近世日本の身分制社会(056/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 戦国末期の群雄 伊達政宗 - 2020/12/30

豊臣秀吉は 1590 年の北条氏討伐(関東進出)を、まだ臣従を明確にさせていなかった関東以東の諸氏も一斉に従わせる、天下総無事の総仕上げの企画と位置付けた。

北条氏討伐の軍役を全国に課し、参戦しなかった有力者らは厳罰や改易(取り潰し・領地特権の剥奪)に処分すると布令した。

まだ関東以東では、具体的な豊臣政権の介入が及んでいなかったことで、再統一戦、地方統一戦が続けられていた所も多かった。

それら戦いは、いずれ来たる豊臣政権からの家格・格式(国際品性)の裁定(身分統制社会)に備えた統一戦だった。

東北では伊達氏が、それに備えた飛躍が目立っていた。

「我々は時代に合った当主を選出し、地方を団結させることができていた、国際品性ある集まり」の既成事実を何としても作っておこうと躍起になっていた。

伊達氏というと、独眼竜・政宗が有名だが、そもそも伊達氏はどのような存在だったのかから、ざっとまとめておきたい。

伊達政宗が豊臣政権下で諸氏から一目置かれた要因として、有能な家臣たちと団結し、得意な戦略能力を駆使した才覚が、まずは着目されがちな所である。

しかしその流れと準備をしっかり作っておいてくれた、祖父の伊達晴宗(はるむね)と、父の伊達輝宗(てるむね)の2人の組織改革については、いまいち注目されない所である。

時代に対応できずに潰れてもおかしくなかったのは、伊達氏も例外ではなかった中、そこに危機感をもって改革した祖父と父の努力も、大きかった所である。

伊達の読みは「だて」で知られているが、これは元々は字の通りに「いだち」と最初は呼ばれ、「いだて」「だて」と方言的に呼ばれるようになったことが由来になる。(陸奥の伊達郡が発祥)

これは当時よくある事例で、他にも福島という姓だった武将が、頭の「ふ」が略されて「くしま」と呼ぶ癖が定着し、字も「櫛間」に置き換えられた例もある。

陸奥(むつ。青森県、岩手県、宮城県、福島県)と出羽(でわ。秋田県、山型県)は合わせて奥羽・奥州(おうう・おうしゅう)と呼ばれていた。

この奥羽全土の支配者としての奥州探題(たんだい)という政権の重役の席が作られ、武家政権時代にはこの大領は名将・名族が治める、名誉ある伝統の地位になっていた。

鎌倉政権が崩壊し、後醍醐天皇による建武政権(親政・天皇政治の復興)が失敗すると、武家社会が見直されて足利政権(室町幕府)が作られるが、足利氏の有力親類の斯波(しば)一族が、この奥羽を支配することになった。

 越前の斯波氏(その最有力家臣が朝倉氏)

 尾張の斯波氏(その最有力家臣が織田氏)

 奥羽の斯波氏(その有力層が南部氏、大崎氏、葛西氏、伊達氏、最上氏、芦名氏ら)

と、斯波一族は足利政権の中で、強大な権威を誇っていたことが解る。

伊達氏は陸奥中南部(宮城県)の代表的な権威を身につけていき、元々は格上のはずだった陸奥中北部(岩手県)の大崎氏よりも上回る有力者として、一目置かれていた。

室町政権が苦労して皇室問題を解決し、日本が初めて体験することになった急激な室町の大経済社会を招くようになると、時代に合った法(新たな社会性の基準)を整理し切れなくなっていった。

その著しい教義崩壊を収拾できずに応仁の乱を招き、室町政権の権威も著しく失墜していったことは、同時に斯波一族の指令権威も著しく失墜していったことを意味した。

室町政権の主体性(社会基準)などなくなり、戦国期の突入による裁判権争いの迷走が起きるが、陸奥では伊達氏(宮城県)と芦名氏(福島県)の台頭が特に顕著だった。

奥羽の実権などない表向きだけの斯波氏を無視するように、陸奥ではこの芦名氏と伊達氏が、常々権勢を張り合っていた。

伊達晴宗(政宗の祖父)の先代の伊達稙宗(たねむね)は「我が伊達家こそが、奥羽最大の代表格」と、規模の大きさばかり張り合うことに躍起になっていた。

伊達稙宗はこれまでの伊達氏の権威を背景に、より手広い政略結婚を駆使して有力者らを味方につけていき、伊達氏こそが奥羽最大の代表格だという既成事実作りばかりに、躍起になっていた。

上級裁判権(家長権)の整備もろくにできていないままそれを進めた所で、その時だけは団結できてもその2代目、3代目になるとそれぞれ閉鎖自治権ばかり高め、そのたびに利害闘争を繰り返してきた反省が、全くされていないやり方だった。(外戚問題)

伊達晴宗は、その戦国前期のような旧態権威に頼ったやり方ばかりする父の伊達稙宗に、反抗した。

今まではそれで規模の大きさを維持してきた伊達氏だったが、本家にしても家来筋にしても、代替わりするたびに一族同士で利害闘争するという、まとまりなどない争いばかり繰り返されてきたことに、伊達晴宗は苛立っていた。

