- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史11/34 - 2019/12/08
信長は「それは結局は、自分が作ったものではない」という基準で、見込みがないと判断した寺院や権力機関は次々と踏み潰し、公正さをもって集権化(裁判権の回収)に大いに努めた。
法(国際人道主義)だと思っていたものがそうではなかったことに人々が気付き始め、今まで通りのことをしていてはもう間に合わなくなり古い法から新たな法に大きく整備された近世の議会的(裁判権的)時代とは、教義の大刷新時代ともいえ、そこは同16世紀ヨーロッパでも全く同じことがいえる。
信長が、天台(国家教義)の総本山である比叡山(延暦寺)を焼き討ちしたことは有名だが、ヨーロッパでも皇帝カール5世が西方教会(カトリック)の総本山の教皇庁(今のバチカン)のある都市ローマをまるごと攻撃している所まで共通している。(ローマ劫略・教皇クレメンス7世の時代)
従来の閉鎖経済社会から、国際化が急速に進んだことで、人々もあらゆるものに強く関心を向けるようになり、上から下まで人的信用の向き合い方から自由化の機運も急速に高まり、今までの教義(社会性)とは違うことをやり出す者も増え、社会観の意欲的な見直しと改革に向かわれた時代が、16世紀である。
聖属権威(教義権威)の頂点であろうが、教義の都合ではなく権威の都合だけで王族権力(武家権力)に介入しようとすることはもはや許されなくなっただけでなく、それ所か王族(武家・世俗権力)が聖属権威(教義権威)を逆に規制するようになった、その逆転が決定的になった時代である。
実力(品格)の見直しが行われ、従来の教義権威にただしがみついているだけでその責任(義務)を何ら果たしていない権威と無能は格下げし、やるべき責任(義務)を果たして人々に良い影響を与える者(団体)こそ発言権から格上げする社会意識のことを等族(とうぞく)統制、等族議会、等族社会という。
教義の本質は、人を育成するものであり、ただ従わせるためだけのただの権威であっていい訳がない、そこに向き合われた時代だったからこそのマルティン・ルター(新興の抗議派・福音派・プロテスタント)の出現だったといえる。
本願寺は浄土真宗の本流的な流派だが、まず12世紀~13世紀に成立したこの宗派について説明していく。
浄土宗と浄土真宗の違いは、浄土教(経典・主要教材)と念仏が重視されているのは同じだが、その学び方の視点が違い、浄土宗の方針はいってみれば孟子的(善から悪を解釈・説明する)で、浄土真宗の方針はいってみれば荀子的(悪から善を解釈・説明する)である。
浄土宗と浄土真宗は、方針の違いでケンカ分かれするような形で成立していった訳ではなく、浄土宗を作った源空を尊敬して多くを学ぶことになった優れた高弟の親鸞(しんらん)が、荀子的な考えが強かったため、その者たち用のために作られた宗派だった。
源空も、当時の天台(国家教義権威)のあり方に荀子主義的に向き合い、しっかりとした仏教の根拠があれば天台(国家教義)の支配教義が全てではなく、ただの支配統制のためだけの時代遅れの教義を具体的に否定した改革者である。
物腰も穏やかで賢人だった源空は当時、従来の教義(仏教)がなぜ時代に合わないものであるかという観点から、ついに他力信仰型(厭世論・えんせい・現世にいったん距離をおいて、価値観を整理する考え)を用いて従来の支配教義をことごとく論破した。
それまでの国家仏教は自力信仰型(現世論・結果論)の聖道門(しょうどうもん・聖人としての修業と振る舞い)一辺倒の教えしかしてこなかったために、最初は多くが源空を仏敵と見なしたが、源空のすぐれた浄土教の整理に次第に皆も感服していき、支持者が急激に増えることになった。
