近世日本の身分制社会(044/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 小牧・長久手の戦い 豊臣秀吉に反抗した織田信雄と徳川家康 - 2020/09/19

当時の状況がよく解っていない状態で「本能寺の変」に触れた所で伝わらないと思うため、当時の日本がどんな状況だったかの紹介を優先し、その件は後回しとする。

豊臣政権と徳川政権について先に触れていくが、豊臣秀吉徳川家康が、何をした、どんな風に優れていた人物だったのかについても、順番に紹介していきたい。

本能寺の変を起こした明智光秀に、その時間を与えずに羽柴秀吉が真っ先に駆けつけてその制圧に成功したことは、少し先述した。

これは明智光秀に朝廷を利用されたりして、遠方諸氏たちへの外交で、中央力(根拠)をほんの少しでも身につけられてしまえば、その後の大きな優劣格差になってしまう可能性が、十分にあったためである。

誰かがそれを阻止しなければ、織田政権の他の重臣たちの、その後の立ち位置の大きな優劣差になりかねなかったのである。

北陸方面軍の柴田勝家、関東方面軍の滝川一益、四国方面軍の丹羽長秀池田恒興らは、それぞれ交戦国と対峙中だったり、出向先での新支配や再軍備に忙しかった中での、出来事だった。

未踏の地に踏み入ったばかりだと、支配権も強固ではない分の混乱と動揺も手伝い、それぞれ現場を離れることもできず、その急変にすぐに対応できなかった。

その中で中国方面軍の羽柴秀吉だけは、その状況を素早く察知し、羽柴勢が「お前たちの思い通りにさせるか!」といわんばかりに明智勢を掃討するべく、中央に急いで駆けつけた。

中国方面の毛利氏と対決中だった羽柴秀吉は、有利な戦況を進められていた中で、毛利氏にその異変を気付かれる前に和解を講じ、それに成功すると、急いで中央へ引き返した。

羽柴勢が明智勢の鎮圧に中央に駆けつけるまでの、10日間ほどの間に明智勢が行っていた近江制圧戦は、織田政権の中央力の指令線・裁判力ともいうべき旗本吏僚体制を、意図的に破壊して回るような軍事行動だった。

本能寺の変は、織田信長の落命ばかりが着目されがちだが、明確な継承者だった重要人物の織田信忠も落命したことが、軽視されがちである。

その体制破壊の影響は、その後の織田政権の継続を困難にするほどの、甚大なものがあった。

組織の最高幹部のひとりとして、織田政権の仕組みをよく理解できていた明智光秀が、そういう所を解っていて踏み切ったのは明らかだが、どういうつもりだったのか、どうするつもりだったのかの話は後述する。

明智光秀と同格の最重要幹部といえた羽柴秀吉は、とぼけていただけで本能寺の変の全貌を、理解していたのではないかと筆者は見ている。

今後の日本の主体性(教義指導力・裁判力)を牽引するはずだった、新政府の確立も目前だった織田政権は、もはや建て直しも困難なほど明智光秀に破壊されてしまった。

本能寺の変は、新たな国際政府がまさに樹立されようとしていた、まさにその時に起きた異変である。

羽柴秀吉によって明智勢が鎮圧された後、各地で健在だった重臣たちの力は、地方の戦国大名たち以上の実力(教義力・裁判力)は依然として有していて、やりよう次第では改めて政権を樹立させていくだけの力量は、顕在だった。

そんな状況の中で、重臣たちで今後を話し合うことになったのが「清洲会議」である。

この会議では、生き残っていた連枝衆たち(親類衆・信長の弟たち、信忠の弟たち)に、重臣らは建前では家来筋の態度こそ見せたが、実質のその認識は全く違っていた。

どうにか難を逃れて生き残った連枝衆たちは、明確な特権・支配権の典礼(厳格な公式布令)を受けていた訳でもない代理人の立場に過ぎなかったため、組織内の権威など全く曖昧だった。

当事者ごとの実力(教義力・裁判力)がすっかり重視されるようになっていた一方で、器量を比べ合うことが許されなくなる連枝衆に渋々組み込まれてしまった親類たちは、その後の主導力を発揮しようがなかったのである。

本能寺の変が起きなければ、それまで抑え込まれていた連枝衆たちに、改めて今までのそれぞれの役割を報いるべく、朝廷を通して順番に典礼を受け、彼らにも正式な権威が与えられるはずだった。

