近世日本の身分制社会(021/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史12/34 - 2019/12/24
 
繰り返すが教義とは従わせる以前に、国民がどんな国家、どんな国民性を求めているか、その育成・指導の態度の結果に過ぎない。
 
自身の正しい立ち位置を自己確認して無駄に憎悪を発揮しているだけの、何の主体性(整理力・説明責任)もないただの偶像崇拝的な正しさの発揮は、いずれ自動審議化(AI化やWIKI化など)され集約淘汰されると考えておいた方がよい。
 
偶像崇拝とは、教義の都合に何の主体性(整理力・説明責任)もない、ただの権威構造の都合のみの正しさ狩り・結果狩りだけして、正しい立ち位置を誇らしげに自己確認し、従わせるために偽善憎悪を発揮することしか能がない、図々しい偽善教義のことである。
 
結局その者がそれを主張する理由も価値もない、被害直接当事者・加害直接当事者でもないその時の話題性で機械的に反応したに過ぎない、無関心・無神経なただの偶像崇拝の発揮は、いずれ集約淘汰されていくのが自然だからである。
 
人道人格否定する以上は、他にも道を踏み外す者がいるかも知れないことを少しでも思いとどまらせるための、健全な叱咤応援や説明責任もできるだけもちあわせた上で、するべきである。
 
何の主体性もなく、自身の正しい立ち位置の自己確認と偽善憎悪を繰り返したものをただかき集めるだけで、それだけで時代に合った職能技術育成指導力社会学的信用考察力が生じるようになるのなら、誰も苦労はない。
 
もちろんこれら主張は、立場的に上の者たちに対する恫喝であり、20代や30代には厳しく向けようとは思っていない。
 
むしろ通用するかどうか解らない、適正性が曖昧な主張や手法を自分で実際にしてみることも、大きく踏み外さない範囲で外野もある程度は許容・応援することも大事だと筆者は考えている。
 
ただし自身が40代や50代になった時に、かつては自身も誤認や失敗したことを棚にあげてただ偉そうに求めるのではなく、できるだけ自身の説明責任や「こういう人間になってはいけない、こういう所に気をつけなければならない」という応援の姿勢をもってあたるべきである。
 
筆者にそれがいえるほどの実力(職能育成指導力)があるのかどうかについては、当ブログのC++項目の「オブジェクト指向の倒し方」を読めば、どの程度の実力なのかは、解る人が見れば、その指導力はざっと窺えるはずである。
 
その記事は、理論性がないことに理論性があるかのように言い張り続けられた従説(偶像崇拝説)への異論が中心ではあるが、コンピュータプログラムの計画や設計で、どういう所に気をつけなければならないのか、なぜそういえるのかという理由を、主張した分だけの調査報告をそこでしている。
 
ただし当初は初心者向けかどうかは何も考えずに書いたため、今みると初心者には少し専門的過ぎるかも知れず、今後はもう少し初心者向けにコンピュータプログラムに関する「こういう所を気をつけなければならない」ものを紹介できる記事も書くかも知れない。
 
職能技術育成指導力の記事も、社会学的信用考察力も記事も、従説(偶像崇拝説)への異論が多いほど「何をもってその主張に社会性や協調性があるといえるのか」「その考えがどう業務に具体的に役に立つといえるのか」と、何の主体性もないよその偶像崇拝主義でただ人格否定しようとするだけの者も、必ず出てくるものである。
 
筆者は職能技術育成指導力は「オブジェクト指向の倒し方」で、社会学的信用考察力はこの「近世日本の身分制社会」で説明責任をもって開示している。
 
これらはもちろん、自身にも関係あるかも知れないと思った者だけが見れば良い話であり、関係ないと思っている者がわざわざ見る必要などない。
 
納得はともかく、説明責任をもって職能技術育成指導力・社会学的信用考察力を開示している者と、十分な説明責任も開示せずにただ自身の正しい立ち位置を自己確認して偽善憎悪を発揮しているだけのただの偶像崇拝主義者とで、その力量差を重視する人が増えれば、社会認識も議論の仕方も健全化されていくはずである。
 
