近世日本の身分制社会(051/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 東側への天下総無事令と、上杉景勝 - 2020/11/18

羽柴秀吉は、1582 年の本能寺の変から5年後、1584 年の小牧・長久手の戦いから3年後の 1587 年には、西側の天下総無事戦を終えてしまった。

羽柴秀吉はたったの数年で、中央(旧織田領全体)の上級裁判権(強制力・保証力・家長権)を獲得し、西側大手の、中国方面の毛利氏、四国方面の長宗我部氏、九州方面の島津氏を降す(家臣化した)という快挙を示した。

1580 年代に入ると、織田政権による裁判権(新たな社会性)の影響と、羽柴秀吉による天下総無事の裁判権の影響は、まだその支配が及んでいなかった東西でも、それが上側(無限責任側・公務公共性)の姿勢としての最低限の基準という認識が、より強くされるようになっていた。

その再認識から東国では、大手への成りかけであった常陸(ひたち・茨城県)の佐竹氏、陸奥中部(むつ・岩手県・宮城県)の伊達氏あたりの情勢はだいぶ変化していた。

しかし、既に大手だったといえた上杉氏・北条氏・徳川氏の列強3者については、天正壬午の乱(本能寺の変)での信濃・甲斐・上野(旧武田領)の混乱をきっかけに争われたものの、この列強同士では大きな変貌を見せていた訳ではなかった。

日本は、織田政権の出現によって、ついにひとつにまとまろうとしていた中、本能寺の変が起きてその流れが中断されてしまったかのようにも見えたが、そうではなかった。

織田政権がせっかく作ったその流れを中断させないよう、羽柴秀吉が自身の器量(教義指導力・裁判力)を示して急いで中央をまとめ、西側の天下総無事戦を達成した。

西側の天下総無事戦の達成は、羽柴秀吉が織田政権に代わり、日本をひとつにまとめる力量があったことを立証したのも同然といえた。

もはや羽柴秀吉の裁定に従おうとしない姿勢が反逆(偽善)だという、その裁判力(教義指導力・日本最大の家長としての威厳)が、東側にもついに具体的に向けられるようになった。

本能寺の変からのおよそ4年の、羽柴秀吉の動向と比べると、徳川家康は三河・遠江・駿河の3ヶ国の実力者から、甲斐と信濃の支配権を新たに獲得した、およそ5ヶ国の支配者に成長したに過ぎない。

信濃北部は上杉氏に抑えられてしまったが、広大だった信濃の中部と南部を大方は抑えることができてた徳川氏は、それだけでも1ヶ国分の支配力を実質獲得できていたといえた。

地方の大小の生き残りの代表たちの観点から見れば、そのように成長することも簡単ではなかった彼らから見れば、徳川氏のこの成長は、十分に列強だと写る。

しかしそれも「中央をまとめ、西側の天下総無事をやってしまった羽柴氏」から見れば、その徳川氏の存在も「所詮はその程度」といわれても仕方がないほどの「中央裁判力としての格式」「地方裁判力の格式」の大差ができてしまっていた。

東国諸氏が、羽柴氏との力量差にまともに対抗するためには、せめて上杉氏、北条氏、徳川氏の3者のいずれか1者が、他の2者をなぎ倒して、東海・北陸・関東の支配総代になっていなければならない次元である。

上杉氏についてはともかく、それができるだけの力量(名目・誓願)までは、当時はさすがになかった徳川氏と北条氏は、羽柴氏から見れば「もはや競争相手ですらない、格下もいい所の地方のイチ成り上がり者の集まりに過ぎない」という見なされ方だったのである。

羽柴秀吉は、西側の天下総無事戦を進めている間にも、天下総無事の展望(名目・誓願)は全国に向けて、通達を続けていた。

小牧・長久手の戦い(織田氏の抑えこみ)ののちは、まだ東側には具体的な国際軍事裁判力が向けられていなかったため、東国諸氏は態度を曖昧にしながら、家格・格式(国際品性)の既成事実作りのための地方戦が続けられていた所も多かった。

