近世日本の身分制社会(022/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史13/34 - 2020/01/18
 

戦国後期の宗教問題は、キリスト教徒の渡来も重なってくるため、説明も少し回り道になるが、当時のヨーロッパの情勢もまとめておくことにした。
 
イエズス会の宣教師ザビエルたちが、ヨーロッパから日本に 1549 年に到達し、これが日本人と西洋人との初の国際的な接触となった。
 
日本は中国を介して、西洋人の認識自体はできていたが、戦国後期に宣教師たちが渡来するまで、両者は具体的な交流関係がなかったため、実際に西洋人を見たことがある人などほとんどいなかった。
 
15世紀末の大航海時代の先駆けのポルトガル人が、16世紀初頭にはモルッカ貿易(アジア貿易)の航路を既に開拓していて、現地での布教活動も進んでいた。
 
モルッカ貿易とはインドネシア東部のマルク諸島(モルッカ)を拠点に、今のマレーシア、フィリピン、ニューギニアなど近隣の島々の間で行われていた交易である。
 
そこでは香辛料だけでなく、薬種、染料の原料の栽培・取引も行われ、またニクズクの花などヨーロッパにはない珍しい人気の植物も取引対象にされていた。
 
15世紀にはポルトガル人によってマデイラ諸島(アフリカ西側の島)やアソーレス諸島(アゾレス諸島・さらに西側)などで砂糖、ぶどう酒、乾燥果物が栽培・製造されていたが、マルク諸島でも砂糖も栽培・取引されていたかも知れない。
 
日本を訪れる1年前の 1548 年にはザビエルは、モルッカ諸島に既に滞在していて、ここで布教活動を行っていた。
 
はるばるアジア方面に貿易にやってきたポルトガル人たちは、東の文明宗主国ともいえる当時の中国から、力関係の規制ばかり受けていた。
 
ポルトガル人がモルッカ(マルク諸島)に貿易に訪れるようになった時には、既に中国にアジア貿易の大部分の権益を掌握されてしまっていて、力関係で対等に取引できないでいた。
 
モルッカでキリスト教の布教になお力を入れなければならなかった理由も、そこにあった。
 
ポルトガル人たちは、中国と良い条件を交渉するために、献納品を朝貢しようとしたが、力差がありすぎて相手にもされなかった。
 
そのため、まず日本に朝貢して国交を得て、日本から中国とポルトガルの外交関係を斡旋・仲介してもらおうという案が浮上し、この話がポルトガル人のインド総督(領事館長・ポルトガル人のアジア貿易本部)に持ち込まれると期待が盛り上がった。
 
その案のきっかけは、鹿児島出身の日本人アンジローという者とポルトガル人との偶然の出会いによって、助長されたようである。
 
このアンジローは殺人をやらかして地元にいられなくなって逃亡した折、偶然ポルトガル商人に助けられ、ゴア(インド)に同行することになり、ここでアンジローはキリスト教徒に帰依し、翻訳につとめた、といわれる。
 
この詳細がよく解らないが、船で逃亡したら流されて遭難してしまった所を、日本の南側に偶然来ていたポルトガル船団に奇跡的に救助された、ということかも知れない。
 
当時のポルトガル人は「中国と日本は古来から仏教を介した、兄と弟との関係のような親交国のはずであるため、まだ見ぬ日本との交流を強化すれば、中国との有利な外交関係のきっかけになるのではないか」と予想した。
 
確かに中国と日本は古来からの間柄ではあるが、外交貿易上では「兄と弟」の関係どころか、日本は散々の格下扱いをされ続けてきたという事情を知る手段もない中での、盛り上りだった。
 
日本への朝貢の準備が整えられると 1549 年にザビエルたちがアンジローを連れて鹿児島に上陸し、まずは鹿児島の戦国大名である島津氏に謁見したが、この西洋人の渡来は日本中で話題になった。
 
島津氏に許可を得て、ここで10ヶ月ほど日本語と文化について学んだが、キリスト教に帰依した庶民が100人ほど集まったといわれる。
 
この時に鹿児島南部の種子島という地で鉄砲が伝わったことから、火縄銃の別名を種子島と呼ばれる由来になった。(島津氏の家臣・種子島時尭・ときたか が当時、鉄砲を管理・担当した)
 
