近世日本の身分制社会(013/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史4/34 - 2019/09/01
 
桶狭間(おけはざま)の戦いは
 
「少数で劣勢であったはずの織田軍が、列強で大軍の今川軍を撃破し、当主の今川義元の首級まで挙げた
 
ということで、有名になった戦いである。
 
しかし従説では大して重要でもない部分ばかり誇張され続け、信長の作戦勝ちの部分ばかり過大評価され過ぎているように思うため、当著では作戦面よりも政治面主体の考察内容を述べていく。
 
まず、織田信長の尾張再統一も目前の状況を見て、それを見た今川氏が慌てて尾張に乗り込んできている時点で、今川方がそもそも不利な状況だったといえる。
 
この戦いは、表向きの軍事力が今川方が優勢だっただけで、優位に織田氏を否定できるほどの今川氏の具体的な上級裁判権(行政権)もなければ、大して軍事改革も進んでもいないまま侵入してきている。
 
この時の今川軍は、先述した戦国中期によく見られた、法の整備の内部問題を処理し切れていなかったからこその、まとまりのない国内の家臣たちの足並みを揃えるために外部の共有敵に頼っただけの、問題の先送り策の外征に過ぎなかったのである。
 
この戦いの今川義元の動機自体が曖昧にしか伝わっていないのも、大した理由のないその場凌ぎの戦いに過ぎなかったからである。
 
織田氏が尾張再統一(改革)を目前としていた一方では、他の戦国組織も、本来は信長と同等の改革をしなければならない段階に入っていたことだけは自覚されていたが、どこも従来の風潮から脱却できずに中途半端にしか改革できていなかった。
 
名族出身主義が根強かった今川氏では、だからこそ古い風潮と決別してより改革しなければならなかったが、その整備がうまくいっていなかった一方で、急改革を進めていた近隣の織田氏に慌てて妨害しにきただけの、主体性のない遠征だったのである。
 
かつての斯波氏の権威代理の、尾張南部の旧今川派の支援という時代遅れの古臭い理由の他に、大して重要な名目(誓願)もない今川氏は、目まぐるしく変化していた時代にもはや政治的な弱さを露呈しているようなものである。
 
これは当時の今川氏の精神的支柱であった、僧侶としても武将としても一流だった参謀役の僧将の太原雪斎(たいげんせっさい)を、この時代の節目の大事な時期に病死で失っていた影響もかなり大きかったと思われる。
 
今川氏の権威は衰退の一途に向かうのみで、次代の今川氏真(うじさね)ではもはや再建も困難で、戦国組織として消滅していった様子でも明らかである。
 
今川義元は、織田軍の襲撃作戦で戦死したことよりも、城や砦もないような尾張南部の不慣れな危険地帯に本陣を侵入させなければならなかった事情の方に注目するべきである。
 
今川家の内部統制はもう崩壊寸前だったことから、自身が危険な目に遭ってでも尾張攻略を強行する他なく、義元はこれによって何が何でも大戦果を挙げなければならない苦境に立たされていたのである。
 
これは武田信玄の後継者である武田勝頼にも共通していえる事態で、こちらはより不利な継承から始まっているために、典型的な苦し紛れの外征策が余計に目立った。
 
ここで、戦国組織の軍事改革にも関係する法の整備の大変さについて、今川義元よりもさらに大変だった武田勝頼の苦境について述べる。
 
武田信玄の四男である武田勝頼(諏訪四郎勝頼)は最初から継承者とは見なされておらず、信濃支配後の諏訪地方をまとめるための後釜として据えられ、本家の士族扱いの色が最初から濃かった。
 
しかし武田信玄が病死した時には、継承者の兄たちは事故や病死などが続いて、順繰りで当主を継承することになった。
 
武田家の次代当主としての大したお膳立てがされてこなかった上に、勝頼の本領とする予定だった諏訪郡の支配権もろくに固める時間もなく継承した勝頼は、自身の権力基盤が弱い中、過去にこだわる親類や旧臣たちの古い風潮を改革することは容易ではなかった。
 
