近世日本の身分制社会(058/書きかけ143) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 織田信長の裁判権改めと、「ジャガイモ」の歴史の、啓蒙主義の共通点 - 2021/01/20

織田政権時代の

 旗本吏僚体制

 教義性重視の士分の公正化・健全化。武家屋敷の強制収容と家格・格式・家長権改めによる等族義務の自覚化

 常備軍体制

 治安軍体制・前期型兵農分離・正規軍化による国際軍事裁判権の構築

 教義改め体制

 閉鎖自治権の武力運動を起こそうとする閉鎖上下・閉鎖正義の乱立の根絶。閉鎖有徳狩り

 楽市楽座体制

 閉鎖有徳狩り・公正な奉行所と役人の設置。産業の自由化奨励による意欲向上と庶民同士の格差緩和

などを根幹に、それをよく把握していた豊臣秀吉がのちに、それらを工夫・改良する形で新政府(豊臣政権)を設立していった。

豊臣秀吉の、天下総無事令と身分統制令(後期型兵農分離)はその進展型だったといえ、それがそのまま江戸時代の幕藩体制の大きな手本になった。

織田政権がやったことはいずれも、あらゆる旧態価値を一気に改めさせて日本を変えなければならなかった、責任(等族義務)を示さなければならなかった、上の誰かがやらなければならなかった新体制だったといえる。

ここで、関係なさそうで共通点のある、ヨーロッパで多大な影響を与えることになった大事な食品のひとつである、ジャガイモの歴史についてまとめたい。

ヨーロッパでは、ジャガイモはどんな経緯で、どのように見られ、どのように扱われていたのかの歴史について、ざっとまとめる。

ジャガイモは、現在では常用食のひとつとして重視され、世界中で盛んに栽培されている大事な食品だが、最初はそうではなかった。

人々の生活を支えてくれる、栄養価にも優れている食品のひとつのはずだが、ヨーロッパでジャガイモの存在と出会った最初は、その貴重な有用性がなかなか認められず、悪い食品扱いにしていたという、今では考えられないような経緯の歴史である。

ヨーロッパからアジアに波及していき、そう時間がかからずに16世紀末の日本でも間もなく、ジャガイモと出会うことになるが、日本でもその事情が少し共通している部分もある。

まずヨーロッパでは、13世紀までに産業革命と人口増加が目立つ大経済社会を迎え、時代にあった法(社会性・裁判権)の整備が間に合わなくなり、経済権益を巡って戦乱も絶えなくなり、著しい教義崩壊を起こすようになる。

 

さらに黒死病(ペスト)の大発生によって、時代に合っていない公的教義(教皇庁体制)など何も機能しなくなったことをきっかけに、それが上から下まで見直されることになったのか、人文主義(個人努力を尊重し合う教義整理)の台頭である。

 

15世紀以降に法(社会性・裁判権)のあり方が見直されて、経済成長も再び立ち直れたのも、暗に地方聖属が公的教義一辺倒の今までが、人文主義で改められるようになったことが、多大な影響を与えていた。

 

15世紀ではもうひとつ、ヨーロッパの今までの観念も改められることになったのは、大航海時代の影響である。

ポルトガルの航路技術の進展をきっかけに、大西洋側の陸地の探索と海流の調査が大幅に進んだことで、今までの地中海貿易とバルト海貿易から、新大陸(アメリカ大陸)貿易とアジア貿易が一気に可能になった。

 

16世紀に入るとどんどん遠くへ航海されるようになり、ヨーロッパには存在しない様々な交易品や、ヨーロッパにとっての新種になる植物他、小動物なども盛んに持ち帰られるようになった。

当時の悪名高い航海士・征服的入植探検家(コンキスタドール)として、いつも名前が挙がるのが、まずはコルテスピサロだが、ピサロは新大陸(アメリカ大陸)の南部のインカ帝国(今のペルー)に踏み込んで、かなり暴力的に征服した。

このインカ帝国との接触をきっかけに、16世紀にヨーロッパに持ち帰られるようになった重要な植物のひとつに、ジャガイモがあった。

16世紀以降も天候不良や植物の病気の蔓延などで、相変わらず食糧事情は不安定になる場合も多かった。

 

そのたびにヨーロッパの多くの人々が飢餓に苦しんだのを、このジャガイモによってついに大幅に改善されることになるが、そうなるまでの道のりは、実に大変なものだった。

ジャガイモはのちに多くの人々の飢餓を救い、結果的に経済社会の安定性を支えて産業改革を手助けするほどまでになった食品だったが、そのジャガイモの有用性が認識されるまでには、非常に時間がかかった。

ヨーロッパでは、16世紀にジャガイモがインカから伝わってから150年近く経った、18世紀になってからようやくジャガイモが本格的に栽培されることになった。

まず、その原産地だったインカ帝国でのジャガイモが、どのようなものだったのかについて触れる。

当時のインカで扱われていたジャガイモは、今よく食されているものよりも小型の種類のものを、主要にしていた。

インカ帝国(今のペルー)は、海沿いは低地の熱帯地だったが、アンデス山脈側は、気候は低温という、場所によって気候もだいぶ変わる国だった。

ジャガイモは、温度には左右されない上に、土壌の条件もそれほど厳しくなかったために、場所には左右されずに育てることができた。

ジャガイモは、とりあえず雪で地面が凍ることさえなければ大体は育てることができ、インカの人々は毎年、保存用のジャガイモも多く栽培していた。

保存用のジャガイモは、寒い気候の所で乾燥させて水分を抜いてしぼませ、それを布などで包んで密封し、冷蔵庫代わりに地中に埋めて貯蓄する、という保存方法によって、それで10年は保存できたといわれている。

