近世日本の身分制社会(059/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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 豊臣秀吉の身分統制令(後期型兵農分離) - 2021/01/29

天下総無事(天下統一)後の豊臣政権の、大きな特徴であった身分統制令について、まとめていきたい。

1591 年頃までには、豊臣秀吉が関東・東北に進出し、その身分統制令で日本はついに、上から順番の全国の制定が行われ、あるべき法治国家らしい姿に向かった。

「まずは上から順番の身分統制令」によって、豊臣政権の中央裁判権(これからのあるべき等族義務・社会性・公務公共性)の最低限と一致していないと見なされた組織・個人は、厳しく格下げ・改易されていった。

そうして改易(領地特権の没収)されていった領地は、、豊臣政権の税収直轄領としての代官が手配されながら、豊臣氏の譜代家臣の能力・功績に応じて領地特権も与えられていった。

 

とにかく全国の諸氏が「豊臣氏の家臣」、すなわち中央裁判権の傘下という形の臣従の典礼を採らせ、転封つまり諸氏の領地を意のままに増減・交換配置する強制力を示したことも、のちの江戸時代の前例となった。

「認めざるを得ない」と思われた組織や個々に対しては特権や領地が与えられるといった、器量が高く評価された者たちもいたが、それができたのもまずは、身分統制令という改革的・公正的な専制政治化・等族社会化という大原則を豊臣秀吉が、手本的(体現体礼的)に実現したからこそといえる。
 

それに大きく関係してくることとして、豊臣秀吉の政策で顕著だったもののひとつに、全国への検地がある。

豊臣政権による天下総無事で、ようやく日本がひとつにまとまるが、それまでの納税の基準は地方ごとにバラバラ、日本中でバラバラなままで、それに比例するように通貨基準もバラバラなままだった。

 

豊臣秀吉が、士分待遇の高さを規定していく上で「この者はこれだけの領地権を公認した」をするための、領地特権の価値も通貨基準もバラバラなままでは、身分統制令による明確な価値基準が手配されることにならない。

 

そのため豊臣秀吉は、関東・東北に進出する前までには検地(土地ごとの価値調査と税収規定)を積極的に進め、関東・東北の制覇後も例外なく検地は進められていった。

それまでは各地の農地・商業地・海運業者それぞれの行政的な基準自体がバラバラで、だからこそ商業地ごとの両替商(今でいう小口の金融。貨幣の仲介業者)の公正さが重視され、非常に不便な状態だった。

これは戦国時代が長引いた、ひいては中央政府の基準制定が永らくされてこなかったことで、同じ日本でありながら地方ごとに閉鎖的に強まる慣習によって、不一致ばかり起こすようになったことが、大きな原因だった。

換金作物や手工業生産品の地方間取引が「小さな外国為替」みたいな世界になってしまっていて、互いの価値基準の相場での物々交換と差額貨幣の計算を、毎回のように交渉しなければならないという、流通の快適さを損なう状態が続いていた。

無政府状態(無国家構想状態)が続いた分だけ、地域ごとの閉鎖有徳たちが偉そうに威張り散らし続けてきた、しわよせである。

 

時折の騒乱に振り回されつつも、各地に戦国大名が出現し、ようやく地方ごとで裁判権(社会性)が整備されると、地方内での商業経済も復興を見せ始めるが、それに比例して両替体制不足貨幣不足の問題も目立つようになった。

戦国期の貨幣は、鉱山権を掌握した支配者が独自に金貨・銀貨を作り、それを対価に軍需品や食料の収集・増産をさせていったために、全国的な基準制定もないままバラバラな事情で作られていった貨幣が流通するようになっていた。

各地の有力商人たちも、貨幣不足に仕方なく対策するべく、独自で製造したものを流通させていたため、製造元の貨幣ごとの質の高さや、金銀の含有量などで価値換算し、取引せざるを得なくなっていた。

貨幣価値どころか貨幣の種類自体も統一性がなかったために、この通貨問題は江戸時代以降も少しずつ整理されていくが、日本中の鉱山権を掌握するようになった豊臣秀吉も、金貨・銀貨を増産させることで少しずつ対策していった。

