近世日本の身分制社会(054/書きかけ145) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 豊臣秀吉の天下総無事令と、北条氏との対立 - 2020/12/13

本能寺の変が起きた 1582 年から、5年後の 1587 年までには羽柴秀吉は、上杉氏、徳川氏、島津氏と列強を降す快挙を示した。

朝廷の廷臣たちにも、武家の棟梁(日本全体の家長としての手本的存在)を公認させ、豊臣秀吉を名乗るようになる。

関東大手の代表格の北条氏も、結託するかどうかでいた徳川氏に、先に臣従されてしまったことで気まずくなり、豊臣氏に対する表向きの敵意も、いったんは控えるようになった。

徳川家康は、徳川重臣の石川数正の出奔事件(人質問題に絡み、信濃の支配総代の小笠原貞慶に、羽柴派に鞍替えされてしまう事件)を初動のきっかけに、臣従することになったことは、先述した。

それまで徳川家康は、強固に結んで羽柴氏に対抗するかどうか話し合っていた北条氏直とは「一緒に臣従する外交案」についての、相談もしていた。

徳川家康は臣従するきっかけを得て、当時の状況がよく解っておらず動揺していた者も多かった徳川家中を、なんとか鎮めながら、どうにか羽柴氏に臣従することができた。

羽柴氏が天下総無事に乗り出している最中の「3ヶ国から5ヶ国の支配者に台頭できた徳川氏の実績」がほとんどそのまま認められる高待遇を得たため、徳川家臣もそれなりに納得しながら、形式上は豊臣氏の陪臣扱いとして、渋々従うことになった。

羽柴秀吉が母と妹まで外交題材として用い、一時的な縁組で親類待遇まで受けた徳川家康は、四国の長宗我部氏、九州の島津氏と比べると、かなり有利な格式が認められたといえる。

もう一度整理するが、豊臣秀吉の天下総無事戦の過程で、どの諸氏も格下げされてもおかしくなかった中で、徳川家康がその知遇を得られたのは、豊臣氏とは軍事的に対立しても、それまでの態度の良さが再評価された所が大きい。

徳川家康は、利害を度外視して不利を承知で、羽柴秀吉に追い込まれて窮地に立っていた織田信雄に対し「それまで織田氏とは盟友関係だった義理は、最低限として」果たそうとしあえて加勢し、小牧・長久手の戦いで羽柴氏と対立した。

野心ではなく信用問題の義理であえて刃向かってきたという態度、そして閉鎖的ではあっても徳川家中をよく団結させることができていた姿勢が、羽柴秀吉の内心で、評価させることができていた。

上杉景勝も、それまで羽柴氏とは友好的な関係が続けられていた、というだけで良い知遇を受けたという訳では、決してなかった。

時代に合わなくなってきていた、大手組織の裁判権(社会性)を、自力で再構築し、時代に合った体制作りに懸命に務め、下々を良い方向へ導く責任(等族義務)に取り組んでいた上杉景勝の、それまでの苦難の姿勢が、羽柴秀吉に高く評価された。

その上杉氏・徳川氏とは、立場的には同列だった北条氏においては、支配者(地方の代表・地方裁判権の家長)の手本として、従来以上の何らかを、豊臣氏から評価がされるような、目立ったものを見せられていた訳ではなかった。

臣従後の徳川家康はその後、北条氏に「不利になりそうになったら便宜するから、北条氏も早く臣従してはどうか」と北条氏直にもちかけていた。

北条氏は、外交的には豊臣氏が武家の棟梁(日本最大の家長権=上級裁判権の頂点の代表)だと認める態度には、いったんはなった。

しかし豊臣秀吉から、臣下の典礼を催促されても、北条氏はそれは渋り続け、徳川氏の取り持ちにも良い返答はできないままでいた。

上杉氏と徳川氏に比べ、従来以上の良い所を見せられていなかった北条氏は「格下げされることが目に見えている」という見方が強かったためである。

 

