近世日本の身分制社会(024/書きかけ143) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史15/34 - 2020/01/18
 
16世紀初頭=近世初頭のドイツ・フランス・スペインらは、そもそもどのような国際感覚で当時のイタリア(教皇庁)を見ていたのかについてまとめる。
 
15世紀末には教皇庁のヨーロッパでの優位性もいよいよ低下し、皇帝軍とフランス軍がイタリアの支配権・支持権を巡って覇権争いを始め、イタリア中が大混乱を起こしていた頃、イベリア半島(スペイン・ポルトガル方面)では、国土回復運動(レコンキスタ)が達成され、その統合記念国家・強国スペインが誕生した頃である。
 
イベリア半島ではそれまでは決してキリスト教徒同士の外交関係も良くなく、二大覇者カスティリャアラゴンは権勢争いを繰り返してきていた。
 
一方で拡張ばかり続いていくオスマン帝国(イスラム勢力)の多大な脅威に深刻に向き合うようになり、それを跳ね返すための、当時の教義危機(キリスト教徒同士の結束)の大きな見直しが、イベリア半島では自発的に強く行われるようになった。
 
聖属面のうわべの交流ばかり大事にして、世俗面では(足元では)いつまでも蹴落としあうのではなく、いい加減に結束し、南部にいつまでも占領し続けて居座る異教徒(イスラム軍)を追い出し、イベリア全土をキリスト教国家に回復するべきという自覚が強くされた運動が、国土回復運動(レコンキスタ)である。
 
この時に教義(法)の見直しがイベリア半島では自発的に強く行われ、カスティリャ・アラゴン連合軍が、イベリア南部グラナダおよび周辺の制海権を長らく独占し続けていたイスラム軍の追い出しに成功すると、ここで統合国家イスパニア(イギリス語ではスペイン)が誕生する。
 
スペイン(カスティリャ・アラゴン)は、西方教会(カトリック)の再確認主義を基点とした法(社会性)の見直しによる新強国の結束を果たしたが、これは教皇庁(ローマ・公的教義)の力に頼った訳でもなんでもない、地元の地域聖属の自力努力でほとんど達成されたものである。
 
急激な強国化を見せたスペインでは、もはや教皇庁は典礼だけの(表向きの体裁だけの)存在としてしか見なしておらず、当時ヨーロッパの中で最も自力で法(社会性)の見直しができた強国スペインこそが、内心では西方教会(カトリック)最大の聖地だという自負すらもっていた。
 
ただし外交上では、これまでの伝統的な外交関係を考え、互いに異教徒扱いし合うことになりかねない事態は避けるために、そういう態度をスペインは過剰には出さなかっただけである。
 
教義的には何のあてにもならないだらしない教皇庁(ローマ・公的教義)よりも、スペインの地元聖属の西方教会(カトリック)再確認主義による教義力(裁判力)の方が、既に上回っていたのである。
 
そしてそれは、スペインに次いで強国化を進められていたフランスも同じである。
 
もはやあてにならない教皇庁(ローマ)の力に頼らずに、独自で強国化(議会権威・等族統制)を進めたこの2つは、実質的に国際裁判力(教義力)は教皇庁(ローマ)を完全に上回っていて、その大差が国力(外交力)となって現れ、イタリアは散々あなどられていたような状態だった。
 
スペインもフランスも実質は、地元聖属がほとんど正教会化(公的聖属の地元聖属化、教皇庁代わり化)しており、のちにスペインと激しく対立するようになったイギリスでも、そこが色濃く出るようになる。
 
スペインもフランスももはや、国際性として大々的に採りあげたい場合に教皇庁に戴冠式や勅書を依頼する他は、大抵は自国で済ませるようになっており、つまり教皇による戴冠式でなく、地元の司教による戴冠式でも国際力が十分通用する状態まで、法(社会性)の整備が進められていたのである。
 
カール5世の各地の王族領の相続のために、レオ10世に何度か戴冠式をしてもらっているが、これは規模が広大で多数だったから、国際的な影響を考えての依頼だったに過ぎない。
 
中世のように戴冠式によって皇帝権や王権をもたらされた教皇庁に対する、その多大な奉仕義務の見返りという古臭い伝統も、近世になるといい加減に教皇が王権に介入できる力などなくなっていた。(ただし式典のための献納額はそれなりに高額だったと思われる)
 
