近世日本の身分制社会(055/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 豊臣秀吉の北条氏征伐 - 2020/12/20

 

豊臣秀吉と北条氏直の和平交渉は、北条家臣による名胡桃(なぐるみ)城事件をきっかけに決裂し、北条氏討伐に向かった。

豊臣秀吉に公認保証されたはずの真田氏の名胡桃城を、北条家臣が勝手に占拠してしまったことは、中央を否定するのも同然の合図だった。

格下げも必至になっていた中での、北条家臣のこの暴走事件は、北条氏にとってもはや改易(領地特権の没収)も免れない、後に引けない事態となった。

北条氏直は、家中で臣従派と交戦派で分かれていたのをまとめきれず、上同士で厳しくなって下を指導していく基本姿勢(等族義務)においての甘さを見せてしまった。

下の気持ちを抑えるために、茶番でもあえて上同士でケンカするふりをしたり、石川数正のように切腹覚悟で一身に責任(等族義務)を負おうとするなどで、状況が理解ができていない多くの下々を導かなければならなかった。

北条氏のその時の上同士の姿勢のもの足りなさが豊臣秀吉から、先の徳川氏や上杉氏と比較されてしまった。

豊臣秀吉としても、北条氏を遠まわしに手を差し伸べようとしても、それができなかった所だったといえる。

北条氏は、敗戦必至になってから「上が責任(等族義務)を一身に背負おうとする」姿勢は見せた。

しかしそれはまずは開戦前、敗戦前からそういう姿勢も出せるようにしなければならない時代に、なってきていた。

 

上の責任(等族義務)として「劣勢になってから、手遅れになってから、多くの下々に甚大な負担と苦痛を与えてから、そういう姿勢が出せないようではもう遅い」のである。

上同士の甘さとは、すなわち等族意識(公務公共性・最低限の国際社会性)の欠落そのものの姿勢であり、上がだらしないその分だけ、下々に甚大な負担と苦痛を与えてからでないと、何もできなくなるのである。

豊臣秀吉は、そういう無責任(無神経・無計画・無意欲)な所を徹底的に制裁する前提で、北条氏討伐に踏み込んだ。

この戦いは「無責任(無関心・無神経・無為欲)な上(権力)の閉鎖裁判権(偽善性癖)の都合でしかないものを下も仰ごうとすれば、甚大な負担と苦痛を負わされるのみで、良いことなどひとつもない」ことを思い知らせる、織田信長の閉鎖有徳狩り(正しさの乱立禁止)を連想させる戦い方だったといえる。(順述)

徳川家康の場合は、羽柴氏から臣従を迫られた時、上同士では事態を深刻に受けていたが、しかしその意味がよく理解できていなかった多くの家臣たちを無視する訳にもいかない所で、上層は内心ではその状況に困っていた。

徳川家康が「それなら、もはや共倒れで」と、家中をまとめるのに手を焼いていた、下々の気持ちを抱きかかえようとしたその姿勢の良さを見て、豊臣秀吉も手助けしようと思えた。

ここは四国の長宗我部氏、九州の島津氏も共通していえた所である。

 

それぞれ、そういう所が評価されたからこそ、敗戦してもそれぞれ出身の土佐、出身の鹿児島近隣までの支配者に戻らされるだけで済んだという、寛大な処置を受けることになった。

しかし北条氏においては、上が責任(等族義務)をもって下の気持ちを受け止めようとする、上同士の何らかの良い姿勢のまとまりが、いまいち見られなかった。

北条氏直はこの時に、勝手な事件を起こした関係者を追求し、切腹させたり追放などをした上で開戦するだけでも、敗戦後の処置も変わっていたかも知れない。

そうした上同士の(自分たちの)の厳しさを示すことができなかった北条氏の立場の弱さが、長宗我部氏や島津氏のように、豊臣氏から家名存続が公認されなかった主な理由だった。

戦国大名として関東最大の勢力を誇ったはずだった北条氏は、豊臣秀吉による全国規模の総軍令の国際中央裁判力を存分に見せ付けられる形で、消滅させられることになった。

この北条氏討伐戦は、東北の一部ではまだ続いていた、家格・格式の既成事実作りのための戦いも一斉に終わらせる企画も含められた。

豊臣秀吉はこの時に、全国の諸氏に北条氏討伐の軍役を課し、まだ正式には臣従を表明していなかった関東以東の諸氏らも、それをもって豊臣政権への態度を明確にするよう求めた。

