近世日本の身分制社会(015/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

オブジェクト指向と公的教義の倒し方を知っているブログ
荀子を知っているブログ 織田信長を知っているブログ

- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史6/34 - 2019/10/05
 
信長の兵農分離の軍制改善について、美濃攻略の様子から色々触れていく。
 
尾張を再統一した織田氏は、8000くらいは動員できたはずだが、できるだけ雑兵に頼らない、兵農分離化された常備軍でどれだけ戦えるか試した。
 
この頃の織田氏の常備軍は2000ほどと思われ、そこから2000ほどの雑兵も加えた合計4000ほどで美濃攻略が開始された。
 
これはまず、財政や庶民に負担をかけずに戦うことが意識されているだけで従来とは全く違うといえ、また当時の尾張1ヶ国による2000は、常設兵力としてはかなりの大軍といえる数である。
 
戦国後期に突入し始めていた織田信秀たちの先代時代は、1万や2万の単位で各地で戦われることも珍しくなくなっていたが、それら大部分は先述したように長期雇用できていた訳ではない、非正規の雑兵に頼った短期決戦企画の瞬時数字に過ぎず、どこも常備軍はその内の2000もいたのが怪しかった。
 
美濃攻略の初段階では信長は主に、墨俣(すのまた・州俣)方面か、兼山(かねやま・金山)方面かの、いずれかへの侵入を何度も繰り返した。
 
それに対し斎藤軍がいつも8000ほどの大勢で向かい、当初は織田軍を追い返すことができていた。
 
美濃の斎藤氏は世代交代がうまくいかず、法の整備も間に合っておらず団結を失いつつあったが、その矢先に織田軍が美濃に度々侵入するようになったことで、このよそ者の共有敵を追い返すことに、しばらくは団結できるようになっていた。
 
相手がいつも8000でくるからといっても、増員できたはずでも、不利であるこは解っていても、信長はあえて4000で挑み続けた。
 
外征は、その郡の事情に詳しい有力者の味方が多いか少ないかで大違いで、馴染みもなく勝手も解らない他領に侵入する以上は、大軍で侵入しても局地戦はかなり不利な世界だった。
 
これは後述する桶狭間の戦いでも重要な部分で、武田信玄の信濃攻略(長野県)や、上杉謙信の越中攻略(富山県)などでも同じことがいえる。
 
甲斐再統一を果たした武田信玄は、隣の信濃では団結も崩れつつあった小笠原長時を見て、信濃攻略に乗り出すようになり、これも武田信玄の方が有利に見えても、最初は武田軍は、危険な目に遭って撃退されている理由もそこである。
 
これは、地方で不満をもっている有力者が多かったとしても、鞍替えしようにも臣従する条件が良いとは限らなかったためである。
 
敵領に侵入した時に、味方の軍の現在位置が今、どの辺りにいるのかよく解らないことも多く、解りやすい定番の道を使えばそれだけでも敵に動きを読まれやすくなってしまう上に、どの位置からだとどの方面のどの城まで、少数なら、大勢ならどのくらいかかるか、どんな近道があるのか、どこからいつ奇襲がくるのかも、よく解らないのである。
 
現代と違って地図なども、山や川などの目印を頼りにしているだけの距離感などまったく解らない地図しかなく、地元の者もそれぞれ地域周辺のことしか詳しくないため、地域ごとに安心して信用できるような味方が少なければ、各地域の事情も把握できず情報戦から不利だった。
 
大兵で威厳を示すのも確かに大事だが、戦国後期では他領(よその地方)を支配するためには、各郡にいる有力者や庶民たちの支持の信用関係が築かれていかなければ、いくら戦勝して占領しても、支配権を簡単に獲得できる訳ではなかった。
 
他領のことを手引きしてくれるような、安心して道案内役をさせられるような地元の味方がいないと、侵攻側がどれだけ大軍を有していても、ちょっとした敵の奇襲ひとつが察知できなかったことで、本陣や補給線を叩かれて、かなり不利な状況に陥る心配もあったのである。
 
戦国後期の地方攻略は、そこを掌握するために何度も侵略を繰り返し、地道に敵を切り崩しをしていくという、軍事力だけではない政治工作も問われる戦いに移行しつつある時代だった。
 
信長は、ただ国力に任せて大軍を用いればいいという従来の考えにとらわれずに、常備軍主体ならどこまで成果を挙げられるのか、どのような効果や優劣が出てくるのかの様子をよく観察して統計を採りながら、損耗率が激しくなる度に、尾張に引き返すことを繰り返した。
 
そして尾張で損失を早々に補充し直すと、何ヶ月かすれば、早ければ数週間もすればまた墨俣方面か兼山方面に出現し、そのたびに斎藤軍も軍勢を引き連れて追い返すという一進一退の戦況がしばらく続けられた。
 
