近世日本の身分制社会(006/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 庶民の身分感覚史 その2 戦国の国衆(くにしゅう)と家臣 - 2019/05/18

戦国時代の同盟は力差で結ばれている場合も多く、対等でも相手が崩れかけている場合や次第に力差が歴然としてきた場合、強者側はそこにつけこんで色々理由をつけて相手を威嚇し、領地や特権を譲渡させようとしたり、攻め入る理由を作ったりして、支配力を高めるため臣従工作が行われる場合も多かった。
 
従うことを求められる側はいくら劣勢でも、軽く見られないよう簡単には言いなりにならない場合も多く、いったんは言い争ったり戦ったりして力量を見せつけておいて、家格をあなどられないようにしておいた上で和解し、臣従することも多かった。
 
総力戦時代の戦国大名たちは、近隣の小勢力を従わせていく際に、それら権勢を全く削減せずに、つまり主従の立場をわきまえさせずに吸合しただけでは集権化は全く進まず、真の支配者にはなり得なかった。
 
「主従(組織の使命感)の再確認がいつまでも甘い」という悪い意味での同胞者扱いの許容ばかりしていては足元ばかり見られ、肝心な時に日和見や不参加ばかりされてしまったり、反対の便宜ばかりされいつまでも総力戦体制の動員力が整わなかったためである。
 
だからこそ戦国大名(地方代表の支配者)は、近隣の小勢力の吸合(地方統一)を進め、その地方の覇者(強力な地方代表)としての上級裁判権(行政権)を確立すること自体が義務として求められており、その集権化に完全に臣従させられていない(組織の使命感の薄い)小勢力や有力家臣には、無理難題をふっかけることもいくらか許容されていた。
 
政治の閉鎖性を強める主張ばかりする有力家臣をいつまでも許していては、いざ大事業や大合戦を行おうとする肝心な時にまとまりのなさが露呈して乱れ、家臣団の結束に大いに支障となったため「総力戦体制に協力的でない、時代についてきていない身の程知らず」とされる見方もできたのである。
 
戦国後期は総力戦の時代に向かいつつあった一方で、それが自覚できていない、立場や存在感の強調に見合うだけの義務不足を起こしているような身の程知らずな有力家臣は、時が来れば計画的にその一派が襲撃され、丸ごと大粛清されてしまう場合すらあった。
 
「総力戦体制の義務についてきていない」と扱うことさえできれば、その家系にいくらでも難癖をつけて追い詰め、特権を返上させたり、従わなければ手討ち(謀殺や、切腹の強要)にしたり根絶(皆殺し)したりしても、そのやり方が乱暴であっても許容されることも多かった。
 
地方の代表である戦国大名は「家臣や領民に対して、相応な分配を整備してそれを保証するための」地方の覇者として総力戦体制を強化していく義務が強く求められるようになっていったことから、もはやその身分統制義務が戦国大名にとっての最重要公務だったといっても過言ではない。
 
その意味で、残酷な仕打ちや大量虐殺がどれだけ行われようが、それに見合った公正な政治理念に沿って相応しく実行されるものであれば、単に残酷だったというだけでは、即座に人望と人徳が失墜する訳ではなかった。
 
また、誓願と違う結果になってしまったり、失敗で負担をかけることになってしまっても、だからこそ身の程をわきまえることを大事にし、その失敗も丁寧に慎重に公正に扱う態度を示して、誓願のし直しをするなどで、責任ある態度で見通し(計画)を示していければ、ただちに失望されることはなかった。
 
そこを根拠に評価するべきを評価、否定するべきを否定できないのは「不当に得する者を生むことで不当に損する者を生む」のを許す「無能な裁判権」を望んでいるだけの「差別閉鎖化させるだけの無能な勧善懲悪主義で負担を押し付け合う無能集団」の風潮を作ろうとしているのと同じだと見なされる風潮が強くなった。
 
最初から何かのせい誰かのせいにしているのみの誓願、目先の正しさのつじつま合わせをしたいだけの誓願は、人々の義務をどんどん無計画化、無気力化、無能化させ、政治理念を衰退させていく一方であったことを、誓願が法のあり方を曲げていく主張を許してはいけないことを事前に喚起させたのである。
 
それは支配者(戦国大名)でも、惣村の生活や利権を代弁する惣代たちにしても「そこに無関心でとても務まらない無責任な無能」と見なされれば、その代表の早々の退任を求められた。
 
そこを散々非難されているにも拘(関)わらず、その立場に見合った義務の努力工夫もまともにされずに放棄し続け、いつまでも目先の権益だけにしがみついて癒着を続ける無能な代表こそ、人々を信用崩壊させる無能、追放されるべき、粛清されるべき迷惑な無能と見なされたのである。
 
特に総力戦体制の機運が高まるようになった戦国後期では、戦国大名としての当主は、政治理念(法)への関心と努力がどれだけ向けられているのか、それをどれだけ誓願で示すことができるのかで、その実力差がより具体化していくのである。
 
誓願が地方ごとの法の整備を助ける機能を果たし、そうして戦国後期の総力戦時代に向かうにつれ、下の者が上の者に反抗することも簡単ではなくなり、だんだん慎重になっていった。
 
