近世日本の身分制社会(014/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史5/34 - 2019/09/19
 
兵農分離(へいのうぶんり)の軍制改革に至るまでに、それまでに何があったのか、まず政治面から触れることを優先し、その後に戦略面についても順番に触れていきたい。
 
戦国後期までの雑兵(ぞうひょう)の実態についてまとめる。
 
雑兵は、各地でありふれていた庶民と大差ない、地方名族の末端たち優先で構成されていた雑兵たちは、戦闘に参加して手柄を認めてもらい、名族の末裔を強調して今一度、士分待遇を得ようとした者たちだった。
 
どこも士分として長期雇用で取り立てることの枠は厳しく、そうそう取り立てられることもなかった雑兵たちの多くは、戦闘が終われば元の職場に戻ってそれぞれ自分たちの生活を支えなければならない、庶民と大差ない者たちが大多数だった。
 
彼らは普段は庶民とそう大差ない農業従事者や、町の手工業従事者(衣服の生産者だったり、武具や農具の製造・鍛冶職人だったり)たちなどで、後は庶民の中で、ちょっとした優先権をもっていたりいなかったり程度である。
 
何の権力基盤もなかった、各地ですっかりあふれていたこの地方名族の末端たちは、戦争になるとその戦員の雑兵として、彼らが中心に集まった。
 
医学が未発達だった当時、生まれてきた子の半数は成人を迎えずして病死などして、成人した後も病気や災害(戦争・天災)や飢饉や事故などで40や30まで生きられない者も多かった。
 
支配者や有力者たちは、後継者争いの火種になることが解っていても、その事情から何人か子を用意しておかないと死滅してしまうことは先述したが、そこは従事層(庶民・雑兵)たちも同じで、子が生き残れないと農村自体が死滅する問題があった。
 
戦国後期になって、地方によってはようやく少しはまとまりを見せ、灌漑工事(かんがい・水路や溜池などによる農作用水源の拡張工事)なども少しは取り組まれるようになり、多少は安定した農地耕作もできるようになっていった。
 
そうなる以前の戦国中期までは、農商業の再生と成長の見通しもない、経済世界は非常に窮屈な時代だった。
 
その事情は、同時代のヨーロッパの農民と似た所が多いため、そちらの例を紹介したい。
 
保有地権(農業労働者保証権)をもつ当時のヨーロッパの農民も、親族が飢饉や疫病などで次々に死んでいくことも多かったため、子は何人か用意しておかなければならなかった。
 
一方で、代を重ねても農地(保有地権)の広さや価値はずっと同じままで、裕福になっていく見通しもない大抵の農家は、親族の死人が少なければ、当然増え続けることになった。
 
それぞれ長男家族が顕在の所は、代を重ねればその次男以降の親族であふれるようになり、そうして親族が増えていくごとに他の生活権のあてが見つからなければ、決して豊かではないそれぞれの家長の収入の中でやりくりしなければならなかった。
 
農村ごとで飢饉や疫病や災害などが続いて、いつも通りに死者が多く出ることによって、それら次男坊以降の家系たちも、そのうちどこかの農家の人手や、農家を継ぐ者すら不足する事態も時折発生し、縁組などでその穴埋め要員になることも多かった。
 
保有地権の価値は変わらず、経済景気も一向に変わらず生活権(職場)が増えないまま、親族だけ増え続ければ、次第に農家ごとでも増える一方の親族全てを支えきれなくなれば、次男坊以降の家系は順番に厄介者の差別をされて農村を追い出される運命だった。
 
そうして農村でやっていけなくなった次男坊以降で派生していった農村の追い出され組が、仕事を求めて常に都市にあふれ、都市でも枠の厳しい市民権(都市労働者保証権)の獲得の見通しもないまま日雇いで日々を凌ぐしかない、そうした最下層貧民たちが都市にいつもあふれていた。
 
その最下層貧民は、農家から追い出された者たちだけでなく、保有地権を失った農民もあふれていた。
 
保有地権(農業労働者保証権)を維持するための、領主権による課税と、教区による教会税という、両者からの高額な税の支払いを義務付けられていた農家は、不作や不景気に耐えられなくなってそれを払いきれなくなると、裕福な豪農に保有地権を売却してでも税を支払わなければならなかった。
 
払い切れない税を裕福な豪農から借金という形で肩代わりしてもらう代わりに、保有地権を売り渡す形で譲渡せざるを得ず、そうして農地の権利を失った農民はそのまま小作人に組み込まれるのが常で、小作人になったら最後、借金の利息縛りで二度と抜け出せなかった。
 