そして伊達晴宗の弟の伊達実元(さねもと)の処遇を巡って、ついにこの親子は激突する。(天文の大乱・てんぶん)

伊達稙宗は、列強の上杉氏に伊達実元を養子として送りこんで、上杉家中での伊達家の格式を作ろうと画策したが、その時のやり方がついに伊達晴宗の怒りを爆発させることになった。

先方での伊達実元の武士団の権威を示せるよう「伊達家の能臣や屈強な家臣たち100名を中心とする軍勢を添えて、上杉氏の力を利用しよう」というものだった。

今までは伊達稙宗の権威を恐れて家中の皆は渋々黙っていたが、ついに伊達晴宗がそのやり方に猛反対した。

伊達晴宗は「時代に合った裁判力(政権力・団結力)などろくに整備もできておらずにそこがグラグラなのに、有能な家臣たちまで一緒によそに送りこむとは何事だ!」と怒った。

伊達家は稙宗派晴宗派とで真っ二つに分裂する、大規模なお家騒動が起き、今まで中途半端な主従関係を維持してきた家来筋たちの実態も露呈する形で、入り乱れる争いが勃発した。

この時の伊達晴宗の反抗は、伊達家中の時代遅れの旧態裁判権を刷新するための、再統一戦だったといえる。

伊達晴宗がこの時に反抗しなかったら、孫の伊達政宗の勇姿も見られないまま終わっていたといっても、過言ではない。

伊達晴宗「もう引っ込んでおれ、このクソジジイめが!」と当主の座を力づくで継承し、乱暴で荒いばかりの稙宗に引退を強要する措置に出た。

弟の実元を上杉氏に送り込む計画の阻止にも動いたため、怒った稙宗が、自身を支持する有力者らに晴宗排撃を呼びかけ、伊達家中は大混乱となった。

 「利害で稙宗を支持して動こうとする有力者」

 

らと

 

 「次代たちのことを危惧し、晴宗を支持する有力者ら」

 

とで伊達家中は対立し、大騒ぎになった。(天文の大乱)

ただし稙宗派の者たちは、今までのその権威に渋々従っていた者も多く、しっかりとした名目(誓願)団結できていた訳でもなかった。

晴宗派の方がよほどしっかりとした名目(誓願)で動いていたため、騒動も次第に鎮火していき、ついに稙宗も折れる形で引退した。

弟の実元稙宗派に組したものの、周囲の圧力にやむなく利用されていただけだったことも晴宗は解り切っていたため、追求はしなかった。

稙宗派が解体されると、晴宗実元に対して「もうあんなクソジジイのいうことなんか聞かなくていいぞ」と呼びかけたため、呪縛から解放してもらった実元も、改めて兄の晴宗に帰参した。

以後の伊達実元は、当主としての兄の晴宗の裁判権改めに積極的に協力し、一緒に組織の建て直しに努めた。

稙宗派が解体されるまで、往生際の悪い稙宗は旧態権威を維持するための運動をいつまでもやめようとせずに、とにかくしつこく、厄介だった。

伊達晴宗は、稙宗を直接討伐するやり方はあえて避け、主体性(時代に合った裁判権)を示し続けて稙宗の政治方針には、今の時代には何の魅力もない」状況にもっていた。

そこは怒り任せではなく、稙宗「あてにならない指標」として善用したやり方をしていったのが、晴宗が優れていた所である。

時間はかかったが、ついに稙宗のいうことなど誰も聞く者もいなくなり、あきらめさせる形にもっていった。

家来筋である晴宗の叔父たちも、また晴宗の兄弟たちも稙宗派にけしかけられて家中もグダグダになっていたが、晴宗はあきれながらも我慢して組織の建て直しに努力してきた。

親類と揉めて散々苦労してきた父の晴宗のその姿を、子の輝宗(てるむね・政宗の父)は若い頃から見てきた。

その苦境を見てきた輝宗は、自身の子の代の時には、自分の兄弟たちが責任(等族義務)ある叔父として協力する法(社会性)に整理し、次代たちが良い方向へ進む形を作ってやらなければならないと、心がけることができた。

そしていつまでも旧態権威にしがみつこうとするような、次代たちのために全くならない当主の姿など、絶対に出してはいけないと教訓にできた。

「偉そうに風呂敷を広げるだけ広げ、自分たちの代で畳まずに次代たちに畳ませようとしているだけ」のその無責任さ(無計画さ無神経さ)は、できもしないことを大手で振るって、次代たちに偉そうに不良債権をただ押し付けているに過ぎないのである。

