近世日本の身分制社会(011/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史2/34 - 2019/07/23
 
信長は良い意味で非常に細かく、小さなことでも気を抜かず、そこを自分から確認していくことを面倒がらなかった人物だったことが窺える記録も多く残っている。
 
信長は段々力をつけていくと、庶民に賃金と食料をしっかり保証して大動員し、政局のための築城や、交通網の整備拡張など、大掛かりな土木事業を行うことが多くなったが、ある日、庶民労働者の荷役の2人が仕事中に言い合いになって揉めている所を、たまたま近くにいた信長が目撃したことがあった。
 
信長はわざわざ自分から、2人に何があったのか確認すると「もらえる賃金が同じなのに自分の方が重い荷物ばかり運ばされ、お前の方が楽ばかりしている」という疑い合いが大きくなって、言い合いになったことが解った。
 
2人が運んでいた荷物の重さを量るよう指示した結果、荷物の重さは大差なかったことが解り、信長はこの時に2人のことを特に咎(とが)めることもせず、話はここで終わっているが、これは信長のやり方の様子がよく窺える、かなり貴重な記録といえる。
 
この話は何を示しているのかというと、不当に得する者と損する者がでてくるようやり方を見過ごしているような、負担の押し付け合いの原因になる、公正さが保たれていないその管轄の奉行(ぶぎょう・管轄長。責任者)を呼びつけ、皆の面前でその家臣に「顔面パンチ」を食らわせるつもりだったのである。
 
信長がこの2人を叱責しなかったのは、彼らが怠け癖の浅ましさの言い合いをしていたのではなく「自分は真面目に務めているのに、楽して得をしている者がいるのではないか」という疑いのくやしさで怒っていたことが解ったためだろう。
 
当時は多くの有徳がそうだったように、特権が人を「自分たちに甘い」ばかりに軟弱化させ、ひいきと差別ばかりする閉鎖組織だらけの世界で、公正さなどどこにもなく、何の発言力もなかった最下層庶民は常にくやしい思いばかりさせられ、何も信用できずに不条理な苦痛ばかり受ていた者が大勢いた時代だった。
 
信長はそういう所に強く関心をもち、行政権を与えた家臣たちにありがちな「見られていないなら、問題が起きれば誰かのせいにしておけば許される」という、やることもやらずに権威を悪用して威張り散らしているだけの無能な甘い姿勢を、とにかく嫌った。
 
信長が庶民労働者の荷物の重さのことでわざわざ検閲することもあったことは「不当に労働差別されているかも知れない庶民の不満を、この御当主は面倒がらずに確認しようとしている」ことを庶民たちに知らしめるのと同時に、それを知った家臣たちにも「公正さが保たれていないことが発覚したら、大変なことになる」という緊張感を与えた。
 
「そういう時用の作法さえ守り、そういう時用の文言さえ並べられれば善人で、そこのみの落ち度で悪人と決めつけて全責任(全負担・懲罰)を押し付けてもいいことにする」だけの「自分に甘く、人に厳しいだけの無能な勧善懲悪」を、信長は徹底的に破壊して回った。
 
ただズルいだけの奴がずっとズルいままでも許され続けるような、「自分に甘い」無能が見過ごされるような、法(公正性・適正性)に無関心な組織が、有能化していく訳がないのである。
 
庶民の労働の話だからこそ、職人などの労働者たちそれぞれに見合った待遇を約束しなければならない責任(義務)の立場にもかかわらず、不当に良い思いができてしまう者を見逃していては、その分だけ不当に損する者を作ることになり、人々の意識を無気力化、無関心化、無計画化、無能化させてしまうことを、信長はとにかく嫌った。
 