宣教師たちは次に、周防(すおう・山口県)の大内氏のもとに向かった。
 
当時の大内氏は、およそ6ヶ国の支配権をもつ西国の最有力者で、強国化から文化都市政策に切り替えていたことで都市化も大いに進んでいた。
 
国際文明化を目指していた当主の大内義隆は、宣教師たちを大歓迎し、領内での布教活動も認めた。
 
宣教師たちは国王(皇室・朝廷)に謁見する準備をして、しばらくして京に向かうが、彼らが向かった 1551 年頃は、京は激戦後で最も荒れ果てていた頃だった。
 
皇室やその側近の貴族たち(公家たち)の居住区も建物は全てボロボロで、明らかに何の実権もない、当時の京の荒廃を目撃してしまった宣教師たちは「話は聞いていたが、ここまで酷いとは思わなかった」とガッカリして、周防に引き返した。
 
のちに京の都市経済が大再生され、朝廷らしい姿をとりもどすようになるのは、信長が京に乗り込んで以降の 1570 年頃からで、貧窮が頂点に達し最も苦しんでいたこの時期は、謁見が全く噛み合わなかった頃だったといえる。
 
もはや朝廷の力で中国との外交関係を築くことも、その認可で日本全国の布教活動を大々的に展開することの望みも途絶えた宣教師たちは、地方の実力者との縁を築いて布教する方針へ転換する。
 
大内氏と宣教師たちの関係は、一時的に悪化することもあったもののその後も友好関係は続き、大内氏の支配地では500人のキリシタン信徒を得るに至った。
 
大内義隆としても、イエズス会から次々と献納される品々に上機嫌で、国際文化交流も進んだ大内氏は、他の戦国大名からも注目されていた。
 
そんな中、大内氏を支えていた軍部の筆頭ともいうべき重臣の陶晴賢(すえはるかた)が、主君である大内義隆に反乱を起こす事件が勃発した。
 
これは当主の大内氏の政策が、これまでの武家政権的な支配から、大内義隆の代になってからは教養的な文明都市化政策への切り替えが急進的過ぎたことがまずは原因だった。
 
キリスト教徒たちの影響も強く、教養面の過多な評価を始めたことによる、家臣団への人事差別もかなり目立ってきたことの不満が、反乱の引き金となった。
 
陶晴賢が反乱を起こした当時、宣教師たちが仏教徒たちと揉めるようになっていた影響も重なったと思われる。
 
これによって宣教師たちは周防を逃れ、九州の有馬氏や大友氏などのもとで活動するようになった。
 
宣教師たちは、最初は仏教を敵視していなかった。
 
その理由は、どの宗派でも総括されていた密教の中にある大日(だいにち)という教えが、キリスト教徒でいう全能の神(ゼウス・デウス)に相当すると、当初は解釈されていたためだった。
 
しかし仏教徒とキリスト教徒の両者間で、その解釈の行き違いを起こして揉めるようになり、互いに敵視を始めるようになった。
 
仏教の「仏・ほとけ」の意味は、亡くなった人を指すことが多いが、厳密には仏とは「同朋者」という意味である。
 
これは、善人であれ悪人であれ、それぞれ歩むべき道や、受けた喜びや苦痛が皆違っても、それぞれ一生懸命生きようとし、その生涯に何かを目指して頑張ろうとした、または頑張れなかったことも含め、最終的には同じ人間として尊重し、仲間扱いするための言葉である。
 
仏教ではインド古来の伝説の存在はどんどん取り入れて形成されていったため、キリスト教の絶対的な一神教とは違い、多教的である。
 
日本は奈良飛鳥時代に中国から仏教がもたらされたことで、それまでは「多神」を祭ってきた文化から、神仏合祀論に方針転換されて法が整理されていった歴史があるため、当時のキリスト教徒からすると、かなりややこしかったと思われる。
 
日本では古くから祭られてきた伝説の多神の中には、ありがたい利役的な存在もあるが、多くは助けてもらえる存在ではなく、怒らせたら大変なことになる警告が多く、怒らせないように祭りながら、大事なことを誓うためのものが多い。
 
キリスト教徒は、良いことも悪いことも全ては全能の神が見守ってくださり、良いことは神の計らいとして感謝を忘れてはならず、悪いことは神が罰や試練をお与えになっているため努力しなければならない、といった見方が基本である。
 