輝宗の弟、留守政景(るすまさかげ・伊達政景)も一緒に、そこを痛感するように見てきた。

今までの叔父たちのように、人生の先輩ヅラばかりして本家に偉そうに取引しようとする態度などは一切控え、甥の政宗に協力的な姿勢を採って、組織を多大に支えた。

留守政景は存在こそ地味だが、でしゃばらなかったからであり、政宗のちょっとした失策もかばって補佐したり、政宗がどのような政策をしたいのか親身になって相談を受けた。

信用できる重臣がひとりでも欲しかった政宗としても、この品性手本ある叔父の留守政景を重用し、合戦の要所を任せたり、大事な外交役を任せるなどできた。

晴宗と輝宗の手本姿勢によって、伊達家の意識も刷新されていったため、政宗の代までに時代に対応できる人材も育っていった。

政宗の名参謀として活躍した片倉景綱、文武両道といわれた鬼庭綱元(おににわつなもと。おにわ)や、武勇に優れた伊達成実(なりさね。実元の子)や原田宗時その他、親類や家臣たちも団結するようになって政宗を支えた。

片倉景綱と鬼庭綱元の2人においては「組織を支える優れた良臣」だと豊臣秀吉から直々に賞賛を受けた人物である。

片倉景綱の子の片倉重長も、父の役を受け継ぐには申し分ない知勇兼備の将だと家中でも一目置かれたが、しかもかなりの美形だったと伝わっている。

豊臣政権下で日本がひとつにまとまる姿が見られ、諸氏の重臣たちの間での面会の機会も増えたが、小早川秀秋(木下秀俊・豊臣秀吉の親類)がこの片倉重長にどうも好意を寄せていたらしい逸話も残っている。

衆道(男同士の恋愛)だったのかよく解らないが、これは豊臣政権の権威に家臣同士がヘタに介入し、後で問題になって伊達家に迷惑をかけかねない危惧から、その交友関係は丁重にお断りされたようである。

伊達政宗が14歳で成人式を迎えると、まだ40にもなっていない輝宗は早々に「しばらくは後見人として自分が補佐していくが、もうこの政宗に家督を譲ることにした。皆もこれからはそこを心がけて伊達家を支えよ」と明言した。

輝宗は、政宗が20代や30代になった時に、少しでも裁判権を有利に整理していけるよう、積極的にお膳立てした。

晴宗がせっかく改めてくれた、古い時代の愚かな親類外戚の利害派閥闘争はもう繰り返させず、次代たちのために団結させていかなければならないという輝宗の信念が見られる所である。

輝宗の時代になると、伊達家は国際品性に向けての組織改革もいよいよ強まるようになった。

そういう良い流れになっていた中で、筆頭家老としての責任(等族義務)も重大のはずだった中野宗時が、伊達家に反感的だった内外の有力者らと密かに連絡を取り合い、政宗排撃を企ていた未遂事件が発覚した。

「政宗に裁判権を集中させて、組織改革をしていく」という今後の方針に付けこみ「暗殺や誘拐などで政宗を失えば家中が混乱して、どのようにでも優位に立てるようになる」という、明らかに時代に逆らった、あきれた陰謀だった。

良い流れがあった中だったからこそ、この中野宗時のこの陰謀も、内部告発で発覚することになった。

この中野家は、伊達氏の外交・財務の執政(総務)を請け負っていた重臣で、その中野家の小身の家来だった遠藤基信(もとのぶ)が財務の作業員だったことで、中野家の不正に気付いた。

責任(等族義務)をもって手本を示す立場であったはずの中野宗時が、伊達家の財務の不正ばかりし、せっかく組織が良い方向に向かおうとしていたのを邪魔しようとするその態度が、どうしても許せなくなっての内部告発だった。

直訴してきた遠藤基信に驚いた輝宗だったが、その真相を突き止めるべく内々に調査をしていった所、全てこの遠藤基信のいう通りだったことが、発覚した。

その陰謀に加わった一味は追放処分され、陰謀も未然に防がれた。

遠藤基信は数字に強い人物だったこと、そして生真面目なこの性格こそが、政宗の助けになりそうだと輝宗は見込み、追放した中野宗時の後釜に据えようとした。

遠藤基信は「大した身分でもない自身にはそんな器量(人の上に立つ教義指導力)はなく、もし自分がそんな地位にいきなり就いてしまったら皆も納得せず、組織に迷惑がかかってしまいます」と断った。

そこは積極的に補佐していくから、どうか受けて欲しいと輝宗から頼まれ、遠藤基信も折れて承知することになった。

この、数字に強い遠藤基信の活躍は、とにかく目ざましかった。

遠藤基信は、伊達家の財務管理を任されると、より精度の高い資料が作られて整理されていったため、今まで曖昧だった伊達家の財政状況もどういう時にどういう対策をしていくのが適正なのかも、解りやすくなった。