この軍役に従わない諸氏は、豊臣政権の裁定に従わない反逆(偽善)として、格下げ・改易(領地特権の剥奪・お家取り潰し)する旨を通達した。

この頃の豊臣政権とは、その裁定に反することがもはや、朝敵扱いも同然の立場になっていた。

もちろん豊臣秀吉は、先に権威ばかり振りかざすやり方は嫌い、裁判権(時代に合った社会性・教義性)の手本を先に示しならがら、次にそういうものをもってくる、荀子政治らしいやり方を工夫した。

この時に北条側として戦ったのは関東の一部の諸氏だけで、それを除くほぼ全国の諸氏が、豊臣側の軍役に従った。

北条氏は緒戦では頑張って交戦するものの、全国規模で押し寄せてくる大軍を前に、次々と城が陥落していき、北条軍も早々に小田原城に篭城した。

まず関東周辺では、北からは上杉氏、東からは佐竹氏、南からは里見氏熊野水軍駿河水軍が、西からは徳川氏といった、対北条氏の大包囲網戦が早々に始まり、遠方諸氏も準備が整い次第、関東に続々と詰めかけた。

いかに関東最大手の北条氏といえど、この全国規模の総軍令にはどうにも対抗できずに、早々に篭城策に切り替えられた。

先の四国攻めや九州攻めでも大動員がされたが、豊臣秀吉によるこの時の北条攻めは、全国規模の軍役の実例として、日本史上でも類を見ないほどの快挙だったといえる。

その後の朝鮮出兵(文禄の役)もそうだが、のちの倒幕後の西南戦争が起きる近代になるまで日本は、このような全国規模の軍令を整然と実現できた例は、この豊臣秀吉が最初だったといってよい。

その後の関ヶ原の戦いについては、敵味方で二分した点で除外すると、大坂の戦い(冬の陣)における徳川家康による全国規模の軍令で、巨大な大坂城を包囲しているが、その事例もそれに続く快挙だったといえる。

こうした、全国の諸氏に法的に発令して、整然と目的地に集結させることができた豊臣秀吉と徳川家康は、政権としての威厳を諸氏に見せつける効果も、当然大きかった。

それまでも、源頼朝が地方を従わせるために全国規模の軍令を発足したり、元寇の蒙古襲来の際の得宗家(とくそう・鎌倉幕府の執政権をもっていた一族)が全国規模の軍令をかけて、九州の防衛に向かわせた例はあった。

また鎌倉幕府の崩壊期にも全国的な争いや、建武の新政府のあり方を巡って後醍醐天皇と足利尊氏(表向きは光厳天皇を支持・代理)が対立した時、また室町崩壊の引き金となる応仁の乱といった、全国規模の戦いはあった。

ただし「政権の名目の下に、全国諸氏の一同が整然と目的地に集結する」という意味で、その後も乱れることもなく法的にそれを実現させた点では、19世紀の近代に入るまでの日本ではこの2人が、最初で最後のその実例者だったといえる。

北条氏の本拠である小田原城は、戦国後期には難攻不落の不敗神話になっていたが、豊臣政権による総軍令の小田原攻めによって、それもついに陥落させられることになった。

それまでの小田原城の存在と、関東の覇権争いの背景・性質について、まとめる。


戦国後期には、上杉謙信(上杉景勝の叔父・先代)と北条氏康が、関東の覇権を巡って度々争われたが、北条軍は旗色が悪くなると小田原城に篭城し、優勢だった上杉軍をいつも追い返していた。

上杉謙信(長尾景虎)は、衰退した上杉氏の本家筋から「関東管領(かんれい)」の名目を譲渡されて以来、関東の反北条派を支援する名目で、度々北条氏と関東で争った。(長尾氏=名族上杉氏の再有力家臣・家老格)

「軍を精強に変える負け知らず」で知られていた上杉謙信は、関東をまとめるために度々の関東遠征を繰り返すが、思うように進展しなかった。

常備軍体制も、他領への裁判権の確立も、織田氏ほどはできていなかった上杉氏は、せっかく上野(こうづけ・群馬県)武蔵(埼玉県と東京都)を攻略できても、軍を長期維持できなかったため、すぐに取り返されてしまった。