最初の2年では織田軍は、ただ敵領への行き来を繰り返していただけに見えるが、事態は確実に進展していた。
 
織田側はこれを続けていても大した支障など出なかった一方で、斎藤側ではただでさえ国内の整備がうまくいっていない所に、毎度の織田軍の迎撃に付き合わされたことで、2年目には政治力や統制力に確実な打撃となって現れるようになった。
 
小さな軍事牽制行動も含めれば、年に6回も7回もこれに付き合わされた斉藤側は単純に、甚大な負担になったのはいうまでもない。
 
織田側の軍事行動は、4000の軍のための雑兵の動員は2000だけだったのに対し、斉藤側は常備兵は1000もいたか怪しいことから8000の軍のために毎回7000もの雑兵を動員させられていたことになる。
 
本格的な軍の対峙と戦闘が1年に3度だったと考えても、斉藤側は1回7000の1年3回で2万1000、2年で4万2000もの雑兵の動員をさせられたことになるのに対し、織田側は1回2000の1年3回6000、2年で計1万2000しか雑兵を動員していないことになる。
 
年に2万もの雑兵を動員することは、2ヶ国や3ヶ国の支配者でも大変な中、内部整備も大して進んでいない美濃1ヶ国の斎藤氏が、政治的な打撃を受けるのは明白である。
 
それに対して織田側は、その間にも政治面の整備は着々と進められていき、庶民に一切の負担をかけることもなく資金や食料も貯蓄され、大兵を動員しようと思えばいつでもできる状態まで作られていたのである。
 
美濃の当主・斎藤龍興(たつおき)は、尾張に逆襲できるほどのまとまりを見せることも困難な中で守り一辺倒を強いられ続け、戦国組織としての先々見通しも一向に見せられなかったことから、家臣たちの求心力もいよいよ低下していった。
 
織田側は兵力こそ大したことがなくても、何の負担もかけずに軍を何ヶ月でも長期維持できる財政と軍事の基礎体制が着実に整えられていったため、斉藤軍が追い返しに来ない限り、2000もいる常備軍は延々と敵領内に居座り続けることができた。
 
それに対し斉藤側は、領内に侵入してきた織田軍にいつまでも居座られると、その郡の裁判権を維持できなくなるあせりから、確実に織田軍を追い返すためにいつも無理をして多勢を動員することを強いられ続けた。
 
領内の郡に延々と居座われ、いつまでもそれを追い返すことができなければ、そのうちに勝手に砦や城を築かれてしまうためである。
 
それをすぐに解体させられなければ、その後の敵の侵略を有利にさせてしまう補給線・防衛線の拠点構築を許してしまうことになる上に、その拠点がその郡の裁判所(奉行所)の権力として構築されてしまえば、支配者としてのその郡での威厳も保てなくなる致命的な原因にもなるのである。
 
信長は相手の脆弱な政治力をよく解っていたからこそ、いつも迎撃の手勢が多いからといってもあえて大兵を動員せずに、緒戦の勝ち負けにこだわらずに相手を切り崩すために、何度も侵入と引き上げを繰り返した。
 
2年目になると、織田軍を追い返しても大して恩賞が分配される訳でもない斉藤側の戦意も低下し続けて、財政も統制もいよいよ乱れ始めると、織田軍を追い返せるほどの力も弱まっていった。
 
軍事力が低下していく斉藤軍が、2000または4000しかいないはずの織田軍を撃退することも困難になっていくと、織田側は次第に美濃と尾張の出入り口近辺に拠点要塞を築くようになった。
 
それを解体させることができなくなっていき、その周辺で失望しつつあった斉藤氏の有力家臣も、いよいよ織田側に味方する者が増えていった。
 
これを調略(ちょうりゃく)と呼ぶが、調略の元々の意味は、敵の事情を探り、味方の強みと敵の弱みを分析しながら、軍事行動の前の効果的な事前工作によって、戦況を有利に進めていくことを指す言葉だった。
 
しかし調略の意味が段々と、信用力のある敵をいかに味方に引き入れ、それで敵の戦力をいかに削いでいかに味方の戦力を増強していくかということが争点になることが多くなったことから、調略の意味は次第に、敵を味方につける工作の意味として使われるようになった。
 
そうして着実に侵攻を進めていく織田軍に対し、それを防ぎきれなくなりどうにもならないと失望していく美濃の有力家臣たちの中には、格下げされるかも知れなくても、中には早々に降参しておいて少しでも心証を得ようと織田氏に投降する者が増えていった。
 
斎藤側も体制が崩れていく中で、権威を示すために無理をしてあえて大軍を動員してきたり、規模の大きい城に大勢で立て篭もったりして妨害に努めたが、信長も苦戦しつつも、その必要に応じてここぞいという時だけ雑兵を大動員して決戦に挑むという、兵法の基本ともいうべき戦い方がよくできていた。
 