中央で異様な台頭を始めた織田氏にも常に注意深く様子を窺い、天下の情勢を素早く読み取って状況を整理し、人材起用においても献策した。

陪臣から家老格に急に大抜擢された遠藤基信は、絶対に伊達家を有利にしようと、懸命に動いた。

伊達家の重要な執政としてのその懸命な働きは、輝宗と政宗にとって、どう作戦を立てていけばいいかもしやすくなり、伊達家は大いに支えられた。

しかし畠山義継(二本松義継)の陰謀事件によって輝宗が落命すると、何の前触れもなく遠藤基信は自害(殉死)してしまった。

伊達政宗にとって、父の輝宗を失った上に、さらに遠藤基信まで殉死されてしまったことは衝撃だった。

遠藤基信の殉死は、織田信秀の執政だった能臣の平手政秀の、やはり何の前触れもなかったその切腹事件と、似た性質があったと思われる。

織田信長が織田家を継承し、尾張再統一に乗り出そうとしていた際、責任(等族義務)を重く見ていた平手政秀は

 「我々のような旧態者たちがいつまでもそれぞれの家長に居座るべきではなく、次代たちに責任(等族意識)をもたせるためにも、皆も早く家督を譲ってやらなければならない」

ことを、尾張の国衆(有力者)たちに訴えることが、まずは大きな目的だったと思われる。

遠藤基信の場合は、元々大した身分でもなかった、中野家の帳簿の作業員に過ぎなかった身から、いきなり組織全体の執政として昇格してしまった後ろめたさも、強く働いていたと思われる。

生真面目だった遠藤基信は、どれだけ公正さを示しても、その活躍にひがまれる目も日頃からかなり気にしていたのではないかと、筆者は見ている。

だからこそ、平手政秀を前例に「ここまで責任(等族義務)をもとうと思える者こそが、そういう地位に就かなければならない」という手本も自分から示さなければならないことを、ずっと意識し続けていたものと思われる。

遠藤基信は、伊達家をよい方向に向かわせようと、財政改革の基礎を作り、人材起用を献策し、重要な外交対策でも活躍してきた上に、最後は死をもって、あるべき責任(等族義務)を家臣たちに訴えることまでした、まさに忠臣の手本ともいうべき人物だったといえる。

その功績は当然のこととして多大に評価され、伊達家中における遠藤家はもちろん格上げされた。

しかし逆に、遠藤家は元々の地位の低さの後ろめたさもあった所も尊重され、家中を動揺させないよう、以後の遠藤家は目立たないよう、扱いも控えめにされていったと筆者は見ている。

伊達家のこうした、上同士で厳しくなり合う最低限の手本(等族義務)の裁判力(国際規範)の前に、今まで態度を曖昧にしてきた有力者たちも、臣従させやすくしていった。

伊達政宗は、晴宗、輝宗と続いた先代たちの改革と、そして遠藤基信の犠牲も絶対に無駄にしてはならないと、本人も懸命に努力した。

遠藤基信に推挙されて伊達政宗の側近になっていた片倉景綱が、今まで基礎を作っておいてくれた遠藤基信の大事な後釜となって以後、大活躍していく。(自身の死をもって、才覚を見込んだ片倉景綱を指名し、後事を託させた)

中央では本能寺の変後に羽柴秀吉が台頭し、天下総無事の流れに日本は向かっていたため、伊達氏もその時間の無さに内心はあせっていた。

そうした中で伊達氏が、家中の再統一を進めて裁判権を大幅に改めると、競争相手であった陸奥南部の芦名派を圧迫するようになる。

伊達氏が躍進したからからこそ起きた、陸奥の中部から南部にかけての覇権を巡る「人取橋(ひととりばし)の戦い」は、のちに「奥州の関ヶ原」と呼ばれた大規模な戦いだった。

この頃の伊達氏は、態度を曖昧にし続けてきた有力者に、従わなければ排撃していく形で周辺をどんどん吸収していき、陸奥の伊達派の領域は、性急な広がりを見せ始めていた頃だった。

中央の動向による時間の無さから、それが急激に進められたことで、その反動の非同胞拒絶反応(合併アレルギー)も顕著に出た戦いが、人取橋(ひととりばし)の戦いである。

その性急な、新たな裁判権の刷新の伊達氏の勢いに、強い不満をもつようになった各地の旧態有力者が団結するようになり、一斉に伊達氏に噛み付くようになった。

規模こそ違うが、織田氏についに近江・山城に進出され、朝廷と京の都市経済と見事に建て直されてしまい、その旗本吏僚体制や常備軍体制(前期型兵農分離)にもはや単独では対抗できないと見た周辺諸氏が「信長包囲網」で結託して一斉に噛み付いた、その東北版である。

しかし織田氏においては、いくら大規模な連合ができても、所詮は地方裁判権止まりの一時的な利害団結に過ぎない。

国際軍事裁判権(中央裁判権・国家構想)の次元で団結できている訳でもない、つまり長期維持できる訳がない連合というのは、その勢いも最初の内だけであるのは、伊達政宗の立場もそこは共通していた所である。

不満分子たちの勢い任せの噛み付きが特徴だったこの人取橋の戦いも、伊達氏としてはとりあえず、今まで広げてきた領域をどうにか守りきることさえできれば、相手の団結も長期維持し得ずに、その体制を解体させることができた。

厄介なのも最初だけで、劣勢になることはあったとしても、とにかく潰されさえしなければ勝ったも同然の立場だった側と、所詮は短期間で相手を一気に潰さなければならなかった苦境側との、優劣差も強かった。

浄土真宗(本願寺)と武田氏を旗頭(中心)とする諸氏への呼びかけの信長包囲網(一時的な共有認識・社会性)も、もってせいぜい2、3年だった。

裁判権争い(教義競争)とは、互いの名目(誓願)の最低限の国際裁判権(公務公共性)においての、主体性勝ち(計画勝ち)している側と主体性負け(計画負け)している側との、その整理力(教義指導力)の差を明確化させることなのである。