鉱山権を掌握した豊臣秀吉は、良質な金貨・銀貨を増産させ、質の悪い貨幣や痛んだ貨幣の交換回収を少しずつ進めていったため、これは庶民にとっても嬉しい政策となった。

貨幣の基準がバラバラだった上に、さらには地方・地域ごとの課税の基準もバラバラだったのを、ついに制定されるようになったのが「太閤検地」だが、それができるだけの教義指導力(裁判力)をもち合わせていたのは、当時は織田信長と豊臣秀吉くらいしかいなかったのである。

 

太閤(たいこう)の意味は、日本全体の代表的な執政権を公式に得た大臣に対する、尊称である。
 

豊臣秀吉は、増田長盛、浅野長政、石田三成といった、政務に非常に優れた部下たちと、農商業の基準の整備が計画・実行されていき、大幅に進められていった。

 

賤ヶ岳の戦いによって、旧織田家中で事実上の中央政権力を選挙的・支持的に獲得した羽柴秀吉は、その国家構想で早々に、中央から順番に検地も進められていた。

 

これ自体がもはや、

 

 「お前たちに、これをやれるだけの主体性(中央裁判力・国家構想)があるか!」

 

 「それがある中央裁判権側と、それがない地方裁判権側との立場をさっさと認め、我が新政権(豊臣政権)にさっさと臣従せよ!」

 

と恫喝していたのも同然だった。

 

地方統一を進めて家格・格式を示そうとしていた、所詮は地方裁判権の都合で動いていただけの諸氏と、その次の段階の中央裁判権の都合で動いていた旧織田家中の裁判権の認識には、もはや大差ができていたのである。

豊臣秀吉が全国的にやり始めた検地による、測量の基準、納税・労役の基準などの新制定に、かつての慣習と全然違う地域は、それだけ非同胞否定(合併アレルギー)を起こす傾向も強かったが、大抵は動揺するだけで済んだ所も多かった。

しかし天下総無事令・身分統制令で失脚し、豊臣政権を逆恨みしたその旧臣たちが、検地で動揺した庶民に「悪政だ!」と煽って悪用し、庶民を巻き込んで戦乱(一揆)が起きるよう仕向けて、再起を計ろうとした所もいくらか出た。

戦国前期のようなそうした不穏な動きも出たものの

 

 「国際品性をもって意見を整理・提出することから始めようともせず、過去の古い慣習をただ偉そう主張し、庶民を巻き込むことしか能がない下品蛮行は、豊臣政権下ではもう通用しない時代になったのだぞ」

 

といわんばかりに、どれもあっけなく鎮圧されていった。

太閤検地で動揺したのは、庶民たちというよりも身分統制令で「非公認な下同士の半農半士の上下権威を否定された旧態主義者たち」が不満を挙げて、庶民を煽っていた場合がほとんどだった。

太閤検地の特徴的な制定のひとつに一地一作人制(いっちいっさくにん?)があるが、これは政権に公認もされていない階層を庶民同士で勝手に作ってはならないというもので、つまり農家が特権的な力を勝手につけて、大勢の小作人を支配下におくような、戦国期では許されていた勝手な収奪社会が、これからは一切が許されなくなった制度である。

 

そうではなく、農家一家ごとに、農家同士の収奪関係のない農地が必ず最低限として手配され、庄屋という農村組合のあくまで責任(等族義務)関係の中の納税体制でなければならない、という教義性(健全性)ある制度だった。

 

戦国後期までは、閉鎖有徳の勝手な庶民同士の力関係の慣習が作られ、それで使役収奪される一方の「最下層」という勝手な枠組みが維持されてきたのを、織田信長がついにそれを徹底的に踏み潰し、解体して回るようになった。

 

織田政権の領内ではすっかり撤廃されていたが、本能寺の変後でも領外では、その旧態風潮がまだまだ根強く残っていた地域も、依然として多かった。

 

太閤検地でついにそれが全国的に改められ、庶民同士の勝手な力関係格差を、公正な監視によって簡単には作らせないようにし、さらにそこに5人組・10人組制度(順述)を導入することで、努力した分だけ得できるようになる狙いの政策が進められていった。

 

豊臣秀吉の身分統制令はまさに、今までの旧態慣習の日本全国への、一斉の減価償却の清算事業(国際品性などない旧態慣習の法的撤廃)だったといえ、まさに日本を別の姿に生まれ変わらせるための、大事な政策だったといえる。

 

