近世日本の身分制社会(053/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 羽柴秀吉の朝廷対策と、豊臣姓 - 2020/12/06

羽柴秀吉の東側での天下総無事も 1586 年には、上杉氏と徳川氏の二強を傘下に降すと、もはや新政権を設立したも同然といえる状態となった。

1587 年には大軍で西側大手の島津氏も降し、羽柴秀吉に誰も逆らえないほどの器量差(教義指導力の差)を、いよいよ諸氏は見せ付けられてしまった。

朝廷(今の宮内庁の前身。当時は国際外交庁として、また日本全体の教義を管理する教育庁的な役割もあった)は、賤ヶ岳の戦い以後の羽柴秀吉に関心を示し、交友をもとうと官位を与えるなど便宜を計り始めていた。

しかし秀吉本人は、その朝廷の意向には大して関心がないかのような態度を装っていた。

羽柴秀吉は、後世の評ではやたらと「朝廷に無関心だった」「最下層庶民出身だからその感覚に疎かった」かのような強調ばかりされがちだが、そんな訳がない。

織田政権の最重要幹部のひとりとして、さらには織田信長が目指していた国際新政権の設立事業をよく見てきて、工夫をしながら見事に引き継ぐことができた羽柴秀吉が、朝廷に無関心だった訳がない。


1587 年までに、上杉氏、徳川氏、島津氏といった大手まで臣従させた羽柴秀吉に、朝廷はいよいよ慌て始める。

羽柴秀吉がそれまで、皇室に対する具体的な臣下の礼を採っておらず、廷臣たちはそれを催促しなければならない立場だったためである。

羽柴秀吉は、朝廷に無関心だったのではなく、自分の方から朝廷に歩み寄ろうはしない態度を通し、それで廷臣(朝廷の公家たち=皇室に仕える側近貴族たち)たちが「どういう態度に出てくるのか傍観していた」のが正確である。

 「何の考えも工夫も責任(等族義務)も無しに、ただ偉そうに従来の名族高官主義を振りかざして人の上に立とうとする(人格否定したがる。人生の先輩ヅラをしたがる)無能(偽善者)には容赦しない」

 

態度を、遠まわしに廷臣たちにも向け

 「自身は最下層庶民の出身であり、最下層庶民たちの味方である」

 「それらの為にならない、上同士がまず厳しくなり合って下に手本を示すという、最低限の等族義務(国際性)もろくに自覚できていない権威構造は、上から下まで一新する」

の態度を通し、そのための日本全体の身分統制令による、大規模な上下統制改め(日本全体の偽善性癖改め)に本格的に乗り出そうとしていた。

羽柴秀吉は

 「こちらが廷臣に頭を下げる側ではなく、廷臣たちが羽柴氏(新政権)に願う側であり、それが筋なのだぞ」

と遠まわしに、廷臣たちを恫喝していたのも同然の態度だったのである。

織田信長も、朝廷対策においては、皇室に対しては別とする、廷臣たちに対するその態度は同じ所である。

信長は

 「我が織田政権は、皇室のため、すなわち日本全体のために、朝廷を救済したのである」

 「ただ偉そうなだけで役に立つかどうか解ったものではない廷臣どもにゴマスリし、良い思いをさせるつもりなどない」

 「そんなことのために、皇室を救済したのではない」

という態度を、遠まわしに出していた。

話は度々前後していくが、のちに江戸時代に制定されていく、新たな武家政権の武家諸法度・公家諸法度の前身は、日本の武家政権の開祖となった源頼朝が用いるようになった、鎌倉時代の原則的な武家法典であった御成敗式目が、依然として活用されていた。

関ヶ原の戦いに挑んだ徳川家康も、戦いの前後には朝廷に、これからの日本の政権のためのその原則を重視した、その御成敗式目(武家法典)の再確認ともいえる内容の書状を、名目(誓願)として提出している。

もちろんこれは、当時の法典をただそのままもってきただけの話ではなく「その原則から今一度、これからの時代に向けての裁判権(社会性)の整理をしていきます」という、展望の提出である。

織田政権と豊臣政権の大きな前例から、時代に合った法として今一度、鎌倉以降の武家法典(御成敗式目)が見直され、制定されていったのが江戸時代の武家諸法度・公家諸法度(世俗性・聖属性の上級裁判権)と、幕藩体制における庶民たちの法(低級裁判権)である。

織田信長も実際の所、この鎌倉以降の武家法典を意識し、その形になるような大改革を目指す名目(誓願)の立て方だったともいえる。

この武家法典は「こういう形になっていると良い」という姿のことしか書かれておらず、そこは仏教の経典整理と同じようなもので、時代に合ったものとして、そうなるように誰かが整理、改革し続けていかなければならない状態だったのである。

信長は、その武家法典からのつじつまも合うように「我が織田家こそが最も、武家法典の通りになるような、あるべき手本家長(当主)としての大改革ができている」という活用の仕方だったといえる。

