近世日本の身分制社会(048/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 羽柴秀吉の天下総無事に対する、日本の当時の状況 - 2020/10/26

羽柴秀吉が中央の覇者が自身であることを示すために、小牧・長久手の戦いで織田信雄(徳川家康)と争った後も、信濃問題は依然として列強たちが介入し続け、緊張が続いていた。

羽柴秀吉は、自身が日本全体の武家の棟梁・家長(日本の政権の代表)であることを示しながら、全国的に許可無しの軍事行動禁止・私闘禁止(有力者同士の領域争いの禁止)を勧告していた。

それはすなわち、地方裁判権を握っていた各地の戦国大名たち(地方の支配者たち・代表者たち)のその権威を、新たな中央裁判権の基準に従わせるためへの、いったんの解体、いったんの格下げの宣告を意味した。

各地の有力者層は、もうその天下総無事(天下統一)の流れになってきた自覚はしていた。

羽柴氏の影響力が強まっていた、織田氏の領域として組み込まれていた近畿方面と東海方面、北陸西側の飛騨、能登、越中あたりまでは、それに従いつつあった。

羽柴氏による中央権威の影響力がまだそれほど及んでいなかった、それ以東・以西の遠方諸氏たちも、羽柴秀吉の台頭を見てその時流になってきている認識はしていた。

しかし遠方の場合は「そういう時流になってきている認識はしているが、しかしこれからどうなるか解ったものではない」という内心で、表向きはとぼけた見方をしていた。

遠方でも、強豪が弱小を吸収していきながら、それぞれ大勢の臣下を抱えるようになっていた生き残りたち(戦国大名たち)は

 「それができるというなら、実際にやってもらおうではないか」

 「それができるだけの国際軍事力・国際政治力・国際外交力を、実際に見せてもらおうではないか」

といった、遠まわしのお手並み拝見といった態度だった。

そして、天正壬午の乱のその後を、しばらく争い続けていた徳川家康(東海道)と北条氏直(関東)もそこは同じだったのである。

ただし上杉景勝は2人と比べると、そこは立場的にはだいぶ違っていた。(後述)

遠方は皆、羽柴氏の出方に遠まわしの反意や帰順を小出しにしながら、しかし後々のことも考えて具体的な態度は採らないようにするという、のらりくらりの対応が当初はされた。

羽柴秀吉としても、まだ織田氏の影響力が及んでいなかった遠方が簡単に停戦するとも思っていなかったため、初動の宣告は、天下総無事の名目(誓願)の準備要領と扱っていた。

羽柴秀吉としても内実は「さて、いうことを聞かない遠方諸氏たちに、これから実際に力差(法・教義指導力の差)を見せ付けながら詰めていくか」といった、器量人らしい心構えで挑んだ。

小牧・長久手の戦いの起きるそのつい2年前までの、本能寺の変が起きる直前までの織田信長が健在だったまでの日本は、遠方もそんな態度をもう採っている場合ではないほど、その裁判権の叩きつけの脅威に、どこも震撼していた状態だった。

織田政権時代にはあんなに恐縮していた遠方諸氏たちも、それから2年経って羽柴秀吉が台頭した頃には、その様子も健全な意味でだいぶ変化していた。

まず、明智光秀が起こした本能寺の変は、その意図がどうであれ、結果的には日本全体を健全化させる、その大きなきっかけを作ったことになったといえる。(その意味を順述)

その状況を今一度まとめると、まず織田氏の裁判権威の新社会基準に、日本全土がその中に猛速で飲み込まれようとしていた、時間の問題もいい所になっていたまさにその時に、本能寺の変が起きた。

そして信長・信忠親子が亡くなり、旗本吏僚体制(中央指令体制)も機能しなくなったことで、重臣たちの任務であった全国への武力掃討戦も中断されることになる。

越後の上杉氏や、四国の長宗我部氏(ちょうそかべ)のように、もう畳み掛けられる手前に来ていた地方の大手たちは、いったんの命拾いをしたような状況だった。

強力な国際軍事裁判力で押し寄せるようになった織田軍に対し、もはや家格・格式を守る防波堤になっていなかった武田氏、また押される一方の浄土真宗(本願寺)上杉氏といった、それら大手であったはずたちとの実力(教義力・裁判力)の差を、遠方諸氏らはすっかり見せつけられていた。

遠方各地の支配者ら(戦国大名ら)もそれぞれ臣下を抱え、地方の裁判権で団結させなければならない指導者の身であったために、体裁上は、いとも簡単に臣従する訳にもいかなかった。

