近世日本の身分制社会(049/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 羽柴秀吉は、どんな人間だったか - 2020/11/03

羽柴秀吉は小牧・長久手で織田氏(徳川氏)と争ったのち、天下総無事を諸氏に警告して情勢を見ながら、まず西側からその事業を詰めていった。

西側は、四国全土の大手の支配総代になりつつあった長宗我部(ちょうそかべ)氏、中国方面で大幅な拡大をしてきた毛利氏、九州全土の支配総代になりつつあった島津氏あたりが顕著で、それら抑えこみに羽柴秀吉は動いた。

各地方でそれら台頭者に押され続け、潰されるのももう時間の問題の中で、どうにか抵抗し続けていたかつての有力勢力は、羽柴秀吉の天下総無事の動きはまさに「助け舟」となった。

遠方では、中央に遅れをとるような形で続いていた総力戦(教義競争)が本格化していた。

そしてその本格化に押されて衰退していく一方だった近隣勢力は、家名(家格・格式)を守ろうと地元にどうにか居座り続け、列強に反抗し続けていた単位が、まだいくらか点在していた。

伊予(いよ。愛媛県)の河野氏(本家はコウノ。カワノは分家読み)、豊後(ぶんご。大分県)の大友氏、日向(ひゅうが。宮崎県)の伊東氏などが、それらに押されていた、かつては力をもっていた支配者として顕著だった。

それらは、総力戦時代(教義競争)も終わろうとしていた頃には、急成長していった列強に畳み掛けられる寸前まできていた。

羽柴秀吉の天下総無事が、まずは西側に向けられて、具体的に国際中央軍が動員され始めたために、それら劣勢だった有力者らは急いで羽柴氏に使者を送ってすがった。

もう贅沢をいっている場合ではなくなってきていた、もはや家名存続も怪しくなってきていた彼らは、天下惣無事を目指す羽柴秀吉にとっても好都合だった。

その支援名目も活用されながら「天下総無事に向けての規制」という形で軍の動員が進められた。

支配総代としてかつては10万石や20万石の実力はあったのが、衰退して5万石の支配力も維持できなくなってきていたされら劣勢たちを救済し、領域争いを止めさせて5、6万石程度の家格・格式(国際品性)でも認めてやれば、恩を売れるためである。

10万石の格式を味方につけても、手柄を立てられたり、より格式を示されてしまったら、2、3万石は加増して格上げを認めなければならなくなる。

今まで力をもっていた者に、何も格下げせずにただ力をつけさせる一方だと、政権としての制御もしにくくなってくるため、だからこそ、大身(大領主・大特権者)の者も厳選していかなければならなかった。

10万石の格式の者が100人いるよりも、5万石以下の格式の者を大勢受け入れる枠を作った方が、何かと都合が良いに決まっていた。
 
これからの新政権にとって、これまで地位の低かった者も評価次第では「自分ももしかしたら、その枠に入れてもらえるかも知れない」という奨励にもなる。
 
今まで力をもっていた者が今までの基準でただ力をもち続け、力をもった者たちだけがより力を付けていくばかりの、上にただ都合の良いだけの、そこに何の工夫もできていないような社会制度を作っているようでは、前代の室町体制の教義崩壊の教訓が何も活かされないことになる。

1万石の家格・格式も無かった者から有能(教義競争者)を見出し、手柄を立てる優先権を与えてどんどん格上げしていき、もし5万石ほどの大出世でもさせれば、本人も一生ものとして大いに感激したりするものである。

しかし最初から50万石もの格式を身につけてしまった者を、ただそのまま傘下に加え、その後になお手柄や格式を示されて、加増で格上げしなくてはならなくなった時、5万石程度を加増しただけでは「10万石の加増は頂けないと」となるに決まっている。

新時代とは、今まで優位だった者がこれからもただ優位であり続けることなど許されない時代、そして今まで努力工夫したかった者が、それを認める制度体制がなく不利な扱いばかりされてきた者が、いつまでも不利であり続けることも許されない、を以(も)って、健全な新時代といえるのである。