専制的な身分統制(等族社会化)の一環だった

 織田政権前期型兵農分離(国際規律ある公正な正規吏僚の選別・国際規律ある公正な正規兵員の選別)

に続いて

 豊臣政権後期型兵農分離(公務公共手本側である士分待遇と、そうでない庶民側の具体化)

が進められるまでは、正式な士分ではない下同士が、勝手な家格・格式を誇り合って偉そうに威張り散らし合い、大した名目(主体性・誓願)もない不都合(ただの偽善性癖)の利害次第で、近隣と揉め合うのも当たり前だった。

戦国後期になっても、負けて士分待遇を失った者たちは閉鎖有徳に頼って集まり、何の主体性(教義指導力)もない時代遅れの力関係の序列が庶民同士で強要され続け、何かあれば庶民を巻き込んで騒いで奪い返し合うという、不健全ないがみ合いが続いていた所も多かった。

織田政権の領域がどんどん拡大されていくに連れて、織田氏の正規軍体制や楽市楽座制の公認性(裁判権)を徹底的に思い知らせるために、各地でいつまでも残っていたその閉鎖有徳の慣習は、容赦なく踏み潰されていったのである。

織田氏の裁判権(時代に合った社会性)に従おうとしない、すなわち国際品性(公正さ)をもって意見を整理・提出することから始められずに、過去の不健全な地縁慣習を偉そうに振りかざし続ける、その閉鎖有徳の根城になっていると見なされた寺院(過去の聖属特権)は、厳しく弾圧・解体されていった。

織田政権が公認している訳でもない、その地方裁判権止まりに過ぎない

 

 「勝手な強者的立場と、勝手な弱者的立場の関係維持」

 

による

 

 「格差収奪の不当な閉鎖上下社会」

 

は、これからはもはや許されなくなる専制政治化・等族社会化の公認・非公認の法的視点から、上から厳しく改められていったのである。

特に楽市楽座(旧態上下伝統の撤廃。農商業の自由化による弱者的立場たちへの救済と経済意欲推進)による、その格差緩和政策を阻害しようとするような地域は、織田信長は容赦せずに徹底的に厳しく踏み潰して回った。

本来そういう所を全国的に指導していかなければならなかった責任(等族義務)があったはずの当時の、公的教義(延暦寺・天台宗)も要するに

 「聖属の教義指導力よりも、世俗の織田氏の教義指導力(裁判力)の方が完全に上回ってしまった」

その不都合(ただの偽善性癖)だけでただ逆恨みし、何の反省(主体性)も無しに反織田連合の機運に便乗して織田氏に噛み付けてきたからこそ、あきれられ、踏み潰されたのである。

国営軍の一員・吏僚の一員だと織田政権が正式に公認していない者が、許可もなく武器をとって戦闘に参加しようとしたり権威を得ようとする過去はもはや、その国際軍事裁判権(常備軍体制・主体性の手本・公務公共性)で否定・制裁されるようになったのが、前期型兵農分離である。

中央に乗り込み、ボロボロだった京の再建事業に取り掛かり、公正さをもって都市経済を大再生させ、朝廷を大いに救済した 1571 年頃の織田氏は、その主体性・国際性(最低限の基準)によって諸氏は恫喝されていったのである。

その頃にはもはや

 

 「領外だろうが、我が織田家の最低限の基準で公認されていない者が、地方・地域の執政権をいつまでも握り続け、許可もなく軍事行動を起こそうとすること自体がもはや反逆(偽善)」

 

と恫喝される力関係に、なってきていたのである。

織田氏の最高幹部のひとりとして、その大変さと重要性をよく理解できていた羽柴秀吉が、それを引き継ぐ形で、より具体的に全国に、士分側(公務側)とそれ以外の庶民側とで、ついに戸籍的に規定・制度化していったのが後期型兵農分離(上から下までの身分統制令)である。

下への身分統制令においてはよく「刀狩り」という言葉がよく使われるが、「刀狩り」は厳密には、いうことを聞かない「勘違い半農半士」らへの恫喝制裁のための布令だったといえる。

豊臣秀吉は全国に、正式な士分待遇も、その永代的な雇用主従関係もない下に、槍、弓、鉄砲、薙刀などを始めとする武具を没収して回ったが、ただしよほど問題の多い地域と見なされなければ、大小の日本刀(小太刀、大太刀)だけは大目に見て没収はしなかった。