武田勝頼も、諏訪支配時代からの側近たちや、跡部勝資(あとべかつすけ)長坂光堅(みつかた)真田昌幸、曽根昌世(そねまさよ)らを新組織としての参謀格(権限付きの重臣・家老)に抜擢して改革を図る努力こそしたが、ことあるごとに親類や旧臣たちから猛反発を受け、組織崩壊の危機を何度も招いた。
 
真田と曽根については功績をもつ家系で、生前の武田信玄からもその主計能力(政治や外交や謀略の指導能力)を高く評価されていた分、この2人に対する皆の怒りも半減していた。
 
しかし跡部と長坂については、彼らも一定の功績をもつ家系ではあったが先の2人ほど評価されておらず、勝頼のひいきで権限付きの重臣になった伝統破りの成り上がり者だと、散々ひがまれていた。
 
そもそも諏訪時代から支えて勝頼と苦楽を共にし、勝頼をよく理解し信用関係が築かれていた側近たちがそのまま当主の重臣として起用したいと思うことも、当主が望む家臣を抜擢したいと思うことも、それ自体はおかしな話でもなんでもなく、しかしそれにイチイチ大騒ぎするのが戦国組織の実情だったのである。
 
この状況自体は、上杉謙信の後継者であった上杉景勝でも同じで、継承争いに大変な苦労をして制した景勝が、自身の側近たちを優先的に抜擢して即座に組織改革に乗り出した時にも、旧臣たちからやはり猛反発を受け、その対策にさらに苦労をしている。
 
譜代(親類・重臣)たちは先代の伝統と勝頼とを常に比較し、些細な落ち度を見つけては勝頼の側近を槍玉にあげて組織の全責任を押し付け、勝頼のことも遠まわしに陰口を叩いた。
 
各地の戦国組織は、組織の権威を大きく見せることばかりに一生懸命で、時代を見据えてしっかり話し合っていかなければならないことになかなか向き合われないまま、些細なことで常に結束が乱れ、いつも崩壊寸前と隣り合わせだったのである。
 
旧臣たちが古い風潮にいつまでもしがみつき、過去と今ばかり見て先々(実態)を見ようとしないこうした軟弱主義を真っ向から否定し、徹底的に改革に挑んだのは織田信長くらいだったのである。
 
武田家は、本来は親類たちが過分な特権と領地をいったん新当主の勝頼に返還して権威をつけさせ、まず親類たちから時代に合った手本を家臣たちに示して改革していくべきだったが、この腰抜け揃いは過去の権威と特権にしがみついて、いつまでも手放そうとしなかった。
 
軍事改革にも大きく関係してくる話だが、まず親類たちは、勝頼を武田氏の本領の甲斐(山梨県)に呼び戻そうともせず、高遠方面(長野県・伊奈郡北部)と諏訪郡の中途半端で曖昧な支配権を据え置きしただけだった。
 
甲斐衆ども(譜代ども)は後見人の立場を悪用して人生の先輩ヅラばかりし、勝頼を甲斐に招き入れずにその支配権を独占し続け、当主であるはずの勝頼のことを遠回しによそ者扱いにしているも同然だったのである。
 
このような勝頼の扱い方に、敵のことながら織田信長とその参謀の丹羽長秀(にわながひで)の2人も、相当あきれて見ていたと思われる。
 
実際の所の織田信長は、武田信玄よりも武田勝頼の素質をよほど危険視し、勝頼に武田軍を改革され、その才覚を存分に発揮されてしまうことの方がよほど脅威だったのである。
 
しかし時代に全く対応できていない武田の譜代どもが実権を握り続け、勝頼のやろうとしている改革をことごとく妨害し、統制問題について真剣に考えない危機感のない無能揃いであった実態が、むしろ信長を有利にしたといえるのである。
 