軍神の化身とまで言われていた上杉謙信は、早々に北条軍と雌雄を決したいと思っていても、北条軍は旗色が悪くなるといつも小田原城に篭城した。

上杉謙信は、多少の堅城でも攻城戦で陥落させることもしたが、北条軍にこの巨大な小田原城に篭城されて時間稼ぎされると、もうどうにもならなかった。

戦国後期になっても、領外への遠征軍を長期維持することは、どこも簡単ではなかった。

半農半士も多く連れていることで、繁農期には領内に戻さないと食料の収穫に響く上に、予定より長期化する分だけ、軍の維持費もかさむ一方だった。

モタモタしていると財政面に支障が出てくるため、北条軍にトドメを刺せないまま仕方なく本領に引き返すと、北条軍は城から出てきて上杉軍に占領された城を取り戻し、関東の反北条派を駆逐していく、ということが繰り返されてきた。

上杉謙信の時代は、

 

 まとまりのなかった能登の畠山氏の騒乱に介入

 

 信濃北部を追い出された村上氏を支援する名目で武田氏と戦う

 

 関東の反北条派の支援のために関東支配を目指す

 

という大忙しの時代だった。

環境こそだいぶ違えど上杉謙信は、織田信長の父である織田信秀と、立場は似た人物だったといえる。

上杉謙信は、仲間割れしがちだった家臣たちをどうにかまとめるために、全て背負い込んで家臣を牽引した人物だった。

本人の主体性によって戦っていたというよりも、領外の要請に応じて戦う性質ばかり強かった。

これは上杉謙信の、領外への主体性がなかったというよりも、織田信秀の時と同じようにこの頃の上杉組織は、まず下同士のいがみ合いをやめさせるべく、上から厳しくなっていく下地を作る過渡期だったためである。

「強力な主体性(名目・誓願)をもって戦う」ということを上杉謙信がしたかったとしても、上杉家中には、まずその下地が育っていなかった。

上杉謙信は、まずは列強としての上杉氏の、頼れる面倒見の良さを見せる風潮を作っておき、どうにか家臣たちをまとめながら、その下地を次代たちのために作ることで、精一杯だった。

支配者のあるべき手本の姿として、織田信秀のようにその下地を上杉謙信が作っておいてくれたから、上杉景勝の代になった時に、越後再統一に乗り出してどうにか組織を改めることができた。

上杉謙信は負け知らずでも、本領越後の近隣領外では、越中も信濃も上野も出羽(でわ。南部が山形県。北部が秋田県)も、せいぜいそれら手前の支配権までしか確立できなかった。

防衛よりも遠征ばかりしていた上杉謙信は、常に覇を競っていた武田信玄、北条氏康と比べると、それだけでもかなり優勢だったといえ、上杉謙信が攻めて来るたびに2者も毎度のように苦戦させられた。

上杉謙信が頑張って遠征を繰り返したからこそ、上杉組織も「今まで通りのことをしていては。ただ強いだけでは」と、上杉謙信が亡くなった時にそこが少しは自覚されるようになった。

「列強の当主にただ頼っているだけでは、軍がただ強いだけでは、領外は簡単には制覇できない」ことの貴重な体験をもって、上杉家中にどうにか教えることができたといえる。

上杉謙信は、多くの家臣たちに「バラバラなままの地方ごとの都合(政癖)にただ沿っているだけでは」を教えるために、地方の都合にあえて合わせて各地で派手に暴れ回っていたようなものだった。

常に1万5000や2万といった大軍を率いて各地を攻める上杉謙信も、小田原城が相手となると、その兵力では力攻めも食料攻めもできなかった。(北条氏と対立して戦ったことがある武田信玄も、この小田原城の攻略はあきらめている)