親類の重臣たちならともかく、その次席の家臣たちが反逆して主家を乗っ取ろうとしたり領地を横領しようとするような非協力的な派閥活動も、簡単ではなくなっていった。
 
戦国大名以上の名目をもって反抗しなければ長続きせず、それ自体が簡単なことではなかったため、反抗も結局は他の戦国大名に頼るなど、もはや支配者を基点とした名目でないと簡単ではなくなっていた。
 
しかし戦国大名は、完全に従わせれていない近隣の小勢力に対し、難癖をつけて権勢を削ごうとしても、互いの誓願(名目)の言い分が評価された時に「あまりにも筋が通っていない」と思われてしまうような主張と見なされることが危惧されれば、どんなに権威ある戦国大名であっても思い通りにできないことも多かった。
 
支配者にとって目ざわりな有力家臣を失脚させたり権威を削減させた場合、その時は成功したとしても、そうするべきではなかったという相手の誓願(名目)の効力が高ければ、人々(領民たち、家臣たち)から支持が得られず、かえって支配権が崩れる場合もあったためである。
 
領民にしても、新体制になった途端に地域差別が目立ったり、負担が一方的に増えるばかり、誇りに思えるものもなく良い点が全く見られない統治であれば、先述したように領民や旧臣たちが前領主やその関係者を招き入れたりしてその支配を否定することもあったためである。
 
この戦国大名(支配者)の立場と、それに従事する家臣や領民の立場との関係性は、ヨーロッパの帝国議会における「支配者(代表)は意見回収して法を整備する義務を求められ、その対価として諸侯(伯爵領主たちや都市の代表たち)もそれに協力する」という関係性と構図は同じである。
 
もし支配者側(戦国大名・帝国皇帝)がろくな代替権も提示せずに行政権をただ乱用すれば、従事層もそれに反抗するための連盟的になる風潮があった一方で、従事層側も閉鎖的な都合ばかり主張して支配者に(法の整備に)全く協力的でないと見なされれば、討伐されても仕方ないとされたその関係性は同じである。
 
日本もヨーロッパも、法が整備され始めた16世紀(近世)には、その点でお互いの立場の主張も慎重になり、日本でもそれぞれの主張の代表者がどのような「閉鎖的でない誓願」ができるかにかかっていたのである。
 
そこは領民も同じで、その惣代たちも閉鎖的な主張はしないよう慎重になっていき、単に賦課(労役と納税の義務)が重くなったというだけでは反抗しなかったが、ただし収賄の横行が原因の「不当な地域裁判権(つまり地域差別)」が目立ったり、重税に見合う地域貢献が全く行われず衰退する一方であれば、当然のこととして苦情を訴えた。
 
当時は各地の惣村同士で競合していた大事な水利権や取引権や、また他よりも負担させられている見返りの代替権などが、例えば収賄が横行して差別されるようになり一方的で不当なものになってしまうとそれが惣村にとって即座に貧窮と荒廃に直結する死活問題だった。
 
そのため、そうした不当を公正に改めるよう庶民から訴えられているのに、戦国大名がろくに対応しなければ、法を整備する義務を放棄していると見なされ、どれだけ強力な支配力を有している戦国大名だったとしても世間から散々の非難を受けかねず、その地位を維持することも困難だった。
 
だからこそ、戦国中期までによくあった「当主がそれを保証しないから家臣がそれを代弁する」必要がでてくるような、そのような戦国前期の逆戻りに向かわないよう、戦国大名は責任をもって法の整備に取り組む義務の自覚が強く求められ、また家臣も身の程をわきまえる自覚を求められるようになったのである。
 
ここで、戦国大名の出自と、その家臣たちの出自について、どのようなものであったかについて触れる。
 
戦国時代はよく「身分を超えた器量次第の世界で、時に下が上を倒し、支配者にのし上がっていった時代」というような形容がされることが多いが、それは尼子経久や伊勢盛時(北条早雲)、織田信秀や斎藤道三、豊臣秀吉などの著名人たちの印象ばかり強く、その実態が中途半端にしか伝えられていない場合が多い。
 
豊臣秀吉については「貧しい平民から有力家臣に抜擢され、やがて一大勢力の当主に、そしていったんの天下統一を果たした人物」として別格の栄転を遂げたことは確かである。
 
その話がどうであれ、この「家臣」という言葉にしても、とにかく印象ばかり大きくとらえられ、実態が過少に見られがちであるため、当著ではそこに触れていきたい。
 
戦国後期の豊臣秀吉らの話についても順番に触れるが、まずは戦国前期の「家臣」の傾向から順番に触れていく。
 
地方各地で戦国大名として台頭した者たちの出自は、もともとの地方代表の名族の一族だったり、またはその地方での代表的な重臣の家系だった場合が大抵である。
 
戦国時代では、地位や身分が中途半端な者でも、器量が認められると次第に重臣の地位や当主に成り変わったりする場合もあった。
 
その場合は、組織の有力な家系との縁組によって、有力者らの近縁者扱いされる上で、等族支配者側(身分に相応の判決をし、身分に応じて義務を課す責任当主)の立場に就いた上で台頭する場合がほとんどである。
 
