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- 戦国時代の宗教問題 仏教国の大和の様子や、キリシタンたちの様子(小西行長、内藤忠俊、高山重友) - 2021/02/11

豊臣秀吉の天下層無事後、間もなく著名な朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が開始されるが、その戦いにも、のちの関ヶ原の戦いにも重要な役割を果たした、キリシタン大名として著名な小西行長について触れたい。

 

豊臣秀吉に重用された小西行長は、関ケ原の戦いでもかなり影響力を与えた人物だが、しかしこの人物のことを紹介しようとするとまず、その複雑な経緯から触れなければならなくなる。

そのため「本能寺の変」「豊臣政権の宗教対策」「関ケ原の戦い」等に関係してくることとして、もっと大局から触れていくことにした。

 

前時代(織田政権)から、何があったのかを順番にまとめていかないと訳が解らない話になると思ったため、いったん織田信長の天下布武(天下統一・天下静謐)の様子から触れていき、特徴的な人物や出来事のことも、まとめていく。

 

今回は、それら関連の一挙の説明になるため、かなり複雑なまとめとなる。


話はいったん、織田信長が尾張再統一と美濃攻略を果たし、山城(中央)に乗り込んで三好氏と対立して以降の 1571 年頃の話に巻き戻る。

その頃に、梟雄(きょうゆう)と呼ばれて目立っていた大和(奈良県)の支配代理、松永久秀についてまず触れておきたい。

この松永久秀のように、梟雄(きょうゆう)と呼ばれた戦国武将が当時、何人かいた。

梟雄の意味は、最初は「見た目は梟(フクロウ)のように、大人しそう、従順そうに見えるが、裏では(見えない所では)何をしているのか、何を考えているのか解ったものではない、油断ならない者」というような使われ方がされていた。

16世紀の日本は、鳥については、例えば鷹は熱心に飼われていたためその生態も詳しかったが、フクロウについては詳しい生態はそれほど知られていない時代だった。

夜行性のフクロウが、夜の暗がりに獲物を探し回って小動物を襲う姿が「梟雄」と例えられるようになった部分で、フクロウは印象の悪い生物として扱われがちな傾向があった。

 

ヨーロッパでも中世には、そこらにいるただの黒猫「キリスト教徒を否定する悪魔崇拝に関係している」だのと、印象だけで時折、忌み嫌われることもあった扱いと似ている。

「梟雄」は次第に「事あれば何をし出かすか解らない、油断ならない策謀家」の意味の方が強調されていった。

キリシタン武将として著名だったひとり、内藤忠俊(内藤如安・ジョアン)は、梟雄として著名だったこの松永久秀の甥にあたる。


松永久秀、松永長頼(内藤忠俊の父)の兄弟は共に、かつての大手の三好氏の幹部で、それぞれ個別に軍団(軍事裁判権)を有していたほどの重臣格だった。

 松永久秀 = 大和(奈良県)の支配代理

 松永長頼 = 丹波(たんば。京都府西部。亀山方面)の支配代理

 

を、当主の三好長慶(ながよし)から任されていた。

織田氏が美濃攻略を済ませて間もなく、中央(山城・京)に乗り込むと、先に中央を抑えていた三好氏と織田氏が対立する。

 

以後、畿内(きない。関西方面)でそれまで威勢を誇っていたはずの三好氏は、織田氏にどんどん駆逐され始めていった。
 

その頃の三好氏は、一大勢力を築いたは良いが、急に大きくなった分だけ内紛も起き、それを裁き切れなくなってきていて、組織の団結(主体性)が欠落し始め、落ち目だった。

 

そこに大差があった織田氏によって、三好氏は元々の本拠地である、阿波(あわ。徳島県)に追いやられる形で、大きく衰退していくことになる。

三好軍(松永長頼)による丹波介入も、主家である三好氏の衰退に比例し、丹波の反三好派の波多野氏・赤井氏連合による反抗を抑えきれなくなり、三好氏による丹波介入も消滅した。(松永長頼は戦死)

一方の三好軍(松永久秀)による大和介入は、主家の三好氏の衰退に見切りをつけて織田派に鞍替えしたために、織田信長の公認によって、松永久秀による大和の支配代理の立場はしばらくは保たれた。

しかし、のちに松永久秀も反織田連合に荷担して織田氏と対立したため、攻め滅ぼされることになる。

仏教国の色が強かった当時の大和(奈良県)の、その事情・経緯は特殊でややこしい。

大和の守護代(支配代理)の前任者は、かつて河内(かわち・大阪府東部)紀伊(きい・和歌山県)の実力者だった畠山氏の幹部で、野心家の策士だったことで知られる木沢長政だった。

この木沢長政は、畠山氏のもうひとりの有力家臣であった遊佐信教(ゆさのぶのり)と、畠山政権内(畠山氏は関西南部で、かつては力をもっていた)での権勢争いで激しく対立し、自滅した。

木沢長政は当時、関西方面の細川氏、畠山氏、三好氏たちの利害闘争に便乗して戦国大名並みに自立したが、次第に味方を失って孤立し、それら対立者たちに攻め滅ぼされた。

 

