近世日本の身分制社会(046/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 羽柴秀吉と徳川家康の対立と、信濃問題 - 2020/10/09
 
小牧長久手の戦いで、徳川家康を格下げ(地方裁判権の解体)できなかった羽柴秀吉は、和解でいったん収束させたが、外交上の対立は続いた。

この対立の次の争点になっていた、信濃問題について触れていく。

この信濃問題とは、天正壬午(てんしょうじんご)の乱の、延長戦上の争いのことになる。

この天正壬午の乱は、本能寺の変に連動してその数日後に起きた、付随的な乱だった。

織田氏武田氏を短時間で制圧後、すぐに本能寺の変が起きたため、まだ間もなかった新支配地(旧武田領)の信濃・甲斐・上野(長野県・山梨県・群馬県)は大混乱となった。
 
新支配地(旧武田領)に、信濃と甲斐では、旧態の小笠原氏武田氏らとの地縁を根強く残し続けていた残党たちが国衆一揆を起こし、織田支配(信長に手配されていた織田家臣たち)の追い出しにかかった。

この時の国衆一揆(天正壬午の乱)は、見た目は戦国前半の逆戻りのように見えるが、その一方ではもっと国際性のある家格・格式が意識されて、その保証権(支持権・支配権)を巡って争われた所に、だいぶ違いがある。

この国衆一揆は、領地特権を追われた旧態の残党たちの「織田支配の追い出し」の利害だけは一致していたが、それぞれ乱立した小単位同士が、信濃全体の名目で団結して行われたものではなかった。

国土が広大で、単純には他国の倍くらいあった信濃(長野県)の経緯は、非常に複雑である。
 
この大規模な国衆一揆によって、織田氏に手配されていた者たちは信濃から一斉に追い出されることになったが、それを追い出したその後の方が大変だった。

織田氏の裁判権がいったん崩壊したことを好機に、各地に散っていたり潜伏していた亡国の有力縁者たちが、それぞれ地縁をもち続けていた各地元に駆けつけると、それぞれ小単位で集結、というのが乱立した。
 
織田氏が一斉に追い出された後の信濃では、今度はその旧態同士の派閥利害間の争奪戦が始まったが、これはそういうことになるのも承知の上での、織田氏の裁判権に頼らずのその追い出しだったといえた。
 
特に信濃では、元々の支配総代であった小笠原氏が武田氏に敗れて追われた事情に加え、その後の武田支配時代の総力戦体制(家督指名権や家格保証権と代替義務。武家屋敷制度)の改革も、結局そこまで進んでいなかった現れだったともいえる。
 
信濃の代表格であった小笠原氏は、広大で事情も複雑だったその信濃をまとめるために裁判権の整備に手を焼き、モタモタしている間に隣国で先に総力戦体制を整えて甲斐をまとめた武田氏に侵略され、信濃を奪われた。
 
その意味で武田氏は小笠原氏よりも国際軍事裁判力(国際政治力)はうわ手であったといえるが、ただしその時の両者間の器量比べ(力量比べ)がそうだったというだけで、その後の裁判権争い(教義競争力)で織田氏と武田氏のその差は、大きく開いていった。
 
小笠原氏を攻め滅ぼした武田氏が、今度は織田氏に攻め滅ぼされるという時代というのは、敗れた側はそれぞれ相手に抵抗できるだけの裁判力(教義競争力)に大差ができていってしまった結果なのである。
 
小笠原氏の本家筋が信濃を追い出され、領地特権を追われた多くの小笠原一族たち(その他の信濃の名族たちも)は、その名族意識だけは依然として強く残り続けていた。
 
本家の権威が失墜し、信濃はよそ者(武田氏)による支配が30年ほど続いてそれに屈服させられていた間、その反省も強くされていた。
 
これは江戸時代になってもその傾向はそれなりに残ったが、小笠原一族はたとえ地位は低い出身者でも、その一族出身の名族意識の誇りは、武田氏以上に強かったのが、特徴的である。
 
小笠原氏は、武田氏の弟筋として分家して力をつけていった源氏一族で、武門的には武田氏の方が格上だった。
 
ただし小笠原氏の方がより朝廷と結びついていたため、典礼的には(外交性・社交性の面では)武田氏より格上と見なされていて、武田氏も全国的な幅広さを見せた一族だったが、小笠原一族はもっと幅広さを見せた一族だった。
 
