- 唐入り・朝鮮出兵(慶長・文禄の役) - 2021/05/14
豊臣秀吉は、1582 年に本能寺の変を起こした明智光秀を倒し、それから9年後となる 1591 年には、織田信長に代わって東西全域の諸氏をついに従えるという快挙を果たした。
それが達成された翌 1592 年に唐入り(からいり。朝鮮出兵。慶長・文禄の役)が発動されることになるが、まずは全体像から触れていきたい。
豊臣秀吉は、天下総無事を進めていた 1585 年の時点で、明(みん・当時の中国政府)と戦うための計画・準備も着々と進めていた。
唐入りの意味は、朝鮮半島に日本軍を上陸させることを指す。
朝鮮出兵とは、結果的に戦場が朝鮮半島が中心となったために、のちにそういわれるようになった。
豊臣秀吉は、李(り)氏王朝(当時の朝鮮政府)に対し、あれこれと難癖をつけるごとく「いつまでも格上を偉そうに気取る明軍と、日本はこれから戦う予定だから、李氏政権もそれに加勢せよ」という外交態度に出た。
朝鮮からも永らく格下と見られてきた日本から、急にその態度で出てこられた時点で破談して当然だったが、形だけだったといえる。
豊臣秀吉は、明政府に対しても「国交の格式も、交易の条件も、日本がそれを決める側なのだ」といわんばかりの外交態度を言い渡したため、これも今までの国交関係を破断させて宣戦布告するための、形式上だけの外交だったとすらいえる。
李氏政権としても、この時の豊臣秀吉の、権威上における「脱中国」の言い分についてはもちろん理解していたが、地理的に日本とは事情がだいぷ違った朝鮮としては、どちらにしてもそれに簡単に同調する訳にはいかなかった。
朝鮮は今まで、全て中国側のいいなりで過ごしてきたという訳ではなく、時には抵抗して言い分も認めさせてきた経緯もある。
当時の李氏政権は、近世化に向けての国内整備にモタつき、内乱、派閥闘争をまとめるのに苦労していた所だった。
豊臣秀吉の日本でのように、李氏政権も朝鮮半島全体の国際軍事裁判権を再統一できていたとはいえず、単独で明軍と戦うような状態など、整えられていなかった。
海を挟んでいた日本と違って陸続きだった朝鮮は、明軍と互角に戦えるだけの力が日本軍にあったとしても、国内問題の処理にモタついていた状態だった朝鮮は、明に抵抗することはどちらにしても困難だった。
15世紀までの中国、朝鮮、日本の外交関係は、朝鮮も日本も中国の格下扱いではあったが、16世紀に入るとその国際関係もいい加減に変わりつつあった。
少し視点を変え、西洋のキリスト教社会では15世紀に入ると、ギリシャ正教圏(東方教会)がイスラム勢力の支配下にすっかり治められてしまう事態に陥っていた。
ただの閉鎖有徳になり下がっていただらしない教皇庁(ローマ・公的教義)に多くのキリスト教徒は失望させられ続け、教義力が低下し続ける中の15世紀末のキリスト教社会は、内心では終焉観が漂い始めていた。
オスマン帝国(イスラム教)の場合は、厳しい条件付きではあったが、帝国の裁判権に従えば一応はギリシャ正教も地元教義として公認されただけでも、他教には徹底的に厳しかったキリスト教と比べると、かなり寛容だったといえる。
キリスト教よりも社交的で文明的だったイスラム教徒の脅威に、教義力が低下していく一方のキリスト教徒も、内心の危機感を抱き続けていた。
その内に西方教会(ローマ・カトリック)もロシア正教も、国際的なイスラム教徒の傘下にさせられてしまい、イスラム教が世界の中心の教義となってしまうのではないかと、その脅威にキリスト教徒たちは深刻な危機感をもつようになっていた。
世界交易・世界情報の面で、中国、ロシア、中東に遅れをとっていた西洋のキリスト教徒も、15世紀に大西洋側(アフリカ大陸南端からアジア方面に進む航路と、新大陸の航路)航海技術・航路開発が進んだことで、その遅れを取り戻すことに躍起になった。
それまで世界交易は、地中海貿易に頼っていたヨーロッパでは、大航海時代を迎えると、地中海から東側の交易圏で幅を利かせてきたイスラム教徒ら(アラブ人・トルコ人・ペルシャ人=今のイラン人・アルメニア人その他)を介す必要がなくなった。
西洋における世界交易の中心地ヴェネツィアの存在が、アントウェルペン(ネーデルラント・現ベルギー)とリスボン(ポルトガル)に取って代わられたために、大航海時代以降のヴェネツィアは著しい衰退に向かっていった。