まず支配者の観点から見ると、信濃(長野県)の小笠原一族などが顕著だが、地方支配の実力者の当主というのは、当主が自身の子を指名し、その支持がそれなりに得られた後継者は次期当主として君臨できたが、そうして当主になった時点で、当主から見た兄弟や叔父や従弟ら親類は、それらは全て家来筋の「家臣」扱いである。
 
何代も前の当主の兄弟から派生していった家臣たちは、戦国時代では当主に協力したり逆らったりしてそれぞれの領地に居座り続け、一族闘争(派閥闘争)で地位の奪い合いが繰り返され、生き残って長らく領地を維持し続け、その地方にすっかり土着するようになっていた重臣(親類)や有力家臣たちは、国衆(くにしゅう)や国人領主(こくじん)と呼ばれるようになった。
 
当主の兄弟たちや、生き残りの親類たちぞれぞれは、当主に非協力的な家系もあれば協力的な家系もあり、友好的な有力家臣は重臣扱いされることが多かった。
 
戦国前期の地方の名族(当主の一族)の近親者たちは「自分こそ当主に相応しい」という自負を強めた敵対心の強い兄弟や親戚も多く、何かと本家に非協力で独立性を強める一族も多かった。
 
協力的であろうが非協力的であろうが、当主から見ればその支配地方の周囲の一族は全て「家臣」という扱いで、特に直接の兄弟関係などない叔父たちや兄弟の次代たちなどは「自分に従うべき家来筋」という見方が強くされた。
 
戦国の当主は「最終的には器量次第」という考えによって、自身の死後に指名が守られずに後継者争いが起き、惣国一揆の根拠で当主が変わることがあっても世間的には許容されていた。
 
当時は医学がまだまだ未発達で、当主たちには全く子ができなかったり、いても病死や戦死や事故死が重なって、子の皆が当主より先に亡くなってしまう場合も少なくなかった。
 
そのため継者争いも前提で、子は複数作っておかなければ家系を存続させることも難しく、さらに子がいたとしても養子も用意しておくことすらあり、特に全て養子だった場合は激しい後継者争いに発展する場合も多かったが、そこが最初から許容されている前提のものの多かった。
 
ただし複数がなんとか成人(14~16歳)できた場合、後継者問題を回避するために事前に指名しておき、他は有力家臣の養子に送り込んでその家系を継承させたり、また僧籍に入れておくことで有力な寺院(地域)との結び付きを強めて支配力を強化していくことも多かった。
 
継承者が若くして病死や戦死をしてしまったり諸事情で引退を求められたりしてどうにもならなくなると、僧籍にいた一族が還俗(げんぞく・世俗帰化)して新たな当主として迎えられ、就任することも多かった。(上杉謙信や、大名ではないが能登畠山氏の重臣の家系の長連龍(ちょうつらたつ・長氏=長谷部氏)など)
 
当主の家系は、兄弟が多ければそれだけ騒動が起きる可能性も高かったが、むしろ兄弟間で権力闘争をすることがもはや義務といってもいいほど、それをしなければならないことが重要な場合も多かった。
 
当主の家系は、むしろ親類とやるべき権力闘争を十分にしてこなかった家系こそ、かえって衰弱してしまい、死滅してしまう場合の方が圧倒的に多いためである。
 
室町政府の破綻後の戦国前期は、何を以(も)って、あるべき名目(政治理念)なのかをすぐに見出すことができず、ただ名族だというだけでは、やるべきことができていない権威は否定されつつあった一方で、名族の家系出身やその縁組関係を得ることが地方政治の代弁者の根拠として、血族の命脈で階級を示す重視はされ続けた。
 
戦国時代の権力闘争は、親子兄弟で争い殺し合うことが問題どころか逆に、むしろそれをするほど、あるべき政治に真面目に向き合っている見方すらされたといっていい。
 
逆に有力者らが、共和にしても闘争にしてもズルズルダラダラとしかやれおらず、いつまでも軟弱な保身体質のままで居座れられる方が、その従事層たちにとってもよほど迷惑で大問題だったのである。
 
戦国時代は、あるべき名目を巡ってラチがあかない時こそ、むしろ真剣になってその決着を巡って争うことこそ強く求められ、そして「なぜ争うのか」という明確な名目のもとで、計画的な解決を巡ってひとつひとつの闘争にしっかりとした終結目標をもつ自覚が強く求められた。
 
何事もズルズルダラダラやるのは嫌われた一方で、どうしても時間がかかることへの見極めも重視され、その解決に向けた辛抱強く根強い理念の構築を目指す態度も求められるようになったのが、この時代の難しい所でもある。
 
それまで地方ごとに権力闘争が繰り返されたからこそ、戦国後期にその過去が集約され、それが法の整備のきっかけになり、見苦しく浅ましい闘争だったからこそ「いい加減で不当な主張は裁かれるべき」が整備されるようになり、次第にあるべき和解をし合えるようになっていったのである。
 
戦国後期では、元々の地方代表の名族の直系が、そのまま戦国大名として成長した場合もあるが、本家の家来筋(親類)や有力支族たちが台頭した場合の方が多かった。
 
当主にしても家臣にしても、それぞれ生き残った家系がそれぞれの地位に対し、あるべき等族義務が自覚されていった結果が、戦国大名の組織だったのである。
 
そのための闘争をしっかりしてきておらず、法を整備する義務を怠った目先ばかりのズルズルダラダラしたいい加減な闘争ばかりしてきた地方は、他国と年々の実力の差となって現れていった。
 