ただしそれは上にはいくらでも説明できても、識字率もろくになかった当時の下層庶民たちには、仏教(社会性のあり方)に今、何が起きていて、何をいっているのかも難しすぎて、源空の理論をそのまま庶民に向けるだけでは到底、その教えを広めることも難しかった。
皆が源空や親鸞のように教義(社会性)に常に強い関心をもって生きていける人間が多い訳ではないことは、源空はよく理解していた。
下層庶民らは、いつまでも時代に合わない従来の教義ばかり押し付けら続け、一向に社会性(裁判権)が改善されないその問題について、源空はそれを考慮し、浄土教を広めるために下層階級の者たちにはあえて孟子的なやり方をした。
下層庶民たちも、時代に合わない天台(国家仏教)のただの支配教義のためだけの裁判権にはウンザリしていた者が多かったことがこの浄土宗によって明らかになっていき、浄土宗を盾に天台宗に否定的になる者がどんどん増えていった。
これは源空の天台に対する憎悪から始まった話ではなく、今まで通りの古いやり方で規制ばかりして仏教(教義)を独占し続けようするだけの態度を少しは改めさせ、下(庶民ら)を助けたいと思っていただけである。
しかし源空が孟子的なやり方で浄土教を広めたことで、真意を無視する周囲も増え、浄土教を盾に勝手に加熱し始め、これまでの時代遅れの正しさの不都合に挑発的、反撃的になる者も急増し、国中で仏教(社会性)に関する論争やケンカが絶えなくなった。
浄土教は当然のこととして天台から「どうしてくれるんだ」とここぞとばかりに様々な圧力を受け、天台絶対主義者たちから嫌がらせや非難を受け、何度も大論争に発展することになった。
源空と親鸞は、鎌倉幕府を創設した源頼朝と同時代人で、平安末期(荘園権力の支配教義政治)から鎌倉時代(荘園制の解体弱体化=世俗武家権力政治)を迎えたこの激しい権力闘争の真っ只中を生きた、とにかく上の価値観から大きな変化が見られた時代だった。
源頼朝の父の源義朝は、中央権力を一手に牛耳り始めた平清盛との権力闘争に敗れ、再起を図ろうとするも清盛派に襲撃され殺害されてしまうが、当時幼年だった頼朝は捕虜として関東の平氏一族の監視下に置かれることになった。
朝廷の弱みを握って君臨し続けた平氏の棟梁(統領・本家)の平清盛は、もはや武家勢力の後押し無しではろくに政権を維持できず衰退していた皇室権威を独占して政権を操るようになり、人事差別も目に余るようになっていった。
後白河天皇の時代の平安末期はもはや、皇室権威よりも荘園権威と武家権威の方が力をつけてしまっていた時代で、さらに荘園権威(聖属権威)については教義崩壊も著しい時代だった。
関東にも多かった平氏一族たちも、平氏の棟梁として偉そうに家長ぶるばかりの横暴な平清盛に対し、平氏の棟梁(家長)として認めない所か政敵とすら見なすようになっていた。
関東平氏は大して団結できている訳でもなかったが、権力を独占し続ける清盛に強い反感をもつようになったことで利害が一致し、平清盛のことを「あれが平氏の本家など我々は認めない」という態度をあからさまに出して、反抗するようになった。
清盛に敗れて捕虜として伊豆に配流(はいる・謹慎監視処分)された事情の源頼朝を、関東の平氏一族は政治利用するようになり、北条時政、三浦義純、上総広常(ひろつね)、千葉常胤(つねたね)ら関東の代表的な平氏一族が源頼朝を表向きの旗頭として擁立し、清盛に刃向かうようになった。
これは源頼朝が源氏の本家筋であったため、平氏の棟梁の対抗馬として源氏の棟梁という、清盛の権力独占阻止の戦いのための表向きの名目をもち上げることになった結果である。
頼朝軍(関東勢)は清盛軍に緒戦こそ苦戦するが、実際の所の源頼朝、源範頼(のりより)、源義経ら兄弟は優秀で、関東平氏に後押しされて戦況を有利に進めていった。