北条氏は、関東最大の覇者として君臨し続け、上杉氏や北条氏よりも格上だという自負も強かったからこそ、上杉氏と徳川氏よりも格下扱いされることも必至になってきたその受け入れにくい難局の直面に、北条家中も同様した。

上杉氏と徳川氏が、大した格下げはなかった所か、むしろ厚遇扱いされてしまったために、それらよりも格上を自負し続けていた北条氏にとっては、その意識から余計に受け入れにくい状況になってしまっていた。

これは、諸氏のそういう所もよく吟味していた、豊臣秀吉の政略も強く働いていた、北条氏のそういう所を付け込んだ圧迫でもあった。

豊臣秀吉から見れば、関東・北陸・東海の3強であった上杉氏・徳川氏・北条氏の内、上杉氏と徳川氏の2者を抑えこむことができたなら、北条氏をもう抑えこむのも簡単な話となっていた。

豊臣秀吉は、北条氏にも譲歩の余裕も見せていた。

徳川氏を臣従させる際には「地方裁判権の都合に過ぎない、徳川氏と北条氏の間の名目だった沼田問題」「うやむやにされてしまった」と後でごねさせないよう、対処している。

 

その時に豊臣秀吉は、真田氏が支配権を握り続けていた、北条氏がこだわっていた沼田城(上野北部)を、真田昌幸に要請して、譲渡させている。

それによって、天正壬午の乱以後に続いていた上野・甲斐・信濃の、3者の争奪戦の、地方の都合に合わせた和解のさせ方で、和解終結させる形を採っている。

真田昌幸は、それまでは何が何でも沼田城は手放さなかった姿勢だったが、豊臣秀吉の仲介によってついに譲渡することになった。

沼田城の領地権を手放す代替権として、本領の信濃東部で領地の加増を受けることで調整されたために、真田氏も納得して、沼田城を手放すことになった。

しかしこの時、沼田城の西側の名胡桃(なぐるみ)城だけは返還されず、ここだけは依然として真田氏の領地として認められ続けてしまった。

これは当時の北条氏から見ると、かなり屈辱的なやり方に見えたのではないかと、筆者は見ている。

それはまるで「天下総無事側の直臣扱いである真田氏が、上野(こうづけ・群馬県)の北条氏の動向の監視役なのだ」といっているのも、同然の処置だったためである。

北条氏から見れば真田氏は

 

 「1ヶ国の支配者ですらない、せいぜい郡1つ程度の支配影響力しかない規模の、格下もいい所の小大名」

 

 だったのが、今度は

 

 「その格下のはずの真田氏が、北条氏を監視する立場として強調」

 

されてしまったことは、北条氏にとって屈辱もいい所だったといえる。

これは、策士らしい豊臣秀吉からの、政略的な恫喝の意味もあったと、見ることができる。

北条氏としては、よそ者の信濃衆の真田氏を、上野(こうづけ。群馬県・北関東)から追い出して上野全域を完全掌握したかったのを、豊臣秀吉はそこに付けこんで認めなかった。

 「沼田城の譲渡手続きをもって、列強3者の和解(停戦)を採り計らったではないか」

 

を言い放ちながら

 

 「所詮はそういう、閉鎖的な時代遅れの地方裁判権の政癖(都合)から脱却できていない」

 

相手の苦痛に付け込むという、策士らしい遠まわしの嫌がらせだったといえる。

その部分は、徳川氏も同じように、その苦痛の対処に同じく苦労した所である。

信濃問題における深志城(松本城)の小笠原貞慶を利用した、徳川家康に対するあてつけのやり方が、そこは全く同じだった。
 

徳川家康にとっては、格下の傘下であったはずだった、信濃の名目を有していた小笠原貞慶が、今度は天下総無事側に扱われるようになると、その格下が逆に徳川家康を監視する立場に逆転させられてしまったやり方と、共通しているといえる。
 