甲斐衆は勝頼をもし甲斐に招き戻して先代の旧地と特権を譲渡しようものなら、勝頼は使えない親類への格下げと粛清に乗り出したかも知れないから、そんなことばかり恐れる親類衆の腰抜け揃いは、勝頼に当主としての権力をつけさせようとしなかったのである。
 
のちに織田信長が信濃と甲斐の大半を制圧して武田氏を消滅させた時、逃げ回っていた甲斐衆に厚遇をチラつかせて投降を呼びかけると、代表的な重臣格(親類衆)の1つだった小山田氏が投降に応じたが、その時の信長の対応が象徴的である。
 
甲斐を制圧した織田信忠(信長の後継者)と面会した小山田信茂は、待遇はおろか、信長の指示によって悪い見本の槍玉に挙げられて叱責を受けて切腹を命じられ、一族も処刑された。
 
これは親類でありながら何ら手本になろうともせず、自身の身の安泰のことのみ考え全て勝頼のせいに済ませようとしたその無関心さ、その無神経さ、その無責任さへの見せしめだったと思われる。
 
そういう目に遭ったのがたまたま小山田信茂だったというだけで、これはあくまで責任(義務)に対する見せしめが目的で、重臣格の甲斐衆なら誰でも良かったと思われる。
 
改革の前歴も意識も乏しい組織というのは、すぐに「自分(上)に甘く、人(下)に厳しいだけ」に退化し、自身たちの待遇が過分である自覚などしなくなるのが定番である。
 
そういう連中とは、時代という名の減価償却によって年々失っていく債務信用力(権力)をろくに見直そうともせず、いつまでも過大評価(損失補填)を繰り返して偉そうに人生の先輩ヅラするだけの言い訳ばかり身に付け、無能集団化していくのが常なのである。
 
織田信長はそうなることが解りきっていたからこそ、過去の古臭い閉鎖主義にいつまでもしがみついて「自分(上)に甘く人(下)に厳しいだけ」の使いものにならない余計な上流保身主義を身に付けさせないよう、それを擁護する有徳どもを叩きのめし、親類や家臣らの過分な特権や領地をとりあげて回った。
 
そして組織全体が軟弱集団化していかないよう、特権や領地は私物化するものではなくあくまで貸与される組織資産だという、16世紀の世界にもはや18世紀の啓蒙主義(後述)も同然の新思想をもちだして「やって当たり前、できて当たり前」の態度で家臣たちに叩き込んだ。
 
それに散々付き合わされ精神的に打ちのめされつつも、どうにかついていけた羽柴秀吉ら重臣たち、またそれに散々付き合わされることになった同盟者の徳川家康にしても、それによって散々鍛えらることになったといっていい。
 
信長は組織資産と特権にしがみつこうとする有徳と大差ない閉鎖主義に逆戻りしないよう、その公正な管理者としての信用義務を叩き込むために手荒い人事異動を強行し、公正さをもってそこを監視した。
 
軍制改革の話に戻り、まず当時の勝頼の立場で見えるのは、武田氏は最後まで甲斐を本拠に置き続け、信濃や駿河は結局は属国のような扱いしかできていなかった所が、古臭い閉鎖自治政治から大して脱却できていない弱点だったといえる。
 
今川義元にしても、地元地縁の遠江と駿河の外では、いくら権威をひけらかして尾張や三河に外征を繰り返した所で、本拠と属国という関係の閉鎖主義から何ら脱却できていない。
 
桶狭間の戦いが起きた 1560 年頃は、もはや「地元で」大軍を用意して「よその地方」にただ攻め込み、ただ占領するだけでは、一時的にしか支配力を維持できないことは、先代の織田信秀や斎藤道三らがとうに立証していた時代だった。
 
地元の地縁軍を、地縁のない地方にただ差し向けるだけでは、どれだけ大軍を送り込み、どれだけ合戦に勝ち、どれだけ占領できても、ただそれだけでよその地方を長期支配できるなら誰も苦労しないことが、もう解りきっていた時代だったのである。
 