 「そういう共有認識になってから、それにとりかかえればいいだけの話だろ」

 「皆の共有認識と違うことが非常識」


と、主体性(当事者性・教義性)の確認(尊重)を自分からしようともせずに、共有認識でそこをただ人任せにしてきただけでしかない以上は

 「不都合(政癖)の正しさの乱立を、ただ押し付け合っているだけ」

の自覚もない、それしか能がない公的教義と大差ない分際(偽善者)なのである。

 都合中心言動  = 公正な主体性の信念

 不都合中心言動 = ただの偽善性癖


と規定しても良いくらいである。

前者の感情と、後者の感情の、どちらの方が非礼無礼なのかくらい、人としての最低限の区別はつけるべきだろう。

厳密には

 借方 = 都合のつじつま合わせ

 貸方 = 不都合のつじつま合わせ


という

 

 都合 と 不都合 との相対関係(主体性・教義性)

 

 

 複式帳簿的・損益分岐的(主体性的)に整理

 

しようとしているのかどうかの問題である。

動・でいったん整理もできていない内から、見合わない動・をやり出す、つまり借方と貸方の相対関係(主体性)の整理もできていない内から「受け与えの共有認識」をやり始めるから、

 

 都合中心(主体性) と 不都合中心(ただの偽善性癖) の区別

 

もできなくなっていくのである。

複式帳簿の、貸方項目と借方項目の性質の違いを見比べてみるだけでも

 

 受ける側 と 与える側 の相対関係

 

を結び付けることは、人生観(主体性)の次元になってくるほど、そんな簡単なことではないことが解るはずである。

 

当事者にとっての主体性(手本身分・目的立場・計画水準)に応じて、

 

 当事者にとって、従わなければならないこと(しなければならないこと)

 

 当事者にとって、従うべきではないこと(するべきではないこと)

 

 当事者にとって、従うべきではないことに従わせようとしてはならないこと(するべきではないことを、させようとしてはならないこと)

 

 当事者にとって、従わなければならないことに従わない環境を許し続けるべきではないこと(しなければならないことをしないことを、無計画に見過ごし続けてはならないこと)

 

を整理しようとする確認(尊重)の姿勢(等族義務)があって、公正化、健全化できるのである。

 

人が作ったに過ぎない価値や正しさのただの丸覚えに従わせようと、偉そうに偽善憎悪(人格否定・主体性否定)するだけの今の公的教義のような無能(偽善者)に、その手本など生じる訳がないのである。

織田政権時代、豊臣政権時代とは、上同士(等族義務を求められる者たち)がそういう所をろくに取り組んでこれなかった、国際品性が欠落した問題児の集まりだと裁定(身分規定)されてしまった有力者は、上から順番に格下げや剥奪を受けるようになった時代なのである。

まさに「中央裁判権(国家構想・公務公共性)の理念に至っていない、地方裁判権止まり(上・自分たちにただ甘く、下・外にただ厳しいだけ)の分際めが!」の恫喝の世界である。

その態度がついに裁かれるようになった荀子政治的な、新たな身分制社会を、日本で特に体験したのが豊臣政権の時代だった。

伊達政宗が陸奥の二強対決でついに芦名氏を消滅させると、伊達氏は陸奥で80万石近くの広範囲の裁判権を築くという快挙を示した。

奥羽の最大手として勝ち名乗りを挙げた、この伊達氏の地方統一戦も、芦名氏との決着をもって時間切れとなってしまった。

その時に豊臣秀吉による、北条氏討伐の関東進出が始まり、陸奥の諸氏にも「従わなければ改易する軍役」が通達がされたため、陸奥最大手の伊達氏も豊臣政権の軍役に従うことになった。

それをもって東北までの日本全土が、天下総無事令(政権に許可を得ていない軍事行動の一切の禁止)の管轄に具体的に入ったことが、示された。

その後の裁定によって伊達政宗は、芦名氏を攻略して得た旧芦名領の多くが、表向きは「今までも通達してきたはずの、天下層無事令の違反」として残念ながら認められなかった。

しかしその後の調整で、陸奥の中北部(岩手県)と中南部(宮城県)と、その他の郡を加えたおよそ58万石の支配者として、豊臣政権から公認保証されることになる。

伊達政宗は、今まで頑張ってきた家臣たちの気持ちを察して、表向きはくやしがる姿勢を見せたが、内心ではこの処置自体はそんなに苦痛でもなかったと思われる。

豊臣秀吉としても、今まで縁もなかった伊達氏に58万石もの家格・格式の大領は、できれば認めたくない所ではあった。

しかしこれまでの伊達家の国際品性に対する努力と、伊達政宗とその優れた家臣たちは、それだけの家格・格式だと認めざるを得なかった、寛大な裁定だったといえる。

先代の輝宗時代はおそらく30万石ほどの支配力だったことを考えると、旧芦名領を退去させられた代わりに58万石も公認保証されたなら、十分な格上げが達成できたといえる。

