近世日本の身分制社会(045/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 小牧・長久手の戦いと信濃問題 - 2020/09/28
 
豊臣秀吉の身分制度の制定にも関係してくる天下総無事(天下統一)は、どのように行われていったかについて、触れていきたい。
 
そのために、当時の日本はどのような状態だったのかに触れてを、まずは重視していく。

当時の日本の情勢(社会認識)について、小牧・長久手の戦いのことをもう一度、ここで整理する。

まず本能寺の変を起こした明智光秀を、羽柴秀吉が制圧後、体制的には崩れたがそれまでの教義風潮がただちに崩壊した訳ではなかった織田政権の重臣たちは、今後を清洲会議で話し合った。

体制的には崩壊していても「信長に認められ、その最高幹部の地位に居た」だけのことはあった重臣たちそれぞれの裁判力(教義力)は依然として有力だった。

等族専制による政府化で、日本をひとつにまとめなければならない自覚がされていた。
 
その中で、織田信長・信忠親子が亡くなった今、改めて誰が日本全体のその代表が務まる実力者なのかを、明確にしなければならない段階に来ていた。

清洲会議、賤ヶ岳の戦い(家中の実質主導の総選挙戦)は、これからの時代の日本全体の武家の棟梁(代表)は羽柴秀吉であることが明確になるための、通過儀礼だったともいえる。

有限責任側である従事層(各地の有力者に従っていた武士団や市民たち)はその意味を曖昧にしか理解できていない者が多かった。

一方で上同士で厳しくなる大前提の織田政権によって、全国的に新時代のその等族社会化を叩き込まれたことで、無限責任側(組織の上層部・各地の有力者たち)はそこをよく認識できるようになっていた。
 
そのため賤ヶ岳の戦いは、織田氏に潰されかけたがどうにか生き残っていた遠方の有力諸氏たちの間でも、今後の日本の動向の関心事として当然注目された。

この戦いは「柴田派が勝つかも知れない」とも思われ、どちらかが勝つか甲乙が付けがたかったが「ああ、やっぱり羽柴派が勝ったか」と思わせた結果となった。

この戦いによって、羽柴秀吉の名義による恩賞(保証権)が手配され、今後の裁判権のあり方の新政権的な姿勢を次々と示すようになっていた。
 
そんな中で羽柴秀吉は、間もなく本腰を入れて天下総無事(天下統一)に乗り出すようになる。

羽柴秀吉は、自らの名義による新たな裁判権(新たな社会性・武家の新たな教義)に従わせようと、力をつけていた各地方の大名(地方の代表)に、秀吉の得意技である「格下げ策謀恫喝」を行うようになる。

事実上の中央実力者(教義指導者・裁判権保有者)が自身であることを示していく羽柴秀吉は、それまでの体裁の「織田氏の家臣」との決別に動き出した。

体裁上の主従関係だった織田信雄は、もはや羽柴秀吉とは対等などではなく、羽柴秀吉の方が裁判力(教義指導力)が勝っていたことを世間に明らにするための、決別だった。

父信長、兄信忠の代理人だった織田信雄は、体裁的に伊勢と尾張の支配権は得ていたものの、これは自身の強固な器量・裁判権(教義指導力・典礼・支配力)で得たものではなかった。

それでも伊勢の支配権については旧態名族との婚姻関係によって、多少の根拠は有していたが、全国的に号令をかけるだけの強固な国際軍事裁判権(団結)は、さすがにあるはずがなかった。

天下総無事を目指していた羽柴秀吉は、そうした状況だった織田信雄に時間を与えてこれからその根拠を固められ、力をつけられてしまえば、後々手に負えなくなることに当然懸念した。

