近世日本の身分制社会(043/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史34/34 - 2020/09/05
 
ここでいったん「評動論」と題した、筆者の考えについて、まとめておきたい。

これは早とちりは禁物であり、その意味の慎重さ丁寧さが大事であることを、最初に念押ししておく。

まずこの、評・動を、いったん4つに大別する。

自評自動





他評他動

これは、「評」と「動」を、「自」か「他」のどちらなのかを示した、状況整理のためのおおまかな大別方法となる。

この時点で少し意味を察知できた人もいると思うが、これは短期即決力よりも、長期観測力の心得として、順述していく。

「評」の部分は、評価・評論・批評という意味だけでなく、自覚や認識の意味も強いため「覚」や「識」でも良い。

「動」も結論付けも含める行いや態度の意味も強いため「行」や「態」でも良い。

言葉の問題だけのため 自評自動 は 自識自行 でも 自覚自態 でもよく、そういう意味として「 評 動 」の書き方で話を進めていく。

「自」が「当」なのかどうか、つまり当事者性(関心力・確認力・尊重力)かどうかは、「自」の意味が欠けているほど、そうではなくなってくる。

「自」が弱ければ結局は「外」、つまり部外者性(外同士の閉鎖関係)が強くなるという意味となる。

他評他動 は 自評自動 をまず理解できている者、つまり 当評当動 といえるまで体現できている者が、外の 他評他動 に対し それが 自評自動(当評当動) かそうでないかも、確認(尊重)できるようになる。

自評自動(当評当動) が体現できていない者(理解できていない者)、つまり外を確認(尊重)することをあなどってばかりで常に偉そうなだけの者が 外のこと・人のこと・よそのこととなる 他評他動 が 当評当動 なのか 外評外動 なのか判別できる訳がない。

当評当動(当識当行)の態度 

  = 国際人道観。外の認識と整合するだけの尊重力(確認力・関心力)のある、公正影響の態度

外評外動(外識外行)の態度

  = 閉鎖人道観。外の認識と整合するだけの尊重力(確認力・関心力)のない、外にもち出せば悪影響(無関心・無計画)な態度

の2つの行き先に大別できる。

議題ごとの適正な 自評自動 を有していれば、その分だけ外の 当評当動 と 外評外動 の違いも区別できていることになり、そこが欠落していれば全て 外評外動 としてしか認識できないことになる。

外評外動 に過ぎない、つまり 当評当動 を大事にできていない状態というのは、当評当動 か 外評外動 かを区別できていない自覚すら、できなくなっている状態に陥っている場合が多いと見てよい。

使いものにならない公的教義のように、 と  のみを世の中の絶対だとする、つまり 外評外動 のみが世の中の絶対だとし、そこで思考停止させることを絶対としているそのやり方こそ、愚民統制の典型といえる。

戦国中期の閉鎖有徳と同じで、5年や10年もすれば教義価値など皆無になるような偽善閉鎖の上下価値によって、確認力(関心力・尊重力 = 自評自動 )を完全否定しているだけの、人々を産業廃棄物化させているだけである。

当評当動 の完全否定が絶対ということは、
 
 自身にとっての主体性(教義競争力・確認力)を自身から放棄することを絶対
 
とし、それを一切反省しないことを絶対としているのと同じ、記憶喪失型の無能(偽善者)に仕立てられている自覚も、そもそもできなくなっている状態といえる。

それで偉そうに人へ、思いやりだの、助け合いだの、世の中の正しさだのと、口ほどにもないにも程があるといえる次元である。

 当評当動 として整理されているものを用いる責任
 
 または
 
 自身で 当評当動 として整理する責任
 
というのを完全否定する大前提なのである。

閉鎖人道規範(外評外動)という、それそのものが問題ということではない。

閉鎖人道規範(外評外動) と 国際人道規範(当評当動)の違いを区別しようともしていない無能(偽善者)が、閉鎖人道規範(外評外動)に過ぎないものを何の工夫も配慮もなく、偉そうに外にもち出して図々しく総意化しようとすることが、問題なのである。

それは、国際人道規範(当評当動)を完全否定するための押し売りと押し付け合いをしているのと同じで、その無責任な押し付け合いとたらい回しが始まることが、問題なのである。

ここは、個人間でも会社間でも国家間でも、それぞれ責任(信用力)の規模が違ってくるだけで、原理的には同じである。

閉鎖人道規範(外評外動)と国際人道規範(当評当動)の違いを全く区別できていないことは、威嚇(挑発)することと確認(尊重)することの違いも全く区別できない状態だといえる。