信長は、状況や実態の把握を人任せにするのを嫌い、ただの風潮を常に疑いながら、自分でもよく確認しなければ気が済まないといえるほど熱心な所があった。
 
そのため「悪い結果があっても、その分の良い結果さえあれば許される、帳消しにできる」と、利損の種別を安直に混同させるような考えも許容しなかった。
 
落ち度や失策はもちろん何かで挽回することは大事なことだったが、悪い部分は悪い部分として区切って対応しなければ改善にならない、つまり穴埋めする発想ばかりでそこを混同していてはごまかしを蔓延させ、ただの損失補填の繰り返しで事態を深刻化させていくことを、信長は嫌っていたのである。
 
信長はいわば「100円を笑う者は100万円に泣く」主義者で、100円の公正さを普段からあなどっているから、まとまった資金もいい加減な用意と雑な使い方しかできなくなり、人員でも資本でも適正に真価を発揮できなくなるという考えだったのである。
 
信長のあてつけ発言を対義解釈ばかりして「信長は無神論者だった」かのように解釈する人も多いが、そうではない。
 
何事においても信長は「こう答えておけば許される」という何の努力も反省もない、人の手本にならないただの開き直りの態度の悪さへの悪態をついていただけである。
 
そのため信長は、神通力をもつとされる占い師や修験者でも「ありえない」と一方的に決め付ることはせず、それが事実かどうかよりも、その人間が手本になる態度を示しているかどうかをまずは見ようとした。
 
だからそれがもし嘘であっても、考えとして信用に真面目に向き合おうとしているような、人々に品性と協力を大事にさせるための伝統的な地域貢献などであれば否定することはなく有用と見なし、頼まれれば保護すらしようとした。
 
ただし、ただ権威ばかり振りかざして偉そうに威張り散らしているだけの、明らかに品格が欠落しているような、大した工夫や努力もしていない何の手本にもなっていない無能だと見なした場合は、神通力があろうがなかろうが、容赦しなかった。
 
信長が伊勢(三重県)を支配するようになり、3ヶ国、4ヶ国の明確な支配者として君臨するようになると、伊勢神宮から、再建と祭事のための出資を懇願されるようになるが、信長は協力的な姿勢を見せている。
 
伊勢神宮は全国でも1位2位を競うほど規模は大きく、古くから高い格式をもつ神社として遠路から巡礼にくる人々を支援する義務ももっていて、貴族から庶民まで広く親しまれていた重要な神社の1つだった。
 
しかし戦乱があまりにも長く続いたことで政府権力者や支配者たちも伊勢神宮を満足に支えられなくなり、伊勢神宮の力も疲弊し、人々への地域貢献にも支障が出ていた時に、ようやく織田氏が強力な支配者として台頭したため、伊勢神宮も期待するようになっていた。
 
信長が相談を受けた時に「それで、いくら出資すればいいのか?」と訪ねると伊勢神宮側は1000貫かかると申し出た。
 
1貫は恐らく10~15万円ほどで、それだと1億円以上ということになるが、物価や労働基準が今と全く違うため、工事や祭事の場合の1000貫は、今の価値感覚で3~5億円ほどと見ていいかも知れない。
 
信長は「京の清水寺で改修工事があった時に、最初は300貫もあればできるといっていて、あれもこれもとやっている内に結局3000貫かかったと聞いている。伊勢神宮も規模が大きいのに、それで足りなくなったらあてがあるのか?」と訪ねた。
 
神宮側は「足りなくなった分は人々から寄付を募って、皆で負担して費用を工面します」と答えると「いや、そんなものは認めん。それなら3000貫出そう。もし余った場合は地域貢献のために自由に使って良い。足りなくなったら計画を相談に来るよう」といい、惜しみなく援助している。
 
またある日、修業して神通力を得たと自慢する説法坊主が領内に現れて世間を賑わしていたことがあり、次第に悪い噂が広まるようになったため信長はその怪しい説法坊主を調べることになった。
 
すると金銭欲と権威欲が強いだけの、神通力をもっているのかも怪しい、典型的な勘違い文観気取りだったことが解り、信長を怒らせて処刑された。
 
文観(もんかん)は、密教を元に、禁忌とされていた性の摂理にも触れ、無用に女を差別してはいけないことや、男女の戒律の誤解をしてはいけないことも喚起した実在した人物のことだが、その前例を悪用し、人の情欲につけこんで、何の考えも無しにただ性に開放的になればいいというだけのいい加減な僧侶もいた。
 