西側での天下総無事が進んでいくほど、東国諸氏の皆が内心では、その力量差に青ざめていたのである。

そんな中で、所詮は天下(日本全体)の都合(名目・誓願)ではない、地方の都合(名目・誓願)でのらりくらりやっている場合でもなくなってきていた、その情勢にあせった徳川家康と北条氏直は、同盟で結託し、羽柴氏からの格下げ恫喝にせめて抵抗しようとした。

これも他の大小の生き残りの勢力からみれば、徳川氏と北条氏の列強同盟は強力に見えるが、それでも羽柴氏から見れば「所詮は東海道と関東の支配総代となる器量のない者同士の、苦し紛れの結託に過ぎない」なのである。

徳川家康は天正壬午の乱をきっかけに、列強2者(上杉氏と北条氏)を押して3ヶ国から5ヶ国の実力者に拡張できていただけでも、他ではそれも簡単ではなかったことを考えれば、それ自体がかなりの快挙の部類のはずだった。

しかし羽柴秀吉という別格の巨人を基準に比べてしまえば、どの存在感ももはや霞んで見えてしまうという、それほどの力量差(教義指導力・裁判力の差・家長威厳の差)があったのである。

この徳川氏と北条氏の同盟は、上杉氏との、外交的(立場的)な違いも手伝った、結託だった。

ここで、北条氏と徳川氏の2者とはだいぶ立場が違った、上杉氏の事情について、いったんまとめていきたい。

本能寺の変が起きる少し前には、織田軍(柴田勢や佐々勢など)が越中(富山県)に押し寄せてくるようになり、上杉軍は越中東部の上杉領を守ろうとしたが、撃破されてしまった。

上杉軍は体制を立て直している間にも、越中から迫ってくる織田軍(柴田勢)、信濃から迫ってくる織田軍(森勢など)から、ついに本領越後(新潟県)に乗り込まれようとしていた。

伝統ある列強のはずだった上杉氏も、武田氏のようについに制圧されるかに思われたその危機的状況で、本能寺の変が起きた。

それによって織田軍の越後侵攻が中断され、信濃だけでなく越中も一時的に混乱させた本能寺の変は、上杉氏にとってまさに起死回生という言葉が当てはまる出来事だったといえる。

上杉景勝はその混乱の機会を逃さずに、とりあえず越中東部の支配権は取り戻すことに成功する。

話が前後するが、上杉景勝は、本能寺の変が起きる4年前の 1578 年に、上杉氏を継承しているが、その立場と事情は、非常に複雑でややこしい。

上杉景勝は、対立した上杉景虎(北条氏秀)との継承者争いに辛勝した際、上杉氏当主としての、組織全体の支配力(裁判力)がもはや低下していたことを身をもって思い知った。

先代の上杉謙信の威光に頼るばかりの、主体性(時代に合った組織の等族規範の強み)の欠けた旧態姿勢で時代を乗り切ろうなどは到底無理であることが、継承早々から自覚された。

同じような立場だった隣国の武田勝頼も実質はそこに苦しんでいて、今まで通りを繰り返していては上杉氏はあっという間に衰退していってしまうことの、その再認識が強くされた。

上杉景勝が上杉氏を継承した時、組織のこれまでの古い概念価値を一新(減価償却)しなければならない時期に来ていたことが、強く自覚がされた。

つまり本領の、思い切った越後再統一戦を、しなければならない時期に来ていたのである。

いったんの弱体化も覚悟し、頼りになる参謀役の側近、直江兼続狩野秀治にも心強く応援され、それに乗り出すことになった。

本領の越後では、上杉景勝による組織再構築の新制定(家長権・保証権)のために、いったんの領地特権の大幅な返上を求め、旧態価値を主張して従わない、反抗した地域は討伐されていった。

しかしその中で、反抗分子の代表格として台頭するようになった蒲原郡(かんばら・新潟中東部)の新発田重家(しばたしげいえ)の勢力だけは簡単には制圧できず、上杉景勝はこれに長らく苦しめられることになる。