地方ごとの裁判権価値による、それまでの家格・格式を、これからは織田氏には認めてもらえそうにもない、従ってもその地方全体が大幅な格下げを受けることも目に見えていた所が多かった。

それは、地方ごとで自分たちで維持してきた裁判権(社会性)の整備力(名目・誓願)が、織田氏の最低限の基準(国際性)から大幅に下回っていた所が、それだけ多かったためである。

そのように地方ごとで一貫せずに乱立し続けていた、織田氏から見ればもはやそれらも全て旧式でしかない各地の社会性基準(裁判権価値・社会価値観)の、その大幅な減価償却(口ほどにもない旧態偽善価値の撤廃)が、日本では始まっていた。

筆者もこの荀子的な国際人道観に沿い、知能など微塵もない「日本最大のお荷物集団」に過ぎない分際の公的教義(愚民統制団)を、必然的に非難しているというだけに過ぎない。

公的教義などという最も下品で汚らしい存在というのは、ネズミ講商法の手口と大差ない偶像性癖をただ煽って偽善憎悪し合うことしか能がない、著しく知能の低い分際の集まりに過ぎない。

織田信長の全国への地方裁判権の格下げの根拠も、そういう分際から順番に格下げしていくその荀子政治の原則である。

今まで地方の裁判権(社会性)の頂点であった有力者層の存在も、これからは全て織田氏による中央裁判権の傘下の地方裁判権に過ぎなくなる、その裁判権価値(社会基準価値)の上下による力量関係の構図が、日本ではでき始めていた。

織田氏の降伏勧告に簡単に従う訳にもいかず、やむなく織田氏と争った地方とは、軍事裁判力で力量を具体的に示し、和解という形にもっていき少しでも有利な条件を引き出そうしたためである。

国際軍事力や、また教養的な国際社交力などを示して家格・格式をそれなりに認めてもらえたような有望な有力者もいたが、それは少数で、地位が高かった者ほど格下げ・特権の剥奪の対象として強まった。(上同士で厳しくなる時代)

1580 年代にもなると、皆がもう時間の問題だと受け取り、もはや内心では「その後(臣従後)の国際文化基準の家格・格式の身の振り方」を想定し始めていたような状況だったのである。

総力戦時代(教義競争時代)は、織田氏の国際力が示されたことによって、もう終結に向かっている裁判力の大差を、すっかり見せ付けられてしまっていた。

1570 年代には織田氏は「中央進出を完全に果たしていた」といえる状況になっていた。

「京の都市経済と朝廷を公正に支援しながら国際政権力を身につけ、外圧を全てはね返した」織田氏は、もはや織田政権時代といえる姿が 1570 年代には見え始めていた。

遠方諸氏たちは、その織田氏の裁判権(その最低限の社会基準)の姿を見せ付けられ、慌ててその背中を追いかけ始めていたような有様だったのである。

その背中とは、織田氏が10年以上前に既に、どこよりも優れた上級裁判権(無限責任側の等族規定)と低級裁判権(有限責任側の等族規定)の整備の名目(誓願)を挙げて、それで組織を改革(育成)し続けてきた姿の、背中である。

それは、諸氏たちも自分たちができていなかったその遅れにそれだけ向き合わなければならなくなる状況、改革したつもり(時代についていけたつもり)でも旧式(時代遅れ)だったその再整備に、それだけ取り組まなければならない状況になっていたことを、意味する。

15年も20年もの組織体制(教義指導力)の差を縮めるのはもちろん簡単ではなく、見よう見真似からどうにか形だけでも努力できても、5年や10年くらいは少なくともかかるものである。

それでも、上杉氏、伊達氏、佐竹氏といったその後の生き残りのように、その差を少しでも縮めようと努力できていた地方組織はまだ良い方で、どうにかやれていただけでも十分優れていた方だったといえる。

それまで各地では、近隣の弱小を吸合して大手になったまでは良いとし、大手後の改革が間に合わない、つまり大手になるまでの旧態実績価値に頼り過ぎたことで、組織の教義力(体制力・裁判力・指令力)が低下し過ぎてしまい、自力修繕不可能の域を迎えてしまった地方組織は多い。

それこそが戦国後期の総力戦時代(教義競争時代)の難題の姿であり、それが著しかった組織はそれだけ、その組織全体の家格・格式も結局、著しく衰退させていくことになった。