当時の織田信長の驚かれ方というのは、まずは

 「本当に、この武家法典の通りになる武家社会を再構築するなら、もうこうするしかないだろう」

から始まる、そうなっていない従来の発想をことごとく完全逆転させた、前代未聞のやり方ばかりが用いられたから驚かれた、というのが正確といえる。

 「俺のやり方がおかしいのではなく、今までがあまりにも、後先のことなど誰も責任(等族義務)を負おうともせずに、手ぬるいやり方ばかりで見過ごし続けてきたお前らこそが、おかしかっただけの話だ!」

という、どこもろくにできていなかった、源頼朝以降の、武家の棟梁(支配者としての手本)を再認識した最低限の態度を、ついに本気になって示し始めた第1号だったに過ぎない。

戦国後期に、各地の戦国大名たち(地方の代表たち・支配者たち)によって、それぞれ地方裁判権が整理されていったものが「分国法」という言葉で説明されることが多いが、それらも鎌倉以来の武家法典を意識していないなど、ありえなかったといえる。

江戸時代の基礎が成立した戦国後期とは、16世紀に自覚された、新たな時代に向けての等族社会化という専制法治国家が意識された、武家政権の再構築のための時代だったといえる。

織田信長はよく「皇室を大いにおびやかしていた」かのように誤解されやすいが、廷臣は確かに大いにおびやかしたが、皇室についてはそれはまずなかったと筆者は見ている。

依然として武家法典が意識されている以上は、皇室のあり方を少なくとも撤廃しなければならない理由など、ないためである。

織田信長も羽柴秀吉も、ほとんど19世紀の啓蒙社会化の導き方の感覚でいたといえるが、19世紀は世界中を見ても、王権を政権から切り離す、王政特権との決別の動きは激しくなっても、王室の撤廃までは至っていない所も多い。

日本では鎌倉時代の中世から既に、王政特権がそもそも早い段階で自粛されてきた歴史背景もあり、ここは日本の優れていた所だったといえるが、明治時代(幕末)になると皇室が見直されてその再尊重の動きを見せているほどである。

室町時代に、世俗政権(武家政権)が激しい教義崩壊を起こして、世俗権力に失望する形で聖属裁判権が再興される動き(特に浄土真宗)は確かに出たが、結果的には地方裁判権止まりだったことから、それだけで聖属政権=王政(天皇政治)を復活させることなどは、決して簡単な話ではなかった。

戦国後期を経ても、皇室がかつての平安時代のような政権回復などは、廷臣たちがそれを目指すことなども、全くできてもいない。

それ自体がそもそも、そんな簡単な話ではないことは、後醍醐(ごだいご)天皇が実際に建武の新政府に乗り出して失敗した事例(王政政治復興の失敗事例。かえって皇室内の争いの激化にもなった)からも、朝廷はその難しさを既に体験済みだった。(皇室内の争いの和解に協力する意味も含んでいたのが、室町政権の名目だった)

織田氏によって世俗政権(武家政権)が急激に回復に向かい、庶民政治の大復興も遂げるが、この間には皇室が、かつての後醍醐天皇のように武家政治(世俗政治)から親政(天皇政治・聖属政治)に戻そうと運動しようとしていた様子など、全く見られない。

そのため織田信長が、皇室を排除しなければならない理由など、大してないのである。

本能寺の変の原因説に、朝廷対立説もよく取り沙汰される所だが、信長は廷臣たちとは対立したが、皇室に対して敵意を見せている様子が全くなく、そこを分けて見ていない説が多い。

これは羽柴秀吉の行動からも見られるが、廷臣(公家)たちに対しては厳しい目で見たことで、廷臣たちは動揺させたかも知れないが、皇室をおびやかすような態度は全く採っていない。

信長よりは、廷臣への厳しさも緩めていた羽柴秀吉が「さて、廷臣たちがどんな態度で出てくるか」と様子見していた。

新政局としての巨大な大坂城の建設がどんどん進められていく、すなわち新政権体制がどんどん進められていくのに比例して、廷臣たちも慌て始めていた。

これまでの武家といえば、にわかに地位や権威を獲得した者ほど、上級貴族・上級武士との関係が強かった家系であったかのような出身を後出しのように強調し、少しでも肩書きを得ようとするのが慣例になっていた。

体現体礼と一致しないその偽善風潮がついに否定的され始め、日本全体のその口ほどにもない偽善上下の、その一斉の償却処分(閉鎖有徳思想の摘発・閉鎖地域同士の争いの巻き上げ)をしたのが、織田信長である。

信長は「実力のある者(教義競争者・体現体礼の者)からの公認によって、はじめて、その意味や効果や保証力や健全力が生じ、維持される」という、まさに荀子政治の姿勢は、羽柴秀吉も大いに共鳴していた所である。

今の口ほどにもない公的教義どものように、国際品性や職能理論の手本としての説明責任など一切ない、無能(偽善者)に都合が良いだけの汚らしい偽善性癖で固めただけの肩書きの並べ方をしようとする分際は、羽柴秀吉も当然のように否定した。(名族高官主義の否定)