その時の小笠原貞慶は、徳川氏に加勢してもらったから府中(信濃の政局の深志城)を奪還できたという義理から、そうなったからといっても格上の徳川家康には偉そうな態度は採らずに、本人としては「そういうことになってしまった」でやり過ごしていた。

 

一方で上杉景勝の方は、組織の再構築に乗り出せば外圧に耐えられずに、潰れるかも知れなくても、積極的に懸命に立て直したからこそ、上杉氏はそうした閉鎖的な地方裁判権の政癖(都合)から、国際品性化に向けて脱却することができていた。

徳川家康は、臣従しなければならなかった時に、その部分で少し手を焼いている所があった。

 

徳川家臣は、上層ではその国際性は心得ることはできていたが、多くの家臣や庶民たちは地方裁判権(閉鎖的な社会性)に過ぎない政癖(都合)を中途半端にしか自覚できていなかったことが、小笠原貞慶を介した恫喝によって、露呈していた。

 

上層はそこを認識できていたが、徳川家中を「もうそういう時代ではなくなってきている」ことを理解させることに手を焼いていた様子が解ったからこそ豊臣秀吉も大目に見るやり方で、徳川氏を臣従させる形を採った。

豊臣秀吉のこうしたやり方は、織田政権時代に見てきた、旗本吏僚体制が、やはり大きな手本になっている。

徳川政権の江戸の旗本体制(幕藩体制)でも特徴的だった、門閥権威の基礎にそれがなっているが、今までの旧態政癖(時代遅れの偽善性癖)を、織田信長による偉大な手本によって全国が上から一新されていったからこそ、その体制も可能にしたといえる。

何度か先述してきたが、織田政権が台頭するまでの日本は、教義指導力(名目・誓願・上級裁判権=家長手本姿勢)を軽視した、すなわち

実態整理(状況回収・意見回収)を怠けた、見た目の数物的な大きさや多さばかりで、家格・格式の優劣上下を判定しようとする傾向ばかり強かった。

鎌倉政権時代も室町政権時代も、そこは何度も見直されたものの、どれも長続きせずに、その数物偽善化への逆戻りを繰り返したのが、戦国期だったといえる。

人徳(教義力・戦略論・社会全体責任)軽視の、長続きしない一時的な人望(支持力・戦術論・自己責任)ばかり身に付けようとし、だからこそ地方どころか郡1つまとめることすら長続きせず、閉鎖有徳の横行による正しさの乱立にも、歯止めがかからなかった。

戦国後期に織田信長が尾張再統一を果たし、家中の法が大幅に制定されていった際に、大幅に整備されていった、旗本吏僚体制や常備軍体制(前期型兵農分離・のちの身分統制令のきっかけ)も、日本が法治国家化(等族社会化)していくための重要なきっかけとなった。

それまでは、官吏(政務官・政務代理人)に預けて任せる領地や人員は、「預けた」ということにしていても、数年もすれば全て「公認されて頂戴したもの」になってしまう、公務公共意識(等族意識)が低すぎるその社会風潮が当たり前のような横行が、永らく続いた。

戦国前期では、私物化を私物化だと、どこの家臣たち(家来筋たち)もそれを自覚もろくにできなかった。

家臣(家来筋の親類たち)に、役割としての特権と権威を預けても、また当主がそれを握り続けても、何かあれば重臣・親類(家来筋)たちが横領し始め、それで定番のように閉鎖自治権(正しさの乱立)が作られるばかりだったのが、戦国中期までの時代である。(組織家長権問題=上級裁判権問題)

公務公共義務(等族義務・無限責任・上同士で厳しくなり合う)が、今まであまりにもいい加減過ぎたその社会風潮を、全国的に一新させるきっかけになったのが、織田政権である。

数物的な指標のみでしか格上・格下としか認識しようとしない、教義(確認・尊重)と権威(威嚇・挑発)の違いも区別できなければ使い分けもできない、国際品性態度というものを全く知覚できない今の公的教義のような口ほどにもない態度が、ついに裁かれ始めたのが16世紀の等族時代である。