そのインチキ坊主を許容していた座頭を呼び出して事情を問い正した所、その座頭は「申し訳ありません。怪しい坊主であることは承知していましたが、勧進の大きな収入になっていたので、やむなく目をつぶっていました」と正直に答えた。
 
勧進(かんじん)とは、例えば各地で修業をして回っていた僧侶が、本人が研究したことや反省したことの報告会を開き、人々に信用のあり方を喚起してその聴衆料金を得て、それを地域の庶民政治の資本にあてつつ、本人も旅費などの収入を得るという、当時の興行の習慣のことである。
 
他にも手品やちょっとした演劇活動など色々あり、それらは地域の寺院や神社が認可して主催する名義人になって、そこがそのまま会場になることも多かった。
 
当時の人々は武士も庶民も、自分でもできそうな良い話を聞いて見習おうとする人や、また珍しい面白いものを見たがる人も多く、そうした興行はいつも賑わっていた。
 
勧進は相撲との関係も深く、力士が正々堂々の真剣勝負を誓いながら戦うという姿勢など、この勧進から来ているものも多く、評判の力士同士の対決になると、人々もどちらの方が強いかということで賑わいを見せ、そうして地域貢献で活気をつけながら協力して収益を得る習慣が、勧進である。
 
それぞれの座(商業地)で役割分担されていた何人かの責任者を座頭(ざがしら・ざとう)といい、その勧進の仲介人で、そもそものその選別者が彼らであるため、信長も名義責任としての寺院や神社よりも、選別責任の座頭を問いただしたものと思われる。
 
座の勧進の責任者たちは、視覚や聴覚に障害があったり、腕や足がうまく動かなくなってしまった社会的に不利な者たちを福祉支援する専門職人たちの代弁者が多かった。
 
信長はその事情によく関心を示し、またその座頭も正直な態度で返答したことで心証を良くし、注意だけして、彼らを支援する収入源になっていたインチキ坊主を処刑した代弁として、そこに支障が出ないように銀貨を惜しみなく与えて返している。
 
従来の支配者と織田信長の大きな違いもこういう所で、気に入らない者や逆らった者を処刑するのはいいとしても、庶民の細かい事情まで知ろうともせずに結果狩りだけしてただ吊るし上げることしかしない無能が多すぎたことへの、それに対する信長のあてつけの公正さのこだわりがよく現れている一面である。
 
ある資産家が座(商業地)の組合から特権を金で買って金融業をしていたが、次第に特権を悪用して度量衡に細工したりして不当に儲けるようになり、公正さがなく品性に問題のある強欲な資産家だったことが後で解り、皆が困ることがあった。
 
度量衡(どりょうこう)は、金貨や銀貨の価値を調べるための計量器のことで、当時は重さや形が統一されていない金貨や銀貨も流通していたため、価値を換算する必要があった。
 
金で特権を買うことは、神社や寺院の修繕費用や飢饉対策などの地域貢献のための資金に回されることもあるため必ずしも悪いことではく、公正な者なら何の問題もなかったが、前提としての公正さを守らない資産家だったために座の信用責任の評判と品性が損なわれ、皆が迷惑するようになった。
 
金を受け取りいったん特権を認めてしまった座頭衆もどうしていいのか解らず、信長に相談することになり、信長はそれを受けて調べることになった。
 
信長が厳しく問い詰めた所、その資産家は観念したのか全て白状して「今までの稼ぎを全て差し出しますのでお許し下さい」と申し出て金貨200枚(1億円分くらいはあったと思われる)もの大金を差し出した。
 
言い訳せずに白状し、差し出すものを差し出したその資産家の態度に免じ、信長は命だけは助けることにした。
 
信長は丁度良いとばかりにその金貨を、そのまま松井友閑(まついゆうかん。信長の側近の記録官・政務官)に全て渡し、その金を惜しみなく使って頑丈な橋を新設するよう命じた。
 
