近世日本の身分制社会(057/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 豊臣秀吉の奥州仕置き - 2021/01/12

豊臣秀吉が、関東の最大手であった北条氏と対立して小田原城を陥落させ、北条氏が改易されると、日本全域の天下総無事を果たしたも同然となった。

この北条氏攻めの時に、全国への軍役が発令され「この北条氏包囲戦の軍役に従わなければ、豊臣政権への反抗(偽善)と見なして改易」が鮮明にされた。

その軍役に応じない、つまり豊臣政権の臣下として従う姿勢を示さなければ罰せられることが、この戦いを契機に全国にそこが明確化されることになった。

全国に法的に軍役を課して指揮したこの北条氏攻めの事例は

 

 「豊臣政権の中央裁判権(国際品性・国家構想)を上回る組織など、他にないことを全国に認めさせた」


のも同然といえた。

この軍役に結局参加できなかった有力者らは改易されたが、しかし具体的な天下総無事令の介入が東北は少し後になったことで「もうそういう時代になった」ことが自覚させられていなかった地域も多かった。


豊臣氏と北条氏が交渉をしていた 1587 ~ 1590 年の時点で、陸奥・出羽にも天下総無事令は既に通達されていたものの、具体的な介入はまだされていなかったことで、地元では再統一や地方統一がどこも続けられていた。

東北は関東までと比べると、伊達氏のように中央裁判権の認識を強めていた組織もあった。

信濃でいう所の小笠原貞慶真田昌幸のような豊臣政権の具体的な公認者がまだいなかった、その期間が少し遅れた分だけ、中央とのその認識の遅れが出ていた所も多かった。

伊達氏のように、その天下総無事(新たな国際品性・等族社会化)に対応できるよう、急いで懸命に努力できていた所は別だったが、その基準(最低限)で地域の法(社会性)を整備し切れずに改易された有力者も少なくなかった。

関東の北条氏の制圧をきっかけに、その近隣も、東北諸氏も従えた豊臣秀吉は「全国が豊臣政権の傘下に入ったことを、東北の下々にも具体的に解らせる」ために、広大だった陸奥と出羽に向けて大軍を直々に動員し、視察に回った。(奥州仕置き)

「日本全国がもはや、豊臣政権という中央裁判権の指揮下に入っている」という実感が、地位の低い者ほど薄かったからこその、それを具体的に実感させる意味も強かった行幸が、奥州仕置きだった。


 「自身は最下層庶民出身者で、それらの味方である」

 「上同士から下同士まで、豊臣政権の身分規定に公認されていないような、今までその地域だけで通用していたに過ぎない閉鎖上下権威は、これからは許されない」

ことが強調されながら、大軍を率いて東北を巡回し、軍役に従わなかったり失格と裁判された有力者らの、改易や格下げをして回った。

東北の由利郡(ゆり。今の秋田県由利本庄市と、にかほ市)は、豊臣秀吉による奥州仕置きが行われる 1590 年頃まで、郡を巡る戦国前期のような闘争がかなり長引いた地域だった。

由利郡の代表格(郡司・ぐんし)は滝沢氏だったが、由利十二頭という郡内の12人の有力者を滝沢氏は収拾し切れず、実質はその中の矢島氏仁賀保氏(今のにかほ市)の両台頭者による激闘が、延々と続いていた。

この対決は結果的には仁賀保挙誠の勝利に終わるが、全て難読のこの有力者は最初「にかほ きよしげ」と呼ばれ、のちに末裔によって「にかほ たかのぶ」と再確認されている。

 

当時の様子を伝えるために、この地方の小豪族たちのややこしい事情について、まとめておきたい。

矢島満安と仁賀保挙誠は共に、元は信濃の名族小笠原氏から派生した一族(大井一族)で、滝沢氏の力が衰退すると、由利郡の代表格を巡ってこの2者による激しい対決が続いていた。