投降してくる斉藤氏の有力家臣たちに対し、信長は彼らに今までの斎藤氏の裁判権を否定・放棄させ、これからは織田氏の裁判権への裁定による従属を公認させることで傘下に降して、郡ごとの裁判権を着実に獲得しながら占領していった。
 
どのような事情や条件で、いつから織田氏の家臣になったのか、どのような権利を得る代わりにどのような対価義務(責任)が生じるのかを確認し合う当時の誓約書を、発給書、起請文(きしょうもん。他にも支配下公認権の朱印状=特許状など)といい、それが神社や寺院で誓願され、それで人々に正式に告知されるのである。
 
信用経済が、公正さが厳正に守られる国際性がなければその経済再生と成長もありえないのと同じで、その組織の誓願(名目)の公正力・適正力・信用力がそのまま上級裁判権(行政権)の保証と義務(責任)の効力となる世界なのである。
 
信長は、従来のようにただ大兵で敵を打ちのめしてだだ占領し、ただ収奪してただ家臣や雑兵たちに分配するだけの、政治的な見通しなどない単純で古臭い戦い方とは完全に決別し、公正さにこだわった裁判権で人々を着実に認めさせながらの、本来のあるべき国際人道共有(国際人道裁判権)のための軍事名目を、どの戦国組織よりも最も有していたのである。
 
占領地域では有徳狩り(反勢力の残党狩り)が早々に行われ、古臭い閉鎖差別主義がいつまでも抜けきれていない無能な代官は一掃され、厳正な奉行所と代官が手配されていき、閉鎖的で窮屈でちっぽけだった各地の農商業の経済世界は、宗教に至るまで次々に自由化を促進させた。
 
農地と商業地の事情と価値が次々に調査されて法と区画の整備が進められていくと、閉鎖的な不要な城や関所は次々と破却(破壊撤廃)されながら、交通網や橋の建設や水の対策(河川制御や用水路)の土木工事事業、信用できる寺社への地域支援など熱心に行われていった。
 
美濃攻略の後に続けられた、伊勢攻略、近江攻略などでもこうした基本は同じで、信長がやり出したこれら前例が、のちの江戸時代に向けての手本にされていった。
 
信長が越前の朝倉氏と対決するようになり、それに共鳴した比叡山(天台)の門徒衆や近江北部の浅井氏とも敵対するようになると、織田氏だけが急激に力つけていくことにあせり出した各地の実力者たちが織田氏に一斉に噛み付き始め、対敵がどんどん増えていったために、織田軍も雑兵を大動員することが多くなってかなりの苦戦をした。
 
しかしどの戦国組織よりもまずは常備軍の数で大差をつけていった上に、格段に公正だった法の整備の組織力によって他の戦国組織とは、まず生産経済力の面で大差がつき、時間が経過するほど強大になっていく織田軍を、どの戦国組織もろくに抑えることができなくなっていった。
 
織田信長は、圧倒的な力で連戦連勝していった印象が強いが、実際は局地戦では何度も危険な目に遭っていて、敗退も結構している。
 
しかし敗退している印象が全くないのは、他の戦国組織では損耗率が1割も2割も出れば立て直すもの大変だったのに対して、信長の場合は経済力も法の整備力も圧倒していた上に、有能な家臣を選別できていたために、将を失ったとしても次々に抜擢される有能な家臣たちで補われ、立て直す力に雲泥の差があったためである。
 
「圧倒的な力で敵を粉砕」という印象は、いよいよ軍事力に派手さが出てきた近江越前攻略(浅井氏・朝倉氏)や、長島一向一揆戦、長篠の戦い(武田氏)などの印象が強いためである。
 
時代の価値観が目まぐるしく変化していた戦国後期では、何にどう向き合っていくのか、それぞれの信用問題としてその責任を示していかなければならない時代だったからこそ、その部分で有力者同士で疑い合うことも多かった一方で、その向き合い方の健全化も促進させるようになった。
 
特に信長の台頭は「今まで通りのままで過ごしていていいのか」という良い意味での疑い合いが促進され、人々の意識をより健全化させていくことになった。
 
戦国後期の特徴の1つとして、有力者から従事層(下級武士や庶民たち)たちに至るまで、面従腹背から面背服従に健全化していった者が増えたことが顕著である。
 
話は少しそれるが、面従腹背(めんじゅうふくはい)の意味は、その目標やその社会性(組織)などに表向きは従っているが、内面では、心底納得している訳ではない、そこまで信用関係が大事にされている関係にはなっていない状態のことを、まずは指す言葉である。
 
特に人的信用の場合は、片方または両者がそこまで目標共有によって信用を構築していき結束しているような状態ではない、目先の利害のみの関係しか求めていない実態のことを指す。
 
