近世日本の身分制社会(052/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 天下総無事令による信濃争奪の終結と、石川数正(徳川重臣)と小笠原貞慶(徳川家臣) - 2020/11/26

羽柴秀吉による西側の天下総無事は、1587 年に終わるが、大局が見えてきた 1585 年頃には、東側にも具体的に向けられるようになっていた。

羽柴秀吉はその頃には、旧武田領だった信濃から順番に、天下総無事令のための私闘調停にも、動き始めている。

1582 年に起きた天正壬午の乱(本能寺の変)をきっかけに、それまで上杉氏・北条氏・徳川氏の間で信濃・甲斐・上野(旧武田領)の領域争いが続いていたが、1586 年にはその調停も強まっていった様子について、まとめていく。

まず、東側での羽柴秀吉の天下総無事令の進め方は「羽柴氏の臣下かどうか」という所がより強調されたやり方がされている。

これは、先に西側に向けられている間に、少し時間に余裕ができた東国が、組織の再構築を急いで進めた所が多かった事情も、影響している。

織田政権時代から、国際規範(等族社会化・国際中央裁判権)の最低限(国際社会性)の基準が遠方諸氏にも向けられるようになり、続いて羽柴秀吉も、それを改良工夫した国家構想(天下総無事令)が遠方諸氏にも向けられた。

東側でも、来たるべき新政権の最低限の基準に備えるべく、少しでもその基準を縮めておき、それで少しでも格下げを防ぐべく、地方裁判権に少しでも国際性をもたせようと健全化が慌てて進められた。

その様子に羽柴秀吉も内心は「今ごろになって慌ておって」という余裕の目線で、東国も自発的に国際化に向かっていく様子も確認(尊重)しながら、対応されていった。

その次世代政権の最低限の新基準についていけそうな組織が、ついていけそうにない組織を従わせ、それで国際性を高めながら組織を大きくしておき、地方の代表格としての家格・格式(国際品性)を成立させておこうとする戦いに、すっかり移行するようになっていた。

1570 年代の織田政権時代には、もはや日本はその方向に進んでいた、つまり総力戦時代(教義競争時代)は収束に向かい始めていったことは、これまでも何度か説明してきた。

 

そして 1580 年代になるといよいよ「織田政権こそが国際中央裁判権の最低限の基準であり、その力量差で、地方裁判権に過ぎない地方の代表格たちを従わせる」構図に、すっかりなっていた。

多くの下を良い方向に導いていかなければならない責任(等族義務)として、中央と地方との裁判権(新たな社会性の最低限の基準)の歴然とした差というものを、有力者の間ではそこを認識する者が増えていた。

羽柴秀吉は、地方を恫喝する一方で、臣従させようとする相手をただ踏み潰すだけでなく、面倒がらずにその新基準をどれだけ努力しようとしているかを確認(尊重)しながら、天下総無事が進められていった。

「許可の無い軍事行動による私闘禁止」の停戦宣告は東側にも告知され続けていたが、羽柴氏(天下総無事側)に具体的に臣礼の態度を採っていない者同士は、「今までは大目に見てきた」のが、それまでの羽柴氏の態度だった。

早くから協調路線を続けてきた大手の上杉氏が、1586 年に羽柴氏の上洛要請に応じて新政権への臣下の礼を採り、改めて家格・格式(国際品性)が保証されると、これが東側への本格的な天下総無事が始まったことの、指標となった。

 

そしてその契機と同じく、徳川氏も少々の騒動があった上で、ついに羽柴氏に折れる形で、臣従の礼の示し、その傘下に入ることになった。

旧武田領を争った列強3者の内、羽柴氏がこの上杉氏と徳川氏の2つを臣従させることができた時点で、日本全体の天下総無事をほとんど達成したも同然の状態となった。

 

その後には北条氏討伐の大規模な軍事行動や、各地の騒乱もしばらくは起きるものの、それでも上杉氏と徳川氏を臣従させて以来の日本は、羽柴氏の天下総無事の名目(誓願)の流れに一気に変わっていき、戦国らしい戦乱は激減していくことになる。

 

徳川氏が羽柴氏に臣従するまでの、そのややこしい事情や、当時の情勢(外交戦略、軍事戦略)の特徴などについてまとめていく。

信濃争奪の重要人物であった小笠原貞慶は、徳川家康の傘下としてその支援・保証を受けながら、府中(筑摩郡・安曇郡)の奪還後には、地元の裁判権改め(小笠原氏による府中再統一)を進めながら、必死にその領有権を守っていた。