先の義朝と清盛の戦いによって、源氏一族の権勢はいったんは弱体化したが、頼朝軍が戦況を有利に進めていくと、各地の源氏一族も権勢を取り戻していき、また清盛に不満を抱いていた他の武家勢力も氏族に関係なく頼朝側に味方する者も増えていった。
皇室権力(旧態的な荘園権力)を独占乱用していた清盛に、今まで単独では誰もその絶大な力に逆らえなかったが、関東勢の反旗をきっかけに次第にそれも崩れていくことになった。
源氏の棟梁(本家)、平氏の棟梁(本家)、というだけのただの家長主義で支配する時代はとうに終わっていて、今後の政治のあり方を省みない、面倒見の悪いただの荘園的(旧態的)な独裁者はもはや許されない風潮が強まっていた時代だった。
清盛政権の残党らを壇ノ浦に追い詰めて消滅させ、鎌倉幕府が創設されると武家権力(世俗権力)が聖属権力(荘園権力)を具体的に規制するようになり、その背景から仏教(社会性)のあり方も大きな切り替えが求められるようになった、歴史的な転換期を迎えた時代だった。(鎌倉仏教)
それによって、政治も聖属支配的だったものから世俗裁判権的なものに段々と変わっていき、古代聖属的な規制が民間にも緩和されていき経済発達を見せるようになっていくと、当然のこととして教義もその時代に合ったものが求められるようになった。
平安末期に戦乱と大飢饉で大勢が死んだ一方で、これまでの聖属支配時代との決別ともいえる鎌倉幕府の設立によって騒動もいくらか収まると、経済再生の希望も見えるようになってきた、この時代の転換期の真っ只中を、源空と親鸞は生きた。
それまでの結果主義的な仏教は下層には「一度でも悪事を働いた者や誤解をした者は、死んだ時に全て地獄行きであり、それを覆せるほどの寄進と善行をしなけれぱ延々と無間地獄が繰り返される」という悪人狩りの恐怖政治で押さえつけるばかりで、死後の世界を支配することで人々に絶望を向けて従わせる教えしかしてこなかった。
それを源空が「人々は悪事を働こうと思って悪事を働くのではなく、法(社会性)の認識に問題があるからそうなっていってしまうに過ぎない。念仏は皆がそこを反省するために唱えるものであり、念仏を唱える態度が良ければ、どんな悪人でも死後は阿弥陀如来が極楽浄土への道を約束してくれていることが本願(約束)されている」と教えた。
それまでも念仏は重視されていたが、なぜ念仏が大事なのかという理由を、源空ほど具体的に明確に答えられる者など今まで誰もいなかった。
源空は、聖道門(しょうどうもん・聖人になるための鍛錬)ができているかできていないかというだけの従来の何の工夫もない天台(国家教義)の単純な聖道門主義を真っ向から否定し、人それぞれでできる所まで努力し、できている所までの言動を心がけることが大事だと教えた。
今までの聖道門主義を源空が覆し、仏門の者だからといってできもしない聖道門にさも属しているかのように、無理に強引に人生の先輩ヅラを振舞おうとするから教義内容もどんどんおかしくなっていくという、今までの仏教(社会性)のあり方を否定した。
現代の公的教義も、源空の意図を大いに反省し、見習うべきだろう。
平安時代までの日本は、死は平等ではなかった。
寺院に寄進できる権力者や資産家は往生(天国)を約束され、下級武士や庶民は生きているだけで悪人の業から逃れられないから、権力者のいいなりにならない悪人は悪人であると確定して差別する、という時代遅れの聖属裁判支配(死後の支配)も、平安末期には懐疑的になっていた。
それまでは下層の死については実に粗末な扱いで、特に戦乱や疫病や大飢饉によって大量死が起きると、その寺院もその最後の世話、つまり葬儀できる力もなく、遺体をまるで厄介物扱いするかのように、遺体に何の礼儀も尽くさずに流れ作業で埋め立てたり海に流したりする処理の仕方も当たり前だった。