この由利郡は事情が特殊で、まず郡自体が広大だった上に、最上氏、小野寺氏、戸沢氏、安東氏、武藤氏(大宝寺氏。越後の上杉氏が介入)ら出羽の実力者らの利害に常に巻き込まれ続けたことも、郡の統一が遅々として進まない原因になっていた。

出羽(秋田県と山形県)の広大な庄内地方(山形県南西部)を、武藤氏がまとめたことで、いったんは武藤氏が出羽の代表格に台頭できたものの、その権威(裁判権)は長続きしなかった。

 

一方で、奥州探題の斯波一族の出身の代官として、出羽の元々の代表格であることを自負していた最上氏が、本拠周辺の最上郡(山形県中部)の再統一を進めて本来の力を取り戻すと、出羽での武藤氏と最上氏の立場は逆転した。

 

出羽の覇権争いで武藤氏が衰退したため、最上氏が武藤氏の庄内地方を攻略しようと動いたが、衰退したこの武藤氏に隣国の上杉氏が介入・支援し始め、最上氏の武藤氏攻略を阻止した。

 

最上氏から見ると、出羽の地方統一を阻害・介入してくるよそ者の上杉氏とは、当然のこととして険悪な関係になった。

 

武藤氏(上杉氏)と最上氏で、庄内地方を巡って争った際も、由利郡の諸氏は、武藤派(上杉派)なのか最上派なのか態度を明らかにするよう両者から強要され、庄内地方の争いに渋々参加させられていた。

 

庄内地方を巡って争っていた 1588 年頃の豊臣政権は、陸奥の具体的な介入はまだだったが、出羽では豊臣氏の親交があったこの上杉氏の影響もあって、出羽の介入も強まっていた。

 

武藤氏に介入した上杉氏は、豊臣秀吉の信任もあったことから結局、その介入が容認され、本来の出羽の代表格である最上氏による地方再統一(出羽再統一・出羽の裁判権改め)を不利にしていた。

 

庄内地方の攻略を上杉氏に阻害された最上氏も、豊臣氏に正式に臣従する形を採って「最上氏が出羽の代表格」である公認をしてもらうと、最上義光(よしみつ、ではなく、もがみ よしあき)は次に、由利郡の攻略(再統一)に動いた。

 

由利郡は、周辺に振り回されながらも、ついに矢島氏が仁賀保氏を大きく打ち破り、矢島氏が由利郡を統一しかけていた。

 

その矢先に上杉氏の影響力による豊臣秀吉の、出羽の天下総無事の介入が始まったため、矢島満安に押されて劣勢になっていた対抗馬の仁賀保挙誠には、これが助け舟となった。

仁賀保挙誠も豊臣政権に臣従の形を採ると「上杉派(豊臣派)として、仁賀保氏が由利郡の代表格であるという地位を公認してもらう」動きに出て、仁賀保氏は豊臣政権と、その関係性を強めていった。

仁賀保氏は上杉氏を介して、豊臣秀吉の直臣であることを強調し始めることで、出羽の代表格として由利郡も攻略(再支配)しようとしていた最上氏に遠まわしに反抗した。

 

天下総無事令も強まってきた出羽での、上杉氏の介入の立場を有利にしていきたかったことから、恐らく上杉氏もこの仁賀保氏の動きに肩をもち、最上氏の出羽再統一を遠まわしに阻害したと思われる。

 

仁賀保氏ら由利郡の有力者から見ると、出羽の代表格の名目によって最上氏に由利郡の再支配を許してしまい、それに従わされること自体が、豊臣氏の陪臣格に降格させられることを意味した。

 

それまで最上氏とは険悪気味だった由利郡の有力者らは、最上氏による再支配に屈してしまえば、そのサジ加減でいくらでも格下げされてしまうことを嫌って「我々は豊臣氏の直臣」を強調、すなわち「由利郡は豊臣氏の直轄領」を強調し、最上氏の再支配に反抗した。

 

仁賀保挙誠は何かあるたびに上杉景勝と交友を深め、そういう流れになるように動いたため、郡内の対立者だった矢島氏を除く由利郡の他の有力者たちも、この仁賀保氏に同調して急に結束し始めた。