10年も保存できたということは、インカ帝国ではいざ飢饉が起きても、深刻な食料危機が起きてもこの保存用のジャガイモ常備によって、かなり支えることができていたと思われる。

ヨーロッパにジャガイモが持ち帰られた当初、地位の高い貴族たちや裕福な都市の富裕層らは、このジャガイモに関心は示したが、食品としてよりも「どんな生態の植物で、どんな花が咲くのだろうか」という所ばかり研究していた。

植物研究はイギリスが特に熱心だったが、ヨーロッパにはない花が持ち帰られると高値で取引されたため、航海士・探検家たちもヨーロッパではなかなか見られないような珍しい花を見つけると、それも熱心にもち帰った。

ヨーロッパの貴族たちは、貴族品性を少しでも良くみせて、より品格を認めてもらおうとする交際性が強かったために、庭園や花壇の造形のことに熱心だった者も多かった。

他ではなかなか見たことのない花が、自分の邸宅の庭園や花壇にあったりするだけでも、品性的な強みの自慢になった。

中級貴族たちは、上級貴族たちに良い所を見せて好印象に認知してもらい、あわよくばその次女や三女などとの有利な婚姻関係を築いて、自身の家格を有利にしたいと熱心な者が多かった。

だから貴族たちは、花(植物)のこと、音楽のこと、詩のことといった、品性に関係する学芸のことに人よりも少しでも詳しかったりするだけでも、貴族の品性としての強みになった。

ジャガイモは貴族たちに珍しがられて、食べ物としてよりもその生態と花の研究のことばかりに関心が向けられていた。

一方で庶民たちは「飢饉が起きた時の、窮地の助けになるのではないか」と関心を寄せて、庶民の間では栽培はされるようになったが、ただし非常食扱いだった。

庶民の間では非常食扱いとして波及したに過ぎず「ジャガイモは商品価値は低く、取引対象にならない、換金作物には全くならない」という認識が最初に定着してしまったために、専用栽培は一向にされていかなかった。

15世紀から16世紀にかけて、経済復興も目立つようになり、天候の良好が続いて食糧事情が安定すれば、経済景気も安定したが、しかし天候不良が続いて作物も不作続きになると、人々も飢餓で苦しんで経済事情も大きく悪化していく問題は、なかなか解決されなかった。

麦が商品価値の高い主要食品として熱心に栽培されていたが、天候が良好だったとしても、植物の病気である麦角菌(ばっかく病)の蔓延で麦が全滅することも度々だった。

そのたびに飢饉で人々も苦められてきたが、ジャガイモがそれを大いに救済することに結果的になる有用性には、ずっと着目されないでいた。

ジャガイモが、飢饉に備えた保険のオマケみたいな扱いしかされなかったのは、それまでの政権・特権階級の上級貴族たちの風潮に、まずは原因があった。

「ジャガイモは庶民たちの非常食」という印象ばかりついてしまったために、貴族の間でも「所詮は庶民の非常食に過ぎないジャガイモ」を常食にしてしまうと「いつも貧困に窮している、問題の多い貧乏貴族だと見なされてしまう」という風潮ばかり、根付いてしまっていた。

ジャガイモは「貧者のパン」と呼ばれるようになってしまったことが、貴族たちが政治的に「花としては貴重だが、食品としては麦よりも遥かに格下」と価値を認めない風潮を作ってしまっていた。

16世紀にジャガイモがヨーロッパにもたらされてから、それから150年近く経った18世紀になって、ようやくジャガイモの食品価値が見直され始めるようになる。

しかしその見直しも、政治権力(裁判権)で制御して、改革しなければならないほどの、実に大変なものだった。

17世紀にも戦争と飢饉が度々続いたことで、ヨーロッパ全体の経済も不安定になり、18世紀に入るとそのしわよせでどの地方も貧困に苦しむようになっていた。

とにかく食料の安定性を欠いたために、どの地方も国力が著しく衰退し始め「国際品性ある文化的な国家の体裁」を維持している余裕など、どの諸侯もなくなってきていた。

そんな中、ドイツ北部のプロイセン(元ドイツ騎士修道会領。教皇庁・ローマと手切れをする形でプロテスタント国家として独立)の国王のフリードリヒ2世が、この深刻な食料危機に向けて、ついにジャガイモ政策の強行に乗り出した。

フリードリヒ2世は「農地従事者は、各面積の規定に沿ったジャガイモを植えなければ、重い罰則の対象とする」と布令し、そのための監視役の役人を手配して、徹底的なその監視に当たらせた。