羽柴秀吉は、1586 年に上杉景勝を新政権(天下総無事側)への事実上の傘下に加えた、その間もなくにも徳川家康も傘下に加えることに成功するが、後者は 1585 年頃から、徳川氏の傘下の小笠原貞慶に揺さぶりをかけたことが、まずは切り口となっている。

徳川家康が傘下にしていた、信濃の支配総代の深志城(府中)の小笠原貞慶を、羽柴派(天下総無事側)に鞍替えさせれば、信濃の争奪戦は、教義性(健全化性)をもって終わらせられると、羽柴秀吉は踏んでいたのである。

これは、東国での国際意識が高まっていたからこその、より教義性を示しながら進めようとする、そこを面倒がらずの羽柴秀吉の「まずは外交戦から」という優れたやり方だったといえる。

羽柴秀吉は、東側に関しては「羽柴氏(天下総無事側)の傘下でない者同士の、地方同士のイザコザ」という大目の見なし方が、それまではしてきた。

しかし西側での対局が見えてくると、東側も、まずは天下総無事側(中央裁判権側)の正式な傘下・監視下に1つずつ組み込んでいく所から、着手されていった。

 

「天下総無事側に組み込まれた領域には、地方裁判権ごときの代表には一切介入させない、その領域に許可もなく勝手に権威介入しようとすれば討伐(反逆・偽善)対象」という教義性(健全化性)をもって、停戦させるやり方を進めた。

今までは徳川家康は

 「羽柴氏の天下総無事令に、協力しないとはいっていない」

 「羽柴氏に反意している訳ではなく、信濃の支配総代の名目をもつ小笠原貞慶から支援を頼まれて、それに協力しているに過ぎない」

という表向きの言い訳の態度で、信濃南部の国衆たちもその理屈で支配権を維持し続けていた。

「そういう態度ならば」と羽柴秀吉も、深志城(信濃全土の表向きの支配総代の政局・象徴)の小笠原貞慶を直接狙い撃ちして、羽柴氏に臣従するよう迫った。

小笠原貞慶が、もし羽柴氏に臣従するようになれば、表向きの信濃の支配総代である小笠原貞慶もこれからは中央裁判権(天下総無事側)の臣下として、信濃に関する一切はそれに全て従わなければならない、という構図となるためである。

この点でも羽柴秀吉は、西側と同じく教義性(健全化性)を考慮し、一方的な力任せではなく、地方の都合・事情にはあえて合わせていくという、余裕の目線の対応方法だったといえる。

羽柴秀吉の小笠原貞慶への揺さぶりは、徳川家康にとっては「その外交戦略(恫喝)だけで信濃の支配権を丸ごと失いかねない事態」つまりその外交戦略(恫喝)のみで、5ヶ国の実力者から4ヶ国にあっさり転落しかねない事態となった。

当時の羽柴秀吉と徳川家康とでは、中央裁判力の国際的な立場と、地方裁判力の国際性が中途半端な立場とで、そこにもはや大差があった。

これまでの東国の騒乱は、羽柴氏が大目に見ていたに過ぎなかった、しばらく猶予時間が与えられていたに過ぎなかったのである。

しかし小笠原貞慶を直接揺さぶるようになり、間接的に徳川氏に恫喝し始めたことで、徳川家康もついに進退をはっきりさせなければならない時期が来てしまった。

すなわち徳川家康も、上杉景勝のように羽柴秀吉の家臣として上洛要請(臣従の礼)に応じるか、それともつっぱねて抵抗し続けるかの、重要な決断をしなければならない時が来た。

徳川家康の、この時の羽柴氏との対立関係と、以前の「小牧・長久手の戦い」の時の対立関係との違いについて、まとめる。

小牧・長久手での羽柴氏と徳川氏の対立は、これはまず羽柴秀吉が織田信雄を抑えこもうとした際、徳川家康が織田信雄に加勢することになったために、ついでに一緒に羽柴氏の傘下に抑え込まれそうになったことが、特徴的な対立である。

この戦いでは徳川軍が、羽柴軍の先鋒の撃退に成功し、戦況を優位にできた。

緒戦での戦況は優位にできなかった羽柴秀吉だったが、その間にも織田派を羽柴派に鞍替えさせていき、外交戦略で織田信雄を抑えこむことに成功したため、徳川氏を抑えこむことは後回しにして、この時は停戦する形とになった。