織田信雄による支配力の基盤がまだ弱い内に、羽柴秀吉はそこをつけこんで、かつての主従関係と決別すると同時に、信雄の格下げに動いた。

同じく、織田氏と盟友関係を維持してきて、東海道筋であなどれない力をつけるようになっていた徳川家康もまとめて、格下げの対象とされた。

この頃の徳川家康は、三河・遠江・駿河で力をつけ、甲斐と信濃半国もまだ支配権は盤石ではないものの掌握しつつあった、実質5ヶ国の実力者に台頭していた。

この頃の羽柴秀吉の実力は丁度、かつての応仁の乱の西軍の代表だった、因幡・但馬(鳥取県・兵庫県北部)を中心に7ヶ国の支配者に台頭した山名持豊(もちとよ・山名宗全で著名)と、勢力的には似ている。

ただし当時の山名氏は、所詮は戦国前期の台頭者であり、播磨の赤松氏の衰退をきっかけに、勢い任せに西側を吸合してにわかに増長していった、一時的に強大になったに過ぎない実力者だった。
 
それと比べて、戦国後期の総力戦時代の最先端で活躍していた、それだけの国際裁判力(等族意識・教義指導力)をすっかり身につけていた羽柴秀吉とは、その強固さに雲泥の実力差があった。

賤ヶ岳の戦い(政権内の総選挙戦)で、事実上の代表の地位を認めさせた羽柴秀吉は、割譲されていった近畿地方・東海地方の領外の小口の有力者たちへの、その力関係による保護・保証を約束する立場として、その代替義務として、彼らに軍役や普請を要求できるだけの裁判権を身につけていた。(次代的支配力)

戦国後期になってから、それまで誰もできなかったその姿を織田政権がついにやりだし、羽柴秀吉がそれを引き継ぐ前提でその立場に代わって台頭した。

織田信雄、徳川家康の両名は、羽柴秀吉から向けられた格下げの策謀恫喝そのものを問題視していたのではない、つまり羽柴秀吉の目指す天下総無事(天下統一・乱世への終始)の目的を単純に問題視していたのではなかった。

織田政権時代に制定されていった家格・相続保証権その他、武家のあり方の規定を大前提に、全国の武士団へのその裁判権(新基準)による格下げ・格上げの制定に、日本が全てそれに組み込まれようとしていた最中に、本能寺の変が起きた。

織田氏の勧告通達を否定・無視・妨害する、その裁判権に従わない各地の有力者らは潰して回るという、等族専制社会化(公務意識・無限責任)のその力量差の手本の前例方針(社会性・教義指導)の新社会性が、全国的にすっかり叩き込まれていた。

従事層は曖昧にしか認識できていなかったが、支配上層たちは日本はもうその方向に向かっている認識を、すっかりするようになっていた。

織田信雄も徳川家康も、時代はもうそういう方向に向かっていること自体の認識はできていた、つまり代わってそれをやろうしていた羽柴秀吉の存在自体を、完全に否定していた訳ではなかった。

当時はそこが難しかった所で、だからといって無条件に簡単にそのいいなりになればいいというものでもない。
 
「これからの日本もどうなるか解ったものではない」からこそ、そこは狸と狐の化かし合いのような、慎重な遠まわしの探りあいも、していかなければならなかったのである。

そういう認識があった上で、両名が羽柴秀吉に腹立だしかった理由は、両名は単に格下げの対象にされたことに怒っていたのではなく「そのあからさまな見せしめ(前例)の第1号」にされた所に、怒っていたのである。

その扱い自体が既に、織田信雄と徳川家康のことをあなどっていたも同然といえる。

羽柴秀吉にとってはこれは、今の自身の中央での強制力(裁判力・周辺諸氏への軍役の指令力)がどの程度あるのかを試す、うってつけの軍事演習だったともいえる。

そのような余裕まで見せてその力差を実際に見せ付けながら、あれこれ言いたい放題に難癖をつけてその実験第1号にしようとしていた羽柴秀吉のそのあからさまな態度に、2人は腹を立てていたのである。