豊臣秀吉は

 

 「何の国際品性もない旧態の半農半士どもが、非同胞否定だけでただ偉そうに騒ぐばかりで、庶民同士の助け合いなど全くできておらん地域ではないか!」

 

と見なした所だけは、日本刀まで根こそぎ没収して回った、ということのようである。

豊臣秀吉の天下総無事令・身分統制令によって、全国の有力者たちが一斉に家格裁定がされ始めて「人の上に立つ器ではない」と格下げや改易をされてしまったような有力者の支配地域ほど、それだけその地域の等族社会化も進んでいない傾向もあった。

武具の没収においては、態度の良かった地域については恐らく、割の良い金貨・銀貨を渡すことの平和的な買取が行われたのではないかと、筆者は見ている。

武具が大量に没収されたため、古びたものは鋳直されて(いなおす。再溶解・再製鉄し直す)、再度の武具の新造や、また建造物の金具、鍋などの生活用品、鉄製の農具、また寺院の鐘や火災警報のための鐘などに、どんどん再利用されていった。

戦国後期までに、名族の末端の大勢が没落していき、半農半士としてすっかり溢れるようになったために、当然のこととして

 

 「ウチは元は名族の親類の家系だった」

 

 「没落してしまったが元は名族の重臣(家来筋)の家系だった」

 

という所を大事にする者もそれだけ多かった。

豊臣秀吉は裁判権(公務公共員の公認)の基準にさえ従えば、問題さえ起こさなければ、そこまでは否定しない寛大さも見せていた。

日本刀は「ウチはこういう家系だった」ことを大事にする証として、その刀を次代に譲ることでそれを代々伝え、それで先祖を大事にしようとする意味もあった。

さらには「事あれば立ち上がって、地域全体・地方全体のために責任(等族義務)をもって刀を手に取り、世のため人のために戦わなければならない」という神道的な伝統も、日本刀をもつ意味として込められていた。(地域によってまばらだった)

ただし日本は戦国期が長引いて無政府状態が長期化してしまった分だけ、織田政権、豊臣政権が出現するまで、閉鎖有徳たちにそこが散々悪用されることになってしまった。

そういう偉そうな曲解でのさばっていた無能(偽善)態度の根底を、織田信長によってついに徹底的に叩き直されることになるが、江戸時代になって「武士道」「刀は武士の魂」が強調されるようになった、その前身といえる所である。

刀の意味は他にも例えば、有力者が正式な士分ではない者に対して刀を授けられるという公認の典礼によって「これで士分の仲間入り」という意味があった。

また士分の者が皆が一目置くような何か大きな手柄を立てた場合、上質な名刀を改めて授けられるという典礼も、領地または何らかの特権が加増される、その士分の家格・格式の大幅な格上げがされるという名誉な意味があった。

そうした戦国期の格式の風潮が元となって、江戸時代の庶民の「名字資格・名字帯刀の資格」の由来として、幕府公認の庶民間での家格・格式の優先権の基準として許容されるようになった。

豊臣政権では、日本刀は没収された所と没収されなかった所とあったが、従来の伝統を全ては否定しなかったからこそ、のちの徳川政権時代でも、そこが許容されるようになった。

織田信長が全国的にやろうとしていた、従来の庶民同士の閉鎖上下の解体を、豊臣秀吉が代行するように、庶民にも責任(等族義務・教義性)をもたせる意味で、身分統制令で改善させていった。

まずは、下の手本にならない無責任(無計画・無神経・無意欲)な上同士の争いを止めさせ、だらしない上から順番に格下げ・排除されていき、上の悪影響に巻き込まれる下同士の勝手な正しさ(勝手な上下関係)の乱立問題を、ついに止めさせた。

中央裁判権の教義性(健全化するといえるような最低限の基準)をもって、その基準から賞罰されることを全国に認めさせた、その前例の姿こそが、まさに法治国家の実現だったといえる。

日本全体の上から下まで、最高裁である中央政権による意見提出と状況回収の法的手続きという、本来あるべき法治国家を認識させることになった、その大きな社会性の引き上げをすることになったといって良い偉業である。

