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- 羽柴秀吉の、西側の天下総無事 - 2020/11/11

日本の歴史上で、織田信長と同じか、それ以上に目立つ豊臣秀吉について、当時の状況に触れながら順番にまとめていきたい。

清洲会議、賤ヶ岳の戦いという中央選挙戦によって、織田家臣の間で立場を有利にしていった羽柴秀吉は、実質の国際中央裁判権の代表格として台頭していった。
 
織田氏が支配して間もなく、天正壬午の乱で混乱した信濃以東(旧武田領)は除いた、新支配が根付いていたかつての織田政権領域では、多くがそれに従う姿勢を見せていた。
 
織田信雄を支援した徳川家康は抑えこむことができなかったものの、元来の主家の織田氏(織田信雄)を抑えんだことで、中央はもはや織田氏ではなく羽柴氏に実権があることが明確化されていた。

羽柴秀吉が、全国に向けて天下総無事の私闘禁止(羽柴氏に許可を得ていない軍事行動の禁止)の宣告を始めると、遠方諸氏はむしろその時流に慌て、家格・格式(国際品性)を確立しておくための地方戦(高まる最低限の国際性についていける者が、ついていけない者を従わせる組織構築)を急ぐ有様だった。
 
その様子に羽柴秀吉も「今頃になってハリキリおって」という内心の余裕の目線から、天下総無事を示すための国際的な軍事調停・制圧戦として、まずは西側から乗り出すことになった。

西側ではまずは中国地方の毛利氏が最大手の勢力だったが、国際性(裁判力)ももはや羽柴氏の方が格上だと内心は認めていた毛利氏は、その天下総無事に和平的に交渉し、その方針に恭順することになった。

この和平が比較的良好に進んだ縁は、羽柴秀吉がかつて織田軍の中国方面平定軍の大将として、毛利氏と激戦した経緯が、やはり大きかった。

それまで毛利氏の両翼となって支えていた、勇将として名高かった吉川元春(きっかわ)、知将として名高かった小早川隆景(たかかげ)の2人の内、小早川隆景の方はこの頃もまだ顕在だった。

小早川隆景は嫡子がいなかったために、羽柴秀吉の親類の木下一族を婿として迎え、小早川家の嫡子として受け入れたいと進んで申し入れたことで、羽柴秀吉の心証も良くした。

羽柴秀吉の義兄弟の木下家定の子が、この時に小早川隆景の婿養子となり、小早川家の当主として小早川秀秋(木下秀俊・羽柴秀俊)が誕生する。

小早川秀秋は、知っている人は知っていると思うが、のちの「天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦い」で、日本全体が西軍と東軍に分かれて互角の接戦が展開されていた中「後はもはや、小早川勢の動向次第で戦局の命運も決する」立場となったために、著名となった人物である。

関ヶ原で戦いが始まり、西軍と東軍で勝敗がはっきりしない戦いが続いていた中、西軍側の松尾山に布陣していた大軍の小早川勢は、表向きは西軍を装っていた。

しかし松尾山に布陣してから全く動こうとせず、なかなか戦闘に参加しようとしなかったため、その時に全ての諸氏に注目された、まさに歴史の命運を左右する立場に結果的になったことで、著名になった人物である。

話は戻り、木下秀俊(羽柴秀俊・小早川秀秋)を養子に迎え入れようとした小早川家の当主の隆景も、元々は毛利元就の子として、同じような力関係の流れで小早川家の婿養子となって相続した経緯も、早々にその決断がされたことと関係している。