小笠原一族の本拠地であった信濃でも、戦国後期には名族の末端で特権にあぶれるようになっていた大勢いた半農半士たちとの、名族意識との古来の地縁は、武田氏に厳しい規制を受けていても、そこは根強く残り続けていた。
 
信濃はそれまで、織田氏のような閉鎖有徳対策(前期型兵農分離、武家屋敷への強制収容、等族保証)がそこまで徹底されていなかったからこそ、そうした地縁もいつまでも残り続けていて、名族意識がなお強い地だったため余計だった。
 
織田氏が武田氏を制圧(信濃・甲斐・上野を制圧)した際、織田氏の裁判権に従わない寺社領と、それと結び付いて反抗的だった地元の半農半士らは、当然のこととして徹底的に厳しい処分を下した。

その時の「織田軍による、信濃・甲斐での苛烈で無慈悲な数々の所業があった」という恨み節の部分だけがやたらと強調されて伝わっているが、正確にはそういうことではない。

そこがそう強調されて伝わっているそもそもの原因は、織田氏からすれば上野についてはともかく、信濃・甲斐での閉鎖有徳対策(前期型兵農分離)が、今まであまりにも甘すぎたという、その現れだっただけに過ぎない。

織田氏の裁判権(社会性)の最低限の基準が、そこまで整備(浸透)されていなかった当時の信濃・甲斐に、問答無用に急に履行されるようになった。

織田氏ではそれが当たり前だった、しかし信濃や甲斐では今までと全く違う社会感覚(裁判権の感覚)が急に向けられたことに、最初は慣れずに錯乱したに過ぎず、これは西方の播磨(兵庫県)や因幡(鳥取県)などでもそうした傾向は見られる。

織田軍の、特に信濃での仕置き(裁判権改め。寺社領であろうが織田氏の裁判権に従わない連中と結び付く地域も手厳しい掃討)のその様子は、それだけ法(裁判権・時代に合った社会性。家格保証・家長指名権と代替義務)の整備もそれだけ進んでいなかっただけの話に過ぎない。
 
信濃は、その仕置きを受けていた最中に本能寺の変が起き、旧態の国衆たちが乱立して、まず織田氏の追い出しが起きた。
 
その追い出し後に、かつての有力国衆同士の派閥利害で激化していったように見えるその闘争は、一見は戦国前期のような無秩序な争いに逆流したように見えるが、そうではない。
 
これは、本能寺の変で織田氏の裁判権がいったん崩壊した際、よそ者の支配から一時的に逃れる機会が偶然できた、彼らにとって好機と見なされた自由闘争だったといえる。
 
つまり、失墜してしまったかつての信濃の国衆たちの格式・家格を回復する好機と見なされて争われた、選挙政治性の強い争いだった。

織田氏によってもはや、天下の趨勢(新時代の家格・格式の基準による社会性)が決しようとしていた中、特に名族意識が強かった信濃のかつての有力縁者たちは、それぞれの格式・家格の回復運動ができる機会など、もはや絶望的になってきていた。
 
織田氏が裁判権(社会性)を全国的に叩きつけた影響から、信濃でもそこは学ばれて、そのくやしさの無念が一層強くなっていた、そんな矢先に本能寺の変が起きた。
 
「それぞれの家格・格式の回復運動をする、その最後の機会が訪れた」という、かつてそこを争点にできていなかった強い反省の想いがあっての国衆一揆だっために、特に信濃は大騒ぎになり、大混乱となった。
 
織田氏を追い出した後の信濃の旧態たちは、それぞれ自治権を維持するために、その格式・家格の力量を示して周辺列強(上杉氏・北条氏・徳川氏)に公認してもらう、そのための不安定な攻防戦がしばらく行われるようになった。
 
信濃は「自分たちで等族議会的(専制政治的)な姿勢で代表のあり方を選ぶことができていなかった、すなわちそれによって自分たちの地位(法)のあり方を支える、ということができていなかった」ことが、強く反省されていた。

それが結局できていなかったから、かつての小笠原一族による政治力(領地特権の保証と代替義務)で団結できず、よそ者に侵略されて古来由緒の特権を失ってしまったという反省も強くされた、そこをやり直そうした騒乱だったといえる。

その周辺列強というのが、この信濃・甲斐・上野にそれぞれ隣接する、上杉氏(越後、越中東部、上野北部の上杉景勝)、北条氏(関東の北条氏政)、徳川氏(東海道筋の徳川家康)の実力者たちである。

