近世日本の身分制社会(023/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史14/34 - 2020/01/18 
 
オーストリアの王族・ドイツ皇帝マクシミリアン1世の政略結婚の努力が実り、前代未聞の巨大継承権をもつ孫のカール5世が 1519 年に皇帝に就任すると、これまでの時代遅れの教義と権力均衡(パワーオブバランス)も、いよいよその大刷新の時代に突入した。
 
これはオーストリア貴族(ハプスブルク家)が急に、スペイン(のちポルトガルの王権も)とネーデルラント(オランダ・ベルギー)とオーストリア、ボヘミア、イタリアのナポリ・シチリアの王権(アラゴンの王権)の丸ごとを獲得し、現代のおよそ8ヶ国分ほどの総裁になって徴税権を獲得した規模である。
 
その壮大さを近代で例えると、戦争もせずに外交だけで日本がいきなり大東亜共栄圏分ほど(長春=満州・朝鮮半島・台湾・フィリピンインドネシア方面)の国土分の徴税権を獲得したような状況である。
 
もはやカール5世ほどの強力な継承権をもつような、ヨーロッパの代表的な力をもった皇帝(王族の代表)がいなければ、教義崩壊も著しかった近世社会を帝国議会で支えることも限界まで来ていて、カール5世は全ての大貴族たちにひがまれつつも、その役割を果たしてもらう者として、望まれて生まれてきたような運命的な人物だったといえる。
 
中世までのように、同じような王権の力量しかもたない横並び貴族の中で皇帝を選出し、互いに力をもたせないように悠長な蹴落としあいばかりしていては、オスマン帝国(イスラム教徒)に踏み潰されるのも時間の問題という、深刻な危機感が強まるようになっていたためである。
 
さらに、貧困格差と教会財産の扱いも含めた教義問題で騒ぎ出していた、地域聖属(地方の聖職者ら)と下層たちからの抗議運動(プロテスト)もろくに抑えきれなくなれば、何の議会権威(国際政治力)も維持できなくなる点についても、貴族間・高位聖職者間でいよいよ危惧されるようになっていた。
 
イタリアの4強国家(ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国)および、ナポリ・シチリアの支持権・支配権の根拠が、皇威の根拠であるという国際性が見直されると、イタリアの覇権を巡ってハプスブルク家(ドイツ・オーストリア)とヴァロワ家(フランス)によるイタリア争奪戦が激化する。
 
皇帝マクシミリアン1世の時代の15世紀末には既に始まっていた二大強国の覇権争いがまずはイタリアに向けられると、イタリア内どころか教皇領内(今のエミリアロマーニャ州)ですらその覇権争いの派閥分裂を抑えられず、教義力も主体性も失っていたローマの教皇庁(西方教会カトリックの総本部)は、ヨーロッパ中の聖職者たちからも大いに失望されるようになっていた。
 
中世末期から近世への移行期だった15世紀末は、もはや教皇庁が「破門という威嚇の剣」「刃向かってこないようにする戴冠式という盾」をチラつかせてヨーロッパ中の王族や諸都市を従わせるというだけの時代遅れの古臭い権威は、いい加減に通用しなくなってきており、いよいよ教義力が求められてきた時代である。
 
かつてはイタリア貴族が有していた皇帝権は、中世に国力をつけたドイツの王族に移行するようになって以来、世俗権威ではローマ帝国皇帝(ドイツ)のいいなりにさせられることに反抗し続けてきたフランスでも、ルネサンス期を経て法の見直しが行われると強国化が進み、覇権争いも激化するようになった。
 
先にフランス国内で独自に議会制度を確立させ、特に軍制面で強国化を進めたフランスが、先手を打ってイタリアに大軍で乗り込んでその諸都市を屈服させていくと、一時的ではあるが、イタリア全土が強国フランスの言いなり国家に成り下がるようになった。
 
これによって、教皇庁の教義の内堀組織である枢機卿団までもがよその権威(フランスの権威)に振り回させる深刻な事態にまで、その教義力・主体性はいよいよ低下し、ヨーロッパ中の人々を失望させることになった。(教皇アレクサンデル6世、ボルジア家チェーザレ、マキアヴェリの時代)
 
フランスは、意図的にイタリア内の団結を乱すための政策ばかり行い、イタリア中の国力・主体力を削減してフランスの力関係のいいなり国家に屈服させ、その支配力を根拠にドイツ・オーストリアの皇位を低下させようとした。
 