織田氏の中央的な裁判権価値の影響力に、各地方の裁判権価値は年々低下していく一方だった。

その力差が顕著になってきた時こそ
 
 ただの旧態閉鎖主義(偽善) = 威嚇・挑発
 
 
 自分たちの強み(国際家格・国際格式)= 確認・尊重
 
を区別・整理してそこから立て直す、ということもろくにできずにモタモタしていれば、当然のこととしてそれだけ教義崩壊(組織崩壊)していく一方である。

国際化にモタつき、閉鎖社会価値から脱却できていなかった各地の組織力(裁判力・社会性・団結力)というのは、2年や3年もすれば半壊させてしまうほど、国際化(公正性)に適していた織田氏の裁判権(社会基準)の影響力は、強力だったのである。

これは現代でも、優れた前例を示し続けてきた大手が、いよいよ大資本を投入して技術者を集めて大設備を整え、新体制的・新基準的・新集約的な商法や商品を広く浸透させてしまった時の状況と、類似しているといえる。

それまでは乱立でも成り立っていた基準や取引が、体制力(教義指導力)の差が大きく出てしまい、全てそこにもっていかれる(そこに集約されてしまう)向きが強まった時の、大手と小口との関係と共通している所である。

今までのやり方ではやっていけなくなるようになった小口の商社は、独自の差別化的な強みを作りながら、大手の販売審査力の名義傘下でやっていくか、また、難しい話ではあるが大手だからこそできない独自の強みの参入障壁をなんとか作っていく等の、工夫も迫られてくる。

大手に認められるような力量を示してその傘下の協力関係でやっていくにしても、独自の強みで参入障壁を作って大手に一目置かれる関係(簡単には手出しさせない関係)を作ることも、業界ごとの時代の節目でも見られるそうした力関係の構図は、共通点があるといえる。

当事者にとってそういう状況を迎えつつある中でも、当事者自身で慎重に丁寧に状況回収整理(意見回収整理)していく努力手本など皆無な口ほどにもない公的教義(愚民統制団・偽善教団)の真似をやめようとしないのは、致命的といえる。

口ほどにもない公的教義(愚民統制団・偽善教団)のように、よその概念価値をただかき集めて、時代遅れの旧式価値の都合の良いようにそれを左右上下して威嚇(挑発)するのみの、何の情報処理能力にも結び付かない口ほどにもない上下統制に便乗する人生観しかなければ、結局困るのも本人である。

公的教義(愚民統制団・偽善教団)のやっていることというのは所詮は、価値の低い人間を意図的に増やすために威嚇(挑発・暴力)を繰り返しているだけであり、それで大したことのない口ほどにもない時代遅れの偽善価値を維持し続けているだけなのである。
 
それに従わなければ徹底的に人格否定して笑いものにすることしかしないその下品で汚らしいだけの手口こそ、愚民統制の典型的な手口といえる。

そういう公的教義(愚民統制団)と変わらないような、地方の口ほどにもない閉鎖裁判権(閉鎖有徳)は、荀子的な織田政権によってついに完全否定されるようになった時代を、上層側(無限責任側の者たち)は体験した。(身の程知らずの態度が裁かれる時代 = 体現体礼の実態品性・格式の時代)

まさに
 
 「地方を良い方向に導くことなど全くしてこれなかった、家長(代表)を気取る資格など一切ない無責任な上の貴様らは、その責任を果たせ(切腹せよ)」
 
の世界である。

織田信長の出現によって日本はやっと、

 無限責任(社会全体責任)は無限責任(社会全体責任)として叱責

 有限責任(自己責任)は有限責任(自己責任)として叱責


の最低限の基本の公正手本が、ついに叩き込まるようになった、貴重な体験をこの時代にした。

今の口ほどにもない下品な公的教義(愚民統制団・偽善教団)とそのいいなり俗吏どもはこれを

 無限責任(社会全体責任)のはずを有限責任(自己責任)のせい

 有限責任(自己責任)は無限責任(社会全体責任)に従わなかったことのせい

にして、常にうやむやにすることしか能がない、従業員を大事にしたり育成したりできない分際で、優越感欲しさだけで威張り散らして下に余計な負担をかけているだけの無能(偽善者)な経営者・責任者の姿と大差ない分際に過ぎず、その姿は