 

由利郡での代表格を確立しつつあったはずの矢島氏の立場も不利になったため、出羽の代表格を強調して由利郡も再支配しようとした最上氏は、立場が不利になっていたこの矢島氏を利用した。

 

最上義光は、由利郡の代表格が矢島満安であることを強調し、由利郡の有力者らに矢島氏に従うよう、ひいては最上氏に従うよう強調したが、大した効果は挙げられなかった。

単独の旗頭としてはそう大した力ではなかった仁賀保挙誠だったが、その存在に最上義光は手を焼いている内に、豊臣秀吉の北条氏攻めの全国の軍役指令が始まってしまった。

 

小田原城包囲戦の軍役に仁賀保挙誠も派兵し、豊臣秀吉の心証を非常に良くした。

 

結局はこの仁賀保挙誠に、由利郡の代表格であることが直々に公認され、豊臣氏の家臣扱いされたために、由利郡の大部分は豊臣政権の蔵入地(くらいりち・税収地・直轄領)と扱われることになった。

 

厳密には仁賀保挙誠は、豊臣秀吉の重臣・参謀の大谷吉継の寄騎(よりき・与力)扱いにされ、一方のその対立者であった矢島満安は、その後の立場を悪くし、恐らくは豊臣秀吉によって改易された。

そのやりとりに最上義光は、庄内地方の攻略も、由利郡の攻略も結局は上杉氏に阻止され、出羽再統一の邪魔ばかりされたために、内心では相当腹を立てていたと思われる。

 

豊臣秀吉としても、最上氏に出羽を再統一されてしまえば、60万石以上の支配者の格式を公認しなければならなくなる可能性もあり、大領を認めてしまった分だけ制御もしにくくにる懸念からの対応だったといえる。

北条氏制圧後、間もなく「奥州仕置き」による、豊臣秀吉の陸奥と出羽の巡察が始まるが、認める有力者と認めない有力者が明確に裁判され、下々にも豊臣政権の今後の検地(税収調査)や開発の予定や、新たな身分統制(刀狩り)の方針が公布されていった。

最上氏は豊臣政権から24万石の公認保証を受けるが、これまで伊達氏と奥羽全体の代表格を競い続けてきた体裁もあって、58万石の伊達氏との差に内心では納得しているはずなどなかった。

 

関ヶ原の戦いが起きると、東軍(徳川派)として最上義光は、因縁関係があった西軍(豊臣派)の上杉氏と戦うが、徳川家康からその時の働きぶりと、最上義光の将器も高く評価されて、出羽の大領57万石を公認保証された。

 

伊達氏と同格の、出羽の代表格としての、本来の納得の立場をやっと確立できた最上義光だったが、その死去後に収拾がつかなくなるほどのお家騒動が起きてしまい、最上氏は結局改易されてしまった。

 

かつて再支配を妨害された由利郡や庄内地方を改めて支配下におき、開発を進めて国を豊かにしていった最上義光は、表向きは政治はうまくいっているように見えた。

 

最上義光は器量人・名将としての評価も高く、顕在期は善政を工夫して出羽をどうにかまとめていたが、本人が死去してしまった途端に、過去の出羽中の根強い派閥対立も抑えきれなくなって再燃し、最上氏全体の大規模なお家騒動に発展する結果になってしまった。

 

徳川氏はその騒動に多少の猶予時間も与えて、しばらく様子を窺っていたが、一行に解決に向かう気配がなかったために、それ以上事態が悪化して出羽全土の騒乱に発展させてしまう前に、やむなく改易処分することにした。

 

豊臣秀吉から、由利郡の代表格として認めてもらった仁賀保挙誠は、関ケ原の戦いでは大谷吉継との関係を手切れする形で東軍を表明したため、今度は徳川氏の直臣扱いとして公認保証されて、またしても最上氏の家臣化から逃れた。

 

しかし由利郡の有力者らの中で、徳川氏の直臣として認められたのは、郡の上層の一部だけだった。

 