そういう所も、まさにこれから確定されようとしていた時に、本能寺の変が起きてしまった。

織田政権による新秩序の身分制度(新社会基準)が、これから順番に正式布令され、確定されようとしていた、まさにその時、明智光秀がそれを阻止するように、本能寺に滞在していた信長を襲撃したのである。

清洲会議は、表向きは織田政権の代表名義人の選出で、今後どうするのかを話し合うための丁度、近世ヨーロッパの等族議会(帝国議会)のような性質の強い、重臣たちの会合だった。

ただし織田政権は、表向きではそれを再建するかのような見せかけだけで、その価値は実質は全く尊重されていなかった。

織田政権の再建が争点ではなく、この中で誰が最も強力な実力者かの、遠まわしの示し合いであり、これからの日本全体の政治の主導を、誰が牽引するかを確認するための議会だった。

そこが実質の争点だったため、各地の戦国大名たち(地方代表たち)以上に実力(教義指導認識)をつけていた織田家の重臣たち同士による、遠まわしの力量の探り合いのための会議だったといえる。

明智光秀に中央力を破壊されてしまった重臣たちは、織田政権のことは「次の明確な新政権が樹立されるまでの、それまでの名のみの仮の政権」としてしか実質、見なされていなかった。

これは重臣たちの「主導権争い」といえるが、その言葉は野心の印象ばかり強まりがちだが、この場合は全くそんな安直なものではなかった。
 
上同士で上に立つという資格(器量・教義指導力)がない分際を制裁し合う、上同士で厳しくなり合える法(社会性)を重視できるようになっていた重臣たちが、野心最優先なはずがなかったといえる。

今後の日本の中央政権(専制政治)のあり方を争点とし、一体それを誰がやるのか、誰ができるのかという、政治責任(等族意識)を大前提にできていた、総選挙的な覇権争いである。

清洲会議と賤ヶ岳の戦い(柴田勝家派と羽柴秀吉派の二分による、織田家臣たちの中の総選挙対決)は、今後の日本全体の中央政権のあり方を日本全体により強く自覚させた、良い刺激となった争いといえる。

のちの関ヶ原の戦いの前身的な、総選挙戦のための戦いにできていた賤ヶ岳の戦いによって、中央の最有力者(最有力の裁判権保有者)が自身であることを見せつけた羽柴秀吉は、名義だけの存在に過ぎなくなっていた織田信雄を、抑え込むようになった。

まだ若かった織田信雄(のぶかつ・信忠の弟)は、自身に日本全体を牽引するほどの教義器量(裁判力)がない中で、それにくやしがりながら、織田家の威信を回復しようと政治に口出しした。

織田信雄は建前以上の権威を示そうとしたために、実質の最有力者として完全に裁判権をもっていかれてしまった羽柴秀吉に、そこを厳しく追求されるようになった。

この織田信雄は、羽柴秀吉に噛み付いたはいいが、羽柴秀吉に結局屈伏してしまったために「とても信長の子としては、見劣りする愚将」と酷評されがちな人物である。

しかし織田信雄は、常に立場の悪い環境を歩み続けてきた要因も大きかった人物だった所は、あまり紹介されない。

信雄は若かっただけでなく、叔父たちと同様に組織内ではこれまで不遇な扱いで歩んできたことも、致命的だった。

その弟の信孝にしてもそうだが、明確な後継者だった兄の信忠や、先述した津田信澄(上意討ちされた信長の弟・信勝の、その子)のように、一流の武将になるよう、そこまで熱心に指導を受けていた訳では、2人はなかった。

賤ヶ岳の戦いで実質の実力者(裁判力・教義指導力の器量者)の存在感を示していた羽柴秀吉からすれば、信雄は「今はいいが、後々厄介になる」懸念も、当然された人物である。

その後に教養力や判断力を身につけられてしまい、後になって求心力が高まるなどして厄介な権威を発揮されるかも知れない懸念から、その芽を今のうちに潰しておくべく対象、となったのも自然だったともいえる。

これも、羽柴秀吉の野心うんぬんよりも、等族社会化(専制政治化)の原則が乱されることがないよう、その政治的な布石のための、やむをえない措置だった性質が強い。

羽柴秀吉の得意技であった策謀恫喝(器量恫喝)に、織田信雄はろくに対応できず、それで突付かれたた落ち度を次々につけこまれ、不利にされていった。

織田信雄をよく支えていた、有能な家老(側近・代理責任者・相談役)の津川義冬(よしふゆ)を、羽柴秀吉の手口によってそれも切り離されたことも、結果的に信雄の状況を不利にした。