日本では、浄土教が特に好例だが、如来(にょらい・伝説上の手本の先輩という意味の仏)による「如来が立てた誓いの意味」が重視される傾向が強い。(宗派・流派によってこだわりが違う)
 
仏教でいう釈迦(しゃか・仏教の開祖シッダールタ)が丁度、キリスト教でいうイエス・キリストのような教父的存在であるが、仏教では多数の如来も教父的存在である。
 
キリスト教徒では、聖書の代理人であるイエス・キリストが全能の神の唯一の仲介者、唯一の聖典の教父としているが、仏教では教父的存在は釈迦だけでなく、如来がそれぞれの経典に複数いる。
 
そのため当時のキリスト教徒側の表向きの言い分は、多神教である(一神教でない)仏教徒を非難しているように聞こえるが、その言葉通りを単純解釈して真に受けるべきではない。
 
彼らの本音の不満は、教理(信仰)の絶対性(一貫性)の追求(研究)があまりにも乏しく見えた、当時の日本人たちのその信念(社会信用性に真剣に向き合おうとする態度)の弱さに、大いに不満だったのである。
 
これは、キリスト教徒たちが自分たちの都合で突然日本にやってきて、仏教徒のことを急に非難し始めたように見えるため「勝手に日本にやってきて、余計なお世話だ図々しい」と思った人々も、当初は当然多かった。
 
しかし次第にキリスト教徒側のその態度の意味を理解する者も増え、表向きキリスト教に帰依しない者が多かっただけで、実際は日本人全体の半数以上が本音ではその言い分に納得し、少なくともその点は大いに同調するようになったのが実態だったのである。
 
当時の日本の時代遅れの公的教義(天台)の教義崩壊の実態の一番痛い所を、キリスト教徒に完全に見透かされてしまい、むしろキリスト教徒(イエズス会)との接触のおかげでようやくそこが少しは自覚されるようになったといえる。
 
先述した有徳問題がまさにそうだが、閉鎖自治のためだけに仏教(社会性)を悪用しているだけの何の社会性(経済理念)もない、ただの時代遅れの閉鎖邪像教と化していった実態は、それを何ら抑えることもできなかった公的教義(天台)の態度と実力不足の実態そのものだったといえるのである。
 
これは当時の公的教義(天台)の、その道義的な責任能力のあまりの無さ(国際対応力の無さ)に帰結していた問題だったともいえる。
 
宣教師たちが日本に上陸した頃は、戦国後期の移行期で、どの地方の支配者も公的権力から脱却するようになって、ようやく意見回収をして支配力(法)を整理してまとまりを見せ、集権化のために有徳を規制し始めた頃である。
 
それは同時に、各地域の有徳どもが寺院を盾に地域実権にいつまでもしがみついて、支配者(戦国大名)の集権化に遠回しに反抗的だった部分も目立っていた頃である。
 
支配者たちから見ても、地方政治(県単位)どころか郡政単位(市や町単位)ですら足並みが揃わずまとまりのない、何の社会性(経済理念)もない偽善教義閉鎖団体の有徳どもにはどこも手を焼いていたため、その規制題材として多くの支配者たちが宣教師たちに好意的になるのも当然だったといえる。
 
西洋のキリスト教徒たちは、例えドイツ皇帝とフランス国王が戦争をしても、人種的境界争いもあくまで国際性を維持する帝国議会の裁判権の前提でなければならないことが自覚され、パリ(フランス)に神学を学びに来ているドイツ人やオーストリア人(ゲルマン系)を追い出したり差別するようなことはしなかった。
 
イタリアの例えばパドヴァ神学校に学びにドイツ人とフランス人がいても、同じ宗門会士同士という認識の方が重視され、国政上では険悪でも、同門の修道士間ではそれを言い争うようなことはしなかった。
 
各地の修道院長も、あくまで地域政治の利害を代弁することでもし皇帝や司教(公的権威)と一時的に対立することはあっても、国際性が欠落している人種境界的な優劣発言などすれば帝国議会で異教徒扱いされ、互いに不利になりかねなかった。
 
フランシスコ会やベネディクト会といった宗派を基点に、さらに司教領(公的聖属)や大修道院(地域聖属)に所属する修道士たちそれぞれに門閥意識はあったが、聖属の中では階級的(貴族品性的)には人事差別はすることはあっても、人種的(地域境界的)な差別はしてはいけなことが守られていた。
 