名実ともに日本全体の新政権を設立したも同然になっていた羽柴秀吉に、廷臣たちは、皇室の臣下としての典礼を行ってもらうことが急務だった。

羽柴秀吉は「所詮は廷臣たちの都合であろう。それをしたからといって、最下層庶民たちに何か良いことでもあるのか?」という態度で、廷臣たちに白を切り続けていた。

その「下々のための」の部分は織田信長もほぼ同じだが、ただし信長の場合はその意味が解りにくかった所もあったため、羽柴秀吉はそこをだいぶ工夫している。

大事なこととして繰り返すが、織田信長も羽柴秀吉も、皇室に対してではなく、皇室をしっかり支えなければならなかった廷臣たちにそうした態度を向けていたという所が、重要である。

もし仮に、皇室に落ち度があったとしても「そうならないよう支えるのが廷臣たちの務めであり、理由はどうであれ廷臣たちが朝廷の全責任を追わなければならない」その等族義務が、本来の廷臣たちの原則だからである。

日本での、等族社会化の先駆けの存在ともいえた織田信長と羽柴秀吉の2人が、そこを見誤る訳がない。

よほどの考えでもない限り、皇室に責任を追求しようとするような下品極まりない態度を出そうものなら、それこそ人の上に立とうとする手本(教義競争者)失格といえる。

皇室に責任を感じさせようとし、頭を下げさせようとするような態度とは、日本は無条件降伏しても良い態度、民間が国際的(等族義務的)な代表者をろくに選別できていない実態に恥に思わなくても良い態度、国際国家の自覚を放棄している態度と同じである。

「陛下が責任を感じ、進んで話をされようとしている」「陛下に心労をかけてしまった我々が情けない」という形でなければならない、皇室とは日本全体の、国際視野の品位を維持するための大事な指標の、最後の切り札という歴史的背景を、口ほどにもない今の公的教義がそこを何も教えられない時点で、教義失格といえるのである。

悪気があったかどうかはともかくGHQ時代、日本の軍国主義(軍事貫徹的なナショナルシオニズム)を放棄させることに熱心になるあまり、その基本をろくに教えなおすことができなかったことは、皮肉にもアメリカの不利益にも結果的になってしまったと、筆者は見ている。

所詮は日本の特殊な歴史事情に精通している訳でもない他国が、中途半端に教義に介入させてしまうのを許してしまうと(敗北してしまうと)そういうことになるという典型例といえる。

そして、第二次世界大戦の列強国たちの裁判力(教義指導力)の次元など、所詮はどこもその程度だった、「その程度」の相手に敗れた日本の指導者たちも情けないことこの上ない、そのせいで下々に多大な犠牲者に巻き込んだことに、今なおも反省するべき所である。

これはGHQだけが悪いのではなく、大戦末期の大本営の参謀部が、どうしようもなくなるくらいに無責任(無神経・無計画)に、天皇神聖論に頼り切って散々悪用し続けてきた経緯こそに、そもそも大因があるといえる。

第二次世界大戦の敗因として、参謀部の高官らや甚大な犠牲を出した指揮官たちがいつも吊るし挙げられる所だが、筆者からいわせればそこだけ問題にしていればいいという簡単な話ではない、組織全体の問題として見る必要がある。

そんな口ほどにもない無能(偽善者)が主計将校になってしまうことが許されてしまう、国際戦略の名目(誓願)もろくに建てられない低次元(気の小さい・知能の低い)の公的教義的体制(仕官学校・軍大学校)が、結局は問題なのである。

話は戻り、織田信長は、確かに神道と仏教には、時に容赦なく否定した。

しかしそれは、これからは世俗裁判権(新政府)が聖属を登録制にする公正制度(今風の宗教法人制度)に改めて、世俗側が聖属を支援・保証して面倒を見る側に立つ制度に変える過程で、新時代のその秩序(裁判権)にとにかく従わなければ国賊(偽善者)扱いして掃討するという、等族義務の法(新たな社会性)が徹底されただけに過ぎない。

政治体制としての教義改め(宗教改め)の過程で、それに従わおうとせずに何かあればすぐに地侍と結託し、閉鎖的な自治権を維持しようと乱暴な武力運動を起こそうとする(正しさを乱立させようとする)寺社勢力が、徹底的に否定されただけである。

一方で、とにかく裁判権に従う寺社である以上は、責任(等族義務)をもって公正に支援し、よく意見回収(状況回収)し、手厚く面倒を見て、多少の落ち度については大目に見る寛大さも示した。