そういう所も鎌倉時代になると、例え下層の者であっても、罪人でも死の扱い方をいつまでも上と下とで差別ばかり続けていては、人々はいつまでたっても法(社会性)のあり方に向き合わずに希望ももたないという意見が重視されるようになっていた。
仏教(寺院)が、遺体に最低限の尊重すらできていない、善人の死であれ悪人の処刑であれ、亡くなったその人の人生の尊重や反省に皆に向き合わさせることもしないようなそんな態度で、どうやって人々に良い影響を与える法(社会性)に導くことができるのか、という所にやっと向き合われることになった。
「どうせ何もできない。死んだらそれで終わりだ」という気力のないふてくされた人生観にさせないよう、死という最後には皆がその人の人生を少しでも見るようにして、少しでも尊重し合う、少しでも反省し合う意義のある死にしていこうという葬儀の発想が、鎌倉時代に再認識された。
死に向き合うこうした教義は回向(えこう)といい、これも他力信仰(厭世論)になるが、実際にキリスト教社会でも同じような体験を経ている。
ヨーロッパでも14世紀の農商業の発達で人々が豊かになっていき、人口爆発も起きて教義(社会性・裁判基準)も間に合わなくなると、現物先行主義と債務信用不足が強まって各地で激しい教義崩壊が起き、王族同士から都市同士まで経済権力の奪い合いと蹴落としあいが激化して、治安も大いに乱れることになった。
その矢先に大黒死病(大ペスト)が蔓延したことでさらに教義崩壊が加速し、各地で大量死した遺体から疫病が感染することを人々が恐れるようになり、遺体を粗末に扱い始めた。
死の最後を見届けて葬儀と埋葬をするという、修道院の司祭や修道士らの本来の聖職者としての責任(義務)を放棄し始め、大金を受けないとやらなくなったり、聖職者でない者に大金を渡して葬儀と埋葬をさせるような事態にまで陥った。
そんな中でペストの感染を恐れずに、死にかけて困っているペスト感染者の世話をし、亡くなってしまったらしっかり葬儀と埋葬もする、責任を果たそうとした修道院も少数だがあった。
彼らもペスト患者と共倒れして多くが亡くなってしまったが、ペストに勇敢に立ち向かった修道院は人々に勇気と希望を与えた良きキリスト教徒の手本として絶賛され、中には守護聖人扱いされた者もいる。
公的教義を皆が放棄してペストから逃げ惑い、治療する方法を知っているなどといって高額をふっかける詐欺師や、ペストを広めた犯人が誰々だとでっちあげる者も大勢現れて、何を信じていいのか解らない、皆が疑い合うようになった社会実態に、ペストは当時の人々の社会精神を大いに崩壊させた。
つまり公的教義による今までの正しさの共有化の押し付けだけは、中世の乱世とペストの前には無力であることが明らかにされてしまい、共有主義ではなく個人主義によって人間性が左右してしまったことも明らかになってしまったのである。
ペストはあきらかに公的教義を踏みにじり、その教義(社会性)が全てであるとしてきた考えだけでは無力であった実態が、完全に突きつけられてしまった。
ペストは高位聖職者や貴族たちも例外なく、地位や財産に無差別に平等に人々を殺していったため、人の精神は死よりも地位や財産や病気うんぬんの方が大事なのか、という矛盾めいた疑問を人々に体験させることになった。
大量死の大ペスト時代を乗り越えたその後のルネサンス期には、そこが大いに反省され、あるべき生死観が今一度、見直されるようになった所は日本と共通している。
その苦難の時代に、一部の修道院らが事態に真剣に向き合い、少数だったが病気も教義も恐れずに慈善奉仕活動を行った人もいたからこそ、15世紀にルネサンス期の人文主義(人間性の個人努力も尊重し合う主義)が台頭するようになり、16世紀にエラスムスとルター(教義の刷新者ら)が登場することになった。
