近世日本の身分制社会(012/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史3/34 - 2019/08/19
 
先代の織田信秀は自身への甘さを払拭し、役に立たない権威を壊し始めて従事層たちに手本を示し、人々に頼られた存在だった。
 
ただし信長ほど周囲に対して「自分に甘い」ことを厳しく追求せず、あまりにも面倒見が良すぎた分、それだけ組織や地域を育成することができなかった。
 
信秀もそれは自覚していたと思うが、しかし時代の節目の理解不足だったこの時代では、他の先代たちの武田信虎(武田信玄の父)、長尾為景(ためかげ・上杉謙信の父)、斎藤道三らもそこは共通していえる所である。
 
そのため一部の親類、一部の重臣たちだけが有能で、大抵は優秀な当主に頼り切って権威の鞍替えをしていただけの腰抜け集団であったのが実情である。
 
ここで、織田信長の家系についてもう一度、整理しておきたい。
 
織田家は、元々は越前(福井県)の武士集団で、剣神社(つるぎ神社・織田神社)を氏神とした、古くからそこに土着していた武家領主の1つだった。
 
信長が生まれる200年前に発足された足利政権(室町幕府)の開幕で、越前は足利一族の斯波(しば)氏が統治者となるが、この時点で既に斯波氏の有力家臣として扱われているほど、織田家は大きめの武士集団だった。
 
斯波氏の親類が尾張(愛知県)も統治した関係から、越前の斯波氏尾張の斯波氏を支援するために、家臣である織田家が(一族の半数が?)尾張に移住したのが、尾張の織田一族の始まりである。
 
尾張に移住して斯波氏の支配力を支えていた織田家は、足利義満(室町3代将軍)の時代には尾張守護代(副知事・知事代理)に任命され、有力者として認められていたことが窺える。
 
織田家は元々は、諏訪大社(長野県)を氏神とする諏訪一族や、鹿島大社(茨城県)を氏神とする大掾氏(だいじょう氏=鹿島氏・行方氏・島崎氏・真壁氏ら平氏一族)たちのような性質の武家集団だった。
 
地元に残り続けた分家筋の織田一族も恐らくいただろうが、信長の時代には越前で織田を名乗っている武士団が目立たないことから、そう地位の高くない疎遠になった者たちが、何らかの事情で苗字を変えたりして残存していたと思われる。
 
尾張の織田一族がより成長していき、信長の弾丞家のような有力な家系まで派生するようになると、この家系は信定の時代あたりにはリナシタ(元々は「再生」を意味するイタリア語)が起きていたのではないかと筆者は見ている。
 
リナシタは15世紀ヨーロッパのルネサンス期に、原点回帰の意味の強い「古代復興」という意味としてよく使われていた言葉である。
 
ルネサンス期とは、中世的な「古い宗教観・古い芸術観・古い作法観・古い政治観」の、ただの上下統制のためだけの古い家父長的寡頭主義からの脱却期(近世化)のことで、特に宗教観(社会観)の原点回帰の見直しのことを、リナシタと呼ぶようになった。
 
斯波氏の権威が衰退し、変わって尾張の実権を握った織田家の本家筋は、津島神社と熱田神宮の管理を「ただの面倒ごと」とあなどり、その務めを新興の家来筋の弾丞家(信長の家系)に丸投げするようになったのではないかと筆者は見ている。
 
いずれにしても弾丞家が津島神社と熱田神宮との結び付きを深めてしまったことが原因で、本家筋(伊勢家・大和家)と家来筋(弾丞家)の実力の逆転を許してしまったのは間違いない。
 
神道(神社)と仏教(寺院)は、合祀として扱われ、いずれも誓願の場(名目を誓う場)になっていったことは先述したが、寺院がその代弁を請け負う傾向が強かったことから、大抵は神社の社人たちよりも寺院の発言力の方が強かった。
 
しかし出雲大社、熱田神宮、諏訪大社、鹿島大社といった別格の神社がある地域は、寺院よりも神社の力の方が強かった。(伊勢神宮は、宮司権威でもあった北畠氏の衰退と関係しているためここでは例外とする)
 