18世紀になって急にやり始めたフリードリヒ2世に対して、プロイセンの庶民たちの皆が「なぜプロイセン政局は、商品価値などないはずのジャガイモの栽培を強要するのだ!」と一斉に不満を挙げ、顔を苦痛に歪ませた。

今まで麦を始めとする換金作物を育てていた農地に、これからは規定面積分のジャガイモも栽培しなければならない法(裁判権)が布令されてしまったために、皆が「そんなバカな話があるか!」と、かなりの不満を挙げた。

今までオマケ扱いされてたジャガイモを、前例もないままその作付けが国策として強要されることになった。

まるでジャガイモを麦と同格に扱おうとしている政局に対し、プロイセンの庶民は、他国の笑いものになってしまうのではないかという風評の恐れもあっての、庶民たちの怒りだった。

農業従事者の中には、途中でジャガイモを掘り返して、他の作物を植えてしまった者も後を絶たなかったが、国王は役人に見張らせて「重罪として連行するぞ!」と庶民を脅しながら、徹底的に植え直させていった。

その国策の効果は、すぐに現れた。

今までは「飢饉になってからジャガイモに頼ればいい」という後手後手のやり方だったために間に合わずに、飢饉にいつも苦しんでいた姿も、プロイセンでは一気に改善されていった。

「ジャガイモを主食にすることは恥でもなんでもない、尊重するべき大事な食料である」ことを国策として奨励したことで、プロイセンではまず食料問題が、飛躍的に解決されていった。

食料危機に振り回される問題が急激に改善されていったからこそ、改めて農地を拡大して、他の換金作物を作付けできる余裕も生まれていった。

手工業生産者や物流といった商業経済も、今までは食料不足が起きるたびに各業界も崩壊してなかなか育たなかったものが、崩壊しにくくなったことで国家全体が安定し、産業も成長できるようになった。

プロイセンの財政は急激に豊かになっていき、安定して軍の再整備もできる余裕も生まれ、国際規律ある、優れた強力な国防軍を育てる余裕まで出てきて、諸侯に睨みを利かせて国威を見せつけるようになった。

豊富なジャガイモの貯蓄によって大軍を長期維持できる体制もすっかりできたために、長期戦になったらあっという間に食料不足に陥る他国はプロイセンと戦おうとしなくなり、和解するようになった。

ジャガイモの有用性を見直して、国際的な国作りに熱心に取り組んで平和をもたらした、プロイセンのフリードリヒ2世のあり方には、ヨーロッパ中が驚いた。

ジャガイモは麦よりも育てやすかった分、作るのが手間な麦の方が依然として商品価値は高かったが、ジャガイモのあるべき商品価値もやっと見直されていった。

フリードリヒ2世はまさに、ジャガイモの重要性をヨーロッパ中に訴えたも同然となった。

今まではジャガイモは、花として重要だったに過ぎず、食品としては麦よりも遥かに格下の底辺の食べ物だという風潮も、プロイセンの影響によって段々と改められていった。

プロイセンのジャガイモ奨励の大成功の姿に、フランスも「それに続け」といわんばかりに、見習い始めるようになった。

プロイセンの庶民たちは、最初は「そんなバカな!そんなバカな!」を連呼していたが、ジャガイモのおかげで国が豊かになったことにすっかり喜び、また国際規律ある軍を再整備して諸侯にすっかり一目置かれるようになった自国に、改めて誇りに思うようになった。

今まで花だけを重視し、「非常食の扱いのはずのジャガイモを食べようとすることは、貴族層・富裕層から卑下されるべき行為」という見方を続けてきた愚かさに、ヨーロッパ中が気付いて反省するようになった。

フランスでは貴族たちが「ジャガイモは花としてだけでなく食品としても、宝石にまさる優れた食品だ」と奨励し始めたために、庶民も今までの食品としてのジャガイモを卑下する見方も改めるようになり、品種管理もされるようになっていった。

その内に「ジャガイモという大地の恵みをお与え下さった神に、感謝しなければ」といい始めて、各地でジャガイモ感謝祭を行うようになり、どこのどういうジャガイモが味が一番良く、どんな調理が良いかを巡る料理大会まで、あちこちでするようになった。

貴族も、花だけでなく食品としてのジャガイモにも感謝と誇りの念をもつようになり、貴婦人は頭や衣服にジャガイモの花を添えるのが上品だという風潮も、できるようになった。

ただしジャガイモが見直されて積極的に栽培されても、飢饉が完全に撲滅された訳ではなく、またジャガイモも病気や害虫に少々弱い性質もあったため、その点では苦労することも多かった。

そのため、そこに不慣れなままジャガイモの大規模な栽培を始めるようになった当初は、ジャガイモを主食にすることの反対派からその弱点も散々指摘され、ジャガイモ畑のあり方を巡って、あちこちで政治闘争も頻繁に起こった。