この津川義冬は、信長に空気扱いされた斯波義銀(しばよしかね・武衛家・室町政権時代の、尾張の元々の支配者の家系)の弟である。

信長はこの斯波義銀よりも、よく努力するその弟の斯波義冬(津川義冬)と、その義弟の毛利秀頼の2人のことをよほど、評価していた。

形だけは尊重されて信長に生活面の世話を受けていた斯波義銀は、信長に何の相談もなく、何ら裁判権面(教義指導面)の協力性も見せないまま、かつての尾張の支配者だったという権威を口ほどにもなく示そうとしたために、信長をかなり怒らせた。

そのたくらみが発覚したため、斯波義銀は記念するべき空気第1号として扱われ、尾張を追放されたという一幕があった。

空気2号は足利義昭空気3号はいうまでもなく公的教義(天台・延暦寺)で、それらも全く同じような経緯で、信長を怒らせた連中である。

ただし追放された斯波義銀はその後、信長に陳謝し、これからは何事も相談する旨を約束したため、信長も再度受け入れ、斯波義銀の空気扱いは解除し、再び世話を見ることにした。

この空気扱いは、それぞれ比較できてしまう優れた兄弟や比較者がいたから、余計である。

信長を怒らせた斯波義銀は「お前は、弟の義冬や、義弟の秀頼のことを少しは見習ったらどうなんだ!」と、信長からかなり見られていたと思われる。

毛利秀頼も、良い意味であれこれ無理難題の役割を信長から与えられて、どうにかそれについていけた能臣のひとりである。

織田氏が武田領の信濃・甲斐・上野を制圧した際、毛利秀頼はこれまでの功績が高く評価されて、信濃南部の中心地の小政局だった飯田城(長野県飯田市)を与えられるほどの大出世を遂げている。

斯波義冬(津川義冬)も見所を高く評価され、まだ若かった信雄の家老(副官)として、その世話役、参謀役をしていた人物で、信長からかなり信用されていたことが窺える。

この2人は、かつての名族・斯波一族の親類という自負こそしていたものの、ただしそういう旧態主義に自身の存在感をただ頼ることはせず、時代についていこうと教義競争社会によく努力できていたため、信長もその姿勢を高く評価していた。

2人の兄である斯波義銀は、信長にそういう所をかなり比較されていたと思われる。

かつての伝統が守られればいいなら、それで大人しくしていれば信長も面倒を見るつもりでいたが、何ら努力もしていない分際で偉そうに必要以上に権威を示そうとし始めたために、信長をかなりあきれさせた。

追放処分で済んだだけでも寛大だったといえ、陳謝したら元に戻したことも、かなり寛大な処置だったといえる。

これは先代の織田信秀が一応は、元々は上官であった斯波一族の面倒は見ていた義理を、信長も律儀に踏襲していたものと思われる。

足利義昭についても信長からすると、その兄の足利義輝が非常に優れていたために、それと大きく見劣りしていい加減に見えた義昭に、かなりあきれることになった。

それでも足利義昭の評価は分かれる部分もあるが、少なくともその兄の足利義輝は、かなり有能(教義競争者)だったからこそ、かえって力を付けられて手に負えなくなる前に暗殺されてしまったという、惜しい人物だった。

もはや権威も形もなかったような室町政権の、一応の当主だった足利義輝は、剣術の鍛錬に熱心だった剣豪将軍として著名で、その腕前は相当のものだったと伝わっている。

将軍でありながら旧態主義に全くとらわれていない、将軍らしくない武骨さも見せた、いかにも戦国武将らしい人物である。

上泉信綱(上泉伊勢守で著名)、柳生宗厳(柳生石舟斎で著名)、塚原卜伝といった、当時の著名な剣術家を招いて奨励し、自身も熱心に剣術を磨いていた。

そちらの印象ばかりが強いが、政治上でもかなりの活躍をしている部分が、いまいち過少評価されている人物である。

まずその先代の父である、足利義晴あたりからは、政権再興を目指す努力がかなり見られる。

中央が乱れ続けて、権威が著しく失墜していくばかりで、それをどうにも防げていなかった代々の将軍たちと違って、この足利義晴・足利義輝親子の努力は、注目するものがあった。