もはや天下総無事の時流に向かっている羽柴氏に対し、毛利家全体が不利にならないよう配慮された上での、そこはきっぱりとした小早川隆景の、素早い対応だった。

中国地方ではかなり大きな勢力になっていた毛利氏は、大手だった割には大幅な格下げはされなかった所が、他と比べて顕著だったいえる。

毛利氏について、いったんまとめていく。

まず吉川元春と小早川隆景の2人(実の兄弟)は、それまで毛利氏全体を多大に支えてきた非常に優れた良将だった。
 
中国方面平定軍の大将に任命され、組織の代理人としての単独の器量(裁判力・教義指導力)で毛利勢と裁判権争い(力量比べ)ができていた当時の羽柴秀吉は、それまで山陰・山陽方面東部(岡山県・鳥取県・兵庫県あたり。播磨・備前・美作・但馬近隣)の支配下を進め、それらを従わせることに成功していた。

織田軍団の重役である羽柴秀吉の、西方のそれら支配代理としての総動員兵力(裁判力)は、3万いたといわれている。

その当時の織田軍(羽柴勢)に、毛利氏も善戦はしてその侵攻を果敢に阻止したが追い返すことができず、次第に圧迫されていった。

そんな時に本能寺の変が起きたため、織田軍(羽柴勢)が毛利軍と急いで講和を始め、羽柴秀吉は中央に慌てて引き返して明智勢と戦うことになる。

つまり羽柴秀吉は、織田家の重臣時代から既に、方面軍大将としての具体的な器量(国際裁判力・教義実力)を知らしめることが、既にできていた。

それが今度は、羽柴秀吉がかつての領地だけでない、中央軍全体(旧織田領)を統括した裁判力(動員強制力)で再び西側の天下総無事に動いてきたため(総勢10万といわれる)、毛利氏も内心では、もしそれに抵抗しても時間の問題であることは、認識するようになっていた。

当時の話(織田軍と毛利軍の対決)に戻り、3万の数字は誇張もあると思われるが、表向き3万もの大軍で中国地方に押し寄せるようになっていた織田軍(羽柴勢)に対し、手勢も不足するようになってきていた毛利氏側の吉川元春が、6000で堂々と迎撃に出てきたことがあった。

戦上手で知られていた吉川元春が、一歩も引かない決死の布陣の姿勢(背水の陣)を見せたため、3万もいて優勢だったはずの羽柴秀吉も大損害を危惧し、簡単には攻撃できずにそれに度々足止めを受けることになった。

6000で3万の織田軍(羽柴勢)を足止めできていた、吉川元春のこの話は語り草になったが、これは両者ともに、状況を良く判断できる優れた将だったからこその、できごとだったといえる。

攻城戦ではなく野戦で 3万 対 6000 がもし戦えば、通常では3万側は損耗率は低く、6000側の損耗率の方が多大になる単純な目算となる。

あくまで概算だけの話をすればこの場合、3万側は単純に相手の5倍いる訳だから、3万側が1人戦死する内に、6000側は5人戦死する単純計算となる。

その概算から、3万側が200人の戦死者の損害を受けている頃には、6000側は1000人の戦死者が出ている概算になる。(そうなっていない、または見通しが立っていない優勢側は計画失敗といえる)

3万に200人の戦死者が出ても損耗率は1%以内だが、6000側が1000人もの戦死者を出したら損耗率は実に16%にもなり、撤退して体制を立て直す必要が出てくる損害規模である。

それを吉川元春が、全員戦死覚悟で6000で出てきて「我々はこの戦場から一歩も引かない」地方での団結力を見せ付けてきたため、羽柴秀吉もやりにくくて仕方がなかった。

これは吉川元春、ひいては毛利氏という戦国組織には、それができるだけの裁判力(教義指導力・団結力)があることを見せつける必要があった、その重要性を物語っている出来事といえる。

その腹積もりで「どうしたかかってこい。1人でも多く道連れにしてやる」態度で出てきた毛利軍(吉川勢)と対峙した織田軍(羽柴勢)は、通常の概算は通用しない。

その裁判力を切り崩して解体し向けるために、そういう気勢で出てきている吉川勢を叩くためにもし3000(損耗率1割)や6000(損耗率2割)もの損害を受けてしまうようでは割に合わず、その後の作戦に大きく響いてしまう。

