がり、日本内でのキリスト教社会が独自に作られようとしていた。

名将として名高い蒲生氏郷、羽柴秀吉の名参謀として名高い黒田孝高(よしたか)、また細川ガラシャ(明智光秀の娘)など、著名人たちも続々とキリスト教に改宗するようになっていた。

加賀100万石の大藩主の開祖となった前田利家も、体裁もあって本人はキリスト教を名乗りはしなかったものの、明かに興味を示していた隠れキリシタンだったといえる。

キリスト教が良い方向に使われようとする動きになったのは、日本の自力教義の最後の希望であった浄土真宗(本願寺)の他力信仰(厭世論)による、自立自制の自力教義の立証によって、それまで警告してくれていたのは大きい所である。

当時日本に渡来してきた、気鋭の存在だったイエズス会出身の多かった宣教師たちは、教義崩壊の危機感をもって真剣に神学・法のことに向き合い、内心ではだらしない枢機卿団(公的教義)どもに苛立ちを覚え、遠回しにその尻を叩いていたような者たちだったことも、幸いしていた。

大航海時代を経て、アジア貿易に進出するようになった西洋人たちが、ついに極東の島国の日本にまでやってきて直接接触するようになったことは、日本にとってのこれまでの中国やロシアとの文化交流も大変容することを意味していた。

それまで世界を回るほどの航海技術もなかった日本は、ユーラシア大陸として西洋の端まで陸続きだった中国やロシアとの交流を介さなければ、西洋文化を認知する方法がなかった。

戦国後期に日本人が西洋人と直接交流するようになってから、日本人は始めて、中国やロシアから介して伝わってくる西洋文化の情報も正確性が欠けた伝わり方しかされてこなかったことも、よく解るようになった。

西洋の情報や舶来品を入手したくても、中国やロシアの都合の解釈が混入し、そこで刷り変えられてしまったものばかりが伝わったために、それらを介して西洋の様子を正確に知ることなど、全く無理だったことを日本は知った。

それまで日本が、政治文化的に中国に大きく劣り、朝鮮よりも格下扱いされてきたのも、アジアと西洋間での文化交流が日本だけが永らく遮断されていたような状態だったため、それまではその立場を外交上、仕方なく甘んじてきただけに過ぎない。

しかしついに、西洋人と直接交流するようになった日本は、それまで正確に伝わったこなかった、西洋からの世界的な技術や知識を直接仕入れることができるようになり、そのおかげで急激な文化交流を発達させるようになった。

16世紀になって西洋人が新大陸(アメリカ)の入植とアジア貿易(大航海時代)を始めた恩恵が、極東の島国である日本にまでもたらされると、それまで世界の文明宗主国であった中国も、中世までのその絶大な優位性はさすがになくなっていき、日本と中国との以前の国威格差もだいぶ解消されるようになった。

豊臣秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、朝鮮侵攻のことばかりが強調されがちだが、「今までの日本とは違う」というその格式を中国に認めさせるための戦いが、実際である。

とにかく西洋の宣教師たちと日本の接触は、技術的、文化的にも良いこと尽くめで、日本全体の格式を大幅に高めるきっかけになっていた。

今までは西洋との大した文化交流もできなかったから、それができていた中国に依存する他なく、だからこそ格下扱いばかりされ、日本古来の「外からどんどん取り入れて発展させようとする職人気質」も活かせないでいたに過ぎなかった。

しかし今まで日本では正確に全く伝えられていなかった、西洋からの技術や知識が直接もたらされたことによって、それまで世界においていかれていた日本にとって、どれも斬新な世界的なそれら技術や知識もそれだけ日本で高く注目され、日本を急激に発達させるきっかけになった。

その影響も手伝っていたために、重要な文化交流のきっかけにもなっていたキリスト教は、日本にとって最重要の教義となってしまうのも、当然の話だった。

織田信長が、裁判権に従う前提なら、あてつけのようにキリスト教も受け入れて教義競争をさせようとしていたために、西洋の枢機卿団のように公的教義的な権威に頼りきって固まっていた廷臣たちの面目も、完全に丸つぶれだったといえる。

江戸時代で顕著なこととして、日本が鎖国政策を採ると、江戸時代という法治国家化が目覚しかった日本との貿易をしつこく求めていたロシア船が何度もやってきて、揉めながらそれを幕府は追い返し続けたが、日本は中国・ロシアとは、外交上の交流こそ維持したが、貿易する価値はもはや無いと見なしていた。

長崎の要港から直接、幕府とオランダ・イギリス人との間で交流できるようになると、中国やロシアから介して亜種化されてしまう品々や情報に、もはや何の価値もないと見なすようになっていたためである。

幕藩体制後は、各藩に幕府の許可もなく勝手に外国との交流・貿易を始めることが禁止され、幕府がその権限を完全に掌握した政策が、当時の鎖国政策である。

オブジェクト指向でもキリスト教でも、ただいいなりに従わせるための道具として見なしていなければ、自身の教義性(主体性・当事者性)を大事にできていないその怠け癖の自覚すら、自身のことも人のことも、ろくに区別できなくなっていく。

当時のキリスト教に興味を向けた日本人はそうではなく、教義性(主体性)の大幅な見直しができる自由宗教ではないかという、真剣な見方がされたから流行したのである。

オブジェクト指向でもキリスト教でも「そのお礼として、こっちが教え返す(改善点を列挙する)」ことで、逆に出所(親元)を圧倒してやるくらいの向き合いの姿勢があって、初めて最低限の教義競争(主体的・荀子のいう礼儀)といえる。

当時の日本人は、今の口ほどにもない公的教義のような怠け者どもの態度のごとく、偶像のいいなりになり合うためにキリスト教を用いようとしたのではなく、あきらかに「教え返す」教義競争(主体性)の姿勢をもったキリスト教の受け入れだったのである。

その姿勢をもてたことがない、その区別もできたこともない公的教義と大差ない分際(偽善者)が、偉そうに人のことをとやかく人格否定している場合ではないのである。

そういい切れるほど、日本ではそれまで仏教によって自力教義をそれなりに身につけられていて、特に最後の希望になっていた浄土真宗の影響力が、それを大きく支えるようになっていた。

キリスト教を受け入れ、浄土真宗も許容した厭世的な織田政権は、いつまでも聖道門一辺倒主義にしがみ続ける公的教義的な旧態主義を改められない、視野の狭い廷臣たちへの強烈な打ちのめしになっていた。

そんな情勢だった当時のキリスト教と関係していた、小西行長に視点を当てた様子を、これから紹介していく。