新発田重家は当初は上杉景勝に協力し、その政敵と戦い、内乱につけこむ外圧を防ぐ活躍も見せ、それを根拠に格上げしてもらうことを強く希望していた。

しかし上杉景勝としては、だからといって格上げしてもらおうとする態度を採ろうとしない最低限の態度の手本に、新発田重家になって欲しかった所だった。

上杉景勝は、組織内の家格再整備後に改めて、新発田重家の功績をのちほど評価するつもりでいた。

それまでも多かった、家臣たちが自発的に不満を乱立させ、毎度のように組織がそれに揺さぶられるような旧態体制は、いい加減に一新されなければならない時期に来ていたためである。

その意味で、確かに功績を立てたからといっても、だからといって格上げを要求してごね始める新発田重家のやっていたことは、社会性(最低限の公共性・公務性)が等族専制化に向かっていた時流に、完全に逆らう行為だったといっていい。

確かに新発田重家は軍事行動には優れたが、明らかにそれに頼って天狗になっていた所があり、その態度は、不満分子を集めて当主に逆らう反乱という形ですぐに現すことになった。

いくら優れた所があっても、等族専制化(時代に合った状況回収の裁判権)の時流に反した、乱暴な主張や実力行使の要求の仕方をし始めるような、等族義務(国際品性の体現体礼)の欠落している家臣はもはや格下げや改易(領地特権の没収)をされるべき、不必要な家臣だという時流になってきていたのである。

しかしその内乱につけこんだ隣国の芦名氏(陸奥南部・今の福島県の代表格)と伊達氏(陸奥中部・今の宮城県周辺の代表格)が結託し、騒ぐようになった新発田重家を支援するようになったため、上杉氏にとっては厄介なことこの上なかった。

この芦名氏と伊達氏は、のちに陸奥の覇権を巡る決戦に向かうが、両者ともにまだ内部整理に多忙でその雌雄を決する準備ができていなかった当時は、上杉氏に力をもたせないようとする利害で結託し、そのしぶとい新発田重家に、裏で物資を支援するなど動くようになった。

上杉景勝は「越後の内部闘争に介入しないよう」芦名氏に外交で交渉要請したが、芦名氏はとぼけ続け、これは伊達氏の策謀も一枚かんでいたやりとりだった。

芦名氏・伊達氏の支援を得た新発田重家は、さらには南西から迫ってくるようになった織田氏とも連絡をとって、上杉氏の組織力を阻害し続けた。

上杉景勝による本領越後の再統一は進められ、新たな裁判権の制定による国衆たち(有力者たち)の再家臣化が進められていったが、この新発田重家だけはしぶとく反抗し続け、それを制圧するのも容易ではなかった。

そうして内部統制を再構築している忙しい最中、上杉景勝が継承した3年後の 1581 年には、ついに織田軍(柴田勝家、佐々成政ら)が越中(富山県)東部の上杉領まで迫ってくるようになった。

この事態は、織田氏とも連絡を取り合っていた新発田重家の思惑通りに、まさに事が運んでいるかのように見えた。

ところが本能寺の変が起きたことで、織田軍(柴田勢)も越後侵攻どころでは無くなってしまい、上杉領であった越中東部もすぐに取り戻されることになった。

本能寺の変以後、新発田重家は越後の反抗分子の代表として自治権を維持し続けていたその立場も、段々と悪化に向かい始める。

まず、織田氏が東国に迫ってきた影響にいよいよ慌てた伊達氏は、陸奥最大手としての家格・格式(国際品性)を何としても高めておかなければならない自覚がより強まるようになっていた。

そして芦名氏よりも先に内部整理を進めた伊達氏は「陸奥最大の代表格であるという既成事実作り」が急がれて、陸奥南部(芦名氏)に決戦を挑むようになったため、これまで新発田重家を共同で支援してきた関係も、決裂するようになった。

織田氏による越後侵攻は中断され、陸奥からの支援も途絶えるようになった新発田重家は以後、弱体化に向かっていく。

中央では清洲会議を経て、実質の代表者は誰であるかを巡って、柴田派と羽柴派で分裂して賤ヶ岳で決戦(総選挙戦)が行われるが、その時に羽柴秀吉は上杉氏に協力を要請し、上杉景勝は内部整理に忙しかった中でも、それに応じることにした。