この意味は、決して安直に考えるべきではない、非常に大事な所である。

確認(尊重)というのをろくにできたことがない無能(偽善者)であるほど、威嚇(挑発)し合うことだけしていれば相手を確認(尊重)したことになると勘違いし、威嚇(挑発)を繰り返すことしか能がない、何の反省もしない怠け者といえる。

ただの威嚇(挑発)を繰り返すことしか能がない無能(偽善者)とは、確認(尊重)を完全否定しているだけ、つまり 自評自動(当評当動) を完全否定しているだけの、口ほどにもない分際である。

公的教義はその最低限の防波堤にもなっていない所か、そういう無能(偽善者)を推進している有様であり、責任(国際人的信用・等族義務・公務意識)を完全にはき違え、完全に人道を踏み外しているのである。

  と  のみが世の中の全ての絶対

 閉鎖人道規範(外評外動)のみが世の中の全ての絶対

 威嚇(挑発)に始まり威嚇(挑発)に終わる伝達反応こそが絶対の礼儀であり、確認(尊重)を完全否定することが、世の中の全ての絶対

だと信じ切っているのは、すなわち

 当事者本人に必要な確認力(関心力・尊重力)を当事者本人で努力する当事者本人の責任の、完全否定

であり、威嚇(挑発)によって閉鎖人道規範(外評外動)を押し付け合うことこそが世の中の絶対とし、国際人道規範(当評当動・説明責任)に向き合うことへの完全否定といえる。

確認(尊重)確認(尊重)で応答する知能がない、つまり良質な確認(尊重)に対しても、全て威嚇(挑発)に置き換えることしかできず、確認(尊重)威嚇(挑発)で応答する知能しかない状態である。

威嚇(挑発)し合って主体性(当評当動・教義競争力)を放棄し合い、力関係で屈服させ合うことしか能がなく、その寝言や泣き言に同調することを確認(尊重)だと勘違いしているだけの、非文明的な分際といえる。

確認(尊重)を完全否定しておきながら尊重(認知)を偉そうに求め、それが通用しなければ威嚇(挑発)で腹いせすることしか能がないという、その自覚すらできなくなっているのである。(荀子の指摘)

要するに公的教義のような無能(偽善者)とは、
 
 確認(尊重)確認(尊重)の組み合わせで社会性(当評当動)を構築していく
 
という知能などなく
 
 威嚇(挑発)威嚇(挑発)の組み合わせの寝言と泣き言の同調を構築
 
することしか能がない分際なのである。

確認(尊重)威嚇(挑発)の区別もできていない時点で、それだけそのことに対する本人の当評当動(主体性・説明責任力)ももちあわせていないことになるのである。

その分際が偉そうに、思いやりだの、助け合いだの、世の中の正しさだのと、まさに口ほどにもないにも程がある。

だからこそ、そういうものに惑わされずに国際人道規範(当評当動)を整理している者と、そうでない者とで、残りの   他評他動 の3つを扱う場合の、公正さや人的信用力(債務信用力)の力量差も、当然出てくる。

適正な国際人道規範(当評当動)をもってその3つが扱われれば、威嚇(挑発)ばかりで頼らずに、確認(尊重)で対応させていくやり方に改める指導もそれだけできるため、改善化・健全化の可能性も広がる。

しかし適正な国際人道規範(当評当動)がない、つまり確認(尊重)威嚇(挑発)の違いも区別できない分際が、偉そうに手出し口出ししようとすることは、甚大な負担の押し付け合いと信用事故の元である。

この話は、裁判力(教義指導力)の観点でも重要になってくる、

個人的自己責任・有限責任(聖道門主義・しょうどうもん・自力信仰的)

社会全体的責任・無限責任(厭世主義・えんせい・他力信仰的)

との、その線引き(確認力・関心力・尊重力)にも関係してくる。

まず、確認(尊重)威嚇(挑発)の区別もつけられていないと、この悪用による愚民統制にもそれだけ陥りやすくなる。

ここでいったん割り切っておかなければいけないこととして、まず報道放送局出版社といった存在について、指摘しておく。

これらは所詮は公的機関でなく、そうでない以上は、その協力関係があったとしても、所詮は情報販売の業者に過ぎない。

それらの貢献や社会問題に対する軽重がどうであろうが、所詮は公的機関でもない相手には、せいぜい情報販売の品質や性質に対する追求・要求までなのである。

誰がどんな立場だろうが、政治家だろうが大事業主だろうが、教義史・裁判権史に自分から向き合ったことがない者、当評当動 が身についていない者が知覚できる公共性・社会貢献性など、知れている。