これは一見、フランスの野心的な軍事行動が問題に見えるかも知れないが、これを何ら抑えきることができなかった、経済観念・王権・議会制のあり方が激変していた当時に何ら対応できなかった公的教義(イタリア・教皇庁)の国際教義力・主体性の無さが、結局は大問題だったのである。
 
教皇領内にまで、フランスと結託して力をつけ台頭するようになった野心家貴族ボルジア家まで出現するようになり、何の主体性もない教皇庁のその実態はいよいよ深刻化した。
 
アレクサンデル6世が死去し、教皇ユリウス2世が就任すると、この教皇はついに堪忍袋の緒が切れたかのように、イタリア中のフランス派の排撃に乗り出した。
 
ユリウス2世は、イタリアの危機を説いてイタリア貴族から多額を出資させ、明確な武装兵力の教皇軍を一時的に創設したが、これにはナポリの王権をもちフランスを危惧していたアラゴン王(スペイン東部の強力な王族)によるナポリ軍の加勢もあったと思われる。
 
そしてまずは教皇領内でフランスと結託して増長し続ける、その広告塔になっていた野心家ボルジア家の排撃に乗り出し、フランスの介入を招く時間も与えずに早急にその追い出しに成功すると、今までそれらと結託して教皇領北部を同じく占領し続けていたヴェネツィア軍の撃退にも成功する。
 
なおも教皇軍と対立し続けたヴェネツィア共和国(イタリア・ベネト州)に対し、ユリウス2世はオーストリア(ハプスブルク家)に協力を要請し、北のオーストリアから皇帝軍が、南から教皇軍で挟撃を受けることになったヴェネツィア軍は、皇帝軍の防衛には成功するも、南から迫る教皇軍に撃破されて抵抗力を失い、降参した。
 
教皇ユリウス2世はヴェネツィアに、フランスとの手切れと教皇庁への協力を条件に和解にもっていくと、次は親フランス派と反フランス派で真っ二つに分かれて混迷していた当時のフィレンツェ共和国(イタリア・トスカーナ州)にも、フランスとの手切れを迫った。
 
これはフィレンツェにとっても国土回復の好機であったものの、フランス介入が最も深刻だったフィレンツェでは、トスカーナの親フランス派と反フランス派の調整が全くできていなかったために、団結して教皇軍に荷担することができず、結局フランスの援軍に頼った中途半端な反抗をすることになった。
 
この時は教皇に味方したアラゴン・ナポリ連合(アラゴン王フェルナンド)が主体となり、フィレンツェに介入し続けたフランス軍に勝利してトスカーナのフランス派排撃に成功すると、単独では大して団結できていなかったフィレンツェも降参することになった。(ソデリーニ政権を大いに支えていたマキアヴェリも、この時に失脚)
 
かつてフランス対策での失策続きで庶民に甚大な負担をかけ続けたために暴動が起き、追放されていたトスカーナの最有力者メディチ家は、この時のユリウス2世の主導とアラゴン・ナポリ連合軍の後押しによってフィレンツェ政権に返り咲くことになり、フィレンツェのメディチ支配が復活する。
 
フィレンツェはソデリーニ政権時代は富裕層権力の結束が弱まったために、民権化政策が強まった点では民間は喜んだが、結果的に国家の主体性を十分に維持できなかった弱点も深刻に受け止められていた。
 
メディチ家による富裕権力支配に逆戻りすることになっても、フランスの脅威に常に左右されていたソデリーニ時代の反省から、力をもった代表の主体性も見直され、何よりもフランスの圧政と脅威からやっと解放されたことに、民間は喜んだ。
 
まもなくしてユリウス2世が亡くなると、この時の当主のジョヴァンニ・デ・メディチが、初のメディチ教皇として、次代教皇レオ10世として就任するが「メディチ家--枢機卿団--アラゴン--オーストリア」といった、これら王族との利害の取引があっても、何ら不思議ではない。
 
このレオ10世は、金の力でまずはイタリア人主体の枢機卿団の結束を取り戻し、ユリウス2世に続いてイタリアと外国との外交力を対等に戻した点では、多大な功績があったといえる。
 
ただしこのメディチ教皇は、富裕金満国家トスカーナ人特有の金権政治のやり方もとにかく目立ったため、国政的には評価されたが、肝心の教義の建て直しには何ら無策であった点は、かなりの非難を受けた。
 