織田信長のことをあえて傲慢だという言い方をするなら、織田氏が皇室の面倒を見る側だという態度をあからさまに出した所が、廷臣たちにとってはそうだったといえる。

新時代に進みつつあった日本は、もうそういう時代になったことを廷臣たちは受け入れようとせずに、そこに不満をもっていた者も少なくなかった。

しかしそれでも皇室からみれば、著しい教義崩壊が起きていた日本全体を強力な名目(誓願)で一斉に教義改め(時代に合った社会性改め・偽善性癖の一斉償却)がされ、見事なまでに中央での治安と経済を大再生させた織田氏に、嫌悪感をもっていた様子など全く見られない。

皇室はむしろ、それまで全国の寺社(閉鎖有徳化するばかりの各地の教義機関)に、今まで手本らしい教義指導(状況回収・国際等族化)を見せることができなかった頼りない廷臣たち対する不満こそ、内心はもっていた有様だったのではないかと筆者は見ている。

自分たちができていないことを全て織田氏にやられてしまった廷臣たちは、今の公的教義と同じようにそういう分際(偽善者)に限って、教義力のなさを見せ付けられる自身たちの立場の気まずさのことしか頭になく、逆恨みすることしか能がない分際(偽善者)だったりするものである。

教義力など何ももち合わせていない分際(偽善者)に限って「高位とされてきた既成概念を、通そうとしない、立てようとしない」でただ逆恨みすることしか能がなく、その口ほどにもない態度ばかり出す廷臣どもに対し、信長が厳しい目で見たのも、当然の話だったといえる。

廷臣たちは、自力教義で朝廷を建て直すということがろくにできず、衣食すら事欠く有様の荒れ果てた廷臣たちの住居も、全て織田氏に建て直してもらうことになったのを、むしろ屈辱にすら感じていた者も少なくなかったのである。

その前には、足利義輝の活躍によって、織田信秀や毛利元就(もとなり)などの有力諸氏も足利氏(室町政権)の政治外交力の復興を認め始め、献納するようになったことで中央の力も回復に向かおうとしていた時も、廷臣たちは朝廷回復のきっかけできていなかった。

室町政権の最後の希望といえた足利義輝が、惜しくも暗殺されてしまったことは「廷臣たちが責任(等族義務)をもって名目(誓願)で一致団結し、足利義輝をかばい切る」ことなど全くできていなかった、当時の公的教義(天台宗)の態度と同じく、自力教義など皆無なていたらくぶりの廷臣たちの、動かぬ証拠といえる。

織田氏の中央進出の救済によって、貧窮する一方だった廷臣たちの生活模様も取り戻されると、大人しく黙っていればまだしも、偉そうに旧式の名族高官主義ばかり主張するようになった廷臣どもの汚らしい姿は、信長から見れば図々しいことこの上なく写るに決まっている。

ただその中でも、山科言継(やましなときつぐ)は、かなりまともな優れた廷臣だったといえ、信長もこの人物については、内心では高く評価していたと思われる。

のちに信長と険悪となった勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)も、廷臣の中ではだいぶまともな方だったといえ、廷臣の中にも、そうした有望な者たちもいくらかはいた。

皇室から見た織田氏と豊臣氏の時代については嫌悪感の様子が全く見られず、むしろ徳川氏に対し、その前時代と比較して嫌悪感を見せているほどである。

かつての信長の有能吏僚だった村井貞勝によって、公正に指揮されていた優れた京都奉行体制が、徳川時代にそのまま見習われるが、間もなくその体制は、京の治安や訴訟などを管理するだけでなく、朝廷の権威を著しく削減するための公家諸法度の権威としても、急激に進められていった。

本能寺の変が起きた時、二条城(かつて武家の中央政局にされた城)に滞在していた誠仁親王(さねひとしんのう)を守ろうと織田信忠が駆けつけた時に、村井貞勝も一緒に合流し、まともな兵力もないまま大軍の明智勢を防ごうと必死に戦ったが、信忠と共に惜しくも戦死してしまった。

本能寺の変の件でのちほど触れるが、二条城に滞在していた誠仁親王(親王は天皇陛下の子のことや、その有力な後継者という意味)を、明智光秀は織田氏から奪還(明智側の解釈)しようとしていたのは、その動きから明らかである。

明智光秀が本能寺で織田信長を討つと、急いで二条城を包囲するが、この時に旗本吏僚が集結した織田信忠勢と、反逆する形(明智側からすれば織田氏を成敗する側)となった明智勢とのこの二条城の戦いは、誠仁親王の奪い合いから始まった戦いだったといえる。

本能寺の変の明智光秀の、真意は別とする行動順位としては、誠仁親王の奪還にまずは優先度があり、それを実行する主従関係の手切れとして、織田信長と織田信忠を討つことになったという見方が、正確といえる。(誠仁親王については後述)

話が度々前後するが、関ヶ原の戦い(日本の総選挙戦)に勝利して日本の事実上の主導権を獲得した徳川氏が、前身の村井貞勝の京都奉行体制(京都所司代と京都町奉行)の権威を高め、公家諸法度(宗教規制法・朝廷規制法)を強めると、廷臣たちの不始末や落ち度を見つけては、それを強調し侮辱するようなやり方ばかりされた。