越中の支配総代として乗り込んできた柴田勝家と、越中東部の上杉領を何としても守ろうとしていた上杉景勝の利害が一致する訳も義理もなかった、自然の成り行きだったといえる。

羽柴勢と柴田勢が賤ヶ岳の戦いで接戦を展開していた時、上杉勢が越中東部から柴田勢を牽制したために、柴田勢は別働軍を裂いてそれに対峙しなければならなくなり、羽柴勢に全力であたることができなかった。

越中では柴田軍と上杉軍が、互いに大きな損害が出そうだった警戒の、睨み合いの対峙が続き、結局決戦には至らなかったが、上杉氏の加勢は羽柴秀吉にとって、かなり有利に作用した。

その間も本領での新発田重家の阻害は続いていたが、その影響力も弱まり始め、上杉氏も少しずつ力を取り戻し始める。

苦難の連続だった上杉景勝は、この時の羽柴秀吉との縁以降、苦難の立場も少しずつ好転させていくことになる。

話は前後するが、本能寺の変(天正壬午の乱)が起き、上杉景勝は越中東部の支配権を取り戻すと、混乱していた信濃北部の支配権を確立するべく、急いでそちらへ乗り込んだ。

その時もやはり新発田重家の阻害を上杉景勝は受けていたが、以前ほどのその力も弱まってきていた。

信濃北部に乗り込んだ際の上杉軍は、本来なら少なくとも1万2000は動員できたはずが、当時8000までしか動員できなかった事情は、越後の再統一を新発田重家によって長らく阻害され続けていた影響が、やはり大きかった。

しかし上杉景勝は、中央の代表権を巡って台頭した羽柴秀吉との外交関係が、早めに築かれていった。

上杉氏は、信濃と上野(旧武田領)の支配権のことで、北条氏・徳川氏と対立することになった中、軍事的には不利でも、外交的には優位に立つことになっていった。

天正壬午の乱(本能寺の変)が起きた初動に、信濃中部の政局である深志城の奪還(支配下)の名目をもっていた傘下の小笠原貞種(宗家の弟。さだたね = 小笠原洞雪・どうせつ)に少数の手勢を与えて向かわせると、いったんの深志城奪還に成功する。(居座り続けていた木曽勢の追い出しに成功する)

しかし北条軍が、上野(こうづけ。群馬県)南部の支配権を取り戻すと、甲斐(山梨県)に進出した徳川軍の隙を窺いながら、信濃北部に3万もの大軍で押し寄せた。

8000でそれを追い返すことに精一杯になった上杉景勝は、せっかく占拠させた深志城(府中=筑摩郡・安曇郡)の、その支配権を固めるための後詰め(援軍)をする余裕など全くなくなってしまった。

一方で、信長のもとで頑張ってきた小笠原貞慶(宗家の子。さだよし)が、信濃制圧後の深志城再興が結局認められずに、武田氏から織田氏に鞍替えして功績を立てた新参の木曽義昌に深志城(府中)が与えられてしまい、どうにもならなくなっていた時に本能寺の変が起き、信濃は大混乱を起こす。

小笠原氏の当主を自負し、衰退したとはいえ深志城奪還の名目はもっていた小笠原貞慶は、南部から信濃の支配権の確立を目指していた徳川氏のもとに急いで駆けつけて、その後の傘下に属する条件として、その奪還名目のための援軍を得た。

徳川派の信濃南部衆の軍勢を、徳川家康の裁判権によって手配してもらった小笠原貞慶が、大勢を連れて深志城の奪還に動くと、先に占拠していた上杉派の小笠原貞種(貞慶の叔父)の周囲は、上杉本軍からの支援が受けられずに動揺し、甥の貞慶(徳川派)とその場は和解して城を明け渡し、出直すことになった。

信濃の実質の支配総代の象徴になっていた、この深志城争奪戦は、この時点までは、羽柴秀吉の具体的な介入はまだ無い。

しかし本能寺の変(天正壬午の乱)が起きてから2年後に、小牧・長久手の戦いが行われた頃には、羽柴秀吉の外交による、この深志城の支配権を巡る介入はもう始まっていた。

中央の実質の代表が羽柴秀吉であることが明確化されていくと、羽柴氏とは協調路線を採るようになっていた上杉氏の影響力も、強まるようになった。

深志城(府中。今の長野県の松本城・松本市)の支配権を巡って、北条派としての木曽義昌と、上杉派としての小笠原貞種が、徳川派として深志城を奪還した小笠原貞慶の隙を窺うという、険悪な情勢がその後も続いた。