それができていない軟弱な大名(地方支配組織)は、それができている強力な戦国大名の組織に圧迫されるようになり、次々に潰され吸収されていった。
 
戦国後期に各地で法が整備されていき、不当な権力闘争はいくらか落ち着きが見えてくると、当主のあり方と、家臣たちのその支え方の考えも、次第に健全化するようになっていった。
 
戦国時代では、まだ2、3歳の後継者を残したまま当主が若くして戦死や病死をしてしまうと致命的だったが、戦国後期にはそういう事態に陥っても、ただ地位の取り合いばかりに夢中になる者は減り、協力し合う傾向が強くなっていった。
 
いったんは親類が後見人をとなり、次第に当主の座にとって変わろうとする者もいたが、しかしそれが原因で争乱になったとしても、その地域の力をもった台頭者がいるだけ、まだ主体性があるといっていい場合もあった。
 
権力争いによって、よその権力に睨みを利かせるほど頼りになる代表的な有力家臣が育っていなかったり、またそれによる団結が育っていないことがむしろ問題だったためである。
 
いつまでも地元の主体性の欠落が続くようだと、よその権力の執拗な政治介入に抵抗できなくなり、それこそ幼年の次期当主を人質をとられて完全にその言いなりにさせられてしまい、よその権威の圧迫を受け続けることで家臣たちに頼りになる者がいないことで団結が不足していると、家臣たちの地位も危うくなり深刻化することも多かった。
 
徳川家康は、祖父も父も共に若くして亡くなってしまったことで、三河の代表と目されていた松平氏(徳川氏)のその権威もいったん崩れ、幼年だった家康が駿河の戦国大名今川氏に人質としてとられてしまい、その間の松平一族(徳川家)は消滅してもおかしくないほどの、散々の苦労をしている。
 
そのような例は多く、例えば出羽(山形)の最上義守(管領家の斯波一族)や、近江の朽木谷(京都からすぐ北側)の朽木元綱(室町幕府の側近の家柄・佐々木源氏一族)などは、まだ2、3歳児だった時に当主の父親を亡くしてしまい、支配合戦も激化していた中でのその地域代表としての権威は著しく衰退した。
 
しかし戦国後期では親類や家臣もそれなりに法を自覚するようになり、主家にとって変わったその後に維持しうるほどの名目(誓願)があるのかどうかを考えるようになったからこそ、幼年当主を周囲が必死に後見して支える選択もするようになり、それらはどうにか生き残った例であるが、戦国時代にはこうした例はかなりある。
 
戦国前期に浅ましい争奪戦が多く起こった結果、より頼りになる当主や優秀で品格のある有力家臣が望まれるようになり、次第に「地位を盗り合う」から「頼りになる者が皆を代弁する」本来の政治思想に変化していき、当主も重臣(家臣)も、よりしっかりしていて頼りになる者がとにかく求められる意識に、誓願によって向かった。
 
その意味で、当主の子孫たちが権力のイス取り合戦で潰し合い、勝ち残った者達(生き残った国衆たち)が当主や重臣の地位に居座るに至ったまでには、不健全な面も確かに多かったが、しかしそれによって外敵に睨みを効かせるような当主や家臣を育て、実力のあり方を再確認させた面では、かなり健全だったのである。
 
戦国時代の中期から後期にかけての地方ごとの内部闘争がきっかけで「あるべき当主、あるべき重臣(官吏)」の姿が整理され、素早く総力戦体制を整えられた戦国大名が、その整備が遅れている隣国を従わせていくという、その併呑競争こそが戦国後期だったのである。
 
戦国後期では、親族だろうが(親だろうが子だろうが)1人の人間としての品格(能力)は問い合うべきで、不当なひいきをせずにそこを尊重し合い、譲り合うべきは譲り合う義務、身の程知らずの度が過ぎる者は親だろうが兄弟だろうが摘発する義務が重視されるようになった。
 
問題の多い親類を裁くことも(抑止すること・殺害することも)できないような無能、法で人を観測しようとしていない、時代をしっかり認識できていない、そういう所に慎みがない浅ましい身の程知らずの無能こそ、人間失格だったのである。
 
だからこそ家臣もより頼りになる者が求められ、優秀な家臣こそ組織の中で重臣として扱われるべきと望まれ、当主にせよ重臣にせよ、それにふさわしい高い能力と高い品格(等族義務)を身に付けることが求められるようになっていった。
 
こうした指向が、等族(とうぞく)義務のことだが、これは人類が法についてようやくまともに向き合うようになり、「いわれるから」に頼ってばかりではなく「それぞれ個人での自主的な確認と努力」が奨励され、法を整備し始めるようになった16世紀のヨーロッパの帝国議会の政治でも全く同じである。
 
その戦国後期の総力戦体制に向かわせるための手助けをすることになったのが、下層からのつきあげであった惣国一揆だったが、等族義務が自覚されるようになった戦国後期には次第にそれも用済みになっていき、それに深く関わっていた有徳たちの存在も次第に改められていった。(後述)
 