結果的に政治力を取り戻せなかった足利義晴の無念の前例を、次代の足利義輝はそこをかなり見習い、父がやろうとして果たせなかった政権復興に大活躍した。

政権機構の権威と将軍家(足利氏)の直轄地をただ横領しているだけの、かつての政権内の有力者たちを、義輝は恫喝するようになった。

この足利義輝は、まるで織田信長の前身の姿のごとくで、そこは決して大げさではない。

まず、いうことを聞かずに政権機構を私物化していただけの旧態権力者どもに、足利義輝は恫喝を繰り返し、極めてまともな日本全体政治の姿勢を示し始めたために、それだけでも、乱れ続けていた山城近隣は、いくらかの落ち着きを取り戻すようになった。

織田信秀も、その足利義晴・足利義輝親子の姿勢に、かなり共鳴していたと思われる。

尾張の代表格として台頭し、津島神社と熱田神宮の協力関係で財力も見に付けるようになっていた織田信秀が、将軍と朝廷に多額の献納をすることに決めたのも、この親子がかなりまともな政治視野をもっていたのも手伝ったと思われる。

足利義輝は織田氏に協力を得たように、他でも中国地方で台頭していた毛利氏も、将軍が示した外交調停力の見返りに将軍家(足利氏)に献納をするようになったため、まともな将軍の再来を日本全体が認識し始めるようになった。

形だけであった室町政権が、足利義輝の改革によって、諸氏を認めさせて急激に力を回復し始める様子を見せたため、中央で横領し続けていた無能(偽善者)たちは、気まずいことこの上ない状態になった。

足利義輝は、父の無念を晴らさんとばかりに、今まで足利家をあやつり人形にしていただけの連中の陰謀や甘言などには一切耳を貸さず、それらに恫喝を繰り返した。

足利将軍家の力が顕在であることを、足利義輝が主体性(教義指導力・裁判力)を示し、全国に向けて外交活動も活発に行ったために、どうしようもないくらいに崩壊していたはずの室町政権は、奇跡的な主体権威の回復を見せつつあった。

それを恐れた中央の口ほどにもない旧態主義者(偽善者)たちは、足利義輝にこれ以上力をつけられると自分たちの立場がなくなることを恐れ、制御できなくなる前にと、無能(偽善者)どものやることのごとく、脅威となった足利義輝は暗殺されてしまった。

信長は足利義輝についてはあえて触れていないが、最初から全てを横領されていた状況から、努力も限界があったにもかかわらず、武家の棟梁として最大限(優れた最低限の手本)の努力を示したその姿勢に、信長に相当の刺激を与えたのではないかと、筆者は見ている。

せっかく日本全体の再建のきっかけになったかも知れない足利義輝のような優れた人物が登場しても、周囲にことごとく妨害されてしまうという、社会全体の政治認識の敷居を引き上げないとそれも難しい戦国後期の難しさをよく象徴した、非常に惜しい人物だったといえる。

足利義輝は暗殺され、時代遅れもいい所の中世ヨーロッパがよくやっていたような、義輝派を否定して排撃するべくの対立王的なやり方で、親戚筋の足利義栄(よしひで)が擁立され、室町政権は再びあやつり人形政治に成り下がった。

戦国後期の総力戦時代に移行しようとしていた当時、いい加減にそんなことをしている場合ではなかったはずの自覚もない口ほどにもない連中が、もはや最後の希望に自分たちでトドメを刺したのも同然だったことを象徴するような、暗殺事件だった。

足利義輝が暗殺された際、僧籍の身だった弟の覚慶(かくけい・足利義秋・のち義昭)も粛清の対象になっていたが、どうにか京を脱出することができた。

兄が殺害され、親戚筋の足利義維を擁立されて義輝派が排撃されてしまったが、弟である覚慶がそれを認めずに足利義昭と名乗り、自身こそが兄を引き継ぐべく後継者だと反論した。

しかし京を追い出され、義輝派が排撃されて再び権威の根拠を失っていたため、足利義昭は近隣の有力な戦国大名(地方の代表)に亡命する形で、その力に頼る他ない状況だった。

中央近隣では有力だった、越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)を頼ったが、歓迎こそされたものの、中央進出には全く積極的ではなかった。

その矢先に、美濃を併合してその組織改革力が際立っていた織田氏に、足利義昭は目を向けるようになった。

当時日本に布教に来ていたキリスト教徒たちも同じように「織田氏がこれからの日本の中心(専制君主)になる、有力株ではないか」と期待され、信長に謁見を望むようになっていた。