羽柴秀吉の天下総無事における全国への有力者の、格上げ と 格下げ の根幹は、まずはそこである。

有能だが地位は低かった者は再評価し、優先権が与えられて格上げすることが奨励された。

織田政権の裁判権基準が示された後になって、それ便乗できたに過ぎない一過的な高度成長者は、羽柴秀吉から見れば「所詮は織田政権の新基準に地方も便乗して、それでにわかに急成長できたに過ぎない連中」と余裕の目で見なして(見抜いて)いた。

そうして遠方地方で不自然に急成長をし始めた台頭者らは、元々の家格・格式に格下げして回るという、新政権に向けての、まずは上からの身分統制的な意図が強かったのである。

これからは、日本全体の新政権(豊臣政権)の代表者(武家の棟梁・日本全体の家長)である羽柴秀吉が認可した訳でもない家格・格式(国際品性)を始めとする、あらゆる社会価値概念は、意見すら提出されていない認可されていないものは全て規制していく、が根幹である。

公認的(国際的)といえるか怪しい、所詮は地方で通用するに過ぎない、羽柴秀吉に再評価を受けた訳でもない自称的な家格・格式(国際品性)は、「国際中央裁判権からの成り上がり者」の羽柴秀吉から見れば「地方裁判権の成り上がりども」の諸氏に過ぎなかったのである。

これは織田信長が、既にその大きな前例を示してくれていたものを、羽柴秀吉がいよいよそれを活用する形で、その新政権構築の具体化に動き出されたのである。

 中央で実質の代表権を勝ち取ったも同然だった羽柴秀吉
 
と、
 
 遠方地方の単位でまだ裁判権争い(教義競争)を続けていた支配者たち
 
の、互いの法(社会性・概念価値の認識力)には、既に歴然とした大差があったのである。

織田信長が今までどんな裁判権(社会性)を改革してきたのか、そしてこれからどのような新政権を作ろうとしていたのか、そこをしっかり見てきて、多くを学んできた器量人の羽柴秀吉だったからこそ、その姿も実現できたといえる所である。

これからの日本全体の棟梁(家長)は、自身(豊臣秀吉)であることを存分に思い知らせるために「新政権(豊臣政権)に公認されていない家格・格式(国際品性)の自称は許さない」ための、まずは上(有力者)たちへの身分統制が、日本全体で具体的に始まった。

まさに江戸時代の前身の姿が、まず織田政権で足固めされ、豊臣政権への移行期にいよいよ形として具体化され、全国的に示されようとしていたのである。

これは織田信長をただ真似したというだけの、また野心うんぬんだけといったそんな安直で簡単な話では断じてない所は、そこは徳川家康も全く同じことがいえる。

織田政権の第一線で活躍していただけあった羽柴秀吉という器量人(教義指導者)だったからこそ、日本人同士の争い(教義競争)ももうこれ以上する必要がないことを示さなければならない自覚(等族社会化)も強くされていた。

それは特に「上同士の闘争にこれ以上、下を巻き込んではならない」という、それで今まで下の社会意欲を著しく低下(思考停止・記憶喪失)させていた、下に全く手本にならない闘争はこれからは絶対にやめさせるという、その上の責任(等族義務・無限責任)も強く自覚された。

そのための貴重な多くの前例を示してくれた織田政権時代を参考に、工夫されていった上での、羽柴秀吉の天下総無事だったのである。

その元々の織田信長の理念を、羽柴秀吉はしっかり引き継ぐ大前提でいたからこその、新政権では様々な工夫による新制定が、施行されていったのである。

羽柴秀吉が行った「明確な士分待遇を得ていない大勢の半農半士たち」への全国的な刀狩り(武具の没収)を手始めとした、後期型兵農分離(公務と庶民との社会的区分け)の、政治的な大前提もまずはそこである。

この政策は一見は

 半農半士たちに、もはや士分待遇を得る機会を与えさせないため

 地域政治(徴税義務と代替保証権)の大幅な変更時に、かつての閉鎖的な伝統で抵抗しようと起きがちな暴動を、抑え込もうとするため

といっただけの、ただ上に都合が良いだけの政策であるかのような解釈ばかりが強調されがちな所だが、それは結果論的な見方でしかなく、そこが根幹ではない。

これはむしろ、大して手本(説明責任・体現体礼)にもなっていない無能(偽善者)は、もはや庶民間ですら品位の欠落した偉そうな上下社会観の態度を、いよいよ法制度的に改めさせるための具体化だったのである。

