- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史16/34 - 2020/01/31
まず織田信長の比叡山・延暦寺の焼き討ち(公的教義の踏み潰し・焦土作戦)について触れるが、それまでの様子の話から順述していく。
これは、信長がいきなり延暦寺を攻撃した訳ではない。
きっかけは、織田氏と朝倉氏との世俗闘争に、延暦寺も便乗して織田氏に敵意をむき出しにしたことが引き金になっている。
延暦寺(公的聖属)は、武家政権が成立する以前には僧兵を従えていた歴史をもち、鎌倉崩壊後の「建武の新政府」(後醍醐天皇)の時代に一時的に武力が再興され、室町幕府ができると再び軍事から手を引いたが、いざとなれば寺領から軍事力を再興できる力はあった。
これは延暦寺に限ったことではなく、どの寺院でも戦国後期にもそうした風潮はあった。
寺院は農地や商業地を結ぶ交通の要衝に設置されることが多く、いつの時代でも物資輸送や作戦連絡網の拠点として利用される傾向があった。(そういう場所だからこそ、商業地化しやすい所も多かった)
そのため世が不穏になってその地域に騒動が起きると、その地域の寺院は下級武士や庶民たちの駆け込み寺として、さらに戦場になればそれらを保護するための防衛拠点や、軍事要塞に早代わりする性質も強かったためである。(この性質が、閉鎖有徳の原因でもあった)
延暦寺焼き討ち事件に至るまでに、何があったのかの織田信長の動向をまず、まとめておきたい。
1560 年に大兵で押し寄せてきた今川軍を桶狭間で撃破し、それから8年ほどかかって美濃斎藤氏を制圧し、伊勢北畠氏も圧迫し始めていた 1568 年頃の織田氏は、この時点で2ヵ国の支配者という表面だけだと大したことはなくても、改革強化組織としてかなり目立つようになっていた。
尾張は農商業の価値が高い「低地地方」で、先代の織田信秀の時代から産業改革が進められていたこともあり、尾張は2ヶ国分の国力があったといって良い。
この「低地地方」という言葉は、国内ではあまり使われないが、ヨーロッパの史学ではよく使われる言葉である。
意味としては、その地方は険しい山や谷が少なく、盆地(平地)や緩やかな丘が多いことを意味し、つまり農業地や放牧地にそれだけ有利である上に、交通での難所も少ない分、商業地も作られやすくなるという、産業や物流に有利な地方という意味である。
ドイツでは低地を指す言葉はニーダーといい、ドイツのニーダーザクセン州や、オーストリアのニーダーエスターライヒ州(都市ウィーンの州)などが例だが、ネーデルラント(現オランダとベルギー)の「ネーデル」の部分も、ニーダーのつづり違いの言葉である。(州の中の各郡の地名に、ニーダーがよく使われている)
話は戻り、織田氏が 1568 年に斉藤氏を制圧した尾張・美濃の2ヶ国とは、実質3ヶ国分ほどの国力(実力・支配力)があった上に、さらに軍政両面の改革力が加わっていたために、この時点で全国的に1位2位を競うほどの成長ぶりを、織田氏は遂げていたといえる。
ここから間もなく織田氏が京に乗り込むようになるが、そのきっかけと名目を得たのは、三好氏の勢力拡大によって京を追われていた形のみの室町将軍・足利義昭が、織田氏の力を頼って支援を要請したことが発端となった。(三好氏が 足利義維・あしかがよしつな を擁立し、前将軍の弟である義昭を京から追い出した)
美濃を制圧し、伊勢北部も圧迫し始めていたその強国の隆盛ぶりが注目されていた 1568 年頃の信長は、歴史的な出会いが増えてきた時期でもある。
それは将軍・足利義昭だけでなく、織田信長にとっての重要人物となる明智光秀と、宣教師(イエズス会)たちとの歴史的な出会いも、この頃に発生している。
この頃は明智光秀はまだ全国的にはそう知られていなかったものの、光秀を知る者は軍政や教養の先見力・関心力の高さの才覚を認める者も多く、信長からもその点を即座に高く評価され、信長の抜擢によって歴史の表舞台で活躍するようになった人物である。