徳川政権による、由利郡の最上氏支配の公認にともない、郡の有力者らの多くは最上氏の傘下の家臣扱いとして公認されてしまい、その時に地元の有力者たちが徳川氏の直臣として認めてもらおうと願い出たものの、多くは公認されなかった。

 

庄内地方の最上氏支配公認でも、同じような状況になっていたと思われ、かつてのそれぞれの地域ごとの親最上派と反最上派が再燃し、それによる避けて通れない人事差別も起きていたことが、最上騒動をより複雑にしていたと思われる。

 

最上騒動の経緯は、豊臣政権の天下総無事令の時代と、徳川政権の幕藩体制の時代に向かう過程の、非同胞拒絶反応(合併アレルギー)の特徴が色濃く出ていた騒動だったといえ、こうした藩主からみた古参たちと新参たちの対立構図は、以後の江戸時代でも顕著に現れている。

 

話は戻り、豊臣秀吉が 1591 年に北条氏を制圧すると、徳川家康の5ヶ国(三河・遠江・駿河・信濃・甲斐)の立ち退かせて、北条氏直の跡地6ヶ国(伊豆・相模・武蔵・上野・下野の一部・下総・上総)にそのまま移転させるという、大幅な転封を強要したため、当時は驚かれた。

この時に徳川家中では「我々松平家(徳川家)先祖伝来の重要地、三河の地を立ち退けとは・・」と、やはり不満の声もかなり強まった。

徳川家康は「三河を立ち退くのは、残念この上ない処置だ」といったん皆の意見を聞いて同調する姿を見せた。

その上で「しかし広大な新地は実質の加増の家格上げになり、皆で頑張って開発すれば200万石にはなりそうだ。皆も気持ちを切り替えようではないか」と説得したため、家中も渋々従うことになった。

旧地5ヶ国の推定は多くて120万石ほどで、新地6ヶ国の推定は少なくとも140万石くらいはあったと思われる。

ただし北条氏時代は、近隣の対立的だった里見氏(安房・あわ・千葉県南部)、佐竹氏(常陸・ひたち・茨城県)、結城氏(下野・しもつけ・栃木県)らが、北条氏に排撃された関東の旧有力者らを煽りながら牽制していたため、磐石でない地域も多かった。

そこを考慮すると、改易されるまでの北条氏のその6ヶ国の支配力(裁判力)の推定は、あって120万石ほどの実効力だったと思われる。

北条氏の跡地への、徳川氏への丸々のこの移封は、豊臣政権の公認保証による「140万石ほどの明確な支配力(裁判力)」だといえ、その姿が法的に実効できたこと自体が、時代も大きく変わってきたと思わせるものだったといえる。

1591 年に関東入りし 1600 年に関ヶ原の戦いが起きるまでの徳川家康は、この新地での農地開発と都市開発を中心とする、道路や橋や水路などの土木建築業に懸命に努めた。

関ヶ原の戦いが起きるまでに、この新領で合計で200万石以上の価値に高めているが、もし旧領のままだったら、開発で180万石も成長させられていたかは怪しい。

政権に許可を得ていない勝手な軍事領域戦が、豊臣秀吉という大器(裁判権・家長権・偽善狩り)によって全国的に完全に禁止される方向に進んだことで、ついに日本はひとつの政権による法治国家化(等族社会化・専制政治化)が実現された。

全国の争いを止めさせ、家格・格式が政権によって法的に整備・裁定される平和な世の中に変えられていったからこそ、そのような大幅な国作りの開発の形も、可能になった。

それまでの武蔵(今の東京都と埼玉県)は、農商業に有利な低地地方ではあったものの、ただし沼地の多い湿地帯で、北条氏時代にも開発は進められていたが、まだまだ開発の余地は多い状態だった。

三河を強制退去させられて関東入りした徳川氏が、沼地を埋め立てて農地や商業地に変えていき、河川と橋も次々と整備されて、今の東京都の地形の前身が作られていった。(関ヶ原の戦い以後もどんどん開発が続けられていった)