それ自体が悪い訳ではないが、面従腹背の態度の話は丁度、それぞれの当事者本人にとっての良心(怒り)からくる信用事故の態度が、誓願の態度の話と全く同じといえる。
 
良心(怒り)は誓願と同じで、厳密には人間に向けるものでなく、厳密にはそうでなければならないという本人(当事者)にとっての主義や目的観念に向き合っているかどうかの信用実態の関心範囲に向けるものである。
 
例えば5000万円1つと2500万円2つの計1億円の債務(債権発行)を抱えた会社が、いい加減な経営を繰り返して不渡り倒産してしまい、管財人から会社資産が1000万円しかないことが告知された場合、単純には5000万円の債権は500万、2つの2500万円の債権はそれぞれ250万までの債権価値しかないことになる。
 
5000万円の約手の契約に沿って多大な負担をしたのに500万までの回収しかできなくなってしまった債権者にとっては、先にも後にも債務信用との関係性が曖昧な良心ばかりで優良企業感だけ発揮されても、債務責任への慎重さや厳正さとの関心が欠落しているようないい加減な経営実態であるほど、それに怒らない人などまずいないだろう。
 
他にも不運が重なって困ったという親族や知人が申し出てきた100万単位の多額の借用に応じることにしても、先の倒産会社の話のように、計画破綻や踏み倒しもあるかも知れない危険性もあるやりとりならなおさら、慎重さや丁寧さや公正さや厳正さといった具体的な信用のやりとりへの関心と結び付いている良心の確認が重要になってくるはずである。
 
借金はもっといえば、銀行のことや融資のことに全く無関心なまま、良心だけで銀行がいつでも何億円でも融資してくれるのなら誰も苦労はないはずで、融資の信用責任に無関心なまま良心が通用しない銀行という怒りだけ発揮するだけなのは、どちらの方が問題児なのかは明白である。
 
もちろん、銀行側の一方的な条件で偉そうに提示してくることに内心では腹立だしさをもつ人もいてもおかしくはないが、もし「こうでないとおかしい!」とそこまで強くいいたいことがあるのなら、その分だけの世の中任せ・人任せにせずに金融業界に自分で責任をもって強く関心を向けてよく調べるべきだろう。
 
他にも例えば、どこかの有名な運送会社か何かの重役が、自分の所の良心(社会性)をただ拡大解釈して悪用しているだけのものをもちだして、大して関心がある訳でもないどこかの飲食店経営会社の経営のちょっとした落ち度に、偉そうに指図同然の批判を公表的にした場合を考えてみれば、解りやすいと思う。
 
それをされた飲食店関係者にとって「落ち度は認めるが、偉そうに指図する割には、全然関係ない業務の良心(基準)の拡大解釈を押し付けているだけで結局、飲食店経営のことなどろくに解っていない」ということになれば、それはデマを広める業務妨害の原因になりかねない。
 
情報化社会が進んでいく近年においては「なんかおかしいな」程度ならいいと思うが、肩書きや影響力のある人間ほど、当事者ごとの関心内と関心外を踏まえずに、自身や相手の印象操作をしたいだけの、信用世界からズレてばかりの余計なデマを拡散過熱させてしまえば損害賠償に発展しかねない問題となる。
 
無能は、やめておけばいいものを本人の関心外のはずのことに必要以上の口出しや介入をして、その無関心・無神経・無計画な自身の良心(怒り)で招いたはずの信用事故を、その無能な良心(怒り)でなお通そうとする見苦しい態度を改めようとしないから無能なのである。
 
それは面従腹背の態度でも同じで、その態度だけではそれ以上の見通しなど生じないことに関心をもたずにその態度を通しておいて、その態度以上の待遇や効力や実績を得ようすることで招いた自身が起こした信用事故を、自覚しようとしない問題と同じ話である。
 
広く浸透するようになった情報通信機器の利用は近年では、特に人道に関する主張は考察共有から逸脱している、信用実態の関心範囲の公正さをもって扱う義務(責任)を放棄しているような、そこの関心が示されず伝わらない良心(怒り)の腹いせ態度ばかりの悪影響な発信者は捜査され逮捕される事例も増え、利用停止措置や罰則条件が厳正化されていくことも明言されている。(政治発言・報道については後述)
 
本人のいう良心(怒り)に対しての、信用実態の関心範囲の公正さが何ら示されていない、信用事故との何の確認をし合いたいのかも解らない丁寧さも慎重さも身に付かないような、雑で荒いだけの良心(怒り)を人間に向ける社会上下統制は、近年では通用しなくなってきているのである。
 
軍事行動にしても、人間に良心(怒り)を向けているだけの軍事行動と、信用実態(先の債務信用の例など)の関心態度との相対的な良さ悪さに良心(怒り)を向ける目的の軍事行動とでは、どちらの方が優れた法の裁判権となるのかはいうまでもないはずで、それを普段から心得ておけば何ら恐れることなどないのである。
 