その軍制改革が遅れていたことを今川義元もよく解っていたからこそ、桶狭間の戦いで焦って無理をしたのである。
 
戦国時代は、まず地元をまとめあげる地方統一だけでも大変で、その自己解決ができない地方は、それができている列強の近隣に吸収されていったことは先述した。
 
しかし地元地方をまとめることができても、その足並みを揃えるだけで精一杯になっているような、結局は地元根性に頼っているだけの有徳縛りの閉鎖自治主義から大して脱却できていない、国際感覚がともなっていないような組織は、時代が必要としている意見回収力、整理共有力もそれだけ知れていた。
 
閉鎖主義的な、悪い意味での地縁根性(地元根性)が抜けきれていない結果が、着実に支配できる範囲もせいぜい2ヶ国程度(県2つ分程度)の支配名目しか維持できない結果なのであり、上杉謙信にしても武田信玄にしても、それ以上は防衛するのが精一杯でとても広げられる訳がなかったのである。
 
越後(新潟県)を本拠とする上杉謙信は、表向きの威勢こそ越中(富山県)東部、能登(石川県北部)南部、上野(こうづけ・群馬県)北部と、さも3ヶ国も4ヶ国も支配権を有していたかのような威勢ばかりで、本拠以外は大して磐石な支配権など確立できていない。
 
甲斐(山梨県)を本拠とする武田信玄も、信濃(長野県)、飛騨(岐阜県北部)東部、上野(こうづけ・群馬県)西部、駿河(静岡県中部)と、こちらもさも4ヶ国も5ヶ国も支配権を有していたかのような威勢ばかりである。
 
地縁のない地方へ外征して占領する理由が、単なる従属国扱い程度の支配名目しかない時点で、踏み台にする側と踏み台にされる側の旧来の古臭い外征しかできていないのと同じなのである。
 
その古臭い地縁優先根性が抜けきれていない、国際性(社会性)の欠けた閉鎖主義の実態が、その組織の軍制能力(国際軍事力・国際外交力・軍事名目)そのものだったといえる。
 
軍制はもはや、旧来の地元地縁優遇方式とはいい加減に決別し脱却する時期に来ていて、さっさと国際使命方式(ただの閉鎖自治軍から国際軍への切り替え)に改革されなければならなかった認識だけはされ、しかし現実にはどこもそれが中途半端にしかできておらず、その点でも織田信長との大きな実力差になってしまったのである。
 
それが、戦国後期の総力戦改革の特徴であった兵農分離(へいのうぶんり)で、特に信長のこの大前進がきっかけとなって、この前例がのちの江戸時代の武士階級の身分統制社会の基準に転用されていくことにもなったのである。
 
ここでやっと江戸の身分制度のきっかけに触れられる。
 
筆者はこれを、信長が進めた初期兵農分離と、秀吉が進めた後期兵農分離(身分統制令)と言い分けるようにしているが、主に初期兵農分離を中心に述べていく。
 
まず、他の戦国大名ではなかなかできていなかった本拠の大移動が、織田氏だけは平然とできており
 
 清洲城(尾張) → 小牧城(尾張) → 岐阜城(美濃)→ 安土城(近江)
 
と、勢力拡大次第で、平気で本拠を移動させられている時点で、織田氏は軍制改革によって地縁の閉鎖主義からとうに脱却できていることを諸氏に十分に見せつけることにもなっていたといえ、この時点で、他の戦国組織とは内部的な実力に大差があったといえる。
 
織田氏は桶狭間の戦いのまもなくに美濃攻略に乗り出し、数年かかっているが尾張と美濃の2ヶ国の明確な支配者となった時には、この時点で2ヶ国以上を支配していた他の戦国大名も多かったが、その内部事情は全く違っていた。
 