そこを意識できる者が増えなければ、それだけ時代遅れの旧態主義が放任され続け、その分だけ次代たちへの負担となって重くのしかっていく一方なのである。
 
本来は公的教義がそういう所を意見回収して、その手本となって牽引しなければならないはずである。
 
しかし何の職能技術育成指導力も社会学的信用考察力も身に付けていない、そこが完全に思考停止している量産型産業廃棄物ともいうべき家畜以下の俗吏(ぞくり・権威のいいなりの無神経な片棒担ぎ)どもの飼育を繰り返すのみなのが、今の公的教義の実態である。
 
政府はそんなにそれを続けたいなら、そのままでいいと思っている不良債権的国民(ただの偶像崇拝国民)だけでやればいい話であり、それでいいと思っていない優良債権的国民にまで迷惑に巻き込んで負担させ、図々しく共倒れさせようとするべきではない。
 
何の教義力(職能技術育成指導力・社会学的信用考察力)もない者が、ただの偶像崇拝を教育だと勘違いしてできもしない教育をしようとするからおかしくなるのであり、時代遅れのただの俗吏どもは教義力がない実態をただちに認め、さっさと保育化すればいいだけの話である。
 
何の教義力ももちあわせていない、それを何ら開示できていない教員を全面的に認めてしまうことは、偽善教義の暴力を無条件に認可しているのと同義である。
 
教義力を何ら大事にできておらず、公的教義の権威の階段にただ服従しているだけの使いものにならない御用学者とその量産型俗吏どもなど、束になっても筆者に何ひとつまともな抗弁などできやしないことを、ここで宣告(恫喝)しておく。
 
家系の肩書きのためだけに大臣の議席を共有し合って上級国民を気取っているだけの、中世の時代遅れの教義崩壊権力者らと大差ない連中のことを筆者は「空気椅子議員」と呼称しているが、今の公的教義の体質も、それと何が違うのか。
 
民権立憲政体と無関係の、勘違い官僚気取りの空気椅子議員どもを飼育するために国会がある訳ではないことも、そのために国民は納税しているのではないことも、少しは解らせる必要があるだろう。
 
連中に国会の立ち入りも首相官邸の使用も禁止し、小学校の運動場あたりで実際に空気椅子による国会審問の実体験をさせて、そういう偶像崇拝(教義の都合ではなく権威の都合だけのただの構造崇拝)に頼らないと何の実力もない自覚をうながし、等族統制の責任(義務)を早急に突きつけるべきである。
 
筆者に不満なら、公的教義が認知していないことを独自で文献史料を整理して断りもなく次々と書籍化して広める世界中の史学研究者たちや、公的教義が認知していない新たな概念を勝手に作って断りもなく広めてきたマイクロソフトやアップルをはじめとする企業らにも、同じように怒りを向けるべきだろう。
 
戦国後期に信長がついにやり出した有徳狩りと公的教義(天台)への攻撃による規制と教義刷新も、そういう所が根幹である。
 
これは織田信長だけがそうだった訳ではなく、他の戦国大名も本来はそこまで踏み切らなければならなかっただけの話である。
 
戦国後期とは、時代に合う教義の都合と一致していない時代遅れの偶像崇拝的な不当な権威への刷新に、大いに踏み切れた所と、それが中途半端にしかできなかった所とでどんどん差が出ていったに過ぎない世界である。
 
各地方の代表は、農商業から軍制からあらゆる法(国際社会性)に向き合う責任(義務)をもって上が新基準の手本を示し、牽引しなければ下はついてこない時代であり、その上の責任(義務・器量)の差が政治信用力(債務範囲)の差となって決定的になった時代である。
 
同時代のヨーロッパの帝国議会もその根幹は同じで、教義の都合ではなく時代遅れの権威の都合でしかないものをいつまでも維持しようとする教皇庁を、規制するべく攻撃している所も同じである。
 
これまでの時代刷新の節目の歴史というのは、法(社会性)の国際競争(閉鎖人道主義の国際人道主義化の競争)による旧態の解体と新法化・新政府化の歴史といえ、その再集権化とは、時代に合わない教義を捨てさせて時代に合った教義に調整する歴史である。
 
これは個人にせよ利益団体にせよ国家にせよ、今までの自治規範が時代に合わなくなってくればどこも刷新(閉鎖人道主義から国際人道主義化)していかなければならない所は同じである。
 
前置きが長くなったが、のちに信長と対立することになった浄土真宗・本願寺について、まず経緯をまとめる。
 
既に戦国の傾向が現れていた、室町時代の8代将軍の足利義政(絶大な権力者として君臨した3代将軍の足利義満の孫)の時代には、法の(社会性・特に低級裁判権)の整備も完全に間に合わなくなって、教義崩壊もいよいよ顕著になった時代だった。
 