もし羽柴側が内実では「尊重を示して条件を交渉する」態度だったならまだしも、当初の羽柴側は力差を背景にそうした姿勢は全く見せていなかった。

この時の徳川家康のその怒りは徳川家臣たちも同じく、あからさまな態度に出てきた羽柴秀吉に、彼らも怒り心頭だった。

織田家中の方はともかく、徳川家中はその政治的な怒りによってかえって「どんな強敵だろうが必勝の信念」で団結させてしまったことが、小牧・長久手の戦いに大きく影響させた。(織田家中でも、岩崎城で激戦となった岩崎系丹羽氏の奮戦でも、そういう所が現れている)

10万はいたといわれる羽柴軍に対し、総勢3万もいたか怪しい織田徳川連合の、小牧・長久手での対決は、特に徳川軍を怒らせたことが、その猛反撃の要因にもなっている。

徳川家臣も「我々の主君は家康公なのであって、我々は羽柴秀吉の陪臣ではない!(あんな奴を日本の棟梁などと、我々は認めない!)」を、この戦いでそこを強く見せつける結果となった。

この戦いは、今後の日本の動向に大きく関係する家格争いだったため、これから順番にその通過儀礼を受けるのも解りきっていた各地方の生き残りの諸氏たちからも、当然注目された。

近畿・東海の有力者らは、体裁だけでも羽柴派か織田徳川派かをはっきりさせていたが、四国や関東になると、いずれかを表明して牽制する動きは見せたものの、その後どうなるか解ったものではないために、あまり積極的ではなかった。

徳川勢がこの時に、全力をもって羽柴軍に反抗しなければならなかった一番の理由は、この戦いの前例次第で、これから順番に格下げされていくことが目に見えていた遠方諸氏たちの基準にされてしまうことにあったといえる。

羽柴秀吉とは元々は主従の関係だった織田氏の、結局の懐柔はともかく、格下げ第1号に吊るし上げられた徳川氏の対処の悪い前例作りがここでされてしまえば、今後格下げを受ける全国の有力者たちから恨まれる可能性も、十分にあった。

要するに

 「なぜあの時に徳川氏はもっと頑張って反抗して、少しくらい交渉権を獲得する前例を作ってくれなかったのだ」

 「あの初動(小牧・長久手の戦い)でいいようにやられ、羽柴秀吉に余計に政治力を与えてしまったから、地方では有力だったはずの我々も、こんな待遇の悪い扱いを受けることになってしまったのだ」

と後で恨まれる可能性もあった。

ついに日本がひとつにまとまろうとしていた一方で、「これからどうなるか解ったものではない」からこそ、徳川家康も色々なことを想定せざるを得なかったのである。

地方有力への格下げ対策(地方裁判権の解体・再制定)の第1号に吊るし上げられることになってしまった徳川家が、今後の日本全体の有力者らへの格下げの見本となってしまう重責を背負う状況になってしまったといえる。

だからこそ、この時は徳川家臣たちも、大した尊重(遠慮・譲歩)もないまま、その見せしめ第1号に吊るし上げられてしまったことに、一番怒っていたのである。

羽柴秀吉は野心的に動いていたというより、天下総無事(天下統一)すなわち、織田政権が既にやりだしていた「家格・相続保証権によって、全国の士分をその基準に全て組み込む」ための、身分制度の制定その他、政権のあり方の事業を引き継ぐために、その恨まれ役を買って出た、という面の方が強い。

今後は政権が、全国の士分の家格保証・相続保証も含めた政治全般の等族専制義務を請け負う大前提の、全国の武士団の一切の争いをやめさせる事業、すなわち乱立していて一貫していなかった地方裁判権(地方ごとの代表の権威)の、いったんのその解体と、統一事業である。(天下総無事)

応仁の乱の時にはできていなかった、日本の総選挙的な新政権が誕生し始め、せっかくひとつにまとまろうとしていた時にモタモタやっていたら、また戦国前期のような逆戻りをする恐れも十分に危惧され、だからその事業も性急な所があった。

これは全国的に、有限責任側の従事層たちはそこは曖昧にしか認識できていなかったが、無限責任側の有力上層は、そこをかなり認識されるようになっていた。

織田政権時代の、問答無用の裁判権改め(教義改め)による「上同士で厳しくなり合い、人々の手本となって政治を牽引していかなければならない」荀子政治の、その日本全土へ叩き込みは、それだけ強力で多大だったといえる。