これら3者による介入戦は、事情がよく解らないと、見た目はただの血みどろの領土争いにしか見えないが、この頃は領域争いの認識は、もっと国際社交性も重視されるようになっている。
 
天正壬午の乱は丁度、その時代の節目が窺える好例といえ、つまり織田信長が、時代に合った裁判権(社会性)のあり方を全国的に散々叩きつけていた効果が、絶大だったことが窺える乱だったといえる。

従事層(下・有限責任側)たちは、そういう所はいつの時代も曖昧にしか認識できていないものだが、有力者層(上・無限責任側)は、かつての戦国中期のような等族意識の低い争い(支配者失格=裁判権失格の争い)の愚かさを、自覚するようになっていた。

信濃での、それぞれのその領地特権(領主権・相続権)が、誰がふさわしいのかという公認の保証を巡る一方で、初段階ではそれぞれが不安定な中で、その時の利害で実力者(上杉氏・北条氏・徳川氏)の鞍替えも不安定にされながら、争われた。
 
実力者たちも、頼ってくる彼らを保証するために支援し、見返りに普請(公共工事)や軍役を課すという政治的(品格信用的)な名目(誓願)をいかに傘下に集め、いかに軍事介入を有利に進め、いかに人道的に支配権を治めていくのかという国際色が、かなり濃く出ていた戦いだった。
 
実力者(上杉氏・北条氏・徳川氏)たちは、条件付きで信濃の国衆を傘下の家臣として組み込んでも、その後には現地での他との利害の事情次第で、他の実力者に鞍替えされてしまうことが、互いに頻繁に起きたため、初段階では乱れた。
 
しかしそれも、実力者たちが詰将棋の布陣をするように、政治的な領域の状況を示していくと大局も見えてきて、いくらかの落ち着きを取り戻すようになっていった。

こうした様子は、見た目は全然違うようでも16世紀のヨーロッパの、等族政治化していった流れと、共通している部分である。
 
ヨーロッパでも、もはや何のあてにもならない時代遅れの公的教義(教皇庁・ローマ)を無視して、列強各国ごとの「等族議会」でそういう所が自力教義的に見直され、制定されていった。

近世身分制議会 = 専制君主化 = 聖属権威を頂点主義としていたことからの脱却 = 現代の口ほどにもない公的教義のような、何の役にも立たないうわべばかりの茶番形式から脱却した、実態評価化・世俗権威強化

時代遅れの聖属(教義)を、今まで通りにただ支える続けるために従おうとするのを、キリスト教徒ですらついにその愚かさが自覚されて、それをついにやめる動きになったのである。(ルターやマキアヴェリの時代)
 
偶像性癖の偽善憎悪にしかなっていない聖属(教義)を、いつまでも世俗がそれを支え続けようとする虚像がついに許されなくなり、それが崩れたのが、16世紀である。
 
聖属(教義)とは本来は、世俗の法(社会性・教義指導力・教義競争)を手助けしてもらうためにあるはずなのであって、虚像基準(偽善)のいいなりになり合うために聖属(教義)がある訳ではない、考えてみれば誰でも解ることがようやく政治的に自覚されたに過ぎない。
 
世俗をろくに手助けもできない偽善聖属(ただの偽善憎悪)が、いつまでも世俗を従わせようとすることが、もはや許容されなくなる教義競争(等族専制化)の時代に、キリスト教徒社会でも、日本より少し早く突入していたのである。
 
力をつけた代表的な王族たちの等族議会によって、国際的な格式が具体化されていき、諸侯全体の序列が再評価されながら、全ての争いはそこを示し合いながら優先権を競い、領域争いや統治をするようになった姿は、日本も類似している部分である。

※諸侯= 貴族(大公、公、侯、伯)の大小の領主らの他、都市(それと協力関係の農村部も一体)もそれに次いで、それぞれ格式に応じた諸侯扱いがされた

日本の社会風潮も、それぞれの実力は国際品性的な家格・格式が明確化されていき、それぞれの臣下もそこが重視されながらそれに見合った保証権が維持される見返りに、その傘下としての協力義務を果たすという本来の認識が、ようやく強く自覚されるようになった。

その力関係によって、家格の再評価(旧態価値の減価償却)で最初は格下げを受けることがあったとしても、協力的な信用関係が築かれていけばその代表筋との縁談の話も出て、再度格上げされていくという等族社会的な国際性も、それまでよりも見られるようになった。