羽柴秀吉は、清州会議、賤ヶ岳の戦いを通して中央の実力者として台頭していく際、織田政権時代の旗本吏僚体制も破壊されてもはや主体性(指導力)を失っていた織田信雄に対し、少しでも肩入れしようとする旧臣たちには非常に厳しい対応がされていったのが、特徴的である。(本能寺の変の件で後述)

それまでには羽柴秀吉は「織田氏に肩入れし、中途半端に織田信雄の権威回復を少しでも手伝おうとした同僚たち(かつての織田家臣たち)」は、容赦なく蹴落としていった中で起きたのが、小牧・長久手の戦いである。

そんな中で、羽柴秀吉に必死に反抗していた織田信雄の窮地に、徳川家康がそれに肩入れする態度に出たために、徳川氏は旧織田領外における、大手への見せしめの格下げ第1号に、されかけた。

そして徳川氏とは停戦することなるが、これは羽柴秀吉の国際中央裁判権の手本としての、教義性(健全化性)重視による判断だったといえる。

まず、徳川家臣が「我々の誇りである家康公を、そう簡単にあなどられる訳にはいかない!」と強固に団結して立ち向かってきたことについて、羽柴秀吉はまずは評価した。

また、圧倒的に羽柴氏の方が有利であっても、苦境だった織田信雄に「今までの徳川氏は織田氏とは盟友関係だった」というその責任ある義理立てしようとした「利害よりも今までの信用重視」の徳川氏の手本姿勢も、羽柴秀吉は内心は高く評価していた。

当時の徳川家康の立場としては、羽柴秀吉が織田信雄の抑えこみ行動(小牧・長久手の戦い)をする以上は、信用問題として必然的にそれに加勢しなければならなくなる、被害者的な立場だったともいえたことを、羽柴秀吉は内心ではそこを確認(尊重)できていた。

さらにはこの戦いでは、羽柴軍の先鋒として出馬した、重要人物の池田恒興(つねおき)が戦死してしまい、そこに内心では責任を感じていた羽柴秀吉が、その子である池田輝政(のち姫路城の大藩主になったことで著名)に気を使ったことも、停戦に至った理由のひとつである。(重要武将の森長可・ながよし、も戦死)

池田恒興は、織田政権時代の最重要家臣のひとりであったが、羽柴秀吉の台頭には協力的な姿勢を見せ、この戦いの先鋒を務めることをきっかけに、新政権の重臣格として公認してもらおうとしていた。

しかし小牧・長久手の激戦で、子の池田元助(もとすけ。池田家の後継者の予定だった。池田輝政の兄)と共に、徳川勢に討ち取られてしまった。

羽柴秀吉は、池田恒興・元助親子に手柄を立てさせるつもりが、戦死させることになってしまい、その計画を徳川家康に大いに狂わされてしまったことも、停戦に至った大きな理由だったといえる。

戦力的には戦闘を続行できたはずだったが、徳川軍の思わぬ大反撃によって当初の計画を大いに狂わされ、しかし外交で織田信雄は抑えこむことができたために、その時は停戦する運びとなった。

 

これら羽柴秀吉の判断は、軍事行動の国際化をかなり重視した、その手本を示そうとした、優れた姿勢だったといえる。

 

19世紀頃から見られるようになった、第一次世界大戦の前身の最低限の国際戦の基本を、羽柴秀吉はしっかり心得た判断ができていた、といえる所である。

 

国際戦は、それに踏み出す以上は、最初から終結条件・和解条件も計画的に明確にされている上で、展開していくことの国際名目の重要性が、しっかり認識できている者(国)こそに、それをやる資格があるといえる。

 

ただの優越感や、ただの憎悪や、ただの怨恨でしかない、ただの閉鎖人道の視野の狭い軟弱な考えをもちこんではならない、そう思われてはならないことを心得ている者(国)こそに、国際戦(社会性)を指導する資格があるといえる。

 

国際戦とは、どうにも相互で確認(尊重)のしようがなくなってしまった時に、相互の国家組織の力量(格式・国際品性)を、相互の下々に確認(尊重)させ合う大前提で、せめて片方だけでも指導者がその方向に進めていく責任(等族義務・人的信用計画)がもてている上で、初めて国際戦といえるのである。

 