これは政教分離の問題と似たような話として、中世までは教義指導力(上級裁判権の整理)が不足し過ぎていた、つまり家格・格式の公正な整備が甘かったらこそ、官吏(政務官)はその規模に合わせた、軍事力などの威力的な権威を持たせないと、その体制が執行できなかった。

威力(時代遅れの中世的な数物主義・偽善性癖)が背景にないと、体制がろくに維持できないような、主体性(自力教義力)が皆無なその時代遅れの発想自体が、教義性(裁判権の整理=時代に合った社会性の整理)を怠けて力関係にただ頼り切ることしか能がない、国際品性が欠落している今の口ほどにもない公的教義のような政癖(性癖)なのである。

イチイチ威力(数物主義)を抱き合わせてやらないとろくに秩序も維持できない、国家や組織にとって致命的になる、主体性(自力教義力・教義指導力・その整理力)の自覚の無さこそが、いつまで経っても世が良い方に進んでいかない、正しさの乱立の原因なのである。

そこを皆が人任せに見過ごし続けて、それで法治国家の姿(国際品性)が育っていく訳がない、その時代遅れの威力主義(数物主義)に過ぎない、教義指導力不足(社会全体責任の不足)の愚かさが、戦国後期になってようやく少しは自覚されるようになったのである

織田信長から見ればもはや病的だったすらいえた、日本全体のその旧態偽善性癖の、その一斉の打ちのめし回りを開始し、荀子政治的な強力な名目(誓願)で公正性を示しながら、誰もできなかったその公務公共改め(等族社会化)による大改革の前例を作ったからこそ、豊臣政権と徳川政権も成り得たのである。

例として述べていくと、まず幕藩体制時代の中の、旗本待遇(徳川本家の直臣扱い)は2000石もあれば、国政に参与する資格もありえた、上層待遇だったといえる。

大経済都市であった江戸の、その治安や訴訟を管理した、江戸町奉行の長官は、少なくとも2000石級の高位の旗本士分くらいの家格の者が務めるような、幕府の重役のひとつだった。

国政全体の執政という大任の老中(ろうじゅう・今の各省の大臣たちに相当)は、幕府から見込まれていた1万石以上の外様大名から参与した者や、10万石以上の譜代大名から参与した者も多くいたが、旗本で3000石も受けていれば、この老中並みの待遇と言われるほどだった。

江戸時代の士分待遇の大勢が、50石や100石が大半だった中、その彼ら見れば500石もの士分待遇を受けられていた者は、別格の上級武士に写った。

藩士だけでなく旗本でも500石以上、1000石以上になってくると、数えられそうな数になってくる中、それを上回る3000石や5000石といった大身の者たちは、もはや組織の重役並みの待遇だったといえる。

4万石以内の小藩の場合、家老格・重役が1000石も受けていたなら、かなりの高待遇だったといえる。

それら大身の由来は、徳川家(または藩主)と古くから縁があり、元々は地位が高くなかった者でも、譜代(古参)としての今までの貢献の永続勤務が認められて、その待遇を受けるようになった者たちも多かった。

旗本の中には、元々は支配者層だったのが、全てを失う形でいったん失脚するも、かつての地位や格式がのちほど再評価されて、救済処置として旗本に組み込まれた者も多かった。(その者にとっては格下げになる)

ただし2000石や3000石の大身だからといって、将軍家(徳川本家)や藩主との縁や信用関係はもちろんのこと、政治的な先見性意見や功績なども見せていないと、藩政参与ならともかく、幕政参与においては、大身というだけでは簡単ではない世界だった。

3000石並みの大身の旗本たちも加わる幕府閣僚の決議で、5万石、10万石と有する全国の諸藩に対し、武家諸法度の新法を告知し、賞罰を指導し、加増・減封・国替を執行できるようになったのは、織田政権時代の旗本吏僚体制の貴重な前例が、大いに見習われたおかげだったといえる。