15世紀末の大航海時代によって、キリスト教徒たちの世界の未開の地の探索が始まり、現地で入手した交易品や新種の植物などの品々が、また貴重な交流情報が持ち帰られるたびに、西洋ではこの上ない活気ある賑やかさを見せるようになった。
世界視野も広まったキリスト教社会も16世紀に入ると、教義問題で揉めながらも、今までの古臭い旧態教義もいい加減に見直されるようになった。
世界全体がイスラム教主導の国家になってしまわないよう、遠方との交易網を広めながら、1つでも多くの未踏の地を急いで見つけ、遠方へのキリスト教の布教を早急に広めていかなければと、西洋人たちはかなりあせっていた。
ポルトガル船がモルッカ諸島の貿易(アジア貿易・インドネシア方面の島々)の航路を開発すると、ついに極東の日本にまでやって来るようになった。
中世にアジアを旅した見聞録で有名なマルコポーロの伝文によって、日本という島国がある認識はしていたが、日本と西洋は外交関係など今まで一度ももったこともなければ、互いに訪れたこともなかった。
実際にどんな国なのか、神仏合祀の事情にしても、院政と世俗政治で分離するようになった鎌倉以降の武家政権の事情にしても、よくある王族政治とはだいぶ感覚も違う、家長権争い(武家の棟梁を巡る戦い)の日本独特のややこしい事情など、知る由もなかった。
日本にやってきた西洋人も、最初は訳が解らず困惑しながら、日本の事情の理解に努めている。
「日本は金銀が豊富に採れる島を多くもっている、世界で一番金鉱が多い国」
「中国と日本は、仏教で結束する兄と弟の関係」
と伝わっていた所までは、大まかにはそれほど間違いでもないが
「国王の宮殿の屋根は、全て黄金でできている」
「聖書が伝える不老不死の生命の木が、日本に生えている」
といった、何かの話が過剰に膨らんだ大げさな「東洋の最果ての神秘の国」としても伝わっていた。
モルッカ諸島までやってきてアジアの風土を知るようになった西洋人たちは、現地で倭寇のことに詳しい者から琉球や日本のことも少し聞いていただろうから、そういう大げさなものは話半分で見ていた。
当時日本が世界で一番、金が採掘できたのは驚かれる所で、世界全体の実に10%以上だったという、莫大な推定値も出されている。
金は、ユーラシア大陸でも新大陸(アメリカ)でも、各地で採れる所がそれぞれあった。
日本以外だと、広域的にかなり多くの鉱山を開削しての、広範囲な単位の合計として、それで世界全体から見た5%10%もの多量な金が採れた、という計算がほとんどである。
それに対して日本列島の場合、両大陸側から見れば5%もあるかどうかの面積の島国でありながら、佐渡ヶ島の金鉱のように1つの小さな地帯に集中してかなりの金が採掘できた、伊豆の土肥(とい)金山も同じことがいえるが、その密集度の差にかなり驚かれている。
島根県の石見(いわみ)銀山、兵庫県の生野(いくの)銀山、栃木県の足尾銅山もそれぞれ密集度はかなり高かったが、ただし銀と銅については、ヨーロッパや新大陸でもそれらと同じように密集度の高い鉱山もあった。
しかし金だけは、集中して採れるような地帯の鉱山というのは、中世から近世にかけては簡単には見つからなかった中、そんな特殊な鉱山を有していたのは日本くらいだったために、それだけ目立った。
西洋人があちこちの鉱山で、時間をかけて少量の金をかき集めていたのに比べ、狭い範囲で金が採れた日本は、金の産出の手間や苦労に対するその費用対効果は、少なく見ても5倍や10倍の優位差はあったと思われる。
話は戻り、キリスト教徒たちが最初にやってきた時の日本は、これまでの旧態概念(今の公的教義のような、できもしない性善説のただの悪用主義)がいよいよ破壊し始めた戦国後期(教義競争時代)の突入期だった。
そんな時期に、西洋人たちが文明的な品々と世界情報をもちこんで、交流を目的に日本にやってきたことは、これまでのあり方も変わろうとしていた日本としてもまさに好都合な出来事だった。
今まで日本は、航海技術を身につける余裕はなく、自国の法の整備に追われ続けたため、文化や技術の交流においてはどうしても中国に頼らざるを得なかった。