政治名目(教義)なきただの権益争いしかできていなかった実態が、いよいよ具体的な形として「応仁の乱」となって現れた。
 
鎌倉政権が解体され、南北朝戦争(結果的に失敗した、後醍醐天皇の「建武の新政府」)を経て、足利氏による室町政権が誕生すると、裁判権の政教整理も進んだことで、これまで常に教義崩壊に向き合わなければならなかった寺院(仏教)の今までの重責も、いくらか軽減されるような形となった。
 
法(社会性)も聖属的規制がより削減され、世俗化して迎えた室町前期の大経済時代(バブル経済)は、庶民も寺院もその豊かさを謳歌する者も増え、都市部の僧侶たちもその時代を体験した気の緩みから、真面目に向き合う者もどうしても減ることになった。
 
足利義満と同時代人である一休がそれを批判するようになり、当時の僧侶たちの悪い部分ばかりをわざと表立って真似ばかりして、寺院に喚起するためにあてつけの皮肉を向けて歩き回ったことは有名な話である。
 
人々が豊かさを謳歌したその時代に生きた一休は、禅宗(臨済宗)で真剣に僧のあり方に向き合い、様々な才覚を発揮して高名になった後も権威に一切頼ろうとせず、人々が人的信用に向き合うことよりもどんどん現物主義的な権威社会化に一辺倒に向かっていった当時の風潮を嫌い、それを批判することばかりした硬骨漢として知られている。
 
ただし大経済の恩恵の良い面もあり、民間も僧侶たちも生活に余裕ができるようになったことで美術工芸や、茶道や歌道や舞踊などの新たな芸術を生み出す者も増え、特に足利義満と足利義政の時代は公的に出資・奨励したことで、現代でも伝わっている日本の伝統文化が大いに開花した時代でもあった。
 
一方で、そうした大経済期というのは格差が広がる時期ともいえ、時代遅れの古いしきたりをいつまでも押し付けられて一向にその恩恵が受けられず、格差に不満をもつ隷属最下層たちも目立った時代だったともいえる。
 
一休はそれら隷属庶民らとも差別することなく気さくに接し、つい最近まで彼らと大差ない生活水準だった品性の欠けた傲慢な成金庶民らや、増長する成金貴族らへの批判も繰り返した。
 
仏教(法)の世界は、鎌倉から室町にかけて上級裁判権(行政権)を整理する重責からはいくらか開放されるようになった一方で、今度は低級裁判権(庶民法)への重責が求められる比率が高まっていった。
 
大経済期の間に今までになかった産業仕様が次々と生まれると、訴訟ごともそれだけ増加し、室町時代に急激に発達していった農商業と物流経済の規模は、政府も地方寺院も時代に合った税制や保証や人身制度(等族統制)の裁判法に、ろくに対応できなくなっていった。
 
また当時は、天候不安による水不足や水害や冷夏などの深刻な問題とも常に隣り合わせだった時代で、現代でもそれらは殖産事業で大きな痛手となるが、当時は大勢の生死に関わる甚大な打撃となることも多く、景気が良いほどその反動の打撃も深刻となった。
 
8代将軍の足利義政の時代は、人々が実際に豊かさを体験したことで、教義不足の現物主義による信用崩壊も著しくなっていた所に、さらに天候不良が連続したためにその反動が経済に大打撃となって現れた時代だった。
 
かつての都市経済の栄華も急激に崩れ始め、豊かさの反動が一気に押し寄せた期間である。
 
庶民も水不足や食糧不足に悩まされるようになり、激しく賞味期限切れを起こしていた室町政府のあてにならない政治名目に、従事層(武士団たちと庶民たち)たちも信用しなくなり、地方各地の閉鎖自治力がより強まっていくと、地方の寺院も彼らの閉鎖擁護団体へと変貌していった。
 
公的権威の各地の支配者が、従事層(武士団や民間)への労役義務に対する代替権をろくに信用保証できないくなってくると、従事層らも反抗的になって閉鎖自治権を強め、その機運が仏教(社会性)へ逆流して戦国的な自由化機運が高まると、宗派ごとの布教支持合戦も激しくなった。(戦国仏教)
 