そうしたかなりの苦痛も体験した上で、大変な政治努力もあった上でそこが克服されていきながら、ジャガイモの有用性がヨーロッパで認知されていったのである。

それだけ大変な改革が必要だったからこそ、ジャガイモがもたらされても遅々として、どこもジャガイモ政策に簡単には踏み込めないでいた、ともいえる。

弱点もあったが、それでも気候や場所に制限なく育てることができた強みが重視され、あちこちで栽培されるようになった。

そして当時のヨーロッパの、たびたびの食糧危機を大幅に改善させ、その不安に苦しんだ人々を大いに助けることになった。

ジャガイモの扱いを巡り、揉めながらもどうにか見直すことができたヨーロッパの18世紀は「啓蒙主義」が強まったことも手伝っていた。

今の公的教義のような、口ほどにもない典型的な悪習と同じで「自分が子供の頃から、そう教えられてきた」という代々の偽善性癖の刷り込みが延々と続けられる愚かさに、責任(等族義務)をもって誰もやめさせようとしなければ、いつまでも終わらないのである。

啓蒙主義は荀子主義的に見ると、そうした非文明的、非教義性を改めさせるための、迷信打破・悪習打破運動のことといえる。

悪習のせいで、目の前にあったはずのジャガイモの優れた有用性に気付くのに、150年もかかっているのである。

その結果だけを見て「当時の人々は愚かだ」などと決してあなどるべきではない、これは現代でも教訓にできる、深刻に共通するべき所といえる。

ジャガイモが永らく見直されなかったこの問題を、フリードリヒ2世がついに克服したことと、織田信長がついに踏み込んだ当時の、あらゆる悪習改めであった裁判権改めは、大いに共通点があるといえる。

 

フリードリヒ2世が最初は非難されたように、今までと全然違うことをやり始めた織田信長も最初は「尾張の大うつけ」などと陰口を散々叩かれた有様だった。

 

織田信長が 1554 年に織田家を継承し、1569 年には中央進出を果たして、1571 年頃にはすっかり中央裁判権(国家構想)の姿を見せつけるようになると、諸氏も慌ててその最低限の基準の背中を追いかけ始めたのである。

啓蒙主義とは、政治面では人々の盲信・矛盾に対して主体性(検証整理や自己研鑽などの説明責任。公正性・健全性だといえる教義性)をもって指摘し、悪習を改めさせていくことを指す言葉である。

特に政治面においては、教義性(社会性の最低限の敷居の上昇・公正化・健全化)に何ら手本貢献(体現体礼)に何も貢献していない地位や肩書きの、踏み潰しの撤廃運動といえる。

本来のあるべき社会性(国際品性・公務公共性・等族義務)への向き合いに、むしろ否定し合うためだけの口ほどにもない

 有名大学だのの学歴とやら

が、筆者のような無位無官無名無学歴の者による、数物権威(偽善)に一切頼らない主体性(説明責任)によって、

 無能(偽善)と恫喝(格下げ)されながら、何の主体性(公務公共性)もないそのただの不都合(偽善性癖)が踏みにじられていく実態

のような事例を「啓蒙」という。

17世紀には啓蒙主義が段々と見られ始め、王政が解体される向きが強まった19世紀には、日本の幕末でも顕著なように、上に全て任せ続けるようなことをついに止め始めたのも、啓蒙社会化が強まった動きである。

その傾向は16世紀から始まっていて、ヨーロッパはその前身として15世紀から16世紀にかけて盛んに取り組まれるようになった人文主義(上が決めた基準にただ従い合って打ちのめし合うことをやめ、個人ごとの品性努力を尊重し合う重視)をきっかけに、それを推進する役割を果たすことになった。

 

日本では16世紀の戦国後期が、その荀子的な啓蒙主義が特に強まった時期だったといえ、そのまさに手本の体現者が、織田信長と豊臣秀吉だったといえる。

エラスムス、ルター、教皇ハドリアヌス6世は、それぞれ著名な人文主義者であり、それらが原動力になってカルヴァンが登場し、プロテスタント主義(今までのような公的教義体制にただ頼ることへの否定主義)がさらに推進し、時代に合った経済社会観が訴えられていった。

16世紀には望遠鏡が日本にも伝来したが、16世紀から17世紀にかけてその技術がさらに向上すると、天文学も進展を見るようになる。

 

コペルニクスガリレオがついに、地動観測と天動観測の天文学の整理を大幅に進めて、物理学的な引力の法則を数学的に整理し始めたために、それを不都合とした公的教義体制から罪を問われて、禁書騒動に発展した。

星を観測し続けてきた天文学者たちや、これまでの物理学者や数学者たちからすれば「ただ天地の摂理を独占して多くの庶民を愚民統制的に刷り込むための、教会の不都合(ただの偽善性癖)」に過ぎない公的教義体制に、表向きは渋々合わされてきただけの話だった。

数学者でもあったガリレオのように、当時の司教座(地方の公的教義)のそういう所にいい加減に古臭く感じ始めるようになって、ついに「学者たちがとうに気付いていたに過ぎない、実際の天文学説・物理学説を、ただ正確に出版しただけ」のことだったのである。

 

地方、地域ごとのその強弱差こそあるが「公的教義の規定してきた教え(皆の認識)と違う」ことを理由に、罪にかけようとした時代に反感をもち始めるようになったのが、啓蒙思想だったといえる。

続いてニュートン(イギリス)が登場し、相変わらず愚民統制のために偉そうに規制ばかりする公的教義(カトリック主義)をまたも無視する形で、前身のガリレオ時代の天文学や数学が活かされる形で、17世紀から18世紀にかけて万有引力の法則、物理学が段々と具体化されていった。