羽柴秀吉は、下を押さえつけようとしたのではなく、むしろその全く逆を規制・制裁するための新制定だったといえる。

あえて例えれば、これは近代の明治政府が庶民たちに宣伝していた「四民平等」の理念に近いものだった。(明治政府の場合は結局そこは、かなり曖昧で中途半端だった)

これは、従来の

 閉鎖有徳のように閉鎖的な第三権威をまた地域ごとに勝手に作り始め、庶民同士の閉鎖上下の中で、庶民間で偉そうな権力(偽善体制)を作って多くの最下層労働者たちを従わせようとする

その時代遅れの旧態慣習が、まだ各地で残り続けていた風潮をいよいよ

 政権に認可もされていない庶民間の、時代遅れの慣習の上下支配構造(無責任で口ほどにもない従来の常識)も、これからはもはや許されない(制裁対象・等族違反のその態度が裁かれる時代)

という新政権(豊臣政権)の身分統制令の姿勢の表明は、中世の閉鎖的・愚民統制的な庶民政治に逆流させないようにするための、新法制だったのである。

これも織田政権時代の優れた前例が参考にされた、具体的な低級裁判権(有限責任側)の改革として進められていたものが、ついに全国的にそれが法(社会性)として、向けられたのである。

全国にすっかりあふれていた半農半士たちは何かあると、さも名族直属の正規武士団であるかのように武器をもって、地域の格式を高めようと勝手に騒ぎ出し、閉鎖的に交渉権や自治権や得ようとする風潮が、まだ根強く残り続けていた所も多かった。

閉鎖的な正しさの押し付け合いばかり始める、地域の寺社と強く結び付きがちだった地元の地侍(ぢざむらい・半農半士らの代表)たちによる、その閉鎖的な中の勝手な第三権威を蔓延させ、その中で従う側(人格否定する側)と従わされる側(人格否定される側)という閉鎖上下社会が、常に勝手に構成されがちだった。

それを全国的にやめさせることができる、日本全体の強力な棟梁(家長)が永らく出現しなかったから、それまで日本全体のその中世社会から近世化(等族規範化)への脱却も、難しくしていた。

似たような実力の上同士で延々と領域争いが続けられるだけ、下(低級裁判権・有限責任)の社会規範もそれだけ低下(思考停止・記憶喪失)させてしまうことになっていた。

だからこそ、誰かが上級裁判権側(無限責任側)としての圧倒的な国際裁判力(教義指導力)を示し、総力戦時代(教義競争時代)はもう終わったことを誰かが示さなければならなかった。(日本の自力教義力の示し合い)

上同士(無限責任同士)で厳しくなる再認識から始め、まず圧倒的な上級裁判権側(無限責任側)で人々をまとめる姿(体現体礼)を誰かが示せれない以上は、全国的な下(低級裁判権・有限責任)への国際社会規範化(等族社会化・庶民たちへの社会性の敷居の向上)も、到底ありえない。

それはすなわち、今の公的教義のように無限責任(社会全体責任)と有限責任(自己責任)の区別もできず、どういう時はどちらで叱責しなければならないのか、それもろくにできていない者が、それぞれのその法(社会性)のとらえ方、扱い方(社会性)の敷居の底上げなど、ありえない話と同義なのである。

全国的にあふれるようになっていた、いつまでも武具を所有し続けていた、実際は庶民と大差なかった名族の末端の大勢の半農半士たちに対し、羽柴秀吉はついにその規制に動いたのが、後期型兵農分離(刀狩り・身分統制令)だった。

その意味は、今まで各地元で閉鎖的に偉そうに威張っていた連中に対し

 「公認もされていない、明確な士分待遇(公務待遇)も受けていない、さらにはその筋の明確な縁で雇用されている訳(中間身分・ちゅうげん)でもない庶民同然の半農半士は、これからは全て庶民扱いと明確化する」