徳川氏をどうにも屈伏させられなかった羽柴秀吉は、とりあえず織田信雄を説得して懐柔し、小牧・長久手の戦いを和解という形で、いったん収束させることにした。

その後の羽柴氏・徳川氏の外交関係は、しばらく険悪な冷戦状態が続くことになった。

徳川氏は「和解」を強調することで遠まわしに「我々は羽柴氏に臣従した訳ではない」を強調し、その間接的なせめぎ合いとして政治利用されたのが、当時の信濃(長野県)問題である。

こうして羽柴氏と徳川氏の冷戦対立が長引いたことが原因で、徳川家康の片腕ともいうべき存在であった優秀な重臣、石川数正の出奔事件も起きて、徳川家中でも大騒ぎになった。

当時の信濃支配の重要根拠の人質であった、小笠原貞政(信濃の表向きの支配総代だった、小笠原貞慶の後継者。のち秀政)の奪い合いのような、ある意味で羽柴秀吉と徳川家康の双方の不始末が招いた不祥事だったともいえる。

その信濃問題の元になった「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」は、16世紀ヨーロッパで、イタリア諸国の支配権(支持権)争奪を巡って、フランス王族と、オーストリア・スペイン・ネーデルラント連合王族(ハプスブルク家)とで、代理戦争をしていた、その権威的な構図が似ている。

そもそものこの事情も、非常にややこしい。

まず本能寺の変のあった 1582 年に乗り出された武田攻略で、武田領だった信濃・甲斐・上野西部(長野県・山梨県・群馬県)を織田氏があっという間に制圧した後に、その新支配権が根付く前に1年も経たずに本能寺の変が起きた。

その時に大混乱を起こした信濃・甲斐・上野に、周辺の有力者である上杉氏・北条氏・徳川氏が介入するようにその支配権(支持権)を代理戦争的に争ったのが天正壬午の乱である。

その2年後に小牧・長久手の戦いが起きているが、この頃の日本はもはや、戦いの基準はすっかり代わりつつあった頃である。

戦国後期の総力戦時代は終わっていた、つまりそれまでに織田氏が全国に手本を存分に見せ付けていた教義競争価値によって「それができていて当たり前、上同士が厳しくなり合っていて当然」になりつつあった頃である。

織田氏の裁判権価値(教義指導力)は、潰されていった他の戦国組織の裁判権価値(教義指導力)を皆無にするほどの大差があり、日本の政治のあり方を、全国的にすっかり改めさせることができていた、といえるほどである。

それまでの「国際裁判権の力量のある側が、そこまでの力量がない側を従わせるための戦い、その白黒を明確にする競争時代」は、その最低限の基準を信長が全国に十分に叩きつけたことで、その基準の競争はもはや終わっていたのも同然に、日本はなっていた。

時代はもはや、それを最低限の基準とする大手同士の、その次の段階の等族的な「家格による支配権争い」にすっかり移行していたことが、天正壬午の乱でよく窺える。

天正壬午の乱の構図は、ヨーロッパにおけるそれまでの二大大国のドイツとフランスが、それぞれ等族議会制度(等族専制社会化)の刷新が積極的に行われ、国際法のあり方が大きく変わった以後の、保証権・継承権の家格・格式的(国際的)な争いの様子が、かなり類似している部分である。

日本と違い、人種差別的な憎悪闘争に常に傾きがちであった、陸続きの他言語他民族を国際的に和解させなければならない必要があったヨーロッパでは、この部分でキリスト教は本領発揮することになり、時代に求められていた等族社会化の自覚が、日本よりも少し早めにされるようになった。

一方で、閉鎖社会間闘争といっても所詮は人種間闘争ではない、兄弟ゲンカだけしていれば良かった日本は、統一宗教性(統一教義)もいくらか求められるもヨーロッパほどそれに頼る必要がなかった分、自分たちで浅ましい争いを繰り返し、ヨーロッパよりも自力的に等族社会化(法治国家化の見直し)を自覚するようになった。