そして本当の意味で「こちらの方が格上」の態度で挑む以上は、相手の都合も抱えるつもりの全教義性(全健全化性)をもって、その不足を相手に思い知らせる国際名目(社会性)を用いる者(国)こそが、その態度で挑むべきなのである。(教義競争の基本中の基本)

 

双方ともそこが皆無な口ほどにもない感情に過ぎない、その知覚すらできていない分際(偽善者)の次元の総意を、何の考えも工夫も無しにただかき集めた所で、手本(健全化・国際性)が生じる訳がないのである。

 

これは現代の、個人間でも、団体組織間でも、国家間でも、債務信用の規模が違うだけで、その原則は同じである。

 

「相手よりも自身の方が上であるという態度」に出る以上は、上同士で厳しくなり合う裁判権(国際社会性)の手本が、相手よりも遥かにその姿勢が優れている大前提で、相手を恫喝できなければならない原則は、全く同じといえる所である。

 

そこを教えることができたことがないにも拘わらず、偉そうに軽々しく人格否定(人の上に立とうとする。人生の先輩ヅラばかりしたがる)することしか能がない、今の口ほどにもない公的教義の分際(偽善者ども)が、その国際軍事裁判権(社会性・礼儀)の最低限の基本を、知覚できる訳がないのである。

 

羽柴秀吉の天下総無事戦における国際軍事裁判権の示しは、自身側のことも相手側のことも、その勝ち負けのみを全てとするのではなく、計画に合わなくなってきた時には、退(ひ・の)く所は退き、また認める所は認めるという、優れた手本的な姿勢が多く見られる。

 

羽柴秀吉のそうした天下総無事の姿勢は、もはや19世紀の基本として十分に通用するやり方だったといえる。

 

そこからできるだけ多くの下々の手本(教義性・健全化性)になるよう務められていたその姿勢こそが、羽柴秀吉が本当に偉大だったといえる所なのである。(それが全くできていないように見える朝鮮出兵については、後述)

 

もちろんこれらは、その前身である織田信長のやり方から多くが参考にされているため、やはり織田信長がまずは偉大だったといえる所である。

小牧・長久手の戦いの時の徳川氏の立場は「織田氏の旧臣同士で巡る代表戦」に介入しようとしたのではなく、あくまで「窮地に立っていた織田信雄への律儀な義理立て」の体裁(教義性)だったから、停戦になったに過ぎない。

その後の、西側の天下総無事の大局が見えてきた今度は「誰が天下総無事側で、誰がその反抗側かであるか」の立場を明確にするよう、東側にも順番にそれで迫るようになった。

今度は羽柴秀吉は、旧織田領と隣接していた徳川家康にも、小笠原貞慶を介して順番に、恫喝してくるようになった。

揺さぶりをかけた羽柴秀吉は

 「さて、徳川家康がどういう態度で出てくるか、拝見といこうか」

 「今までは、猶予時間を与えてやっていたに過ぎない」

 「小牧・長久手の戦いでは、義理立てや、池田氏の件、徳川家臣たちの団結などに免じて停戦することにしたが、今回は反抗すればもう容赦はしないぞ」

という余裕の目線である。

羽柴氏から見た徳川氏とは、戦国後期の社会観(地方裁判権)を通し続けてきたに過ぎず、天下総無事の態度については曖昧なまま、格下げされないように家格・格式(国際品性)を身につけてきたに過ぎない相手である。

小笠原貞慶に揺さぶりをかけてきた羽柴秀吉の「信濃も天下総無事に従わなければ、今度は容赦しない」の意図を察知した徳川家康は、どう対応するか方針を巡り、家中で慌ただしく議論された。

この事態は徳川家康にとって、戦国後期の社会感覚(地方裁判権)の代表格(支配者・戦国大名)としての体裁を維持し続けることの、時間切れを意味していた。

日本はもう、等族社会化(日本全体の専制政治化)の時代、すなわち織田政権時代を改良しながら引き継いだ羽柴氏による、近世化への新たな身分統制時代の本格化に移行しつつあった。

織田信長に代わる羽柴秀吉によって、それが確定されていく方向にまさに進んでいた。

自負だけでいえば「羽柴氏に次ぐ実力者のはず」と構えていた徳川氏も、進退を明確にしなければならない時がついに来てしまった。

羽柴秀吉に揺さぶられた小笠原貞慶は「臣従先の徳川氏に、大事な嫡子(後継者の小笠原貞政)を人質としてとられており、羽柴氏に臣従したくてもどうも身動きが採れない」と言い訳し、ごまかすように態度を曖昧にしていた。