現物主義的な経済世界が崩壊していくにつれ、もはや何を基準にしていいのか解らずいよいよ教義崩壊も激しくなっていった各宗派・各寺院は、教義の本質を見失いながらどの宗派も内部では論争と分裂を繰り返し、どこもまとまりがないまま閉鎖細分化ばかりする一方だった。
 
室町政権になってから大規模な流通経済が次々と誕生し、時間そのものが取引対象にされる為替や金融が台頭したことで世の経済社会意識も大変貌し、教義もその大刷新を求められるようになった大転換期には、こうした末期症状も必ず現れるものである。
 
その摸索のための惣国一揆(自治権的争い)の閉鎖的な争いが各地で頻発し、それが100年続いた末に、ようやくその意見回収と後片付けをやり始めたのが、織田信長だったのである。
 
室町政権になって世俗政治化がより強まると、地方の荘園特権はより削減されていき、政府権力者らが各地方の支配者として統治するようになっていくが、京の都市経済を支えていた近隣の領地も荘園特権は削減傾向にあったものの、その古い慣習に隷属させられていた庶民はまだまだ顕在だった。
 
都市経済をこれまで支えてきた近辺荘園の庶民たちは、飢饉の多発をきっかけについにその隷属から逃れようと閉鎖自治力を強め、代替権に見合わない隷属義務の放棄と納税拒否のための大規模な徳政一揆を頻繁に行うようになった。
 
中央政局で徳政一揆が頻発し、これを室町政府が何ら抑えることができない状況が続くと財政もますます逼迫し、ついに政府としての何の主導力(機能)も発揮できないことも明らかになっていくと、応仁の乱に発展していくが、この中央税制の崩壊に地方がならうように、各地でも閉鎖自治力が強まっていった。
 
天台(公的教義)の教義もあてにならないと見なす人々が増えていた中で、天台も教義を見失いながら、どうにか強引に統制していたのが実情だった。
 
何をもって法(社会性)なのか、皆が何の信用共有もできなくなり、まず中央を支えていた庶民政治が閉鎖自治化に向かっていった戦国前期に、仏教(社会性)の建て直しが特に顕著だった宗派が、本願寺(浄土真宗の本流)である。
 
初代の親鸞(しんらん)から数えて8代目にあたる蓮如(れんにょ)は、浄土真宗の再建というだけでなく、戦国前期に見失っていた仏教(社会性)そのものの再建を大いに助けたといえるほどの人物である。
 
時代に合った教義を整理し、皆を助けようと人々に手本を示した、責任感が強かった優れた僧侶だったからこそ、当時それが全くできていなかった他宗と比較されて際立ち、他宗から散々やっかまれるようになった。
 
荒れ放題の戦国前期に蓮如が出現したことは、まさに奇跡の希望だったといえ、そういう時代だったからこそ蓮如の存在は余計に際立つことになった。
 
この重要人物についてまとめる。
 
京にあった浄土真宗の本部・本願寺を、蓮如が引き継いだ 1458 年頃(応仁の乱が起きるのが 1467 年のため、その9年ほど前にあたる)の時には、京の都市経済の崩壊も顕著になっていた時代で、浄土真宗の本部としての求心力も完全に失っていた。
 
分寺たちも本部の本願寺を支えるような余裕もなく、蓮如はすっかりさびれていたわずかな寺領特権だけで貧窮しながら、どうにか生活していたありさまだった。
 
蓮如は、当時の人々が互いに何も信用し合えなくなっていって窮屈に閉鎖化していってしまった世の中を心配し、人々にもう一度、法(社会性)を向き合わせ、助けようとした。
 
蓮如は貧しい中でまず、貴重な浄土教の経典に熱心に向き合い、時代に合ったものに整理することから始めた。
 
初代の親鸞の姿勢にもう一度立ち返り、庶民に難しすぎる教理はできるだけ伝わるような体制作りを工夫し、まずは同じ浄土真宗同士で信用に向き合わせるための再布教を始めた。
 
室町のかつての大経済の豊かさの体験によって、仏教の教義も形態化ばかりになり、現物主義的な現世主義(自力信仰)ばかりが強まっていた。
 
浄土教はどういう所を大事にしなければならないのか、厭世主義(他力信仰)からも物事を考えなければならないことを、すっかり忘却していた信徒たちに、かつて源空と親鸞が教えていたことを、蓮如は熱心に教えて回った。
 