徳川派として深志城を再奪還されてしまった小笠原貞慶に対し、上杉氏は小笠原貞種の名目で再度、深志城(府中=筑摩郡・安曇郡)の支配権の介入に動いた。

急いで府中の再統一(府中での小笠原本家主導の裁判権の制定)を進めていた小笠原貞慶は、その忙しい中で上杉派、北条派から度々の横槍を入れられながら、それをどうにか追い返して、その地位を忙しく維持していた。

上杉氏の、その後の府中へのそうした横槍活動については、これはほとんど上杉氏の意向というよりも、徳川氏を牽制するための羽柴秀吉の意向を、上杉氏が代行していたといって良い。

つまり、本能寺の変から2年後になる 1584 年の小牧・長久手の戦いが行われた頃の、羽柴秀吉が告知するようになっていた天下総無事令に、東国の列強の中では上杉氏が最も早く、その方針に同調する態度を示していた。

上杉景勝にとってのこの関係が、当然のこととして有利に作用していった。

信濃(旧武田領)争奪戦における、上杉氏、徳川氏、上杉氏の3者の内、上杉景勝だけは外交立場は、その争奪戦を終わらせるための羽柴秀吉の意向を、正式に代行していた立場だったという、その影響が段々と強まっていった。

軍事的には不利であった上杉氏が、その割には信濃北部ではそれなりに有利に進め、北条氏と徳川氏から見ればその目ざわりな上杉氏を信濃から追い出すことも簡単ではなかったのも、その立場が当然手伝っていた。

当初は徳川派だった信濃東部の真田氏(信濃の有力者)が、沼田問題のことで指図してきた徳川氏に従わなかったために、徳川氏と真田氏とで上田城の戦いが起きるが、真田氏はそれに勝利すると、上杉派に鞍替えする。

地方戦の視野としては優位であっても、日本全体の視野としての立場は段々と怪しくなってきた徳川氏と北条氏は、あせって同盟をしようとした。

真田氏が実権を握っていた、遠隔地の上野(こうづけ・群馬県)北部の沼田城を、関東(上野=北関東)の支配総代としての格式を強く自負していた北条氏が返還を求めたために、そのことで徳川氏と真田氏が揉めた戦いが、上田城の戦いである。

その戦いで真田昌幸は、地元の本領も、遠隔地の沼田城も守ることに成功し、その力量を見せつけることができたために、全てのいいなりではない前提での上杉氏との、好条件の傘下の扱いを受けることになった。

同時にこれを以(も)って真田氏も、羽柴氏の天下総無事側の仲間入りをしたことになったといえる。

羽柴氏による、東側への天下総無事令が本格化すると、真田氏は上杉氏の家臣扱いではなく、羽柴氏の直臣つまり単独の近世大名としての家格・格式(国際品性)が認められた。

これは、列強たちよりはもちろん格下の次席扱いにはなるが、それでも羽柴秀吉に直臣(新政権の直臣)と扱われたことは、真田昌幸にとっては喜ばしい、重要な格上げだったといえる。

小牧・長久手の戦いで羽柴氏は、主家であった織田信雄を抑えこむことは成功したが、それを支援した実力者の徳川家康については、すぐには抑えこむことはできなかった。

信濃で徳川氏とケンカし、それと手切れをして上杉氏に鞍替えした真田氏は、勝手に実力をつけようとする(許可無しの私闘禁止令を聞かない)徳川家康を抑えこみたかった羽柴秀吉としても好都合だった。

羽柴秀吉が西側の天下総無事戦を進めている間、上杉氏は羽柴氏の、正式な東国の監視代行人としての存在感(名目力・外交力)が強まっていった。

表向きは信濃・甲斐(旧武田領)の争奪戦を最も有利に進められていたはずの徳川家康も、内心ではそこに大いに不利を感じていた。

北条氏もそこは同じで、しかも上杉景勝の継承権争いの際の確執も少なからずあったために、段々と不利を悟るようになった北条氏と徳川氏が、結託して羽柴・上杉体制に抵抗していこうとなったのも、自然のなりゆきだったといえる。