信長が早々に岐阜城に本拠を移動し、まもなく伊勢攻略や近江攻略に乗り出し始めた時点で、他の戦国大名とは国際軍事力(上級裁判権・行政権)に雲泥の差が出始めていた。
 
その雲泥の差とは、信長は美濃攻略を終えた時点で、軍制はとうに閉鎖自治軍から脱却して国際軍化(国家軍化)に切り替えられていた点である。
 
桶狭間の戦いが起きた時にはこの軍制改革がモノをいう自覚だけはされていて、大してそれが進んでいない今川氏の実態を信長はよく解っていたからこそ、今川氏がどれだけ大軍で押し寄せてこようが何も恐れることなどなかったのである。
 
「軍制改革も進んでいないのに、ただ大軍を送り込んだ所で、ただ戦勝してただ占領だけして支配権が確立できるのなら、誰も苦労はない」話が、いったいどういうことなのかを、その後の信長の美濃攻略の話などから、多々説明をしていきたい。
 
まず状況からざっと説明しておくと、桶狭間で今川軍を破ってからの尾張は「よその権威がどうの」という時代はいよいよ終焉し、その反抗勢力の威勢も消滅し、尾張再統一は早まった。
 
この戦いは今川氏の支配力の限界を大いに露呈させることになり、今川氏はこの敗戦後には、尾張介入どころか三河介入の権威まで一気に衰退していった。
 
これをきっかけに元々の三河の代表格のはずだった松平氏(徳川氏)が息を吹き返し始め、三河の重要拠点のひとつであった岡崎城を取り戻すと、松平氏は三河支配の再統一戦に乗り出した。
 
松平家(徳川家康)は、祖父と父の早死が重なり、失策も続いたことでよその権威の今川氏との力関係が開きすぎてしまって以来、長らく従属を強いられ続けていたが、今川氏のこの弱体化を機に三河の今川派の排撃に乗り出し、松平氏による三河の主導権回復を目指すようになった。
 
今川氏も三河介入の権威を取り戻そうと、三河の今川派支援という古臭い名目で軍勢を向けるも、次第に権威を回復していった松平氏にあっけなく撃退されるようになっていった。
 
今川氏は本拠地である遠江(とおとうみ・静岡県西部)と駿河(するが・静岡県中部)の支配権を維持するのも苦しい状況にまで衰退していき、のちに遠江と駿河は武田氏と徳川氏の草刈場となった。
 
桶狭間の戦後の織田氏と松平氏(徳川氏)は、それまでは険悪な仲だったが、ここで織田は北へ、松平は東へ目を向けることで、先代時代の因縁は互いに流して不戦同盟が締結された。
 
尾張のもう1つの隣国の伊勢(三重県)の北畠氏は国内問題が片付かず、外征しているような余裕などなかったことから、織田氏はいったん隣国から外征を受ける心配がなくなっていた。
 
信長が尾張再統一を大方達成し、いったん落ち着いた丁度その頃、北隣の美濃(岐阜県)の斎藤氏の世代交代がうまくいかず内部統制が崩壊していた様子を見た織田氏は、美濃攻略に乗り出すようになった。
 
その頃に信長は軍制改革を試行してみたものの、この美濃攻略で実際に試してみると問題点や弱点の課題が露呈し、総力戦体制の難しさを知ることになった。
 
信長は問題点を再強化しながら、不慣れな新体制で少々苦戦しながら地道に美濃攻略を進め、結果的にこの美濃攻略はうってつけの軍事演習にできたといえる。
 
この美濃攻略の達成によって、兵農分離による軍事新体制を地道に強固に整えておいた織田氏は、この後の天下統一戦で見事にその真価が発揮されていった。
 
その際に隣国の多くを敵に回した上に、同時に一向一揆の相手まですることになったために苦戦することも多々あったものの、それでも他の戦国大名とは歴然の差となって表れていった。
 
まず、兵農分離の初期型は、単純には、専門戦員としての兵員と、一時兵員とで役割と待遇を明確に分離し、専門戦員を増員する軍政のことを指すが、どういうことか順番に説明していく。
 