「家臣」は、大まかには3種に分けられる。
 
1つ目をAとし、これは名族の当主の一族(その血族)の関係の近い側近たちで、本家の代々の兄弟の家系から派生して力をつけていく新興の近親者たちまでこれに扱う。
 
2つ目をBとし、これは地方に古くから土着する、元々力をもっていたAが次第に古い縁戚となっていった同族の有力者や、また古くから土着している他の名族の有力者たちなどで、後者は他の地方の名族の家系との古くからの協力関係(親類関係)が結ばれていた家系も多く、各地方ごとに古くから特権や領地を有していた生き残りたちも多かった。
 
戦国前期に、各地でそれぞれ領地権にしがみついて独立性を強め、派閥闘争と領地の奪い合いをしばらくするようになった連中がこのAとBたちで、彼らは国衆(くにしゅう)や国人領主(こくじん)と呼ばれるようになった、各地方の当主から見た所の有力家臣たちである。
 
Bは例えば、管領代理の家柄であった名族上杉氏と古くからの協力関係をもっていた長尾氏、各地の守護(支配代表)を務めていた名族武田氏と古くから協力関係をもっていた粟屋氏、足利一族で各地の代表を務めていた1つ斯波(しば)氏と古くから支族関係をもっていた朝倉氏や織田氏などのことで、かつて力をもっていた名族は大抵は、そうした有力支族を抱えて密接な関係をもっていた。
 
3つ目をCとし、それぞれの有力家臣に従事していた武士たちで、地方代表の当主の旗本(本家直属の武士団・親衛隊)は除外した、当主から見て直臣ではない「陪臣(ばいしん・家臣の家臣)」と呼ばれる者たちである。
 
当主から見れば、このCの陪臣たちは大した権威を確保できている訳でもない下々の集まりだったが、彼らも先祖は当主と同じ血族の者も多く、その中では末端の家系の地位の低い者たちが多かったが、地位は低くても陪臣の間ではそれぞれの由来による序列は当然あった。
 
この「末端」とは、例えば当主の弟の子の家系で枝分かれし、その家系の兄弟でまた枝分かれといったように、直系とは段々と遠祖になっていく者たちで、だからこそ何らかの価値を示せないと特権や婚姻関係の優先順位も当然下がっていき、地位も下がっていくのも必然だった。
 
だからこそ、戦国時代の中期までには、そうして枝分かれしていった中でわずかに小さな領地や特権を維持できている内に、自身の家格を維持しようと器量次第で奪い合い、それがありふれたような枝分かれの家系出身であっても有望に見られればそれだけ関わりも求められ、人々もそのもとに集まった。
 
それら家臣(陪臣)は当主から見れば地位が低くても、彼らこそが領地の地元民との窓口になっているような実務者で、民間の有力者の家系と古くから結び付いている者も多かった。
 
そうした名族の末端の者たちこそが、むしろ地元民との団結関係が構成されがちで、そうした同胞意識の集団単位の代表の立場で、当主や有力家臣(AやB)に手柄や能力を認めてもらい、格上げをしてもらおうと頑張る者が多かった。
 
Aを重臣(最有力家臣)たち、Bを有力支族家臣たち、Cを支族陪臣(下級士分・従事層武士団)たちと大別でき、これらは当主と友好的であろうが敵対的であろうが、その地方での立場上の分類は全て家来筋という扱いで「従う家臣と従わない家臣」という見方だった。
 
この3つの、Cまでに該当する者は「士分」として扱われ、その下の、最も地位の低い兵士は「雑兵(ぞうひょう)」と呼ばれる者たちで、これは「士分」としては扱われていない、戦闘の規模に合わせて平民からその時だけ徴用されて戦闘を手伝う非正規の平民たちである。
 
次第に人的資本(器量)が強く求められるようになると、この陪臣からも、有力者の直臣に抜擢されたり、当主直属の家臣として中級層に抜擢される機会も増えるようになった。
 
先に挙げた著名人の内、Bから地方の代表に台頭したのが織田信秀、尼子経久、伊勢盛時ら、Cから始まってやがて当主に台頭したのが斎藤道三や豊臣秀吉であるが、Cからの台頭に関しては、最初からCの家系だった訳でもなく、庶民からいったんCの仲間入りを果たした上で、次第にBへ、Aへと階段をあがっていった者もいる。
 
Aから見て見所のあるBをAの仲間入りさせる場合があったように、Bから見てのCも、Cから見ての見所のある庶民をCの仲間入りさせることもあったのである。
 
その「仲間入り」はその層との婚姻関係が斡旋されることによって、親族扱いを受けていったんの家格を身に付けさせることで、その階層の仲間入りを果たすことが基本だった。
 
その話は、上の話になればなるほど当然のこととして、実力(能力や品格)もそれだけ求められる世界だったが、特にBから目をかけられるCが戦国時代では顕著だった。
 
豊臣秀吉が織田氏の陪臣として取り立てられた当初に「木下藤吉郎」と木下氏を名乗っていたのは、織田氏の有力家臣であった浅野氏の親類の仲間入りを果たしたことによるものと思われる。
 