それまでは中国を介してでないと、西洋や中東の様子を知り得ることなどできなかった上に、中国の都合で遮断されたり変解されてしまったらそれまでという、中国次第の限られた情報しか伝わらなかった。
仏教の教義面以外においては、中国は日本を格下と見なし続ける態度で「倭の者たちは今まで通り、我々の真似を続けておれば良いのだ」という状態が続いていた。
これは現代でも同じことがいえるが、
① 元の概念を知って自身に組み込んでいく側
② 元がどういうものだったのかを理解する機会がない、またはその大した意欲もないまま、真似し続けなければならない側
という現代風にいう、情報規制を受けている状態も同然の ② 側は、当然のこととして遅れをとることが常態化していき、力関係の優劣が生じていくに決まっている、現代の典型的な上下統制的な構図でもある。
中世まではそうなるのもやむを得ないが、現代ではそこは当事者それぞれの教義性と道義性の範囲を区別(状況回収)しながら、そこにもっと余裕をもった慎重な見方をしていけるようになる姿勢も、当然重要になる。
② の中だけの手口(挑発)でただ偉そうに面倒がりながら、愚民統制的な上下規制のただのいいなりになり合っているだけの、① の信念(主体性・当事者性・等族義務)を否定し合わせることしか能がない、今の公的教義のような劣化海賊教義に過ぎないような低知能・低次元な連中と、なんでもかんでも一緒になるべきではない。
あのように、
人任せの基準(ただの価値観争い)のいいなりにさえなれば全て許される
かのような、
ただ偉そうに万事面倒がりながら偽善憎悪(気絶・錯乱・思考停止)する怠け癖ばかり身に付けようとする
人任せの基準に万事頼らないと自立自制性も保てなくなるような、だらしない典型的な愚民統制の手口(挑発)にまんまと乗せられるべきではない。
そこまでして「許せない」ことであるとケンカ腰になる(白黒を明確化させる)以上は、それに見合っただけの自身の ① の信念(体現体礼の自力教義力・主体性・状況回収力)による最低限の手本礼儀(等族義務・説明責任)を果たすべきと、筆者が警告してきたのもここである。
① に向き合うことができている人の参考もしてこれなかった、ただ偉そうに面倒がってきただけの怠け癖しか付けてこなかった ② のみの態度で ① の不足を穴埋めできる訳がないのである。
本当に皆のために、相手のためだと、そこまでしてそれを強調したい以上は、それだけの最低限の自身の確認(尊重・状況回収力)による
① の手本礼儀(体現体礼・等族義務・主体性・組織理念・国際品性)の姿勢をもって、まずは論じ合うべきなのである。
② のみで、ただ偉そうに万事面倒がりながら人間性だの社会性だのと主張し始める劣悪態度こそが、劣化海賊教義と化していく愚かさの自覚(自立自制)もできなくしていく原因であり、それでまともに ① と ② の違いを判別できるようになる訳がないのである。
そういういい加減な姿勢とは、当事者同士の教義指導力的決着(国際公正性)が大事なはずの裁判法的原則(自由民権言論)を皆で放棄し合い、誰も状況回収せずに、人任せにただ皆を巻き込んで騒ぎ合い、負担を押し付け合えば良いとしているのと同じである。
それはすなわち
今までの人任せのいい加減な基準(ただの価値観争い)で得してきた無能(偽善者)が、これからも得できれば良い
といっているのと同じ、ただ自分(上)に甘く人(下)に厳しいだけの公的教義のような手遅れ集団の非国際的な怠け癖を、次代たちにその甚大な負担を無神経(無関心・無計画)に押し付けようとしているのと同じである。
単に
A 理解する意欲(関心)自体はあったが、単にその機会がなく誤解していただけ
なのか、それともその機会が訪れてしまった時にはっきりしてくることとして
B そのことに、そこまでして理解しようとする意欲(関心)など結局なかった
のかを、当事者本人に自覚(自立自制)させることが、まずは大事となる。
そこを恫喝する(その白黒を明確にさせ、教義性・当事者性など皆無なただの価値観争いを止めさせる)意味でも ① の姿勢による自身の自力教義力(器量・状況回収力)をもって、その最低限の手本礼儀をまずは言論面から見せ合う姿勢が、やはり大事である。