蓮如は当時の人々の、信用不信ばかり蔓延する暗い閉鎖化の経済危機から、もう一度、手を取り合わせるべく京の近辺の信徒たちに教えて回るようになると、それが地域間の信用経済の手助けとなる法(社会性)の糸口になり、浄土真宗の信徒たちは経済的な明るさを少しずつ取り戻すようになった。
 
貧富に関係なく再布教して回った蓮如は、その人間性が近江(滋賀県)で一躍大人気となり、蓮如の手本のおかげで信徒たちの間でも、困った時には互いに協力し合って信用に向き合おうとする者も増えていった。
 
当時、各地の政府権力の支配者たちもその代官たちも、何もあてにならないと見ていた従事層(武士団や庶民ら)は、寺院をあてに結束を保とうとするようになっていた。
 
しかし地域ごとで閉鎖化ばかりが進んだために、同じ宗派同士でも地域間で助け合う信用協力関係を維持できず、互いによそ者扱いばかりするようになっていたために、それが地域間の庶民経済に大きな障害になっていた。
 
しかし蓮如のおかげで、とりあえず近江では浄土真宗同時で助け合う地域間の信用庶民政治がいくらか再生されるようになったため、浄土真宗に乗り換える信徒も増え、本部の本願寺も皆で協力して盛り立てるようになった。
 
蓮如は政治権力をつけようとするような野心などはもっていなかったが、その指導力と支持力を恐れた立場のなかった天台宗と法華宗が「自分たちにはできていないことができている」蓮如のことをやっかむようになり、蓮如を野心家の国賊扱いにして京の寺領を強制的に没収・破却し、蓮如を追放した。
 
天台宗(公的教義)は近江の浄土真宗の寺院と信徒らにも力をつけさせないよう、散々の言いがかりをつけて規制ばかりした。
 
京に居られなくなった蓮如は、越前(福井県)の支配者の朝倉氏に好意で迎えられたこともあり、越前北部で布教を始めると、近江の方で既に評判になっていた蓮如のもとに人々が続々と集まるようになり、浄土真宗の信徒も増え、すぐに結束力をつけるようになった。
 
蓮如は従事層たちに対し、地域間でも助け合い、庶民政治がうまくいくよう皆で協力して浄土真宗の寺院を支えながら、支配者の労役義務や納税にも協力しなければならないことも訴えた。
 
ただし従事層からすると「蓮如上人になら皆、信用して従えるが、収奪と人事差別しかしない、あんな面倒見の悪いあてにならない公的機関にはとてもではないが、従えば従うほど生活が酷くなっていく一方だ」という想いが強まっていた。
 
当時の朝倉氏は、蓮如に好意的だったことに加え、元々の政府権力の支配者であった斯波氏を追い出して、変わって従事層たちを代弁するようになった、政府権力から独立した下克上的な支配者であっため、経済力を身につけていった信徒たちも、当時の朝倉氏にも協力的な姿勢を見せていた。
 
蓮如が越前北部で布教を始めた頃は、政治名目が曖昧な応仁の乱に各地方の有力者らも、周囲の政敵の蹴落とすためだけに便乗ばかりして上も荒れ放題たった、その真っ只中だった頃で、越前のすぐ北隣の加賀(石川県南部)でも権力闘争が激化していた頃だった。
 
「加賀の富樫氏の紛争に軍役的な協力をすれば、加賀での浄土真宗の地域庶民政治を優遇する」という条件で、越前北部の吉崎御坊(よしざきごぼう)という寺領ですっかり都市化して一大勢力となっていた本願寺に要請が来るようになった。
 
世俗闘争には関わりたくなかった蓮如の意に反して、皆がそれを望んだため、結局加賀の紛争に介入することになった。
 
本願寺の信徒たちの協力によって、加賀の有力者らの紛争もいったんは終結したが、どの支配者よりも従事層を団結させることができていた本願寺は、加賀でも経済力を身につけて、蓮如の意に反して軍閥化していくと、支配者らも本願寺を懸念するばかりになった。
 
加賀ではもはや富樫氏ではなく、本願寺(浄土真宗)の寺院が政治力もつようになってしまったために、それに慌てた富樫氏が排撃に乗り出すが、逆に富樫派の有力者らは大いに反撃されて加賀から追い出されてしまう。
 