戦国後期には支配者のあり方が見直され、地方ごとで上級裁判権(行政権)が整理されていった一方で、寺院(有徳)は閉鎖自治力をどんどん強めていった。
 
有徳による仏教(社会性)の悪用の閉鎖差別主義の押し売りが横行したが、寺院よりも格式の高い神社がある地域は、さすがに有徳が主導権を握ることはできなかった。
 
尾張では、有徳に強い不満を抱いていた人々が、津島神社と熱田神宮に集まって寄り合い(組合)を作るようになり、信秀の時代には、低級裁判権(徴税法・庶民法・下層の保証制度)の方針を巡って神社派と有徳派ですっかり二分し始めていたのではないかと筆者は見ている。
 
下級武士も下層庶民も、有徳が勝手に作った上下差別に頼って不当に得していた者と、そのせいで不当に損をさせられていた者とで両極化し、年々その不信が大きくなっていっても不思議ではないためである。
 
ここがいまいち表面化されてこなかったのは、神社と寺院は合祀だという伝統の異論の分断になるような主張を唱えてしまうと、神社派たちは全国の寺院から非難を、有徳派たちは全国の神社から非難を受けかねなかったため、そこに慎重になっていたからだと思われる。
 
寺院の中にも、上下統制のためだけの時代に合わない有徳の古臭い乱暴な序列強要のやり方に反感をもち、神社びいきになっていた寺院もあったのではないかと筆者は見ている。
 
神社派と有徳派との間で互いに反感はもちつつ、しかしどうしていいのか誰も解らないままノラリクラリと続いた所に、織田信秀が登場した。
 
神社との信用関係が築かれていた弾丞家の信秀は、恐らくその背景もあって必然的に、次の時代に向けての尾張の法の整備に、ついに乗り出すようになった。
 
信秀は津島神社と熱田神宮との協力による名目(誓願)を前面に出して、本家を完全無視して尾張西部の法(公正性・適正性)の整備を独断で進め、よその権威と反対者を排撃しながら庶民の経済力を促進し、人々から多くの支持と多大な税収を得るようになる。
 
信秀は、当時崩壊同然だった中央(朝廷と幕府)に多額の献納によって支援する余裕まで見せ、国際力を示して尾張の実質の支配者の存在感を示し、人々を驚かせた。
 
当時の朝廷(皇室権威・聖属代表権威)と室町幕府(世俗代表権威)は形ばかりで、応仁の乱以降は高位権力者らも権力闘争に明け暮れるばかりで解決に向かわず、貧窮する一方のそれらをろくに支えられていなかった。
 
公家たちの荘園(朝廷の財源領地)や将軍権威の横領争いが繰り返されるばかりで、それらを誰もまともに支えられなかったことで中央の衰退と貧窮が永らく続いていた矢先の、この織田信秀の中央への多額の救済処置は、大いに目立った。
 
信秀はよその権威の追い出しまではしたが、有徳を敵視まではせずやり方は懐柔的だったと思われ、元々の支配者の斯波家や本家筋に対しても、権威を奪った後も排撃まではせず、最有力家臣の建前を採り続けて政治利用するに留まっていた。
 
それでも時代を大いに前進させることになった信秀の戦略的な前例の多くは、次代の信長にとっての大きな手本になり、より関心と改良を向けて強力な組織が構築されていくことになった。
 
信長と顕如の争いは、見た目は世俗権力と聖属権力の争いのように見えるが、一方の見方では神道の代弁者仏教の代弁者という立場で、有徳(寺領)の扱いを争ったというのが筆者の見解である。
 
信秀も信長も、時代に合った法(公正性・適正性)に改革するために、この弾丞家だけが「織田家は元々は神官武士の家系のはずだった」という、神道の名目(誓願)の再重視(リナシタ)が強くされ、特に信長はそれを有徳へのうってつけの反抗題材として得たと見るのが自然と考えるためである。
 
そこもいまいち表面化されてこなかったのは、繰り返すが「神社(神道)と寺院(仏教)は合祀」という伝統を分断してしまうような言い争いをすると、互いに弱みになってしまうため、その点は互いにノラリクラリを続けていたと見ている。
 