その廷臣たちの不始末や落ち度は、確かに認めざるを得なかった皇室だったが、だからといってその意地悪が過ぎる対応ばかりしてくる江戸幕府に、皇室もかなりの嫌悪感を示すようになった様子を見せている。

織田氏と豊臣氏は「教義力で偽善権威を否定する」が中心だったのに対し、のちの徳川氏のこの「相手が相手なら、権威を権威で踏み潰す」というこのやり方の方が、当時の廷臣たちにとって、皮肉にもその方が良く効いたといえる。

1600 年には関ヶ原の戦いが、そして 1615 年には大坂の戦いで豊臣家を滅亡させた幕府が、1625 年くらいになると、廷臣たちにかなり厳しい態度で迫るようになる。

これは 1582 年の本能寺の変の、当時の責任(等族義務)は

 

 「廷臣たちにも責任はあったのだぞ」

 

 「武家政権のやることに廷臣たちが、権威のことで軽々しく介入(主張)しようとするな!」

 

というあてつけとして、この時になってその落とし前をとらせる意図も強かったのではないかと、筆者は見ている。

徳川家康は、関ヶ原の戦いが起きる 1600 年まで(それ以後も)、それまでに失脚していった武田氏と織田氏の旧臣たちの、見所のある親族を小録であっても召し抱え、かなりの者たちを徳川の旗本待遇に積極的に組み込んで救済するという、面倒見の良さを見せていた。

織田氏の旗本吏僚の関係者もかなり救済されていたと思われ、幕藩体制が本格化するまでにはそれらの証言が集められていき、豊臣氏を消滅させることになった頃には、本能寺の変の全貌を徳川氏は把握できていたのではないかと、筆者は見ているためである。

ともあれ、織田信長の場合の「偽善権威を健全教義力(名目・誓願)で踏み潰す」の徹底した荀子主義のやり方が、すぐには対応できずについていけない者も多かった様子を、羽柴秀吉も徳川家康もよく観察できており、2人はそこをよく工夫し、対応していった。

皇室が織田氏と豊臣氏の時代には大して嫌悪感がなかった理由は、この2人の場合は、廷臣たちにいくら厳しくあたったとしても「権威を権威で」ではなく「権威を教義力で」抑えつけるやり方が中心だったために、それは仕方ないと納得できていたためと思われる。

しかし荀子政治から孟子政治に切り替えられていった徳川政権では「そういう相手こそ、権威を権威で踏み潰してやった方が、連中にはそっちの方が、早く目が醒めるというものだ」の、低次元(下策)相手の理屈で徳川氏も抑えつけるようになった。

幕藩体制の権威固めのためのこうした一環として、ただし徳川氏も厳しいばかりではなく、弱っていた寺社や、大して力をもっていた訳でもない寺社、よく努力できている寺社であれば、それらの面倒見の良さも見せている。

豊臣秀吉においては、廷臣たちに対して「廷臣たちのその態度は、最下層庶民たちへの手本(多くの下級武士たちや庶民たちへの社会性の引き上げ)に、本当になるのか?」という厳しい目で見てはいたものの、それでもだいぶ寛大さも見せながら対処したため、皇室もかなり納得していた。

徳川政権は、幕藩体制を阻害すると思えるような聖属体制には、朝廷を侮辱するように問答無用に権威で対処した所も多かったのが、特徴的といえる。

そもそもそれができたのも、前例の手本を織田政権・豊臣政権が作っておいてくれたからだったともいえる所だが、一方で徳川政権も朝廷を尊重することも、もちろんした。

戦争のない法治国家に向かっていった江戸時代には、軍事を用いずに解決していく考えが強まったからこそ、神道・仏教の教義の、本流や本筋を巡って議論されることも多くなった。

教義のことで各地で論争が起きるようになったため、廷臣の上位貴族たち(神道のことなら神道家の吉田家と白川家)にも、幕府(寺社奉行)の判定の仕方が教義上で問題がないかを確認(尊重)するなどの配慮も、ちゃんと見せている。

徳川政権のその部分については、ヨーロッパでの、カール5世の時代(大手貴族連合の代表として台頭するハプスブルク家の時代)に大幅に整備されていった帝国議会の制度と似ている部分である。

ローマ(教皇庁・公的教義の総本山)をいったん踏み潰した帝国議会の首脳たちの意図は、今までは聖属権威が強制的に世俗を従わせるという構図だったのを、それからは世俗権威が聖属を保護・保証・支援し、面倒を見る側となる立場に完全逆転したことを、それを解らせるための踏み潰しだったといえる。

その事態に西方教会(カトリック)のあり方に危機感を強め、志をもった神学者・修道士たちが立ち上がり、イエズス会が設立されて以後、教皇庁(西方教会・カトリック)もようやく健全化していくが、以後は帝国議会の最終決議(公認)が重要という立場に完全逆転している。