上杉景勝が後継者争いで対立した上杉景虎(かげとら。北条氏秀)とは、北条氏からの養子で、もし上杉景虎(北条氏秀)が後継者争いに勝利していれば、上杉氏と北条氏の同盟関係が強化され、北条氏が有利になる見通しもあった。

それまで上杉氏は、関東管領(かんれい。関東の支配総代の肩書き)を継承した名目で介入し続けてきた、上杉氏との関東北部(上野・群馬県)の覇権争いももうしなくても良くなるという見通しが、あったためである。

先代の上杉謙信は子がおらず、その兄の長尾政景の子である上杉景勝が、上杉謙信のもう1人の養子になっていた。

上杉謙信が急死すると、あえて北条氏からの養子を当主にすることで北条氏との確固たる関係を強め、上杉氏・北条氏の二強主義で有利にしていこうという意見も強まった。

一方で、血筋からいえば上杉景勝こそが次期当主で当然で、まるで北条氏の家来筋になったかのように見える継承は避けるべきだという意見も多数出て、家中は分裂した。

北条氏は、上杉氏のその後継者争いで上杉景虎(北条氏秀)を後継者にしようと、援軍を急いで派遣したが間に合わず、上杉景勝が勝利した。

後継者争いの大局を制した上杉景勝は、対立した上杉景虎(北条氏秀)に対して「今後の北条氏との関係のためにも、この対立は互いにもう水に流して、これからは家臣としてぜひ協力して欲しい。待遇も約束する」と呼びかけたが、本人がそれに応じなかったためにやむなく、討ち果たされることなった。

話は戻り、上杉景勝は、具体的に東側に天下総無事が向けられるまでの、それまでの東国の公認監視役だったといえ、北条氏や徳川氏ら周辺の動きは、上杉氏によって全て羽柴氏に報告されていた。

西側から東側にいよいよ天下総無事が本格的に向けられ始めると、信濃(旧武田領)を巡る上杉氏・北条氏・徳川氏の列強3者の対立も、ついに終結させられることになる。

信濃の支配権、つまり小笠原貞慶(深志城)のことで羽柴氏がついに強く介入してきたことも含めた、外交対策のことで徳川家中も方針を巡って賛否が起きていた時に、徳川家康の重臣の石川数正の、知っている人は知っているあの有名な、出奔事件が起きた。

羽柴秀吉の介入でついに信濃(旧武田領問題)の対立が終結させられると、上杉景勝は羽柴秀吉から、それまでのねぎらいとして、越後本領でしぶとく反抗を続けていた新発田重家を討伐するべくの、正式辞令の名目を与えた。

この羽柴秀吉のはからいは、上杉景勝にとっての大きな助け舟となった。

西側を抑えてもはや武家の棟梁(日本全体の家長)の地位も同然の存在になっていた羽柴秀吉からの、この公式な軍事討伐認可は、実質は新発田重家は日本全体(新政権)のためにならない反逆者(偽善者)と扱われ、その閉鎖的な団結を大いに損なわせる効果になったためである。

この羽柴秀吉による直々の指令は、本領の越後で延々と反抗し続けていた新発田重家のこれまでの閉鎖的な団結力に、トドメを刺したのも同然といえた。

上杉景勝はこの時に、実に7年近くも新発田重家に粘られ続けたその反抗勢力の制圧・解体に、ついに成功する。

織田信長も、尾張再統一に少なくとも4、5年はかかっている。

羽柴秀吉のはからいがあったとしても、信濃と同じく越後も尾張の倍くらい広大だった上に、上杉氏は関東の支配代理という組織の規模も最初から違い、外圧の条件も厳しかった中の上杉景勝が、7年でどうにか本領の再統一を果たせたことは、決して楽な達成などではない苦難だったといえる。