本能寺の変によって中央裁判力(旗本吏僚体制)が一時的に崩壊すると、織田氏によるその裁判権改め(社会性改め)が既に根付いていた領内でも一時的な争いは起きたが、羽柴勢が明智勢を制圧するとすぐに収束した。

残った重臣たちで、その後の話し合いの清洲会議が行われた頃、天正壬午の乱も初動の乱れからの落ち着きは、いくらか取り戻すようになっていた。

ただし争いは終結した訳ではなく、断続的に、何かあるごとに厄介な領域争いが起きるという状況は続いていた。

広大だった信濃では、それぞれ地元のかつての主権を言い張っていた者たちが多く乱立して争われたが、その頃には支持的な家格・格式を示して実力者による保証の協力関係が保てた者たちと、それができなかった者たちとの差も明確になり始めていた。
 
信濃の有力者の経緯は
 
 ・武田氏に排撃された者
 
 ・武田氏の家臣として認められたが織田氏に排撃された者
 
 ・小笠原氏-武田氏-織田氏と続いてどうにか家臣として、家格を認めてもらって存続できていた者
 
など、事情もそれぞれ違っていた。
 
信濃北部で影響力の強かった上杉派は信濃北部の支配権を、信濃南部で影響力が強かった徳川派は信濃南部の支配権を、大方掌握するようになっていたが、信濃中部(今の松本市)は双方で常に揺れながらの緊張が、続いた。

織田家中が羽柴秀吉派と柴田勝家派に分かれ、その総選挙的な賤ヶ岳の戦いが行われた頃の日本は、戦国中期のような、国際名目が欠落しているような上同士のただの野心的な争いを繰り返すことの愚かさは、すっかり自覚されるようになっていた。

地位が人より少しでも高い者である以上、また自身の方が格上だと自負する以上、より等族意識(教義競争力・裁判力)を自分から積極的に認識(尊重)していくことを努める、その手本をろくに示すこともできない公的教義のような口ほどにもない分際が、偉そうに人の上に立とうとすること(人を採点しようとすること=人格否定しようとすること=人を裁こうとすること)が社会的反逆(偽善)という風潮が、強まっていたのである。(等族社会化)
 
織田氏に代わって中央政権力を再び構築し始めた羽柴秀吉に対し、徳川家康は延々と反抗しているが、それも上層同士でのその大前提が再認識された上での、家格・格式を巡る反抗だったに過ぎない。

日本がそうした国際性を強く認識し始めていた中で起きた、徳川家康も深く関わったこの天正壬午の乱の出来事も、のちの江戸時代の身分制社会を意識させる要因に、当然なっている。

天正壬午の乱(本能寺の変)が起きたその2年後に、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と織田信雄(徳川家康)が対決することになるが、信濃ではその余波の領域争いは長引いていた。
 
信濃では特に上杉氏徳川氏による、信濃中部を巡る間接的な代理戦争が、断続的に続いていた。

小牧長久手の戦いの和解後、その信濃の権勢争いに介入し続けていた徳川家康に、天下総無事(天下統一)を目指していた羽柴秀吉は停戦を勧告したが、徳川家康は遠まわしに反抗し続けていた。

信濃争奪戦は、信濃北部は上杉氏が、信濃南部は徳川氏が掌握していたが、政局の要所であった信濃中部の深志城(ふかし・今の松本市の松本城)を巡る権勢争いは長引いていた。
 
この深志城を制した側が、当時の実質の信濃での主導権・優先権を示す立証・名目ともいえたためである。

それまでの、かなりややこしい経緯と事情を、まとめていきたい。

上杉氏に頼った、元々の信濃の支配総代(小笠原長時)の弟である小笠原貞種(さだたね・小笠原洞雪・どうせつ)

徳川氏に頼った、元々の信濃の支配総代(小笠原長時)の子である小笠原貞慶(さだよし)

上杉景勝徳川家康も、互いに彼らを得て家臣化し、その支配名目(支援介入名目)を得て、深志城(筑摩郡・安曇郡の支配拠点。ちくま・あずみ)を巡る双方の代理政争が、断続的に続けられていた。

弟の小笠原貞種はそれまで上杉氏の家臣として、旧領回復の支援を受ける見返りとして、30年近く働いていた。

対して子の小笠原貞慶の経緯は、少し複雑である。

信濃の元々の支配総代(長野県の代表)であった小笠原長時(ながとき)の経緯についてから、ざっと紹介していきたい。

隣の甲斐で先に強国化(甲斐の再統一・裁判権改め・総力戦体制化)を先に果たしていた武田信玄は、それが間に合っていなかった隣国信濃の小笠原氏の弱みを突く形で信濃攻略に乗り出し、侵略を繰り返すようになっていた。