ヨーロッパの方が国際外交に必要な品性・社交性が育ったが、自由化闘争ももちろんされたが日本ほどはそれができなかった分の自己解決力は曖昧になりがちで、また18世紀くらいまでは他教(キリスト教の宗派と無関係の宗教)に異様なまでに厳しかった面もあった。

一方で日本は古くは、何かあると、その分だけヨーロッパ以上に不統一な正義を乱立させ、ヨーロッパ以上に下品で浅ましい勝手な争いが繰り返されてきたが、その代わり本音の自由化闘争もそれだけ行われる分の自己解決力が身に付く良い所もあり、どちらも良い面もあれば悪い面もある。

16世紀のヨーロッパは、キリスト教社会の中心として常に主体性(教義指導力)を示していなければならなかった肝心のイタリア(厳密には教皇領・今のエミリアロマーニャ州)が、内乱をろくに抑えることができずに、むしろ悪い見本としてばかり目立つようになっていた。
 
現代の口ほどにもない公的教義と大差ないように、時代遅れの中世的旧態主義(ただの偶像性癖の偽善憎悪)から遅々として脱却できずにいた無責任な、ただの損失補填集団、不良債権のただの買い支えさせ集団でしかなくなっていた枢機卿団たちが、時代に合った手本(等族義務)を何ら示すことができていなかった。

教義刷新競争の時代、等族議会制がひと足早く制定されて、軍事的にも国際強国化していたフランスの地元教義が実質、ローマ(教皇庁)の教義力を上回るようになり、表向きの名目は「イタリア再建の支援」としてイタリアの支持権・支配権の獲得に乗り出した。

その中で教皇庁は、ろくな主体性(教義力・国際裁判権)を示すことができずにモタモタしている間に、大軍動員体制を整えていたフランス軍がその国際軍事裁判力を見せつけながら、イタリア全土を巡回するようになったのを、ローマ(教皇庁)はやめさせることができなかった。(マキアベリの時代・その後に教皇ユリウス2世就任でそれに反撃)

その間にフランスは、イタリア全土の支持権・支配権を一手に掌握し、一時的にイタリアはフランス派一色で染められ、フランスの社会性(フランスの上級裁判権)のいいなり国家に仕立てられてしまう。

これはもはや、何の教義力もない教皇庁をフランスが実質、イタリアを傘下に治め、フランスの意のままに国際的な教皇勅書を発行させる形を作られてしまったようなものだった。

これはフランスとドイツの、互いの等族議会の権威すなわち諸侯への家格制定権・相続保証権などを始めとする保証代替法の国際裁判力の力量比べだけでなく、のちの皇帝選挙にも大きく影響してくる事態だったため、フランス王族と常に覇権を競ってきたドイツ・オーストリアの代表王族(ハプスブルク家)もその事態の対策に乗り出す。

この事態は、かつての教会大分裂のアビニヨン教皇時代のような「一応は世俗権威よりも聖属権威を格上とする前提の、政治利用教皇」だったものとは、その政治性が全く違っていた。

つまりヨーロッパでも、有力各国(ドイツ・オーストリア、フランス、スペイン等)で顕著だった等族議会制による、各国家の法(教義指導力・時代に合った社会性)の自力整備がついに自覚されたことは、聖属権威(ローマ・教皇庁)を世俗権威の全ての頂点に置こうとする中世的な社会観からの、実質の脱却を意味していた。(近世等族化)

もはや時代は、中世のように世俗政権のことまでイチイチ、ローマ(教皇庁・枢機卿団)を頂点とするようなやり方ではもう間に合わなくなってきていて、肝心のローマも時代に全くついていってなかったために余計にその風潮が強まっていたのである。