「かつての上杉謙信も攻め悩ませた、難攻不落といわれた小田原城」だったが、豊臣秀吉が相手となると、それももはや時代の違う過去の話となった。

そうした歴史をもっていた小田原城も、豊臣秀吉の全国規模の総軍令によってついに包囲される時代が到来した。

時間こそかかったものの、大して苦労もせずに小田原城を陥落させてしまった現場に、諸氏も立ち会う形で、時代も完全に変わったことを改めて認識させられた。

豊臣秀吉の号令によるこの小田原城包囲戦は、当時の諸氏を驚かせた、様々な政治的意図も見せられる。

まず、豊臣氏の要請に全国の諸氏を従わせて、関東に集結させただけでも注目する所だが、長期化しても耐えられる、しっかりとした補給線の包囲体制が豊臣政権にできていたことも、大きく注目する所である。

浅野長政、増田長盛(ましたながもり)、石田三成、大谷吉継、長束(なつか)正家、といった、政務に優れた豊臣秀吉の能臣たちに、その準備を既に整えさせていた。

豊臣秀吉の全国への、検地(各地の税収に関する統一測量)や、後期型兵農分離は、進めていた最中ではあったが、豊臣政権はそうした視野で早々に動いていたからこそ、その準備も可能にできた所といえる。

表向き20万の軍勢で包囲したと言われるこの小田原包囲は、前代未聞の大軍でありながら食料はまったく滞らず、全く困ることもなく何ヶ月も包囲し続けることができた。

それも実現してしまったこと自体が、日本で今まで誰もできなかった快挙だったといえる所になる。

豊臣秀吉は、1587 年までに、上杉氏、徳川氏までの北陸・東海の以西までを制覇し、1590 年に小田原攻めが始まるその3年間までには「北条氏がもし反抗してきた際に、厄介な小田原城を陥落させる想定」もぬかりなく準備していた。

それまでは、篭城戦による長引かせといえば、領外に出てきた優勢相手の、維持費と統制に打撃を与えるのが定石だった。

ところがこの小田原城包囲戦では、豊臣政権の財政面も、統制面も、全く打撃など与えられなかった。

諸氏の豊臣氏への不満についても大して目立たず、包囲線の統制も全く乱れなかったため、隙などできなかった。

豊臣秀吉は、大軍で小田原城を包囲している間に、この小田原城の付近の小高い丘を見つけ、それを利用して高い台地を作って、包囲用のための城を築いた。(石垣山城)

その城の台地から、小田原城の内側の様子も丸見えに見下ろせる標高の高い設計がされ、石垣山城の存在は北条軍に精神的な打撃を与えた。

豊臣秀吉は、生野銀山佐渡金山などの著名な鉱山権を掌握し、それを有効利用していた。

鋳造された金貨・銀貨は、気前の良い高額で庶民から、必要な食料や地域の山林の木材などを買い取るやり方で物資集めをしたため、緊急調達の際には庶民も喜んで応じたほどだった。

第二次世界大戦の末期、偉そうな憲兵どもが「鉄の供出ダァー」などと威張り散らしながらいきなり民家に乗り込んできて、家宅捜索を始めるかのように漁り始め、有無をいわさずに金具のついた所有品をもっていってしまうのとは、大違いの対応の仕方である。

金銀をただ独占するだけでなく、緊急調達の時には庶民にかなり気前良く配って協力させたため、何事も人手が足りなくなることもなく、資材もすぐに集まった。

そういう話を聞きつけると、庶民たちも喜んで必要な資材や食料をもって駆けつけたり、またその工事のための人員になろうとしたためである。

東北では豊臣氏による裁定がまだ具体的には及んでいなかったため、今までは陸奥と出羽では統一戦がまだ続いていたことは、大目に見られていた。

しかしこの北条氏攻めをきっかけに南部氏、最上氏、伊達氏といった生き残りの有力者たちも、それも時間切れと観念し、この小田原攻めに加わった。

その後も多少の騒乱は発生はするものの、この北条氏攻めが豊臣政権の日本全域の天下総無事(天下統一)の、総仕上げとなった。

この小田原城包囲戦をきっかけに、全国の諸氏を従える姿を北条氏は見せ付けられてしまい、誰も真似できないその姿に、諸氏も豊臣政権をますます畏敬せざるを得なくなった。

小田原城はもはや、総攻撃を開始しても落城可能だったと思われ、それで早く終結させれば維持費も安くできるはずだったが、豊臣秀吉は攻撃命令は出さずに、包囲による食料攻めを続けた。