豊臣政権の新基準(新たな身分統制)の照合による、諸氏全体の格下げが前提だった中、表向きは格下げのように見えても実質はしっかり格上げになっていた伊達氏は、かなり優れていた部類だったといえる。

1567 年生まれの伊達政宗が14歳で元服が公表されたのは、本能寺の変の起きる1年前の 1581 年で、事件で父を失ったのが 1585 年の18歳の時だった。

政宗の代には大事な時期に直面すると予測できていた祖父と父が、それまでに積極的に体制を整えておいてくれたおかげで、輝宗を失っても伊達家は簡単には揺るがなかった。

執政の遠藤基信を引き継いだ片倉景綱は10歳年長で、まだ若かったが非常にしっかりしていた。

 

1590 年にはついに芦名氏の本拠の黒川城(会津)にまで迫り、消滅させた時の政宗はまだ23歳だった。(豊臣秀吉の関東進出の年)

祖父の晴宗と父の輝宗は「険悪な仲」だということになっているが、表向きだけだったと思われ、その傾向は輝宗と政宗の関係でも共通している。

晴宗から輝宗の移行期は、晴宗の兄弟たちが本家筋つまり輝宗に対して協力的になる法(社会性)がまだ育っておらず、つまりそれらを良い方向に向かわせるために晴宗は、輝宗とケンカするふりをしていた。


旧態的な考えで輝宗への臣従態度を曖昧にしていた有力者に晴宗は味方するフリをして、できるだけ輝宗と和解させて帰参させる努力をしていた。

輝宗も、表向きは政宗と仲が悪いフリもよくしていた。

中央の天下総無事の動きに内心はあせっていた伊達家は、陸奥の地方統一を性急に進めざるを得なかったため、旧態社会から切り替えられずについていけなかった有力者たちの不満や錯乱もますます目立った。

それを収拾するためにとりあえず輝宗が受け止め、政宗と和解するよう説得し、臣従させる仲介役を、輝宗が務めていた。


有力者らは何かあると、面倒見の良かったこの輝宗にすぐに泣きつき、輝宗も仕方なく受け止めていたため、若かった政宗は「良い歳をして父の輝宗に泣きついてばかりの、だらしない有力者ら」に、内心ではかなりイライラしていたと思われる。

政宗の周囲は父の輝宗、叔父の留守政景、参謀の片倉景綱らを中心とする、尊敬し合えるようなしっかり者ですっかり固められていたために、余計だった。

 

伊達晴宗の弟の伊達実元も健在で、親類衆の長老格として、政宗を力強く支えていた。

それと比べると、今まで態度を曖昧にしてきた信念(等族義務・主体性)が弱々しい連中は、政宗は若かった分だけそれらも大きく劣るように見え、そこにかなりイライラしていたと思われる。

伊達政宗は器量人としての素質が元々高かったこと、そして時間がもう限られていた中で、そういう所もなかなか自覚しない有力者たちに対する内心の怒りは、余計に強まったと思われる。

豊臣政権による、陸奥の天下層無事(身分制定)のテコ入れが具体的に始まってしまう前に、何としても裁判権(国際品性)の整備と地方統一を急がなければならなかった一方で、それについていけなかった有力者らの伊達氏への逆恨みも比例していった。

 

その情勢も色濃く出ていた、伊達氏にとって厄介でもあり好転期でもあった「人取橋の戦い」もまとめておきたい。

 

まず父の輝宗時代には、芦名氏よりも裁判権の整備が進み、陸奥の代表格としての隆盛を見せるようになっていた。

 

陸奥での伊達氏(宮城県)の対抗馬だった芦名氏(福島県)は、裁判権の整備が間に合わず、南隣の常陸(ひたち・茨城県)で実力をつけていた佐竹氏の支援に頼り始めていた。

 

伊達氏が実力をつけていた時には、佐竹氏は芦名氏に養子を送り込んで、陸奥南部の支配権に介入するようになったため、伊達氏からみれば、陸奥の事情に介入してくるよそ者の佐竹氏とは、険悪な関係となった。

 

同じく時間が限られていた中での常陸のこの佐竹氏の飛躍も顕著で、15万石の支配力もあったか怪しかった佐竹氏は、地方再統一、裁判権整備に懸命に努めたため、豊臣秀吉の関東進出の際にそこが高く評価された。

 

常陸(ひたち・茨城県・日立)の佐竹氏も、戦上手で知られていた佐竹義重が早い段階で子の義宣(よしのぶ)に家督を譲った。

 

厄介事は父の佐竹義重が引き受け、次代の佐竹義宣(よしのぶ)に裁判権を集中させて時代に対応できる環境作りに懸命に動いた所は、輝宗・政宗親子と共通している所である。

 

稙宗晴宗の対立(天文の大乱)以降、伊達氏と対立するようになった陸奥南部の小大名の相馬氏(今の相馬市。平将門の末裔。名族千葉平氏一族の自負も強かった)は、伊達氏の勢力伸長を度々妨害していた。

 

相馬氏は何かあると、周辺の岩城氏結城氏らと結託したりして、伊達家の権益の阻害に動いたため、輝宗もこの目ざわりな相馬氏の攻略に度々動いたものの、周辺の結託もあって攻略できずに手を焼いていた。