戦国後期には、先々の責任の見通しがないような従来の閉鎖基準から、裁判権をいかに国際基準化していけるのかが、その関心の戦国組織の態度がそのまま政治力と軍事力の総力戦体制の実力として現れるようになった、そこが問われる時代に移行していた。
 
戦国後期の競争とは、法の国際化競争であり、責任をたらい回しにせずにより公正に大勢の面倒を見られる支配者の下に人々が従い始め、それができていない側は求心力を失って公判維持ができなくなり離散していく競争であり、公正な国際対応力(役割の器量)に応じて、身分待遇が確定される意識が向いた時代なのである。
 
織田信長がまさにその代表格で、ヨーロッパでも近世(16世紀)には顕著に見られるようになった当時のその動きことを等族統制社会という。
 
そのため信長は、権威や地位に見合っただけの義務(責任)に関心がもてている家臣なのかどうかを日頃から厳しく監視し、有徳のようにそこに無関心・無神経・無計画な良心(社会性)の拡大解釈の悪用をしているだけの公正性の欠けた、態度をわきまえない過分な家臣は格下げしていき、地位が低くてもその見込みのある者を手荒く指導し、人事異動を強行したのである。
 
それが求められていながら、どこも中途半端にモタモタやっていたものをついに信長が一気にやり出したために、その様子に日本中が「我々もモタモタやっていたら時代に置いていかれてしまうぞ」と急に慌て始めた。
 
土佐(高知県)の長宗我部氏(ちょうそかべ)や、薩摩(鹿児島県)の島津氏などが顕著だが、信長の尾張再統一や美濃攻略の前例を手本に、各地でもそれぞれ地元の事情に合ったまともな再統一戦(法の整備)がようやくされていき、よその戦国組織が信長の立証の背中を追っていたような有様だったのである。
 
それで新たな水準についていけた戦国組織は成長していき、中途半端だった戦国組織は年々不利になって列強に吸収され、消滅していった所もどんどん増えていった。
 
その現象は現代企業に例えると、食品業界にしても情報産業にしても芸能界にしても、どこかが開拓した新仕様の売り出しが大成功を見せると、その競合企業が「我々もモタモタやっていたら食いっぱぐれるぞ」とばかりに、その流行に便乗して類似関連仕様を次々に売り始める状況である。
 
先駆け企業が主導力を維持し続ける場合が多いが、一時的な流行に過ぎなければその業界全体の盛り上がりも一時的なものの場合もあれば、先駆け企業が衰退していき、より改良工夫していけた便乗企業がのちに主導力を握る場合ももちろんある。
 
それぞれ特性も違い、一時的な流行の食産業の商戦だったり、携帯電話なら1つ契約購入すれば皆が何個も必要としている訳でもない、買い替え時が狙い目になってくる商戦だったり、芸能なら話題性の価値が維持できれば複数あっても困らない商戦だったりと様々である。
 
業界ごとにそれぞれ組織体制力がモノをいう部分も多く、人的信用基本については共通している部分も多いため、そこによく関心が向けられたものであれば、その拡大解釈も善用になることも多い。
 
しかし一方で、求められる質の細部は違う部分も多く、だからこそ人的信用基本についても雑で荒いだけの良心(怒り)の拡大解釈の悪用にならないよう、当事者ごとの関心内と関心外の確認(尊重)に丁寧さや慎重さをもった考察や主張を心がけることは大事である。
 
話は戻り、戦国後期に閉鎖主義から国際化に向かっていき、信用態度の風潮もいくらかまともになってくると、面従腹背も善用されるようになった。
 
つまり、今までのような閉鎖的な信用意識ではその内に誰にも信用されなくなり、何もできなくなるという自覚と危機感をもつ者と、それを一向に自覚しない者とで明暗が分かれていき、それが自覚できている者がそれを自覚できていない者に面従腹背するようになっていった。
 
それは同時に、それができている表向きの敵対相手への内実の面背服従であり、時がくれば生き残りをかけていつでも無能集団との縁を切って、有能集団との縁を築こうとするようになった有力者が増えたという意味である。
 
そうした傾向が強まったことで、家系ごとで親子兄弟も面背服従によって家運をかけてそれぞれ別の道を歩むようになっていた例は多く、例えば美濃の有力家臣のひとつだった日根野(ひねの)家の、日根野弘就(ひろなり)と日根野高吉の親子の場合である。
 
美濃攻略によって敗れた父の日根野弘就は、その後も他国に逃亡して織田氏に逆らい続けたが、子の日根野高吉は早めに信長に臣従していて、そのように親子兄弟であえてそれぞれ郎党(一族や家来たち)を表向きの敵味方に分離させて、どちらかが滅亡しても片方が生き残れば良いという、信用問題と家運をかけた生き残り策を選ぶ家系がかなり増えていった。
 