津島神社と熱田神宮からあがってくる従事層たちからの大事な意見回収の責任(義務)を、本家筋は弾丞家に丸投げして、世の中任せ(有徳任せ)に放任し続けた結果、著しく変化していく社会風潮にろくに対応できなくなっていったのは間違いない所である。
 
弾丞家は少なくとも信定の時代から、従事層(下層庶民や下級武士たち)に対して面倒見が良かった家系だったことが窺える。
 
時代も目まぐるしく変化していった中、従来の上下権威を振りかざすことしか能がない、有徳と大差ない主体性のない本家よりも、従事層の事情をよく理解していた弾丞家に人々が頼るようになったのは、当然のなりゆきだったといえる。
 
信長が尾張国内で有徳狩りを始めた頃は、本願寺側の織田氏に対する抗議と反抗の激しさも、まだ本格化はしていなかった。
 
しかし織田氏が実力をつけ、近江・山城(滋賀県・京都府)や伊勢(三重県)や越前・加賀(福井県・石川県)方面まで進出して、有徳狩りも広範囲のものになってくると、本願寺の織田氏への反抗も激化していった。
 
織田信長の家督継承の前後の状況から、ここでざっと整理しておきたい。
 
継承前の信長は、若年期にはよく外に出向いていたが、これは自身の親衛隊を構築するために、身分や縁を問わずに信用できる者を自分で確認しながら採用試験を積極的に行うものだった。
 
それと同時に有徳どもにケンカを売って歩き回り、自身を敵視する寺院とそうでない寺院の選別を始め、敵対関係者を調べ上げて粛清一覧を早々に作っていたと思われる。
 
早くから親衛隊の責任者として見込まれていた蜂屋頼隆前田利家などは、信長の様子に「この方は本気で有徳を打ちのめし回る準備をしている。笑いものにしている連中は後で大変なことになるのではないか」と慎重に見ていたと思われる。
 
尾張の国衆たち(有力家臣たち)の間では、有徳の主義に従わない信長を笑いものにして敵意を露出していた連中と、一方で信長に好意的だった佐久間氏、丹羽氏、池田氏、浅野氏、生駒氏などもおり、両極化していた。
 
信秀が急死すると、尾張では再び東部の岩倉家が主導権を巻き返そうと動き出し、西部の清洲家(弾丞家)の方でも弟の信勝が継承権を名乗り出、またそれぞれの有力者らも自身の地位と権威を誇張して信長に反抗する者も少なくなかった。
 
信長に反抗した信勝派や有徳派たちとしばらく内戦が続くが、合戦になると大抵は信長軍の方が兵力は少なかったが、信長が撃破されることはほとんどなく、常に信長が勝利するか引き分けかで終わった。
 
この時点で信長が自身で構築してきた直属の親衛隊による動員兵力は、大体800名ほどだったようだが、しかし親衛隊(当主の旗本)のここまで明確な兵力は、当時ではかなり大規模で強力といえる数である。
 
有徳の言いなりに洗脳されて使えない先代の旧臣たちを完全無視し、つまり従来の古い社会風潮を完全無視し、自身で時代に合った条件や待遇の信用関係で構築した、そのような当主直属の兵団自体が前代未聞だった。
 
信秀が急死した「その時」を、世の中任せ・人任せにせずに常に自分から準備してきた信長は、早々に尾張の再統一戦に乗り出すが、これは尾張国内の「小さな関ヶ原の戦い」を仕掛けた政治戦だったといえる。
 
のちに徳川家康が仕掛けた関ヶ原の戦いも「誰が主導者で、誰が味方で誰が敵であるか」そして「あるべき法(公正性・適正性)」を今一度、明確にした貴重な戦いだが、そもそもそうした重要な政治総選戦の風潮を作ったのも織田信長だったのである。
 
信長に反抗した連中は、ただの目先の利害で集まっているだけでいずれも大した政治名目などなく、古臭い従来の道義上(業務上)だけの集まりに過ぎない、肝心な時の義務力(使命感)も知れている寄せ集めに過ぎず、その点で既に雲泥の差があった。
 