 

相馬氏は単独の力はそれほど大きくはなかったが、戦国後期までにどうにか自治権を守り抜いてきただけあって、非常にしぶとかった。

 

同じように、その近隣の田村氏(今の福島県田村市。坂上田村麻呂の末裔を自負していた)も、単独の力はそれほど大きくはなかったが、こちらも非常にしぶとい勢力だった。

 

陸奥南部では、伊達氏の裁判権が強まるたびに芦名派(佐竹派)の反抗も濃くなってきていた。

 

この田村氏は佐竹氏と折り合いが合わずに、次第に周辺の芦名派(佐竹派)の中で孤立するようになり、地元三春の自治権の防衛に追われるようになった。

 

伊達輝宗と同世代だった田村清顕(きよあき)は、子は娘がひとりのみでどうしたものかと考えていた矢先に、伊達家が政宗の正室にしたいと歩み寄ってきたために、田村清顕も快承した。

 

田村清顕は「何番目の子でもいいから、男子が誕生したらその子を田村家の後継者にもらい受けたい」と、以後の伊達家と田村家との関係性は強まった。

 

しかし田村氏からみると伊達氏はだいぶ格上になるため、対等ではなく家臣扱いの風潮ばかり強まったことで、田村家中での複雑さも増え、時折揉めごとも増えるようになった。

この田村清顕のひとり娘だった愛姫(めごひめ)は聡明で知られ、名君と呼ばれた次代の伊達忠宗の母である。


かつての伊達氏は、列強同士の縁談で互いに威勢を示し合う風潮が強かったが、そういう所が晴宗時代に改められて以降の伊達氏は、縁談には慎重になっていった。

伊達政宗の母は、出羽の代表格の最上義守(もがみよしもり)の娘で、関係が悪かったからこそ縁談で同盟したものの、列強同士の関係が悪化するとその家族関係の亀裂にもなった。

 

伊達輝宗と、最上氏の義姫(よしひめ・政宗の母)の縁談は、最初は「奥羽のこの二強主義で互いに大きくなっていく」と盛り上がったものの、その風潮も最初だけで、利害が噛み合わずに再び険悪になっていった。

大手同士だと結局そうなりがちだったことを痛感していた輝宗の教訓も、田村氏を選んだことに恐らく手伝っていた。

伊達氏と田村氏の場合は、戦略的にも、伊達氏の陸奥南部への進出と、田村氏の当時の苦境の利害一致も手伝った、運命的な縁談でもあった。

陸奥南部(福島県)で、佐竹氏の介入も激しくなってきていた中、伊達氏が田村氏を支援するようになったため、ただでさえしぶとかった田村氏に周辺の佐竹派たちも、簡単には攻略できなくなった。

伊達輝宗は今まで、厄介な相馬氏を何度も攻略しようとしたが、佐竹派たちの支援で切り崩すことができずに、伊達氏の勢力拡大を阻害されて手を焼いていた。

 

しかし相馬氏の近隣のこの田村氏が、伊達氏の支援を受けるようになると、この田村氏が逆に相馬氏ら反伊達派の動きを牽制するようになったため、この戦略が伊達氏の陸奥南部の進出に有利に働いた。

 

まだ若かった伊達政宗は早くから、先代がどういう所に苦労していたのかを、しっかり学び取ることができていた。

そうした教訓が抜群に活かされ、どういう時にどこまで軍を進めればいいのかの領域戦と、相手の強み弱みを掴んだ外交戦略を伊達政宗は早くから磨いていた、そういう所が非常に優れていた人物だった。

伊達氏の芦名氏攻略に、田村氏とは対立的だった大内氏が妨害に動いたため、大内氏の攻略に動くが、地元の闘争で田村派(伊達派)から大内派(芦名派)に鞍替えして立場を悪くしていた畠山義継(二本松義継)が、輝宗に泣きついた。

 

伊達政宗は、この畠山義継(二本松義継)の降伏を認めなかったが、領地特権の削減を条件とする輝宗の調停に、渋々降伏を認めることにした。

 

これが事件の発端になった。

 

政宗の性急な地方統一の裁判権改めを逆恨みしていた畠山義継は、感謝の礼に出向きたいと輝宗に面会を希望し、数名の家来で輝宗と接近した折に、隙を見て拉致しようとする事件を起こした。

 

連れ去られそうになった輝宗に、伊達家中もその状況にどうして良いか解らずに動揺していた中で、自分から自害したとも「自分が死んでも構わないから、これらを斬れ、撃て(鉄砲で)」と家臣たちに指示したとも言われる。

 

この事件は、陸奥南部での伊達氏による裁判権改め(地方統一戦)が急がれた中で、まだ18歳だった新当主の政宗をあなどる不満分子たちの心理も、強く働いての策謀だったと思われる。

 

畠山義継とその家来は結局討ち果たされたが、この事件で輝宗も落命(42歳)することになってしまい、重臣の遠藤基信にも殉死されてしまった。

 