上杉景勝が、組織が潰れたかも知れなくても、思い切って本領の越後再統一に乗り出し、遅れていた次世代の組織改革を大幅に進めたことは、これが結果的には、その後に不利を招いても上杉氏の家格・格式(国際品性)を維持することができた要因になっている。

これは上杉景勝に限った話ではなく、継承者のこうした多大な苦労は、佐竹義宣(よしのぶ)にしても、伊達政宗にしても、そこは同じようなものだったのである。

この、戦国後期の総力戦時代も終わろうとした頃の、地方の代表格の継承者たちは、父が偉大だったからといって、その継承者だからといって、先代をただ真似して家長(当主)をただ気取っているだけで皆が簡単に従うと思ったら大間違いなのである。

これら次世代たちは、時代に合った法(社会性)に常に刷新していき、多くの下を良い方向に導かなければならなかった家長としての重責(等族意識)が強く自覚された優秀な者たちだった。

彼らは、継承早々に新当主としての器量(最低限の手本)を示して、それを契機に時代遅れの旧態体制を急いで改めなければならないという、その大忙しの激務(人事改め・教義改め・裁判権改め)が待ち受けていたことを、よく自覚できていたのである。

その大事な時期にその自覚もろくにもてていない者を、もし間違えて当主に選出してしまえば、それは重臣たちにも落ち度があるという等族意識も強まっていた。

だから継承者争い(選挙戦・再統一戦)をせざるを得ないとなった以上は、皆も真剣になってその進退を明確化していかなければならなかった。

そうした上同士で厳しくなる姿勢が、織田政権時代に急激に育てられていったから、のちに、日本のゆくえを巡る関ヶ原の戦い(日本の主導の総選挙戦)も、その等族意識は低下させずに行うことができたのである。

その最低限の規範も大事にできていないような時代遅れの組織が、家格・格式(国際品性)を確立できる訳がない、すなわち家名存続できる訳がない時代に突入し、上杉景勝も、その原則によく向き合うことができていた上での、苦難だったのである。

話は戻り、上杉景勝は越後再統一を達成し、家格・格式(国際品性)もやっと回復させ、時代に合った裁判権の制定を進めることができた。

羽柴秀吉はその次には上杉景勝に、佐渡の本間(ほんま)氏の軍事討伐(裁判権改め)も認可している。

佐渡島(さどがしま)は、日本で一番の金鉱があったことで知られ、他には伊豆の土肥(とい)金山でも金がかなり採掘できたことで知られているが、佐渡島が最も採れたといわれている。

武田信玄時代には、甲斐(山梨県)にも多くの金鉱があったことで著名だったが、そちらは早々に枯渇してしまったことで知られている。

佐渡は建前上は上杉氏の傘下という扱いになっていたが、上杉氏は長らく佐渡の制定まで進める余裕がなく、それまで地元の本間一族の家来筋たちが閉鎖的な自治権を維持しながら、閉鎖的に争う戦国前期のような環境が続いていた。

天下総無事令による「許可のない軍事行動の私闘禁止令」の原則は、羽柴秀吉の介入によって、それまで上杉氏・北条氏・徳川氏の間で続いていた信濃争奪戦を終結させた契機から、東国でもついにそれが本格化した。

その中で上杉氏は、羽柴氏から特待的な扱いを早くも受けていたといえるのである。

佐渡の平定(再統一)は余裕をもって成功できた上杉景勝は、羽柴氏にこれまでの協力的な姿勢や、自力で組織を立て直すことができたことが評価され、またその優れた人物像も高く評価されて格上げされることになる。

上杉景勝に対する羽柴秀吉の対応の仕方も、天下人としての器量人らしい羽柴秀吉の、その寛大さ、公正さが多く窺える所である。

羽柴秀吉は、まだ若かった上杉景勝の、組織の再整備も途中段階で苦境だった時の、その足元を見ようとするようなやり方はしなかった。

羽柴秀吉の都合でもし一方的に、力任せに、臣従を上杉氏に急がせるようなことをすれば、上杉景勝は世間から力量不足と見なされ、上杉氏の組織求心力も崩壊してしまう恐れがあった。