筆者がこの次に予定しているプログラム関係の記事も、① による最低限の手本礼儀を前提に、追求できるものを予定している。
話は戻り16世紀には、大航海時代と等族議会時代を迎えた西洋人と、それまでの境遇も似ている所も多かった、戦国後期を経た日本人との交流がついに始まったことで、中国と日本との今までのやむを得なかった力関係もついに解消に向かうことになる。
世界全体をざっと紹介すると、まずロシア正教は、ハンガリーのすぐ北隣のポーランド(ドイツのブランデンブルク・現ベルリンのすぐ東隣)まで影響を及ぼし、ドイツ騎士団領(のちプロイセン国)の中心都市ケーニヒスベルク(今のロシアのカリーニングラード=西ドイツ東ドイツ分断時代以降)でも政治的な影響を与えていた。
そしてハンガリーから東のウクライナ(リトアニアの影響が強かった)やグルジアまでロシア正教は強い影響力をもち、そうした広範囲から中東方面のイスラム勢力と均衡していたため、ロシア帝国は中国大陸側、西方教会圏(カトリック)、東方教会圏(ギリシャ正教)、オスマン帝国(イスラム勢力圏)それぞれの事情に詳しかった。
このことからも、西方教会(ローマ・カトリック)圏における東側の最前線として、その防波堤となって支え続けてきた強国ハンガリーが、その抵抗力の指標として西方教会全体から当然のこととして重要視されてきた。
しかしそのハンガリーも16世紀に入ると近世化に苦労したことの弱体化が目立つようになり、オスマン帝国軍(イスラム教徒)を防ぎきれなくなり、屈辱的な条件で和解して引き返させるのがやっとになってきていた事態は、これは西方教会だけでなくロシア正教にも脅威を与えていた。
ドイツの東側の、西方教会の防波堤となっていたハンガリーの、その近隣は
西スラブ人 = ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ東部のソルブ人からなる西スラブ族
東スラブ人 = ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人からなる東スラブ族
の内の、チェコ(ボヘミア人とも呼ばれていた)とスロバキアを除くこれらは、ロシア正教(北方のキリスト教)で
南スラブ人 = スロベニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人、ブルガリア人からなる南スラブ族
がギリシャ正教圏(東方のキリスト教。東方教会)になる。
東方教会の本拠地であったコンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落後、ギリシャ方面も次々にムスリム(イスラム教)の傘下に組み込まれるようになって以来、永らくその支配が続くが、セルビア正教会、クロアチア正教会といった地元教義のその言葉はまだないものの、その下地は14世紀頃には既にできていた。
内心では西方教会(ローマ)よりも格上を自負していたロシア正教も、特に優れたスルタン(イスラム教徒の世俗・聖属全体の帝国の代表者。シーク=教主と協力しながら政治を見ていく等族義務があった)だったスレイマン1世の時代は、かなりの脅威を与えている。
15世紀末の西洋人たちの大航海時代が始まるまで、世界交流は地理的に中国、中東、ロシアが有利で、互いにその端側だった西洋と日本は不利だった。
だらしない枢機卿団に代わって外堀を固めるようになったイエズス会の有志たちを中心とする、気鋭の宣教師らが日本にやってくると
「自力教義を大事にしないと、いずれはイスラム教徒のようなよその脅威に、肝心な時に何も抵抗できなくなってしまう日が来てしまう」
ことを、当時の日本人に熱心に喚起した。
それに対抗するために、東の日本人と、西の西洋人がキリスト教徒としてこれからは結束していくべきと、イエズス会は熱心に布教するようになった。
当時の西洋人たちが、なんだかんだで日本人に好意的な姿勢だった理由は、いくつかあった。
まず日本は国際交流で遅れをとっていたに過ぎず、日本独自で育っていった文化的な技術や作法は、交易面でもあなどれなかった。
さらには織田信長のおかげで、日本の内乱も法治国家化のための終結に向かっていたことの、先々の明るさも見えていた。