レオ10世は一応は、若年期から聖職者の道を歩んできたものの、父から「ジョヴァンニは政治や先見力の知能には非常に優れた才覚があるが、食生活がだらしなく贅沢主義すぎる所が残念ながら、聖職者に向いていない」と評されていて、メディチ家の都合で聖職者で居続けていただけで、まさにその通りの人物だった。
 
ほとんどトスカーナの財界人たちの社交性だけで枢機卿の肩書きを維持したに等しいが、枢機卿はそういう教義力などない者が実際は多かった。
 
あからさまでいい加減な免罪符販売の加熱問題が、ドイツだけでなくイタリア国内でも深刻化し「教義をただの売り物にして、教会財産を横領しているだけだ!」と最も非難されるようになったのも、このレオ10世の時である。
 
「今の教皇庁(公的教義)は、教皇領のただの領邦君主」とヨーロッパ中から陰口を叩かれるようになるが、その意味は「今の教皇は聖属(教義)の代表などではない、教皇領特権を獲得しただけのただの世俗王」という失望を込めた皮肉である。
 
ユリウス2世もその派手な軍事行動はいくらか非難されたが、これは当時のイタリア全土の危機に関わる非常事態のやむを得ない措置だったといえ、またフランスを憎んで戦ったのではなくイタリアの主体性を回復し、フランスとの対等な立場に戻すための、仕切り直しの外交的な戦いが中心だったことから理解もされた。
 
教義崩壊もいよいよ深刻化し、各地の抗議運動(プロテスト)も荒れ始めていたため、その代表格であったルターを弾圧して異端審問にかけるべく教皇使節カエタヌスと、神学教授ヨハン・エックを差し向けて、宗教裁判でルターを責め立てたがいずれも裁くことができず、ヨーロッパ中が教義問題で大揺れしたのもこのレオ10世の頃である。
 
当時の教皇庁はイタリアを統制することだけで精一杯で、ヨーロッパ中から強く求められるようになっていた教会改革(教義改革)については、何ら打開策を見出せていなかった。
 
そんな時代こそ、ヨーロッパ中の人々が公的教義(司教や教皇)に失望しつつも「きっと立て直してくれる」と信じる気持ちも強くなり、皆がイライラした。
 
一方でついに公的教義(教皇庁・司教)を何ひとつ信用できなくなってしまったドイツの神学者ルターのように、教義問題のことで公的教義(司教や教皇ら)を堂々と抗議・糾弾(プロテスト)し始め、それに共鳴する者が増え始めていた。
 
プロテスタント運動が隆盛を見せる一方、その運動には反感的だった者たちもまた現れるものである。
 
「公的教義(教皇庁)に不満があっても、そこから脱却しようとするのではなく、我々の最後の希望である西方教会(カトリック)を一緒に支えて守り立てるのが、キリスト教徒の務めだ」と考える反プロテスタント主義も芽生えるようになったのが、イエズス会のきっかけである。
 
教義面では良い所が何ら見られなかったレオ10世の時代には、人々のわずかな期待も失望に変わり、迷走し続けた当時の宗教論争(教義問題)の事態を深刻に考え、それを外から支えなければならないと考えるようになった有志たちの初動が、イエズス会結成の基点となった。
 
この頃はまだイエズス会は形成されていないが、教皇庁(公的教義)のだらしない実態をついに見ていられなくなった各地の有志たちが「各地の有志たちが正統派運動(反プロテスタント運動)で外から支援しなければ、最後の砦である教皇庁(西方教会・カトリック)は、本当に消滅してしまうかも知れない」危機感を強めも結束が見られるようになった。
 
レオ10世が亡くなると、いよいよ教皇庁(公的教義)に一大異変が起きるが、ここで前代未聞のネーデルラント人教皇ハドリアヌス6世が、ついに登場する。
 
少なくともレオ10世とハドリアヌス6世のこの2人に限っては、教皇選挙(コンクラーヴェ)は完全に体裁だけで、イタリア人主体による選出などではなく、外的要因で自動的に選出された教皇と見ていい。
 
それでもレオ10世は、教皇庁のお膝元政権ともいえるイタリアの最重要文化国家であったフィレンツェの建て直しの都合もあり、さらにメディチ家の家格にしても、分類上は貴族ではないがほぼ貴族扱いされていたイタリア人であったため、俗物的でもまだ説得力があった。
 