新たな時代の身分統制令に向けての、徳川家康の関東へのこの大移封の狙いには、色々な意図が見られる。

まずは、地縁で長らく根付き続け過ぎていた有力者と庶民との明確な切り離しの、大手からのその手本実験の意味も強かった。

越後を本領とした推定90万石~100万石ほどだったと思われる上杉景勝も、少し後に同じような大移封が指令されている。

越後とその近隣を立ち退く代わりに、陸奥南部(福島県)の大部分と、陸奥中部の一部、出羽の一部を加えた推定120万石ほどの、こちらも格上げの加増移封だったといえるが、伝来の越後退去に、上杉家中もやはり少し動揺している。(この移封の意図は後述)

これは江戸時代に目立った、何かあると藩を加増または減封で頻繁に国替え(引越し移転)させるようになった、のちの国替え制度の前身の、大きな手本になっている。

江戸時代では全ての藩主(大名)が国替えさせられた訳ではないが、加増を受ける代わりに頻繁に国替えさせられた所も多かった。

それは、永らくの土着によって地縁が根付き続けると閉鎖自治化が始まり、戦乱の原因になってしまうことへの、戦国前期の教訓からの防止策の一環だったといえる。

さらには、恩賞や罰則を理由に、引越しを強要することで膨大な費用と労力を負担させて、財力から藩の力を削いで安定性を阻害し、幕府のいいなりにしやすくする力関係を維持する意図も強かったのが、江戸時代の国替え制度の一方の特徴だったといえる。

豊臣政権の場合は、従来の半農半士の価値と風潮を否定するために、とにかく地元の有力者と地縁の旧態慣習を切り離そうとする意図が、まずは強かった。

旧徳川領には、豊臣秀吉の古参の能臣たちばかり配置されている所からも、その意図の強さが窺える。

 三河(愛知県) 田中吉政(近江時代からの縁の功臣。政治面で顕著)

 遠江(静岡県) 山内一豊(尾張時代からの縁の功臣。軍事面で顕著。やまのうち ではなく やまうちかずとよ)

 駿河(静岡県) 中村一氏(尾張時代からの縁の功臣。軍事面で顕著。かずうじ)

 甲斐(山梨県) 浅野長政(尾張時代からの縁の親類。政治面で顕著)

 信濃(長野県)南部 毛利秀頼(織田時代の飯田城主の格式の復帰。尾張斯波一族)

といった具合に、各地に由来があった徳川氏、旧今川家臣、旧小笠原家臣、旧武田家臣のいずれも縁のない、豊臣氏との縁の強い者や功臣たちばかりが強調的に手配されている。

 

これらはそれぞれの領地権は一応は得ていたが、どちらかというとそれぞれの支配地を豊臣政権の蔵入地として管理するための代官・吏僚として手配されたという性質が強い。(後述)

そして豊臣秀吉は、信濃衆たちにも「お前達は徳川家との主従関係の家臣のはずなのだから、関東移転に同行せよ」と、一斉に立ち退きさせた。

今まで延々と木曽郡に居座り続けていた木曽義昌、同じく諏訪郡との根強い縁で再起を果たした諏訪頼忠もついに、先祖伝来の地から立ち退きさせられることになり、関東移封に渋々従った。

豊臣秀吉の直臣扱いだった松本城(深志城・府中)の小笠原貞慶も退去させられるが、これらは天正壬午の乱のような争いを繰り返させないための、有力者と地縁との切り離し政策(身分統制令)の一環だったことが窺える。

府中(松本城)にこだわっていた、信濃の代表格の自負が強かった小笠原貞慶は、不条理は感じていたと思うが、ただし代わりに讃岐(香川県)半国という大きめの近世大名としての、加増移封の栄転扱いだったため、それなりに納得はしていたと思われる。(府中の当時の推定6万石 → 讃岐半国の推定10万石)