織田勢側(羽柴勢側)としては、外交戦や調略戦などの工夫もせずに、単純に軍をただぶつけ合うばかりの見合わない損害を無責任に決行すれば、自身に従って戦死した者たちへの慰労も仕切れなくなり、従わせている者たちを大いに失望させ、団結も離散させてしまうという重大な責任もあった。

これは、最初から織田軍(羽柴勢)の方が家格・格式(国際品性)が格上だった立場と、それを何としても示さなければならなかった毛利軍(吉川勢)の立場の違いでもあった。

この「優勢側の相手を足止めする・撤退させる」という狙いも、政治上、戦略上で大きな意味・効果があった。

これは「優勢側が立てた企画・計画を阻害し、その企画力・計画力(統制力)を乱す」所に打撃を与えがちで、大軍である側ほど、その支障も大きくなるためである。

織田軍団がかなり手を焼いた浄土真宗(本願寺)も、その理屈で織田軍を何度も足止し、作戦計画にいつも多大な弊害を与えたために、織田軍もその制圧に苦戦したのである。

一時的で限定的な、その場限りの人的信用だけでなんとかなるような企画や計画なら、その時の勢いだけでなんとか団結することも、可能な場合もある。

しかし必要な使命感の重さも違ってきて、また10年20年と維持していかなけばならない話になってくると、その分けごまかしも段々通用しなくなってくる、それだけの結束(国際規範)も必要になってくる。

一期一会に過ぎないその場の勢い任せだけの団結の信念(一時的な礼儀・一時的な感情)に過ぎないものは、普段から最低限の計画的な目標の組織構築に取り組むことができていない所は、肝心な時に同じ形を2度目、3度目と続けること自体が困難なのである。

国際軍事裁判権(軍事規範・最低限の社会性の敷居)の整理力の甘い、軍事に対する「公正性を示しに行く規範」という等族意識が遅れている(時代遅れの)戦国組織ほど、軍事行動は利害や恩賞の期待で釣るような、急場しのぎの結束の繰り返しに頼りがちになる。

軍を現地まで連れて行ったは良いが、結局戦闘にならなかったり、大勝したのに防衛一辺倒で領域権が拡大する訳でもない状況が続けば、等族意識(国際軍事規範)の低い状態で戦場に連れてこられた大勢は不満の怒りをもつようになり、不公平さも出てきて団結も当然乱れていく。(時代遅れの旧態軍事体制)

最低限として、そういう脱却・改革ができていない、等族規範(国際規範)が欠けた組織に、吉川元春のような指導力を示す戦い方が、できる訳がないのである。

そういう戦い方もできた、しかも何度でもその構えを見せ付けてきそうだった吉川元春の立証は、毛利氏全体の家格・格式(国際品性)を認めさせる、大きな要因になっていたのである。

織田信長の軍事改革による国際化が優れていたのも、こうした所からの工夫によって、他と大差になっていたのである。

織田信長は、前期型兵農分離を最も進められていたため、もし軍を動員して戦闘に結局ならなかったとしても、それ自体が「人々に国際規範を示しにいく重要な軍事演習」という等族意識をもたせることが、まずできていた。

他の戦国組織では「戦いに勝つ = 特権領域を広げる = それでやっと恩賞や待遇の格上げが受けられる」というような、概念価値が遅れたやり方がどうしてもされがちだった。

旗本吏僚体制、常備軍体制が進んでいた織田軍では、戦益があがらなくても兵団が困らないよう、公正に賃金が支払われていたため、軍に等族意識(公務性・公共性)を義務付けることができていた。

その形が実現できた要因として、織田信長は時代遅れの閉鎖的な旧態上下規則は撤廃して回り(楽座・自由化)、庶民同士の格差を緩和し、最下層庶民を熱心に奨励したのは、かなり大きい所である。(低級裁判権の改革)
 
出身や身分に関係なく頑張ったものは頑張っただけの見返りが誰でも公平に期待できるような農商業の改革も進めていた織田氏の取り組みが、財政面でも他と大差になっていく上に、そうした普段からの政治態度が、軍体制にも現れてくるのである。