「自分は騙されない」といくら強気になっていても、自身に大した主体性(当評当動・教義指導力・説明責任力)も有しておらず、公的教義に何ら疑問ももたず一方的にそのいいなりになっている時点で、既に情報販売に誘導されている自覚もないといえる。

それこそが、確認(尊重)することと威嚇(挑発)することの違いを全く区別できていない状態、その自覚もできなくなっている状態である。

その自覚ができていないということは、日頃から自身も人々が、威嚇(挑発)確認(尊重)を完全否定し合っている自覚も、ろくにできなくなっている状態である。

無限責任的な公営(上)の不手際と比べ、有限責任的な民営(下)の不手際の場合にはその何倍も強気になって偉そうに厳しくなろうとする、そういう人々のその浅まし過ぎる姿は、もう少し深刻に自覚されるべき所だろう。

もちろんそれは、公的教義がひと通りしっかり指導しておいた上で、有限責任である民営組織が不手際を起こしたことが明確なら、無限責任の公営機関よりも、有限責任の民営組織の方を重く見ることは、もちろんである。

しかし公的教義がひと通りしっかり指導できている訳でもないことで招いた「社会問題」といえる範囲の不手際である以上は、まずは無限責任側である公的教義を先にまず追求する基本的な順番があった上で、せめて有限責任側の追及をしていくべきである。

何でもかんでも、有限責任側(下)の間で、できもしない無限責任側(上)のことまで勝手に負担しようとしたり解決(解釈)しようとするべきではない。

無限責任側(上)の社会全体責任の範囲のことに無関心・無神経(無計画・無意欲)であるにもかかわらず、有限責任側(下)の自己責任でそこに手出し口出ししようとするのは、結局は確認(尊重)を否定するために威嚇(挑発)し合っているだけの驕りや傲慢に過ぎない。

自己責任(有限責任側)の悪用とは、いくら偉そうに社会の正しさを振りかざした所で、所詮は力関係の威嚇(挑発)にただ無条件降伏し合っているだけの教義力(無限責任認識)のない、その自覚もできない姿でしかないのである。

本来はそこを積極的に状況回収(意見回収)し、進んでその整理の負担をして、国民のその敷居を高めなければならないはずなのが、公的教義の本来の務めなのである。

それを、公的教義の思惑通りに格下狩りばかりに皆が一生懸命になり、勝手に自己責任(有限責任)の問題に全て転化しようとすれば、無限責任側(上)の信用責任を皆で不良洗浄しているのと同じなのである。

道義的責任者(公営でない私的民営業者・閉鎖内責任者)である以上は、公共性(公務意識)については自主的・有限的に過ぎず、その影響力の批評まではできても、そこを裁こうとする名目(理由・効力)も所詮は有限なのである。

無限責任(上)を追求せず、有限責任(下)にだけ偉そうに強気になって、有限責任(下)で対応し切れる訳がない無限責任(上)の範囲になる社会問題を、有限責任(下)の中で勝手に要求し合い、できもしない甚大な負担を勝手にし合うべきではない。

その構図は、時代に合わない愚民統制支配を延々と繰り返したことで激しい教義崩壊を起こすようになった、あの中世以降に長引いた乱世の構図と、全く同じなのである。(日本もヨーロッパもそこは全く同じ)

下も下で、何の自覚もなく下同士で偉そうに格下狩りばかりで調子に乗るばかりで、ただ威嚇(挑発)し合っているだけのその偽善上下を繰り返した結果が、社会規範を完全壊滅させた教義崩壊の指標だと、いえるのである。

世間(民営)で見かける規範認識(社会性・教義指導力の手本・主体性)の次元の低さが目立った場合の、そもそものその改善責任(等族意識・公務義務)というのは、まずは公的機関側(無限責任側・上)に第一にあるということを、忘れてはならない。

その原理は、責任の規模が違うだけで組織性においての、会社や団体などの管理責任者についても、その従業員の関係でもそこは同じようなことがいえる。

所詮は有限責任に過ぎない民間組織というのは、そこを追求できる範囲も所詮は有限部分も多いため、自己責任で済ませられる部分ももちろん多い。

しかし民営は有限責任的(自己責任的)とはいっても、従業員や消費者からすれば、最低限の自主的な無限責任(社会全体責任)というのは当然のこととして事業主に求められ、その追及があくまで自主的・有限的というだけである。