これを豊臣秀吉が法的(裁判権的・社会性的・家長権的)に指令できたこと自体が、今まで誰もできなかったことをついに政体実現してしまった、全国の上から下まで、時代はもう大きく変わったことを思い知らせることになった移封政策だったといえる。

 

こうした大きな前例が、徳川政権の幕藩体制の大きな手本になった。

北条氏が改易されるまでは、徳川氏と北条氏の関係は、争和も繰り返したものその直前まではいったんは盟友関係になった義理を、徳川家康は強調していた。

徳川氏の関東移封には、その義理の配慮も含まれていたと思われる。

つまり「改易によって一斉に召し放ち(解雇・失脚)となった旧北条家臣を世話したいなら、縁のあった徳川氏が救済してやれ」という意図もさらにはあったと、筆者は見ている。

豊臣秀吉は旧北条家臣に、奉公構(ほうこうかまえ、ほうこうかまい)を対象にした人物は何人かはいたと思われるが、積極的にはされた様子は見られない。

奉公構は、士分階級だった者を牢人扱いする身分統制令の一環で、浪人牢人は読み方は一緒で混同される場合も多いが、厳密には意味は違う。

後者においては、奉公構を受けている者、またはそれに近い立場の者の意味を、元々は指した。

奉公構とは、恩赦が出ない内は仕官(士分復帰)を代々禁止するものから、特定の大名にだけは仕官してはならない者など、条件は様々だが、簡単な意味としては「指定した浪人の仕官(士分復帰)を禁止」という意味で、その対象となった者が牢人である。

奉公構を受けている人物を、もし士分に取り立てようとする有力筋がいれば、奉公構を出している側はその妨害に動き、険悪な外交関係に発展した。

これは織田政権時代から、その言葉自体はまだ定着はしていなかったものの、その風潮は既に顕著だった。

徳川政権の時代になると、奉公構を受けた元武士を他家がもし取り立てたければ、まずは奉公構えの「取り消し」をしてもらった上で取り立てるという風潮が制度化していき、そういう所を守らずに他家との揉め事の原因を作る藩は、罰則対象となった。

豊臣秀吉の軍部の筆頭格であった尾藤知宣(びとうとものぶ)が奉公構えを受けた例、参謀の黒田孝高(よしたか)に仕えた猛将・後藤基次(もとつぐ。後藤又兵衛で著名)が、次代の黒田長政の時に折り合いが合わずに奉公構を受けた例などが顕著である。

他にも、藤堂高虎と確執関係になった渡辺了(さとる。渡辺勘兵衛で著名)もその処置を受けるなど、今までの家臣としての武威の誇り方や家名の高め方も許されなくなっていき、主君と折り合いが合わずにその対象になる者も増えていった。

関ヶ原の戦いで、東軍(徳川氏)に何の義理も果たさずに西軍(豊臣氏)に荷担したと見なされた多くは「それはもう許されない」ことを明確にするための一斉の有力者の改易が強行されたが、ただしその内で徳川氏から具体的に奉公構を受けた者は、そんなに多い訳ではなかった。

西軍に付いて領地特権(士分待遇)を没収されてしまった多くは、東軍に参加して加増された有力者、または加増は特に無かったが公認保証された有力者らとの縁を頼って拾われた者もいて、そこは禁止されなかった者も多い。

ただし皆が大幅な加増を受けた訳ではないため、それなりに一目置かれるような人物だったり強い縁がない以上は、失脚した皆が勝者たちに全て再収容される訳では、もちろんなかった。

また救済もそれなりの理由がないと、勝った側を遠まわしに否定することにもなってしまう観点や、救済するだけの余裕が皆がある訳ではないなど、負けた側への救済も楽ではない事情もあった。

そういう意味で、敗れて領地特権を剥奪されてしまった者たちというのは、単に格下げだけではない、奉公構も同然の立場となる者も多かったといえ、だから浪人牢人は混同的に使われる風潮もあった。