兵農分離は、その実現の必要性だけは認識はされていたが、しかしどこも中途半端で、そもそもそれを維持できるだけの法(公正性・適正性)と財政を整えることが、どこもできていなかった。
 
戦国中期までは、合戦になった時にはそれぞれの地縁の庶民が戦闘に参加していた、兵力の大多数は雑兵(ぞうひょう・非正規の一時兵員)に頼った、その時武装させただけの、その中身はほとんど庶民構成中心で戦っていた。
 
戦国後期までには、派閥闘争に負け続けて武士としてやっていけなくなった、庶民と大差ない地方名族の末端の半農半士たちが各地で多くあふれていたことを先述したが、この雑兵というのは、そのありふれた名族の末端連中優先でどこも構成されていた。
 
戦国後期には、兵農分離の出来高がそのまま支配力がモノをいうようになる、その常備軍の常設が求められていても、実際にはどこもそれが大してできていなかった。
 
地方で実力をつけた戦国組織が、2万だの3万だのと大軍を動員できた所で、その内訳は雑兵が大多数で、常備軍はその内の1割もいたかも怪しく、つまり2万の動員でもそれは決戦企画の期間限定の瞬時数字に過ぎず、常備保有兵力はその1割の2000もいるのか怪しいのが、どこも実態だったのである。
 
桶狭間の戦いの時には、そういう時代遅れの今川軍の内実を信長に見抜かれていて、今川義元もそこを自覚している前提で戦っていたのである。
 
兵農分離による常備軍の常設でまず一番に効果が出てくるのは、いつでも出動できるようになる軍の出動力と機動力の差で、これが支配力の実態として大きく影響した。
 
軍の機動力に関しては、信長が支配した領内の積極的な交通網の整備の話とも大きく関係しているため、たびたび話がそれるがもう一度、当時の道路と橋の事情について触れたい。
 
戦国時代は、現代でいう国道や、県の中心的な大きめの県道というものが少なく、とにかく道不足、橋不足の時代だった。
 
長槍などで武装した兵団が二列縦隊で移動するのが精一杯の狭い箇所も多かったため、緊急で駆けつけたい場合に500や1000というまとまった人数になると、移動するだけで所々で渋滞が起き、これが軍の移動時間に大きな支障になり、5000や1万という大軍ならなおさらだった。
 
現代と比べると橋もわずかな数しかなく、しかも現代のようにダムなどで水門を作って水量を調整できる能力も当時は知れていて、河川はちょっとした大雨がくるだけで次の日の増水と激流化も凄まじく、橋を使わずに無理に渡ろうとすると極めて危険な河川だらけだった。
 
そのためどうしても橋のある所や浅瀬になっている所まで大回りする必要もあり、船を使って渡るのも当たり前で、庶民間では船によって人々を近道させて運賃を得る船頭業者が各地にいた。
 
しかし船頭たちも大勢いる軍を渡すだけの対応能力などある訳もなく、軍が急いで河川を行き来したい場合は船を調達する他なく、また大雨の激流化に橋が耐えられずに壊れるのも常々で、軍が急ぐ時の河川の往来にかかる時間や労力というのは、なかなか大変なものがあった。
 
そのため道と橋の数はできるだけ多い方が良く、しかも大勢の往来でも対応できるよう、できるだけ広く、橋もできるだけ壊れにくく、道も土砂崩れもおきにくいよう補強されているのが望ましかった。
 
今までなかった町と町の間、農村と農村の間を結ぶ直通道が作られていったことで、軍事だけでなく産業や土木工事に必要な領内の物資輸送もそれだけ快適になっていった。
 
それは庶民たちにも大きな恩恵になり、都市間の産業交流の連絡力も推進することになり、今までそれを散々妨害してきた有徳が排除されたことで道を活用して取引する人々も増えたため、街道(都市と都市を結ぶ間道)の宿場(道の駅)も整備されるようになった。
 