社会問題といえる次元になってくると、無限責任(上)の範囲になってくるため、自主的に無限責任(上)の範囲を整理している訳でもないような、有限責任の範囲に過ぎない自己責任の力だけで、無限責任に無謀に対処(解釈)しようとするべきではない。

無限責任は無限責任として叱責し、有限責任は有限責任として叱責するという、その基本的な認識すら皆が人任せにし続ければ、ますます難しくなってくる。

織田信長の裁判権改め(宗教改め・教義改め・社会性改め)も、そういう所が根幹だったのである。

有限責任層である従事層(武士団・庶民たち)の、次元の低過ぎたかつての社会認識(経済社会規律・公務意識・国際軍事規範)の敷居を大幅に高める大前提で、そのために今まで甘すぎた無限責任側(社会全体責任側・上)に、厳正になったというだけに過ぎない。

その教義崩壊の対策を誰かがやらなければならなかった中、甘いばかりの無限責任(社会全体責任・上)に厳しくなることを誰も徹底できなかったから、仕方なく信長がやることなった、ともいえるのである。

無限責任(上)は無限責任(上)として叱責し、有限責任(下)は有限責任(下)として叱責するという基本的な等族義務を、現代人ですらなかなか理解できていないから、信長の人間像にしても荀子主義にしても、これまで理解されてこなかっただけに過ぎない。

無限責任(社会全体責任・上)にただ甘いだけの口ほどにもない社会認識とは、確認(尊重)など何も身に付かない、確認(尊重)威嚇(挑発)の違いも区別できていないただの寝言や泣き言に過ぎないのである。

無限責任(上)有限責任(下)の区別もついていないような、大事な確認(尊重)も全て威嚇(挑発)としてしか解釈できず、威嚇(挑発)を向けることしか能がない無能(偽善)が解釈する社会認識の、それの何が思いやりだの正しさだのだという話である。

それが、内にとっての 当評当動 と、外の当該にとっての 当評当動 と、ただのたらい回しでしかない外の 外評外動 なのかの、その区別も全くできずに全て 外評外動 に置き換えることしかできなくなっている分際の実態なのである。

筆者のように、無限責任の範囲も向けた教義競争にしっかり意識を向けている者、という訳でもないような、それがない者同士が無限責任(社会性・教義指導力の手本・主体性)のことで、ろくな確認(尊重)もできずにただ威嚇(挑発)し合った所で、悪影響を与え合うのみである。

決着がついた結果ばかりに強気になり、敗者の死体蹴りだけに偉そうになって威張り散らすことしか能がない、教義失格(人間失格)が明らかな非文明的な公的教義のような分際の真似だけは、絶対にしてはいけない。

社会問題といえるものは順番として、その意識はまずは無限責任側である公的教義に向けるという基本的な順番がまずあった上で、せめて有限責任側の自己責任で巡るようにする認識が、浸透されるべきと筆者は考える。

その浸透だけでも、道義外間で威嚇(挑発)し合う認識の合わせ方から、確認(尊重)し合う認識の合わせ方に変えられていき、通信上で起きる信用事故や再犯も減少させ、その認識だけでもだいぶ健全化されていくのではないかと、筆者は考えている。

当評当動(確認・尊重) と 外評外動(威嚇・挑発) の違いの意味がもっと重視されれば、よくせめぎ合いになりがちな、自己責任論の悪用と、社会全体責任論の悪用も許されなくなる社会性も、構築されていくはずである。

これは人によって寄りがあると思われるが、筆者の基本は、社会全体責任主義者(無限責任側・厭世主義者・他力信仰的)である。

社会全体責任主義者は、個人責任を不良洗浄したがっているだけに、見られてしまいがちである。

自己責任主義者も、社会全体責任を不良洗浄したがっているだけに、見られてしまいがちである。

これは信長もそうだったと思われるが、単純に自己責任に否定的だという訳ではない。

社会全体責任(無限責任側)の範囲のことに意識を向けようとせず、自己責任(有限責任側)の考えだけで、できもしない社会全体責任(無限責任側)の範囲のことまで全て解決(解釈)しようとする悪循環を、筆者は喚起しているのである。

 確認(尊重)のための恫喝(不当の抑制)
 