日本の仏教社会とヨーロッパのキリスト教社会の教義の歴史的な違いは、13世紀までの日本は自力信仰型(現世論)に固執し過ぎていて、14世紀までのヨーロッパは他力信仰型(厭世論)に固執し過ぎていた所にあるといえる。
両者とも中世までは、そこ一辺倒に固執し過ぎた教義であったために、教義の本質を常に見失いがちだった。
そのため日本では浄土教や回向思想による他力信仰(厭世論)にも向き合わせる必要が出てきて、キリスト教は人文主義による自力信仰(現世論)にも向き合う必要が出てきて、大論争になったのも自然の流れだったといえる。
死に向き合う回向(えこう)の教義は、日本では古くから伝わってはいたものの、それまでは一部の高僧や上級貴族の間でしか向き合われていなかった。
いずれもその人にとっての人生とはいったい何を尊重していくべきなのかという、そこを教義が問わなければならないことに、次第に向き合われていった。
そうした流れがあって鎌倉時代には、武家権力(上級裁判権・行政権)と庶民政治(低級裁判権・課税と代替保証・民事権)の見直しの手助けにもなっている。
やり方は孟子的だった源空の浄土宗と、もう少し荀子的だった親鸞の浄土真宗にも、大勢の信徒が集まった。
鎌倉時代の源空と親鸞の影響力は大きく、その良さが理解されていくと浄土教(浄土宗と浄土真宗)の支持者も大急増し、天台宗も逆流が起きて、浄土教の念仏の教えを重視するようになった。
天台宗はもちろん法華経を第一としていたが、天台の間でもまるで浄土教の念仏の教えさえ守られれば全て許されるかのような認識になってしまうほど、影響力は大きかった。
何も解らない者であっても救いを求めて「南無阿弥陀仏・ナムアミダブツ」と、繰り返しそれを唱えるだけで、阿弥陀如来はその人の人生観や死を差別せず、例え現世では罪人でも最後には浄土への道を本願(約束)してくれている、という斬新なこの他力信仰(厭世)思想は、教義を見失いつつあった当時の人々に絶大な影響力を与えた。
日本はそれまで自力信仰(現世論)を塗り固めてばかりで、できもしない完結型・結果論型の自力信仰(現世論)ばかりになってしまっていたものを、浄土教によって従来の不条理からいったん解放されることになった。
しかし同時に、下層にとっては今度は他力信仰(厭世論)一辺倒に陥ることになってしまった。
源空と親鸞が亡くなってしばらくすると、そう簡単には解決できないこの非常に難しい問題にあたることになった、久遠寺の日蓮宗(法華教)の開祖となる日蓮が登場する。
源空と親鸞が否定的だったのは、経典(教義書)を小難しくこねくりまわして、何の工夫もなく苦行化するばかり、ただ丸暗記するばかりで、何ら実力(品格)も身に付けずに聖道門を心得ているかのように語るだけの修業不足のけしからん僧侶の態度に対してだった。
しかしそれも下層の間では単純解釈してしまい「ただ暗記に頼って経典(教義書)を小難しく用いるばかりの勘違い僧侶は役立たず」という風潮がすっかりできてしまった。
源空と親鸞の死後、下層の間では浄土教も正しさのためだけの実質の放任主義にすぐに早代わりしてしまい、かつて浄土教は迫害的な扱いをされていたものが、今度は浄土教に合わせない者を迫害するありさまに早代わりしてしまった。
あまりにも経典を軽視する者が蔓延してしまい、法華経の経典を第一としているはずの天台ですらその兆候が出るようになったために、日蓮はその現状を鎌倉幕府に熱心に訴えるようになった。
経典(教義書)を軽視する僧侶と民衆がすっかり増え、他力放任的になっていったため、日蓮がその原点回帰を訴えるようになった。