明智光秀については後述とし、その後の信長と宣教師の動向をまとめていく。
宣教師たちから見れば、1549 年に初めて日本に訪れてから19年目の 1568 年となる、東海方面で隆盛を見せて大いに目立つようになっていた織田氏に彼らも注目し、献納品を抱えて岐阜城に訪問することになった。
しかし宣教師たちが、織田氏の新本拠としていた岐阜城(旧・稲葉山城)に訪れた時は、既に京に乗り込む準備が整った直前のことだったようで、この時は時間がなかったため宣教師たちとは挨拶だけ交わして、詳しい対談は後回しとなったようである。
信長の元々の計画は、次は伊勢攻略だったと思われるが、将軍の要請(名目)を得たことで近江・山城方面への進出の好機とみた信長は、上洛(じょうらく・京の将軍や朝廷に挨拶に向かい、国際力や力量を宣伝すること)路を確保することを最優先するようになった。
この時に「新将軍・義昭公の帰還のためと、京と朝廷の再建支援のための上洛」を名目に、北近江の浅井氏、南近江の六角氏、山城の占領軍の三好氏の3つに、織田氏に協力するように、まずは通達した。
この時に浅井氏は織田氏に協力した(婚姻による同盟・浅井長政とお市の方)が、六角氏と三好氏は反抗したため、信長は岐阜(美濃)と京(山城)との上洛路を確保するために、まずは近江南部の六角氏攻略に着手することになった。
この時、法の整備がうまくいっておらず求心力が低下していた六角氏は、もしここで織田氏に協力の姿勢を見せれば、家臣たちの半数が織田氏に鞍替えしてしまう恐れも、容易に見えていた。
特に戦国後期(近世)は「法の国際競争(閉鎖自治からの脱却と改革)」の時代(教義競争の時代)であることは、これまでに何度か説明してきた。
そこに弱みがあった六角氏はだからこそ他に選択肢がなく、反抗の姿勢を採ったに過ぎないが、このように他の強力な戦国組織から圧迫されれば、崩壊と隣り合わせだった戦国大名も多かったのである。
六角氏はこの戦いを機に結束を計ろうとしたが、いざ戦闘になると中途半端にしか反抗できずに崩れていき、1ヶ月そこらで近江南部の支配権の大部分をもっていかれてしまった。
この時に織田軍の実力差を見せつけられた南近江勢(六角氏勢)は、降参した者も多かったが、そうしなかった少数の六角氏の残党は、南部の山岳方面(甲賀郡の奥)に身を潜めたり、他国に亡命したりした。
織田軍はこの南近江攻略(六角氏攻略)で大きな損害は受けなかったため、その勢いで次は協力しない三好氏を中央から追い出すべく、すぐに山城(やましろ・京都府東部)にも侵入した。
将軍の支援と京(朝廷)の救済を名目に山城に乗り込んできた織田軍に対し、中央復興の面倒を大して見れていた訳でもなく権威を利用していただけの三好軍との、山城でのその名目(団結)の差はすぐに戦いに現れ、三好派の者たちは数ヶ月で山城から一掃された。
この時の南近江攻略と、山城の反織田派(三好派)の追い出し作戦は、ほとんど 1568 年内の、半年もかかったかどうかで決着し、織田軍が乗り込んだ後の山城(京都府東部)は、大きな争乱は持ち込まれず平穏が維持され続けた。
これは、他の戦国組織との法の改革力・実力差が歴然と現れるようになった織田軍の快進撃だったといえる。
この大戦果は、信長が尾張統一を始めてから美濃攻略を達成する間の、実に15年間前後の法(社会性・教義性)の組織改革が努力され続けてきた力が、よそとの差として大きく出始めてきた結果に過ぎない。
織田氏が美濃攻略に要した8年は、これは「攻略に8年かかった」というよりも「より法(社会性・教義性)の改革を続けながらだから、結局8年かかった」のが正確なのである。
1560 年に今川義元が、数ヶ月で尾張を支配できる訳がない桶狭間の戦いが、いかに後がない強引な企画であったのかが、そういう差から窺うことができる。
尾張統一後も組織改革を重視し続け、もう7、8年かけて新たに1ヶ国の支配力(法の整備力)を磐石に整えていった織田氏と、一方でそれがろくにできていない諸氏との差が、歴然と出始めていたのである。