徳川氏の力を借りて、深志城奪還をどうにか果たした小笠原貞慶だったが、かつての名族小笠原氏の権威は失墜し、単独の旗頭としては大した力などなく、その進退の選択権など無いに等しかった。

そのため羽柴秀吉は、小笠原貞慶のその曖昧な態度には、内心はそれほど厳しくは迫らなかった。

それよりも、小笠原貞慶を揺さぶることで、今まで小笠原氏を傘下に治めて信濃の支配権の体裁を言い訳してきた徳川家康がどういう態度で出てくるのかが、狙いだったのである。

徳川家康は今まで「府中(政局の深志城・筑摩郡と安曇郡)を傘下に治めているから、信濃全体の主導権は徳川氏にある」という体裁で、信濃の中部と南部を優位に支配下にしてきた。

羽柴秀吉は、後で相手に何もいわせないために、その地方の都合に合わせた、あてつけなやり方で挑んだといえる。

その情勢のマズさに、多くの下を守らないければならない等族義務から、徳川家康と重臣たちの間は内心では「羽柴氏とはいい加減に、和解(臣従)交渉を進めないとマズいことになる」と考えていた。

しかし多くの中下級の家臣たちは、その意味と情勢を把握できる機会が普段から乏しかったことで、当時の急展開に、認識に開きが出てしまっていた。

 「こうなれば北条氏と強固に結んで羽柴氏とは徹底交戦し、何としても徳川家の家格・格式(国際品性)を認めさせよう」

 「我らが仰ぐ主君、家康公を、我々は絶対にあなどられる訳にはいかない」

 「我々には、それだけの力があるはずだ」

という、過信気味の意見ばかりが一方的に強まってしまった。

これは、先の小牧・長久手の戦いで、徳川軍の強さを見せることができたこと、また天正壬午の乱(本能寺の変)以後に3ヶ国から5ヶ国に成長できたこと等、他ではなかなかできなかったことができていたことが、多くの家臣たちの自信になっていた。

西側での、羽柴氏に対する長宗我部氏島津氏の下々の当初の態度も、ここは同じだったといえる部分である。

進退を巡って徳川家中が沸いていたこの時に、それまで羽柴氏との交渉役を任されていた重臣の石川数正(重要な参謀役としてこれまで徳川家を支えてきた)が、あの出奔事件を起こす。

石川数正は、それまで羽柴氏との交渉役を努め、また小笠原貞慶の人質である小笠原貞政を預かっていた立場でもあった。

徳川家中で交戦論が強まるばかりだった中で、石川数正は「羽柴氏にこれ以上、曖昧な態度を続けたり抵抗しようとすることは危険だ」という情勢をよく説明し、皆に和解論(臣従論)を説得したが、否定される一方だった。

殺気立つ交戦論ばかり強まる中での、石川数正の勇気と責任ある和解論(臣従論)の言い分は、重臣たちも内心は理解していたと思われるが、否定派の勢いでその態度が「羽柴氏の回し者」扱いされる有様だった。

羽柴氏の東側への天下総無事の意向が強まるほど、今まで羽柴氏と交渉を続けてきた石川数正は、中下級の多くの家臣たちからは「羽柴氏の肩ばかりもとうとする裏切り者」であるかのように扱われていった。

石川数正のことを誰かがかばおうとすれば、家中の団結も崩壊しかねない事態にまで、来てしまっていたのである。

徳川家康も表向きは強気の姿勢でいたが、この事態に内心ではかなり困っていたと見え、多くの家臣を守るために本当は和解(臣従)したかったのではないかと、筆者は見ている。

どうにもならなくなっていた徳川家中のこの様子の中で、石川数正がついに、あの出奔事件を起こす。

石川数正は、人質の小笠原貞政と自身の家族を連れて、密かに羽柴秀吉のもとに走ってしまった。

徳川家中は「石川殿と小笠原殿がいないぞ! どこへ行った!」と大騒ぎになった。

この事件をきっかけに、急速に羽柴氏との「和解(臣従)をせざるを得ない」形が進められていくことになるが、その経緯をまとめる。

まず、石川数正が人質の小笠原貞政を羽柴秀吉に引き渡したことで、深志城(松本城)の小笠原貞慶は、「自動的に」「仕方なく」羽柴氏(天下総無事側)の家臣になった。

この不可抗力的な「自動的に」「仕方なく」の体裁的な所が、実際の所は徳川上層にとってはむしろ都合の良い、家臣の団結をどうにか維持するための、重要な所だったとすらいえる。