美濃を併合してさっそく岐阜城に本拠を移動していた織田氏の存在感は、足利義昭やキリスト教徒たちにそういう所を期待されていた様子から、全国的にもかなり注目されていたことが窺える。

足利義昭が、朝倉氏から織田氏への期待に切り替えて、中央(京)進出とその再建を要請すると、信長も機会と見てそれに乗り出すようになる。

その時に足利義昭と織田信長の間での交渉の仲介役になったのが、朝倉義景や足利義昭に才覚を買われていた明智光秀で、信長も明智光秀のことを気に入るようになり、重臣として抜擢される初動のきっかけとなった。

将軍の要請と、朝廷の救済を外交武器に、協力しなかった南近江の六角氏が短期間で制圧されて上洛路が確保されると、織田軍がすぐに山城(京)に中央進出した。
 
そして室町権威をただ横領・私物化していただけの、何ら団結力(国際名目)などない口ほどにもない中央の有力者らは、織田軍に一蹴された。

どうにもならないくらいに荒れ果てていた山城(京)の復興に信長は、尾張と美濃で人員を総動員し、京の都市経済と朝廷の大規模な再建にとりかかった。

これは織田氏が、それができるほどの旗本吏僚体制や国際常備軍体制の教義指導力(裁判権)を整備できていて、庶民側の有限責任と、公務側の無限責任の違いの、その組織全体の公務意識(等族意識)を叩き込むことができていたからこそ、可能にできたといえる。

当時の日本でそれができるほど、組織に公務意識(国際裁判権)を育成できていたのは実質、織田氏くらいだったのである。

京の武家政治の政局であった二条城も、立派なものに再建されたため、足利義昭も有頂天にそれに喜んで、最初こそ信長に多大な世辞を述べた。

しかし人の力で再建できたに過ぎないものを足利義昭はまるで、自身の努力による天の啓示の結果であるかのように誇示し始めるようになった。

自身の主体性(教義指導力・裁判力)などないまま人の力をただ左右して、偉そうに権威を主張し始めるようになったため、所詮は二頭政治の両立などありえない当時にあって、織田信長と足利義昭のその後は、一気に険悪な関係となっていった。

信長は、足利義昭が大人しく体裁の上だけで収まり、織田政権の今後に協力的なら、建前上はずっと面倒を見る気でいた。

それを「室町政権の傘下に、自身の意のままになる織田氏がある」かのような強調ばかりし始めたために、信長としても腹立だしく見えるようになってきた。

先の斯波義銀と同じような扱いがされたと憤慨するようになった足利義昭は、信長に何の連絡も許可も無しに政治的な公式布令を発行するようになったため、中央政局の統一性も当然のこととして乱れるようになった。

内心では怒った信長が、足利義昭に「先代(足利義輝)と違って、そういうことをするだけの主体性(教義指導力・債務責任力)もない空気の分際が、大人しくしておれ」といわんばかりの、ネチネチクドクドの条件を突きつける書状を通達したため、足利義昭も激怒した。(大喧嘩)

ついに足利義昭による、織田氏討伐の呼びかけが行われるほど、両者の対立は決定的なものとなった。

京の復興で、中央政権の力をつけるようになっていた織田氏の権威だけが、頭ひとつ急激に強大になっていく状況で、そのいいなりに格下げさせられる力関係の風潮も目に見えるようになってあせった周辺諸氏も、それをきっかけに連合するようになり、一斉に織田氏に噛み付き始めた。

周辺諸氏についてはともかく、今までろくな教義力(時代に合った社会性)を見せたことがない旧態閉鎖主義の集まりでしかなかった公的教義(天台宗・延暦寺)までが、何の反省も主体性もない勘違い旧態権威を回復しようと、一緒に織田氏に噛み付いてくるような有様だった。

今の公的教義と大差ない、日本全体のその後のことなど一切考えていないそのあまりの低次元ぶりに、信長もあきれる他なかった。

山城で横領されていた、荘園寺領特権の治安を回復し、織田氏が代わって再保証するようなっていたその寺領で、武装蜂起を指導するようなった図々しい身の程知らずの公的教義に対し、信長は「こちらは聖属とは争う気はなく、武家同士の武力闘争に聖属は介入するべきではない」と警告の通達をした。