司教(司教領の聖属)は、便宜上は公的聖属といえるが、先に法(教義)の整備が進められていたスペインとフランスにおいては、公的聖属の地域聖属化がドイツよりも進んでいた。
 
ただしドイツはそういう訳にはいかず、皇帝権がイタリア貴族からドイツ・オーストリア貴族に移行するようになって以来、その権威を維持するために教義上は、イタリアとドイツは兄と弟のような関係が続けられてきた。
 
そのためドイツの司教(司教領・司教特権の公的聖属)はスペインやフランスよりも教皇庁(公的教義)との結び付きが強かったため、だからこそドイツではその負担を一身に抱えるような形で最も宗教論争が起きた。(のちにフランス、ネーデルラント、イギリスにもこの宗教論争が庶民政治の問題として波及していく)
 
スペインとフランスに至ってはもはや「教皇庁(ローマ)が教義の中心地であることを、我々に体裁的にそう扱ってもらっているだけでもありがたく思うべき」という、国際力が完全に逆転していた関係である。
 
16世紀初頭のヨーロッパのそうした新たな国際感覚は、日本の戦国後期の法(社会性・教義)の国際競争の部分が共通している。
 
つまり「自国で時代に合った法(教義)を刷新できぬ弱小国家は、それができている強国に従って当然」という、それがそのまま国際軍事裁判力の差になって現れてくる19世紀末から見られる、第一次世界大戦のような風潮が、色濃く出るようになった時代である。
 
ハドリアヌス6世の擁立劇の意味は、当時の下層の人々には何がなんだか訳が解らなかったと思うが、これはスペイン・オーストリア王室が教皇庁を牛耳るためにやったのではなく、教会改革のテコ入れのための異例人事だったことは、各地の王族も高位聖職者たちも、とぼけていただけで理解していたと思われる。
 
当面の宿敵であったフランス王室ですら、この擁立劇には大して非難していないのも、フランスから見ても教会改革が必要だったという認知がされていたからだと思われる。
 
それを体裁ばかり気にして逆恨みした教皇庁(枢機卿団)は、次代教皇クレメンス7世になった途端に、何の反省もせずに幼稚な腹いせだけで、身の程知らずにもスペイン王室に噛み付いたのである。
 
これは皇帝カール5世本人を怒らせたというよりも、フランス以上に教義力を身につけて強国化していたスペインの貴族層・高位聖職者らを、相当あきれさせ、激怒させたと思われる。
 
もはや各地の王族たちから、典礼(体裁)の象徴として扱ってもらっていただけに過ぎない分際が、教皇庁(枢機卿団)はまだそこを反省せずに、大人しくしていればいいものを実力だと勘違いし、教義力の低下をよそに権威を発揮しようとしたためである。
 
枢機卿団からすればハドリアヌス6世の異例人事の屈辱は、スペイン・オーストリア王室のせいだったといいたかったのだろうが、王室側からいわせればそれは完全な責任のはき違いなのである。
 
そもそもハドリアヌス6世の異例人事を何ら防ぐことができなかった時点で、それ自体が枢機卿団の教義力の責任であり、むしろ遅々として教会改革が進まないための後押しをしてもらったことを有効活用しなければならないのも、枢機卿団の義務なのである。
 
もしハドリアヌス6世が、そんなに教皇としてふさわしくないというのであれば、それなら枢機卿団が公会議で教皇を具体的に裁いて廃位にすればいいだけの話であり、それをするだけの教義指導力も皆無だった枢機卿団が、結局は悪いのである。
 
それを何ひとつ自分たちで片付けられずに、何ら具体的に名目も公然とできずに全て遠まわしの腹いせ態度だけで、それら責任の全てをよその権威のせいにするのは何事かというのが、スペインから見た当時の教皇庁(枢機卿団)に対する説教だったのである。
 
さらにいえば当時の都市ローマは、公的聖属の特権でヨーロッパ中からかき集めた金で、大した理由もなく700人だかの大量の娼婦(ただの召使いも含まれた数と思われる)と、教義の度を越えた派手で贅沢な音楽隊を抱え続け、権威のためだけの贅沢な教会建造物とその装飾に、著名な建設家や芸術家をふんだんに起用するなどしていた。
 