1万石以上の藩主と、1万石未満の旗本という大まかな区分けとして、藩という区画の各地支配者である藩主(近世大名)と、徳川直臣の旗本とでは、藩主の方がもちろん格上という簡単な見方はあった。

しかし

 幕政に参与したことがない外様大名(その経緯をもたない家系)



 幕政に参与したことがある旗本(その経緯をもつ家系)

とでは、幕府の認知(尊重)のされ方もまた違ってくる(先々の優先権に差がでてくる)ため、その門閥(その家系の経緯)次第では、特別扱いされていた旗本については、藩主の方が必ずしも格上とは単純にいえない所もあった。

例えば3万石の小藩の藩主の場合、大まかには、その約半数が藩士たちの手当てに充てられ、残り半数の1万5000石分で、政務と設備維持(痛んでくる城内や、痛んでくる橋や道路の修理など)の費用に充てられていた。

 

それだけでは藩主の家族を養うには不足することも多く、参勤交代のための費用も、江戸の藩邸の維持費もかなり圧迫したため、特に江戸時代の後半では、藩主ですら何の贅沢もできないことも、当たり前になっていった。

 

大まかには1万石以上の士分待遇が藩主(大名)扱いになるが、藩主の場合は表高(おもてだか)1万石扱いは、実高(じつだか)は1万4000石くらいはあった。

 

しかしその大部分が、藩士たちの取り分と、藩の政務費・維持費に充てられることになるため、むしろ小藩の藩主よりも3000石や5000石の旗本の方がその面での苦しさが少ない分、裕福な立場だったとすらいえた。

江戸時代のそうした特徴として、将軍家(江戸の徳川本家)や御三家(紀伊家・尾張家・水戸家)の直々による「御目見え(おめみえ)待遇」が顕著である。

地位が大して高くない藩士や旗本でも、例えば思想学(政治学)や医学書のことに詳しかったり、生物学的なこと(植物や動物のこと)に詳しい、また芸事の文化面のことなどで、具体的に認知(尊重)された者が、その特別待遇を受けることもあった。

本家や御三家から直々に、好印象の認知(尊重)がされた藩士や旗本は、何かあれば優先的に起用されて格上げされる可能性が高まるため、その時点では200石程度の立場の者だったとしても、存在感としては500石以上の格式として見なされ始めたりした。

この御目見えは「その者を優遇し、優先権を与えて格上げせよ」という意味が求められる場合も多かった。

そのため何らかの機会で、この御目見えの公認を得た藩士に、藩主もそれを無視する訳にはいかなくなり、もし人事差別でもしようものなら藩の責任問題になるほどの影響力があった。

話は戻り、そうした前身が既にあった織田政権時代ものが、豊臣秀吉の天下総無事令でも、含まれていた。

 「何か意向があれば、まずは全て豊臣政権を通せ」

 「豊臣政権に許可も認知もされていない基準を通そうとする、勝手な閉鎖裁判権(国際性などない閉鎖的な上下権威の社会性。正しさの乱立)は、全て反逆(偽善)と扱う」

そして豊臣秀吉が直々に公認した

 豊臣政権の傘下公認の、深志城(松本城)の、小笠原貞慶

 豊臣政権の傘下公認の、上田城・名胡桃城の、真田昌幸

に対し、所詮は地方裁判権でしかない従来の政癖で「お前みたいな格下大名に」などという態度を、徳川家康も北条氏直ももし出そうとすれば、それ自体が国際品性の欠けた時代遅れの討伐対象の態度と見なされる社会性(裁判権基準)に、日本はもう向かっていたのである。

朝廷の方からも認められ、新政権をいよいよ確立したも同然になっていた、別格の豊臣秀吉からすれば

 「たかが100万石そこらの当主に成り上がったに過ぎない、地方裁判権止まりの分際(武家の棟梁としての家長器量もない分際)が、日本全体の格上・格下の基準を決める資格などないのだ」