日本人は良いものを教えさえすれば、最初は激しく抵抗するものの、その良さを理解した途端にどんどん改良して広めていってしまう、優れた職人気質もあった。
またキリスト教には改宗しようとはしなかった者の中にも、遠方からはるばる日本にやってきて熱心に交流しようとしていた彼らの姿に感心して、困ったときは便宜してくれた、親切な仏教徒もいた。
当時のキリスト教徒の文献では、表向きは仏教徒には厳しめに書いているものの、西洋人を敵視せずに困った時は親切にしてくれた仏教徒たちに対しては「彼らは異教徒ではあるが、理解ある公正な良き友」という遠まわしの友好態度を示していた。
西洋人も大航海時代以前は世界情勢の遅れをとっていた上に、公的教義(教皇庁)のあまりのだらしなさに危機感・終焉感を抱くようになっていた境遇も、同じくそこに苦労してきた日本人と重ねた同胞意識というのも、手伝っていたのではないかと筆者は見ている。
戦国後期の裁判権争い(教義競争)を経て、西洋人たちとの文化交流によってより文明的に強化されていった日本は、いい加減に中国と朝鮮に格下扱いされ続ける国際関係でもなくなってきていた。
西洋人たちがもちこんだ火縄銃が日本で注目された際に、日本の鍛冶職人たちが、日本の戦い方に合うようどんどん改良していきながら、大量生産ができる体制も作ってしまった。
明軍・李氏軍の連合に日本軍が挑んだ際に、明軍も李氏軍もそれぞれ優れた火器兵器はもっていたが、それらと性質が全く違う、使い勝手も、命中力も威力もすっかり改良されていた日本の鉄砲は、両軍をかなり驚かせている。
明軍も優れた火砲を持っていたが、火箭(かせん)という兵器を改良した、性質の違うものが主に使われていた。
これは弾丸で死傷させるのではなく、大軍相手に火薬の塊をぶち込んで、火や破裂の力で多くの相手をまとめて殺傷させたり、また敵の防御施設に火災を起こさせることもできるという強力な兵器だったが、弾丸式の兵器は日本ほどはもっていなかった。
日本軍もこの明軍の火箭型兵器の威力には参っているが、日本軍が大量の砲列を敷き、一斉射撃してくる、熟練性をもったその鉄砲戦術の凄まじい威力には、相手もこの上なく驚いている。
日本軍が朝鮮半島に上陸してきたために、李氏政府も明に応援軍を要請し、朝鮮半島を戦場に両軍が激戦を繰り広げるようになる。
16万ほどいたといわれる日本軍を、朝鮮半島に上陸させることが実際にできている豊臣政権が、さらには大量の鉄砲の威力を明軍に見せつけることができただけでも、それだけでももはや日本は、今までの格下国家などではないことを十分に思い知らせた。
明軍も李氏軍もそこは内心は認めていたと思うが、永らく続いてきたこれまでのアジアでの格式的な国威を維持するためにも、日本に対する今までの態度を表向きは改める様子は見せなかった。
中国大陸や朝鮮半島を征服うんぬんはともかく、豊臣秀吉が明政府(みん・当時の中国政府)に対し、今までのそういう国際関係とは決別し、日本の力を見せることで、これからは同格の立場を認めさせることこそが、外交上における唐入りの真意だったと見ていい。
豊臣秀吉が「明を征服し、これからは中国に変わって日本がアジアの覇者となる」と大言していたのは、表向きの宣伝に過ぎない。
目的としては「今の日本には、アジア全体に大きな影響を与えるほどの、強力な国際軍事裁判権を有している」という、アジア全体に対するその宣伝にさえなっていればいいというのが、実際だった。
豊臣秀吉の指令による唐入り、つまり明軍・李氏連合軍との戦いは、今日では直接的な戦果ばかり注目され、かなり過少評価され気味だが、これはその後の日本にかなり貢献した事業になったといえる。
まず、近世のアジアでこのような、間違えれば国家が崩壊するほどの体制(裁判権)と維持費も大変な、国を挙げての大規模な外征を行うことができたこと自体が異例だという所が、過小評価されているといえる。
特に海を挟むような遠征は、それだけの陸と海の輸送路の確保と、そのための大量の物資の管理体制を整えることも、それだけの輸送船の確保するにしても何かと大変で、また海域に詳しい近隣の海の住人たちの不満にも、対応しなければならなかった。