スペインもフランスもドイツも、宗教(国家)のあり方に真剣に考え、どこも経済観念の激変と財政のことで悩みながら法(裁判権・税制)の整備に一生懸命に苦労して取り組んでいたのをよそに、都市ローマ(教皇庁)の社会性だけは中世前期のまま時間停止(思考停止)している、時代錯誤もいい所の贅沢の極みの、ただの悪徳楽園でしかなかった。
 
レオ10世の時に、教会財産が教義と関係ない贅沢にことごとく費やされていよいよ逼迫していたからこそ、ハドリアヌス6世がそれらあらゆる贅沢に倹約を徹底し始めたのは、当然の話だったのである。
 
贅沢にすっかり慣れてしまっていたローマ市民までがそこを錯覚して勘違いし、この時間停止した閉鎖空間だけで、今までの生活ができなくなっただのと無神経にハドリアヌス6世のことを、よそ者の悪人扱いをして非難していたほどだった。
 
ヨーロッパ中の教義の手本となるべき存在が、スペイン王室の警告を無視し続けて何の国際力(教義力・主体性)もない閉鎖的な痴態ばかり晒す劣悪な教皇庁の態度に、ついに強国スペインを怒らせたのが 1527 年の「ローマ劫掠」による、都市ローマ丸ごとの踏み潰しだったのである。
 
これをやってのけた王室はこの時、傭兵たちのローマでの略奪について「傭兵の給料の支払いが滞ったことの事故だった」と言い訳しているだけで、実際はこの悪徳楽園ローマへの焦土作戦を実行する前提で乗り込み、建造物の意図的な破壊もしているため、ただの方便に過ぎない。
 
教義的な理由は、信長の「比叡山(公的教義)焼き討ち」事件と同義だが、誇張もあるだろうがそれでもヨーロッパはもっと重度だったことが窺える。
 
これは今までの王族たちも高位聖職者たちも、あまりにもローマを甘やかしすぎてきた責任ももちろんあったが、もはや地方の教義力(裁判力)が、中央の教義力(裁判力)を完全に上回るようになったからこそ、逆に制裁できる準備が整えられたからともいえる。
 
しかしこれは単なるイタリアの踏み潰しだけでなく、国際力をしっかり身につけていたスペインはその後の面倒見も非常に良く、義務(責任)をもってその後のイタリアの教義力と国力の再建を手伝っている。
 
まずこの事件で決定的になった教皇庁の悩みの種は、教義力の低下も深刻だったが、一方で何かあった時の緊急時にイタリアは、教皇庁をしっかり防衛できるような国際力を維持できる国防体制が、中途半端だったことである。
 
クレメンス7世によるメディチ教皇をもう1度、選任しなければならなかった教皇庁のそもそもの苦しい事情も、まさにそこだったといえる。
 
イタリア内の4強国家の内、教皇庁のお膝元政権としてそれなりの協力信用関係が維持できていたのは、教皇領の西隣のフィレンツェ共和国(トスカーナ州)くらいだった。
 
ジェノヴァ共和国(リグリア州)、ミラノ公国(ロンバルディア州)、ヴェネツィア共和国(ベネト州)は、都市単独の力はかなり有力ではあったが、王権の強化(近世化)が顕著になっていくと、それらは自治力を維持することで精一杯で、とても教皇庁の防波堤役など務まらなかった。(ただしジェノヴァの事情はかなり特殊)
 
軍事的には軟弱過ぎて大した団結力などなかったトスカーナは、その代わりに、もし団結できれば教皇庁(イタリア全土)の国際力を十分に支えられるだけの資本家が多くいた。
 
ヨーロッパ中のあらゆる価値観が激変してた中の教皇庁は、ヨーロッパ中の献納(セルヴィーティウム)も含めた教皇領特権だけで、その全ての教義力とイタリアの国際力を回復させることはもはや不可能な状態に陥っていて、イタリア内での最後の希望である富裕国家フィレンツェに、その支えを頼り始めていた。
 
カール5世がドイツ・オーストリア・スペイン連合の大軍を率いて教皇庁(ローマ)の攻撃に向かった際に、その実質の防衛にあたったのはメディチ政権を中心とするフィレンツェ軍で、イタリアには他には大した国際裁判戦力などなかったことが、この戦いで明らかになってしまった。
 
これはつまり、教皇庁による十字軍遠征の教義指導力などもはや皆無だったといってよく、東から何度も軍事行動で迫っていたオスマン帝国(イスラム軍)の脅威に「こんなことでどうやって異教徒を防げるのか」という実態が明らかになってしまい、ヨーロッパ中の教皇庁に対する失望は頂点に達した瞬間だったといえる。
 