信長もそれをある程度許容していて、日根野高吉の真面目な態度を信用して家臣として認め、大勢いる家臣団の中ではそう目立っていた訳ではないが、よく働いた高吉は信長から疑われることはなく評価を受けていた。
 
ちなみに日根野高吉は長生きして関ヶ原の戦いでも東軍(徳川)につき、小大名としての家格を守り切ったものの後継者ができず、高齢なまま養子の届け出も遅れた手際の悪さから、幕府に藩主としての存続が認可されずに改易されてしまったが、一族は家格を再評価されて改めて江戸の旗本待遇に組み込まれ、尊重されている。
 
信長が美濃攻略を始める以前の、先代時代の尾張勢と美濃勢の一進一退の戦いが行われていた頃から、美濃では土岐一族だからといっても派閥闘争などで足場が悪くなってやっていけなくなった者やその末端の者たちが尾張の織田氏に頼って家臣になったり、尾張でも同様に美濃の斎藤氏に頼って家臣になっていた者もかなりいた。
 
そうした事情もあって、織田氏と斎藤氏の家臣たちは表面上は敵味方でも、中には旧来の縁の者同士でこっそり信用関係が結び付いていた者もいて、そのつてで「この者は信用できます」と信長に斡旋してもらったりして、織田氏の家臣に組み込んでもらう者もいたのである。
 
形ばかりの室町将軍の足利義昭から援助を求められた信長は、最初は助けたが、のちに対立するようになると、どちらにも義理を果たさなければならなくなった三淵家(三管家の名族細川氏の有力親類)の三淵藤英(みつぶちふじひで)と細川藤孝(和泉系細川家に養子入り)の兄弟も、家系の信用を守るために足利方と織田方にそれぞれ分かれて戦った。
 
足利将軍家の親衛隊の家柄であった体裁から、兄の三淵藤英はその義理のために織田氏と戦わざるを得なくなり、信長に敗れた三淵藤英は子と共に切腹させられることになったが、孫はまだ幼児であったことから死刑を免除され、責任感の強かった細川藤孝がその孫や、他にも命だけは助かった一族や家臣たちの面倒をみた。
 
ちなみに知る人は知る話だが、大藩の祖となったその子の名将の細川忠興(ただおき)と共に優れた人物として、こちらは知恵者・文化人としてかなり優れていたこの細川藤孝は、第79代内閣総理大臣の細川護熙(もりひろ)氏の先祖にあたる人物である。
 
三河北部の支配権が争点となった長篠の戦いの時、その地帯の有力者だった奥平家も、武田につくか徳川につくか両者から信用問題を問われ、父の奥平能昌(よしまさ)は武田方に、子の奥平貞昌は徳川方にそれぞれ郎党分離して、さも内部分裂したかのような演出をしてそれぞれ家運をかけて戦った。
 
話は前後するが、のちに全国で西軍豊臣か東軍徳川か、どちらを政権支持するか、後で誰にも文句いわせないために強制参加をさせた総選挙戦ともいうべき関ヶ原の戦いも、それがかなり目立った戦いだった。
 
讃岐(香川県)の生駒親正と生駒一正の親子が、但馬(兵庫県北部)の小出吉政と小出秀家の兄弟が、鳥羽(三重県南東部)の九鬼嘉隆(よしたか)と九鬼守隆の親子が、上田(長野県中東部)の真田昌幸と真田信幸の親子が、それぞれ義理と家運をかけて西軍(豊臣)と東軍(徳川)に分かれて戦っている。
 
大手だけでもそれだけあり、信長が 1561 年頃に本格的に美濃攻略に乗り出してから、信長が本能寺で死ぬ 1582 年を経てそして 1600 年の関ヶ原に至るまでに、そのように敵味方に分かれて、恨み合いや欲望のためではなく、義理と信用政治のために戦うようになった家系は、小規模の家系も含めればかなりの数にのぼる。
 
関ヶ原の戦いの頃になってくると、これからの信用政治の見通しの支持と義理の態度さえしっかりしていれば、内部分裂したかのような演出などもはや不要なほど時代を認識できていた者も増え、徳川家康もそこに間違いがなければ寛大に評価するようになっていた。
 
全国に政治と軍事の信用の向き合い方を改めさせ、戦国中期までのただの閉鎖差別収奪競争をやめさせ、戦国を終焉に向かわせる社会影響を織田信長が与えたのは、間違いない所ある。
 