教皇による「戴冠式という、介入の剣」と「破門という、刃向かってこないようにする盾」という権威で、ヨーロッパ中の王族も含めた世俗全体を愚民統制的に支配しようとするような古臭い茶番時代は、15世紀末にはとうに終わっていた。

確認(尊重)することと威嚇(挑発)することの違いも教えられない、当評当動外評外動の区別すらできたことがない、汚らしい下品なだけの偽善集団に過ぎないの現代の公的教義も、そういう低次元・低知能な根本発想は大差ないといえる。

そうではなく保証と代替権を整備する責任(等族義務)の法的手本が求められていた、時代に合った国際裁判力(調停力)の手本でなければならなかったローマ(教皇庁)が、ただの旧態利益供与集団に過ぎなくなっていたため、15世紀末には有力王族たちにも賛否が起き、16世紀に入るとヨーロッパ中の最下層庶民たちも具体的に反感を強めるようになった。(人文主義時代・宗教改革時代)

それでも表向きは、西方教会(カトリック)を統一教義とする体裁上の理由から、権威のことはともかく教義上では教皇庁(ローマ)が頂点だという体裁だけは、否定されなかっただけである。

教皇庁(枢機卿団)が全くあてにならなかったからこそ、各国がついに独自でそれぞれ自国に合う、時代に合った法の整備を自覚してやり始めたたのが、等族議会制(国際法・閉鎖的な国内政治から国際化への脱却)の整備だったのである。

この構図は日本の戦国時代でも、「ローマ(教皇庁)」という中央が「室町政府」に変わり、その中央に対するヨーロッパ有力諸国との関係が日本では、地方各地の代表ら(地方ごとの支配者ら・戦国大名ら)に丁度、置き換えられる。

本能寺の変の影響で起きた天正壬午(てんしょうじんご)の乱における信濃・甲斐・上野の大混乱の、周辺有力の上杉氏、北条氏、徳川氏によるその代理支配を巡る争奪戦が行われた構図が、その時のイタリア争奪戦と似ている。

16世紀のイタリアにまとまりが全くなくなっていたのを、等族議会制で強国化していたフランスがその代理支配の介入にまず動き、目下の好敵手であったオーストリア王族や、ナポリ王権をもっていたアラゴン王族(スペイン貴族)らがそれに反抗して争われた様子は、ただの領土争いではない、保証と代替義務を巡る格式争いが強かった面が非常に似ている。

イタリア争奪戦においては、教皇領の諸都市とローマ(教皇庁)の支持権(支配権)も濃く関係する戦いだった部分だけは、大きな違いはあるが、そこを除けばこの構図は類似している。

フランス王族と、それに対立するオーストリア王族が、等族議会制という器量的・支持選挙的・国際的な家格・格式の基準をもってイタリアの代理支配を争うようになったように、天正壬午の乱の信濃・甲斐・上野を巡って争われた上杉氏、北条氏、徳川氏も、そうした政治色も強く見せていたのが特徴的な戦いである。

戦国後期の総力戦時代による具体的な教義競争(新基準・最低限の示し合い)は、本能寺の変・天正壬午の乱が起きた時にはもう終わっていた。

それまでに信長が全国に叩きつけた、国際裁判権の手本の最低限は、もう有力者間ではその等族意識が自覚できていた者が多く、それを経て起きたこの乱ではその次段階ともいうべき、より国際的な力量の観点で力を示し合いながら、上杉氏、北条氏、徳川氏の3者が支配代理を巡って一時的に争われた。

天正壬午の乱は、見た目は戦国的な領域争いに見えるが、時代はもうその次段階である、のちの江戸時代の身分制度にも大きく関係してくる、家格・格式争いに進んでいたといえる。

小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉と織田信雄の決着はついても、羽柴秀吉と徳川家康との対決は付かなかった後の、表向きの和解の裏での信濃問題による対立継続は、この天正壬午の乱の時の余波の遠まわしの政争である。

天正壬午の乱そのものの様子も、のちの江戸の身分制度に大きく関係してくる様子が多く窺えるため、それがどのようなものであったかを次に紹介していきたい。