そんな中、信濃をまとめきれず次第に抵抗できなくなっていった小笠原長時は、ついに武田信玄から信濃を追い出されてしまった。

以後の信濃は、武田氏にすっかり支配される所になってしまったが、信濃奪還をあきらめなかった小笠原長時は、諸氏の支援を頼って渡り歩いた。

小笠原長時は、越後(新潟県)の上杉氏を頼って弟の小笠原貞種と、長男の小笠原長隆を託した。

話は前後するが、この長男の小笠原長隆は、天正壬午の乱(本能寺の変)が起きるそのつい1年前の、織田軍の越中攻略に対し、越中東部をそれまで傘下に治めていた上杉氏がそれに抵抗するために戦った際に、そこで戦死してしまった。
 
長時はもうひとりの子の小笠原貞慶を連れて、当時近畿で力をつけていた旧縁の三好氏(小笠原氏から派生した一族)を頼って、貞慶を託した。

近親者を二手に託した長時本人はその後、陸奥南部(福島県)の会津の有力名族・芦名氏を頼り、ここから情勢を窺うことになった。

ところが三好氏は、中央(京・山城)に進出してきた織田氏に押されて衰退していったため、三好氏の家臣として活動していた子の小笠原貞慶は、その力差を見て織田氏に鞍替えすることにした。

三好氏に見切りをつけて投降してきた小笠原貞慶に、信長は家臣となることを認めたが、決していい加減な気持ちではない、見所の態度が買われてのことだったことが窺える。(1572年頃)

貞慶は、いずれ織田氏が信濃攻略に乗り出すことを期待し、その時までに功績を重ねておいて、その見返りとして深志城(筑摩郡・安曇郡・ちくま、あずみ)の旧領復帰を認めてもらう希望をもって、懸命に働いた。

小笠原貞慶の悲願であった、織田氏による武田攻略が 1582 年についに始まると、信長の命令で貞慶は、対武田氏対策の東国諸氏への外交官として働いた。

衰退が目立っていた武田氏がそれまで支配していた信濃・甲斐・上野は、織田氏にあっという間に制圧されることになった。

しかし、貞慶の悲願であった深志城の旧領復帰がその時、果たされることはなかった。

武田攻略の口火となって織田軍に有利になるよう懸命に働いた、武田方から織田方に鞍替した新参の木曽義昌を信長は高く評価し、その恩賞に深志城(安曇郡・筑摩郡)が与えられてしまった。(木曽義昌についても追って説明)

貞慶は訴えようとしたが信長に面会を拒絶されるという、くやしい扱いを受けた。

信長は、家臣として今まで働いていた貞慶の功績は認めていたが、貞慶の希望をこの時、認めることはしなかった。(後述)

木曽義昌と、小笠原貞慶とで、そんな出来事があった間もなく、京に移動した信長を明智光秀が襲う本能寺の変が起きて、信濃・甲斐・上野それぞれで大騒ぎになった。(天正壬午の乱)

変によって織田氏の中央裁判力が一時的に機能しなくなると、信濃・甲斐・上野の各地で排撃されていた有力縁者の生き残りやその旧臣らの残党たちが、それぞれ家格・格式回復(旧領回復)を目指して集まり、騒ぎ出したためである。
 
この思わぬ異変に、何としても深志城を奪還しようとしていた小笠原貞慶もあせり、慌てて徳川氏に頼ったため、徳川家康としても信濃中部における格式的な名目が、これで得られることになった。
 
越中東部で織田軍を防ごうとして撃破された上杉軍は、本能寺の変が起きるその直前までは、間もなく織田軍に本国の越後(新潟県)に乗り込まれようとした状態で、潰されるのも時間の問題になっていた。
 
その矢先に本能寺の変が起きたことで、織田軍による上杉攻略は中断されたため、上杉軍は体制を立て直す余裕も少しできて、あやうく命拾いした。
 
しかしモタモタしている場合ではなかった上杉景勝は、どうにか越中東部の支配権を取り戻すと、織田支配が追い出されて騒然となっていた信濃を急いで傘下に収めるべく乗り込み、信濃北部から足固めをしていった。
 
同じく、織田軍に「ついに関東に乗り込まれ」て、臣従させられるのも時間の問題になっていた北条氏も、本能寺の変によって織田軍が関東から撤退すると、慌ててその巻き返しに動いた。
 