大和からすると「よそ者」であるこの木沢長政が自滅すると、大和は「よそ者」による支配から逃れようと、東福寺が大和をまとめようした。

しかし畠山軍(木沢長政)の自滅を機に、今度は三好軍(松永久秀)が大和に乗り込んできて、反抗した東福寺と大和北西(木沢長政の旧領)を制圧した松永久秀が、木沢長政の後釜に座る形に結局なった。

この松永久秀は、前任のこの木沢長政の作った路線で大和を支配したため、それが策謀家の印象を助長した原因と思われる。

仏教国の色がかなり濃かった大和は、かつて桓武天皇が山城に遷都するまでは、大和が仏教の中心地としての日本の首都だった。(奈良飛鳥時代)

 

世俗政権(武家政権)が始まった中世以降も、かつての仏教国の伝統が強く残り続けた大和は、どの寺社も、それと皆が結びついていた大和の国衆(有力者)たちも、内心では「よそ者の勢力(戦国大名)」の介入に皆がウンザリしていた。

木沢長政の影響で、北西部では「よそ者」の主導権に渋々従う風潮もできていたが、南東部では「よそ者」への反抗的な風潮は続いていて、その「よそ者の対抗馬」として不満分子たちから裏で擁立されていたのが、筒井氏だった。

神道や寺院と大した関わりもない「よそ者」木沢長政松永久秀が、特殊だった大和社会における一円支配などさすがにできる訳もなく、軍事力(威力)でどうにか抑えていたその支配力(裁判力)が、磐石な訳がなかった。

大和では、畠山氏(木沢長政)三好氏(松永久秀)といった「よそ者」は出て行って欲しいのが本音で、要するに

 「大和は、国内で揉めることはあっても、寺院同士(大和の国衆同士)で解決していくことができるだけの教義力は、我々にはある」

 「それなのに大和の事情と無関係の、よそ者の支配事情を持ち込まれて強要されることは、大和の自力教義による再統一(国内の和平)を阻害されるばかりで迷惑だ」

という地域柄の強い地方(州)だった。

中央の覇権を一時的に得た三好氏だったが、中央に乗り込まれた織田氏に排撃されていくと、松永久秀は主家の三好氏と手切して織田氏に鞍替えする。

のちに足利義昭(室町将軍)と織田信長が対立すると、後になって松永久秀も足利義昭(反織田連合)に味方した。

 

織田信長は他の敵対勢力で忙しくなり、松永久秀の離反にしばらく対処できないでいたが、大和でのその対抗馬だった筒井順慶(じゅんけい)の肩をもつ形で、のちに大和の松永氏攻略に乗り出すことになる。

松永久秀が織田氏の傘下に入った当初、織田信長は大和に短期的に大軍を送って、反松永派(筒井派)を攻めた。

 

その時に、それらの反松永派の力を削減して引き上げたものの、ただし織田氏は「本腰を入れて大和の反松永派を完全に排撃し、大和の裁判権を確立した」という訳でもなかった。

「よそ者支配」に不満をもっていた大和の寺社と国衆(有力者)たちは、何かあると裏で筒井氏のことを支援し始め、筒井氏がそれを便宜するごとく毎度のように抵抗力を見せ付けてきたために、松永久秀もこの筒井氏を容易に潰し得えずに、手を焼いていた。

松永久秀が反織田連合に加担して、織田氏と対立すると、筒井氏は織田派となって松永氏攻略に協力し、今度は筒井順慶が、織田信長から大和の支配代理の後釜として公認された。

しかし以後の筒井氏は、織田氏の裁判権の傘下としての、専制政治化の影響を強めざるを得なくなっていった。

そのため大和の寺社・国衆たちは「大和主体ではなく、織田政権主体になってしまった」と、その支配関係に内心ではいくらかの不満をもつようになっていた。

筒井氏すなわち大和衆の位置付けは、織田政権の部将(重臣格・部署長官)たちに所属する、寄騎(与力・協力支援団)扱いだった。

 原田直政の軍団の寄騎(浄土真宗との激戦で、封鎖線を破られて猛反撃を受け戦死)

 佐久間信盛の軍団の寄騎(織田信長に咎められて失脚)

 明智光秀の軍団の寄騎(本能寺の変を起こす)


という順番に寄騎扱いにされたため、その扱いに大和衆は多少の不満は抱えていたと思われる。

ただし筒井順慶は、織田政権の最重要幹部のひとりである明智光秀の親類扱いとされたことで、一応は大和衆の代表格としての家格・格式の格上げはしてもらっている。(明智光秀はそれだけ格式が高かった)

同じ寄騎でも、その層での地位は高い方だった古参の前田利家、蜂屋頼隆、金森長近(ながちか)らと比べると、筒井順慶は奈良仏教の結び付きが強く人望もあったため、寄騎の中では新参の割には待遇はかなり良い方だった。

本能寺の変の時、明智光秀から協力要請を受けた筒井順慶は、結局荷担せずに傍観した。

筒井順慶のこの時の「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」が故事になり、この「洞ヶ峠」「日和見に徹する」「肝心な時に非参加」などの流行用語に当時なった。(実際は洞ヶ峠まで出てくることすらしていない)