 何も確認(尊重)できずに無自覚(無神経・無責任・無計画・無意欲)に威嚇(挑発・人格否定)をただ繰り返す生き方しかしてこなかった姿

すなわち

 愚民統制のいいなりになり合うための威嚇(挑発・人格否定)のし合いにただ世慣れしただけの、口ほどにもない姿

でしかなのである。

その矯正手本になったことがない公的教義(愚民統制団・偽善教団)の分際の、何が社会性(公務性・公共性・国際人道)だという話である。

日本でもヨーロッパでもついに「その非国際的な劣悪態度(ただの閉鎖憎悪性癖)で人の上に立とうとする、採点しようとする(人格否定しようとする)」無能(偽善)姿勢が具体的に裁かれるようになった教義競争の時代を、16世紀に体験したのである。

本能寺の変後、政権構築の事業を引き継げるだけの教義力(裁判力)を有していた羽柴秀吉が、中央で総選挙的に実質の代表権を勝ち取り、織田氏に代わって台頭すると、いよいよ天下総無事(新政府構築)が動き出される。

本能寺の変( 1582 )後から天下総無事( 1590 )の大局が着くまでの、その大体8年ほどの期間は、織田氏にまだ畳み掛けられていなかった三河(愛知県東部)・信濃(長野県)・越後(新潟県)から以東の生き残りたちにとっては結果的に、貴重な猶予時間になっていた。

明智光秀の意図はともかくとして、本能寺の変が起きたことによって織田氏の天下制覇の掃討戦が中断されたことは、まだ織田氏の領域に組み込まれていなかった地方の裁判権(社会基準)の健全化を、大いに促進させることになっていた。

それに続いて、織田家中での総選挙的な賤ヶ岳の戦いで代表権を勝ち取ったも同然となった羽柴秀吉が、間もなく全国に天下総無事(天下統一)の宣告を始めたことも、遠方地方の裁判権(社会基準)の健全化をさらに促進させた、ともいえるのである。

本能寺の変が起きて、羽柴秀吉が台頭した動きが、遠方諸氏たちに非常に良い意味で、慌てさせることになった。

徹底的な荀子政治だった織田氏の

 「上同士が手本(確認)で競争(尊重し合うことを)しようともせずに、ただ上(無限責任・自分たち)に甘く下(有限責任・人)に厳しいのみで、状況回収(意見回収)整理の手本(等族規範)にろくに努めもせず甚大な負担をただ押し付け合っているだけの閉鎖偽善の構図など、徹底的に成敗」

 「そういう国際人道に反する身の程知らずの無能(偽善者)の分際が、偉そうに人の上に立とうとすれぱ(人格否定しようとすれば)制裁されて当然」

の最低限の裁判規範(社会規範・等族規範)は、やっとそこに取り組んでいた遠方の有力者らにとって、その域に今は追いつくことができていなかった者たちも多かった。

もはや新たな家格・格式(国際品性)の制定が始まってしまったも同然だった中、その新基準に対応できる家格・格式(国際品性)が今一度、再認識されてそれを急いで身につけようとしていた有力者たちは、同時にその教義競争も時間切れになってしまった。

日本は間もなく、全て織田政権の裁判基準(社会基準)の傘下に組み込まれようとし、その最低限によってそれまで地位特権を維持していた者たちの多くが、著しく格下げを受ける時代を、迎えつつあった。

その実態に全国の有力者たちが、内心ではその「有力者総格下げ」に覚悟するようになっていた、まさにその矢先に、本能寺の変が起きたのである。

まだ織田政権に侵入されていなかった遠方地方では、中央で代表権を巡って総選挙戦(羽柴勢と明智勢の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦い)がしばらく行われていた間は、非常に貴重なその猶予時間となった。

羽柴秀吉は、織田氏(徳川氏)と対立したのちも信濃などの東国の様子だけはとりあえず注視しながら、西国の毛利氏との縁も手伝って、西国の仕置き(羽柴氏の裁判権に従わせる天下総無事)から先に、専念することにした。

東国よりも西国を優先された分だけ、東国への大きな猶予時間になっていた。

信濃・甲斐・上野を争った上杉氏・北条氏・徳川氏の列強3者も、内心はそこを意識して、家格・格式(国際品性)を競っていたのである。

東国でのその猶予期間は、かえって健全な地方再統一戦(地方再選挙)も自覚され、天正壬午の乱における信濃の大騒動も、そこが強く自覚されたからこその、天下総無事の時流に備えた「今の内」の家格復権運動だったのである。