関東での権勢を織田氏に阻害(格下げ)されるようになっていた北条氏は、上野の支配権を取り戻すと、信濃と甲斐の介入戦に乗り込み、特に信濃ではこの大手の三つ巴による、緊張が起きた。
 
信濃の国衆たちも、複雑に絡み合ったその時の現場の利害次第で、上杉派に鞍替えしたり、北条派に鞍替えしたり、徳川派に鞍替えしたりが繰り返されて、なかなか一貫しなかったため、当初はかなり乱れた。
 
一方、織田信長から木曽義昌「与えられたことになっていた」信濃中部の深志城(筑摩郡・安曇郡)でも、変によって織田氏の裁判権が崩壊すると、小笠原一族の地縁の強かった郡内(筑摩郡、安曇郡)の大勢の半農半士らが騒いで「よそ者」木曽氏支配の追い出しに動くようになった。
 
信濃中が大騒ぎになっていた中でも木曽義昌「信長公に正式に貰い受けた領地」の格式を言い張って、その国衆一揆に手を焼きながら、木曽氏の手勢は深志城に籠城してそこに居座り続けようとした。
 
郡内の小笠原氏の家来筋の一族たちは、木曽氏の追い出し工作に動いていた。
 
彼らと連絡をとっていた上杉景勝はそれを好機と見て、家臣化していた小笠原貞種に手勢を付けて、上杉家による後押し(傘下)の名のもと、急いで深志城奪還(木曽勢の追い出し)に向かわせた。
 
小笠原貞種上杉氏の援軍を得て、深志城奪還に向かっていることが地元に知れ渡ると、木曽氏の追い出しの決定的な名目となって郡内で大勢の半農半士たちが駆けつけて団結し、深志城を取り囲むように集結した。
 
現地に到着した小笠原貞種が、地元の大勢の協力を得て深志城に攻撃を仕掛けると、城に居座り続けていた木曽勢もいよいよ形勢不利とみて撤退した。
 
上杉氏の支援によって、深志城奪還を叔父(小笠原貞種)に先を越されてしまった小笠原貞慶は、この事態にあせった。
 
小笠原貞慶は単身で現地に駆けつけて「自身こそが正式な小笠原本家の次期当主」と説得して呼びかけたが、具体的な軍ももたずに駆けつけたことで大して権威を示すこともできず、上杉派の取り巻きに追い返されてしまった。
 
どうにもならなかった貞慶は、急いで徳川氏のもとに戻って、上杉派に占拠されてしまった深志城を奪還するための援軍を要請した。
 
その頃の徳川家康は、甲斐争奪戦で北条氏と対峙しながらの多忙の中、信濃南部での掌握もどうにか進み始めていた。
 
徳川家康は、信濃南部に傘下に組み込んだ氏族たちに、保証する代替義務として、小笠原貞慶の深志城奪還の軍役を指令できる状態になっていた。
 
この徳川派の信濃南部衆で主に構成された、徳川家康の名義で編成してもらったこの時の小笠原貞慶の軍勢は、恐らく3000~4000ほどになったと思われ、奪還戦をするためには十分といえるほどの恰好のついた形になった。
 
この内に、目付役などの徳川氏の吏僚が率いる100~200くらいは同行していたと思われるが、天正壬午の乱では、特に信濃争奪戦ではこうした力量が互いにどれだけ示せられるかが重要になっていたのである。
 
つまり、実力者たちによる大軍をそのまま支配に向ければいいという単純な話ではなく、必要に応じた政治的な支援と指令(裁判力・強制力)を示しながら、相手の実力者の本軍が乗り込んできたなら、こちらも本軍をもって防ぎに行く、という国際的な采配が自覚されていた。
 
まず誰がどういった名目の傘下で動いているのか、まず少数で「こういう公式な理由で、この地はこれからは○○派の領域(裁判権)になるから、その裁定の序列に従わない連中は早々に立ち退かなければ、それを取り締まる軍がやってくるぞ」という効力(裁判力)を示しながら、軍を進めることが、政治上では大事なのである。
 
信濃では前期型兵農分離が大して進んでおらず、軍事は相変わらず半農半士が中心だったが、徳川家康に認めてもらって信濃南部で格式・家格(領地特権)を回復し、半農半士たちを率いていた有力者たちは、そうした国際軍事裁判力の重要性を自覚できるようになっていた。
 