勝った側の、大名やその上層との縁者たちから優先的に救済はされたが、分家筋の下に所属していたような下級の者たちまで、全てが救済される訳では当然なかった。

生き残りから見たら遠縁で高名でもない、負けた側の多くは、士分復帰を諦めて帰農する者も多かったが、何かあればひと暴れして士分復帰しようと、いつまでも諦めない者も半数くらいはいた。

関ヶ原の戦いでは、そうして頼る先もないまま士分復帰を諦めずに帰農(農家だけでない、商工業者や物流業者や海産業など庶民全般を含む)しなかった者たちが半数くらいはいて、この牢人問題がのちに徳川氏が豊臣氏を消滅させる大坂の戦いの要因のひとつになる。(後述)

関ヶ原の戦いが行われる 1600 年には、それまでの織田政権時代、豊臣政権時代を経た家格・格式の身分統制社会がすっかり強まっていたが、徳川氏が関東入りした 1591 年にも、豊臣秀吉の影響でその風潮は既に強まっていた。

徳川家康が関東入りした 1591 年には、豊臣政権による全国への身分統制令の布令も積極的に行われるようになるが、それ以前から既に、その下準備が着々と進められていた。

すなわち豊臣政権の身分統制令による「政権から公認されていない地位や権威を主張し、意見も仰がずに武器を手にとって自治権運動を起こそうとするその態度自体が、家格・格式の規定違反の反逆(偽善)」であることが、それまでも強調されていた。

そこについては織田政権と同様、上から下までそこに厳しい法的処置で取り締まる姿勢が鮮明にされていった。

徳川氏が関東入りした時、改易されて行き場を失っていた北条氏の旧臣たちで溢れるようになっていた。

それらの半数はやはり帰農を潔しとせずに、徳川氏への仕官をあてにしたり、何かあればひと暴れして士分復帰を果たそうと考える者も少なくなかった。

その旧北条家臣を徳川氏が全て収容できる訳がなく、家格・格式の高い者から順番に救済していく枠も決まっている中での、以前の待遇からの格下げも当然覚悟しなければならない世界になっていた。

そのため仕官の見込みのない者や、仕官はできても大幅な格下げ待遇になってしまうことを良しとできなかった者たちが、閉鎖有徳のように徒党を組むようになり、それぞれの地縁をもつ地域との利害をあてに、徳川氏の開発事業を妨害するなどで困らせたりした。

当時のこうした旧態の残党たちのことは、「博徒(ばくと)」という呼び方もされていた。

この時代の「博徒」の意味は、違法な賭博場や闇市といった勝手な縄張りを作ったりする他「利害次第で徒党を組んで権力者を困らせ、待遇や利権をゆする者たち」という意味も含んでいた。

徳川氏の関東の大掛かりな開発に向けて、それぞれの地域に多くの物資運搬をするようになっていた、その建築資材や食料といった供給品を目当てに、夜中に襲撃するなどでそれを強奪し、工事を妨害した。

関東入りした徳川家臣も当初はこれに手を焼き、取締りも強化されたが、この残党たちの「よそ者は出て行け」感の不穏な動きは、すぐには収まらなかった。

徳川家康は、若い頃の三河再統一時代に浄土真宗と対立した時の調伏(ぢょうぶく)政策と同じような方法で、それらを鎮めていくという優れたやり方がされていったため、次第にその動きも鎮火されていった。

ただ力でねじ伏せるだけ、ただ厳しいばかりではない

 「これからは関東の下々は徳川氏の同胞者として、しっかり面倒を見ていきたいと思っている」

 「今まで略奪を働いてきた者でも、今すぐにでも止めてくれれば、こちらもこれ以上は罪は追求しない」

 「小録かも知れなくても、再仕官を望む者たちがいれば、話だけでも聞こうと思っている」

 「略奪を止めさせることに協力してくれた者には、恩賞を出したい」

 「協力的な姿勢を見せてくれた地域には、こういう良いことがある」


という寛大さも強調していったため、時間はかかったが旧北条家臣たちの徳川氏の関東入りにおける「よそ者意識」も鈍っていっていった。

この関東での博徒問題ともいうべき非同胞拒絶反応(合併アレルギー)は、9年後の 1600 年の関ヶ原の戦いまでもその風潮は続いていたものの、天下の覇権が徳川氏に決するといよいよ関東でのその非同胞も弱まっていった。