これについては、広大で陸続きの多人種のヨーロッパの、加熱しがちだった下品で浅ましいただの地域人種差別(ジェノサイド)闘争を止めさせ、最後は同じキリスト教同士という和解の糸口を作り、新たな国際人道政治を維持していかなければならなかった、キリスト教の本領発揮ともいうべき偉大な部分だったといえる。
 
ただしハプスブルク家(オーストリア・スペイン・ネーデルラント統合王族)とヴァロワ家(フランス王族)の国際競争が最も激しかった時に、時代に全くついていけてなかった教皇庁は何の主体性もなくなってしまい、イタリア全土は、皇帝派とフランス派で激しく分裂して差別し合うことも、もちろんあった。(マキアヴェリの時代)
 
イギリスとフランスのかつての100年戦争の激戦もそうだが、それらは時代刷新の節目の一時的な現象に過ぎず、内心では人種的に恨んでいても、同じキリスト教徒を公的に人種差別することは、異教徒扱いされかねなかったため避けられた。
 
宣教師が渡来した当時の日本でそうした国際性がかろうじて維持できていたのは、当時あまりにも不足していた厭世論(他力信仰)を大いに補うことになった浄土教くらいで、浄土真宗・本願寺こそが、日本自力教義(国教)の最後の希望だったとすらいえる。
 
他宗はそこが中途半端で、同じ仏教徒同士でありながら教義上ですら地域差別し合ってばかりで、特に公的教義(天台)のその矯正指導力が皆無だった痛い実態をイエズス会から遠まわしに非難されるのも、当然だったのである。
 
権威が教義を上回ってばかりで、それが放任され続けることがどれだけ危険なことであるのか、それが原因で教義を何度も見失い、公的教義(教皇庁)は何度も崩壊寸前に追い込まれてきたという深刻な体験を、西洋人の方が先にしていた。
 
イエズス会が日本にやってくるまでの西方教会(ローマ教皇庁・カトリック)の、中世から近世にかけての教義競争の国際的な歴史は、まずはアジア方面で中国文化を吸収合併した大モンゴル帝国の出現によって、オーストリアの隣国ハンガリー(スラブ系)にまでその支配権の脅威が及ぶという、深刻な体験をした。
 
次第にモンゴル・中国の貿易圏も弱まってくると、先に深刻な教義危機を覚えたイスラム教徒が改革で力をつけるようになり、今度はイスラム教徒が東方教会(キリスト教・ギリシャ正教)圏を丸ごと支配下に組み込むまでに強国化したため、西方教会(カトリック)も多大な脅威を受けるようになった。
 
ドイツとフランスの二大強国間でヨーロッパの覇権争い(政教整理)が何度も激化し、教皇庁の権威の乱用によって教会大分裂の危機を招いた上、ローマ帝国の中心地がドイツに移行した後も、その王族間での権力均衡(パワーオブバランス)の刷新も間に合わず、皇位が曖昧な大空位時代も続いて深刻となった。(ルドルフ4世の法の整備・金印勅書)
 
宣教師たちが日本にやってきた16世紀のヨーロッパは、優れた皇帝マクシミリアン1世の出現と、強力な皇帝として君臨した孫のカール5世の、この2人による帝国議会でようやく国際政治らしい形に向かうようになった頃である。
 
それまでには地中海ではヴェネツィア海軍がかつては猛威を振るい、ヨーロッパ貿易権を独占し続けていたのが、次第にオスマン帝国海軍(イスラム教徒)に撃退されるようになり、さらにポルトガルの航路開発によって地中海を介さないアジア貿易・新大陸貿易が発達したことで、ヴェネツィアのかつての世界貿易都市としての権威は見る影もない時代になっていた。
 
(リスボンとアントウェルペンの貿易大経済。アントウェルペンの世界証券経済の台頭)
 
ヨーロッパ北部でも、中世まではリューベックやハンブルクといった都市同盟を中心とするハンザ同盟がバルト海側の制海権を独占し続けて王権を上回る猛威を振るっていたが、等族意識(中世からの脱却)が自覚されて王権を強化するようになったスカンディナヴィア諸侯(スウェーデン国王、デンマーク国王ら)から排撃されるようになり、近世では古い経済権力の大転換期となっていた。
 