かつて13世紀にモンゴル軍が九州に上陸して攻めて来た元寇の例もあるが、それも長続きしなかったように、海の向こうまで維持できるだけの裁判権(国際規律)も整備されていないと、それ自体が何度もできることではない、簡単なことではない話だった。
豊臣秀吉は2度に渡って、合わせて3年近くも敵軍と対峙・戦闘させ、4、5年近く軍を駐屯させることができていただけでも、もはや戦果以前の問題として、それだけでも十分にアジア全体に日本の力を見せつけることができていた。
つい少し前までの日本国内での、各地の地方統一戦では 2000 や 3000 の規模の常備軍(公務軍)を編成(身分統制)して、それを1年維持することすら、織田政権以外ではどこも大してできていなかった。
その兵農分離(身分統制令)の整備による常備軍体制(国際規律改め)などどこもそう簡単にはできなかった、それ自体が大変だったのを豊臣秀吉は、国内を大整備してしまい、16万もの大軍を外征させることができたこと自体が脅威だったのである。
今まで日本で誰もできなかった、そんな外征までやってしまった豊臣秀吉のその事例自体が、異例の快挙だったとすらいえるのである。
この事業が与えたのちの影響も、かなりのものであったことも、どうも注目されない所になる。
必死に追い返そうとする明軍・李氏軍を相手に、豊臣秀吉の強制力(裁判力)のもと、互いに長期戦を強いられた日本軍も現地でかなり苦戦させられた。
しかしそもそもこの戦いは「明政府が政治的に崩れ始めていた所を、切り崩すように攻め立てるような戦い方」というような、戦略的に有利な狙いで開戦した訳でもなかった。
そのため、他人種・他文明の不慣れな地に踏み入っている遠征側である日本軍が、何かと不利になるのも当然の話だった。
結局、豊臣秀吉に過酷な耐久戦を強いられて退くことを許されなかった諸氏は、勝手が違う戦地での不利に苦しみながら、どうにか明軍と戦った。
明軍側としても、いつまでも日本軍を追い返すことができず、豊臣秀吉のまさに狙い通りの消耗戦を強いられたために、それによる政治的な損失も甚大なものとなっていった。
明軍は、朝鮮半島の李氏政権を守るために戦ったというよりも、ここで日本軍を食い止めなければそのまま陸地から明政府領の遼東半島まで進出され、また海路から山東方面にも二手に分かれて進出してくることも、目に見えていた。
そういう意味で、格下扱いしている側として、国威をかけて明政府領に踏み入られる訳にはいかなかった所で、国防側の明政府からしても、いくら損害を受けようが「所詮はよその地の踏み荒らし」で良かった朝鮮半島を戦場とすることが好ましかったのである。
互いの国情とはいえ、朝鮮半島からすればとんでもないとばっちりだったといえるが、近世の時代というのは、国際軍事裁判権を再統一できている側が、それができていない側を従わせ、またその力量比べをする時代の宿命ともいえる。
第二次世界大戦でも同じことがいえるが、人類とは結局、そうやって具体的に殴り合ってお互いに痛い目に合う事実作りがされないと、満足に相手のことを確認(尊重)し合えないことは歴史が証明していることだが、だからこそ民権言論力や歴史経緯的な状況回収力で相互理解できるようにしていくことこそがもちろん、本来の国際交流だといえる。
口ほどにもない公的教義のように、何の工夫もないただ偉そうなだけの感情論で、人の心が性善説的に統制できるかのように人任せに軽々しく信じ切っているような、何の民権言論力もない勘違いもいい所の分際(偽善者)とは、そもそも
自身の感情も調整できない、その余裕もないはずの手本なき者が、人の感情のことで偉そうに騒ごうとする
その迷惑千万な愚行をただ拡散しているだけの自覚(自立自制)ももてない、騒乱罪の国賊として処刑(格下げ)されるべき手合いなのである。
当時の朝鮮半島は丁度、ヨーロッパでいう所のフランス王室(ヴァロワ家)とオーストリア・スペイン王室(ハプスブルク家)が覇権を巡ってイタリアの支持・争奪戦を始め、当のイタリアが主体性をもって、それをろくに止めさせられなかったという、その苦境部分が似ている。(マキアヴェリが当時のイタリアの主体性のなさを嘆いて君主論を書くことになる)
日本への今まで通りの格下扱いをやめなかった明政府は、その格下をいつまでも追い返せないでいた実態が国威の著しい低下を招き、兵員の損失にしても財政面にしても大きく阻害されられることになり、この後遺症がのちの明政府崩壊を助長することになった。