一応は合戦らしい形になり、いざ戦おうとしたら見るからに相手に戦意が欠け動揺している様子を信長が見かけると、信長は攻撃を仕掛けずに敵陣に単身で近づいて怒鳴り散らしてやったら、退散してしまった例すらある。
 
「大した名目(誓願)などなく、肝心な時に何もできん小心者どもの分際で徒党など組みおって! やるのかやらないのかハッキリしろ!」と威嚇した所、敵陣が退散し始めて、それで戦闘が無血終結したことも何度かあったのである。
 
信長は特にそれが際立っていたが、これは地方の再統一戦をせざるを得なかった経験のある、例えば徳川家康の場合などでもそのような傾向はあった。
 
地方の再統一戦は、総力戦の意味合いよりも地方選挙戦の意味合いの方が強く、味方の数は確かに重要だが、つまり人望(貸方・その団体の存在感)に見合った人徳(借方・使命感や責任感の名目)がともなっているのかが、合戦当日になってみてその実態が明確になることも多かった。
 
戦国前期では、浅ましい奪い合いばかりの殺し合いも多発したが、戦国後期では法のあり方が見直されるようになり、信長の影響もあって尾張国内の再統一戦の風潮もだいぶ変わっていた。
 
負けを認めたも同然の退散は、総力戦なら追撃して相手の被害を拡大させることが重要だったが、あくまで「内輪もめ」のこの再統一戦では、退散したという既成事実が確認できたらその要件については大抵は決着した。
 
大した名目(誓願)もないその時の一時的な同調に過ぎないものは、自分たちで名目(誓願)を整理していく責任(義務)能力も最初から知れており、一度でも「離散(解散)したという既成事実」さえ作ってしまえば再度団結することも簡単ではないのは、現代でも同じである。
 
信長は、解散しない反対者たちには攻撃を仕掛け、すぐに崩れそうになければ「引き分け」の和解だけしてその場は引き返し、何ヶ月も経てばまた攻撃と和解を繰り返した。
 
それを2回、3回も繰り返してやれば、応戦し続けてその組織を維持し続ける理由と価値があるのかの、お互いのその結束(名目)の実態の差が露呈し始めるためである。
 
ただ有徳の仏教(社会性)の悪用に頼って信長に反抗していただけの各地域の閉鎖自治組織たちは、表向きの同調者こそ総勢は何千や何万といたと思うが、所詮は法(公正性・適正性)に無関心な保身第一の閉鎖自治主義者の集まりに過ぎない。
 
うわべだけの古臭い上下統制のためだけの勧善狩りでただ共有悪を一致させているだけの、典型的な勘違い儒教主義者どもとは「上(自分)に甘く、下(人)に厳しいだけ」の、先々に無関心な何の義務力(債務信用力)もない連中である。
 
仏教(社会性)の悪用の言いなりに、常に世の中任せ・人任せにたらい回しにし、自分たちで実態を整理していくことを放棄しているような口ほどにもない連中に、信長排撃を号令できるような名目(誓願・債務責任)をもつ旗頭などいる訳がないのである。
 
それは、継承権を主張する弟の織田信勝や、元の当主筋であった尾張東部の岩倉家ですら、従来の風潮を否定して改革を始めた信長を排撃できるほどの旗頭が務まる名目(誓願)などもっていなかったことが、信長が仕掛けたこの再統一戦で露呈した。
 
話は前後するが、戦国大名の中でのちに織田信長だけが際限なく勢力拡大されていく現実を恐れた諸氏が、それに抵抗するために「信長包囲網」の連合軍を結成するようになるが、大した成果など挙げらなかった原理もこれと全く同じである。
 
これは諸氏が聖属権威の本願寺を旗頭だと再確認したのみで、それを何ら活用できておらず、信長を牽制できるほどの世俗権威のまとめ役など誰もできなかった、つまり信長に対抗するだけの名目(誓願)の上級裁判権(行政権)など誰も作れておらず、効力も知れていたのである。
 