 「これからは、そういう所は新政権(豊臣政権)が全て吟味し、裁定する時代になったのだぞ」

という、上同士で厳しくなり合う、上から順番のその恫喝だったのである。

徳川家康は「豊臣氏の直臣扱いされた小笠原貞慶」の存在を通して、北条氏直は「豊臣氏の直臣格にされつつあった真田昌幸」の存在を通して、豊臣秀吉からそこを恫喝されたのである。

もしそれらに「お前みたいな格下大名に」という態度を採れば、それは諸氏への身分裁定をする立場の豊臣政権を、公然と否定するのと同じ、すなわち天下総無事令を否定して、宣戦布告するのも同然だったといえる。

そういう状況になってきていた中で、豊臣秀吉は、所詮は地方裁判権止まりの法(社会観)に過ぎない北条氏の政癖(都合)に、自力でどう対応・脱却できるのか、それについてどういう態度に出てくるのかを見た。

この時の北条家中も、当時の徳川家中の時のように進退を巡って、騒ぎ始めたり動揺するようになった家臣も、反抗するか臣従するかで揺れるようになった。

隆盛を見せた徳川氏や北条氏のような戦国大名ほど、もはや日本が新政権で1つにまとまろうとするような事態に直面すると、地方裁判権止まりの従来の政癖(都合)に陥って、それにすぐに対応できない傾向もそれだけ強くなる弱点もあった。

その点では、信濃における小笠原貞慶、真田昌幸、木曽義昌らのような、どうにか戦国時代を乗り切ったような小口の代表たちの方が、意見の分裂も起きにくく、すんなり豊臣氏に従いやすかった。

 

かつては力をもっていたがすっかり衰退し、列強に潰されかけていた四国の河野氏の一族や、九州の大友氏、伊東氏なども、天下総無事令を助け舟とばかりに、すんなり豊臣氏に従いやすかった。

上杉景勝は、潰れるかも知れなくても、織田氏の背中を追いかけるように国内の再統一戦に思い切って踏み込み、散々苦労して「国際的でなかった従来の地方裁判権(旧態政癖)」とはすっかり決別することができていたからこそ、豊臣氏にすぐに臣従することができた。

150年の無政府状態が続いた日本が、豊臣政権という日本全体の天下総無事令の名目(誓願)において、ついにひとつにまとまろうとしたこの時期とは、大手たちにとっては避けて通れない、非同胞拒絶反応(合併アレルギー)に向き合わければならない大転期だったといえる。

現代でも、大手同士の商社や金融の合併が 1990 年代から目立ち、2000 年以後も目立つが、大手同士の合併だからこそ、しばらくは旧A社筋と旧B社筋という閉鎖的な門閥意識からは、すぐには脱却できなかったりするものである。

合併しても、従業員たちとしての各職場がすぐには大変わりすることはなく、出資主がただ変わっただけのような感覚でしばらくは勤務体制が続けられる場合も多い。

しかし統合したことでだんだん体制も改められ始めると「今まではそうじゃなかった」と、以前と以後を比較し始めて、変化に対する不満を言い出す者も、慣れない間は少なからず出てしまうものである。

その過程で、旧A筋が決めたことなのか、旧B筋が決めたことなのかを気にするようになり、社の方針や部署間ごとの主導権争いのような「今までのここでのやり方ではこうだった」といがみ合うことも、少なからず起きてしまうものである。

同格の合併ではなく、大手が中小を買収して傘下に吸収していく場合も、傘下は大手体制に改められることの利点はある一方で、中小ならではの今までの良さの部分も、少なからず否定される部分も出てきて、慣れない内の現場は少なからず不満が出たりするものである。

豊臣秀吉は、そこを理解させるのが難しかった徳川家臣たちは助けてもよいと思えたから、和解の方向で遠まわしに徳川家康を手助けして、臣従の典礼をさせる方向にもっていった。