 「そしてもはやその庶民間でも、提出も認可も無しに偉そうに政治的(武威的)に人の上に立とうとすれば(勝手に政治的に家長を気取ろうとすれば)もはや制裁対象の反逆(偽善)」

という警告だったのである。

これからはもはやそこも許されない、庶民政治のその部分の面倒もこれからは新政権(豊臣政権)が見る(意見回収・状況回収する)代わりに、その制定に従わない地域は反逆(偽善)と見なされて討伐される、これからは全国的な低級裁判権(有限責任の庶民のあるべき等族義務・状況回収・意見回収)も全て新政権が請け負うという、その制定が始まった。

それまで各地で、庶民の中で偉そうにしていた半農半士たちから見れば、今までの地域の古い名族習慣の価値観がついに否定(減価償却)されることになった、その連中には多大な苦痛を与えるための大制裁だったといえる。
 
それは同時に、庶民の中で偉そうにしていた強者が制度的に叩かれ、それに抑え込まれ続けて制限ばかり受け続けてきた弱者の救済を意味し、民政善意的に健全社会化するものだった。

日本全体の総力戦時代(教義競争)は決着し、上(無限責任側)の立場の多くはその流れを認識できるようになっていたが、下(有限責任側)は、いつの時代もそこは曖昧にしか認識できない者も多いものである。
 
しかしそんな中でも、下でもその天下総無事の流れもなんとなく理解するようになり、もう今までのような戦乱もこれからは激減し、今まで日本全体で規格性がなかった地域慣習も改められる世の中になってきている認識くらいは、するようになっていた。

それまで半農半士たちは、かつての領域争い(裁判権争い・優先権争い)で激戦になった時でさえ、それに便乗参加したり、あるいは強制参加されられたりしても、だからといって士分待遇(公務待遇)をそう簡単に得られる訳でもないことも、もう明らかになっていた。

ただでさえ士分待遇を受けられたり維持するのも難しかった中、戦乱で手柄を立てて出世などこれからはなおも減少してくる中で、その可能性がまだあるかのような地侍という庶民間の虚像に過ぎない肩書きを、羽柴秀吉が一斉に否定(時代遅れの概念価値の減価償却)した。

かつての家格・格式(国際品性)の根強さが維持できていれば、失脚していも復権する可能性も、ないこともなかったのが、深志城奪還に成功して復権を果たした小笠原貞慶などの例がまさに好例だったといえる。

しかし永らく家格・格式(国際品性)を確立できずに、著しく衰退させていった家来筋の他の半農半士の集まりが、後になっていくら暴れて目立った所で、大した復権もできないことが、まさに天正壬午の乱がそのうってつけの立証の典型例になっていたともいえる。

半農半士で永らくあり続け、家格・格式(国際品性)を身につける糸口ももはやなくなっていた、全国のそうした往生際の悪い自称武士団(半農半士ら)に対し、羽柴秀吉がついに「貴様らは全て庶民である!」と引導し、武具を取り上げて回った。

庶民政治の中で中途半端に威張り続けてきた地侍という、不健全な旧態権威慣習を、羽柴秀吉がついに一斉に否定したのが、有名な「刀狩り」である。

これからは認可(品性ある意見提出)も無しに、閉鎖的な上下統制を庶民間でももはや勝手に作ってはならない(勝手な社会正義を乱立させてはならない)という、四民平等的な新時代の新社会観の叩きつけが、刀狩り・身分統制令の制定だったのである。

これによってもはや、武具の所有の有無自体が品性認可による特権制度と化すようになり、その資格が公認されていない公務外の者と、雇用関係の条件付きも含めてその資格が公認されている公務内の者とで、今までその具体的な区分けがされていなかったものが、ついに区分けされるようになる時代に入った。

羽柴秀吉は、半農半士出身者の、その全てを人格否定していた訳ではない。
 
人よりも少しでも格上だという以上は、人々の手本になるような国際品位ある意見をもって、人々をまとめられるような小地域の代表だと認められるような者なら、士分待遇(公務待遇)への格上げももしかしたらありえる、という政治性の公表だったのである。