戦国後期の総力戦時代ももう終わろうとしていた 1580 年代には、生き残った地方の列強たちも、織田氏のその「できて当たり前、やって当たり前」の最低限の国際規範の、その背中を追いかけるように取り組んでいた。

今の口ほどにもない公的教義の分際のように、人が作ったに過ぎない減価償却されるべき偉そうな旧態価値・不良債権価値にただ乗っかるだけ、ただぶら下がるだけで尊大に強者ぶろうとする、そういう無能(偽善)な上下序列手段が通用する時代など、とうに終わっていた。

そんな不確かで曖昧な偽善価値(当事者の体現体礼と結び付いていない概念価値=等族規範が欠けた価値)で人の上に立とうとする(人格否定しようとする。人生の先輩ヅラをしようとする)ことは失格・迷惑だと引きずり降ろされ、そういう分際(偽善者)こそ、殺されても文句もいえないと見なされる時代になっていた。

そんな時代に移行していた中で、ここぞという肝心な時にこそ頼りになるような、吉川元春のような手ごわい、地方が誇りに思えるような、皆の面倒見の良い代表的な指導者がどれだけいるかも、その戦国組織全体の家格・格式(国際品性)に直結した。

総力戦時代も終わろうとしていて、5000や1万という規模の大軍を当然のように動員できるようになっていた各地の生き残りの戦国組織は、同時にその団結のための法(等族意識)を普段からどれだけ地方全体に教義指導(公正な裁判力の構築)できているのか、その難しさをよく自覚するようになっていた。

先述したが、織田信長が尾張再統一戦に乗り出した時に、各地域の閉鎖有徳と結託して反抗した武士団たちと戦い、それらを解体していく過程も、その原則が戦略的に用いられている。

戦ってみて、もしくは対峙してみて、相手がすぐに崩れそうになければその場は和解して引き返すという当時の信長の手口は、まさに総力戦の基本といえる部分といえ、以後もその戦略は用いられている。

少し時間を見て、もう一度同じように軍を準備して挑んだ時に、明確な理念を整理しきれていない、いい加減な信念(名目・誓願)の団結の仕方しかできていない側は、長期維持できる訳がなく、同じ形を2度、3度と維持するのも困難になっていくためである。

所詮は目先の利害の最初の勢いだけでしか結束できていなかった集団というのは、同じ状況が2度、3度と続けば、その実態が次第に露呈していくものである。
 
「それで良い思いができた」「その時はそれで良い結果が出た」からといって、だからといって教義競争(当事者性の整理責任)を放棄する態度は、良いことはひとつもないし、誰のためにもならない。
 
過去の自身・人の結果・実績などに、何の工夫もせずにただ誇らしげに固執し、その態度で延々と居座り続けようとする今の公的教義のようなその図々しい姿勢こそ、時代遅れのいい加減な旧式概念の押し付け合い(人格否定・人生の先輩ヅラ)をしているだけの自覚もなくなってくる、すなわち確認(尊重)することと威嚇(挑発)することの区別もできなくなっていくのである。

軍事行動は、ただ攻撃を仕掛けるだけでなく、繰り返される団結(国際軍事規範)が全く乱れないことを、互いが見せ付けながら、まずその整列ができているかどうかから窺い合うだけでも、大きな戦略になった。

その場の威勢だけで集まっているに過ぎない、そもそも公正性(国際規範・最低限の公務公共認識)も曖昧ないい加減な集団とは、2度3度と何か問題が起きるとどんどん結束が乱れたり、些細な不利が生じた途端に味方同士で疑い合ったりして仲間割れし始め、勝手に教義崩壊を起こして崩れ出したりするものなのである。