と、
 
 確認(尊重)をただ否定しているだけの威嚇(挑発)でしかない恫喝(偽善)
 
とでは、健全性は全く違ってくる。

人類史的にも重要なはずの荀子主義が、今までろくに理解されてこなかったのは、社会全体責任(無限責任側)自己責任(有限責任側)の違いを、しっかり理解し、しっかり現代約できる者が今までいなかったからだと思われる。

当評当動 と 外評外動 を区別する力が、確認(尊重)威嚇(挑発)を区別する力にそのまま直結し、そこが同じく無限責任側有限責任側を区別する力にも直結してしまう、という説明が、今回したかった所である。

この説明でどれだけ伝わるかどうか不明だが、とにかく人格否定する以上は、本人にとっての当評当動の不動の公正信念(等族義務・説明責任)をまず示した上で、するべきである。

社会全体責任(無限責任側)自己責任(有限責任側)の違いを、国民それぞれがその範囲を全く区別・整理できる認識力もないということは、かなり深刻である。

それは例えると、水爆(原爆)を落とされる直前に、水爆(原爆)を使うことの善悪を議論すればいいというような、それがもう手遅れだという自覚が全くできていない深刻な状態といえる。

社会問題という範囲になっても、間違っていたことだけしか問題視できないことが、非文明的で深刻という意味である。

つまり、間違っていたことだけではなく、そもそも間違った裁き方であった場合(時代・状況に合わなくなってきた場合)に誰がどう裁くのかまでの教義的な準備高(清算力)まで用意できる力がない、その自力教義不足を深刻に考える知能がない状態、といえる。

これは責任の規模が違うだけで、個人でも会社でもその原理は同じである。

有限責任側(自己責任側)といっても、無限責任(社会全体責任)との境界を区別できずに乱暴に脱線するから、次々と社会問題が発生していくのである。

有限責任側(自己責任側)は、公務公共責任の追及については有限的というだけで、事業主もその従業員も、信用範囲に応じた無限責任への向き合いも結局は、いくらか求められるようになるためである。

間違っていたことのみしか問題視できないのは「悪い奴がいるから悪い」をただ連呼し合い、それをただ威嚇(挑発)し合うことしか能がないのと同じである。

まずそういう意識が欠落し、教義上の代表をしっかり育てることもできていない国家が、国際裁判規範としてはっきりしていないような世界的な凶悪な兵器や新情報手段の脅威などに対して、どうやってそれに公正に平和的に抵抗できるのか、という話である。
 
何の自力教義力も無しに「その苦情を訴えればいい」といっているだけなのは、威嚇(挑発)し合えばいいといっているだけなのと同じで、それでは第二次世界大戦を何ら反省できていないのと同じである。

普段から、社会全体責任(無限責任側)の負担として整理させることが全くできず、できもしない自己責任(有限責任側)だけでそれを全て解決(解釈)しようとする愚民集団しかいないような国家とは、迷惑な非文明的国家とすらいえる。

そういう普段からの国民の態度が、そのまま国際分野の態度として、普段からの自力教義のその力量が肝心な時に、その劣悪部分がそのまま現れてしまうものなのである。

下(有限責任側)同士で、偽善の上下価値を巡って偉そうに威嚇(挑発)し合うことしか能がない、口ほどにもない国民の集まりでしかない、自力教義価値など皆無な国家など、完全に無くなるほどの制裁解体でも受ければいいのである。

信長の裁判権(教義指導力)による取り締まりの根幹も、まさにそこだったのである。

「それが見逃されるなら、どんな悪人だろうが全く同じ基準・水準で全て見逃せ!」

「それが裁かれるなら、どんな善人だろうが全く同じ基準・水準で全て制裁しろよ!」

「そういう、できもしない不徹底規範を無責任(無計画)に作るだけ作って乱立させておいて、状況回収しようともしない口ほどにもない迷惑千万な関係者(偽善者)は全員同罪、全員処刑(制裁対象=格下げ)だ!」

というあてつけの強い主張がよく出てくるのも、当時の改革時代の社会全体責任(無限責任側)の範囲について、重視しているためである。

なお、今回の評動論は、これをさらに、「与」と「受」で置き換えてみると、なお良いと筆者は考えている。

与評与動

与評受動

受評与動

受評受動

こちらは性質がだいぶ違ってきて、説明をまとめるのも大変になってくるため、説明し切れるほどの余力があれば、どこかで紹介していこうと思っている。