豊臣秀吉は、庶民に対し「5人組・10人組制度」という実験的な制度も布令している。

これは具体的な法制化はしなかったものの、のちの徳川政権時代でも多少の導入もされ、大きく影響することになった。

この「5人組・10人組制度」は、その人数が重要だった訳ではない、要するに「庶民に健全な社会性に自発的に向き合わせようとするための連帯責任制度」を目的としたものだった。

農村や商業地ごとに、庶民単位で連帯組を作らせて、よく助け合って努力できていると評価された連帯組は法的に有利になっていき、逆に自分たちのあるべき責任(等族義務)を、人に押し付け合うことしか能がない連帯組だと見なされると法的に不利になっていき、連座制で罰則が加えられるという意図のものだった。

「自分たちで何とかしなければならない」所の基準まで「品性意見として確認・整理・提出する」こともせずに、ただ上や外に偉そうに要求して保証を得ることしかしなくなる無能(偽善)を減らす意図だった、まさに荀子主義的な「怠け者禁止令」制度だったといえる。

これは例えば、10人の同業組合単位として組ませた時に、その中のどうしても1人が不真面目で足をひっぱることしかしない場合は告発してもよく、他の組のやる気のある者と、そこまでやる気のない者とで、どんどん入れ替えていくという意図のものだった。

意欲がある者同士と、意欲が大してない者同士で組ませることで、庶民の中でも頑張った者たちは頑張っただけの優先権が公認されるような、健全な集まりになるよう奨励していくという、人間選別的な政策だった。

ただし本当にこれをやろうとすると、かなりの整備時間もかかる政策だったこともあり、これについては実験で終わってしまった。

ただしこの実験で豊臣秀吉が庶民に対して強調したことによって

 「これからは、そういう時代になっていくのだ」

 「庶民側も、自力努力が評価される分だけの保証を、公正に要求し合わなければならない責任(等族義務)があるという考えも、大事なのだぞ」

という、のちの江戸時代の庶民たちへの労働意欲に、かなり良い影響を与えることになるきっかけになった。

豊臣秀吉が「自分は最下層庶民出身者であり、それらの味方である」を連呼し続けて、手本にならない上級武士や、閉鎖上下で威張り散らしているだけで何の手本にもならない半農半士(閉鎖有徳)たちが打ちのめされていったからこそ、その説得力も大きかった。

徳川政権の幕藩体制時代になると、豊臣政権までに施政されてきたそうした経緯を元に、農村単位での庶民としての責任(等族義務)が制度化されていった。

今まで曖昧な所が多かった庄屋(名主・なぬし・みょうしゅ)の立場も、幕藩体制時代になると「半分は公務側・半分は庶民側」として法的に整理・規定されるようになった。

農村ごとの庶民政治の役職は責任(等族義務)ある適任者が人選されなければならず、労役や納税は連帯責任で負担されなければならない管理責任が、庄屋に求められた。

かつての地元の顔効きでもあった半農半士も、皆の面倒見が良かった責任(等族義務)ある者が誰なのかを基準に改めて選別されるようになり、まともな者が農村区画の各代表の庄屋として選出されていくという、法的な民政意識も育つようになった。

これは織田信長と豊臣秀吉のおかげだったといえ、法治国家化に向けてのその貴重な良い流れを、徳川家康も壊さないように工夫したからこそ、それも維持し得たといえる。

困っている農家があっても、同じ農村内なのに皆が知らぬ振りで助け合わなかったり、農村で何か問題があった時に「ウチの責任じゃない」感ばかり出して、対策案や展望案を皆で持ち寄る助け合いができていない農村にさせないために、庶民政治の連帯責任制が意識された。

だからこそ庄屋の管轄下の、百姓代と組頭(村の役職者)の選任の由来も、かつての半農半士の中では面倒見が良く頼りになる方だった、比較的まともだった家系の者から選ばれる傾向も強かった。

江戸時代になると、庶民の帯刀の格式が整理されて「刀を所有しても良い者」「それが許されない者」で制定されていくが、そうした理由から庄屋と百姓代は、名字資格または名字帯刀の資格を有している者も少なくなかった。