本能寺の変は、筒井順慶からすると、事前の通款もなく突発に起きた上に、大和衆がそこまで協力しなければならない義理(契約的道義)もなかったことが、傍観に至った理由といえる。(後述)

豊臣政権時代になっても、格式が高い寺社が多かった大和では、なお格式にうるさかった土地柄をもっていて、豊臣秀吉もこの大和だけは強行的な身分統制令は施政せず、その土地柄に合った懐柔的なやり方で治めている。

豊臣政権から譜代扱いしてもらっている訳でもなく、外様扱いのまま専制政治化ばかり強まっていく筒井氏の傘下にさせられているという所に「格式的に不当だ」と、大和の寺社たちは、そこに全く納得していなかった。

豊臣秀吉は仕方なく、大和の支配代理だったこの筒井氏を、隣の伊賀に移封し、自身の優れた弟・豊臣秀長を、大和の支配代理に任じた。

行政力も人格品性も優れていた豊臣秀長が大和の支配代理になったために、さすがに大和衆も不満をいう訳にもいかなくなった。(豊臣秀長は皆から尊敬されて人気があった)

 

この人事によって豊臣政権内における大和は、公領的な格式扱いにされたこともあり、それでどうにか寺社の不満は抑えられるようになった。

しかしこれまで豊臣秀吉を多大に支えてきたこの豊臣秀長は、間もなく病死してしまい、有望視されていたその子の豊臣秀保も急死してしまった。

豊臣秀吉は仕方なく、次なる切り札として、執権(しっけん。行政機関の最高長官、総裁の立場)の増田長盛(ましたながもり)を、大和の支配代理に後任せざるを得なくなってしまった。

 

これでどうにか大和衆の不満を抑えられたものの、この増田長盛の事情が豊臣秀吉の死後、全国の豊臣氏の直轄領の権威を余計に維持し得なくさせ、さらには近江衆をまとめ切れなくする原因になり、関ヶ原の戦いにおける西軍(豊臣派)をかなり不利にしていったと、筆者は見ている。(後述)

織田信長が大和の松永攻略に動いた際に、大和では織田氏の裁判権に反抗して踏み潰された寺社もあったかも知れないが、ただし大和全体を「閉鎖有徳」だと大々的に踏み潰して回るようなことは、大してされていない。

大和では内輪揉めをすることはあったとしても当時、大和主体(等族義務)を目的に、裏では筒井派を強めていた寺社たちの地域教義力は、それなりにまともだったことが窺える。(織田政権時代より、豊臣政権時代の方がうるさかった?)

豊臣秀吉にしても、とにかく格式のことにうるさかった大和の寺社らに対し、厳しい弾圧に動いている様子も見られない所をみると、大和は多少の閉鎖感はあったとしても、その教義品性はかなりまともだったのではないかと、筆者は見ている。

織田信長は、北嶺(ほくれい・公的教義・天台宗を含めるその他、廷臣たちと結び付きをもつ、京都方面の他宗の各中央寺院)と比べ、織田政権との協調性も渋々見せていたこの南都(なんと。かつての日本の中心だった奈良仏教)の方がだいぶまともだと評価していたのではないかと、筆者は見ている。

いずれにしても、北嶺(といってもその代表格として公的教義を偉そうに気取る天台宗に対してのみ)はあからさまに踏み潰される制裁が加えられたのに対し、南都(奈良仏教)はそこまで強烈な制裁は加えられていない。

その差だけでも、北嶺と強い結び付きをもっていた多くの廷臣たちの面目をなお失わせ、かなり逆なでしていたと思われる。

話は巻き戻り、三好氏が関西方面で一大勢力を誇っていた頃の三好軍(松永長頼)による、丹波介入について触れる。

丹波は、元々の守護代(代表格)の内藤氏の衰退が著しく、丹波をまとめ切れなくなっていたために、三好軍(松永長頼)がその後押しをするという形の、介入だった。

縁談によって、内藤国貞の娘と、三好氏の重臣格の松永長頼との間にできた子が、キリシタン武将のひとりとして著名の内藤忠俊(内藤如安・ジョアン)である。

松永長頼が、子の内藤忠俊を「母が内藤氏の娘」であることを強調して、三好軍(松永長頼の軍団)による丹波支配の根拠を強める目的で、内藤氏を名乗らせていた。

この内藤忠俊が熱心なキリスト教徒となった背景には、丹波の名族・内藤氏と、堺の豪商・小西屋との古くからの縁があったこととも関係している。

日本最大の大都市だった(今の大阪府堺市)は、西洋から渡来してきた宣教師たちからも「日本のヴェネツィア」と呼ばれたほどの大経済都市で、ヨーロッパと関西方面との直接の交易都市としての、重要な役割も果たすようになっていた。

当時の和泉(いずみ。大坂府南西部)の国は、堺の会合衆(えごうしゅう・堺衆)という、強力な資本家商人団が幅を効かせ、彼ら団体が和泉の実質の支配者だったといえるような政治が行われていた、特殊な国になっていた。