当時は常に橋不足の時代で、現代のように河川を制御することも難しく、ちょっと大雨がくるだけで道路も橋もすぐに崩れ、それを作り直す費用を工面するだけでどこも精一杯の時代だった。
 
そのように橋を新設しているような余裕などどこにもない時代だった中、織田信長の場合だけは勢力が拡大していくたびにどんどん交通網が新設されていったため、人々を驚かせた。
 
信長がやり始めたこうした積極的な交通網と商業地の区画整備と、検地(農地の地質や価値の測定)で可能にした農商業の法の整備の前例は、豊臣秀吉も大いに見習っている所である。
 
有徳から特権をとりあげ、町の問題児の資産を巻き上げては、そっくりそのまま善用することが多く「人に迷惑をかけて作られた金銭も、こうして人々の役に立つことに善用されることになればいい」というあてつけなやり方を好んだ。
 
領内のある池に「この大池には恐ろしい化け物が住み着いていて、夜になると池から出てきて付近の人々をたびたび襲うため、皆が困っている」ということがあったため、信長はわざわざ少数の軍勢を引き連れて、その池を調査したこともあった。
 
周辺の領民たちも集まり、皆に潜らせて確認させ、信長自身も水の中に入ることまでして色々試して見たが、その化け物とやらは結局出てこず「どうやらいないようだな」と信長がまず自分で直接確認したことで、人々の不安を取り除くことも面倒がらずにしている。
 
カトリックの宣教師たちが信長に心証を得るために、地球儀や機械時計を献納した時に、信長は彼らのいう地球儀説や航海術が事実かどうかという所よりも「日本では研究されていないことを、彼らはしている」所にまずは関心を示した。
 
信長は機械時計の構造や仕組みの説明にも関心を示しながら聞いたが、機械時計については受け取らないことにした。
 
その理由は「構造が複雑で操作が難しく、故障した時に直せる者がいなければただのお飾りになってしまう。このような高価で大事な機械は、よく理解している必要な者が所持して活用するべきだ」という考えだったためである。
 
信長は、法(公正性・適正性)について真剣に考えない集団は、まるで害虫駆除するかのようにお構いなしに徹底的に惨殺することもあった一方で、役割の適正性については人だけでなくモノでも粗末にせずに、その意味や効果を大事にしようとしていた一面である。
 
信長の公正性のこだわりによく応えた監査役たちへの、その指導がよく行き渡っていたことが窺える話も多く残っている。
 
当時の寺院は支配者の政策の布令を人々に連絡する役目や、亡くなった者を埋葬したり、人々の精神面での相談に乗るなど色々な義務があったが、僧侶たちの修業の場でもある特性から、飢饉の時の炊き出しなどの理由がない限り、大抵は女は近づけてはいけないという戒律があった。
 
そこを悪用し、寺院の弱みにつけこんで恐喝しようとした問題児の男がいて、その男は若い女と結託して、女が道に迷った旅人を装い夜中に寺院に「困っているため泊めて欲しい」役のつつもたせをやらせ、人助けしなければならない寺院の弱みにつけこもうとした。
 
寺院も困って出て行くよう断っているのに、女がその寺院の敷地内に居座り続けようとしている所に、その問題児の男が偶然を装いやってきて「この寺院は、女を招き入れるけしからん寺院だ」と言いがかりをつけて口止め料を要求した。
 
近江の領内の永原での話だが、ここを担当していた奉行の長谷川秀一(ひでかず)と野々村正成の2人が、そのことで揉めていた寺院の件を受けて調査した所、寺院に落ち度はなく、結託していたこの男女の不正が見破られて処刑され、寺院の面目は保たれた。
 
信長の寺院摘発の風潮を悪用しようとしても通用しなかった好例で、信長から信用されていた2人の奉行も、よく調べ、よく公正に処断することができていたことが窺える一面である。
 