のちの幕末の倒幕後の明治政府発足の、最初の10年、憲兵を乱用するばかりで民間をろくに保証しなかったことで民権運動(博徒問題)を激化させた時とは大違いである。

その民権運動(博徒問題)によって国会を創設されてしまい、国際問題になりかねない事態にまでならなければ国家の態度を改めようともしなかった、今の口ほどにもない公的教義と大差ない分際(偽善者)とは大違いの対処方法だったといえる。

豊臣政権(天下総無事令と身分統制令)によって「正規士分でない者に、許可もなく武力闘争に参加させようとしている時点で、政権への反逆(偽善)と扱い、その関係者も連座で格下げや討伐の対象となる」ことが明確化されていった。

江戸時代の前身となる、豊臣政権の新たな身分規定の前例によって、士分待遇も限定されるようになった。

荀子的だった織田政権、豊臣政権によって「士分待遇は、裁判権(社会性・公務公共性)の手本(等族義務)に見合った家格・格式(国際品性)の待遇でなければならない」ことが、とにかく強調された。

許可のない武力運動や領域争いの法的禁止がついに実現され始めたこと、そして士分待遇が公認されていない者が武器を取って武力運動に参加しようとすること自体が、厳罰対象になることが強調され、日本は一気に法治国家化に向かった。

 

士分の公正事務化(吏僚化)、つまり武力闘争のための士分の数は縮小され、すなわち人員面での日本全体の軍縮に向かっていた。(品性化)

豊臣政権によって特定の有力者が個別に改易された場合は、その親類関係が引き取るだけで済んだが、組織が丸ごと改易される場合は、その大勢の家臣たちも一斉に召し放ちの状態になり、それを全て再雇用・再収容することはもちろん難しかった。

それなりに地位が高かった者でも、奉公構同然に敬遠されてしまう者もいて、帰農(庶民化)する他なかった者もいた。

戦国前期では、そうして負けて利権を失った側(改易された側)が、地縁で徒党を組んでその対立者を頼ったり煽ったりして、失った利権を奪い返すばかりの主体性(名目・誓願・公務公共性)が欠けた闘争ばかりが、延々と繰り返された。

 

日本全体の裁判権視野(日本全体の社会性視野)ではない、地方裁判権止まりの押し付け合いの領域争い・特権争いばかりしていたから、産業も遅々として発達していかなかった地域も多かった。

 

ついに豊臣秀吉が織田信長に代わって、これからの時代のあるべき中央裁判権(国家構想・日本全体の手本の家長権)を示し、争いをやめさせる法治国家の近世時代に向かわせたのである。

そんな風潮に向かっていた中で 1591 年に関東入りした徳川氏は、関東での農地開発と都市開発がどんどん進められ、国力も豊かになった過程で役人も改めて必要になったことで、北条氏の旧臣たちも次第に、小禄の旗本としてだいぶ収容・救済されたと思われる。

同胞の義理を重んじる傾向が強かった、孟子的だった徳川家康は、そういう所はだいぶ温情的な所があった。

大手の北条氏を改易したことの、非同胞の関東の課題を残すことになった豊臣秀吉は、徳川家康であればそれも解決できるだろうと見込んでの、関東移封の意図も強かったことが窺える。

その一方で徳川家康は、関東でも優れた人材がいれば抜擢するということも積極的に行っている。

徳川氏のこの関東入りをきっかけに出会った僧侶、南光坊天海(てんかい。下総・しもうさ・千葉県の土岐一族の出身と思われる)が顕著で、のちに政略や宗教対策で重要な働きをすることになる人物である。

これから、関ヶ原の戦いに向かうまでの日本は、どのような様子だったのかについて、まとめていきたい。