山城で織田軍の反対者(三好派)を一掃して京に戻った信長は、すぐに将軍の居城のための建設に着手し、さらに貧窮していて生活にも支障が出ていた朝廷(皇室と貴族たち)にも、まずは食事や衣類など生活に困らないよう、早急に手配した。
さらに岐阜と京との往来を快適にするための、道路の整備と拡張もすぐに着手され、この時に「通行税の要求と差別ばかりして、農商業の自由化を著しく阻害していた、何の役にも立たない従来の閉鎖的な関所(城や砦)」も早急に破却されていった。
特に山城方面の道路は、死体の散乱も当たり前で、岩や木々が倒れこんだままだったり、路肩や橋が損傷したまま放置され続けていた場所も多く、急いで京と往来しなければならない場合の行軍の大きな妨げになったため、それらが早急に処理された。
山城(京都府)-南近江(滋賀南部)-美濃(岐阜)-尾張(愛知県)の間の交通網が整備・拡張されて快適なものになり、公正な織田氏の常備軍がこの道路を頻繁に往来するようになると、これまで山城や南近江で道路を塞いで通行税を恐喝したり金品を巻き上げようとするような不正も一掃された。
閉鎖寺院(閉鎖有徳)を規制するために織田氏が設置した奉行所(役所・警察署)も公正に機能すると、人々も安心して街道(商業地と商業地を結ぶ道路)を往来できるようになり、織田軍の支配領内の庶民たちの遠隔地間の取引が推進され、経済が活性化していった。(楽市楽座政策)
当時の山城はどこも荒れ果てていて、京の復興に必要な木材や石材が、山城国内だけで調達することはとても無理だった。
そのため信長は、尾張と美濃でそれらを急いで用意させ、この京の復旧工事のための庶民の大動員も行われ、皆に職能に応じた賃金が公正に支払われたため、いよいよ領内で職に困る者がいなくなり、暴徒化(閉鎖組織化)する理由もますます皆無となった。
快適化された道路で美濃と尾張から大量の土木用材が運ばれ、京で公正な治安が維持されながら都市経済も一気に再生に向かうと、各地の庶民たちも京に駆けつけるようになった。
かつて賑わっていた京の都市経済が「時代遅れの閉鎖的で無能な正しさ(無能な教義)を否定した、織田氏の公正さ」によって復活し、京は瞬く間に活気を取り戻すようになった。
それによって税収財源が確保されるようになった朝廷も大いに救済され(信長が朝廷再建のための公領と京の特権を保証した)、山城制圧からの3年後の 1571 年頃には、内裏(だいり・朝廷の建物・事務所)の建て替えもできるほどの余裕も見せ、本来の姿が取り戻されるようになった。
この織田氏の上洛戦と、その後のこうした支配力(手配できるだけの権力)の力量差を見せつけられることになった各地の戦国大名たちからも、これは当然注目された。
宣教師たちも、こうした新時代の専制君主的な大成者の織田信長の姿に驚きつつ、教皇庁にその様子を報告している記録も残っている。
一方で、(恐らく)岐阜で待機していた宣教師たちは、織田軍の南近江と山城の平定が済んだ間もなくの 1569 年に、信長を追うようにすぐに京に向かった。
信長と宣教師たちが京で再会した時は、現地はごった返しともいえる真っ只中で、多くの人手があちこちを工事中で、その喧騒と活気に溢れていた頃だった。
信長も重臣たちも、馬廻り衆たち(信長直属の親衛隊・旗本たち)も皆が復旧作業の陣頭指揮を採っていて忙しく、京では賓客館の変わりなるような所もなかった。
そのためほとんど路上に近いような所で、信長と宣教師たちの間で対談が、そこで2時間近く行われた様子が、現場で復旧作業に当たっていた多くの人々に目撃されている。
信長はこの時の宣教師たちとの対談で、日本に来た理由や、布教の目的、またもし布教しても大して広まらなかった場合はどうするのかなど確認している。
信長はとにかく、何事もしっかり、何度も確認したがる人間だったため、その後にも対談を重ねられた中で、ヨーロッパの宗教事情(教義事情)や政治事情についてや、そもそもイエズス会はどういった組織なのかも、当然確認があったと思われる。