中でも奥羽中部(宮城県・仙台)の伊達氏と、常陸(ひたち・日立・茨城県)の佐竹氏あたりは、それがかなり目立っていたといえる。

1580 年代には、日本全体の国際性を巡る教義競争は、もはや決着していた。

以後の領域争いというのはもはや、その国際感覚についていけない連中を、その国際感覚についていける者が急いで従わせるという再選別戦といえ、代表と国際政治のあり方が大幅に見直された、地方全体のその後の家格・格式(国際品性)のための領域争いと化していたのである。

 「我が組織は、現時点で20万石(1ヵ国分)の支配実力だから、今のうちに近隣の小口をできるだけ頑張って吸収していき、40万石(2ヵ国分)ほどの支配権を確立しておけば、もし新政権による格下げ政策が実施されても、元々の20万石の家格・格式を維持できる」

といった目算でもはや
 
 「我々は、家格・格式(国際品性)にしっかり向き合い、自力競争で地方選挙(地方再統一戦)によって時代をしっかり乗り越えてきた、国際意識(等族規範)のある集まり」
 
とするための既成事実作りのための戦いに、観点がすっかり移行していたのである。

織田政権による新基準の影響力は、それまで大手への家格・格式(国際品性)への成長に伸び悩んでいたような、しかしそれなりに地方をまとめることはできていた伊達氏佐竹氏といった大手へのなりかけには、健全な刺激になっていた。

織田氏にそこを気付かされた時には、同時に「手遅れの時間切れ」を意味していたはずの伊達氏や佐竹氏などにとって、本能寺の変によって与えられた猶予時間は、重大で貴重なものとなった。

「この間に、自分たちの家格・格式(国際品性)を大幅に再整備し、地方の大手として台頭しておく絶好の好機」と、そこに急激に頑張り始めたのである。

そうした意欲の部分は上杉氏・北条氏・徳川氏も同じだったのである。
 
遠方でそれなりに地方をまとめることができていた、組織の有力者たちは、そこをよく認識するようになっていた。

佐竹氏も伊達氏も、その後の難しい政治問題で不利を招くことがあったとしても、雄藩の家格・格式(国際品性)として存続し得ることができたのは、大手に向けての伸び悩みで苦労した期間がそれなりに長かったことが、その根強さを確立できる要因になっていたといえる。

目先の競合の、うわべの背伸びの比べ合いばかり熱心で、自身で慎重さ丁寧さをもって実態をしっかり確認・整理しようとようとしてこなかったような、よその概念価値をただ左右上下してきただけの分際は、社会性(教義指導力)の整理力(状況回収力・意見回収力)もそれだけ知れているのである。

相手よりも自身の方が圧倒的に格上だという差を、互いに示し合うことができなくなっている状況とは大抵は、その優越感を共有し合っているだけの愚行状況で、その深刻さを自覚できなくなっているような個人や組織というのは、いくらうわべだけ威勢がよくてもそれだけ脆弱さがともなっているものである。

大手への移行期に伸び悩んでいた間には、ヘタに拡大しようとせず、苦労した末にどうにか大手に成長できた群雄(戦国大名)の方が、かえって根強さを確保できた傾向が見られる。

目先の比べ合いばかり熱心になるのは所詮は、基礎固めを頑張ることよりも、背伸びすることに頑張ろうとする傾向ばかり強まってしまうものである。

それで今までのやり方が段々通用しなくなってきた時に、それまでに無理に広げるだけ広げた分だけ、また大きく見せてきた分だけの、その建て直しの力量で、それが大したことがなかった実態も、見えてくるものである。

うわべを固めることしかしてこなかった、よその概念価値(教義価値)をただかき集めて左右上下していただけの、公的教義(愚民統制団・偽善教団)のやっていることと大差ない精神的支柱など、あっという間に崩壊して消滅してしまう場合も、当然のこととして多くなる。

ここは、国家でも、組織でも、個人でも、共通していえる所である。

実績や肩書きや人生観を、何の反省の念もなく勲章のように偉そうにただ並べた所で、圧倒的にそれを上回る確認(尊重力・当事者力)の整理力(教義指導力)の差を見せ付けられる日が来てしまった時に、その整理力・理解力にろくに追いつけなければ、それまで精神的支柱にしてきたそのうわべ(偽善)に過ぎない誇りなど、一瞬にして吹っ飛ぶものである。

戦国後期の総力戦時代(16世紀)とは、上の立場(無限責任側・相手よりも自身の方が格上だという自負)でありながらそこを全く反省できたことがない、その手本を下(有限責任側)に示して人々を良い方向に導くことができたことがない分際は反逆(偽善)扱いされ、ついに裁かれるようになった時代だったのである。(等族社会化)