「聖属が武家闘争に武力で介入することは今後の日本のためにならず、ろくなことにならないから、そういうことは控えるべきだ」

「こちらは、天台宗(聖属)に織田氏の味方になってくれといっているのではなく、武力からは手を引いて、あくまで中立を維持して欲しいといっているだけである」

「もしこちらの意向を受け入れてもらえるなら、なお寺領特権の加増を約束し、今後の聖属教義の貢献への、多大な支援協力も約束する」

と説得したが、孟子悪用主義のただの偶像性癖の固まりでしかない、現代の低知能集団と大差ない当時の公的教義も結局、それを突っぱねて武力介入から手を引こうとせずに、朝倉氏と浅井氏の軍事行動と連携をとって、武力による反織田派の姿勢を崩さなかった。

一時的ではあったが、この時が信長が最も苦戦した時期で、これは一見は信長が強気になり過ぎたからこそ招いた騒乱という、評論のされ方がされがちな所である。

実際にこれによって織田軍は、親類や有力武将の多くの戦死も招くことになり、かなりの手痛い打撃も受けている。

しかし逆にいえばそれを全て跳ね返すことになった結果が

 「全国的な噛み付きがあっても、所詮は利害だけのよそ者同士の、主体性(確固とした上級裁判権)が曖昧な団結など、所詮は一時的なものでしかない」

 「それを崩すだけの主体性(名目・誓願)で団結できなかった連中の手では、結局どうにもできなかった織田政権」

という所の差の強固さを、全国に見せつけるきっかけにできた、ともいえる。

「それでもそう簡単には崩れなかった」織田氏の国際裁判権のその強固さこそ、全国に見せ付けなければ到底、日本全体を戦国時代から卒業させる、これからの日本全体の新政府の重責など、とても務まらなかったともいえる。

ここまでの耐久力を織田政権が見せたこと自体、前代未聞のことだったといえる。

中央を追い出された空気2号(足利義昭)と、寺領ごと丸焼きにされた空気3号(今と大差ない口ほどにもない公的教義)はその後も何の反省も見せなかったため、信長は空気扱いし続けた。

 戦国後期の総力戦時代 = 国際裁判権争い = 教義競争 = 等族専制社会化
 
の原則をただ否定しているだけの、そこに何の貢献もしない分際が、偉そうに権威を手出し口出ししようとする、ただの旧態保身主義者の無能(偽善者)どもには相応しい扱いといえる。

信長と激しく対立することなった浄土真宗(浄土教・親鸞派)についてはともかく、禅の思想重視の臨済宗や、穏健派だった浄土宗(浄土教・源空派)などは、中央教義よりも遥かに教義力がまともだった所も目立っていたため、余計だったといえる。

また織田氏の傘下として協力的だった法華宗にしても、不受不施の問題などで他教には厳しすぎた難はあったものの、それでも中央教義と比べたら、地域貢献によく努力できていた法華宗に連なる寺院の方が遥かに教義力(人間性)はまともだった。

織田信雄の話に戻り、それまで信雄を支える家老を務めてきた津川義冬は惜しいことに、羽柴秀吉との対立を契機に、織田信雄に疎まれて結局、殺害してしまった。

織田信雄の命令による津川義冬殺害は、上意討ち・無礼討ちの部類になるが、実質は切腹の言い渡しに近い殺害だった。

それを契機にいよいよ羽柴秀吉から「当主失格」の不始末を追求され、信雄もそれを言い返すように宣戦布告し、小牧・長久手の戦いが起きているが、この殺害劇の事情は少し複雑である。

織田信雄は信長の子でありながら、戦国時代にあって連枝衆として抑えこまれる生き方ばかり強要されてきたからこそ、本人の性格や気性もあっただろうが、自身の存在意義にあせる人生ばかり歩まされてきた。

織田氏が伊勢の北畠氏を降して以降、表向きの伊勢の支配代理を務めてきたが、本人の器量や功績を示すことが何も許されていなかったことで、それにあせった信雄はついに脱線して「伊賀侵攻」を勝手に企画し、失敗している。

同じ連枝衆でも、先述したように準親類たちの待遇は比較的良く、表向きの地位は信雄の方が高かったが、彼らは武将としての指導を受けてしたり手柄を立てる優先権が与えられたりしていたのを見ての、それに反抗的な行為だったと思われる。

伊勢の支配代理としては、信長の名義がないと団結も曖昧な、自身のその名義で無理をして伊勢の諸氏を勝手に召集し、名目(誓願)も曖昧なまま、まだ支配の手が及んでいなかった西隣の伊賀(三重県西部)に、信長の許可も連絡も無しに突然に、侵攻してしまった。