織田氏が台頭するまで、日本で最も財力を有していた堺衆は、簡単には戦国大名に支配されないように、その財力を背景に堺の都市を要塞化し、自衛軍を運営していた。

三好氏が織田氏と対立して、関西方面における三好氏の優位性も崩れるまでは、三好氏と堺衆は対等な同盟関係にあった。

三好氏が織田氏に排撃されていくと、それまで三好氏とは同盟関係にあった堺衆も、織田氏からついに「三好氏と手切れし、織田氏の裁判権下(支配下)に入れ」と迫られる事態に直面した。( 1572 年頃)

その意味は、自治権すなわち自衛軍の解体を迫られ、これからは織田政権による徴税法にも従わなければならないことを意味していた。

これまで堺衆は、どの支配者の徴税にも従わずに独自で軍事力を身につけ、優れた資本力・海運力・経営力によって、戦国大名らとの対等な立場を維持し続けてきた。

しかし織田信長によって、同盟関係だった三好氏は排撃され、近隣の畠山氏や浄土真宗も劣勢になっていくと、ついにその独立国家的な自治権を否定される日が来てしまった。

その事態に堺衆は動揺し、抗戦派もいたものの内部で深刻に話し合われ、

 「今までの戦国大名たちの規模とは訳が違い、織田政権が本気になって大軍を動員してきたら、とても防ぎ切れるものではない」

 「もうそういう時代になった」

とついに観念し、今まで強力な貿易都市として権威を誇り続けてきた堺衆も、内心のくやしい思いを隠しつつ織田政権の支配下に入ることになり、自衛団も解体させられることになった。(前期型兵農分離)

羽柴秀吉がのちに、織田信長に代わって中央の覇権を掌握し、新政権(豊臣政権)の創設が支えられたひとつに、この堺衆との良好な縁が維持できていたことも、大きく関係している。

羽柴秀吉と堺衆の重要な関係を繋がれるにおいて、まずは小西行長との縁が大きかった。

豪商出身の小西行長は、羽柴秀吉から能力面・品性面・功績面のいずれも高く評価されて抜擢され、1585 年に、大領の大名資格まで与えられ著名なキリシタン大名となる。

小西行長の実家である小西屋は、この堺衆の中では上位の格式に入る、政商としての顔効きでもある資本家だった。

小西屋は納屋(なや。豪商のひとつ)と組んで、を本拠に、山城(京都)、丹波(京都西部)、備前(岡山県)にも、政商としての有力な支店(その方面の取引網)をもっていた。

織田信長が支配下に治めるようになった頃のは、既にキリスト教徒たちと交易を盛んに行うようになっていて、キリスト教に帰依する者も増えていた。

最初に、九州の要港に宣教師たちが渡来するようになった時から顕著だったこととして、キリスト教に帰依した者は「キリスト教徒同士の良き友」として交易品の取引を優先的に便宜してくれたこととも、大きく関係している。

肥前南部(ひぜん。長崎県)のキリシタン大名として著名だった有馬晴信が、その政治性が特に顕著だった。

有馬晴信は、自身がキリスト教徒であることを強調し、周辺の列強の竜造寺氏や大友氏らに圧迫されないよう、いかにキリスト教徒(ポルトガル船)を味方につけ、いかにキリスト教徒を有馬領に優先的に向けさせるかに熱心だった。

宣教師たちにとっても、その領内でのキリスト教の布教に熱心な戦国大名だった方が都合が良かったため、当然のこととして交易もそちらを優先する意図も働いた。

そうした事情もあって、堺の都市でもキリスト教徒がかなり増えるようになっていたが、小西行長や内藤忠俊のように教義性を重視して熱心に帰依していた者も多かった。

堺衆の小西屋と、元々親交関係があった内藤忠俊も同じく、堺衆の影響がきっかけでキリスト教徒に帰依した流れだったと思われる。

 

小西屋は、宣教師たちが不利になると保護に動いていたほど、キリスト教徒との関係が深く、宣教師たちも小西屋にはだいぶ助けられていた。

 

政商としての色も強かった小西屋は、丹波の名族・内藤氏との血縁関係もあったといわれ、武家ではないものの戦国大名たちからも一目置かれるような存在だった。

 

居場所は違っても、キリスト教徒として共に熱心だった小西行長と内藤忠俊は、親戚意識としても、同じキリスト教徒としての同胞意識も強かったようである。

 

この小西屋の次男である小西行長は、備前(岡山県)の支店から、代表格・宇喜多氏との信用関係の深い政商を担当していて、謀将として名高い当主の宇喜多直家からも、その情報力と機知が高く評価されていた人物だった。

 

堺衆から見た備前(岡山県)は、備前以西と堺との取引網を結ぶ重要な商業経路として重視されていて、宇喜多氏が台頭して備前を治めるようになり、政局の岡山城の商業地も整備されると、その重要性はますます高まっていた。

 