貞慶は小笠原一族の本家を自負しても、亡国の自身の名義ではなく、徳川家康の名義でなければ結局軍勢を整えられなかった所には、やはり内心はくやしがっていたと思われる。
 
しかし一方で、それでも徳川氏の名義で南部の信濃衆による大勢の加勢を得た貞慶は、今一度「自身こそが深志城の当主」の名目のもと、意気揚々と深志城奪還に動いた。
 
上杉氏の名義で、叔父の小笠原貞種を擁立する形で先に深志城を占拠していた、その傘下に集まっていた郡内の半農半士たちは、貞慶徳川氏の加勢を得て深志城に向かっていることを知ると、動揺を起こした。
 
上杉側(貞種側)は総勢で3000もいたか怪しかった上に、上杉氏の本軍が、信濃北部で北条氏の大軍と対峙し続けていたことで、上杉景勝もその事態に、深志城にそれ以上加勢する余裕が全くなかったためである。
 
上杉氏はかつては、総動員しようとすれば2万ほどは動かす力はあった。
 
しかし上杉景勝が上杉家を継承した頃には旧態体制が目立ち、時代に合わなくなってきていたために、総力戦体制の改革に思い切って乗り出して苦労していた最中であったために、8000ほどしか動員できなくなっていた。
 
北条氏は、徳川氏との甲斐争奪戦でなかなか戦果を挙げられずにいたため、甲斐の支配権固めをしていた徳川氏の隙を窺いながら、甲斐から見て北部にあたる信濃の佐久郡、埴科(はにしな)郡に3万もの大軍で乗り込み、信濃北部に進出した。
 
8000ほどしか動員できなかった上杉軍に対し、3万で信濃北部に乗り込んできた北条軍を追い返すために、上杉軍はそれだけで手一杯だった。
 
上杉景勝も、徳川家康と同じように、信濃北部で傘下に組み入れた国衆たちに軍役を課し、深志城支配の加勢に向かわせたい所だったが、信濃北部を守ることだけで手一杯で、その余裕などとてもない苦境に立たされていた。
 
深志城を先に占拠していた上杉派(貞種の傘下)たちは、信濃北部の本軍からの加勢が全く期待できなかったために、貞慶が軍をもって再来することを知った途端に城から抜け出し、徳川派(貞慶の傘下)に走る者も多く現れた。
 
府中(筑摩郡と安曇郡の総称)のすぐ南の伊那郡北部まで、徳川家康の重臣筆頭の酒井忠次が率いる徳川軍も押し寄せてきていた効果も、かなり作用していたと思われる。
 
貞慶徳川氏の手配で加勢を得て深志城に戻ってくる間、小笠原貞種は多少の時間の余裕があり、本来は貞種はこの間に出撃して、態度を曖昧にしていた郡内の連中(小拠点・支城)を従わせるために、巡回しなければならなかった。
 
しかしこの小笠原貞種は、それを解っていて深志城から動くこともできずに、大した対策もできないでいた。
 
まずこの深志城争奪は、小笠原貞慶だけでなく「信長公から深志城(筑摩郡・安曇郡)を拝領された」と言い張っていた、先に追い出した隣の木曽郡の木曽義昌もそれを諦めずに、軍を動員して奪い返そうと、隙を窺っていた。
 
上杉氏からの加勢が、これは200ほどだったが、これが小笠原貞種に地元で人望を完全復活されて強固な自治力をつけてられてしまい、上杉支配から脱却される動きをさせないための、厳しい監視役になっていた。
 
逆に言うと、上杉氏の援護がなくても、この小笠原貞種に自由に活動され、小笠原一族の集結を呼び掛けて、府中(筑摩郡・安曇郡)を中心にかつての信濃の支配権を固められてしまっては、かなり厄介だったという警戒もされていた。
 
この小笠原貞種に、それをするだけの器量(教義指導力)があったかどうかは不明だが、当主の長時とは良好だった弟であり、大して野心などないが老練だった所が、当然のこととして警戒されていたと思われる。(筆者は、それができた人物だったと見ている)
 
しかもこの小笠原貞種の元々の立場としても、当主の長男である小笠原長隆の後見役として付けられたこと、しかし長隆が戦死してしまったからそれを代役することになった経緯も、容易に窺える所である。
 
長年、上杉氏に頼っていた義理もあった中途半端な前提での、深志城の乗り込みだったために、小笠原一族の再生を呼び掛けるための権威も中途半端にしか示すことができず、それが苦境の裏目に出てしまっていた。
 