これまで、そこが区分けできるほどの実力者、つまり乱立していた地方裁判権を国際公正(品性)ある中央裁判権の理念のもとで全て恫喝し従わせ、日本全体(上級裁判権・無限責任)をまとめることができるほどの、その強力な専制君主が日本では永らく出現しなかった。

そして戦国後期の総力戦時代という、その立証時代に圧倒的な教義力を示す者として、ついにその改革を始めた、あの織田信長が出現した。(前期型兵農分離・等族公務規範とその家格保証の制定)

その制定が進められていた最中に、本能寺の変が起きて織田信長を失ってしまったものの、そこからよく学び取ることができていた重臣の羽柴秀吉が、それを引き継げるほどの器量を有していたからこそ、ついに日本は次の時代に向かうことができた。

戦国後期には、ろくな教義力もなかった聖属公判(公的教義)はもはや、法(社会性・地方裁判権)の国際改善として機能していない所か、その極めていい加減な存在が今と同じく、かえって勝手な社会正義を各地で閉鎖的に乱立させる、むしろ人的信用障害にしかなっていなかった。

だからこそ聖属公判世俗公判が、16世紀では日本でもヨーロッパでもついに完全逆転するようになり、世俗公判側が聖属を吟味する側、そして面倒を見る側の立場に変容した。(中世社会からの決別・法治国家化・等族政治化)

織田政権が出現するまでは「崩壊寸前まできていた日本の自力教義力」の、その最後の支えの希望になっていた浄土真宗(本願寺)が、日本の実質のその精神的支柱の役割をどうにか請け負っていた。

偉そうに傘下に収めることしか能がない、何のあてにもならない公的教義を、浄土真宗(本願寺)ももはや完全無視するような形で、独自で法(社会性)を整備し、公的教義に代わる仮の役割として、どうにか人々に良い影響を与えることができていた、

しかし織田信長が台頭し、それを上回る国際力(教義指導力)を次々と立証していくと、浄土真宗(本願寺)もついにその役目を終えるように、その傘下に従うことになった。

かつて聖属と世俗の間との政権問題が再燃して問題になり(建武の新政時代)、結局世俗側が再び皇威を抑えこむ形で、室町政権はそれを目指していたはずだった。
 
そして足利義満時代にはそれで高度成長の華々しい豊かな大経済時代を迎えたものの、その後は法の整備が全く追いつかずに乱世ばかり招いて、せっかくの新経済社会も長期維持することができなかった。

室町時代では、劇的に変容し過ぎてしまった新経済社会に何ら対応できなくなっていき、結局そこが体制的にやりきれずに中途半端で終わってしまった、時代の節目の難しい政権だった。(ヨーロッパもその流れは全く同じ)
 
そのため不正(偽善)が横行して惣国一揆(国衆一揆)も頻発し、外戚問題(上級裁判権問題・家長権・家督相続権の等族整備)もろくに解決できなくなっていったその難しさを、有力者らの家系も150年かけて体験した。

山積みだった日本全体の多くの課題の、その具体的な法の解決(等族社会化)についに動き出した、その代表格が織田信長だったのである。

織田信長によって、まずは今まで上同士で甘すぎた軟弱すぎた部分が徹底的に叩きのめされ、改革が示された貴重な、最低限規範の大きな引き上げは、羽柴秀吉、徳川家康と工夫しながら引き継がれていった。

だからこそ江戸時代の元禄という、忙しいばかりで財力的な格差も広がってしまう苦痛もあっても、それでも多くの食文化・文芸・娯楽が開花した豊かな大産業時代を迎えることを、日本はできたのである。

羽柴秀吉が、織田信長と同じように上の立場から順番に、厳格な格下げ恫喝(旧態価値の減価償却)を徹底的に繰り返した、器量(教義指導力・その認識力・体現体礼)以上の地位に就いている口ほどにもない分際は、まずは上から許されないやり方が、より徹底された。
 