堺衆との結び付きが強かった小西行長は、堺、丹波・京、備前以西、そして渡来してくるキリスト教徒らによる西洋の知識(アジア情勢や新技術)という、大きな情報網をもっていたため、宇喜多直家からも、のちに抜擢される羽柴秀吉からも、その存在はかなり重用視された。

 

小西行長は、戦国大名の宇喜多家の組織の中でも一目置かれ、外交調停役などに関与し、半分は公務の家臣扱い(半分は武家扱い)されていたほどの人物だった。

 

小西行長については後述する。

和泉(大阪府南西部)の北隣の摂津(大阪府北部)は、石山本願寺城(道場が要塞化された浄土真宗の本拠)があった影響で、浄土真宗に帰依していた者たちも多かったが、摂津衆(国衆・地元の有力者たち)の皆が、浄土真宗と友好的だった訳では当然なかった。

真南の堺からキリスト教が摂津にも波及し、摂津衆の高山友照もキリスト教に帰依するようになっていたが、のちに日本を代表するキリシタン大名として高名になったのが、子の高山重友(高山右近。高山ジュスト)である。

摂津では本願寺(浄土真宗)派と並ぶ二大勢力と目されていた、豊島(てしま)郡池田知正も、その主家の三好氏の衰退にともない、内紛に振り回されながら独立性を強めたが、高山友照(高槻城主)はこの池田氏の寄騎だった。

しかし摂津での池田氏の影響力も著しく低下していったため、その有力寄騎であった荒木村重(むらしげ)が、池田氏に代わって摂津半国の代表格に台頭し、織田信長にも公認された。(池田氏、高山氏ら周辺の国衆は、この荒木村重の指揮下に入ることになった)

この荒木村重は、織田軍(原田勢、佐久間勢ら)の摂津攻略(浄土真宗攻め)への加勢や、織田軍(羽柴勢)の播磨(兵庫県)攻略戦に加勢した際の働きが、織田信長に高く評価されていたが、その協力姿勢も段々と怪しくなっていった。

そしてこの摂津の荒木村重も、大和の松永久秀と同じようにのちに離反し、反織田連合に急に荷担した。

それまで織田氏に重臣格(部将・司令官)扱いされ、摂津の代表格と公認されて活躍していた荒木村重だったが、急に織田氏と手切れして、敵対の本願寺(浄土真宗)・毛利氏に味方し始めたため、織田信長をかなり困らせた。

荒木村重の寄騎扱いの摂津の国衆らは、義理的(契約的道義)にしばらくは荒木村重に従っていたが、次第に見切りをつけて離反し、織田派に鞍替えする者も増えていった。

織田信長と対立して中央から追放された足利義昭(室町将軍)が、西国の最大手だった毛利氏に亡命し、それを名目に毛利軍が播磨(はりま。兵庫県)まで影響力を伸ばしてくると、播磨攻略に動いていた織田軍(羽柴勢)と毛利派との間での、播磨の戦いも激化するようになった。

衰退し切っていた表向きの播磨の代表格・赤松義祐(よしすけ)は、いよいよ播磨をまとめることもできなくなり、その時の播磨衆(地元の有力者たち)は「毛利派」「織田派」「よそ者の追い出し派」といった具合に大混乱を起こすようになった。

毛利氏に敗れて出雲(いずも。島根県東部)伯耆(ほうき。鳥取県西部)を追われた尼子氏(あまご。近江の名族・佐々木源氏の一族)の残党たちが、織田派(反毛利派)として播磨に駆けつけて、その両者の攻防戦に乱入したために、播磨は混迷を極めた。

織田軍(羽柴勢)の播磨攻略で、いったんは播磨を傘下に治めたものの、何かあると播磨衆は織田氏に従わずに騒動を起こしがちで、織田軍による裁判権が播磨で確立されるまでには、時間がかかった。

播磨再攻略を担当した羽柴秀吉は


 黒田孝高(よしたか。赤松源氏一族。小寺氏。知略で高名)

 有馬則頼(赤松一族。九州の有馬氏とは無関係)

 

 別所重宗(赤松一族)

 出雲・伯耆衆(尼子氏の残党ら)


ら播磨の有力者を織田派として味方につけたものの、毛利軍が後押しする反織田派の播磨衆のしぶとい反抗には、織田軍(羽柴勢)もかなり手を焼き、特に三木城の別所治長(赤松一族)の抵抗には苦戦させられた。

播磨まで押し寄せて反織田派を後押しする(煽る)ようになった毛利軍が、海からも水軍を率いて木津川口(今の大阪湾)までの制海権を抑え、摂津の本願寺(浄土真宗)を物資援助するようになったために、関西方面の情勢は緊迫した。

反織田連合の筆頭格だった本願寺(浄土真宗)は、単独ではそれまで織田氏に猛反撃を喰らわせてきたものの、堺衆までもが織田政権の裁判権に従い、織田氏に具体的に協力するようになると、それだけ本願寺も劣勢になっていった。

織田氏の天下も見えてきた、つまり全国地方の代表たち(戦国大名たち)が、織田政権という名の中央裁判権の最低限から「格下げされながら臣従しなければならなくなる情勢」も、いよいよ見えてきた。