庄屋も百姓代も、品性ある元武士だった由来が強い者から優先的に選出しておいた方が、藩と交渉しなければならない時に、少しでも説得力の足しできるという利点もあった。

医療技術も乏しく、健康管理の方法も弱かった時代、例えば農家で子供を残したまま両親が若くして急死してしまう場合なども、いくらでもありえることだった。

すると「ウチは関係ない」ではなく、万が一に備えて、遠縁でもその家系の弟がそこの養子に入るようにする、といった予定なども話し合っておいて、困った時は皆で面倒を見合う助け合いができているかが、庄屋はそういう手続きの管理責任も問われるようになっていた。

年貢の納期になると「納税できていないあの農家が悪い」という農家ごとの言い訳に、藩の代官は耳を貸さなかった。

そうではなく「この農村では、合計として何石分の米俵がとにかく納税されなければ、この農村全体(庄屋単位)が追徴対象になる」ことしか追求しなかったためである。

そのため「法的な責任(等族義務)を確認(尊重)し合って助け合わなければならない」所が明らかに欠落しているような、その最低限の自力努力を怠けてばかりの迷惑な農家は「助ける義理などない」という枠組みに扱われる「村八分」状態にされた。

この風潮は、実験に終わった豊臣秀吉の「5人組・10人組制度」の影響がかなり手伝っていたことを窺わせる所である。

徴税請負人であり、庶民への直接の面倒見役でもあった、農村のまとめ役の「庄屋(名主)」というこの立場の前身は、親政(天皇政治)から武家政治に切り替わる鎌倉時代の前後あたりまでは「小名(しょうみょう)」と呼ばれていた。

「大名」も元々は意味も違い、この小名の単位を統括・指導する代表責任者の単位として、もっと小さい単位のことを「大名」と元々は呼んでいた。

鎌倉時代・室町時代よりも、法(社会性)の整備がもっと進んでいなかった、世俗権力の制定の走りとなった武家法典もまだなかった時代だったからこそ、かつては階層もそこまで具体的ではない、抽象的な意味も強かった。

武家社会以降の中世には、人口も少しずつ増えて農商業も発達し、まだ自給自足が強かった中でも人々も段々と分業化を体験していくに連れ、階層が曖昧だった「小名」は使われなくなり、具体的な支配下の意味が強かった名主(庄屋)の方が単位的に使われるようになった。

大名の意味も、元々はその小名を統括する代表領主という、もっと小さな単位の意味で使われていたのが、武家社会以降はどんどん権威的・責任的な重みの意味がつくようになっていった。

戦国期には1ヶ国をしっかり一円支配(いちえん=地方全体の裁判権を掌握)できていたような実力者、また2ヶ国、3ヶ国と支配力を身につけたような強力な代表格たちのことを、群雄大名や戦国大名と呼ぶようになった。

江戸時代の大名は、幕府に藩という単位の公認規定で区切られた地方領主、つまり藩主のことを指すようになり、格式に応じて譜代大名外様大名と呼ばれるようになる。

室町政権が崩壊して戦国期に向かった、その厄介な一因には、この小名時代の旧態慣習(政癖)が続いた弊害で、不健全が助長されていたせいも強かった。

名主(庄屋)は、かつて小名と呼ばれていた頃に有していた名田(みょうでん)という古い行政単位の「小領主特権」の責任範囲の慣習が一向に整備されていかなかった、すなわち低級裁判権(庶民法・納税義務とその代替保証法)が曖昧なまま延々と見過ごされ続けてきたことも、深刻な問題だったのである。

大名と小名の「名(みょう)」の部分は、元々はこの名田(みょうでん)が行政の基準にされていたことに由来している。

法治国家化が日本よりも遥かに進んでいた中国を見習い、律令制が導入された8世紀あたりの日本の地方(州)の区画は、

 

 郡(ぐん)・保(ほ)・郷(ごう)・村(そん)・名(みょう)


という順の大きさの単位が用いられるようになるが、この「名」の部分が、名田にあたる。

室町時代・戦国時代までには、この内の「保」については全く使われなくなったようで、この「名」の単位が元となった名主(庄屋)の単位が「村」の立場と化していき、江戸時代以降も続いた。

江戸時代も後半に入ると「田畑永代売買禁止令」で統制し切れなくなって「失地騒動・質流れ騒動」の混乱を起こすようになるが、それをきっかけにかつての名主(庄屋)の「小領主特権」の慣習が逆流・再浮上するような形になってしまい、士農工商の建前もどんどん崩れていく原因になった。