北条氏に対してもそこは同じように、どのような様子や見せ、どのような態度に出てくるのかを見た。

しかし豊臣氏と北条氏の交渉は、1587 年から3年続いたものの、北条氏は豊臣政権への臣従になかなかまとまらずに、揺れ続けた。

豊臣秀吉は表向きは強気で北条氏に臣従を迫っていたが、何かきっかけがあれば内心では、北条氏に対しても、臣従しやすくするための手も、差し伸べるつもりで見ていたと思われる。

しかし北条氏は進退を巡ってモタモタと3年過ごし、そんな中でついに「名胡桃城事件」を起こすことになった。

豊臣氏の直臣格も同然になっていた、真田氏の名胡桃城は、北条氏の家臣たちによって突如として攻め込まれ、占拠されてしまったというこの天下総無事令の違反が、北条氏滅亡のきっかけとなる。

これは、北条氏が臣従する方向で、ようやく話が進み始めていた矢先に起きた事件だった。

この事態に豊臣秀吉も表向きは、サジを投げるように「今までは交渉の猶予も寛大に見てきたが、もはや許せん!」とするきっかけとなった。

この時の北条氏は、家臣たちも格下げ覚悟で、臣従論で固まり始めていたからこそ、一方で「旧態政癖を脱却できないままその方向に進んでいくことに危機を感じた一部の反対派」が、その方向を破断しようと暴走したことが、原因だったと思われる。

規模こそだいぶ違うが、第二次世界大戦の時の、日本軍の真珠湾攻撃の時の状況に似ている。

日本の外交大使がアメリカと和平交渉を進めている様子に、戦闘(威嚇・挑発)で解決することばかり考える軍部(大本営)が、外務省の意向を否定するように、和平などさせないために先制攻撃を仕掛けて、交渉姿勢を強引にぶち壊してしまった状況である。

軍国主義で日本の政治主導権までほぼ一手に握り続けていた軍部(大本営・陸軍派閥)は、第一次世界大戦であまりにも負け知らず過ぎたその過信が、結局は災いした。

これは、第一次世界大戦のままの遅れた国際軍事裁判権の感覚(政癖)で「我々が規定する大東亜共栄圏さえ良ければ、世界全体のことなどどうでもいい」と世界に発信してしまったも同然の、戦略的にはあまりにも軽率すぎる先制攻撃(真珠湾攻撃)だったといえる。

この時の日本側のやらかしは、日本と連合国側との互いの非も考慮する議論の余地もある所だが、しかし事情はどうであれ、表向きとしてはこれはあまりにも日本に不利過ぎる、日本のやらかしだったといえる。

 

世界に基準を発信しなければならない立場の日本軍は、その国際品性(外交戦略・上策)が欠落したままに第二次世界大戦を突っ走るという、旧式政癖(体質)から完全に抜け出せなくなっていた姿を見せてしまった以上は、そこをあなどられても仕方がない所だったといえる。

 

その点では確かに、日本と対立した連合国側にしても、そこへの無責任さについては実質大差がなかった。

 

しかし日本が、その実態を自分たちから先にさらけ出してしまったことが、かえって連合国側に「さも前からそういう名目だった」かのように、相手のそこを正当化させてしまう機会を、与えてしまったのは致命的だった。

そういう所から「国体護持(国際国家)を偉そうに掲げる割には、外圧の威嚇(挑発)にまんまと乗せられるばかりの、世界(外)に対する自国(自分たち)の主体性(教義指導力)のなさの矛盾」も自覚できなくなっていくのである。

国際品性(世界戦略)の原則として、織田信長や豊臣秀吉のように「まずは教義指導力(国際品性・国際戦略)をもって相手をガツンと説教する態度」から始められない、それもできない無能(偽善者)しか、陸軍参謀部には結局いなかったことの現れである。