足利義昭がうるさくいい続けていた東征要請に、その事態についに重い腰を上げた毛利氏(吉川元春と小早川隆景)は、強国化する一方の織田氏を慌てて阻止しようと播磨まで進出するようになり、毛利氏のお家芸ともいえる水軍作戦で本願寺(浄土真宗)を後詰め(ごつめ。支援すること)するようになる。

瀬戸内海から押し寄せる、この毛利水軍のせいで、織田氏による播磨攻略も、摂津攻略(本願寺攻略)も支障が出ていた。

 

これを何とかしなければならなかった織田信長は、九鬼水軍(九鬼嘉隆・くきよしたか・熊野水軍の大将。熊野灘・伊勢湾の海域を織田氏から公認されていた)を動員し、毛利水軍に当たらせた。(記憶違い。熊野水軍は堀内氏。この頃の海域の担当は不明)

要請を受けた九鬼水軍は、播磨と摂津の反織田派を支援するようになったこの村上水軍(毛利水軍)を追い払おうと木津川口(大阪湾)で戦ったが、大した損害も与えられないまま撃退されてしまった。(第一次木津川口の戦い)

織田信長はその敗戦報告に、激怒したと言われる。

しかし織田信長は怒りながらも、なぜ負けたのか、どんな状況だったのかを詳しく確認・状況回収した。

すると作戦面だけが問題ではなく、瀬戸内海の広い海域の、多くの海賊勢力を毛利氏がまとめ、それを総動員して、九鬼水軍の排撃に動いたその軍船兵力にそもそも大差があったことも、よくよく認知した。

九鬼嘉隆は多少の叱責はされたが、その能力は織田信長から買われていた。

そのため今一度の再戦計画をさせて「資金は惜しまないゆえ、今度は絶対に負けないよう万全の準備を整え、もう一度、木津川口へ乗り込むのだ」と指示し、戦上手で知られていた重臣の滝川一益も、その作戦計画における顧問官として補佐させた。

この時に有名な「鉄甲船」が作られたといい、資料が乏しいためその実在も詳細も不明な所が多いものの、とにかく相手を驚かせるような戦艦が作られて、毛利水軍を撃退したのは間違いない所である。

第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍と織田水軍との軍船数差がありすぎた上に、先に制海権を掌握されていた状態から織田水軍が待ち受けられたことで、最初から不利な状態になっていた。

毛利水軍と対峙したはいいが、織田水軍の動きが制限された状態で、側面に回り込まれて火矢を浴びせられる戦術にやられてしまったことが、特に問題視されていた。

この「鉄甲船」が実在した前提で説明すると、当時の木製の軍船に、全て鉄板を貼り付けて覆うことで、火矢を浴びせられても絶対に燃えないようにした軍船が、数隻(6隻?)作られたといわれている。

いってみれば海の装甲車が作られ、それ自体が今まで見たことがない試みだったが、これは織田氏がかなりの財力を有し、そのための職人も動員できるだけの経済社会を整備できていたからこそ可能だったといえる所である。

これは、瀬戸内海全体の広域の水賊たち(海の派閥勢力)を掌握されてしまっていた毛利氏の水軍兵力の差を、簡単には埋められそうにはなかった分、軍船の性能で対応しようとした意図だったと思われる。

九鬼嘉隆が再び乗り込んだ第二次木津川口(1578)の戦いでは、その鉄甲船を先頭に大軍の毛利水軍の中を突っ込ませて、相手の陣形を破壊して回りながら、その背後についてくる味方の軍船で、各個撃破していく、という作戦が用いられたようである。

とても沈没などさせれそうもない、今まで見たことも無い鉄甲船(大きさも目立っていたと思われる)が先頭になって、大軍の毛利水軍に突っ込んで陣形をかき回し始めたために、相手もその事態にかなり驚いたらしい。

その鉄甲船にどうにも手に負えなかった毛利水軍(村上武吉)は、ついに木津川口(大阪湾)から撤退した。

織田水軍(九鬼嘉隆)の活躍によって、これを機に明石海峡・播磨灘までの制海権を毛利水軍から奪っていったために、以後の織田氏による摂津攻略(佐久間勢ら)と播磨攻略(羽柴勢)に、かなり有利となった。

この戦果には織田信長も喜び、作戦指導の良かった九鬼嘉隆のことも、改めて高く評価された。

毛利氏が織田氏に向かってきて、それに手を焼くようになった間に、

 大和の松永久秀

 摂津の荒木村重


が織田氏から急に離反し、反織田連合に荷担したために、織田信長をかなり困らせた。

松永久秀も荒木村重も、元は三好氏を主家とする有力者だったが、織田氏優勢に鞍替えして、共に織田信長から重臣格として認めてもらった筋だった。

しかし毛利氏が摂津の本願寺(浄土真宗)を支援するようになり、播磨を煽って織田氏の権勢を阻害するようになると、この2名は今度は揃って本願寺・毛利派(反織田連合)に荷担した。