教義に対する不満や意見もこれからは、教皇庁(イタリア・ローマ)と直接言い合いをするのではなく「まずは意見をまとめ、全ては帝国議会を通せ」「そうでなければ反逆(偽善・格下げ)扱い」になり、イエズス会の活動にしても、帝国議会の公認が前提となっている。

この部分が、ろくに説明されない大事な所といえる。

この原則は、織田氏の台頭による織田政権も、ハプスブルク家(カール5世)の台頭による帝国議会も、そこは共通している16世紀の等族時代の重要な部分である。

織田信長の問答無用の教義改め(宗教改め・閉鎖有徳改め・日本全体の偽善性癖改め)で、そこを大幅に進めておいてくれたから、豊臣政権と徳川政権の時代に、その流れが大いに活用できた。

日本では、室町政権(足利政権・武家政権の再建)がその役割を負うはずだったのが、足利氏が日本の騒乱をいったん抑えて急激な高度経済社会を招くと、法の整備が全く追いつかなくなり、再び激しい教義崩壊を起こして戦国時代に突入した。

戦国後期までに、世俗権威に大いに失望し、聖属裁判権が見直される動きも顕著になり、迷走し続けた日本をそれで牽引し始めようとした浄土真宗(本願寺)が先に台頭し、のちに世俗裁判権を大改革した織田氏が台頭すると、日本の今後を巡る双方の裁判権争い(教義競争)が激化する。

織田氏は、聖属権威を世俗権威よりも法的に上に位置付けようとする、織田政権に許可を得ていない(武家政権を否定する)武力蜂起(武装自治団)は全て閉鎖有徳(反逆・偽善)と見なし、あらゆる聖属武力は閉鎖権威と見なして問答無用で解体していく姿勢を崩さなかった。(正しさの乱立の禁止令)

そのために争わざるを得ない状況になってしまった、公的教義(天台宗)があまりにもだらしなかったからこそ台頭した浄土真宗(本願寺)の存在は、西方教会(カトリック・ローマ)を踏み潰した後にはその肩ばかりもった帝国議会に反抗した、プロテスタント(公的教義への抗議派のキリスト教徒)たちの立場に少し似ている。

いい加減な支配者だらけだった戦国中期までに、戦国組織化していった浄土真宗(本願寺)は、どの戦国組織よりも優勢だったが、戦国後期に織田氏が台頭するとその優位性もついに崩れ、世俗と聖属の区切りも、織田信長によってつけられるようになった。

帝国議会がアウクスブルク宗教和議で、条件付きではあるがついにプロテスタント(公的教義からの脱却派、キリスト教徒の新宗派)を公認し始めたように、織田政権も最終的には、世俗権威よりも上にもってこようとした聖属裁判権さえ放棄すれば、浄土真宗(本願寺)の教義部分は評価し、面倒をみることにした構図も、似ている所がある。

ヨーロッパでは、イエズス会の懸命な努力に帝国議会も協力したことで、公会議制(トリエント公会議が顕著)も見直されて、教義内容がいつまでも中世のままだった公的教義(教皇庁・司教座)の時代遅れの教義体制も改められていき、ようやく健全化していった。

公会議とは、教皇庁や司教座(地方の公的教義機関)のあり方も含めた、西方教会(カトリック)全体の見直しのための公共会議のことで、これは教皇選挙(コンクラーヴェ)をやり直させる力もあったが、もちろんそれは、ろくでもない教義力しかない場合は当然、何ら機能などしなかった。

帝国議会が協力しながら、イエズス会に大きく支えられて行われるようになったトリエント公会議とは、西方教会(カトリック・公的教義)の教義力が回復に向かっていることを人々に知らせるための、大事な会議だった。

従来の聖道門主義(しょうどうもん。自己責任主義・有限責任主義)と真逆の、厭世主義(えんせい。社会全体責任主義・無限責任主義)で台頭した浄土真宗(本願寺)は、そもそも公的教義(天台宗)に敵視されるように格下扱いされ続け、異端扱いされ続けながら、信徒を増やしていった宗派である。

これまでは、聖属権威の台頭といえば、必ずといっていいほど王政復興(天皇政治の復活)と結び付くことが定番だったが、従来の聖属主義とは真逆に台頭していった、権威よりも教義力を重視する厭世論だった浄土真宗(本願寺)は、朝廷に頼るようなやり方で台頭した訳ではなかった。

ここがややこしい所だが、浄土真宗(本願寺)が掲げた聖属裁判権は、朝廷権威に全く頼らず巻き込まずに、自分たちで聖属のあり方を見直して台頭できていたこと自体が、優れた異例だったといえる。

権威に頼るばかりの体制には否定的だった部分で、重視する経典は天台宗(公的教義)と同じでもそこで対立しがちだった法華宗も、共通している。

最もこのあたりは、建武の新政(親政)時代に、対立王闘争(天皇家同士の潰し合い・廷臣同士の対立)を再燃・激化させるような、日本全体を衰退させてしまうような、皇室の太子を有力者らの力関係で勝手に擁立しようとする愚かさを体験し、それを抑止するようになった室町政権の名目だけは、尊重され続けていた所といえる。