しかしハドリアヌス6世に至っては、イタリア人でもなければ貴族でも資本家でもない、当時の枢機卿団から見れば「地域聖属(地方)あがりの神学者の分際が、公的聖属(司教権威・教皇庁権威)の壁・階段を飛び越えて突然に教皇(ローマの代表)になってしまった」ために、それだけでもヨーロッパ中が驚愕した。
 
このアードリアン・フローレンツ・ディダル(ハドリアヌス6世)は、ネーデルラントのルヴェン大学(ブラバント州・今のベルギー)の神学教授・大学院長の出身で、公的聖属の権威に一切頼らない地域聖属(地方一般教義)からのたたき上げの神学の実力者であったため、人間性はかなり優れた人物である。
 
カール5世の教育係に抜擢され、そのカスティリャ王就任後にはカール5世の側近としてスペイン王室(カスティリャ政権)の執政として国際裁判長を務めた人物で、地方の中級家庭出身風情が、ヨーロッパ最大の王族ハプスブルク家(強国スペイン)からこれだけの重務を信任されることは、非常に優れた神学者だったことが窺える。
 
アードリアン(ハドリアヌス6世)はカール5世の時代に抜擢された人物というよりも、祖父の前皇帝マクシミリアン1世、祖母のブルゴーニュ公マリア、祖父のアラゴン王フェルナンド、祖母のカステリャ女王イサベルの、いずれかに見出されたための抜擢だったと思われる。
 
マクシミリアン1世は人を見る目がかなりあった人物で、ヨーロッパ最大の銀行家に急成長して国際金融を大いに支えることになった、希有の経理力を発揮したアウクスブルクの資本家ヤーコプ・フッガーの能力を見出して抜擢した他、著名な文芸家・芸術家たちの後押しも積極的にしている。
 
ほとんどスペイン・ナポリ連合(強力なアラゴン王の軍事力)の後押しでフランス軍と政敵ソデリーニを追い出し、フィレンツェ政権を奪還してもらったジョヴァンニ・デ・メディチは、それだけでなく次代教皇の就任まで後押しされることになった。
 
その多大なその見返りの条件として、アードリアン(ハドリアヌス6世)を次の教皇として指名する約束が、その時に既にされていたと思われる。
 
つまりハドリアヌス6世擁立劇は、カール5世の代になってからのハプスブルク王室(スペイン・オーストリア貴族)の意図というよりも、先代の祖父たちの布石による実現の線が濃厚である。
 
この意図は、孫のカール5世の代になった時に、有利になる教皇を選出しておく狙いも多少はあったと思うが、それよりも当時の教皇庁のあまりの教義力のない深刻な問題に、誰かに改革にあたらせなければならないという、その使命感の方が強かったと思われる。
 
当時としてはかなり手荒い人事だったと思うが、これは現代風にいえば、恨まれ役を負わせるために外国人社長をあえて抜擢するという大手企業がよく使う手口のような、組織改革という大仕事の際の、内部分裂を防ぐための保険的な人事だったといえる。
 
レオ10世が、イタリア人の統制問題の建て直しにあたった他には、ヨーロッパ中からあれだけ求められていた教義問題の対応については開き直りの対応ばかり行われたその行動原理も、次のハドリアヌス6世にその役割を全任する大前提だったという見方もできる。
 
カール5世のカスティリャ王就任は、スペイン(カスティリャ・アラゴン)の有力者たちから見れば、継承権があるというだけで、よその巨大王族がネーデルラントとオーストリアの側近連合を連れて突然やってくることの非同胞拒絶運動が何度も起きたため、カール5世もそれにかなり手を焼いていた。
 
その時にハドリアヌス6世に便宜してもらった(教皇庁からスペインに、カール5世に早急にカスティリャの広大な教会領(王族領)を継承させるための勅書を送って、有力者らを説き伏せた)他には、ハドリアヌス6世はハプスブルク家には大した便宜は図っていない。
 
ハプスブルク家に便宜したのは、レオ10世の時の方が多い。
 
レオ10世は「なんでも皇帝側のいいなりになる気はない」姿勢は見せ、皇帝側とフランス側との双方に中立な態度こそ採ったが、カール5世の各地の多大な公領の継承権の便宜(戴冠式や勅書)を、レオ10世の方が多く手配している。(ただしこれ自体は、教皇庁としての基本的な務めである)
 