都市にあふれていた貧民は、農村からの追い出され組だけでなく、重税を払いきれなくなって保有地権を失い、小作人に組み込まれて何の希望もなくなる格差収奪支配を否定して、都市に逃亡した者もかなりいた。
 
貧窮した小農家の保有地権を、裕福な農家が吸収し、小作人に組み込んで収奪していく庶民同士のその支配構図は、残酷かどうかはともかく、そうでもしなければどの農家の家長も自分の所の親族の面倒を見切れない上に、いつまでもたっても裕福になれず、いつまでも庶民政治の発言力も得ることもできない時代だったのである。
 
貧民があふれ返っていたヨーロッパの各都市では、市民権(都市労働保証権)を得ることはおろか、日雇いの仕事を最下層同士で取り合うありさまで、こうした事情は日本でも、派閥闘争に負け続けて士分待遇を失っていった、庶民と大差ない名族の末端たちも、立場的にはそこは同じようなものだった。
 
戦国中期までは、地方ごとの有力者たちの闘争がなかなか解決せず、それが解決しない限り裁判権(行政権)はまとまらず経済成長の見通しもなく、庶民の職場(生活権)も一向に増えなかったことから、上から下まで限られた狭い生活権を巡って上下差別し合わなければならない、精神的苦痛を強いられた時代だったのである。
 
戦国時代の庶民は、まだ親族集合体の単位で固まって細々と生活していた時代で、新田(しんでん・拡張されていった新たな農地)開発が盛んになって農家でも子をもつ家長ごとで分家し、その家長単位でようやく自立できるようになるのは、江戸時代になってからである。
 
だからこそ地方ごとで「政治の解決のための、白黒はっきりさせるための、あるべき方向性に向き合うためのやるべき闘争」をしっかりしていき、法を整備して強力な上級裁判権(行政権)を確立できる、強力な名目(誓願)を有する、頼りになる当主が求められるようになったのである。
 
しかし理念的にはそれが解っていても、どうしたらそれができるかの試行錯誤期が、戦国中期までの時代だった。
 
公正な経済社会なくして経済繁栄もありえない一方で、古臭い不健全な社会風潮ばかりが長引く一方で、織田信秀と織田信長が登場するまでは、そのための上級裁判権(行政権)の整備がどこも遅々として進まなかった。
 
経済の先々の見通しのない中で、権力者たちだけでなく、従事層同士(庶民と大差ない名族の末端同士)でも、この狭く窮屈でちっぽけな古臭い生活権(悪循環の家長権)を巡るそのイス取り合戦のための上下差別合戦を強いられ続けていた。
 
室町時代には、戦争にあるべき武士の姿とは、政治の解決のためにやるものであることは自覚だけはされていても、負け組に立たされたまま増え続ける名族の末端たちにとっては、自分たちの目先の生活権のために争わざるを得なかったのが現実だったのである。
 
戦国中期までは権力者は、庶民と大差ないその名族の末端たちに対して帰農を迫ろうにも、そのための灌漑工事(水源工事・農地拡張工事)を行ったり、商業地の拡張整備ができるだけの、それができるほど地方をまとめられていた当主などいなかった。
 
負け組の名族の末端たちは、頻繁に起きていた争いを常に巻き返しのきっかけとして便乗し、その戦員雇用にありつけるその短期間は、どうにか生活が支えられていた。
 
そうしていつものように中途半端に戦闘が終結するごとに、そのたびに地方政治の信用や希望を失い、生活権のあてがなくなる多くの雑兵たち(庶民と大差ない名族の末端たち)は、どの支配者も有力者(国衆)もあてにならないと見なすようになり、社会全体の政治理念は一向に向上していかずに、有徳(惣国一揆)の台頭を許す結果となった。
 
有徳たちが「税のただ取りは困る」と自治権を主張するようになって権力者に責任(義務)を要求し、惣国一揆の形となって反抗するようになると、やっていけなくなった庶民たちや名族の末端たち、さらには派閥闘争で足場の悪くなった有力者らも、有徳をあてにする者が増えていった。
 
上は上で、自身の立場が危うくなった有力者が有徳に頼り始め、財産や領地を分与することで彼らからの代弁権を得て、下は下でやっていけなくなった名族の末端たちや、政治が荒れ放題でどうにも生活できなくなった庶民たちが有徳を頼り始め、有徳はそれらを回収して支配下に組み込んで力をつけ、寺院を介して発言力を身につけていった。
 