この事件から10年も経たずしてついにイエズス会が設立されるが、当時のキリスト教徒が「キリスト教社会の終焉ももう近い・・・だからこそ人任せにせずに皆で支えなければ!」というやりきれない気持ちばかり強まった者が、どれだけ大勢いたかが察することができる一幕である。
 
スペイン王室が、手加減無しにローマを破壊したのは、野心からでも憎悪からでもなく、ヨーロッパ中に今の公的聖属の教義指導力の実態を思い知らせてそれを反省させ、もはや帝国議会次第で全てが決まる時代に突入したことを、明確にさせておくための意図が強い。
 
これは聖属権力と世俗権力が、完全に逆転した瞬間だったといえるのと同時に、ひと区切りの政教分離の時代に入ったという宣伝効果だったともいえる。
 
この時に数で圧倒して敗れたフィレンツェ軍も、これもただ兵力だけの問題ではなくトスカーナの中でろくに団結できていなかった要因の方が大きく、トスカーナはそれを防げたはずの(和解にもっていくだけの)財力だけはあっても、主体性(国家としてのあり方の名目・国際力)が中途半端だったために防ぎようがなかったのである。
 
フィレンツェがかつてフランスからの圧政介入を何ら防げないでいた大混迷期に、ソデリーニ政権時代の書記局官僚(重役)として大いに支えていたマキアヴェリが、国家のあり方の窮状をクドクド訴えていたのも、まさにそういう所だったのである。(当時のトスカーナの富裕層はことごとく無視していた)
 
つまりイタリアだけが近世の国家化が大いに遅れていたものを、帝国議会でどうにか支えられていたドイツ・オーストリアと、最も強国化できていたスペインが王室間で結び付いたことで、それにフィレンツェ共和国を加えたイタリアの国家再建が、この大事件があったからこそ性急に行われた。
 
ローマが丸ごと破壊され、付近の城に逃げ込んだクレメンス7世と枢機卿団は沈黙がしばらく続いた(ほとんどスペイン王室による謹慎処分に近かった)のち、スペイン王室と和解に進むが、これはスペインが責任をもって救済の手を差し伸べたからだといってもいい。
 
次第に都市ローマと教皇庁が再建されて、イエズス会が公認された 1540 年頃にはフィレンツェでは、この頃のメディチ家のコジモ1世の代に強国化のきっかけとなる。
 
これはまずはイタリアの国力を強化させるために、スペイン王室がコジモ1世にスペインの高位貴族との国際婚姻を斡旋した影響が多大である。
 
メディチ家はほとんど貴族扱いされていたが、これによって名実共に強国スペインの高位貴族と同格の家格として扱われるようになった。
 
トスカーナ大公(大公は爵位としては最高位。別格だったオーストリア大公は別とし、実力は選帝侯や辺境伯に次ぐ)という貴族化のお膳立てを受けたコジモ1世からは、王権専制的(等族議会的)なフィレンツェの強国化がここから始まり、イタリアの主体性を支える代表国家に大変貌する。
 
フィレンツェはもし危機的な状況になっても、スペイン王室からの斡旋で、王室・帝国を強力に支えていた大銀行家フッガーからいつでも莫大な融資を受けられるようになったのも、大きな支えとなっている。(莫大な融資を返済できるだけの力をフィレンツェはもっていて、実際に資金援助も受けている)
 
以後、国際力が大いに強化されたこのフィレンツェ共和国が、緊急時にはイタリアの頼りになる明確な国際国防軍の中心として、内外の圧力に睨みを効かせる重要な役割を担うことになったが、結局イタリア国内でそれを担えた最後の希望は、このフィレンツェだけだったともいえる。
 
これと並行するように、教義問題に立ち上がったイエズス会(西方教会正統派)が公的教義を外から力強く支えた活躍もあって、教義回復のための新たな公会議も積極的に行われるようになり、プロテスタントにこれまでいいたい放題に抗議されてきた西方教会(カトリック)の姿も、ようやく健全化に向かっていった。
 
フランスはドイツやスペインに反抗できるだけの国力は有していたが、さすがにここまでイタリアの世話をするだけの力はなく、これができた当時のスペインの国力、国際教義力、王室(貴族層)の力量は、目を見張るものがあったことが窺える。
 