浅野氏は木下氏・杉原氏・安井氏といった親類協力連合たちがおり、まずその層から見込まれて縁談の斡旋を受け、まもなく織田信長に見込まれて直臣に抜擢されるに至ったのである。(ただし信長においてはその順番は逆かも知れず、信長が先に見込んでそういう形が手配されていったのかも知れない)
 
秀吉はその後、近江今浜(滋賀県の長浜)の城主として郡代並み(地方小長官)の地位まで得るようになった頃には、この浅野・木下・杉原・安井の親類連合のもはや代表者同然の地位として立場が逆になっていて、秀吉は織田家中でいかに高く評価されていた有能な実力者だったのかが窺える。
 
織田信長の死後、信長に代わって豊臣秀吉が政権内の家臣たちを従わせるようになると、その器量の実力を朝廷からも認められ、関白の位を受けることで事実上の全国の武家の棟梁(統領)として君臨することになったが、その時も、秀吉は上級貴族の仲間入りを斡旋された上で至っている。
 
秀吉は上流貴族(公家)への養子入りの斡旋を受け、婚姻関係こそなかったものの、それによって上流貴族と同列と扱われる形式がまず採られている。
 
平民であっても、地元地域では何らかの腕前や先見力や洞察力などの能力を皆から認められているような者だったり、財力をもっていて何らかの代表を代々努めている家系のような、平民の中でも一目置かれているような家系の者は、そもそもC層の士分たちとの窓口として最初から関係が深かった者も多い。
 
C層から見ればよく知っているような庶民の者が、見所を見込まれたり手柄が目立ったりすれば、次第にC層の仲間入りを果たすことも、そう珍しいことでもなかったのである。
 
もちろん庶民の誰もが簡単にCの仲間入りができるという訳ではなかったと思うが、それでも人材が求められるようになった戦国時代では、上から順番に認知してもらえる機会も増え、多少の階段は飛び越えて特別に取り立てられるのも、ありえる話ではあった。
 
庶民でもCの仲間入りをする際には、名族の末端者らとの婚姻関係が結ばれることが多いのだから、元庶民であろうが末端であろうが、Cの仲間入りを果たしている時点で既に何らかの血族の仲間扱いなのである。
 
そもそも権力闘争が激しかった戦国前期では、地位の低い血族の末端の多くは、闘争に敗れて行き場を失い、没落して帰農した者が数え切れないほどいた。
 
それら帰農した没落武士は庶民にとっては、少しでも由来があるような家系から順番に重宝され、それを根拠に庶民の間でも姻戚関係は広がり、そうしてどこにでもいるような帰農した元武士の家系と関係している庶民が再びC層に入ることもあったことから、どの平民も大抵は何らかの血族を名乗る根拠はあり、あとは地位の高さだけの問題だったのである。
 
その意味で、戦国時代も江戸時代も結局は、武士か庶民かの区分けは、当主や有力家臣たちから士分として公認されているか(直属しているか)いないかに過ぎなかったのである。
 
戦国後期では、急激に巨大化していった織田信長のような組織ほど、どこの何者なのかよく解らないような者の地位が高まる現象を世間が目撃する機会も増えると、例えば藤原一族と名乗る場合は利仁(としひと)流か秀郷(ひでさと)流とでも名乗っておけば何でも良く、似た者同士が多かった当時は人々も細かい所までは詮索しなかった。
 
地位もそれなりになってくると、家格的な根拠が体裁上だけは重視されるに過ぎないから、それらしい名族の家系のかつての著名人の末裔を名乗っておき、さも武門の家系であるかのようにそれらしく振舞っておけば良かったのである。
 
戦国期に実際に著名だった藤原一族の有力な末裔たちは、下野(しもつけ・今の栃木県)近辺で割拠していた宇都宮氏、結城氏、小山氏、桐生氏、壬生氏、佐野氏らで、その周辺にいた武士団たちも実際の明確なその家系の末裔たちだったと思われる。
 
しかしその他の、あちこちに点在していた地位の低い陪臣たちが源氏や藤原氏を称していた事情は、彼らとはだいぶ異なってくる。
 
陪臣たちの中ではそれなりに地位が高かった家系は、実際にどうにか生き残ったような家系も多かっただろうが、元々は違った家系が、より有力な家系と関わりをもつようになれば、少しでも優位に見えるように名乗った者も多かった。
 
所詮は末端の血族たちの話だからこそ、みんな似た者同士だったために、現時点での血縁交流を詐称することは控えられていたが、先祖の話なら多少は話を盛った所で誰にでもありえる話であったために、その真偽に目くじらを立てる者などいなかった。
 
武田源氏と小笠原源氏は、元々は有力な源氏一族の兄弟がお互いに支配者の権威を築いていった家系で、その子孫たちはその権威を維持するために互いに、時に婚姻、時に敵対が繰り返されてきた経緯から、武田の家系が、都合に合わせて小笠原流を名乗り出すことも、その逆を名乗ることも、何の問題もなかったのである。
 
こうした係流の話においては、上級武士たちでも似たようなものである。
 
例えば三管家(室町時代の、3つの管区長官(管領・クライス))の1つ畠山氏は、元々は有力な平氏一族の1つであったが、直系がいったん途絶えてしまったのちも、他の名族たちの婚姻関係で畠山家の権威は維持されていき、次第に源氏や藤原氏など別の名族の縁の方が強くなっていったという由来をもつ家系である。
 