1527 年に起きたローマ劫掠の大事件(都市ローマの丸ごとの踏み潰し)や、帝国議会(カール5世)の話や、イスラム教徒と地中海で厳しい制海権争い(アフリカ北部の支配権争い)をしている様子などの話も、恐らく出たと筆者は見ている。
信長が領内でキリスト教の布教を認めた理由のひとつは、宣教師たち(イエズス会)の態度が良かったからだろう。
信長の特徴は、優勢である部分は自信をもって人に話すのは良いが、劣勢の部分を聞かれた時に、それについてどのような反省や方向性でいるのか、それを正直に答えずに優位な部分で隠すことばかりする、そういう怠け者団体は傾国の原因と見なし、そもそも信用しない人間だったためである。
これはイエズス会としても、かつての教義問題がきっかけで設立されたこともあり、彼らとしてもそもそも不正を嫌い、弱者には清貧の慈悲で対処するという、本来の姿勢が見直されて大事にされていた組織だったことが、幸いしていた。
織田信長の徹底した改革主義(少数の上がただ得し続けるためだけに、大勢の下に無関心・無神経・無計画に甚大な負担をかけ続ける無能主義の否定)を名目(信条)としていたその様子に、イエズス会も細心の注意を払っていた。
もし印象を良くする主張ばかりして、後で落ち度(ボロ)が出て問題視されるような面倒ごとが起きれば、即座に追放処分を受けるかも知れないことは、会側もすぐに察知できたのである。
信長が桶狭間で今川勢を撃破した 1560 年には、ヨーロッパでも帝国議会で大きな動きがあったことも、イエズス会は隠さずに正直に話したと筆者は見ている。
1560 年のヨーロッパは、西方教会(カトリック)への抗議運動の中心地となっていた都市アウクスブルクで行われた帝国議会で、提出(議論)された信仰告白書(新キリスト宗派・プロテスタント設立建白書)が、条件付きでついに帝国議会から正式に認め、教義論争に一大刷新があった年である。(プロテスタントの誕生)
イエズス会は、日本での司教座と聖堂参事会の設立の見通しの話も、早々にもちかけたと思われ、この時に信長は恐らく「イエズス会の布教の様子と教義力次第では、それがふさわしいと思えばその時に認めよう」と返答したと筆者は見ている。
話は前後するが、高山重友、内藤忠俊、小西行長あたりの著名なキリシタン武将は、各地でキリスト教に関心がもたれるようになっていた当時の戦国武将たちの、その交流の求心力になっていた者たちで、日本では聖堂参事会員の名乗りこそないものの、この3名はほぼその高位司祭に相当する存在だったといえる。
信長が京の再建にとりかかるようになったその後も闘争は続くも、それから10年ほど経過した 1578 年頃までには、中央の織田政権の影響力は、日本全体の集権化による政治経済の健全化に向かっていったのと同時に、日本でのキリスト教の影響の国際化も、より目立つようになっていった。
戦国中期あたりに全国的に茶道(禅の思想)が熱心に見直され、それが交流の国際性を支えるようになったように、キリスト教の伝来もそれと同じように、日本の時代遅れの教義に気付かされていったのである。
信長とイエズス会の関係でまず注目するべきは、織田氏は西国の有馬氏や大友氏といったキリシタン大名たちのように、当主自らはキリスト教に帰依していない点である。
九州では、各地方の有力者たちがそれなりのまとまりを見せてはいたが、近隣との力量差は横並びで、九州の覇者といえるほどの盟主的な実力者はまだいなかった。(大友氏、竜造寺氏、島津氏がそれに目されていた)
九州でも 1580 年代に入ると、島津氏が九州の覇者となるほどの隆盛を見せるも、その頃には中央では羽柴秀吉が台頭し(本能寺の変を起こした明智光秀や、その後にも柴田勝家ら政敵を倒し)、天下統一(天下惣無事令)を目指した羽柴氏(豊臣氏)の圧力によって、島津氏の力も抑え込まれることになった。