仏教(社会性)の悪用ばかりしていた各地域の閉鎖自治集団の有徳どもは、あちこちに勝手に閉鎖拠点を作って、その発展を散々妨害していたのである。
 
有徳どもは派閥闘争で足場の悪くなった武士たちを巻き込んで閉鎖権威組織を強化し、何かあれば砦や関所で反抗運動を起こし、肝心な時に軍の移動を妨害するなどほのめかしたりして支配者を困らせて要求をつきつけ、一方で最下層庶民に対しても、農商業の交流を阻害するための規制ばかりかけていたのである。
 
第三権力の有徳どもは、その閉鎖自治権威の保身のためだけに、支配者にも最下層庶民にも力をつけさせないために、仏教(社会性)を悪用して甘言で人々を「自分(上)に甘く、人(下)に厳しいだけ」の怠け者に無能化させるための押し売りを続け、人々に先々の関心と交流の道をふさぐことばかりいたのである。
 
過去と今だけ熱心にさせ、先々(実態)を無関心化させることしか能がない、次代たちのことなど何も考えていない口ほどにもない無神経な有徳どもは、仏教(社会性)の悪用も甘言も一切通用しない信長によって踏み潰されて当然だったのである。
 
各地方の戦国組織はそうした深刻な問題にどこも思い切った改革に踏み切れずに、結局は有徳の甘言をろくに制御できず、時代に合わない古臭い過去の上下統制に常に振り回されながらモタモタやっていたことが、信長と大差ができてしまったともいえるのである。
 
これは現代でも同じことがいえるが、戦国後期にしても経済理念(先々の社会観念)は、時代に合わなくなってきている従来の基準はさっと償却して清算し、再整理しなければならない時期というのはいつでも迎えていて、後はそれを深刻に自覚できているか、中途半端にいい加減にしか自覚できていないかの違いである。
 
織田軍は、兵農分離によって常設されていった常備軍(国際軍)の兵力の部分で、他の戦国組織の何倍もの差を作っていき、さらに領内の交通網の整備も進めたことで、軍の出動力だけでなくその移動速度にも、雲泥の差ができていった。
 
地縁軍の脱却、つまり支配先の従属国と本国の関係などという、そのような国際性の意識の低い閉鎖主義からどれだけ脱却できているのかが、そのまま兵農分離の実力差として現れ、これが国際裁判権としても大差になってくるのである。
 
人類が、法だと思っていたものが法ではなかったことに気付き始めた、教義の大刷新時代といえる16世紀(近世)には、国際裁判権を巡る近代戦(第一次世界大戦・第二次世界大戦)の特徴の原型が、日本でもヨーロッパでも出始めていた。
 
近代戦の総力戦は、準備できる軍事力がもちろん重要になってくるが、両者の上級裁判権(行政権)の整理力を実力差として明確化させる戦いともいえ、その自覚が不足している側はさっさと講和や降参をせずに競い続けようとすればするほど不利になっていく世界である。
 
織田氏と敵対した他の戦国組織は、ただ戦って負けたから崩壊したというだけの単純な話ではなく、時代に対応できるような名目(誓願)の上級裁判権(行政権)がともなっていない実態が、決戦で耐えられなくなり崩壊していく部分の方が強いのである。
 
信長の台頭による兵農分離の実現はもはや、戦国中期までの勘違いの争いの繰り返しに過ぎなかった「弱肉強食」や「富国強兵」などという、そうした国際性の意識の低い、人間性(品格)の意識の低い古臭い時代遅れの戦いへの終焉と同義だったといえる。
 
これからこの兵農分離について、なぜ、どのように差が出てくるのかについて触れていく。
 
また、そういう時代だったからこそ、戦国武将も浅ましさに恥を覚える者も増えるようになり、人間性としての品性も重視されて文化交流も開花するようになった、戦国後期を生きた人々の風流で上品だった一面についても、順番に触れていく。