羽柴秀吉の得意技である、その強烈な「格下げ恫喝」は、つまりは「所詮は地方裁判権(閉鎖社会観)の認識までしかできていない分際」の洗い出し作業だったといえる。

織田信長と同じく、まず上同士で厳しくなり合う強烈な印象を下に示してから、下同士でも身の程知らずの勝手な上下統制の社会構築ももはや許されないための規制に動くという、まさに日本総偽善改め、日本総有徳廃止令ともいうべき等族規範による、下への一斉の最低限の底上げが目指された。

羽柴秀吉は、武家の棟梁(日本全体の家長)の座にのぼり詰めても、かつて若年期の庶民時代を絶対に忘れなかった所が、本当に偉大だったといえる。

下層庶民側であった藤吉郎の若年期、どこへ行っても蔓延していた閉鎖的な庶民同士の上下差別(旧態価値の維持のための人格否定規制)で常に無為欲化させられていた、多くの最下層労働者たちの不条理の苦痛は絶対に忘れなかった、その信念の根強さこそが、羽柴秀吉の優れていた所だったといえる。
 
結局、上(無限責任側)のあるべき手本が全く発信されず、上がそういう無能(偽善)な考えしかできていないから、下(有限責任側)もそういう考えばかり蔓延するのであり、その従来を織田信長がついに否定して叩きのめして回り、その理屈で世直しできたことは、もはや動かぬ証拠となっていた。

強力な国際裁判力(教義指導力)を示して台頭した専制君主(帝国議会・国際政権)から公認も吟味もされていない社会価値(権威)は、これからは断りもなく勝手に乱立させる(人格否定し合う・偽善憎悪し合う)ことがもはや許されなくなる、今まで曖昧(偽善)で通っていた欠陥が否定され、国際制度化(国際規範化)に整理される動きが、等族社会化の基本原則なのである。(荀子の体現体礼思想)

その原則は下(有限責任側)にとっても、積極的に意見を国際品位をもって慎重にまとめ、責任(等族意識)ある意見総代を皆で選出・選挙しながら提出していくという、品位ある法治国家的なやりとりが必要だという自覚が、やっとされ始めた時代だった。

人々に良い手本になる有力者や地域は、優先権が与えられて格上げされなければならず、最高裁側の者もその公正(国際品性)努力ができなければさっさと適任者に交代してもらわなければ迷惑、という相互の認識が重視され始めた。

国際規範の手本になったことがない今の公的教義の分際のように、低知能のあげ足盗りに勝ち誇って難癖をつけ合う(人格否定し合う・偽善憎悪し合う)方法で、面倒ごとは万事よそに偉そうにその全負担を押し付けることしか能がない、そういう身の程知らずの劣悪旧式態度は、ついに格下げされて裁かれる時代が到来した。

織田信長に続いて荀子主義的だった羽柴秀吉の身分統制令とは、実質は「弱者的立場いじめ禁止令」「怠け者(偽善)禁止令」ともいうべき、口ほどにもない上から順番に叩いて手本を示し、下の最低限の社会規範の底上げを最優先とする、それによる下の救済があからさまだったといえるほどの、前代未聞の大政策だったとすらいえる。

織田信長も羽柴秀吉ももはや、19世紀の社会革命時代に流行した「啓蒙主義」も同然の、そうした時代の先駆けの存在だったからこそ、これまでその人物像もなかなか理解されてこなかった。

啓蒙主義はヨーロッパでは18世紀から見え、常態的ではなく断続的に強まったり弱まったりするためその流れも解りにくいが、日本でも江戸時代には時折それが、強まったり弱まったりして見え隠れしている。

ヨーロッパのキリスト教社会の方が、教義面の統一性が日本よりもより強かった分だけ、啓蒙主義も日本よりも強まったが、王政特権支配時代も終わろうとしていた19世紀の時代の節目には、当然のこととして強まった。(啓蒙主義については後述)

16世紀に早くも19世紀の理屈をもってこようとしていた、といっていい、そんな政治感覚だった織田信長も羽柴秀吉も、だからこそ同時代人になかなか理解されにくかったのも、当然だったという見方もできる。(正確な理解者が少ない=人物像的記録が残りにくい)

徳川家康も2人のそういう「やって当たり前、できて当たり前」のそのやること成すことに、いくらなんでも少し強引過ぎる(時代的にちょっと早すぎる)ように、内心は見ていたと思われる。