上杉方は見通しが示せないでモタモタしている間に、徳川家康の名義で南部の信濃衆の加勢を得た小笠原貞慶が、ついに深志城を奪還しに、到着してしまった。
 
動揺するばかりの城側は、徳川氏に頼った力だろうがとにかく南部の信濃衆を支持的に率いてやってきた貞慶軍を見て、郡内でそれまで勢いで集まっていた半数が貞慶側に走ってしまったため、戦力は激減していた。
 
貞慶軍が現地に到着した時には、明らかに徳川派(貞慶側)の方が名目が分があることがはっきりしていた。
 
もはや勝負が見えていた小笠原貞慶は、上杉派と一緒に籠城していた貞種「家来筋のはずである叔父上は降伏し、本家筋である自身に協力するべきです」と勧告したが、上杉氏への義理から貞種は、降伏はしなかった。
 
結局「この場はとりあえず和解」という形で、貞種方が城を空け渡して郡から退去する代わりに、貞慶側もそれを追撃しない条件でこの時は折り合いがつき、小笠原貞慶がついに深志城を支配する所となった。
 
深志城はとにかく、信濃の主導権の根拠になっていたために、その後もそれを傘下に治めようと、上杉氏も徳川氏もそれを巡る権勢争いが続いた。
 
いったんは深志城に返り咲いた貞慶としても、奪い返しに次々に狙ってくる上杉氏木曽氏の動向に気を抜けない日々を強いられ続けた。
 
木曽義昌は、信濃の南西部の木曽郡の代表で、小笠原時代-武田時代-織田時代とどうにかその自治権を維持し続けた、戦国武将の中でもそのしぶとさはとにかく一級品だったといえる一族である。
 
木曽義昌が信長から深志城を拝領された事実は、木曽一族が信濃の代表格に格上げされた典礼だったといえるため、深志城からいったん撤収することになった義昌は、その後も深志城にこだわり続けた。
 
徳川家康小笠原貞慶の府中(深志城)復帰を便宜してしまったために、最初は徳川派として従っていた木曽義昌はそれに怒って反意し、北条氏と結んで、徳川氏にやめるように言われているのを無視して深志城のことにしつこく介入し続けた。
 
信濃南部でどうにもいうことを聞かないこの木曽義昌に、徳川家康は木曽郡に派兵して、制圧しようとした。
 
しかし、閉鎖的ではあるが木曽郡を永らく伝統的に団結させ続けることができていた、武田軍も織田軍も今まで簡単には寄せ付けさせず、家格を認めさせて好条件で扱われてきただけあった木曽一族を、徳川軍も簡単には制圧できず、追い返されてしまった。
 
木曽郡は地理的にも少し特殊で、道が細い山林と河川の自然の要害で守られて、地元を団結させることができていた木曽氏は、大軍で迫ってきても簡単には制圧できない地だった。
 
一方で深志城をどうにか奪還できた小笠原貞慶は、利害次第で暴動を起こそうとする郡内の不安定な政情の中で、府中の法を整備しながら深志城をどうにか守り続けていた。
 
その隙を狙って相変わらず上杉氏木曽氏が不穏な動きを見せ、府中に向けて牽制に動いてきたため、苦労の日々が続いた。
 
貞慶は、確かに徳川氏の支援で府中を取り戻すことができたが、名族・小笠原一族の本家の立場として何でもそのいいなりになる訳にもいかず、できるだけ誰の手も借りずに支配権を再興したい所だったのが、本心である。
 
徳川氏の傘下というのを強調せずに、信濃の代表が自身である強調ばかりして、信濃の権威固めに努めようとしていた。
 
それに対して徳川家康「徳川の力で府中を取り戻すことができたのだから、早く人質をよこすよう」「徳川家の人事に従うよう」府中のことにあれこれ介入してきたため、貞慶も渋々従うほかなかった。
 
小牧長久手の戦いの後も、この信濃問題は続いていた。
 
天下総無事を目指していた羽柴秀吉は、この信濃の騒乱をやめさせようと、それに関与していた有力者らに、それぞれ勧告した。
 
徳川家康は「小笠原貞慶を家臣としているから、信濃の主導権は徳川氏にある」ことばかり強調し続けた。
 
次も、この信濃問題の当事者それぞれの事情に触れていきながら、羽柴秀吉の天下総無事(天下統一)がどのように進められていったのかについて、まとめていきたい。