常備軍の話に戻り、常備軍が集権力でモノをいうようになるのは、公務軍としての大きな効果にもなったためである。
 
それまでは何かあれば支配領内で不真面目な不満分子たちが結託し、対外勢力と連携して挙兵することなど当たり前だったものが、それをいよいよできなくした。
 
まず、厳正な裁判権を着実に認めさせながら支配地を増やしていった中で、失脚したり格下げされた不真面目な有力者たちだけで結託できる力も知れていて、一時的でも1000も2000も集められる訳がなかった上に、そういう不穏な動きは厳正な奉行所の連絡網ですぐに伝わった。
 
領内では軍の移動を快適にするために道路がどんどん整備されていった上に、それらが立て篭もれるような閉鎖的で無駄な要塞はどんどん壊されており、常備軍が遠くにいてもすぐに駆けつけてそれを簡単に鎮圧できる体制ができていたため、いい加減な連中同士が結託した所で大した成果など挙げられなかったのである。
 
実際に、尾張にいたはずの別働軍が、近江や山城(京都)に素早く駆けつけられるようになっていたその軍の移動体制の様子に「以前では考えられなかった」と驚いた当時の人々の様子が窺える記録も残っているほどである。
 
信長の常備軍とは戦闘員であると同時に、公正の手本のいわば腕章をつけた不正の取り締まりの検察軍団のような役割も果たしていて、戦地に行こうが待機していようが給料と食料の待遇は優遇されていた代わりに、公正さを守らないと厳罰を受けるようになっていたその姿勢が、軍務・公務の手本にもなっていたのである。
 
それまではいい加減だった雑兵たちも、正規軍はそれが当たり前であることが見せつけられると、公正さがなければその待遇も受けられないことに皆も納得し、雑兵も庶民もその姿勢を見習おうとする者も増えていくもので、本来のあるべき軍事(公務)とはそういうものなのである。
 
だから見習おうとする存在になっていないような、人々に社会的関心の良い影響が全く与えられていないような公務の存在など、もはや公務ではない。
 
それによって公正さの風紀が作られてしまえば、それを大いに下回る意識しかない、大した理由などない無能な連中の結託などますます知れており、それは敵が織田氏の領内に攻め入ろうとする理由についても同じことがいえる。
 
つまりいったん信長が占領地域の古い悪習を撤廃して、法と区画を整備して公正な奉行所の代官が配置され、それが根付いてしまった地域というのは、そこまでできていないよその戦国組織がどうやって織田の支配地の人々を納得させられるような占領支配政治ができるのかという話なのである。
 
「ただの損失補填のための収奪をしに来ただけなら、迷惑だからさっさと帰れ」と地域から納税労役を拒否されてしまったらやりにくくて仕方がなく、局地的な占領しかできなくなるほど、信長が主導した裁判権はそれだけ社会意識を一変させ、その支配力の差を見せつけることになったのである。
 
1575 年に、戦国最強と呼ばれていた武田軍を、長篠の戦いでそれを織田徳川連合が派手に粉砕したこの頃には、織田氏の方面軍体制も本格化し始めていた。
 
この頃には最重要家臣として北陸方面司令官を担当した柴田勝家も、中国地方方面司令官を担当した羽柴秀吉も、それぞれ恐らく3000ほどの大勢の常備軍を従えて加賀(石川県)や播磨(はりま・兵庫県南部)に乗り込んでいると思われ、よその戦国組織とは大差ができ始めていた。
 
他の戦国組織は、一時的に2万や3万の動員はできても、その多くは長期維持できる訳ではない雑兵軍で、常備軍は2000もいたのか怪しかったのに対し、織田氏は重臣が大勢の常備軍を抱えて各地に乗り込んでいる時点で、地方の戦国組織の当主よりも信長の重臣の方が実力(軍事力・裁判権)が上になるほどの大差が出始めていた。
 
こうした実力差の話は、のちの関ヶ原の戦いの例が良いと思うため、それをざっと紹介する。
 
豊臣政権時代の、地方の代表者たちの中で第一位の実力者であった徳川家康は、単独で少なくとも150万石の領地権は保有し、そこから良く知る協力関係が築かれていた身近な友好勢力を含めれば、250~300万石ほどは有する実力者だった。
 
一方で豊臣氏は、大坂近隣の推定70万石と、筆頭重臣の増田長盛が管理していた各地の合計100万石ほどの税収直轄地の他、親類の領地や鉱山権や貿易権などの価値を含めれば徳川氏を上回る実力はあったものの、豊臣秀吉を失って以降はそれらを管理していた親類や重臣たちの意思はバラバラで、豊臣政権の展望も主導権も失いつつあった。
 
そうしたまとまりのない皆が困り始めていた曖昧な状況で、これからの日本の政治のあり方をどうするのかを全国に問い正すために徳川家康が仕掛けた戦いが、関ヶ原の戦いである。
 