皮肉な話として、日本を王政(天皇政治=親政)に戻そうと躍起になった後醍醐(ごだいご)天皇が、切り札のはずである綸旨(りんじ・勅令・天皇陛下直々の指令)を収拾がつかなくなるほど乱発して、日本を大混乱させてしまった失策例が、皇室への向き合い方を深刻に見直させるきっかけになった、ともいえる。

事情こそ違うが、従来の聖属(教義)の権威体制を嫌い、ついにそれに相反相克する形で台頭した、浄土真宗(本願寺)とプロテスタントは、共通している所である。

ヨーロッパでは、それまであまりにも厭世主義一辺倒の権威で抑えつけようとし過ぎてきた。

日本では、それまであまりにも聖道門主義一辺倒の権威で抑えつけようとし過ぎてきた。

互いの不足の反動による、なるべくしてなった社会現象として互いに、16世紀の等族時代にその本音の実態がそのまま現れた。

簡単な判別としては、

 西洋 = 厭世論一辺倒に逆らう聖道門主義を用いることが、時代遅れの権威に逆らう指標  = 教義競争

 日本 = 聖道門主義一辺倒に逆らう厭世主義を用いることが、時代遅れの権威に逆らう指標 = 教義競争


だったといえる。

織田政権も浄土真宗(本願寺)も共に、日本が不足し過ぎていた厭世論による台頭同士の衝突だったという、その高次元の力量比べの意味が解っていないと、当時の日本に何が起きていたのも、訳が解らなくなる所といえる。

ここで筆者がいう高次元・低次元は、簡単には

 教義力を権威で対応(解釈)するのみの姿勢     = 低次元(劣化・退化)

 権威を権威で対応(解釈)するのみの姿勢      = 低次元(下策)


 権威をまずは教義力で対応(解釈)しようとする姿勢 = 中次元(上策)

 教義力を教義力で対応(解釈)しようとする姿勢   = 高次元(上策)


という意味である。

権威に頼らないと何もできない、公務公共性(国際品性・自力教義力)など何も身に付いていない分際で偉そうに威張り散らしてきただけの無能(偽善者)の実態が露呈していき、次々と失脚していったのが、戦国後期の総力戦時代(教義競争時代)である。

織田政権と浄土真宗(本願寺)の、日本の今後を巡る高次元の裁判権争いのその意義に全くついていけていなかった、大して教義競争をしてこれた訳でもなかった廷臣たちは丁度、時代に置いて行きぼりの状態だったの者も、多かったのである。

確認(尊重)することと威嚇(挑発)することの違いも区別できていないということは、

 教義力(当事者責任力・整理力)を用いて、口ほどにもない偽善権威を否定する事例



 人が作った権威(何の当事者性・健全教義性・主体責任性の説明責任もない無責任・無計画な総意)による機械的・形式的な可否に過ぎない事例

の違いも区別できていない低次元(低知能・愚かさ)を自覚できたことがない、今の公的教義の分際(偽善態度)と同類といえる。

皇室は、この責任(等族義務)の原則は、大体は自覚できていた。

織田信長が、教義力をもってだらしない廷臣のあり方も否定し始めた際、廷臣たちが自分たちのあるべき姿を整理していくことができているとはいえなかった所は、皇室は少なくとも自覚はできていた。(上同士で厳しくなり合う等族義務)

徳川政権に、そこをついに権威で踏みにじられるようになったことに、皇室も内心では情けなさを大いに感じていたと思われる。

しかし廷臣たちの多くは、その情けなさを自覚できていた者が半分もいたか怪しかったからこそ、徳川時代になって踏みにじられるようになった、ともいえる。

話は戻り、羽柴秀吉が東側でも、上杉氏と徳川氏の二強を傘下にすると、朝廷もいよいよ慌しくなった。

 「自身は最下層庶民出身者であり、それらの味方である」

 「それらのため(彼らの最低限の敷居の上昇のための手本)にならない汚らしい偽善態度の上下権威は、全て否定して回る」

をなおも強調し続け、廷臣たちの従来の貴族思想に全く歩み寄ろうともしなかった。

その羽柴秀吉の態度に、空気扱いされ始めた廷臣たちから見ると、名族高官主義への遠まわしの否定の嫌がらせがなおも続く事態に、ついに悲鳴を挙げ始めたのである。

織田氏と廷臣たちの対立がどのようなものであったかを、大体は把握していた羽柴秀吉は、策士らしくやり方を工夫し、どんどん建造が進められていく壮大な大坂城から、廷臣たちにそうやって遠まわしに、恫喝していた。

これは、少しは廷臣たちを反省させることにもなった、非常に効果的な優れた、さすがといえる外交的なやり方だったといえる。

ついに廷臣側から「日本の武家の棟梁として、羽柴氏は、皇室への臣下の礼を採る正式な典礼を、是非受けてもらいたい」と打診してきた。

羽柴秀吉は

 