いくら優勢でも、大規模な小田原城を攻撃すれば大勢の死者も出る犠牲も、覚悟しなければならない。

それよりも「篭城作戦でいくら長期化されても、豊臣政権は痛くも痒くもない」所を見せつける、良い機会という狙いもあった。

半年ほど睨み合いが続いたが、北条側ではついに餓死者が出始めたため、北条氏直が「自分が責任をとって切腹する代わりに、城内の大勢を助けてやってもらえないだろうか」と願い出た。

豊臣秀吉は、城内の兵だけでなく、それに巻き込まれて一緒に城内に閉じ込められた死にかけていた庶民たちに、食事できる準備をいつでも万全に整えながら、北条氏が降伏してくるのを待ち続けていた。

ただし降伏を表明しない内は、城内で苦しくなって脱出してきても、心を鬼にして容赦なく討ち果たした。

これは織田家臣時代に学んだ、貴重なやり方だったといえる。

織田信長も、一度戦闘になると、庶民が避難するならともかく、一緒になって戦いに介入しようとする地元民も敵と見なし、容赦なく討ち果たして回り、閉鎖地縁で反抗してくる地域であるほど、民家や寺院を焼き払うことを徹底した。

戦闘が終わり、支配者が降伏したり討ち果たされたりするとそれもピタッと止まり「織田氏の裁判権に従うなら、こちらも責任(等族義務)をもって面倒を見る」と宣告して、逃げ回っていた地元民を収容するという、区切りをつけるやり方がされた。

 「一緒に反抗する以上は、そこまでの覚悟をもって反抗せよ」

 「下々を守ることもできない支配者に荷担しても、良いことなどなく苦しむ一方だ」

 「下は上同士の戦いに、安易に介入してはならない」


ことへの、下にも責任(等族義務)も叩き込むやり方もされた。

羽柴秀吉が行った残酷と印象付けられた食料攻めは、鳥取城攻めや、三木城攻めも顕著だが、それらもそうした意味からあえて苦しませる方法が採用された。

「多くの家臣たち、多くの庶民たちを守りきれない者を支持し続けること、そういう大変なことになる」ことを、残酷さをもって敵味方に見せ付けてやる必要も、あったのである。

小田原城で餓死寸前になっていた城内の者たちに炊き出しが行われたが、せっかく助かって食事にありつけても、その半数以上は死んでしまったと言われる。

餓死寸前の者は、いつもの調子で食事をすると、死に繋がる急性の拒食症の禁断症状が起きて、苦しんで死んでしまう者が多かった。

腹が減ってたくさん食べたがる者を軍も止めるが、大半は自制が聞かずに、しばらくすると皆苦しみ出して、バタバタと死んでしまった。

豊臣秀吉は、そうなることが解っていても、まだその残酷な姿を見たことがなかった諸氏の家臣たちにもあえて、その姿を見せた。

食料攻めがいかに残酷な作戦であるか、豊臣秀吉はそこは心を鬼にして、責任(等族義務)を果たせなかった北条氏に従った小田原城内の者たちも、その重みを追求するためにあえて犠牲にし、諸氏にそこを学ばせた。

そして、こういうことは日本ではもうあってはならない、政治を省みずに奪い合いに明け暮れ、食料をろくに確保できなくなり餓死者を多く出すような国内の偽善闘争は、もう終わらせなければならないことを、諸氏に教えた。

 「そうなる前になぜ、降伏しなかった」

 「なぜ下々を苦しめてまで、そこまでの価値もないろくでもない上の都合の意地(政癖)を張り続けようとするのだ」

 「これこそが、下々を良い方向へ導く責任(等族義務)が欠落している、格下げされて当然の無責任(無神経・無計画・無意欲)な支配者失格の、悪い手本なのだ」

という所を学ばせた。

徳川家康は、かつての義理としてせめて、北条氏直と、婚姻関係があった北条氏規(うじのり)の2人の助命を嘆願したかったが、なかなか言い出せなかったのを豊臣秀吉は察していた。

豊臣秀吉も少し考えた上で「北条氏直は当主として本来は許されない所だが、自分から進んで死で償いたいと訴えた態度の良さを評価し、とりあえずは謹慎処分にする」と発表した。

「後見人として実権を握り続けていた父の北条氏政が、病弱体質で不利だった氏直のことを良い方向に導いてやれなかった、その責任(等族義務不足)は重い」と転化してもらう形で、北条氏直は死罪は免れた。