九州の戦国大名たちは、特に有馬晴信においては、竜造寺氏らと競合していたスペイン・ポルトガルとの貿易の優先権を巡って、その関係性をより有利に保つために、当主自らがキリシタンに帰依して同胞者を強調し、キリスト教徒たちとの盟友化を図らなければならない必要性が、どうしてもあった。
ただし大友宗麟(そうりん)においては、信仰面でもっとキリスト教に没頭するようになった人物として著名である。
九州で戦国後期までどうにか生き残ったそれら強豪たち比べ、山城に乗り込んで京と朝廷の再建に着手した織田氏は、それらとはもはや別格の実力を身につけ始めていた。
京の復興が始まって2年ほどの 1570 年頃には織田氏は、山城近隣の他勢力に軍事的な圧力だけでなく、外交勧告の圧力を加えただけで、帰順させられる様子を見せ始めていた。
この頃には若狭(福井県西部)を、ほぼ調略(外交)だけで帰順させ(ほぼ支配権を得)、大和(やまと・奈良県)北部で権勢を維持していた松永氏(松永久秀・策謀家の定評があった)も、織田氏に臣従するようになった。
摂津(せっつ・大阪府北部)にも軍事圧力をかけると、三好派の有力者だった摂津の池田氏(信長の重臣の池田恒興の家系とは別家。古く分家した家系)に下剋上的に敵対して台頭した、荒木氏(荒木村重・むらしげ・小勢力ながら人望をつけ、摂津北部で力をもち始めていた)も織田氏に帰順するようになった。
1571 年頃の織田氏の軍事権(上級裁判権)は、尾張勢(愛知軍団)、美濃勢(岐阜軍団)、南近江勢(滋賀南部軍団)、若狭勢(福井西部軍団)、大和北部勢(奈良北部軍団)、摂津北部勢(大阪北部軍団)をまとめて指令できるほどの連合力(実力)をつけ、これに精鋭で知られた同盟者の三河勢(徳川勢)まで加勢するという、強固な体制である。
他の戦国大名といえば、横並びの同格の戦国大名同士の総力戦がなかなか決着がつかない上に、ようやく決着がついて地方を占領できたとしても、新支配地に明確な軍事権(裁判権)を整備するのに、地方どころか郡1つに何年も何十年も手間取っている有様だった。
それに比べ織田氏の場合は、もし新支配地で残党に非協力的な姿勢を採られたり反乱を起こされたとしても、整備拡張されて快適化していく道路に公正な常備軍(国際軍・役人軍団)が領内を動き回り、無駄な閉鎖自治力を発揮されないよう、関所・要塞の破壊も徹底されていたため、圧力で従わせたり鎮圧することも簡単だった。
新たに設置されていく公正な奉行所によって、国際化を阻害しているだけの時代遅れのただの地元地縁閉鎖主義(閉鎖有徳)を徹底的に踏み潰し、農商業と物流経済の自由化を推進することで人々を納得させ(織田氏の新法で従わせ)られていたため、反対者が結託するための名目作りも、余計に難しかった。
そのように反乱が起きたとしても2、3年もすればその新支配地の軍事強制動員力(裁判権)をすっかり確立できるような、そういう所からの総力戦体制(教義の国際化競争)の力量差に、他とは雲泥の差があったのである。
1571 年頃には、織田政権がもはや日本の中央政権であるという存在感は高まり、遠方の支配者たちは織田氏にゴマスリ外交を始めるようになっていた。
近隣では、朝倉氏(越前衆)、浅井氏(北近江衆)、北畠氏(伊勢衆)のこれらは、織田氏に家臣扱いされ始めて、それに組み込まれるのも時間の問題という状況である。
それだけ他とは力量も歴然としており、だからこそ織田信長は、わざわざキリスト教に帰依して同胞者を振る舞うような必要などなかった。
織田氏はもはや、ヨーロッパでいう帝国議会のような、教義についても意見回収して監査する側の実力立場であり、宣教師たちも織田氏はそういう立場の強力な専制君主だという前提の、対談の姿勢だったのである。
これから、信長が延暦寺(天台宗・公的教義)を踏み潰した意図についてや、その後、なぜあれだけ激戦化するほど織田氏と浄土真宗・本願寺は熾烈な戦いを繰り広げたのか、そしてその闘争と終結は、どのような性質をもっていたなど、当時の教義問題はどのようなものであったのかに触れる。