播磨・摂津に介入してきた毛利軍の影響力が排撃されると、それぞれ孤立するようになった荒木氏と松永氏は、織田軍に討伐されることになるが、2人については後述する。

織田軍(羽柴勢)の播磨再統一で、支配権が改めて確立されていくと、交通網としても優れていた姫路城が、中国方面攻略における重要拠点・政局と位置付けられ、その格式として改築されていき、城下も手入れされていった。

のちに池田輝政が姫路城主となった時に、姫路城は本格的に整備され、播磨50万石という大領の藩主として相応しい、今に伝わっている壮麗な色と形の基礎が作られた。

播磨攻略後に、中国方面への重要な攻略拠点とされたこの姫路城が、結果的に羽柴秀吉による天下総無事の足がかりにもなった、名誉な城でもあったため、それだけその壮麗さも強調された。

羽柴秀吉はこの姫路城から、尾張・美濃時代の自身の譜代家臣たちと、近江長浜城主時代の近江衆たちを率いながら、播磨衆、但馬衆、摂津衆、備前衆らを、その器量(教義指導力)をもって良くまとめた。

 

姫路城を拠点にそれらを結集し、さらには堺衆(小西行長との縁)に支えながら、本能寺の変を起こした明智勢を倒し、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを有利に進めていったことからも、その重要性が窺える所である。

離反した荒木村重が織田軍に討伐されることになった際、荒木村重に所属していた摂津衆の寄騎たち中に、キリシタン武将として名高かった高山重友もいた。

高山重友は単独では大した兵力を有している訳ではなかったものの、軍略に優れ、また摂津のキリスト教徒たちに親しまれ、庶民からかなり人気があった。

織田信長としても、この高槻城の高山重友については、力で踏み潰すよりも、調略によって傘下に治めたい所だった。

荒木村重と手切れをして従うよう、織田政権から問われた高山重友は「自分は領内のキリスト教徒たちを守る約束をしてくれる者のために戦う所存で、そのために殉死する覚悟です」と言い張って最初はいうことを聞かなかった。

織田信長は高山重友に「もしお前が臣従しないのなら、摂津でのキリスト教を禁止し、棄教しない者は織田氏の裁判権に従わない閉鎖有徳と見なして弾圧して回るぞ!」と脅した。

 

高山重友は「キリスト教を許可してもらえるなら」という条件で折れて、織田氏に臣従した。(その約束は守られた)

 

これは「相手にそれを決めさせる前例を作らせずに、それを許可するしないは織田政権が決めること」にしておくためと、関西方面における日本人キリスト教徒の第一人者だった高山重友のことを、織田信長は認めていたからこその、遠まわしのやり取りだったといえる。

堺衆が織田氏の裁判権に従うようになって以来は、キリスト教徒も多かった堺衆との横の繋がりの影響も、高山重友の臣従を手伝っていたと思われる。

羽柴秀吉が播磨で毛利派と激戦を繰り広げていた頃、その西隣の備前(岡山県)の宇喜多氏は、毛利派として播磨争奪に渋々荷担していた。

かつて、備前と播磨西部で威勢を誇っていた浦上氏が衰退すると、その最有力家臣であった宇喜多氏が代わって備前の代表格として台頭するが、宇喜多氏は備中や美作(みまさか)にも影響力を及ぼすようになっていた。

しかし10ヶ国ほどの推定120万石くらいの支配力(裁判力)はあった毛利氏から見ると、その近隣の宇喜多氏はあってもせいぜい35万石ほどの格下の支配力しかなく、宇喜多氏は毛利氏から攻撃を受けないように、力関係で反織田連合に渋々連盟していた。

しかし播磨攻略で織田軍(羽柴勢)が優勢になると、宇喜多氏が、毛利派から織田派に鞍替えする事態となった。

 

中国方面の攻略を任されていた羽柴秀吉としても、宇喜多氏を味方に付けられたことは非常に有利となった。

 

播磨では本来の代表格である赤松氏が裁判権を整備できていなかった分だけ、羽柴秀吉による播磨再統一もかなり苦労したが、備前の裁判権を整備してまとめていた宇喜多氏が味方になったことは、非常に大きかった。

これには、備前の政商として宇喜多直家との親交関係が強かった小西行長による、宇喜多氏と織田氏との裏の結び付きが前々から働いていた。(堺衆の影響)

 

堺衆は 1570 年頃から、山城に乗り込んで京の都市経済を大再生させた織田氏は都合が良かったため、正式に臣従する前から、友好的な関係を始めていた。

小西行長が羽柴秀吉から、大領の大名として正式に大抜擢されるのは 1585 年だが、堺衆が織田政権の傘下に入り、織田軍(羽柴勢)による播磨再攻略で、その近隣にも調略の手が伸ばされていた 1577 年頃には既に

 播磨再攻略の羽柴秀吉 - 堺衆・備前(織田派)の政商・小西行長 - 備前の代表格・宇喜多直家

の縁による、裏の繋がりができていた。

1575 年頃に織田軍(明智勢)が丹波の波多野・赤井連合を制圧し、明智光秀が近江西部と丹波の丸々一国の支配代理となるが、それまでどうにか丹波に居座り続けていた内藤忠俊(当時25歳)は、その時に丹波から退去し、しばらく動向は判然としない。