1527 年にローマが破壊されたこの時期は、東からオスマン帝国(イスラム教徒)の大軍が 1526 年にハンガリー軍を撃破した勢いから 1529 年にはオーストリアにまで侵入し、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンにまで迫って、ここで激戦となったため、全てのキリスト教徒がこの事態に震撼した。
 
カール5世(ハプスブルク家)は、手本を見せるべくまずは王室単独の力だけで迎撃して、イスラム軍の進撃を果敢に阻止する姿を見せると、曖昧にしか団結できていなかったドイツ諸侯もそれに勇気を与えられて慌てて加勢するようになり、ドイツを団結させてこの強敵を追い返すことに成功する。
 
ハンガリーでの甚大な損失は防げなかったものの、それでもこの戦いによって、キリスト教徒の代表的な王室と帝国議会の存在感(国際裁判権)の、十分な再確認がされることになった。
 
1529 年のウィーンの戦いは、1527 年のローマ劫掠の内部問題を好機と見たオスマン帝国の企画だったと思われるが、教皇庁がいったん消滅したに等しかったこの時期に、帝国議会(皇帝・ハプスブルク家)が代わってそれを十分に支えるたけの法(教義・裁判力)の指導力があったことが、示されたのである。
 
もっとも、何度も攻めあがってくるオスマン帝国側は、戦いが長引いて冬期に持ち越されると、不慣れな防寒対策の不備も目立ち、キリスト教側はそれに度々救われたともいわれている。
 
スレイマン1世(オスマン帝国のスルタン=代表)はウィーン(オーストリアの本部)にまで乗り込んだはいいものの、大した戦果も挙げられないまま、攻撃を仕掛けてもキリスト教徒側(帝国議会・裁判権)も簡単には崩壊しない様子を確認すると、カール5世と痛み分けで和解して引き返すことになった。
 
イエズス会のザビエルが初めて日本に訪れた 1549 年は、イエズス会が公認されてからまだ9年目で、ローマ崩壊の年はザビエルがパリで熱心に神学を学んでいた21歳の時だった。
 
このザビエルも当時の激動社会に散々に打ちのめされた苦労人のひとりで、強国化を進めていたカスティリャと対立したことでナバラ(スペイン北部)の領地を、幼年期に追われることになった、貴族出身者のバスク人(スペイン北部出身者)である。
 
皇帝カール5世がカスティリャ王に就任する少し前の話で、ザビエルはスペインから領地を奪われてパリに逃れた口であったため、当初はスペイン王室を恨んでいたが、その逆境と当時のキリスト教社会の危機が、ザビエルを神学に向き合わせるきっかけになった。
 
何をどう信用していいのか解らなくなっていた当時の教義危機から、もはや個人的な恨みを気にしている場合ではないと割り切り、ひとりでも多くの人を助けたいと考えるようになったザビエルは熱心に神学に励み、24歳の時にパリで教授資格を得た。
 
その後も熱心に神学の指導側・研究者側として励み、ついにはイエズス会設立時の重要人物のひとりとして、会の代表的な神学者のひとりとなった人物である。
 
イエズス会は、西方教会(カトリック)の本部である教皇庁への絶対服従主義を採っているが、それは統制のための表向きの態度に過ぎず、彼らのその表向きばかりを鵜呑みにしてはいけない。
 
イエズス会の真意は、教義の全責任をただ枢機卿団に丸投げするのではなく、イエズス会の力によって外堀から教義力を高めていき、それを教皇庁に逆流させてやろうとするくらいの、「我々こそが教義の最大の手本になるべく義務を背負う」くらいの気迫をもった新組織である。
 
つまりイエズス会は、表向き教皇庁に絶対的な忠誠を誓っているように見えて、内心ではだらしない司教領や枢機卿団を警鐘し続けるために教義に向き合うその公正委員会だったともいえ、この外堀のイエズス会こそが、教皇庁(西方教会・カトリック)が立ち直るまでの実質の教義の中心だったといえるほどの、気鋭組織だったのである。
 
正統派(反プロテスタント)を掲げるだけあって、内実はプロテスタントと同じようにキリスト教のゆく末を心底から案じ、自主的に教義に真面目に向き合える者でないと、とてもついていけないような集団だった。
 