信長は、ただ継承権に頼っただけの織田家の継承など、最初からするつもりはなかった所が賢明だったといえる。
 
従来の安直な継承の仕方は、旧臣たちが「我々の支持によって継承できたのだから、我々の言い分も聞くべき」という従来の風潮に縛られるばかりで、何ら上級裁判権(行政権)を整備できなくなり後で大変になるだけであることを、信長はよく自覚できていた。
 
だからこそ信長は、尾張の再統一戦を仕掛けることを自身の継承式代わりとし、自身で考えた時代に合った名目(誓願)を強調して内部の敵味方を明確にさせ、後で家臣たちに法(公正性・適正性)の整備について妨害させないよう、自身の力で当主の座を明確にした。
 
こうした継承の仕方から、従来の悪習と決別してきた地方と、そこまでできていなかった地方とで、その戦国組織の実力も大差になって表れていったのである。
 
何かあればすぐに有徳(社会性の悪用)に頼ろうとする主体性のない尾張の実情を明らかにさせ、大勢の下級武士たちと貧困層庶民たちに対し「お前たちは、どのような当主を仰がなければならないのか真剣に考えよ」と迫って回る、貴重な政治活動だったのである。
 
信長はあわてることなどなく、法(公正性・適正性)の整備のための名目(誓願)を立てながら、有徳どもを面倒がらずにひとつひとつ地道に潰していけば、まずは良かった。
 
閉鎖差別権威の象徴でしかなかった、非公式に乱立していた城や砦や館や関所は、閉鎖組織を解散させた後に信長によって次々と破却(破壊撤廃)され、新たな時代に向かおうとしていた。
 
今まで有徳どもの閉鎖権威で差別され続けていた最下層庶民でも、これからは努力次第では彼らでも有利になるよう各地域の農商業の法を信長が改定して回るようになると、従来の風潮だけで信長のことを笑いものにしていた小心者どもの気勢も崩壊していった。
 
信長は弟の信勝とも何度か対決したが、有徳をあてに反抗していた各地域を各個崩壊させていくことを優先し、それによって信勝派を孤立させていった。
 
これまで有徳たちから不当な扱いばかり受け、先々の希望など何も許されなかった大勢の最下層庶民たちと、有徳の言いなりに古臭い上下統制を連呼することしか能がない国衆(有力家臣)たちから公正に評価されてこなかった下級武士たちの多くが、信長を強く支持したのはいうまでもない。
 
尾張西部での信長の支配権もいよいよ確立されていく一方で、大した運動もできておらず反抗題材を失っていった信勝派も降伏することになった。
 
その降伏は認められたものの、信勝はすぐに反逆を計画し、周囲が自重するよう説得したが聞かなかった始終が信長に露見し、見切りをつけられて謀殺されてしまう。
 
信勝の反抗劇については、信長の親類の件として後述する。
 
信長は反抗した者には徹底的に厳しく追求して処刑していった印象が強いが、必ずしもそうとは限らず、因縁の敵将や険悪の一族であっても、後で信長のことを当主と認め、正直に事情を打ち明けて謝罪すれば許容したことも多かった寛大さも見られる。
 
許容できない一族や家臣は追放や謀殺を繰り返したが、しかし降参してきた者の中でも見込みのある者は組織に組み込んでいった。
 
尾張西部の支配権を大方掌握し、尾張東部の岩倉家と反対者の排撃に成功すると、尾張全土の支配権も目前となった。
 
後は、最西部でわずかに反抗し続けていた服部氏と、尾張南部で反意を示していた山口氏やその近隣で態度を曖昧にしていた国衆たちを抑えれば、尾張の再統一も目前という状況で、今川軍がそれを妨害するために慌てて乗り込んできた戦いが「桶狭間の戦い」である。
 
これからこのその戦いの特徴についてまとめていきたいが、その前に当時の特徴のひとつである「一騎駆け」についてまとめておきたい。
 
戦国時代は「一騎駆けの時代」とも呼ばれる。
 
一騎駆けとは、合戦に当主自ら出向くことを指し、戦国後期ではもはやそれが当たり前の風潮になっていた。
 
当主が出てこないような合戦はそれだけ重要さも低い戦いと見なされ、場合によってはそのことで敵からあなどられ、味方の戦意を不利にしかねなかった。
 
当主自ら参陣することを強調することで、組織の威信をかけた緊張感や熱意を示し、現地で当主にじかに目をかけてもらえるかも知れない期待が家臣たちの戦意になり、皆も積極的になろうとした。
 