しかしこの輝宗の死は無駄にならなかった所か、これがあったからこそ、その後の政宗を大いに助けることになった。

「見よ! 寛大だった父の輝宗公が、旧態者ら皆のことも配慮して今まで調停に努力してくれていたのに、それを逆恨みして陰謀を企てる者まで現れたのだ!」

「今まで伊達家は、旧態者に対してもある程度は寛大さを示してきたが、もはや第二の二本松義継(畠山義継)を許さないためにも、伊達家の裁判権(身分裁定)についていけない者は容赦しない!」

と宣告し、時代に間に合わない旧態者らは遠慮なく踏み潰していく大きな理由となって、政宗の地方統一戦を早めるきっかけにできた。

父の輝宗と、忠臣の遠藤基信の死を悲しんでいる時間もなかった、多くの家臣たちを急いで指導していかなければならなかったその環境が、まだ若かった政宗を強くした。

 

今まで輝宗に泣きついてばかりいた、時代(裁判権の刷新。時代に合った格上げ格下げの選別)についてこれていなかった有力者らは、頼みの綱だった輝宗を失ってしまったことで窮地に立つようになった者も増えた。


伊達派と反伊達派との態度が明確にされていった一方で、伊達氏の不満分子が、芦名派(佐竹派)として団結して一斉に噛み付いてきたのが「人取橋の戦い」だった。
 

陸奥の覇権が掛かっていたこの人取橋の戦いでは、芦名派(反伊達派)の代理として佐竹氏が大軍を動員して乗り込んできて、その結束を後押ししたため、兵力的には劣勢だった伊達氏は追い込まれたかのように見えた。

 

しかし佐竹氏が陸奥進出のために大軍を動員したことで、関東の反佐竹派らがその隙を狙って、本領の常陸に攻め込む動きを見せたため、佐竹氏は慌てて引き返した。

人取橋の戦いで、伊達氏を苦戦させることができたのは最初だけだった。

 

佐竹軍は、毎度のように陸奥南部に大軍で乗り込んでも、その内に本領に撤退しなければならなかった。

 

それを繰り返している内に陸奥での反伊達連合の求心力も低下していき「よそ者の佐竹氏の力に頼らないと結束できない」弱みばかりを露呈させることになっていった。

陸奥での明確な裁判権を確立することが難しかった、佐竹氏の他領への大軍動員はどのみち長期維持できず、佐竹軍がその内に撤退を始めるまで時間稼ぎして防ぎ切れば良かったのが、伊達軍にとっての戦略の争点だったといえる。

反伊達連合は、短期間で伊達氏を一気に潰し得ず、その勢いも下火にさせていった性質は、規模こそ違うが信長包囲網と共通している所である。
 

伊達氏の犠牲も少なくなったものの、しかし最初の反伊達連合の猛威に、伊達政宗は家臣たちとよく協力し、その裁判権が崩れる様子など全く見せないまま、見事に防ぎ切った。

 

反伊達連合の勢いも下火になっていくと、以後は伊達氏が陸奥南部の有力者らを次々に降していった。

 

父が亡くなって5年後の 1590 年の政宗23歳の時、ついに芦名氏の本拠の黒川城(会津)を攻略して消滅させ、伊達氏による陸奥中部~南部にかけての支配力(裁判力)は決定的となった所で、時間切れとなった。(豊臣秀吉の関東進出)

人取橋の戦いは、伊達氏も一歩間違えればその裁判権も崩壊し、その後の豊臣氏の裁定で伊達家は格下げや改易の可能性もあった、まさに家運が大きく左右された戦いだった。

外に攻勢に出てきていた佐竹氏の方が当初は有利ではあったが、地元の常陸を再統一はできていても、他領の支配力(裁判力)を確立することは簡単ではなく、陸奥は広大だったために余計に難しかったことを伝える戦いだったといえる。

伊達氏は58万石という、近世大名として家格・格式は認められたものの、それまで佐竹氏との対立者だった北条氏との友好関係が減点材料となってしまい、政権下での目立った重役待遇は与えられなかった。

 

逆に佐竹氏は、北条氏と永らく敵対的な関係だったこと、上杉氏とは友好的な関係だったこともあって政権下で重く見られ、伊達氏よりも優遇されていったために、政宗はそこに内心は少し腹を立てていたかも知れない。

 

まだ若かった伊達政宗が、18歳で父を失ってからたったの5年の23歳までに、組織を崩壊させずに、推定で30万石から80万石の支配力(裁判力)までいったん拡大させ、改めて58万石の近世大名として豊臣秀吉に認めさせたこと自体が、相当凄い快挙だったといえる。

 

伊達政宗の若い頃の、他ではなかなか見たことがないこの実績があまりにも凄かったからこそ「もっと早く生まれていれば天下も夢ではなかった器量人」といわれるようになった由縁である。

 

輝宗・政宗の時代は、織田政権、豊臣政権の新たな身分制定の影響力による、時代刷新の対応力が急がれた時代だった。

 

ただ力関係や利害関係だけで家臣たちが簡単に団結できて、皆がいうことを聞くと思ったら大間違いの時代であったことが少しでも伝わればと思い、伊達氏についても、おおまかにまとめてみた。