人の人間性・社会性・公共性の認識のことをとやかく指図している場合ではないはずの、ただ上(自分)に甘く下(人)に厳しいだけの公的教義(愚民統制団・偽善教団)の分際が、人の上に立とうとする(人格否定しようとする。採点しようとする)ことが大罪扱いされるようになった時代である。

それだけの責任(手本・等族規範)を負う力量も覚悟もなく、切り抜き報道的な落ち度のみ都合よく拾って偉そうに優位に立とうとすることしか能がない公的教義のような分際は、より器量を有する者から「この痴(し)れ者めが!」「この推参(すいさん)者めが!」と恫喝され、切腹を申し付けられるようになった時代である。
 
戦国後期のそれらの意味は、ただ知識がない者のことではなく「最後までその責任を果たそうとする覚悟などもてない分際で、できもしないのに公の場で名乗り出ようとしたり、その分際で公の場で偉そうに人のことだけは悪く言おうとする(採点しようとする・人格否定しようとする)、身の程知らずの無能(偽善者)」に対して使われた。

世に甚大な迷惑と負担をかけ続けようとする公的教義(愚民統制団・偽善教団・閉鎖有徳)のような無能(偽善)集団と手切れをしようとしなければ、連帯責任の同類の国賊と見なされて
 
 「面倒を見る必要などない、貴様らのような図々しい汚らしい無責任な無能(偽善者)どもが、この地上に生きる場所など与えられる訳がない!」
 
といわんばかりに軍が差し向けられて襲撃され、悪事がどうよりも劣悪態度(自分たちのあるべき裁判権・社会性を自分たちで慎重に選択しようとする責任を放棄している態度)が徹底的に惨殺されるようになった時代である。(偽善有徳狩り・教義改め・等族社会化)

まずそこから責任(手本・等族規範)をもって、まず上同士でろくに恫喝(競争)し合えないような、「皆が、誰々が」をただかき集めているだけの低知能の手ぬるい旧式理論武装(ただの偶像性癖)を煽って差別し合っているだけの今の公的教義と大差ないような、極めていい加減で無責任な連中のただの思い付きの教義詐欺など、いよいよ通用しなくなった時代だったのである。

そういう織田政権の第一線の教義競争(裁判権争い・教義指導力)の代理責任者の地位にまでなっていた、器量人の羽柴秀吉から見れば、息を吹き返したように急に頑張り始めて家格(国際性)を高めようと動いた遠方諸氏たちのそれぞれの様子に「今ごろになってハリキリおって」と、余裕の目線で見ていたのは、いうまでもない。

遠方の支配者たちは、中央で台頭した羽柴秀吉と自分たちとを当然比べて、歴然とした裁判力(教義指導力)の差があったこと自体は、十分認識できていた。
 
ただし彼らは、自身だけでなく臣下の格下げについても少しでも防がなければならなかった責任(等族義務)の体裁から、何でもかんでもペコペコする訳にもいかなかっただけである。

間もなく羽柴秀吉は、西側の天下総無事戦(長宗我部氏・島津氏ら台頭者の抑え込み)で圧倒的な裁判力(強制指令力)を見せつけ、そしていよいよ東側にも羽柴秀吉の目が向けられると、東国諸氏にもその力量差を存分に見せつけられることになる。
 
状況回収(意見回収)できたことがない、教義性(当事者性・公正性・公務性)の責任感(等族規範・体現体礼)など皆無な公的教義(愚民統制団・偽善教団)と大差ない分際ほど、ろくな工夫も自己研鑽も無しに、万事偉そうに面倒そうに我欲と禁欲の問題に無関心に片づけることしか能がない分際といえる。
 
羽柴秀吉が天下総無事に乗り出した頃の日本は、小局的(戦術的)な部分ではもちろん我欲は作用したが、大局的(戦略的・国際品性的)な部分では、そんな小さな視野だけで社会性(国際性・裁判力)を維持して団結することなど、到底無理である実態が認識された社会に、戦国後期(教義競争時代)を通してそこはすっかり健全化されていたのである。
 
3者で家格(国際品性)争いをしていた信濃問題も、しばらく様子見を続けていた羽柴秀吉がいよいよ天下総無事の名目(誓願)で具体的に介入するようになると、まるで「子供同士のケンカに大人が仲裁に入った」ほどの差を、見せつけられてしまうことになった。

次も、羽柴秀吉がどのように天下総無事を詰めていったのか、当時の日本はどのような様子だったのかのまとめを紹介していく。