農家にしても、水害が続いて溜池や用水路が決壊して農地が荒れ放題になることも常々で、次の年には今度は日照りが続いて水源を完全に失い、有力者らの誰もが災害に追いつく修復ができるほどの政治的なまとまりなどなく、そうして次々に農村が崩壊していき、行き場も見つからないそれら死にかけの庶民たちの面倒を見切れる実力者が、遅々として出現しなかった。
 
有徳団体は、強力な上級裁判権(行政権)が確立できる戦国大名が出現するまでの、有力者らの仮の地方裁判所であり、死にかけの庶民や雑兵たちの仮の擁護団体だったといえる。
 
そうして有徳たちはそれぞれ閉鎖権益を勝手に作っていき、その即席な閉鎖政治の中で、よそ者を差別しながらやっていけなくなった庶民の生活権をどうにか作って維持し、その中に逃げ込んだ名族の末端(雑兵)たちも、地侍と称して有徳の防衛武力と化していった。
 
有徳は確かにやっていけなくなった者たちを救済した点では重要な役割を果たしたが、どこも仏教(社会性)のあり方についてはうわべばかりでそこに大して真剣に向き合われないまま、権力者の足元ばかり見て閉鎖自治都合を強めるばかりの偽善保身団体に過ぎなかった。
 
この第三権力の有徳の台頭は、まとまりのない地方の有力者たちの政治に原因があったとは確かにいえるが、有徳も有徳で大して名目(誓願)がある訳でもなくただ政争の混乱につけこむだけの、うわべばかりの品性の欠けた成り上がり者集団に過ぎなかった。
 
そして有徳は地方政治のまとまりに協力する所か、自分たちの閉鎖自治権を強めるために、上にも下にも力をつけさせないために仏教(社会性)を散々悪用して、むしろ地方のまとまりを乱すことばかりしていた。
 
そうして仏教(社会性)は乱れきってどうにもならないくらいどんどん閉鎖化していき、顕如が生まれる前からそうだったそのどうしようもない無能な有徳たちが、ついに信長に摘発されて次々に解体させられていくと、僧侶としても外交家としても戦略家としても有能だった顕如に皆が泣きつくようになり、どこもろくな宗教指導者がいなかったことがようやく自覚された。
 
顕如も当時の有徳たちの実態にかなりあきれつつも、それら無能どもに泣きつかれて仕方なく面倒を見ることになったのが、顕如の宗教改革活動だったのである。
 
顕如の全国の宗教一揆(一向一揆)の呼びかけとは、まずは織田信長に徹底的に打ちのめされ、さらに顕如からも今までの始末の悪さを説教された有徳たちが、ようやく仏教の現状とそのあり方に真剣に向き合うようになり、次第にいい加減な者は脱落していき、真剣な者たちが残って続けられた運動だった。(宗教問題については後述)
 
有徳排撃から始まり、それぞれの農地や商業地ごとの価値と事情の調査および、道路や橋の積極的な建設と区画整備を進め、従来の使えない閉鎖的な規則は次々と撤廃してこれからは努力次第では最下層でも有利になる法に、公正さをもって信長が改めたことで、大いに経済再生と成長が促進されるようになった。
 
信長が、使えない有徳どもから寺領特権をいくらでも巻き上げ、また使えない家臣らの領地特権をどれだけ巻き上げても、結局何の社会問題も起きなかった理由はそこで、逆にいえばそれを可能とした理由でもある。
 
今までは、どこも枠に限りのあった窮屈でちっぽけな生活権の盗り合いも、織田氏の支配地域では努力次第では誰でも生活権を作って維持できるようになったことで、上から下までに至る、代を重ねてありふれていく派閥差別闘争の負け組たちも、帰農してもいくらでもやっていける社会に信長がすっかり作り変えたのである。
 
織田政権の支配地域ではもはや「その待遇(生活権)を失ったら、やっていけないから」という、今まではその盗り合いが前提の、助け合いの悪用の悪縁利害で常に上から下まで大勢を巻き込んで派閥闘争(差別闘争)を繰り返してきた従来の悪習も、一斉に償却されていった。
 
ちっぽけで枠の狭い待遇(生活権)の奪い合いに目を吊り上げてうわべばかり熱心になり、余計な差別ばかりし合い、余計な野心ばかり働かせて蹴落とすための無能な上下差別の理由作りばかりに一生懸命だったのが、戦国中期までの時代だった。
 
戦国中期に通用していたその「内部闘争(地方闘争)が許される言い訳」は、戦国後期の信長の公正さの出現によって、ついにそれが許されない社会に改められるようになったのである。
 