もちろんその意味は「その方法がいいかも知れなくても、戦国後期であまりにも社会観が変貌し過ぎてしまった所に、そこからさらに急進的に進めようとすれば、いよいよその政治感覚についていけない者も続発して、逆に収拾がつかなくなるのではないか」という、逆に心配する意味で、である。

そして明智光秀も、そこは徳川家康と全く同じ観点で、織田信長のことを見ていたと思われる。

賢臣であった明智光秀は、織田信長が何をしようとしているのかのよく理解でき、次々に求められる政治や作戦の立案の役割にもしっかり応えることができていた、非常に優れた人物だった。

のちほど本能寺の変の件でも触れていくが、織田政権の改革の進め方を、全く緩めようとしないあまりにも急進的すぎるやり方が、世の中がそれでついていけるのかどうかについて、明智光秀はそこは懐疑的に見ていたと思われる。

朝廷との大事な交渉役も務めていた明智光秀は、全くついていけてなかった朝廷の様子も、家臣たちや庶民たちの様子についても、よく動揺もするようになっていたその姿を直接見ていて、本人なりに思う所が多々あった、そういう立場の人物だった。

羽柴秀吉は、下の救済と奨励、つまり下の等族社会規範の向上政策においては、織田信長以上に熱心だった。(信長ものちほどそれと同じくらいしようとしていたかも知れない)

つまりその分だけ羽柴秀吉は、織田信長と同じかそれ以上に、上の立場の者たちに厳しかった。

そんな羽柴秀吉の相手をしなければならなくなった有力者たちは、織田信長と羽柴秀吉と、どちらの方が大変だったかと聞かれたら皆「結局、殿下(でんか・豊臣秀吉のこと)の方がより厳しく、より恐ろしく、より大変だった」と多くは口を揃えていったと思われる。

「何が何でも上をもっと徹底的に叩き、下の引き上げをもっと徹底的に奨励してやる」という、羽柴秀吉の良い意味で独善的過ぎるといえるほどのその別格な想いが、武家の棟梁(日本全体の代表家長)に上り詰める原動力になっていたとすらいえる。

それが全ての生き甲斐だったといってもいい羽柴秀吉からすれば、事情はどうであれ、その生き甲斐を否定するように壊した本能寺の変を起こした明智光秀のことなど、絶対に許せる訳がなかったのである。(後述)

羽柴秀吉のその絶対的な信念と一致する訳がない、織田家の家格・格式を守るだけで精一杯になっているような、若かった上にろくな典礼も受けていなかった織田信雄を、主家と仰いでいては間に合わない、だから恩義はあってもその関係と決別することにした、第一の理由もそこだったといえる。

羽柴秀吉のその信念の実践の仕方の、上の立場への叩きのめし方(踏みにじり方)は、とにかく凄まじいものだった。

羽柴秀吉は、わざわざ「自分は最下層庶民出身者」をやたら強調した。
 
その意味は「自身は最下層庶民たちの味方であり、それらの為にならない分際でそれをただ押さえつけようとしているだけの無能(偽善者)の存在は、有力者間も庶民間も絶対に許さない」という全国への恫喝宣告だったのである。

最下層出身者の器量人が、閉鎖的な地方裁判権や名族高官主義の肩書きだけで身を固めてきただけの、全国の口ほどにもない有力者を叩きのめして踏みにじって回った姿は、今まで不条理ばかり受けていた最下層庶民たちや地位の低かった者たちを感激させ、自分たちの身の周りもしっかり改めようと健全化させたのは、いうまでもない。

織田政権から豊臣政権への移行期には有力者たちは「上の立場の者への厳しさも、少しは緩められるのかな」と思っていたら逆に「さらに叩きのめされる」大変な経験をさせられることになった。
 
だからこそ、江戸時代を迎えることができたともいえる。

ただし羽柴秀吉は織田信長とは違うやり方も工夫され、信長よりも厳しかった所もあれは、大目に見た寛大な所ももちろんあった。

次も続いて、羽柴秀吉がどんな風に天下総無事を進めていったのか、当時の日本はどのような様子だったのかについて、まとめていく。