こういう所に、有徳たちがのさばっていた収賄とひいきが横行していた時代と変わらないような代官しか配置できないのと、不正は許されない公正性を徹底させる代官が配置できていたのかで、人々の納得と意欲の向き合い方も、歴然とした違いになってくるのである。
 
長谷川秀一はその人間性や器量を、のちに豊臣秀吉や徳川家康からも認められて大名格として扱われるほどで、野々村正成も行政官としてだけでなく、戦時でも本陣から出動する鉄砲衆を任されるなどで活躍していた人物である。
 
信長は「この家臣はデキる」と見ればなんでもやらせる人事異動と人使いの荒さは有名だが、次々に脱落していった者も多かったが、それについていけた家臣たちもよく応えられていた。
 
組織が段々大きくなって陪臣(ばいしん・重臣のそれぞれの部署ごとの、階層的なその家臣たち)も段々増えていくと信長は重臣たちに、それぞれの家来を公正に評価しているかにとにかくうるさかった。
 
下級武士であっても、責任感の努力が目立つ者や、庶民労働者でも組織(奉行所の布令)の方針によく応えられていることが目立つ者には、ささやかでも特別金を細かく与えて奨励するよう、うるさかった。
 
何の権力基盤もない最下層庶民でも、責任感がある有能な者だと目立てば、庶民の地域政治のちょっとした代弁役の発言権を与えて奉行所との窓口をさせたり、やる気次第では士分に取り立てることまでして「最下層庶民であっても、努力次第ではもしかしたら抜擢されるかも知れない」印象を与え、経済意欲を推進した。
 
責任(義務)のたらい回しの原因になるような、ただの文言狩りやただの結果狩りが許される原因になるものを信長はとにかく嫌い、そこにうるさかった。
 
「それは第2裏書人の話だろう。発行人と第1裏書人の経緯はどうなっていたのか。全員連れてこい!」
 
「その揉め事は今まで年に何件あったのか? なぜその記録がないのか!」
 
「そもそものその債務範囲規定者の名義人はどこのどいつだ! なぜその窓口が不明の不良債権が横行しているのか!」
 
といった調子である。
 
戦国後期のこの時代に、織田信長ほど庶民にここまで細かく目を向け、従来の上下を破壊して経済意欲を推進しようとした例は他にはなかなか見られないが、江戸時代にも、常に財政危機で貧窮を続けいよいよ崩壊寸前だった米沢藩を経済再建することになった努力家の上杉鷹山(ようざん)と、類似する部分も多い。
 
つまり組織全体の意識、地域全体の意識から改革していくためには、面倒がらずに理由を細かく整理しながら表彰していき、そのやり方が良い意味で細かくしっかりしていて、小さなことでもあなどらずに丁寧に処理されるものほど、人々も段々と関心の意識も向くようになるのである。
 
上や自身がうわべが熱心なだけの世の中任せ・人任せの指示や伝達しかしなければ、下や周囲もうわべが熱心なだけの世の中任せ・人任せの応答しかしなくなって当然なのである。
 
上杉鷹山については後述するが、日本では全く注目されていないが、尊敬できる手本になる歴史人物として海外の政治家や実業家たちからの方が、よほど注目されている人物である。
 
こうして信長は、手本になる組織を示していきながら、閉鎖的な特権でのさばっていただけの使えない有徳の成り上がり者どもに、あてつけの恐喝を繰り返し、いつまでも有徳の特権にしがみつこうとする地域の寺院は断固敵視して「有徳狩り」をして回った。
 
それまでは従事層は、何かあれば有徳に頼って寺院に駆け込んでいたが、信長は「仏教(社会性)を悪用しているだけの、ただの癒着差別主義者の集まりに過ぎない、不良債権しか発行できない無能な有徳どもをいつまでも許容して言いなりになってはダメだ」という信用を与え、織田氏が新設した奉行所(法の受け付けの役所)に駆け込むように仕向けていったのである。
 
これから織田信長の戦略の状況や、当時の宗教問題の状況などにも触れていく。