これによって軍事支配のあり方に対する世の意識も、ようやく健全化していくことになった。
 
戦国中期までは、地方ごとで内部が乱れるたびに内部差別闘争が起き、一時的な強者が現れて反対者を排撃して一時的なまとまりを見せるものの、それが落ち着けば今度はそのまとまりのない連中をどうにかまとめるために共有敵に頼って外征という、それが繰り返されただらしない時代だった。
 
政治に関心を向ける名目(誓願)というものがどこも不足していた、地方の支配者たちのだらしない支配意識はそれが常で、その態度がそのまま現れる外征は、他の地方の支配力を確立しにいく理由は表向きばかりで、実際の所は家臣ら従事層たちの目先の生活面を支えるために、ただ収奪しに外に出かけていたに過ぎなかったのが実態だった。
 
経済再生と成長の見通しがどこも立たない中、自領では代が重なるごとにやっていけなくなる名族の末端や庶民の次男坊たちも増えていく一方の連中の生活の面倒を見るための、その目先の補填のための収奪の外征を繰り返していたに過ぎなかったのである。
 
地縁のない地方同士という、互いがよそ者意識のままの、互いに踏み台にし合って奪い合うという、地方から出てきて戦われる外征というのは、よそ者の地方の農地や商業地をあらしにやって来て、金品を強盗して人さらい来るだけの強盗団と大差がなかったのである。
 
外征に戦勝してよその地方に侵入した軍というのはどこも、他領の庶民を格安の収奪労働力の奴隷として捕まえて自領に連れ去ることも当たり前で、それら庶民の家財を奪うのは当然のこと、敵対領主の経済力を削ぐために商業地や農村を焼き払ったり、橋や用水路を破壊したりして自領に引き上げるのも当たり前だった。
 
どこも地方政治にまとまりがなく、経済再生と成長の見通しもなく、生活権が常に不足していてどこも苦しい中、地方間で協力し合う国際性のある政治に向かっていかなければならなかった所、互いに閉鎖権威差別の押し付け合いを繰り返し、生活権を奪い合って壊し合っていたのが実情だったのである。
 
仏教(社会性)とは、政治意識を閉鎖主義から国際主義に改めさせるための教義でなければならない所、品性などないただの成り上がり集団に過ぎない極めて政治意識の低いうわべだけの有徳どもが、教義の悪用ばかりしてその無能風潮を助長し続けていたのはいうまでもない。
 
閉鎖的な地縁根性に頼ってばかりいた戦国中期までの外征とは、支配(統治)とは名ばかりで、所詮はよそ者の地方のことになると郡ひとつの支配権もろくに長期確保できないことが家臣たちも解りきっていたため、結局は踏み台にする側と踏み台にされる側の、名目(誓願・政治意識)が欠落した、うわべばかりの差別収奪合戦が繰り返されていたに過ぎなかったのである。
 
戦国後期(総力戦時代)に突入し始めていた織田信秀たちの時代になって、ようやくそういう所も問題視されるようになってきて、軍が他の地方をただ収奪(略奪)しに出かけていただけの今までのような、国際性の意識の低い古臭いやり方は非難されるようになっていったが、だからといってその先の政治的な見通しはどこも立っていなかった。
 
その矢先の、織田信長がやってのけた有徳排撃と尾張再統一は、政治意識改革の先駆けとなり、常にあふれ気味だったどうにもならなくなっていた庶民の次男坊たちや名族の末端たちの生活権の希望がやっと見られるようになり、今までのような奪い合いの便乗をやめて尾張に移住する者も増え、近隣から有望な人材もそれだけ尾張に集まるようになった。
 
織田信秀がやり始めた、従来の古臭い権威と風潮を破壊し始めて、責任感をもって皆の面倒をよく見るようになったその流れに、次代の信長がその重要性をよく理解し、より大々的に改善改革していった結果である。
 
弱肉強食だの富国強兵だのと、従来の古臭い上下差別の閉鎖主義が抜けきれていない小ざかしいだけの閉鎖自治軍と、あるべき名目(誓願)の上級裁判権(行政権)がともなった、国家使命軍化・国際軍化されていったその別格の違いを織田信長がついに見せつけた時代こそが、戦国後期(=安土桃山時代)である。
 
これは簡単にいえば、収奪しなければ軍を維持できない、勝つことに常にあせらないといけない閉鎖差別収奪軍と、それに対し経済的余裕で軍を支えられるようになったことで収奪する必要などなくなり、公正さを守らないと厳罰を受ける法で維持されるようになった国際公務軍という、各段の意識の違いによる戦いといえるのである。
 
これから、信長の兵農分離の軍制改善による経略(政略や軍略)がどんなもので、他の戦国組織とどのような差になっていったかについて触れていきたい。