ハドリアヌス6世は教皇に就任すると早々に、宗教問題が深刻化して大論争の真っ只中だった当時のドイツに向けて「教会改革を約束する」「今までの教皇も自分も、所詮は人間だから間違えもすることもある」と発言したため、ドイツ中が良い意味で騒然となった。
 
まずそのように内に反省を込めた公的発言をした教皇など今まで皆無で、さらに伺いを立てた返信ではなく、教皇の方から自主的にそのような発言がされたことも異例のことで、あったとしても権威的な威嚇とは全く違ったため、この本物の聖職者の出現にヨーロッパ中が驚いた。
 
地域聖属からの叩き上げで、人文主義(自力信仰・現世主義)の傾向がかなり強かったと思われるハドリアヌス6世は、当時の公的聖属(公的教義・他力信仰・厭世支配主義一辺倒)の枢機卿団を完全無視するように、独断で教会改革を急速にやり始めたために、枢機卿たちもあせった。
 
教義問題のことで永らく失望させられ続け、特に悲しみと怒りが充満していたドイツでは、武装一揆(宗教戦争)も起きかねない不穏な状況になっていたが、このハドリアヌス6世の登場によって、公的教義機関(教皇庁・司教権威)への怒りの矛先もだいぶ鈍るようになった。
 
しかしハドリアヌス6世は枢機卿団と険悪に対立することになり、表向きは病死扱いされているが暗殺を疑う余地も十分あり、その体制はたったの1年弱で終わってしまった。
 
その決定的な原因は、教義力の低下に多大な悪影響を与えて常習化していた、当時の行き過ぎた高額すぎる献納(セルヴィーティウム)を巡る問題だったと思われる。
 
枢機卿たちの大抵は、うわべだけの品性だけで、どうにか枢機卿の特権を借金漬けで手に入れ、その特権で借金分を取り戻して利益を得ようとするばかりの、教義問題に無神経な連中で蔓延していた有様だった。
 
そこまで金がない分際の上、実力(品格)もろくに身につけずにうわべだけの格好と言葉使いだけで大人ぶるばかりの、口ほどにもない無能揃いの、現代と同じ「人々に手本を示そうと教義に熱心な気骨のある神学者出身」など、皆無だったのが実態だったのである。
 
その点でレオ10世は、金だけはあり、国王同然の地位の出身者だった点では、一方でそこまでの金も権威もなく背伸びばかりして無理をして、家格欲しさばかりに枢機卿の肩書きを手に入れた連中の群がりと比べれば、その点だけもレオ10世は遥かにマシだったといえる。
 
教義力が皆無な者でも、金銭欲や支配権威欲や名誉欲など最初から完全に満たされているか、そんなものはもはや卒業できていてそれに左右されない者が、せめて教皇(代表)になるのが、あるべき姿なのである。
 
イタリア貴族のボルジア家がいったんはローマの新基準統制に目されるほどの軍事的な台頭を見せたが、どれだけ成功結果を収めても、それ以上のそこまでの家格を高められず長続きせず、ただの下品な野心家と見なされて追い出される結果になったのも、そういう所なのである。
 
そしてそれは、教義の内堀を固めなければならない責任(義務)があった枢機卿団(公的特権者ら)も、本来はそこで全く同じことがいえる話なのである。
 
教義面での内堀を固めなければならないはずの当時の枢機卿団は、ただ権威で固めるだけで、そこがあまりにもだらしなさすぎた。
 
そこがあまりにも頼りなさ過ぎたからこそ、のちに教皇庁の教義面の外堀を固める気鋭の新組織として、その危機感が自発的にもたれて誕生することになったのが、イエズス会である。
 
筆者が現代の公的教義に対してここでも恫喝しておくこととして、教義力がどうであれ、金銭欲や支配権威欲や名誉欲やただの家長主義などとは、とうに卒業できていると宣告できる者こそに、教義的に人を善悪評価する特権を与えるべきと考える。
 
自身のその器量でモノをいえない分際で勧善懲悪の憎悪を発揮するだけの無能はもはや許すべきではなく、国賊として摘発するべく検閲巡回する制度を導入するべきだと思うが、情けないことに、その内にAIにそれを監視される社会になっていくと考えておいた方がよい。
 