江戸時代後半には、悪化の一途をたどる経済社会の中で、幕府もろくに対策できなくなっていき、貧窮していく一方の庄屋とその管轄の農家(百姓)たちも、どうしていいのか解らなくなっていた。

給料の未払いが長期化した下級武士たちと、農家の貧窮を、幕府が責任(等族義務)をもってろくに対策できなくなってしまったから、そのしわよせが全て庄屋に集中してしまったことに、とにかく起因していた。

一向に幕府が対策できないでいたために、どうにもならなかった庄屋が農地その他権限の売買をせざるを得なくなってしまい、今まで藩が規定していた庄屋の権限・区画がどんどん崩れていく原因になった。

幕藩体制の身分統制(権限統制)とはもはや関係なくなる形で庄屋同士の優劣ができていってしまい、大地主化(権限拡大)していく有力庄屋を増やす原因になった上に、彼らが武士の縁を強めて権威をもち始める原因になった。

これらは庄屋たちの野心どうので行われたというよりも、貧困していく一方の農民を幕府がろくに救済できなくなったその全負担を、庄屋に押し付けるも同然の黙認をし始めたことで、庄屋層を窮地に陥らせたことが、そもそもの原因だった。

経済全体の甚大な全負担を一方的に押し付けられるのみの庄屋が、どうにもならなくなっていたために、幕藩体制の建前(裁判権)をついに無視する形で農地やその他の権限のもはや自由取引に等しい横行が始まってしまった。

庄屋が豪商を巻き込んで、どうにか負担を処理していったことがきっかけで、今まで公認されていなかった、庄屋の具体的な権限の拡大を黙認してしまう前例を、幕府は許してしまった。

各藩もそれぞれ藩士への給料の未払いが長期化し始め、貧窮するようになっていた中級士分・下級士分たちをろくに救済できなくなっていたため、権限が拡大されて力をもち始めた庄屋たちに藩士たちも頼り始め、庄屋がそれらを救済する傾向が強まってしまった。

中級士分・下級士分・その正規雇用の中間(ちゅうげん)たち、さらには豪商たちとの縁組を強めるようになった庄屋は、ますます権限が拡大されていき、士分と庶民の境界もどんどん曖昧になっていった。

皆がそうだった訳ではないが、有力庄屋の管轄の百姓代・組頭たちだけでなく、役なしの一般百姓(農家)までもが富裕層入りしたに等しい者も現れ始め、百姓代以下と下級武士・中間たちとの結び付きを強める者も出始めたために、余計だった。

幕府は「庄屋の分際で、非公式に勝手に権限を拡大しおって!」と言いたくても、現実問題として「そうおっしゃるなら、それなら貧窮に陥っている農家と下級武士たちへの救済を、幕府に是非対策して頂きたい」といわれてしまえばそれまでだった。

上少下多のひと握りの上級武士たちは、どういう形であれ大勢の下級武士と大勢の庶民という階層が保たれるからこそ、その上級武士の存在価値が維持できるのである。

江戸時代も後半になると、幕府の経済対策は完全に行き詰まりをみせていて、何度も改革は試みられたものの振るわないものばかりが続いた。

そんな中で、江戸時代前半のままの統制方法をただ強引に当てはめ続けるのみでは、大勢の下級武士を全て召し放ち(庶民化)にするのも同然になってきていた。

上級武士が下級武士を保証するからこそ、下級武士たちが上級武士の価値を維持するための防波堤になるというその関係を「何でも良いからとにかく維持する」ことがされなくなれば、それは上級武士の存在価値も維持できなくなることを意味する。

つまりもし仮に全ての下級武士を「手当ての支払いができなくなったから」といって一斉に庶民化してしまった場合、上級武士を支えようとする義理(契約的道義)など日本のどこにもなくなってしまい、政体(幕藩体制)の否定になるという矛盾に、江戸時代後半はまさに直面した。

江戸時代後半になって、下級武士たちの面倒を代わりに見始めるようになった庄屋・百姓の権限を、江戸時代前半の時の権限に戻そうとすることは、下級武士を体裁上すら維持できなくする原因になり、武家社会自体が一気に崩れていくことを意味していた。(後述)