日蓮は「そもそも浄土教も、その経典の整理を源信が途中までしてくれていた論文を源空が注目し、さらに具体的なものに源空が整理したから、今の浄土教があるはず」と、当然考えていたが、特に下層の間では、今の浄土教さえあれば後先のことなど何も考えなくなってしまっていた。
源空と親鸞はまず浄土教によって、教義を自力信仰(現世)と他力信仰(厭世)とでいったん区別させ、整理させる方向にもっていったことは、とにかく大きな進展だった。
現世では罪人悪人は罰せられても、厭世では救う方法を教えたこの主義が、だからこそ絶望にとらわれずに自分に今できることに真面目に向き合おうとする者が増えた一方で、「この教義なら許される主義」に頼って不真面目になる者もかえって増やしてしまった。
源空と親鸞は、もちろん皆が前者の意識を向けさせるためにやったことであり、後者については浄土教の真意をいずれ理解してくれることを期待する孟子的な方法を、当時は採らざるを得なかったに過ぎない。
この傾向は、これまで荒れ放題だった権力闘争も、鎌倉幕府によって上級裁判権・行政権の整備がだいぶ進められたことで世の政治も少しは安定してきた分、人々の気持ちもいくらか緩んでいたのも関係があったと思われる。
法華寺の出身者で、最澄の経典重視を真面目に守って努力していた日蓮は、そんな曖昧な正しさによって何かと非難されていた。
経典重視の態度を変えようとしなかった日蓮は、浄土教(浄土宗と浄土真宗)にすっかり染まってしまった僧侶たちから散々の差別と迫害を受け、かなりの苦労をさせられているが、それでもその態度を一切崩さなかった。
どれだけ迫害されても、世の勢いに負けずに経典をよく整理して、論文を次々と発表していくと、日蓮の実力といい分を認める人々も少しずつ増え始めた。
浄土教(浄土宗と浄土真宗)に相当頭にきていた日蓮は「経典にもしっかり向き合う精進を大事にしないような、念仏さえ唱えていれば安泰であるかのようないい加減な生き方ばかりしていると、そのうちに国中がおかしくなって仏罰がくだるぞ!」と言い放つほどだった。
日蓮がそういっていた矢先に、戦乱・大地震・疫病・作物不作が立て続けに起きて人々の大量死を招いたため「日蓮のいう通りになってしまった」と日蓮のことを神仏からの使いの預言者だと神聖視する者も出始めた。
賢明だった日蓮はそれを演出するために主張していた訳ではないが、人々をもう一度経典に向き合わせる良い機会だと考え、その流れを善用した。
日蓮が良い例だが、源空にしても親鸞にしても優れた宗教家であるほど、現世主義と厭世主義をよく区別し、その意味をよく理解できているといえる。
彼らによって、そんなに悲観や絶望をしなくても、希望をもって努力していけるようになった者も増えるが、逆にその解釈を悪用して現世と厭世をただ切り離すだけ、またはただ結び付けることだけしてただ開き直るだけの、態度の悪い怠け者の無能も急増してしまうのは、現代でも同じである。
自力信仰(現世主義)一辺倒だったものが、今度は他力信仰(厭世主義)一辺倒になりすぎてしまったために、今度は日蓮が今一度、当時のこの教義問題に向き合い、自力信仰(現世主義)の考えに人々に向き合わせ、その一辺倒主義を調整したような形である。
その点で日蓮は偉大であり、そのように時代に合った法(社会性)に結び付けるための整理に貢献したのは、多大な功績だったといえる。
日蓮は経典に今一度向き合って自力信仰(現世主義・人文主義・個人努力尊重主義)を訴えた姿勢が、プロテスタントの開祖となったマルティン・ルターと、その部分の共通点がよく指摘題材にされている。