当時の日本側の諸氏たちは、それぞれ現場のことに必至で、大局を意識して戦うような余裕もなかったために、これが明に国際的な大損失を与えていたことは、当時はあまり意識していなかった者も多かったと思われる。
ただし筆者は、前線で重要な権限を任せられていた加藤清正と小西行長は、この2人はとぼけながら現地での派閥的な競争を装っていただけで、豊臣秀吉のその意図は理解していたのではないかと見ている。
日本軍側の損害も著しかったが「所詮はよその地の踏み荒らしで良かった」この戦いは実際は、支配権うんぬん以前の、間違えれば明政府と李氏政府をただちに崩壊させかねないほどの大打撃を与えていたのである。
豊臣秀吉の実際の思惑の、両政府の切り崩しが達成されたも同然といえた、まさにその狙い通りに事が運んでいたといえるのである。
要するに、攻め立てている側の豊臣秀吉とは「明政府は外交上で日本のことを、格下ではなく同格に扱うという態度を改めようとしない、だから思い知らせてやったのだ」と明政府に説教していたようなものだったとすらいえる。
元々崩れ気味だった李氏軍はともかく、さすがは広大な中国大陸をそれまで支配できていた明軍は、簡単には崩れない形態こそ、表向きは維持できていた。
しかし早期に日本軍を引き揚げさせることができずに、豊臣秀吉の狙い通りに消耗戦に付き合わされたことで、後遺症になるほどの打撃を受けることとなった。
李氏王朝は即座に崩壊しかけたが、いよいよ危機感を覚えた李氏政府内では、一時的ではあるが軍部で見込まれていた李舜臣(りしゅんしん・韓国語読みだとイスンシン)がまとまりのない内部を結束させ、どうにか日本軍に大反撃する活躍も見せている。
その戦役中に豊臣秀吉が死去してしまったことで、徳川家康と前田利家の2人が、元々朝鮮半島と交流をもっていた対馬の宗義智(そうよしとし)を後押しする形で、明政府、李氏政府と和平交渉をする運びとなった。
大身の2人は万が一のための、無傷の国防軍の温存兵力として国内待機の扱いだったため、この大変な外征に付き合わされずに済んでいたが、現地で皆が悲鳴を挙げていたことはよく理解していた。
現地ではもはや支配権どころではなかった、大変な耐久戦を強いられて続けてウンザリしていた諸氏たちは、和平の方向で話を進めてくれた徳川家康、前田利家、宗義智らのおかげでやっと終戦して帰国できることになった。
この和平外交をまとめたのは豊臣政権の政務吏僚の長官である増田長盛の名義ではなく、国内における大身家格の、関東の徳川家康(開発効果で200万石以上といわれる)と、加賀の前田利家(のち120万石以上といわれる)の2人の後押しでまとめた所が要点となる。
日本軍が撤収することになった直前まで、少しでも国威のために損害を与えようとした明軍・李氏軍の妨害も激しかったため、日本軍は撤収際まで厄介な思いをさせられている。
豊臣政権としても、この諸氏への消耗戦の強要を繰り返したことが豊臣家存続の支障となり、徳川家に代わられるようになる。
しかしのちに政体自体が崩れていった明政府と李氏政府と比べ、日本では織田政権・豊臣政権までに整備されてきた体制がそのまま活用される形で、それまでの政体自体は崩壊することなどなく、法治国家の形がその後も作られ続けていった所には、だいぶ差があった。
明政府は、開祖の皇帝の朱元璋(しゅげんしょう)が脱モンゴルを掲げたことによって、漢民族(細かい地域差は除いた、中国人全体の広い意味を指す)が主体の中国大陸の政治の姿を取り戻した政権として著名だった。
明は大きな内乱をいくつも経て、不安定な時期も多く断続的な所もあったものの、それでも100年、200年という単位で長期の政権をそれまで維持し続けることができ、その間に文明を大きく発達させてきた、非常に優れた政権だった。
しかし中世末期から近世にかけて、西洋と日本の関係のように、世界では遠方同士の国際交流も目立つようになり、さらに法の近世化(等族議会化)の難しさに世界中のどこもが苦労するようになってくると、明としても今までのアジアでの優位性に頼っているだけの王様商売をただ繰り返している訳にも当然いかなかった。