孫子の兵法でもそこに陥らないために、常に公正性を心がけて組織構築の整理を続けていくことが、組織の最低限の基本であることを訓示している。

その国際軍事規範(公務性・社会性)からまず比べ合い、それで相手が崩れていく所に調略工作戦、外交戦を駆使して、味方を優位にしていくことがまずは最善の上策で、まずそこができている上で、必要に応じて下策も用いていくことが大事だと、孫子の兵法でも指摘されているのである。

総力戦時代は、そういう所が国際軍事裁判力(何をもって大事な社会性なのかの教義指導力)の力量差として、大きく現れた時代だった。

3万の相手に対して6000までしか用意できないまま、何の工夫も強みもなく対峙すれば、6000側は攻撃を受ける前から、3万側の恫喝の前に気勢も段々と削がれていくものなのである。

その中で吉川元春は、毛利氏全体の家運のため、そして次代たちのために、自分たちの軍事裁判力(協力性・社会性・名目)を何としてもここで見せつけなければならない、その重要性を部下たちによく指導し、自覚させることができていた。

かつて、織田軍の司令官として毛利氏と激戦を展開した羽柴秀吉は、毛利氏のそういう所からの家格・格式(国際品性)は既に確認(尊重)できていた。

そして毛利氏としても、山陰・山陽東部の領国の支配代理としての羽柴秀吉の、知将としての戦い振りに苦戦し、その力量を見せ付けられていた。

羽柴秀吉は今度は、山陰・山陽東部の領国だけでなく、中央までをも従わせてそれを加えた軍勢を動員して、天下総無事を目指してきた。

天下総無事を宣告している者、つまりこれから武家の棟梁(日本全体の家長)に成ろうとしている者が、汚らしいだけのただの男脳性癖に過ぎない役に立たない誇りだの敵意だの恨みだのに簡単に流されるような、そういう気の小さい視野から脱却できない分際が、公正に諸氏を精査できる訳がない。

そういう、多くの人々を失望させる態度を平気で出すような、等族規範(公共性・公務性)の手本など何ももち合わせていない今の公的教義のような気の小さい(知能の低い)分際が、専制政治(保証責任・状況回収を公正に示すことができる代表)が求められるようになっていた天下総無事(武家の棟梁)の器量というものを、認識できる訳がないのである。

人が作った価値にただ乗っかる、ただぶら下がることしか能がなく、たったそれだけで偉そうに人格否定(人生の先輩ヅラ)ばかりしたがる口ほどにもない公的教義のような低知能の集まりに「国際軍事裁判力(等族規範)の比べ合いが公正にできる者が、本当の代表でなければならない」というその重要な意味を、知覚できる訳がない。

そういう経緯があったからこそ、羽柴秀吉の天下総無事において、毛利氏とは和平的に、協力的に話が進み、本家の毛利家、その親類筋の吉川家と小早川家その他も、これからは羽柴氏の直臣という扱いがされた。

それによって、今までは本家の毛利氏を中心とした吉川家・小早川家の関係も、形式的に解体させられることになった点では、本家の毛利氏は格下げ扱いになった。

ただし毛利家・吉川家・小早川家それぞれが不利にならないよう、羽柴秀吉(新政権)の重臣格として改めて認められ、それぞれ家格・格式(国際品性)が保証された。

大幅な削減はなかった毛利氏はかなり厚遇された方だったといえるが、それは若年当主の毛利輝元をそれまでよく支えていた吉川元春、小早川隆景、その他にも家臣たちも優れた者も多かったことを羽柴秀吉が過去の対決によって確認(尊重)されていたことが、大きい。

かつて苦戦させられた敵であっても、その家格・格式(国際品性)は公正に確認(尊重)し、保証するという最低限の責任を、羽柴秀吉はそこは寛大さをもって対応し、器量を示した。

羽柴秀吉は、毛利氏を従わせて天下総無事の協力をとりつけると、四国全土の支配総代も目前になっていた、四国統一戦をやめようとしなかった長宗我部(ちょうそかべ)氏の制圧に乗り出す。