金融都市アウクスブルクの資本家フッガー家とヴェルザー家を中心とする南ドイツ商人団が、オーストリア貴族(ハプスブルク家)の後押しもあって、従来の閉鎖社会を破壊するように遠隔地間商業の信用構築の先駆けの手本が示され、その金融経済権力が各地の司教(諸侯)と結び付いて国際経済化が始まると、ヨーロッパでの農商業の国際規範も一変し、時代遅れの教義も目まぐるしく変化するようになった。
 
ルネサンス期を経て中世的な古い伝統が次々と用済みになり、経済社会観の激変の一方の隷属格差問題も深刻になってくると、キリスト教社会ではこれまで大いに不足していた人文主義(自力信仰・個人努力を尊重し合う主義)が台頭し、エラスムスとルターが出現して教義刷新を訴えるようになった。(プロテスタント運動)
 
プロテスタント運動によるシュマルカルデン都市同盟戦争などの大規模な一揆が頻発した一方で、今まで放任され気味だった最下層貧民たちの、その生活と教義の支援のための慈善福祉事業の見直しとその運動も、各地の大資本家たちによって熱心に取り組まれるようになった時代でもある。
 
そのように西洋では、陸続きで他教多人種との接触と常に隣り合わせの緊張の中で、深刻な教義崩壊を何度も体験し、その刷新の教義競争が内外で行われてきた歴史がある。
 
一方で当時の日本の公的教義(天台)といえば、外との深刻な教義競争を大してする必要もなかったことをいいことに、永らく国内で閉鎖的に手ぬるいことばかりしてきて、ろくな教義競争力も身に付けてこなかったのが実情である。
 
日本のそのような閉鎖世界で、時代の節目には危機感をもった有望な教義刷新者が国内にせっかく現れても、公的教義は教義競争力を奨励する所か、時代遅れの権威に終始しがみついてただ異端狩りすることしか能がなく、教義力を衰退させることしかしてこなかったのが、実際の所である。
 
こういう所は、現代の公的教義と大差ないといえる。
 
後述するが、宣教師たちの登場で日本の国教のあり方の瀬戸際に立たされていたはずの比叡山・延暦寺(公的教義)の、そのあまりの責任態度の悪さに加え、教義刷新の都合ではなく権威の都合だけで世俗闘争に偉そうに介入しようとしたその劣悪な態度に、信長についにあきれられ、踏み潰されたのも当然だったのである。
 
当時の日本の仏教界(公的教義)が、教義競争の大先輩であるイエズス会(キリスト教徒)から教義の向き合い方のことで説教されるのは当然で、これまで遠国とのまともな文化交流がなかった中で、わざわざそれを警告しに日本に彼らが来てくれただけでも、大いに助かったといえるほどである。
 
これは仏教とキリスト教の優劣の差ではなく、日本人と西洋人の運命的で歴史的な差の話であり、宣教師たちの出会いによる遠国との国際化がついに始まってしまい、ついにその差が大いに露呈してしまったに過ぎない話である。
 
それでも宣教師たちは、教義問題を除けば日本をあなどるような態度は採らず、一方で西洋にはない当時の日本人・日本文化の優れた部分についても多く挙げ、教皇庁に報告している記録も多く残っている。
 
例えば当時、京の都市経済が完全に崩壊した一方では、堺(現在の大阪府の堺市)で華やかな商業の大都市化を見せ、治安と経済規範が自営的に整えられてほとんど国家化していたことから、これを「日本の高度都市ヴェネツィア」と高く評価していたり、当時の日本人の築城技術や水利技術などの土木設計力にも驚きつつ評価している。
 
日本は新技術が中国や西洋から伝わると、その良さが理解された途端に次々に改良が加えられて大量生産や新設が一気にされていく所や、刀1つ芸術1つにしてもその生み出し方や方法論に磨きをかける専門家がどんどん現れるなど、そういう日本古来からの優れた吸収発展気質にも、かなり驚いたようである。
 
このイエズス会は、当時の教皇庁(公的教義・カトリック)の、教義崩壊に歯止めのかからない実態を憂慮した各地の有志たちが、その建て直しを後援するために危機感をもって集まった気鋭集団であるが、その設立に至った経緯も実に大変なものである。
 
イエズス会ができた経緯について今一度、それまでのヨーロッパの様子についてもまとめておきたい。