そんな中で日本軍との激戦を強いられた以後の明政府は、それも響いて少しずつ衰退を見せるようになり、モンゴル勢力(女真族・優れた代表格として知られるヌルハチの台頭)が中国大陸での主導権を取り戻そうと、明政府の切り崩しに躍起になった。
今まで抑えることができていたモンゴル勢力に手を焼くようになった明政府は、のちに日本に応援軍を要請している。
明政府は日本軍が引き揚げた以後も、国威の問題から表向きは「明こそがアジアの主導国」と今まで通りの格上の態度こそ崩さなかったものの、日本に対してはかつてほどの高圧態度はなくなり、内心では日本の力を認めるようになっていた。
日本では、武力で煽る統制の仕方はとにかく控えられるようになった江戸時代になっての援軍要請だっため、徳川政権は中国大陸側への軍事支援には不介入を示して、断っている。
鹿児島の島津氏は、その戦役事業に乗り気だったといわれ、それに参加できなかったことに残念がった。
江戸時代の島津氏は、奄美大島方面の支配(砂糖きびの栽培などで利益を上げていた)の特権と、琉球政府との外交・貿易を代行する特権を得ていて、また許可を得て軍を派兵する特権も得ていたため、幕府に参戦を願い出ていたようである。
江戸時代には徳川政権は、長崎の要港を窓口とする、西洋人(最初ポルトガル・スペイン人=カトリック系から、のちイギリス・オランダ人=プロテスタント系に代わった)との直接の文化交流が続けられた。
鎖国政策で徳川政権が国内の貿易権を独占する形で、中国大陸、朝鮮半島とは外交上の国際交流を回復させていき、時折の貿易関係も維持したが、貿易はオランダ船を最優先するようになった。
当然のこととして、西洋や中東に関する品々や情報の入手においては、亜流化して正確に伝わらなくなる中国やロシアから入手する必要はもはやなくなっていた。
キリスト教が禁教になってしまったはずの日本に、オランダ人・イギリス人が熱心に、欠かさずに定期的にはるばる日本に交易にやってきた理由は、色々あった。
プロテスタント国家だったことや、遠方の独特な日本文化と風土に興味をもっていたことももちろんあるが、インドネシア方面での取引を介して、日本にも訪れることでさらに利益を有利にしようとしていた他、日本産の銅が入手できることも大きな魅力だった。
教皇庁(ローマ・カトリック)をいったん踏み潰した、ヨーロッパの覇者であったハプスブルク家が、今度はそれを支配下的に保護してヨーロッパ中を従えようとするやり方になっていったため、イギリスとオランダはそれに折り合わなくなり、プロテスタント国家の態度を表明してそれに反抗するようになっていた。
ヨーロッパでは、アウクスブルクのフッガー家のような政商を始めとする著名な資本家たちが、中世的な閉鎖的な社会風潮に風穴を開ける形で、遠隔地間での商人団を結成するようになって、各地の鉱山事業にも熱心に介入するようになった。
鉱山開発は、貿易経済とも重要な関係があったため、それによる鉱山景気も起きたが、ヨーロッパでは次第に銅が枯渇し始めて、その産出量も落ち込み始めるようになった。
そんな中で、カトリックとプロテスタントとの協調路線が整理されるまでの帝国議会(皇帝のハプスブルク家)とは、険悪な仲がしばらく続くようになったイギリスとオランダは、ヨーロッパ中で不足気味になってきていた銅の経済封鎖を受けるようになって困っていた。
日本では内乱がなくなったため、その分だけ鉱山開発にも力を入れることができるようになり、特に足尾銅山からかなりの銅が産出できるようになっていたため、オランダとしてもその銅が是非とも欲しい所だった。
話は戻り、豊臣秀吉は確かに朝鮮半島や中国大陸に向けての支配権を確立しようとしていた動きも見せているが、初動としては
国内の諸氏の上層同士での非同胞意識のくだらない価値観争いをさせないよう、そういう思い上がりの意識に向かわせないよう暇を与えずに、国家のために苦労させるための懲罰軍役
日本はもはや、強力な等族議会制の法治国家に変貌したという、その国際軍事裁判力を明国(アジア全体)に宣伝する
ことがまずは布石的な狙いだったと筆者は見ている。
次も、豊臣秀吉が指令した朝鮮出兵が、内外にどのような影響を与えていったのか、日本の情勢はどうなっていったかに触れていきたい。