これは現代の個人間でも会社間でも国家間でも、「こちらの方が格上だ!」という態度を出す以上は、それだけの全体視野の手本(等族義務・説明責任・アカウントアビリティ・アカウンタビリティ・債務信用の公布)を示すことが当然の、人としての最低限の国際品性(荀子のいう礼儀=体現体礼)の問題である。

まずそれも心得ることもできない分際(偽善者)が、道義上の関係も無い相手に対して偉そうに正しさを掲げて押さえつけようとすること自体、無関心・無計画・無神経・無意欲な汚らしい偽善性癖を発散することしか能がないという自覚もできない、人格否定(人生の先輩ヅラ)する資格などない身の程知らず行為なのである。

話は戻り、豊臣秀吉は、臣従に進みつつあった北条氏直が、そこを結局まとめきれなかった姿に、豊臣政権の裁定としてもはや許す訳にはいかなかった。

ただでさえ格下げも必至の立場だった北条氏が、家臣たちが暴走して問題を起こしてしまい、3年かけたが結局それを抑えきることができなかった当主としての姿を、出してしまった。

臣従した所でもはや格下げ所か、改易(北条氏全体の、全ての領地特権の没収・剥奪)処分も覚悟しなければならない状況に、なってしまった。

すなわち「どのみち改易処分になるなら、少しでも抵抗して希望を見出す」という選択しかなくなってしまう立場に、北条氏直はなってしまった。

豊臣秀吉としても、名胡桃城の事件を以って、北条氏直はもうそういう立場になってしまったと認知し、北条氏討伐に踏み込んだ。

この時の豊臣秀吉の北条氏征伐(小田原征伐)の企画は、東北での天下総無事も一気に進めようとする政略にもなるよう、大いに活用された。

今まで見たことも聞いたこともない、前代未聞の全国的な総軍役令が発動され、豊臣政権の名のもとによる日本中の諸氏の大連合軍によって、広大な城として知られていた小田原城は、包囲された。

「兵で全て包囲するのは無理だと思われていた、広大だった小田原城」も、ついに大兵で包囲されてしまう時代になったという、今まで誰もできなかったことその総軍令ができた豊臣秀吉の裁判力に、諸氏もますます畏敬せざるを得ない立場になった。

北条氏の本拠であった相模(さがみ・神奈川県)の小田原城は、5代掛けてどんどん拡張されていった城として著名で、豊臣秀吉が大坂城を建造するまでは、日本で一番大きな城と見なされていた。

小田原城は、東西が周囲9キロ、他説では11キロにも及んだといわれている。

観光施設として保存されている現在の小田原城は、戦国期の頃の広大だった小田原城はすっかり破却された後の、江戸時代に藩庁として立て直された土塁の城である。(小田原城の資料館の方で、戦国期の時の話も紹介されている)

戦国期に拡張されていった小田原城の建設のされ方は丁度、古代中国の秦の始皇帝が建設した、有名な「万里の長城」の建築のされ方と似ている。

戦国期の北条氏は、相模で不要になってきた各地の支城は破却せず、小田原城から城壁を支城まで延々と建設して繋げていく形で、さらにその支城から隣の支城へと、壁をどんどん建設して繋げていくことを繰り返して、町や田畑も囲いながら、大規模な防御施設として拡張されていったという、特殊な城だった。

広さだけでいえば、豊臣秀吉が建設した、総掘りまでの全域の大坂城よりも、小田原城の方が大きかったと思われる。

ただし政局の権威も含めた、城の施設としての快適性や機能性も全て評価すると、豊臣秀吉が建造した近世的な大坂城はもう、中世的な小田原城を完全に上回る規模の城だったといえる。

小田原城を上回る大坂城を、豊臣秀吉は数年で建設してしまったことも、それも誰もできなかったことの全国への、大きな見せつけにもなっていた。

 

次も引き続き、豊臣秀吉の天下総無事がどのように進められていったのか、当時の日本はどんな様子だったのかについて、まとめていく。