「こちらは、武家の棟梁のあるべき最低限の責任(等族義務)として、皇室はもちろん大事にしたいと思っているが、最下層庶民たちのためになることと関係のない廷臣たちの都合など、どうでも良いのだ」

 

という、後で何もいわせない態度を示した上で

「では廷臣たちは、これからは新政権(豊臣政権)に何事も必ず相談する、そして裁定は最終的には新政権が吟味した認可に従う、それが守られるならこちらも朝廷に積極的に協力することを約束し、廷臣たちが望む、皇室への臣下の礼も採ろう」

 

と返答した。

今までの廷臣たちの「我々が新政権を認める手続きに協力してやっているのだから、ありがたく思うがよい」の態度など絶対に採らせない、織田政権時代から工夫した羽柴秀吉が遠まわしに、そこを改めさせていったといえる。

廷臣たちの中には、その言い分には屈辱を感じた者も多かったが、このままでは、廷臣たちの格下げも激しくなる一方の態度を羽柴氏に採られ続ければ、その存続もいい加減に怪しくなってきていたために、やむなく了承することにした。

 「こちらを頼って廷臣側から打診してきたという、武家の棟梁が誰であるかを廷臣の方から認めてきた、というその筋は絶対に忘れるな」

 「後は、態度さえ良ければこちらも積極的に、朝廷を支援することを約束しよう」

羽柴秀吉は、廷臣たち(貴族たち・公家たち)にはかなり厳しい態度を示したものの、約束通り羽柴秀吉は莫大な資金を投げ打って、廷臣たちとの根強い関係をもっていた各寺院の力の回復についても、大いに手伝った。

もちろんそれは「庶民たちにとっても誇りに思える、面倒見も良い、尊敬できる寺院の姿でなければならない」ことをよくよく強調した上での、支援である。

朝廷の本拠である京と、新政権(豊臣政権)の本拠である大坂城とを結ぶ街道もどんどん整備されていき、立派な橋も次々と建設されて商業経済が推進されたために、庶民も喜んだ。

廷臣たちが当時、何が何でもどうにかしたかった「キリスト教の日本からの追い出し」の希望も、羽柴秀吉は吟味した上で、協力することにした。

キリシタン禁止令(規制令)である。

「羽柴殿は、実は高貴な出身者だった」かのように廷臣たちが工作するようになり、父母のことを「かつて貴族層、上級武士層と関係があった一族」であるかのように、一生懸命に吹聴するようになった。

Wikipedia で見てみると解るが、父の木下弥右衛門においては、もはや伝説上の生き物であるかのような、訳の解らない説明になっているのも、そのせいである。

この時に朝廷から、高貴な武士の名字として「豊臣」の姓が考案されて下賜(かし・朝廷から頂いたもの)され、形式上は上位貴族(地位の高い廷臣)の養子扱いとなった羽柴秀吉は、以後は豊臣秀吉を名乗るようになる。

豊臣秀吉はこの後は

「自分も元々は最下層庶民だったが、実は高貴な家系の血筋も入っていたことが、朝廷の調査によって今ごろ解った」

「そのため、高貴な者たち(聖属側)の縁の義理も考慮し、彼らのことも少しは便宜することにした」

「しかし、自分は最下層庶民の味方であることは、これからも変わりはない」

というような、廷臣たちの聖属都合にも歩み寄る寛大さも見せたため、豊臣秀吉のことが内心は気に入らなかった廷臣の中にも、少しは納得するようになった。

1587 年には、いよいよ羽柴氏と朝廷との関係が強くなったことが示され、以後の豊臣秀吉による身分統制令や、規格化の検地(国税整理)や貨幣対策などの法治国家の姿が、強調されていく。

1590 年には豊臣氏と北条氏が対立し、大規模な小田原征伐が行われるようになるが、それでも 1587 年からは日本はもう、戦争が激減する新たな時代に向かいつつあった。(東北は少し違う)

北条氏討伐となるまでの3年間は、豊臣氏による裁定でない以上は、ついに戦争を意識しなくてもよくなる時代に入り、新田開発や都市化計画、治水工事や道路工事といった領内経営の専念がされる、新たな時代を諸氏も体験するようになる。(天下総無事令)

1582 年の本能寺の変から、日本の騒乱を収拾させるべくの天下総無事を5年足らずで、早くも強固なものに仕上げ始め、朝廷も認めざるを得ない存在に、豊臣秀吉は台頭した。

ただ機会さえ得れば誰でもできるというような簡単な話ではない、教義指導力(国際裁判力・国際品性の吟味・家長の手本=社会性の手本)が示せる者でなければ到底務まらない、偉大な快挙だったといえる。

次も引き続き、豊臣秀吉の天下総無事令の様子や、当時の新たな身分統制の取り組みは、どのようなものだったかなどについて、触れていく。