蓮如は、支配権の獲得まで始めた加賀の信徒たちに「破門にする」とまでいって必死に訴えたが、戦国前期の支配者はいつまでも時代遅れの旧態主義に固執して大した政治理念などもちあわせていない者ばかりで、全くあてにならなかった当時、蓮如もその流れを止めることができなかった。
 
これ以後の加賀は、本願寺が領主権を完全掌握したまま、日本史上でも珍しい、政府権力・公的教義から指図される立場ではなくそれらと対等な立場の、自由教義の独立国家のような存在として誕生し、のちに織田信長と戦うことになるまで、加賀では実に90年近くもその体制が維持されることになった。
 
越前北部と加賀一円で浄土真宗が、従来の時代遅れの既成権力に反抗しながらどんどん政治経済力を身につけていってしまったため、蓮如も考える所があって、吉崎御坊を離れることになった。
 
戦国前期には教義を失いつつあった仏教(社会性)の姿を取り戻すことになった蓮如の実力は、天台(公的教義)も認める所となり、京での本願寺の再興も許可されるようになった。
 
京の本願寺の再建後、蓮如は摂津(大坂府北西部)にも出向いて、教義を見失いつつあった人々に教えて回り、のちに信長も攻め落とすことはできなかったほど要塞化されていった石山本願寺も、この時に多くの支持者たちによって作られることになった。
 
蓮如は、現物主義的な乱暴な経済が崩壊し、地域間で人々が何も信じられなくなり閉鎖自治ばかりが強まっていった当時、浄土真宗の信徒同士で信用に向き合って協力し合うことを教えて当時の人々を導き、特に最下層たちを差別せずに助けた所が、偉大だったといえる。
 
蓮如によって浄土真宗の庶民同士の差別は軽減され、そして下層同士で団結して支配者の無理難題の労役・納税義務に交渉権をつきつける自衛力も身につけるようになったことで、特に当時の貧困層を大いに助けることになった。
 
ただしそれが支配者に反抗するための強力な気鋭自治力まで身につけさせてしまう結果にもなり、この戦国仏教的運動が、浄土真宗の有名な「一向一揆」と呼ばれて今に伝わっている運動である。
 
8代目蓮如の死後、9代目実如の時代には、本願寺(浄土真宗)は朝廷から山官から禁官に格上げされるほどの実力となった。
 
山官禁官の違いは、山官は公的教義である比叡山・延暦寺(天台宗の総本山)から正式に公認された教団のことを指し、禁官はもはや公的教義を介さずに朝廷から直々に正式な教団として認可されたことを示す。
 
延暦寺(天台宗)が公的教義であることに以後も変わりはないものの、かつては公的教義から格下扱いばかりされてきた本願寺(浄土真宗)がこれによって実質、公的教義と同格扱いされるようになったのも同然といえる。
 
応仁の乱以後、室町幕府はいよいよ朝廷を支える維持費を出資する義務も果たせなくなってくると、実力をつけた地方の支配者たちが代わって献納するようになり、どうにか朝廷は支えられるようになるが、どの実力者たちよりも本願寺が最も朝廷に献納できていたほど、政治経済力を身につけていった。
 
当時の蓮如の存在が、様々な社会的影響を与えることになったことは、間違えのない所である。
 
実如の時代には、戦国時代の本格的な突入期となっていた。
 
元々は信徒の格差貧窮問題と地域間信用経済問題を助けるための再建だったものが、軍閥的な実力まで急激に身につけてしまった本願寺は、応仁の乱の後始末の中央権勢争いに常に巻き込まれるようになった。
 
以後の本願寺も権威欲で戦ったというよりも、信徒たちを守るために戦ったという方が正確で、畿内(きない・京都近隣の最有力地域)でなかなか解決に向かわない覇権争いが常に繰り返される中で、軍閥化していく本願寺がどちらに味方するかでその外交的・軍事的な戦局が左右することも多かったためである。
 
結果的に見れば、のちに織田信長が台頭し、有徳狩り(閉鎖自治団体の解体)から始まった低級裁判権(庶民法)の回収・集権化の整理が行われるまでの、それまでのその仮の基準を本願寺が代行することになった、といういい方もできる。
 
これから、戦国後期の教義問題や、織田信長と浄土真宗・本願寺の様子はどんなものだったのかについて触れていく。