カール5世が亡くなり、フェリペ2世がスペインを継承した 1560 年頃、スペインはヨーロッパ最強の国家として、その教義力(裁判力)にますます差ができていった教皇庁(ローマ)の存在は、スペインがヨーロッパの中心であるためのいいなり教義機関ともはや化していた。

そのスペインのいいなりの教皇庁(ローマ・公的教義)の圧力に、エリザベス1世(イギリス)は自国の自力教義力をもって、今までろくに反論できずにいた、その主体性のなさがイギリスでも深刻に問題視されるようになった。

エリザベス1世の時代になると、教皇庁(カトリック)の圧力、すなわちスペインの圧力からついに決別するべく、プロテスタント国家の態度を鮮明にし、強国スペインに宣戦布告する。(国際軍事裁判権・格式の力量比べ=アルマダ海戦)

エリザベス1世の時代のイギリスは、

 経済対策に優れたトーマス・グレッシャム(貨幣論で有名)

 教義対策に優れたウィリアム・セシル(エリザベス1世にもっとも頼られた、人間性にも優れた相談役だった)

 外交対策・諜報活動に優れたフランシス・ウォルシンガム(鬼謀家だったためエリザベス1世に不気味がられた)

たちに支えられながら、時代刷新の大掛かりな改革が、イギリスでも進められた時代だった。(16世紀後半)

イギリス(エリザベス1世・テューダー朝)に表立って反抗されるようになった頃のスペイン(フェリペ2世・ハプスブルク家)は、大好景気経済の後のしわよせの大不景気に突入していて、実はもう落ち目だった。

全ヨーロッパの貿易権を今までスペインが独占し続け、それでどうにか維持できていたスペイン艦隊が、同じくスペインと手切れして刃向かってきたオランダ(ネーデルラント北部のプロテスタント独立戦争)と結託するようになったイギリス海軍(フランシス・ドレイク)に派手に撃破されると、制海権(アジア貿易権・新大陸貿易権)はことごとくイギリス・オランダに奪われていくことになる。

スペインは、艦隊を再軍備して制海権を取り戻そうと戦いを続けたものの、今まで独占してきたかつての制海権を取り戻すことができなくなっていき、イギリス・オランダによってついにスペインはヨーロッパの中心の座から引きづり降ろされる形となった。

16世紀のハプスブルク家の台頭によって、今まではアントウェルペン(ネーデルラント南部・今のベルギー)とリスボン(ポルトガル)の二大貿易経済を中心に、スペイン・ポルトガルが新大陸貿易(アメリカ大陸支配)とアジア貿易のための航路と体制が開発されてきたのを、イギリス・オランダ(ネーデルラント北部)に全て横取りされた形である。

イギリス・オランダとの抗争を境に、スペイン黄金期のヨーロッパ全土としての強力な裁判権は一気に失われていったことで、その支配下的な立場に成り下がっていた教皇庁(ローマ)も、今までの関係が見直された。

16世紀には帝国議会の影響によって、自力教義力(裁判権)をすっかり身につけてしまった各地の上位貴族たちとそれぞれの地方教区を、もはや公的教義がただ偉そうに従わせる時代遅れのやり方は、完全に終止符が打たれていた。

ドイツ騎士修道会領(プロイセン)も、その中央聖属(公的教義一辺倒主義)と決別・手切れする形で、プロテスタント国家(非公的教義的キリスト教徒)として独立するようになった大きな理由も、そこである。

聖属が世俗権力を統制するという古臭い単純構造が、16世紀の帝国議会の整備によってそこがついに否定されるようになった17世紀以降の聖属(公的教義)とは、上位貴族たちとそれに結び付いていた地方の高位聖職者らが、その公的教義体制を支配下に扱い、下々を再支配する機関として用いる傾向ばかり強まった。

中世までは「聖属が世俗権力に教えて(叙任して)やっているから見返りをよこせ」だったのが、近世からは「世俗権力が聖属の面倒を見てやっているのだから従え(協力しろ)」の関係に逆転したのである。

日本でもここは、織田信長の裁判権改め(教義改め)がきっかけとなって、徳川政権の江戸時代に入ると、そこが段々と現れ始めていく所である。

これは征服的・悪意的にそうしていたというよりも、17世紀以降の、そうせざるを得ない流れだったというのが正確である。

16世紀に大幅な法(時代に合った社会性)の見直しがされてしまったからこそ、それによって「社会観が発達し過ぎると、それに対応しなければならない裁判権も手に負えなくなるから、発達させないように規制していく」その逆の発想に入らざるを得なかったのが、17世紀以降だったといえる。

だから今度は、そこに不満を挙げて啓蒙主義に走る者も、少なからず現れ始めた。

豊臣秀吉についてはともかく、織田信長の天下統一の達成による新政権設立だったら、日本の17世紀以降はそうはならなかった可能性もあるものの、長続きせずに崩壊する可能性も十分あるため、そこはなんともいえない所になる。(本能寺の変の件として後述)