そのためイエズス会の教義力は、実質は教皇庁を大きく上回ってしまう場合も多くなり、逆にイエズス会がないと何もできない部分もどうしても表に現れてしまうことも多かったため、かえって教皇庁も手を焼くほどだった。
 
彼らは、教皇庁がだらしなく、あてにならないと思う時ほど、あてつけの怒りのように西方教会(カトリック・公的教義)絶対主義の態度をあからさまに善用し、枢機卿団に「我々もこれだけ努力しているのだから、アナタたちも少しは努力して頂きたい!」と遠まわしに強気の警告で訴え続けた。
 
当時日本に訪れたイエズス会とは、そういう者たちだったのである。
 
これまでの日本は中途半端にしか教義競争をしてこなかったために、彼らほど教義に熱心な者も少なく、その自主的な努力が見られたのも浄土真宗くらいだった。
 
だから当時の日本人たちは、内心では宣教師たちを敬遠はしていても、その向き合い方のあまりの違いに、偽善閉鎖有徳のように当時のいい加減な部分ばかり目立つ日本の仏教社会との差も歴然と出てきたために、皆がそこに大いに感心を寄せるようになったのも、当然の話だったといえる。
 
キリスト教に帰依はしない代わりに「日本の教義は遅れている!」と危惧して、そのあり方に真剣に向き合う者も増えていくことになったため、いずれにしても宣教師たちとの出会いは日本には良い刺激となった。
 
日本では法華宗がちょうど、天台(公的教義)の外堀を固めるという、このイエズス会のような立場だったといえ、教義のことで一番尖っていてうるさかったのもこの法華宗であるが、戦国中期には教義低下も著しく、天台ともケンカばかりしてとてもその役割が果たせられていなかった。
 
海を往来するようになった当時のキリスト教徒は、支配のためならなんでもやるかのような印象がついてしまっているが、それはコルテス、ピサロ、アルマグロ、バルボア、ソリス、マゼラン、エルカノなどの印象が強烈すぎるせいだと思われる。
 
彼らは新天地獲得の野心に加え、劣悪な生活環境から狂暴化していき、従わない現地人を差別して仲間割れさせたり虐待したりして、さらに彼ら自身も疑い合って派閥分裂を起こして殺し合うことなどもしたため、これらはかなりの悪印象の征服王的存在(コンキスタドール)として今に伝わっている。
 
ただしイエズス会の宣教師たちは、それらとはだいぶ態度が違い、むしろ出向先では西洋社会以上に人間性が大事にされた傾向すら強い。
 
イエズス会はとにかくキリスト教の良さを解ってもらおうと奉仕活動に熱心で、現地で飢餓や疫病に苦しむ人々が多ければ、権力者にすぐに病院を作るべきと進言し、食料を取り寄せて炊き出しをしたり、貴重な薬を取り寄せたりして、身分に関係なく治療したりした。
 
この風潮は、ヨーロッパの方で資本家たちによる、貧民の生活と教義の救済のための慈善福祉事業が熱心に取り組まれるようになったことの影響も関係しているが、イエズス会の外でのそういう所が目立ちすぎると「内をよそに外の救済ばかりしている」と非難されることもあった。
 
キリスト教徒の布教が進んでいくと、どうしてもそれが政治にも影響してくるようになってしまうため、結局それによる争いも多くなるが、これは人々がどのような道を求めているのかという、避けて通れない話だといえる。
 
イエズス会が積極的に海外に出るようになったきっかけは、イスラム教徒の脅威によるものだった。
 
オスマン帝国はスレイマン1世の時代は特に、イスラム教国家の国際文明化がめざましく「このままでいたら、その内に世界中がイスラム教徒だらけになり、イスラム教が世界の宗教の中心になってしまうのではないか」と心配されるほどの隆盛を見せていた。
 
それが心配されていた一方で、大西洋側からのアジア方面の航路や、新大陸(アメリカ)の航路が開発されて、イスラム教徒も未踏の地が次々と発見されたため「彼らに先を越される前に急いで布教しなければ」という機運も高まっていた。
 
その矢先にイエズス会が設立され、彼らがその使命感も請け負うことになって早々に世界に旅立つようになってから、日本に訪れたのもすぐのことだったのである。
 
次は、織田信長が当時のキリスト教徒たちをどのように見ていたのかや、国内の教義問題にどのように向き合っていたのかなどについて、触れていく。