その10年後の 1585 年頃に、小西行長のそれまでの功績と能力の高さが羽柴秀吉から高く評価され、大名資格を与えられて小西氏としての家臣団が組織される際、内藤忠俊は小西行長の有力家臣として抜擢された。


それぞれ居場所ばバラバラであっても、堺衆が基点になっていたキリスト教の横の繋がりは強かった小西行長、内藤忠俊、高山重友の3名は、織田政権時代、豊臣政権時代と経て、その政権内で迎合するようになる。

 

特に高山重友は、日本人キリスト教徒の中での信望を集め、小西行長と内藤忠俊もかなりの影響力を与えるようになった。

 

豊臣秀吉の天下総無事と身分統制令によって、当時の日本中の「よそ者同士の閉鎖観」を打破してひとつにまとめ上げたことは、確かに快挙だったが、この小西行長に視点を当ててみると、法的(政治的)にひとつにまとめた後の組閣には、かなりの苦労も見られる。

 

つまり織田信長も豊臣秀吉も、本人の生前中は、その器量(教義指導力)によってどうにか丸く収めることができていたが、18世紀や19世紀に通じるようなその新法が根付くまでには、その生前時間があまりにも短すぎたために、それだけ崩壊も早かった。

 

一方で徳川家康は 1600 年の関ケ原の戦いを制して以来、 1615 年までの15年間、「大御所」と呼ばれ、将軍となった2代目の徳川秀忠を後見する形で、駿河の駿府城から諸氏に睨みを効かせ続け、豊臣氏を消滅させた直後のその年に、74歳で亡くなった。

 

織田信長は、今まで見たことも聞いたこともないその斬新な裁判権を、生前中には確立できたが、制覇目前の日本全国にそれを根付かせる間もなく 1582 年の本能寺の変で、49歳で急死してしまった。(上の自覚に対し、下の自覚はまだまだ曖昧だった)

 

豊臣秀吉もその10年後の 1592 年に天下総無事を達成したものの、そこから6年後の 1598 年に62歳で死去してしまい、斬新すぎた新法が日本全国に根付くまで(特に多くの下たちに対して)の、その生前時間があまりにも短すぎた。

 

それと比べると徳川家康は、織田信長と豊臣秀吉が作っておいてくれた貴重な前例(新法)を根付かせていく過程で 1600 年の関ケ原の戦いを制し、大坂の戦いになるまでは大きな国内戦争を起こすことなく、15年間の猶予時間をもって幕藩体制の基礎を根付かせている。

 

1592 年の天下総無事から数えると、1615 年の大坂の戦いを終えるまで、74歳まで生きた徳川家康のその約23年間は「今度こそ短命の新政権に終わらせない」ための、その使命感からくる執念だったといえる。

 

徳川家康は、健康面にはかなり気を使っていたと伝わっている。

 

毒殺を恐れていたこともあり、よほど信用できる者でない限り、とにかく医師のことも、その知識のことも信用せず、自身で治療薬を調合していたといわれ、その薬学知識は専門家といえるほどだった。

 

食事もかなり気を使っていたことで知られ、白米よりも雑穀を好み、庶民的な粗食を好んだといわれる。

 

これは当時、贅沢で優雅な食事よりも、庶民的な粗食から食事内容を決めていく方が健康に良いことに気づいていたこと、さらには粗食をしていれば倹約家の印象もついて、下級武士や庶民たちから好意的に見られるという一石二鳥も狙ったものと思われる。

 

戦国後期は、当主が若死にしたり、肝心な時に当主が健康を害して急死してしまうことも頻繁に起き、それがきっかけでその組織が総崩れを起こすことも、良くある時代だった。

 

上杉謙信も大の酒好きで知られ、その飲みすぎで健康を害したことが死因と見られている。

 

祖父の松平清康は、三河の器量人と称賛されながらも、わずか25歳で事故死(家臣に誤殺されてしまう)し、父の松平広忠も24歳で病死(暗殺説もある)し、松平氏(徳川氏)が消滅しかけたほどの大衰退の引き金となった。(徳川家康の5歳頃)

 

三河は松平氏の代表格としての権威(主体性)が著しく衰退していったために、強国化した尾張の織田氏と、列強で知られた駿河の今川氏の間で散々振り回され、苦労してきた経緯があった。

 

織田氏に桶狭間の戦いを仕掛けて敗れた今川氏が、以降は衰退してくれたおかげもあって、徳川家康の三河再統一(17歳~21歳頃)によって家臣をどうにか団結させ、三河での代表格の権威(主体性)をなんとか取り戻すこともできた。

 

しかし織田氏との協調路線で徳川家も成長していく過程で、浜松派(家康派)と岡崎派(子の信康派)とで家中が対立しかけたり、本多派と大久保派で、家臣同士で対立しかけたりと、時代に合った組織改革に徳川家康も苦労している。

 

次は、豊臣政権で重要な役割を果たしていたひとりで、特異な人物だった小西行長に視点を当てながら、まとめていく。