ヨーロッパでは、帝国議会によって最下層の福祉救済が見直されるようになった上に、ハプスブルク家(オーストリア・ドイツ・ネーデルラント・カスティリャ・アラゴン・ナポリシチリア王権)とヴァロワ家(フランス・身分制議会の先駆け)による凄まじい軍事裁判権の誇り合いが繰り返されたことで「下層庶民たちへの、凄まじいほどの銀貨のバラ巻き」も起きて、貧困問題もだいぶ救済されていった。

カール5世(ハプスブルク家)は5万だの10万だのの大軍を毎度のように動員し、フランス軍だけでなく、休息などしている暇などないほどイスラム海軍、またドイツの大規模なプロテスタント一揆とも、散々戦ったことで、庶民間で未曾有の戦争景気が起きた。

そのおかげで最下層庶民たちもその賃金で、人並みの生活を立て直す元手にできた者を増やすことになった。

格差が改善されていったために、今までの都市貴族(パトリシア層。正式な貴族ではない、あくまで庶民の中の特権上層の資産家たち)主導のギルド(商工業組合)体制にそれまで反抗していた、下層庶民たちが市民権や資産を築くための、150年続いたツンフト(特殊組合)体制も、ついに解体されることになった。

それまでは最下層たちがどれだけ頑張っても一向に市民権が得られず、蓄財もできないままだった、庶民同士の上下統制が強要され続けたギルド体制(公的教義的体制)に、ついに最下層庶民たちがそれと決別して勝手に組合を作るようになったのが、ツンフト(特殊組合)だった。

その性質から16世紀のプロテスタント運動と連動することも多かったツンフトも、帝国議会の法(社会性・裁判権)の整備によって、貴族や資産家たちによる福祉事業も推進され、戦争景気も起きて庶民同士の格差もだいぶ救済・緩和されるようになると、その存在も用済みの見なされていった。

議会(政権)から公認など一切されてこなかったまま、貴族的(公的教義的)な旧態序列への反抗が実に150年も続けられてきた異例のツンフト体制だったが、今までは最下層たちの救済の手立てができていなかったから、権力者たちも渋々黙認してきたに過ぎなかった。

しかし16世紀になって格差もだいぶ改善されるようになると、ツンフトは「勝手な正しさを乱立させているだけの、もはや用済みの閉鎖有徳」と見なされるようになり、解体されていった。

その部分は、日本の仏教社会(有徳)よりも、ヨーロッパのキリスト教社会(有徳)の方が、よりあからさまだったといえたかも知れない。

コペルニクスやガリレオといった志が強い者ほど、文明的な発展になるはずの学術の阻害ばかりしようとする、今度は地方の権力者による愚民統制の道具に使われがちだった公的教義体制に、内心では反感的に見られる風潮も強くなっていたのである。

ニュートンの時代、フックライプニッツといった優れた天文学者、数学者が各地で登場するようになり、微分法の精度やその先行者(権威)が誰なのかを巡る、高度な論争まで行われるようになる。

ニュートンはよく「神に疑問をもっていた」「錬金術(物理学)に傾倒していた」などと、そこにいかにももったいぶった紹介がされがちだが、そもそもイギリスがプロテスタント国家としてカトリック(西方教会)一辺倒体制とは決別し、王立協会(政府)がニュートンらのような学者を教授として奨励していた時点で、何ら不思議な話ではない。

プロテスタントからいえば「カトリック(西方教会)のいう全知全能なる神」の、その彼らの解釈の内訳に疑い、ルターのようにそこに否定的になるのは当然の話なのである。

今の日本の公的教義を「全知全能な社会性の教え」であるかのように勘違いし、そんな訳がないことを認めようとせずに、いつまでもその偽善階級制に頼り続けようとする無能(偽善者)どもに筆者があきれるのと、同じ理屈である。

ガリレオもニュートンも、ルターやカルヴァンのように教義面に直撃した訳ではないために、人文主義者・啓蒙主義者という枠組みの見方はされなかっただけで、やっていることは明らかに人文的・啓蒙的である。

キリスト教そのものを否定しかねない、過激な否定の仕方が表向きはできず、文明的な否定に留まったために、そこが解りにくいだけの話である。

ただしニュートンがあまりにも、今までの概念を大きく覆すような研究を進めてしまったために、さすがにイギリス政府内でもニュートンをどこまで許容するかを巡って、議論になった。(旧態宗教と科学の対立)

16世紀の激的なプロテスタント運動を経て、17世紀に入ると、かつてのカトリックとプロテスタントのいがみ合いの姿も、見直されるようになっていたためである。

「今の時代はいい加減に国際問題として、カトリック派もプロテスタント派も、かつてのようにただ非同胞否定をし合うのではなく、元は同じキリスト教徒としての融和的な政策もされなければならない」という見直しがされていった。

イギリスでは、エリザベス1世が即位して国教をカトリックからプロテスタントに切り替えられる、その少し前までは、イギリスでも既にプロテスタント運動をしていた先駆けの派閥を、厳しく弾圧してきた経緯があった。

エリザベス1世もそれで内乱を激化させないよう「プロテスタントの教義をあくまで国教として格上げするだけで、カトリックも許容し保護する」と布令して、どうにか国内の教義対立を抑え込んだが、その因縁関係を和解させることには、かなり苦労している。