教義になんら熱意気骨も見せない公的教義(枢機卿団)のその実情にハドリアヌス6世は、教義改革とは何ら無関係の、公的聖属の中で蔓延していた売官制に等しかった、献納(セルヴィーティウム)斡旋制度を規制し、教皇庁の国際裁判力が低下しても、その規制を緩めようとしなかった。
 
ハドリアヌス6世はそうなることが解っても教会改革を最優先し、教義と関係ないただの収奪拝金従属権威制度に等しい従来の悪習を止めさせるべく、その規制を緩めなかった。
 
それによって肩書きの権威と利益欲しさだけで公的教義(教皇庁と司教領)に群がっていただけのヨーロッパ中の多くの高位聖職者たちは財源を失って逼迫し、その苦情(泣き付き)が、ついにスペイン王室(ハプスブルク家)に殺到したと思われる。
 
ハドリアヌス6世は、教義問題で当時の多くの人々を失望させ続けた悲しみや怒りをろくに受け止めようともせず、何ら教義に向き合おうともしない当時の公的聖属(権威神学世界)を、地域聖属(地方・一般教義神学者)の理屈でついにその踏み潰しにかかったといって良い。
 
その姿はもはや、公的教義の古臭い時代遅れの不正を摘発しにやってきた、何の収賄も通用しない特殊監査官だったとすらいえる。
 
同時に、イタリアの貴族層・高位聖職者層も、こうした異変を実際に体験してみてようやく、それがどういうことなのか少しは目が覚めたからこその、次代教皇クレメンス7世だった。
 
実態を散々あきれられて、何ら融和的な姿勢も見せない決断をされてしまったネーデルラントの地方神学出身者のよそ者に、実際に教会改革(公的教義の改革)をされてしまい、それが手本となってしまうようでは、教皇庁の教義力は回復しても、イタリア人の手によってではない以上は恥でしかない。
 
ハドリアヌス6世の死後、その事績の跡形を一切残さぬよう、教会改革の書類は早急に焼却され、権威失墜にならない程度に、公的記録でもメディチ家の記録でも不自然すぎるほどのとぼけた曲解の酷評ばかりされているが、いずれにしてもハドリアヌス6世の登場は、教皇庁への「にがい良薬」になったといえる。
 
2人目のメディチ教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ。フィレンツェの大司教出身)がすんなり選出されている所を見ると、枢機卿団は依然としてレオ10世時代のトスカーナ派で団結できていたと思われる。
 
つまりハドリアヌス6世は、やろうと思えばスペイン王室の権威を借りて、枢機卿団のテコ入れも総替えもいくらでもできたはずだが、全くそれをやっていなかったことが窺える。
 
もしそれをすれば、間違えればまた教会大分裂を招く恐れもあったが、何よりも権威ではなく教義にこだわった、自身の保身を省みない生真面目なハドリアヌス6世らしい、手本を見せようとした本物の聖職者らしい英断だったといえる。
 
この一件が禍根となった以後の枢機卿団(教皇庁)は、教皇がクレメンス7世になった途端に、イタリア内でのあからさまな親皇帝派狩りの報復人事(特にスペインに対するあてつけ)が行われ、親フランス路線を「懲りもせずに」採りだしたため、スペイン王室と一気に険悪な関係となった。
 
これにフランスは外交的(表向き)には喜んだだろうが、そのフランスですら内心は、ヨーロッパの教義の手本になるべき教皇庁が、教義力の欠落に何の反省もなくただ外的影響に振り回されていただけのその幼稚な態度に、相当あきれていたと思われる。
 
皇帝カール5世(王室)と教皇クレメンス7世(枢機卿団)の対立が一向に和解に向かわなかったことで、1527 年の有名なローマ劫略(都市ローマの丸ごとの徹底破壊)という歴史的な大事件の引き金となる。
 
この決定的な事件によって各地の正統派(西方教会保守派・反抗議派)がいよいよ慌て始め、イエズス会の下地が急がれて 1534 年に会設立が宣言される(教皇庁の公認が 1540 年)が、その基本形態(会の名目)は 1532 年頃には既に形成されていたと思われる。
 
16世紀初頭=近世初頭のドイツ・フランス・スペインらは、そもそもどのような国際感覚で当時のイタリア(教皇庁)を見ていたのかについてまとめる。