天下総無事を宣告された四国勢は当初は、羽柴勢の調略になびかずに、格下げを嫌って長宗我部氏に組していた有力者が多かった。

四国全土の支配総代の地位も目前で、それを目指していた最中だった当主の長宗我部元親は、四国では根強い支持を得ていた。

長宗我部元親は家臣たちの格下げを防ぐためにも、羽柴氏の私闘禁止の停戦宣告に簡単に屈伏する訳にもいかず、力量比べの対決をすることになった。

四国勢は劣勢であった中でも、当初は羽柴軍をよく牽制し、四国全土の支配総代としての格式(国際性)を長宗我部元親は、見せつけることができていた。

軍事的には圧倒的に有利であった羽柴氏でも、大して調略できている訳でもない敵領四国に乗り込むことになったため、当初は厄介な抵抗に遭い、進軍することも楽ではない状況だった。

さすがは四国全土をまとめつつあった、その支配総代になりつつあった当主の長宗我部元親に、羽柴秀吉も最初は少々苦戦をさせられることになった。

しかし軍は進められなくても、前線で四国勢に包囲線を敷きながら、中国方面の毛利軍と連携して二面、三面と追い込むように四国勢を圧迫していくと、四国勢も悲鳴を挙げるようになった。

四国勢側も、いつまでも羽柴勢・毛利勢を追い返すこともできず、次第に手詰まり状態になると、名目的(戦略的・外交的)な抵抗力も、劣勢になっていった。

着実に包囲線を縮めてくる羽柴・毛利連合に、対応しきれなくなっていった四国勢側は仕方なく降伏する者も日々増えて行き、どうにも抵抗のしようもなくなってしまった長宗我部元親も、家臣たちを守るためにやむなく降伏することになった。

羽柴秀吉は、刃向かってきた長宗我部元親の戦い振りは「敵ながら」と評価し、格式(国際性)はしっかり認めた。

四国の家臣たちの格下げから守ろうと戦った、その私心のない国際性ある長宗我部元親の態度と器量は、羽柴秀吉からその部分は改めて高く評価され、長宗我部氏には地元の土佐(高知県)1ヶ国の領地権だけは認めることにした。

これは格下げではあるが、ただ「刃向かった者は容赦しない」というだけでない、長宗我部氏に対して非常に寛大な、相手のことも見てしっかり評価する余裕まで見せた、器量人としての羽柴秀吉の公正な姿勢も示した処置だったといえる。

土佐を本拠にしていた長宗我部氏の、その多くの家臣たちも結果として、優秀な当主だった長宗我部元親を地元では皆がしっかり支持し、それで協力し合うことはできていた戦国組織だったからこそ、皆それぞれ家名存続も許されたといえる。

地元の土佐を統一した長宗我部氏が、土佐から出てきて従わせるようになっていた伊予(いよ・愛媛県)阿波(あわ・徳島県)の支配権は放棄させられ、伊予衆と阿波衆(その地元の有力者たち)については、羽柴秀吉の裁定によって、改めてそれぞれ家格・格式が改められることになった。

伊予や阿波では、それだけの家格・格式(国際品性)などないと見なされて削減・剥奪処分になった有力者も多く、地位が高かった有力者ほどそこに厳しい裁定が下されていった。

地元で「あるべき代表を、責任をもって選出し、団結させていく」ことが中途半端にしかできていなかった、そうした地方の有力者らは、当然のこととして厳しい処置が裁定される傾向が強かった。(国際裁判権の示し。等族社会化)

領地特権の没収の対象となった所は、新政権の蔵入地(くらいりち。羽柴氏の領地。税収直轄地)にされ、そこから羽柴秀吉のもとで育った優秀な家臣たちや、羽柴氏に協力的だった有望な者たちなどに、公正に手配されていった。

織田信長の場合は、降伏するよう宣告しても抵抗した、その裁判権(新たな社会性)に従おうとしない勢力は、徹底的に踏み潰す完全解体が大前提だった。

反抗せずに臣従したとしても、家格・格式(国際品性)が見合わないと再評価された有力者は、どんどん削減や剥奪を受けるという、上の立場の者ほど徹底的に厳しかった所があった。