大した戦果も挙げられなった上に損害も出してしまったため、この軍規違反に等しい織田信雄の失敗行為に、織田家中でも同様が起きた。

我が子である信雄の不始末に信長は、上に厳しい姿勢を示さなければならなかったため、かなり強い口調で信雄のことを叱責している。

しかし信長は、信雄がなぜそんなことをしたのかよく解っていたため、内心ではそれほど怒っていなかったのではないかと、筆者は見ている。

理由がどうであれ、本来ならば家老である津川義冬に全責任が及んで、代わりに責任をとって切腹しなければならないことも十分ありえた事態であったが、この時の不始末が津川義冬に追求されている様子がない。

参謀役として、よく状況を判断できていた津川義冬としては、織田信雄の伊賀侵攻を当然止めたと思われ、織田信雄がそれを振り切ってやってしまった結果だったと思われる。

津川義冬は信長の意向と、信雄を守るために懸命にその役を務めていたに過ぎないが、信雄からは監視役の目付けだと、逆恨みされていたかも知れない。

話は賤ヶ岳の戦いののちに戻り、実質の中央最大の実力者として台頭するようになった羽柴秀吉は、新政権に向けて、各地で力をもっていてた諸氏の削減(格下げ)に動き始める。
 
織田信雄の伊勢・尾張での影響力を具体的に削減(格下げ)したかった羽柴秀吉は、その内に、織田信雄ではなくその家老の津川義冬に、遠まわしにあれこれいうようになった。

羽柴秀吉の策謀恫喝を繰り返し受けていた信雄は、織田家の権威回復にあせっていた。
 
この時に情勢をよく見ていた津川義冬は、羽柴秀吉とは対決はせずに、間に入ってどうにか和解しようと動いていたと思われる。
 
父が亡くなり、連枝衆として抑え込まれる必要もなくなった一方で、著しく低下していた織田家の権威の回復に躍起になっていた信雄が、その対決を邪魔しているように見えてしまった義冬に対し、つい気が早まっての、義冬殺害だったのではないかと筆者は見ている。

これからの日本の政治がどうなるのかの中で、織田家の権威も瀬戸際だった劣勢でも、自身がやっと政治力・外交力を見せる、その表舞台に立った矢先のことだった。

義冬殺害をきっかけに、小牧・長久手の戦いに発展するが、その時に徳川家康が信雄側に加勢して、一緒に反抗してきたのが、非常に際立っていた。
 
それまでは信雄の名義のもとで曖昧ながらも、反羽柴連合ができていたが、いざ戦いが始まると秀吉の調略でそれも崩れていき、織田徳川連合は不利になった。

これによって「徳川氏もついでにまとめて格下げし、屈伏させる機会にもっていけた」と思っていた羽柴秀吉であったが、この戦いでは徳川勢が思った以上に手ごわかったため、そこは計算違いになってしまった。
 
徳川家康はこの時、兵力的には大差があって劣勢だったにもかかわらず、小牧・長久手を舞台に大軍の羽柴派の武将たちを撃退し、徳川家の家格を認めさせるだけの強さを、世に知らしめた。
 
しかし結果的には、この戦いの名目上の総大将であった織田信雄が、あれだけ羽柴秀吉に敵意を見せていたにもかかわらず、秀吉の説得に応じて、家康を無視するような形で和解が進めてしまったため、家康も内心は激怒した。
 
これはよくある「結局、自身の名義で戦っていない以上は」というやつで「実質の名義責任者本人がそういう意向になってしまった以上、その協力者でしかない自身では、どうにもならない」というやつである。

これによって、織田信雄を介した「徳川家の家格を認めさ、羽柴秀吉の権威を阻害する」ための対決の理由を失ってしまった家康も、内心ではあせった。
 
その戦いが和解で収束すると、羽柴秀吉は朝廷との結び付き(名目・誓願)が強められながら、新政権体制もどんどん作られていったため、徳川家も何かで抵抗しないと、無条件に秀吉に格下げされながら従わなければならなくなるのも、時間の問題になってきたためである。

しかし羽柴秀吉としても、織田信雄を屈伏させることには成功したが、徳川家康を全く抑えつけることができず、その後も冷戦のような対立が続き、結果的には格上げしなければならない状況を作られてしまった。
 