人質の小笠原貞政を手中にした羽柴秀吉は

 「信濃の支配総代である小笠原貞慶は、羽柴氏の臣下である態度を明確にせよ」

と呼びかけ、それによって小笠原貞慶は「仕方なく」その態度を採ると

 「これを以って、信濃の支配総代である小笠原貞慶は、天下総無事側の直臣であることが明確となった」

 「天下総無事の傘下である信濃総代の小笠原氏の許可もなく、信濃での勝手な武力闘争(地方裁判権同士に過ぎない戦い)を起こす者は、容赦しない」

という順番で、信濃での天下総無事違反は、これからは羽柴氏による厳しい取り締まりが行われるということが、宣告された。

徳川氏の支配下のはずであった小笠原貞慶が、羽柴氏(天下総無事側)に離脱されてしまい、今までの信濃での優位な立場も気まずくなった徳川氏は、この事態にあせる様子を見せた。

徳川氏はもはや、羽柴氏と宣戦布告も同然の「信濃東部の真田氏の再攻略」に動こうとする様子を見せる。

これは、北条氏が求めていた、真田氏が支配権を握り続けてきた上野北部の沼田城の返還を、真田氏の再攻略によって実現し、それで北条氏との団結を強め、共に羽柴氏に抵抗する態度を鮮明にしようとするものだった。

先に沼田問題で争った上田城の戦い以後の真田氏は、徳川派から上杉派(羽柴派)に鞍替えし、もはや天下総無事側に組する立場になっていた。

そのため、沼田城の支配権を巡って再び真田氏と交戦すること自体が、北条氏と共同して羽柴氏に宣戦布告する、という強い意味ももっていたのである。

しかしこの徳川軍による、再度の真田攻めの予定は、中断される。

そうした様子だった徳川氏に羽柴秀吉は、意外にも、自身の母を人質として徳川家康のもとに派遣してきたため、「羽柴憎し、石川憎し」で沸いていた徳川家中も、これには驚いた。

真田攻めで宣戦布告しようとしていた矢先だった徳川氏は、この事態によって、その予定をいったん中断することにした。

もし真田攻めを遂行してしまえば、羽柴秀吉との交渉決裂の示しとして、その母を殺害しなければならなくなり、ろくに交渉もしない内からそんなことをすれば、外交的(国際品性的)にも徳川氏が不利になる一方だからである。

さらには羽柴秀吉は、妹の朝日との縁談までもち出して、徳川氏を羽柴氏の親類扱いし、つまり他とは特別扱いにするという態度まで、表明してきた。(正確には、その縁談が打診され、融和の証拠としてその後に母を送った)

妹の朝日はもう40を過ぎていて、子を作るのはもう無理な関係と見られていたため、関係改善のための一時的な縁談に過ぎない意向が強かった。

朝日は、織田氏の家臣であった佐治氏(尾張出身の有力者)とだいぶ前に結婚していたが、徳川氏との険悪な関係を改善させなければならない使命感から強引に離縁させての、少し強引な手配による縁談だったといえる。(既に旦那は亡くなっていた説などある)

羽柴秀吉は、ただ力任せに抑えつけようとせず、徳川家中の気持ちも察して、他では見せなかったそうした対応を見せることで「一方的に格下げしようとはしていない」ことを知らしていった。

これら羽柴秀吉の態度に、羽柴氏に対する徳川家中の閉鎖的な怒りも、鈍るようになった。

徳川家康は、多くの家臣たちの気持ちを察して「迷いに迷った」態度を見せながら、多くの家臣たちを守らなければならないことを強調しながら、ついに羽柴秀吉の親善外交に「仕方なく」折れる態度を示した。

徳川家康は「やむなく」ついに羽柴氏に、臣下の典礼を採ることになった。

羽柴氏への臣従において、ここまで特別扱いされながら、「仕方なく」という形まで作ってもらった徳川氏は、実際は破格の扱いがされていたといえる。

とにかく負けず嫌いの所があった徳川家康としても「羽柴秀吉にそういう扱いまでしてもらわないと臣従できなかった、その力量差まで見せ付けられてしまった」所に、内心ではそこに強い苦痛と屈辱を感じながら、しかし多くの家臣たちを救うために、臣下の礼を採ることになった。