羽柴秀吉も上への厳しさは同じだったが、そこは工夫され、天下総無事に従わずに抵抗してきた相手であったとしても、その態度の良さ悪さをしっかり見る余裕の目線で、対応した。

相手の戦いぶりや外交品性などの様子も見ながら「皆のためにやむなくそうした」というその態度が良ければ、そこは寛大に評価するやり方がされた。

西側における天下総無事戦での、羽柴秀吉のやり方が非常に優れていた点は「面倒がらずに、相手(地方)の都合にわざわざ付き合った」といえる、その寛大さにこそあったといっても良い。

これは、次に制圧対象となった九州の島津氏に対しても全く同じ所である。

羽柴秀吉の、この天下総無事戦が行われた頃は、地方の上層の有力者たちはその時流をよく認識するようになっていた者が増えたが、それら家臣たちはその意味を曖昧に、中途半端にしか認識できていない者が多かった。

つまり、周辺地方を吸合できるようになっていた、急激に成長し始めた長宗我部氏や島津氏の、それに従うようになった多くの家臣や中下級の武士たち、庶民たちにとっては、国際視野がやっと、四国全土や九州全土に広がったに過ぎず、それが中央裁判力であるかのようにどうしても誤認しがちだったのである。

地位の低い者ほど、他との違いを見せることができるようになった優れた部分というのが、それが世界全体・宇宙全体(神仏のはからい的)として優れたものであるかのように、どうしても誤認してしまいがちである。

支配総代とその重臣たちは、天下総無事を目指してきた羽柴秀吉に勝ち目がないことは、大方は解っていた。

しかし普段から国際外交に触れる機会が乏しく、その状況を認識できる機会がそもそも乏しい、大勢の中級武士以下、大勢の庶民たちにとっては、自分たちが仰ぐ支配総代こそが、最も優れた社会性という認識に、なりがちなのである。

戦国後期に自覚された総力戦時代は「やらずに後悔」よりも「やって後悔」の健全意欲の意識も、組織の等族規範(公務性・公共性)が強まるほどそこも自発的に強まる傾向も強かった。

多くの下を保護しなければならない重責を自覚していた支配総代は、羽柴秀吉と交渉してすんなり従った方が、その方が良い条件が引き出せることが解っていても、価値観を目まぐるしく変化させていった戦国後期に、それを多くの下々に理解させることは大変だった。

遠方地方では 1570 年代に改められた裁判権(社会性)が、1580 年代には「もうそれが時代遅れ(旧態価値)」と言われても、織田政権の強い影響の変貌があまりにも早すぎて、下の者たちにとってはその意味が全く理解できない者も多かったのである。

優秀な支配総代を選出して、それを誇りに団結するようになっていた多くの人々は
 
 「我々にもそれだけの国際規範があることは、そこは決してあなどられたくない」
 
 「実力(軍事規律)を以ってそれを見せ付けてやりたい」
 
という健全自主が、台頭した戦国組織ほどその意識もそれだけ下に強まった。

それはひいては、皆の精神的支柱にしていた長宗我部元親島津義久といった誇りが、そう簡単にあなどられる訳にはいかないという意識であり、これは小牧・長久手で羽柴勢と戦った際の、徳川家康に対する徳川家臣たちの想いも、そこは同じだったのである。
 
羽柴秀吉は、長宗我部氏に従っている家臣たち、庶民たちのそういう気持ちも計算にいれた上で、内心では寛大な姿勢で、四国勢の制圧戦に乗り出していたのである。
 
そして、「抵抗しようとしたが、結果的にどうにも抵抗できず、その力量差を見せつけられてしまった」という典礼をもって、勝とうが負けようがそういう所を順番に自覚させていった。
 