その後も畠山氏の名族扱いは変わらなかったように、元々は平氏一族が中心の名族集団だったのが、別の名族集団の性質が強まっていっただけに過ぎず、その家系を継承するに相応しい上級武士かどうかこそ重視される傾向も強かったのである。
 
陸奥南部(現在の福島県)の相馬氏は、平将門の家系から興った武家であったが、千葉一族(平氏)との関係が深まると、強力な権威を築いた当主の千葉常胤(ちばつねたね)が名乗っていた「胤」の名を相馬氏も伝統的に用いるようになり、相馬氏は平将門の末裔であり、千葉一族の末裔でもあるという「いい所どり」のような強調をするようになった。
 
あまり注目されていないが千葉一族は、かつての鎌倉時代では各地に多くの遠隔地と多くの有力な親類、多くの有力な寺院との結び付きをもち、鎌倉政権内の代表的な家臣たちの中では1位、2位を競うほどといっても過言ではないほどの強力な権威を誇っていた一族である。
 
戦国時代でも相馬氏の当主らは相馬盛胤、相馬義胤、相馬利胤、といったように、かつて強大な権威を誇っていた千葉一族の末裔を強調していたことが名前から窺える。
 
名族の1つ土岐源氏(岐阜県土岐市を拠点とした支配者)から派生した有力な家系の原一族(土岐原)も、この千葉平氏との関係が深まるようになったため、この家系も胤の字を用いる者も多かった。(武田信玄の重臣で猛将として知られる原虎胤(はらとらたね)など)
 
土岐源氏に関するついでの話として、本家は「頼」の字を伝統的に用いたため、戦国時代にはその家来筋の一族たちも、少しでもその名族の末裔であることを強調をするために「頼」を積極的に使う者が多かった。(この風習は通字(つうじ)や通し字などと呼ばれている)
 
織田信長の重臣の蜂屋頼隆(はちやよりたか)、信長の旗本(親衛隊・事務官)として手足のごとく働いていた下石頼重(おろしよりしげ)、重臣たちの次席の美濃衆の久々利頼興(くくりよりおき)、原長頼(はらながより・土岐原)など、それぞれ土岐一族の末裔を強調していたことが窺える。
 
「頼」は用いていないが信長の重臣だった明智光秀や金森長近らも土岐一族で、金森氏に関しては先述した江戸時代の郡上一揆の引き金になった金森頼錦(よりかね)のように、その家系は江戸時代には「頼」を意識している。
 
「頼」は土岐氏に限らず上流意識が強かった家系がよく用い、他でも信濃(長野県)の諏訪大社を氏神とする武家集団の諏訪一族(色々な名族の合併一族)もよく用いている。(いったん途絶える諏訪頼重。その後に諏訪家を再興する親類の諏訪頼忠、諏訪頼水(よりみず)の親子)
 
話は戻り、戦国前期の惣国一揆によって陪臣たち(下級武士たち)と民間との結び付きが強固になっていったことで、その後の戦国大名たちは、今度はその厄介な関係をいかに切り離しながら法を整備していくかに実際は苦労している。
 
戦国前期では有力家臣から民間に至る、支配者の多くの従事層たちは、当主の次期候補は誰を支持して、自身の地位や地域の利権をいかに確保するかという考えに凝り固まりがちだった。
 
そうして浅ましい闘争がしばらく繰り返され、いったん地域の閉鎖化が進んでしまった一方で、それぞれの代表のあり方が見直され、法を整備するきっかけとなった。
 
戦国時代でも江戸時代でも、支配者の政策と民間との受付窓口になっているような惣村の重役というのは、何らかのきっかけでいつ士分の仲間入りする者が輩出されても何ら不思議ではなく、その重役らも没落武士の家系と関係が深まっていくために、なおさらである。
 
下級士分と平民の関係は、戦国前期の惣国一揆による下層からのつきあげ(民権的な意見回収要求の運動)の機運によって、惣村の有力者と下級士分との元々の結び付きがより強化されることになったが、そうした傾向は、鎌倉末期の悪党たちの例のように元々強かった。
 
そして没落武士がどこにでもありふれるようになった戦国後期にもなると、平民の誰しもが没落武士の家系との親戚関係がすっかり形成されるようになっていたため、戦国後期の平民から見た、平民たちと下級武士たちとの違いも、支配者や有力家臣に正式に認められている役人(特権公務員)として就職できたか、そうでないかくらいの違いしかない感覚だった。
 
派閥闘争に敗れても上級武士であれば、他国に亡命すれば歓迎されて世話を受けられることも多かったが、それはよその支配者が他国の重要人物を保護しているという名目が外交的な強みになり、何か機会があればその地方に介入できるきっかけにもなったためである。
 
そのため、上級者の亡命には中級武士までは付随できたが、さすがに下級武士たちの全てまでの世話はしきれなかったため、彼らは新たな主君を探してして再仕官をする場合もあったものの、無名な下級武士はそれもそもそも簡単ではなく、旧主の再起を期待していったん帰農せざるを得ない者が大半だった。
 