江戸時代前半では通用していた、庄屋(納税と労役)に対する幕藩体制の強気の統制も、江戸時代後半になると逆に庄屋側が

 「上のどういう展望があっての、その重税や労役の規定の受け入れ要請なのか」

 「そうせよと言われ、今まではやむなく受け入れてきたが、大変な想いをさせられるばかりで、今まで悪化する一方だったではないか」

 「だから上の責任(等族義務)として、今までのことと今後についての説明(約束)がないと、無計画な規定にこちらも簡単には受け入れる訳には参りません」

を問う側の立場としての庄屋の意見も、強まっていった。

藩が庄屋を困らせることは、農家の荒廃に繋がるだけでなく、庄屋に支えられるようになった者が増え始めた下級武士たちを困らせて恨まれることに直結するようになり、そんな傾向ばかり強まる幕府も、完全に行き詰まりを見せるようになっていった。

幕藩体制の統制が崩れ始めた、この奇妙な庄屋主導の民政力強化は、だからといって直ちに閉鎖有徳化や武力闘争に発展することはなかった。

そこは織田政権・豊臣政権時代からの、意見提出と状況回収という法治国家化(専制政治化・等族義務化・国際品性化)を、それだけ人々に理解させることができていた、偉大な所だったといえる所である。

特に庄屋(名主)の責任(等族義務)のあり方が、大いに健全化(民権化)されるようになっていたのは、本当に織田信長と豊臣秀吉のおかげだったといえる。

室町崩壊の大きな一因になっていたのも、旧態の支配者ら(三管四職ら、守護大名・守護代ら、郡司・郡代ら)があまりにも乱暴だったために、ただでさえ小領主特権の境界が曖昧だった庄屋層(名主層)を凶暴化させ、閉鎖有徳化させる原因を作っていたのである。

上に甘いばかりの下品で乱暴な旧態の支配者らの多くは、それらよりは下への面倒見の良かった最有力家臣たちから恫喝され始めて、下克上的に立場を交代させられるようになったのが戦国時代である。

織田信長がついに上から順番に旧態主義を徹底的に叩き直し始め、上からの最低限の手本を改革し始めたからこそ、今までの上の悪影響で凶暴化して閉鎖有徳化し続けてきた庄屋層(名主層)も段々改めるようになり、本来のあるべき庄屋(名主)のあり方も、一気に健全化されていったのである。

室町3代将軍の足利義満の時代、日本が始めて経験することになった大生産・大物流・大金融の経済社会の到来後には、それに対応できるだけの室町幕府の裁判権の整備が、全く間に合わなくなっていった。

戦国後期(室町末期)に織田信長が出現するまで、この庄屋(名主)の「小領主特権」の責任範囲がろくに整備されてこないまま150年近く過ごされてしまったために、その閉鎖慣習も中途半端に効力を有し続けてしまっていた。

上級裁判権が一向に整備されずに、主体性(選挙性)が欠けた上の戦いが続けられたことで、低級裁判権の整備も一向に進まず、不都合側に立つようになった半農半士(地侍)と地域寺院(下の旧態聖属特権)が結び付いて閉鎖有徳化していくという、延々の負の連鎖を、織田信長がついに断ち切った。

織田信長がついに、上から順番の上級裁判権(上からの公務公共性の等族規定・家格家長保証権)を整備するようになったからこそ、低級裁判権(庶民法・庄屋法)の問題も整備されるようになり、豊臣秀吉が法治国家に向けて、そこがしっかり制定されていくようになった。

従来通り上(自分たち)にただ甘く、下(外)にただ厳しいまま過ごしてきただけの「上(自分たち)から最低限の手本を改善できたことがない」集まりに、次代たちへの社会全体の公共性・健全性を向上させられる訳がないのである。

上(自分たち)を叩き直すこともできない者、つまり上の責任(等族義務)の重さから順番に、公正さをもって厳しさ(その時代その環境その目的に合ったあるべき国際規律・等族義務)を向けられない者が、下(外)を健全化できる訳がないのである。

ただの偽善性癖に過ぎない旧態偶像権威や数物価値のいいなりのままに、偉そうに人格否定(当事者性否定・主体性否定・信念否定・体現体礼否定)し合うことしか能がない、何の荀子思想も啓蒙思想も出てこないような下品で汚らしいだけの今の公的教義のような産業廃棄物どもから、国際品性(等族義務)の手本など生じる訳がないのである。

 

次も、関ヶ原の戦いまでの日本は、どのような様子だったのかに関係することを、まとめていく。