北条氏の全ての領地特権は、剥奪処分となった。

「韮山(にらやま)城で皆を守ろうと、しっかり責任(等族義務)を果たそうとした北条氏規の良い態度は評価する」と、改めて北条家1万石の領主待遇が、北条氏規だけは特別に、公認保証されることになった。

伊豆・相模・武蔵・上野・下総・上総と全体で少なくとも120万石はあったと思われる北条氏は、1万石の領主に大転落してしまったといえるが、北条家の全てが否定されなかっただけでも寛大な処置だったといえる。

小田原城で篭城策を用い、下々を苦しめるばかりで救済できなかった北条氏の始末の悪さは、もはや格下げどころでは済まなかった。

今まで陥落を体験したことがなかった小田原城という、厄介な政癖が北条氏にはヘタにあったからこそ、負けた時のことを想像できなくなる「不敗神話」に頼り始める政癖に陥ってしまっていた。

これは現代でも、北条氏の失策は決してよそ事ではない、「切り札」「最後の砦」の区別がつかなくなってしまう深刻な事例といえる。

簡単に抽出できてしまうようなその「強み」を取り上げたら、その存在価値など何もなくなってしまうようなものは、「切り札」ではなく「最後の砦」であり、その実態は急所の弱みとすらいえる。

主体性不足を追求できれば、おのずと「踏み外している」「はみ出している」ことをそう強調する必要もなく伝えることもできる。

それに関する主体性について追求しない限り「常識がない」「気付かない」ことだけ追求していても、具体的な意味(不足している主体性・当事者性・教義性)も伝わらない。

主体性(教義性・国際品性)など皆無な公的教義どものような無能(偽善者)のように、勘違いや恥に過ぎないものを偉そうに誇らしげに外に撒き散らそうとする汚らしい偽善態度を追求したいなら、それに関する主体性(健全化の向き合い方のはずの教義性)の不足を具体的に追求してやるのが、一番の近道である。

それが人としての最低限の手本(体現体礼の礼儀)なのである。


公的教義のように主体性がないからこそ「口ほどにもない安っぽい強み」「弱み」だと自覚もできずに強調したがるようになるのであり、「最後の砦の弱み」の急所に過ぎないものを「切り札の強み」だと錯覚するのである。

「ただの怠け癖に過ぎない最後の砦(ただの偽善性癖)」を偉そうに掲げて人格否定する(人生の先輩ヅラしたがる・人の上に立とうとしたがる)ことしか能がない公的教義の実態など、まさにその典型例といえるだろう。

所詮は

 

 当事者本人の主体性の整理力(確認・尊重)

 

ではなく

 

 何の工夫も整理もされていない、ただ偉そうなだけの人の権威・総意(威嚇・挑発)

 

に頼って、偉そうに人の力で裁いてきただけ、ただ外圧に振り回されてきただけなのが、それが主体性負け(計画負け)している自身の責任感のなさを何も反省できていない、そういう所を最も踏みにじってやるべきなのである。

「それがないと何の強みもない」という「それがないと」の急所の部分が簡単に抽出できてしまうようなその主体性のなさこそが、大した価値などない「最後の砦の弱み」「切り札の強み」だと勘違いし、口ほどにもない威嚇(挑発)が始まる原因なのである。

 

主体性がないこと自体が、問題なのでも恥なのでもない。

 

当事者本人にとっての主体性と合う・合わないことを、丁寧さ慎重さをもって確認(尊重)し合う姿勢こそが、まずは大事なのである。

 

そこを面倒がって、外圧に(人の力に)頼って裁こうとした分だけ、自身もその外圧で政癖化させてしまうことになのである。

 

きっかけを得て実際にそれを自身の主体性(信念)にしようとしても、実際は全然合っていなかったり、そうでもなかったということは40歳、50歳を過ぎてもいくらでもありえる話である。

 

40代や50代でも主体性らしいものをもっているか怪しい者だらけなのに、ましてや20代や30代の多くがそう簡単に主体性(信念)を確立できる訳がないのである。

 

当事者それぞれの主体性を整合していくことの手助けできる教義性(整理力)をもって、それで初めて助け合いや思いやり、公務公共性だといえる、荀子のいう人としての最低限の礼儀なのである。