羽柴秀吉は「上のやることを理解できぬお前らみたいな下は、刃向かわずにただいいなりになっていればいいのだ」という戦国前期のような、下への手本にならない、そこを面倒がってただ力で抑えつけて完結させることだけの、むしろ下への等族意識を低下させるような、そういう乱暴なやり方はしなかった。
 
羽柴秀吉に実際に、それに付き合ってもらったから、後になって「あの時、やはり抵抗しておけば良かったのだ」という、不健全な不燃焼のモヤモヤも、取り払われることになった。
 
ここについても、かつて織田氏に反抗した浄土真宗(本願寺)の存在と、全く同じことがいえる。
 
後になって他宗と何か問題が起きた時に「そうまでして、そのことに固執してそこまで怒るなら、それならなぜあなた方の宗派は、戦国後期(教義競争)の肝心な時期には縮こまってばかりで、我々よりも少しでも教義力(公正性・公務性・国際性)を示そうと努力しなかったのだ」という公正な言い合いもできるようになる。
 
ここは、個人でも組織でも国家でも、全く同じことがいえる部分である。
 
その自力整理努力もろくにしてこずに、人が作った価値にただ乗っかってきただけ、それにただぶら下がって、ただその押し付け合い(人格否定・人生の先輩ヅラ)をしてきただけの個人や団体が、後になって慌てて不公平性を訴えた所で、後の祭りなのである。
 
世俗裁判権の織田氏と激闘し、それに敗れて今までの聖属裁判権を放棄させられ、それからはその裁定に従うことになった浄土真宗(本願寺)は、そこがそれだけ自覚できていたからこそ、その時は大いにくやしがった。
 
しかし同時に、それだけ国際品性を身に付けることの大変さを自覚できていたからこそ、わざわざ偉そうに誇らしげにそこを言うことも、普段は控えることができていた。
 
それはいざという時、肝心な時の奥の手で言い返す手段に、浄土真宗(本願寺)は国際規律ある集団として、誇りはもっていたのである。
 
毛利氏の中国勢、長宗我部氏の四国勢、島津氏の九州勢は、羽柴秀吉という強敵と実際に対峙して戦い、それで改めて家格・格式(国際品性)を認めてもらったような、それぞれの代表組織だった。
 
こうした経緯は「敗れはしたが、しかし我々は天下総無事という流れの中で、他ではなかなかできなかったその日本最大の強敵とも対峙し、それで家格・格式(国際品性)を認めてもらった集団なのだ」という、彼らにとっての歴史的な誇りになった。
 
幕末時代には、土佐の山内氏(長宗我部氏のいくらかの旧臣たちもそれに従っていた)、長州の毛利氏、鹿児島の島津氏に、これに宇和島の伊達氏(伊達家の分家筋)を加えた倒幕の戦いを可能としたのも、戦国後期に優れた当主を輩出することができていた地方の気質と、もちろん関係している。
 
幕末で活躍した坂本龍馬は、長宗我部氏の旧臣の家系である。
 
江戸時代の、山内氏の土佐支配時代には上士下士という枠が作られ、山内氏の古参組と長宗我部氏の旧臣組とでかなりの待遇差別がされていたが、下士側だった坂本龍馬の家系の待遇は、その中でもまだ良い方だったといわれている。
 
四国勢を従わせ、天下総無事の協力を取り付けた羽柴秀吉は、九州全土の支配総代になりかけていた島津氏を抑え込むべく、同じ要領で九州制圧戦に乗り出す。
 
そちらは省略するが、島津氏も善戦はしたが、中央勢・毛利勢・長宗我部勢の包囲戦の前に結局抵抗し得ず降伏した。
 
その態度の良さが羽柴秀吉に評価され、鹿児島近隣の領地権を認めてもらうことで、島津氏も改めて家格・格式(国際品性)が認められた。
 
列強の戦国大名たちを、次の時代の近世大名としてもはや「認める側と、認めてもらう側」という、実質はそれだけの器量(教義指導力)の大きな差を見せつけられることになったのが、羽柴秀吉の西側での天下総無事戦だったのである。