ニュートンの時代、その因縁も政治的にはいくらか落ち着きを見せていた中、国内のカトリックをどんどん差別することになってしまうニュートンの考えを全て許容してしまうと、国内の対立だけでなく、改めてカトリック国との国際問題にも支障が出てしまうことが懸念された。

イギリス政府は、国内のカトリックも保護・保証する責任(等族義務)があったことから、科学的なニュートンの影響力が強すぎたことで、むしろカトリック権威の再興もイギリスでは見直されることになった。

 

もちろん、プロテスタント=文明科学的 カトリック=非文明的 という単純構造ではなく、ただプロテスタントに鞍替えして正しい立ち位置に立ちたいだけで、教義性に大したこどわりなどないキリスト教徒も、もちろんいた。

 

ただしプロテスタントでありながら、そういうあからさまな態度を平気で出すような勘違いキリスト教徒は、カトリック一辺倒以上に激しく嫌われた。

 

当時のプロテスタントは、政治学的、数学・科学・物理学的な観点から公的教義体制一辺倒的なやり方に否定的だったに過ぎず、逆にそれを心得ていた上で「カトリック(西方教会)が本筋の伝統」という所の縁同士で固まっていたに過ぎないカトリック派たちも多かった。

 

その枠組みを重視しているだけで、カトリックでもちゃんとしたまともな神学者・法学者もいたため、国内でのまともなカトリック派まともなプロテスタント派の融和的な対話も、だんだんできるようになっていた。

 

実際、プロテスタントのやることについていけないキリスト教徒も多かったために、その受け皿としてカトリック派として収容されていったような相互関係の所も多かった。

 

それをもし、なんでもかんでもカトリック派を弾圧するようでは「それではかつてカトリックがプロテスタントを一方的に弾圧してきた野蛮な態度と、何も変わらないではないか」という所も考慮されるようになり、プロテスタント主導はそこは許容しなければならない責任(等族義務)が自覚されていった。

 

17世紀以降は、この両派は揉めながらでも、その国教、その地域がカトリック主体だろうがプロテスタント主体だろうが、同じキリスト教徒としての融和的な国政・地政ができていない所は、国際品性・格式として段々問われるようになっていったのである。

一方で日本での高度な数学においては、江戸時代には庶民の間で、誰かにいわれるのでもなく独自に流行し、勝手に育っていった。

日頃から農業や商業で忙しかった江戸時代の庶民も、娯楽や学問にも手が回る余裕も出てくると、和算と呼ばれて関心がもたれるようになり、数学専門の書物や学問所もできて、庶民間で数学大会・発表会まで行われるようになって、盛り上がった。

最初は出版も大目に黙認する傾向もあった幕府だったが、江戸時代も18世紀半ばあたりの後半に入ると、特に風紀を乱すとされる人気小説や、また幕府の意向に合わない歴史学・政治学に関する書物の出版の自由も認められなくなり、厳しく検閲されるようになっていった。

豊臣秀吉の天下総無事で日本がついに法治国家の姿を取り戻すようになった頃のヨーロッパでは、イエズス会によっていったんは立て直されたカトリック体制も、その面倒を見ていたスペイン(ハプスブルク家)がフェリペ2世(カール5世の次代)の時代になると、牛耳られるようになった。

そしてスペインの黄金時代の一強時代も終わると、カトリック(西方教会)もまた忙しく転換期を迎えた。

関ヶ原の戦いが起きる 1600 年の前後には、イギリスと結託して同じくプロテスタントとして独立してハプスブルクに反抗したオランダが、日本にやってくるようになった。

後から日本にやってきたこのオランダ人(プロテスタント・イギリス人もいた)たちが、先に来ていた当時は険悪だったポルトガル人(カトリック・スペイン人もいた)たちと揉めながら、互いに豊臣秀吉・徳川家康に熱心に「邪教たちと手切れをして、我々と交流するべきです」と訴え合った。

先行のポルトガル(南蛮人)は、後発のオランダ(紅毛人)のことを「彼らはキリスト教を破壊しようとしている、キリスト教徒のためにならない異教徒です」と訴えた。

後発のオランダ(紅毛人)は、先行のポルトガル(南蛮人)のことを「今のローマ(西方教会)にかつての国際力などはもうなく、彼らは相変わらず偶像崇拝を続ける邪教に成り下がっているだけなので、本物のキリスト教徒である我々ブロテスタントと日本は付き合うべきです」と訴えた。

軍艦を率いてモルッカ貿易(アジア貿易)に乗り込むようになったオランダ船は、険悪関係のポルトガル船(スペイン)に遭遇すると激しく排撃し合うようになり、ポルトガル・スペインが今まで築いてきた日本との交流関係とキリスト教(カトリック)の布教活動も、甚大な支障が出るようになった。

豊臣秀吉がキリシタン禁止令を出した頃のヨーロッパは、今までのカトリック主導からプロテスタント優勢の時代に逆転し始めていた頃で、それまでカトリック(西方教会)式で帰依するようになっていた日本人のキリシタンたちは、その事情を理解できていなかった者が恐らく多かった。