 

ここでの「面倒がって外圧に(人の力に)頼って裁こうとするべきではない」という意味は、本ブログの体現例からも説明できる。

 

まず本ブログは開始して以来、閲覧順位は常に最下層を定位置としているが、筆者はそのことでごねたことは一度もない。(最近はむしろ特等席だと思っている)

 

本ブログがもし社会規範に反していると思うなら運営に通報すれば良いだけの話であり、運営が削除対象と判断しない限りは閲覧順位や知名度がいくら低かろうが、削除することは不可能である。

 

今まで運営に通報した者がいたかどうか不明だが、運営から警告を受けたことは一度もなく、こちらも運営に苦情などを投げたことも一度もない。(運営がこちらの存在を認知しているかどうかすら怪しいと思っている)

 

直接としては、一度もコメントもされたこともメッセージを投げられたこともなく、そのためそれらを無視したり削除したこともない。

 

国際品性(国際人道観)での不当・欠陥を誰も指摘できない記事である以上は、後は運営が「ふさわしくない」と判断して警告や削除に動くことがあっても、それは筆者の都合(主体性)の話ではなく、運営の都合(主体性)の話である。

 

筆者が閲覧数(アクセス数)のことでごねたり不満をいっている訳でもない以上は、それは閲覧者の都合(主体性)の話と、アメブロ運営の閲覧数(アクセス数)の管理仕様(主体性)の話なのである。

 

当ブログの閲覧数(アクセス数)の少なさを誰かが笑いものにしたとしても、国際人道観としての問題を誰も指摘できない記事である以上は、それは筆者の都合(主体性)の話とは無関係の連中の都合(政癖・体質)の話でしかない。

 

本ブログの閲覧数(アクセス数)の少なさについて筆者は「どう問題視すればいいのやら」というのが率直な所である。

 

本ブログはいってみれば、図書館においてある、有志しか手にとらないような史学(教義史・裁判権史)関係の書籍みたいなものだと、自分では位置づけているためである。

 

筆者がその態度(主体性)である中で、本ブログの閲覧数(アクセス数)の少なさを誰かが問うなら、それは筆者の都合(主体性)に対してではなく、閲覧者たちの都合(主体性)と、アメブロ運営の閲覧数管理の仕様(主体性)に問う話なのである。

 

国際人道観に不備がない記事である限りは、第三者に告発権などなく、その記事がそのまま存在し続けるかどうかも運営または筆者が決める話なのである。

 

これはどこの運営なのかに関係なく、仮に本ブログが削除されたら、それを契機によそに鞍替えして「国際人道観に反している理由も説明もなしに、あの運営に一方的に削除された」と書いたことで、言論判断のことでそこの運営の印象が悪化したとしても、その原因も筆者の都合(主体性)とは無関係の、その運営の都合(政癖・体質)が招いた話に過ぎない。

 

このように、相手が善人だろうが悪人だろうが、当事者本人の主体性がどのように通っているのかを普段から丁寧さ慎重さもって確認(尊重)していくことを怠らなければ、少なくとも物事の本筋(公務公共性・国際人道観)から見誤ることは、防止していけるのである。

 

「当事者本人にとっての主体性をしっかり確認(尊重)しようとしてこなかった、それも指摘してきても無視し続けてきたその者が悪い」という状態にさえしておけば、態度の悪さ次第ではいくらでも恫喝してやれば良いのである。

 

人が作ったに過ぎない外圧に頼って、それで偉そうに(ただ面倒がって)人を裁こうとした分だけ、本当は自身で決めるべき所まで外圧に決めさせてしまった自覚(等族意識・公務公共性)もなくなっていく、だから自身の主体性と、人の主体性という当事者性の区別もつかなくなっていくのである。

 

外圧に決めさせなかった事例を知覚できずにいきなりケンカ腰で偉そうに人格否定(人生の先輩ヅラ・迷惑ヅラ)をし始める、その無様な態度(偽善者)の典型こそが、今の公的教義なのである。

 

当事者本人にとっての主体性と合っていない、全くそうなっていないことが自覚されるからこそ、最後の砦に過ぎない弱みにただしがみついていただけの無様に気づくようになり、本人に合いそうな価値と整合しようとするのである。