日蓮が出現するまで、天台は何かと教義崩壊に陥りがちで、公的教義でありながら権威に頼ってばかりで教義(社会性)の手本としての主導力はうわべばかりで皆無だった所を、結果的には日蓮の法華経の優れた整理力によって、天台(公的教義)の信用再建まで貢献することになったのである。
教義とは、ただ結び付け続けて塗り固めるだけのやり方だけ続けても劣化・悪化していく一方であり、時代に(状況に・自治に)合わなくなってきたら、何度でも切り離しと結び付けをして、整理していかなければならないのである。
ここでいったん、筆者の考える教義についてまとめる。
まず孟子主義とは、善の追求が重点であり、むしろ善でないものを善だと勘違いしないために喚起するためのものであり、その善の追求もなくただ悪だと打ちのめして差別することしかできない無能は、口ほどにもない偽善教義といえる。
荀子主義も悪の追求が重点なのであって、むしろ悪ではないものを悪だと勘違いしないために喚起するためのものであり、その悪の追求もなくただ善だともちあげて差別することしかしない無能も、口ほどにもない偽善教義といえる。
「そこでは求められている・そこでは求められていない」の債務信用範囲の話(道義的業務契約上の話)と、人間性の善悪の話は別である。
他力信仰は現代風にいえば、自分で体験したものだけを全ての努力とするのではなく、先人や周囲の知恵を見習ったり、先人や周囲の失敗の反省も取り入れ、そういう所を皆で共有して気をつけていこうとする教義である。
筆者の現代の公的教義の批判は、孟子主義も荀子主義もろくにできておらず、自力信仰(現世論)と他力信仰(厭世論)の違いもろくに区別できておらず、ただ権威に頼ってただ悪用しているだけを、理由にしている。
支配教義のいいなりになれば人を踏み台にしても良いことにするための肩書きの優位性を確保しているだけに過ぎない、法(社会性)の責任(義務)の不良洗浄を肩代わりしているだけの、まさに時代遅れの偽善教義でしかない。
ただのやせ我慢大会に過ぎない化けの皮の仮面教義は、そのままでいいと思っている連中だけでやればいい話であり、それでいいと思っていない者まで強制的に道連れにしてその負担に付き合わせるべきではない。
善でないものを善だと言い張ることに無神経で、悪ではないものを悪だと言い張ることに無神経なあんな使いものならない、支配的な正しさで不良洗浄しているだけの他力信仰(厭世論)一辺倒の今の公的教義に皆が頼り続けることも、期待もやめるべきである。
今の時代は、そういう教義詐欺に合わないように、自分でできそうな所から、自力信仰(現世主義・人文主義・個人努力尊重主義)をそれぞれが自分に合ったできそうな所から摸索・奨励し合っていく考えを、浸透させていくべきである。
できている、知っているように詐称的に見せびらかしているだけの現世論も、威力的で壮大な思想をただ用いているだけの厭世論も、その行き過ぎはただの詐欺である。
現世論と厭世論を結び付けた具体的な説明ができない限りは、その行き過ぎはただの不良洗浄の肩代わりにしかならない。
良い影響というものは大抵は、地道で慎重で丁寧な、自分でできそうな所からコツコツやっていく積み重ねが大事だという話に落ち着くものである。
話は戻り、鎌倉時代には日蓮の活躍以後も宗教論争は続き、鎌倉末期にもう一度、荘園権力(聖属権力)の巻き返しの運動も起きて南北朝戦争に発展する。
ここで武家権力(世俗権力)主導が再確認され、より世俗経済政治の本格化を迎える室町幕府が始まる。
これによって日本史上初の大規模な、今まで人々が一度も経験したことがないような大経済景気(バブル経済)を体験すると、経済があまりにも急激に発達してしまったためにあらゆる裁判権が間に合わなくなり、機関が次々と崩壊していき大乱に発展したのが「応仁の乱」である。
次は、戦国期に向った時の教義問題や浄土真宗について説明していく。