豊臣秀吉はそれをどのように見ていたのかは、よく解らない。

あるいはその意味を大体理解し、西洋がプロテスタント優勢の流れになってカトリック(ポルトガル)が排撃気味になってきているのに、プロテスタント(オランダ)たちとの交流を続けると、その内に国内のキリシタン同士の厄介な騒乱が起きるのではないかと、憂慮はしていたかも知れない。

天下総無事を遂げた豊臣秀吉が間もなく亡くなると、日本は急に政体としてのまとまりがなくなってしまったために、関ヶ原の戦い(日本の総選挙戦)で今一度、政権のあり方が問われ、徳川政権が引き継ぐことになるが、日本も大きな転換期を迎えたように、ヨーロッパの情勢も激変していた。

徳川家康の場合は、吏僚に近い武士として取り立てることになった三浦按針(みうらあんじん。イギリス人航海技術士ウィリアム・アダムスの和名)との出会いで情勢を詳しく聞いていただろうから、だいたい把握できていたと思われる。

日本では 1615 年の大阪夏の陣を終えると、ようやく大規模な戦争は無くなったと思われた矢先、1637 年に大規模な宗教一揆に発展した島原の乱(天草四郎の乱)が起きた。

これに手を焼きつつもどうにか鎮圧に成功した幕府は以後、日本のキリシタン摘発にかなり厳しい態度で宗教制度を整理していくが、この島原の乱がもし起きなかったら、幕府はそこまで厳しくはキリシタン改めはしなかったかも知れない。

これは士農工商の身分制でも同じことがいえるが、当初は孟子政治的だった幕府は、その権威を阻害したり騒動に発展するものでさえなければ、特に江戸時代の前半では、厳しい所は厳しかったが大目に見られていた風潮も強かったためである。

キリシタンは九州に最も多かったが、中部でも東北でも、密かにその根城のような地域になっていた箇所はいくらか残っていた。

豊臣秀吉が発令したキリシタン禁止令以降の日本は、その島原の乱が起きるまでは表向きだけも「キリシタンではない」という形だけ採っていれば、幕藩体制のやることさえ阻害しなければ、仏教を模造した隠れキリシタンであったことも大目に黙認することも多かった。

要するに、幕府の建前(裁判権)に具体的に刃向かう形で「日本での教区領(司教座)を獲得しようとしていたも同然」の島原の乱という大規模な一揆を結果的に起こしてしまったために、幕府も第二の島原の乱を起こさせないために、隠れキリシタンたちを厳しく取り締まりざるを得なくなってしまった。

島原の乱が起きた 1637 年頃には、日本とヨーロッパとの国交は、かつてのポルトガル(カトリック)から、すっかりオランダ(プロテスタント)に切り替えられていた。

その時の騒乱にオランダ人は人道面を考慮し、日本のキリシタンたちと幕府との和解にこそ動いたものの、当時は新興的なプロテスタント国家だったオランダ・イギリスから見ると、険悪な国際関係が続いていた中で、日本のカトリックに味方しなければならない立場に困った。

カトリック式だった日本のキリシタンたちを、何が何でも救済しようとする努力をしなかったというよりも、できなかったというのが正確と思われる。

幕府としては、島原の乱は武力で早期鎮圧して、その力を見せ付けたかった所だったが、かつての浄土真宗の一向一揆の時のような命がけの反抗を見せ付けられてしまったために、兵糧攻めに切り替えられる事態になった。

城に立て篭もった3万以上はいたといわれるキリシタン一揆は、餓死者が出始めた中、幕府軍側からの仏教への改宗を条件の降伏の呼びかけに、誰も応じようとしなかった。

そのため飢餓で弱っていた一揆勢に幕府軍はやむなく攻撃を仕掛けることにして、結局皆殺しにせざるを得なかった、後味の悪い形での終戦となった。

オランダ人たちは、カトリックとはいえ日本のキリシタンたちのことは、なんとかしてやりたいとは考えたが、下手に介入すれば日本との国交に影響してしまう上に、自国での非難の的にもなりかねなかったために、複雑な心情でそれを傍観する他なかった。

幕府はこの島原の乱を理由に「だからキリスト教徒の布教は、これからは何が何でも禁止とし、幕府の許可もなく西洋人が国内を自由に歩き回ることも禁止するのだ」と強調して、この時のオランダ人の態度まで政治利用した。

 

当時の日本は、西洋でのこのカトリックとプロテスタントの問題をよく解っていなかった者が多かった。

 

幕府はそこをとぼけるように、キリスト教禁止の再認識を強調したために、日本に貿易に来ていたオランダ・イギリス人たちから見れば、この時だけはさすがに幕府の陰険なやり方に、内心は腹を立てていたと思われる。

戦国後期の日本人は、有能(教義競争的)な者たちでもキリスト教に帰依した者も多く、当時の日本人はキリスト教はどのように見えていたのかについても、のちほど後述していきたい。

話が少し繁雑になってしまったが「織田信長は、18世紀や19世紀の啓蒙主義者に通じる改革者だった」と先述してきた意味が少しでも伝われば良いと思い、今回紹介した。