そのために西軍の最有力として担ぎ上げられたのが、中国地方の覇者で100万石以上有していた毛利氏だったが、毛利氏自体にも結束などなく、毛利輝元も結局は表向きの大将としてただ名義貸しをしただけの態度を通し続け、豊臣方の総大将のはずであった輝元はいざ戦いが始まると大坂城から出ず、作戦に参加しようとしない有様だった。
 
それで石田三成が関ヶ原の前線指揮の名代を務めることになったが、他にも似たり寄ったりの大勢を指揮するには、三成自身の19万石の格式では、1万石程度の格式の者に対してなら指令力はあっても、15万石や10万石の格式の者を指図するにはやはり無理があり、格上相手ならなおさらだった。
 
150万石や200万石を有するような実力者が石田三成の権威背景としてついていれば別だが、筆頭の増田長盛も20万石で、作戦はいくら立てられても総指揮を採るほどの人望などなかったのは、大谷吉継も同じである。
 
豊臣秀吉の最重要政務官だった増田長盛、大谷吉継、石田三成の3名は優秀だったが、関ヶ原で徳川家康と戦うには、人徳は十分に備えていたが、この3名が固まっても影響力はせいぜい80万石程度で、その点で明らかに人望が不足していた。
 
当時の日本全国の総石高はざっと1800万石ほどだったと推定すると、東軍大将の徳川家康はいわば日本の総資産のだいたい15%ほどを有していた巨大資産家という言い方ができる。
 
それに比べ、関ヶ原に現地集結したほとんどは2%や1%未満の資産しか有していない寄せ集めで、残りの85%が仮に一時的に結束できたとしても、15%もの巨大資本家がその寄せ集めの85%に圧力をかければ、ひとりひとりが2%や1%もない、代表が曖昧なその小口の集まりの結束は、簡単に崩壊する。
 
関ヶ原の戦いの頃になると、信用政治の見直しが強く行われた上でそれぞれの家格と石高が確定されるようになったこともあり、皆がその法則で盤石だった訳ではないものの、それでもその石高による家格はそのまま人望の存在感として現れる時代になっていて、その部分で主導指令力に差が出るようになっていた。
 
裁判力がそのままモノをいうようになる常備軍の差もそれと同じで、その地方代表の当主にもし1000の常備軍しかいなければ、相手の3倍の3000の常備軍で乗り込めば、その地元の有力者たちもそれだけ味方に引き込みやすくなるのも同じである。
 
常備軍と雑兵の作戦面での決定的な差は、庶民と大差ない農家から参加する雑兵は、春から夏にかけての繁農期にはほとんどの者が、畑仕事のために自身の農地に帰らなければならない制約が大きく、そのためその期間に雑兵を動員した時に、戦いが少しでも長引くと、戦闘に参加しながら農地に戻るのを繰り返さなければならず、繁農期での動員は人手不足に陥ったりして負担や支障となった。
 
だからこそ雑兵を動員する戦いは短期決戦向けで、だからこそその制約がない常備軍は貴重だった。
 
常備軍が用意できていなかったよその戦国組織は大抵は、短期作戦と短期作戦を掛け合わせた軍事計画しかできなかったのに対し、織田軍ではその短期作戦と短期作戦の間にも常備軍で作戦行動ができていたその余剰差は、かなり大きいものかあったといえる。
 
朝廷(皇室)も織田氏をすっかり信用するようになっていた 1570 年頃には遠方の戦国組織は織田氏に腰の引けた状態となって、一斉に多大な贈り物(優れた馬や鷹や特産の生地など)でゴマスリを開始している。
 
美濃攻略も落ち着いた 1568 年頃に、近江南部の六角氏(名族・佐々木源氏の代表的家系)を瞬く間に制圧すると、それまで京都以西で威勢ばかりで占領し続けていただけの三好軍の追い出しにもかかり、戦火で荒れ放題だった当時の京の都市経済を信長が大いに再建させて、大して支援されておらず貧窮し続けていた朝廷も多大に救済した。
 
京にただ野心で乗り込んだだけでなく、それを大いに再建して救済し、誰もできない政治力を全国に見せつけた信長に対し、1570 年頃にはもう遠方では信長のことを政治改革の先駆者であることを認めるようになっていた。
 
織田氏が摂津北部(大阪府北西部)や若狭(福井県西部)を抑え、播磨の赤松氏や因幡(いなば・鳥取県)の山名氏に対して政治発言で早々に介入し始めていた様子に、いずれ自分の所にも権力圏を広げてくるのも時間の問題だと諸氏は見るようになっていたのである。
 
戦国中期に通用していた、ただの閉鎖差別収奪時代は、信長の公正な上級裁判権(行政権)の差によって完全に終わらせ、信長に反抗し続けていた近隣は、威勢良く噛み付いて確かに苦戦はさせることはできたが、結局は守り一辺倒の戦況を強いられていったといえる。
 
これから桶狭間の戦いの話や、戦国後期の文化交流や宗教問題などについて触れていく。