だから出陣の準備をする際は、その規模の大小に関係なく常に当主も出向く前提の号令を普段からかけ、緊急時でも戦意の高い出陣をできるようにしておくことも重要だった。
 
出陣を命令するだけで、いつも重臣任せにして毎回のように合戦に出馬しないような当主は、当主の合戦に対する熱意の低さがそのまま家臣の態度に現れるようになり、肝心な時に戦力と戦意が用意できるはずもなかったのである。
 
織田信長もこの一騎駆けを重視し、方面軍体制が整うまで、軍事行動の規模に関係なく自身も旗本(馬回り衆=親衛隊)を積極的に引き連れて動き回り、多くの家臣たちに手本を示した。
 
豊臣秀吉も、朝廷から関白の権威を授けられて事実上の天下人と認められた後も、この一騎駆けの重視は続けた。
 
豊臣秀吉が従わない地方を討伐する際には、先遣軍を送り込んで既に勝負がついていても、自らも出陣して一騎駆けに務め、人々に威信を示した。
 
戦国大名は、この一騎駆けを重視できていれば、何かと有利にすることも多かった。
 
この豊臣秀吉のように、先遣軍で戦況が優勢になっている所に、自らも軍勢を率いてわざわざ乗り込んでいくことで、相手を早く諦めさせて終戦を早める外交力を作り、なお威信を示すことができた。
 
劣勢の場合でも、例えば政敵が不意打ちで領内に攻め込んできて何の準備もできていなくても、普段からこの一騎駆けを心がけていたことで、窮地を救うことも多かった。
 
その時に当主の周囲に数十名の部下しかいなくても、それだけ率いて集結地点で呼びかければ、同じように何十人と部下を率いて駆けつけてくる家臣たちが20人、30人と集まってくれば、それだけでも何百、何千の軍勢となった。
 
そういう劣勢こそ、普段から一騎駆けで信用を示そうとする当主であれば、家臣たちもそれに応えようと団結できた。
 
そういう時だからこそ、一番に駆けつけた者や、遠くにいたはずの者が素早く集まってきたことを当主もよく評価し、皆もそういう所で良い印象を努力し、手柄の優先権を得ようとした。
 
一騎駆けの意味は、このように例え当主1人であっても現地に駆けつけて号令をかければ、信用さえあれば味方がどんどん駆けつけてくる表現から来ている。
 
普段から信用できる当主だからこそ、不利な状況を聞いて集まってきた家臣たちの中には機転を効かせて「こちらが少しでも大勢に見えるよう、いつもより旗を多く持ってきました」と当主にいい所を見せようと努力した。
 
当主自らがいつも出馬し、そういう所を評価してもらえるかも知れないと思うからこそ家臣たちも、少しでも味方を有利にするいい所を見せようと、普段から努力しようとしたのである。
 
しかしそういう細かい所から表彰せず、現地に出てきて状況を確認しようともせずに何も奨励せず、無関心に結果狩りだけして偉そうに落ち度の叱責ばかりする無能な当主は、肝心な時に何の戦意も発揮させられず、もはや当主失格だったのである。
 
もちろん分担がしっかり整備されていて、皆が納得できる侍大将がいれば、必ずしも当主でなくても問題なかった。
 
良い例が、戦国大名の中でも珍しく兄弟で結束が強かった鹿児島の島津家の場合である。
 
当主の島津義久は後方で政治や外交や作戦構想を主に担当し、前線の現場監督は名将として名高かった弟の義弘が当主代理として任せられていて、この優れた兄弟は非常に人気も高かった。
 
肝心な一大合戦になると当主の義久も出馬し、それによってなお緊張感と士気を高め、そのような使い分けの工夫がされていたことで重要な時に組織を盛り上げることができていた。
 
桶狭間の戦いの頃には、この一騎駆けはどの戦国大名でもすっかり定着していた。
 
これから桶狭間の戦いの様子や、戦国時代の軍事改革の話について触れていきたい。