しかし没落武士の中でも「かつては何らかの手柄を立てていくらか注目されたこともあった」ような、何か誇れるような経歴を少しでももっていて、人々にそれが認められているような家系であれば、平民でも苗字を名乗っていても人々から納得されていた。
 
そのように平民でも、その地との強い由来をもっている家系(親類が犠牲になって惣村の危機を代弁したなど)や、何らかの由来をもつ家系は惣村の中で一目置かれ、地域利権の代弁役を優先的に任せられるなどで平民の中での地位も必然的に高くなることが多かった。
 
武士の縁組の世界と同じように、平民の中の縁組の世界も、地元の有力者同士の縁組の価値が重宝され、見所のある者同士の縁組が結ばれながら、惣村の結束を強めたのである。
 
戦国後期でも江戸時代でも、近世ではまだ、行政権(上級裁判権)と、各領地の徴税権(低級裁判権)の関係は、直接関係ではなく間接関係の時代だったのは、同時期のヨーロッパでも同じで、そこが見直されるのも、お互いに近世の終わりの19世紀中期から後期にかけてである。
 
そのため江戸時代になっても、時の最高指導者(将軍と閣僚)がいくら階級統制の見方を改めても、民間の中の階級まで統制することは容易ではなく、それこそ新政府を設立できるほどの政治名目で布令でもしない限り、結局は平民は平民としてしか扱うことができなかったのである。
 
江戸時代の上級武士・下級武士・平民それぞれの、その遺伝人種的な区分けは、江戸閣僚や藩主や、家老や重臣たちといった上層たちの家格の縁組のために重要視された他は、それより下については、先述の中間(ちゅうげん)の話のように、建前の作法しか重視されていなかった。
 
その士農工商の実態は「上級武士の言いなりになるべき大勢の下級武士たちと、上級武士の言いなりになるべき大勢の平民たち」という区切りこそが最重要だったのであり、上級武士たちから見れば下級武士も平民も大差なく、後は秩序の建前のためだけに武士と平民で区切っていたに過ぎなかったのである。
 
上級武士から見る、そうした下々の見方自体、戦国時代も江戸時代も大差ない。
 
江戸幕府の平民に対する保証や制度は、支配の主従権威(将軍と藩主の関係)が強化されたことで、戦乱が激減したことの治安が保証されたことは多大だったが、その他は民間には大した整備などできておらず、江戸時代の前半では農業景気の恩恵で庶民の保証が支えられていたから、中期まではなんとか支配できていたに過ぎない。
 
江戸中期には農業景気も終焉に向かい、平民が幕府に保証(代替義務に見合わない労役や納税への訴え)を強く求めるようになった苦境が、同時に減俸や召し放ちばかり受けていた下級武士たちの上層に対する不満と比例するようになっていた。
 
後述するが、田畑永代売買禁止令とその取り消しの一連の混乱は、それまでの江戸幕府の法の限界を示していたのと同時に、その後どうするかの分岐点だったといえる。
 
幕府が平民に何の保証もできなくなっていた江戸後期は、だからこそ民間の「土地買いの大地主の台頭」を許容するようになったのである。(この傾向はイギリスのエンクロージャ(富裕民間の土地買いによるヨーマン権力=富裕民間権力の団結による台頭)と似ている部分がもちろんある)
 
そしてそこにさらに「エタと非人」などという小ざかしい差別を強調するようになり、むしろ民間格差を築き上げて、少数の有力庶民を許容する代わりに大勢の民間の主張権を弱めようという、民間に対する差別政策に頼りきることで幕府への不始末の怒りをかわすようになった。(後述)
 
幕府が差別政策を強めるようになったのは、戦国以来150年続いた「平民が見る平民たちの中の地位や家系」の見方の風潮については大して変えることができなかった結果だったともいえる。
 
後期の幕府は失政が続くたびに、過去の古い規律を差別政策に悪転用するのみで、経済は悪化の一途を続け、皆が貧しくなり暗くなっていく一方だった。
 
差別政策に頼ってばかりいたことが、次第に上級武士と下級武士との格差まで顕著になってしまい、上級武士たちの地位(幕府権力)も危うくなりつつあった。
 
だからこそ惣国一揆の再来のような、元々団結しやすかった下級武士と平民との団結が余計に危惧され、そうさせないための差別強化も酷くなっていき、下級武士たちの上級武士に対する格差の不満をそらす政策ばかりが施されていったのである。
 
「正しさ」という無能極まりない発想で、関心の向け方を一方的に強要しているだけで、それに従おうとしない・合わせようとしない者を笑い者として扱い、それを地位的制裁の根拠にしようとするその発想自体が非人差別支配である。
 
それが教育や地位の根拠であることに何の疑問ももたず、その統制に頼りきっているだけの分際で、偉そうに社会を知ったかぶり指図したがるだけの、差別支配主義の言いなりになることが有能だと勘違いしている口ほどにもない無能が世の幅を効かせているのは、今も当時も同じである。
 
江戸後期は「下級武士と平民を結託させないよう、上級武士の地位が崩れないよう」に「武士道」を悪用した「正しさ」を刷り込み、下級武士の存在はもはや上級武士が上級武士でいられるための防波堤のための存在と化していったのである。