後述するが、その後も羽柴秀吉と軍事衝突を起こした、格下げを防ごうと戦った地方の実力者たちはことごとく敗れて、その力を大幅に削減(格下げ)されて臣従させられている中、唯一そうならなかったのは結局、徳川家康だけだった。

羽柴秀吉に急に屈伏してしまった織田信雄は、ただしその後は秀吉に対して「元は家来だったお前に、何でもかんでも従う気はない」という気骨をあからさまに見せ、領地権(大名資格)を剥奪された。

少なくとも豊臣秀吉が顕在だった、豊臣政権が強固になっていた頃に、そういう態度など誰も採れなくなっていた中、信雄だけは平気でそういう態度を見せたため、内心ではむしろ信雄を尊重したり同情する者たちも多かった。

豊臣秀吉は、織田信雄を飼いならそうとしたが、結局それができなかった感があり、気まずかったのか再び信雄に大名資格を与えている。
 
そうした名族出身の貴公子に対する秀吉の対処傾向は、後述する小笠原貞慶に対しても類似して見られる。

関ヶ原の戦いでも、信雄は徳川氏に義理があったにもかかわらず、東軍(徳川勢)に何の義理も返さずに傍観を決め込んだため、大名資格を剥奪されたが、後になってやはり徳川家康に特別扱いされ、大名資格が保証されている。

こうした、自分が判断したいようにすること自体が簡単ではなかった当時にそれをして、何度も起き上がってくる不倒翁な存在であった織田信雄は、かなり特殊な存在だったといえる。

信雄は権威欲や物欲やといった野心よりも、織田一族としての武家の誇りの名声欲の方が強く、その気骨で尊重を得ていた人物であった所も、織田一族だったからこそ、徳川家康からそこが許容された。

徳川氏は、表向きは外様大名の織田氏には「かつての織田一族」の家格は強調し、少し特別扱いしたため、幕藩体制後は織田氏も、徳川氏に反感を示すこともしなかった。
 
本能寺の変後と、清州会議後の日本はこのように、織田政権の裁判権(時代に合った社会性・教義力)を、日本中に叩きつけることができていて、戦国後期の総力戦時代はもはや終焉していた状態だったといえる。
 
ただの領土争いのための戦いは終わっていて、そうではなく、新たな中央政権のあり方を巡る、そのための政治や外交や軍事のあり方に、有力者たちの意識も、強く移行し始めていた。
 
中でも信長がやりだした、強力な棟梁による家格の再規定(家臣それぞれの家系の相続指名保証権)によって、それを基準に特権や領地権の大小が確定されていくという、のちの江戸時代の身分制度に大きく関係する、その家格制定を巡る政治外交の世界に、大きく移行しつつあった。
 
政権が制定した家格に応じて領地や特権が割り振られ、政権のその裁定に従わず、許可も得ずに勝手な奪い合いを始める連中は制裁し(天下総無事令)、手本になる相応の者は格上げされ、手本にならない不相応な者は格下げされる、等族社会化の姿である。
 
戦国後期の総力戦時代とは、誰が日本の強力な代表となって政治を保証し、その家格制定(身分統制・相続保証)で全国を公正に従わせることができるか、そこを明確に示すことまでが真の目的の、社会運動ともいえるのである。
 
本能寺の変が起きた時は、有限責任に過ぎない従事層たちはそこが中途半端にしか認識できていなかったが、織田政権によって無限責任が散々叩き込まれていた。
 
織田政権時代に、それを基準に次々と派手な抜擢劇と失脚劇を見てきた上層の間では、その等族認識も明確になっていた頃である。
 
秀吉は、各地の最有力者たちを厳しく格下げして従わせていった一方で、自身の功臣たちや有望な者たちの格上げも細かく手配し、力をもち過ぎたものは格下げし、力をもつべき資格者には格上げすることにも積極的だった。
 
秀吉が乗り出した、天下総無事のための地方の有力者らの格下げ運動は、政権に反抗できる力をいつまでも有していることを認めず、理由がどうであろうと反抗できる力をもたせないための、その力関係を器量をもってはっきりさせるための政策である。
 
これは、信長が進めていたその政策を、秀吉なりに工夫しながらそれに代わって続行し、天下統一を目指した政策だったといえる。
 
次は、羽柴秀吉と徳川家康の続いたその後の対立と、それと関係してくる信濃(長野県)問題の件などにも触れ、それらがのちの江戸の身分制度にどう関係していったかなどを紹介していきたい。