不満をもっていた徳川家臣たちも、そうしたやりとりで不満は残しつつも少しは納得するようになった上での、羽柴氏に対する上洛(臣下の礼)となった。

地位がそれほど高くなく、その意味をよく解っていなかった多くの家臣たちの熱意については、力任せに踏み潰すことばかりはしなかった、徳川家中の都合にわざわざ付き合ったとすらいえる、羽柴秀吉の寛大さと偉大さが見られる所である。

徳川家康は、領域的な格下げとしては、結果的には小笠原貞慶の件の、信濃の府中(筑摩郡・安曇郡)を失うだけで済んだだけだった。

 

それまで態度を延々と曖昧にし続けていた木曽郡の木曽義昌は、羽柴秀吉に「織田氏に府中を拝領されたはず、といい続けてきた木曽氏は、それなら織田氏が主家だという筋を通せ」と言われる。

 

羽柴秀吉の要請を受けた織田信雄が、木曽氏に対し「信濃南部衆の一員として、これからは徳川氏の傘下になるよう」指示したため、木曽義昌も、徳川氏の指揮下に渋々従うことになった。

これによって、信濃での列強同士の領域争いは終結したが、小笠原貞慶の名目から順番に対処されていく、地方の都合にわざわざ合わせたやり方がされたのである。

 

信濃の徳川領は、府中を失った代わりに、木曽郡は徳川氏の支配下だとする便宜も受けたことで、徳川家康としては結局大きな失地はないままに、終結(天下総無事)を迎えることができた。

本能寺の変(天正壬午の乱)以降に3ヶ国から5ヶ国分に成長したその家格・格式(国際品性)が、ほとんどそのまま認められることになった徳川家康は、それだけでも特別扱いだったといえる。

これは内心では、羽柴秀吉が徳川家康に対して、上杉景勝の時と同じく寛大な視野をもって、評価をしていた裏付けともいえる。

羽柴秀吉が母と妹まで外交題材として送り、親類扱いした上で、臣従するという形まで徳川家康は作ってもらっている時点で、これもかなり特別扱いだったといえる。

石川数正の話に戻すが、徳川家中で話がこじれて、宣戦布告の破滅の方向に進もうとする、危機的状況になっていたからこそ「仕方なく」石川数正が出奔事件を起こし、急速に和解論(臣従論)が進められていったという見方も、できるのである。

「やはり石川数正は、羽柴秀吉と結託し、徳川家を裏切る気でいたのだ!」と徳川家中では「石川数正憎し」の声が当然のこととして高まったが、これをきっかけに、事態は和解の方向に進むことになった。

石川数正がやむなく、徳川家を不利にする悪役を演じたことで

 

 「それのせいで我々が急に不利になってしまい、和解せざるを得ない状況になってしまった」

 

という

 

 「不可抗力的な理由」

 

によって、小笠原貞慶の対応がうやむやにできた上に、制御するのも大変だった徳川家中の団結に、都合の良い言い訳が作られた、ともいえる。

石川数正の出奔事件は、羽柴秀吉と徳川家康と石川数正の3人の間での、裏でのある程度のつじつま合わせがあったとしても何ら不思議ではない、偽装的な荒技だったと筆者は見ている。

羽柴秀吉としても、閉鎖的でも主君を想う徳川家中の気持ちが強かった、家臣たちのその姿勢については、評価していた。

中下級の多くの家臣たちに対しては、中央裁判権と地方裁判権の違いが、簡単には理解できなかったことについては許容し、そこは叱責しなかった。

これは西側の天下総無事における、長宗我部氏や島津氏の多くの家臣たちもそこは同じように、中下級の多くの家臣たちのそうした誤解には、同じく許容している所である。

ただし地位が高い者ほど、人よりも上に立つ立場であればあるほど、そこを積極的に確認(尊重)することに努力しようとしていない、多くの下の手本になっていない無能(偽善者)だと見た場合は、羽柴秀吉はそういう手合いには容赦しなかった。

結果的に徳川家康は、大幅な格下げはないまま実質の5ヶ国の家格・格式(国際品性)として認めてもらった上で、天下総無事側の臣下となった。

石川数正は表向きは「徳川家を裏切った、とんでもない反逆行為」をしたように見えるが、不可抗力的に小笠原貞慶の名目を羽柴秀吉に移管させることで、情勢が見えていないまま反抗で沸いていた家中が不利にならないよう動いた、と見ることができる。