織田信長の場合は、とにかく裁判権に従おうとしなければ、そこに何の遠慮もない、お構いなしの、有力者上層に徹底的に厳しい所があった。

羽柴秀吉の場合はそこは工夫し、少し時間を見ることもした。

もし上杉氏を潰す前提なら、臣従を急がせても構わなかった。

しかし上杉景勝が今まで羽柴氏に好意的だったこと、そして苦境の中でも有能な当主の姿勢がかなり努力できていたからこそ、丁度親子ほどの年齢差があった、まさに父親のような目線で、その苦境立場を見守っていたとさえいえる。

だから上杉景勝が、自力で組織体制を立て直す所をしばらく見守りながら、それで実力がだいぶ回復されてきたと判断してから、羽柴氏の臣下としての典礼(上洛)を要求した。

切れ者の羽柴秀吉は、いざとなれば得意の強烈な策謀恫喝で、いくらでも、誰でも窮地に陥れることができた。

しかしそれは、ちゃんと相手を見て、武家の棟梁(日本最大の家長)の手本の姿勢を見せるべく、そこはかなりの責任(等族義務)をもってやっていた。

新発田重家の討伐辞令も、佐渡の討伐辞令も、そこをよく見計らった上で出していているのである。

これももし、上杉景勝の自力の組織回復が甘いままに早く出しすぎると「上杉氏は羽柴氏の権威に頼らなければ何もできない組織」という世間の見なされ方になってしまう。

「俺のおかげでそれができたんだろう」という、ただ男脳性癖を満たしたいだけ、そういう汚らしい既成事実を作って抑えつけたいだけの、日本全体の下の等族意識をかえって急激に低下させていくような、ただ偉そうなだけの戦国前期のようなやり方は、羽柴秀吉は好んでしようとしなかった。

時代に合った道義上の関係(取引や契約の関係)の公正性を何も考えずに「俺が聞いたことだけ答えろ」だけの、偉そうにただ抑えつけるだけで状況回収しようともしない、下や次代たちに何の手本にもなっていない、今の公的教義の態度と大差ない口ほどにもない家長気取りこそ、羽柴秀吉に徹底的に叩きのめされたのである。

「俺のおかげでそれができたんだろう」「俺が聞いたことだけ答えろ」のみの、何の工夫もないただ下品で汚らしいだけのその閉鎖態度の何が、思いやりだの、世の中の正しさだの、協調性だの、社会性だのの国際品性なのだ、という話である。

閉鎖人道(下・有限責任)と国際人道(上・無限責任)の使い分けもできていない、そういう気の小さい(低知能の)下品な人生観・態度を、何の考えも工夫もなしに偉そうに外にもち出し、人格否定する(人の上に立とうとする・人生の先輩ヅラをしようとする)ことしか能がない分際(偽善者)の典型例こそ、まさに今の公的教義の姿なのである。

そういう、上の立場の態度(器量)から、下の等族意識の引き上げになる教義性をよく考えて、羽柴秀吉は通達をしていた。

上杉景勝が、自力で組織を再構築し、本来の力に立ち直り始めた所で、羽柴氏の家臣になるよう要求し、むしろ格上げに等しい家格・格式(国際品性)を正式に認めてもらう形が採られた。

それで外交的に後押しされる形で、しかし当事者性をもって上杉景勝と新発田重家の対決を決着させる方向にもっていき、それで上杉氏の求心力を低下させずの、寛大なはからいだったといえるのである。

羽柴秀吉は、やるべきことをしっかりやっている相手だと思えば、その立場の弱みにつけこもうとしなかった、そして上杉景勝としてもそこを寛大に扱ってもらったこと、そしてその器量差に、内心は恐縮この上なかったのである。

上杉景勝は、名族上杉氏を継承しても、ただ偉そうなだけの名族高官主義で構えようとせず、事態を深刻に受け止めて取り組んだ。

後継者争いをした上杉景虎(北条氏秀)と和解しようとしたり、散々苦労させられた新発田重家についても「お前のせいで、コイツのせいで」というような気の小さい態度も出さなかった、そういう上の立場の手本態度が、高く評価されたのである。

次も引き続き、西側から今度は東側の天下総無事が具体的に進められていった様子について、まとめていく。