もはや日本全体の6割ほどを中央裁判権で抑えつつあった、ますます抵抗することも難しくなっていた羽柴氏に対し、徳川家臣の多くは、その力量差を中途半端にしか理解できていなかった者も多かった。

この時に、列強の北条氏と結託して抵抗すれば、島津氏よりも抵抗は、確かにできたかも知れない。

 

しかしそうであったとしても、朝廷にも公認されつつあった羽柴氏に、所詮は地方裁判権同士に過ぎない結託で対抗しようとすること自体、もはや無謀という域に来ていたのである。

北条氏と徳川氏の結託によって、もし「東半分の全てを、北条・徳川連合の味方に引き入れる」ほどの、それだけの旗頭としての影響力に成り得るのなら話も別だが、所詮は地方裁判権同士の結託に過ぎない名目(誓願)に、そこまでの力などある訳がなかったのである。

羽柴氏が西側の天下総無事に専念している間、徳川氏は十分といえるほど、優位に家格・格式(国際品性)を高めることができていた。

しかしこれ以上に羽柴氏に抵抗しようとすれば、間違えれば多くの家臣たちを路頭に迷わせる、無責任な支配者となる方向に進み始めていた。

石川数正が人質の小笠原貞政を連れて羽柴陣営に走ってしまったことで、家中が大騒ぎになると徳川家康は

 「こうなった以上は、これからは石川家成が、今までの石川数正の権限の全てを引き継ぐということにする」

 「今まで石川家と縁の強かった者たちも、これからは全て石川家成が石川家の家長だと置き換え、それぞれ持ち場の任務を遂行せよ」

と、家臣たちが困らないよう、混乱しないよう早々に手配されているのも、これもなんだか手際が良すぎる。

 

石川党(家臣団)は石川数正が主導していたが、実際には叔父の石川家成と共同指導していたような状態だったために、もし突如として石川数正がいなくなったとしても混乱させずに、石川家成がその後を支えられるような状態だった。

 

「羽柴氏の回し者」という声も出始めていたにも拘わらず、そんな状態になっていた石川数正に重臣たちは大して疑いも監視もされていなかったのも不自然といえる。

本当に背信が疑われていたのなら、上層の間でも疑念が出て、羽柴氏との交渉役を交代させる話なども出てくるものだが、そこも全く強調されていないのも怪しい。

知将としても知られていた石川数正は、戦国後期をどうにかしぶとく生き残った徳川家のようなやり手の組織での、大事な参謀役をこれまで務めてきた。

そういう組織の大事な参謀役が「自分さえ良ければいい」という、欲に簡単に左右されるような、自分に甘い(見通しが甘い)軽い考えしかできない無能(偽善者)だったなら、組織を支えてきたその大事な役割が務まった訳がないのである。

石川数正のことを「裏切り者」と本気で騒いでいた大半は、当時の事情をよく解っていなかった中下級の家臣たちだけだったと思われる。

ただし石川数正は、羽柴秀吉に大名扱いされるという破格の待遇を受けたことで、徳川家臣たちからは、これがかえって逆恨みされる原因になってしまった。

のちに羽柴秀吉は、小笠原貞慶を讃岐(香川県)に移封させると、石川数正にその深志城(松本城)を与え、大名資格を与えることで

 

 「石川数正は、信濃問題において不正などしていない」

 

 「大名資格を与えるだけの価値がある人物」

 

だと示した。

しかし、事情がよく解らなかった徳川家臣たちは「自分だけ良い思いをしている」ように見えた、徳川家中の社会性から離脱して不当に処遇を受けているように見えた石川数正に、かなり怒った。

石川数正とそれまで縁が強かったり仲が良かった同僚たちに対する「石川家に関係していた者は皆憎い」風潮が強まりかけたが、石川家成がその後をよくまとめたため、騒動に至らずに済んだ。

日本はこの後も、いくつかの騒乱が起きるものの、しかし羽柴氏が上杉氏と徳川氏の二強を 1586 年に臣下に降したことを契機に、天下総無事令による日本国内の内戦は急激に、減少していくことなる。

 

それまで上杉氏と徳川氏と対峙してきた北条氏も、双方が羽柴氏側(天下総無事側)に組してしまったことに観念し、しばらくは大人しくなるが、羽柴氏と結局対立して、大規模な討伐令によって、消滅させられることになる。
 

次も引き続き、羽柴秀吉の天下総無事令の様子について、まとめていく。